馬車でもかなりの日数がかかる旅路には、アリスが言った通り野営がつきものだ。
中継地となる街は現在地に到着するまでに二つあり、そこでは宿を借りられた。生まれて初めての野宿をしたのは、その街と街の間での話だ。
日が暮れると馬車は止まり、アリス達がてきぱきと食事の準備をしてくれた。
夕飯は保存食の肉を串に刺して、焚火で焼くだけのシンプルなものだけど、とても美味しかった。『外飯効果』もあるけど、御者さんも美味しい、美味しいと言っていたし、やっぱり僕のメイドの料理の腕前は相当だね。僕が自慢するのも、なんだけど。
肉の匂いにつられて、時折鋭い眼光を草むらや木々の隙間から感じることがあった。
ただ、襲ってくる魔物は一匹もいなかった。アリスが細く黄色い瞳を影に向けるだけで、泣き声と共にそれらが逃げ出したんだよ。
「凄いね、アリスが睨んだだけで気配が消えたよ」
彼女の獣化魔法は、彼女の体を衣服諸共黒い獣へと変貌させる。その体躯は成人男性など比べ物にならないし、威圧感は本物の獣よりも鋭く恐ろしい。
だけど、自分が主人であるうちは、彼女の力ほど頼もしいものはないね。
「私の魔法は獣の力を宿すものでございます。ご主人様が望むなら、野良犬風情であればその場で噛み殺して御覧に入れましょう」
「そ、そこまでしなくていいよ! 追い払ってくれるだけで十分だよ!」
眼鏡を外して牙を唸らせさえしなければ、とても頼りになるのに。
「イーサン君、追加のお肉が焼けたよ! はい、どうぞ!」
「え、もご……うん、美味しいよ、パティ」
「えへへ、あたしのお手製料理だからね! まだまだあるから、いっぱい食べてね!」
未だに影の方を凝視するアリスと、僕の口の中に串焼き肉を押し込むパトリシア。マイペースだけどハイスペックな二人と御者のおかげで、旅は順調に進んだ。
そんな二人だけど、馬車で僕と一緒に眠ろうとはしなかった。御者さんのように自分用のテントを用意して、そこで眠っていた。僕は何度も馬車を使ってほしいと言ったけど、三人ともやんわりと断られてしまった。
彼女達曰く「これが自分達の立場だ」ということらしいけど。いつか、身分の差だとかを構わずに同じベッドで眠れる友人が僕にもできるのかな。
出発から七日目にして、僕はそんな夢物語をぼんやりと思い浮かべていた。
街を通り抜け、森を通り抜けた僕達は、ざあざあと雨が降る谷の細道を進んでいた。地面はぬかるんでいたけど、馬や車輪が足を滑らせるほどでもない。
「アリス、僕達、今はどのあたりにいるのかな」
ドアのガラスを打つ雨音を聞きながら、僕は変わらない風景を眺めている。
「ここはボジューダ渓谷でございます。行程としては今日で凡そ半分ほどとなります」
「やっと半分かー、思ってたよりも長旅になっちゃったねー」
ふと、僕は御者さんが気になった。馬車の中ですらしっとりとした空気を感じるほどなんだから、外にいればどれほど寒く、大変なんじゃないかと。
窓から少し顔を覗かせると、やっぱり彼は雨合羽一枚で雨に打たれていた。
「御者さん、雨が酷くなってきていますけど大丈夫ですか? 冷えるようだったら、拓けたところで一度休憩しましょうか?」
僕が声をかけると、御者さんは振り返り、皺だらけの顔で笑った。
「セルヴィッジの坊ちゃま、お気遣いありがとうねぇ! けど、わしはこの仕事で十年は食ってるんですわ! これくらいの雨、へでもないですよぉ!」
「分かりました、休憩したいときはいつでも言ってくださいね」
窓を閉めて椅子に腰かけた僕を、パトリシアがにやにやと見つめていた。
「ほんとーにイーサン君は優しいよね。普通の貴族なら、御者なんて気にも……」
そんなことない、と僕が否定しようと口を開きかけた――その時だった。
先程まで馬車を揺らしていた振動が、不意にやんだ。
「……馬車が止まった? 何かあったのかな?」
まだ細い道は続いているはずだし、休憩には早い。
もしかすると、やっぱり御者さんも疲れていて、少し休みを取りたくなったのかな。
僕とパトリシアはそんな想像も含めて、どうしてかをしばらく考えていたけど、アリスはふと何かに気づいた調子で、窓からさっきの僕のように身を乗り出した。
「どうかしましたか、なぜ止まったのです?」
「少し前で検問をしとるそうです、憲兵らしい連中が立っとります! おかしいですなあ、わしは何度かここを行き来しましたが、こんなことは初めてでさあ!」
「妙ですね、こんなところで検問とは」
首を傾げるアリスの疑問は正しい。
ずっと前に領地の境目は通り抜けたし、仮に関所を設置するのであればもっと広い場所にする。そうじゃなきゃ、何かの拍子にすぐ隣の暗い谷底に落ちてしまいかねない。
疑いが次第に不安へと変わっていく車内には、変わらず雨と小石の叩く音が響く。
――待って、小石だって?
「それに、雨に混じって妙な音が――」
小石は転がっているもので、降るものじゃないはずだ。
パトリシアはともかく、僕とアリスはその違和感と矛盾に気づいた。
そして、それがもたらす恐ろしい事実にも。
「――ご主人様、私のもとに!」
僕達が顔を青ざめさせるよりも、アリスが思いきり叫ぶよりも先に、馬車が物凄い勢いで揺れた。いや、揺れたどころか、真横に転がったとしか言いようのない振動が起きた。しかも、泥と土、岩の混合物が窓を破って流れ込んできた。
間違いない――馬車が土砂崩れに巻き込まれたんだ。
「わああああっ!?」
馬と人の悲鳴が、外から聞こえてきた。
安全圏にいるはずの僕達ですらこれだけの被害が及んでいるんだから、車外にいる彼らはひとたまりもないはずだ。命の保証も、当然ない。
「アリス、御者さんが!」
「今は自分の身を第一に考えてください! パトリシア、ご主人様を守るのです!」
二人に自分の身を案じるように言うよりも早く、馬車がよろめいた。かと思うと、とうとう体がふわりと宙に浮いた。無重力空間にいるように、足に地面を感じられなくなった。
これこそ間違いない――僕達は今、谷に落ちている。
「分かってるけど、馬車が、落ちてて、このままじゃ――きゃああああっ!」
パトリシアの絶叫も、アリスの見開いた目も、僕の感覚も全て、下へと落ちていった。
永遠に感じられるほどの落下。泥も、怪我も気にならなくなるほどの恐怖。それら全てが失われたのは、馬車を粉砕するほどの衝撃と、最悪の着地の瞬間だった。
痛みを理解するのと、意識を手放したのはほぼ同時だった。
――どれくらい、時間が経ったのかな。
「……う……」
しとしとと降る雨の冷たさに、僕は叩き起こされた。
意識は朦朧としているのに、記憶だけはやけに鮮明だった。急な土砂崩れに巻き込まれて、馬車が谷底に落ちていったのを覚えていた。中にいた僕が、散乱する馬車の残骸と土砂の外に放り出されて、草木生い茂る谷底にいるのも分かった。
結論は出た。僕はまだ、生きている。
体中が痛いし、手も足も動かせないけど、一応生きている。
声は出せないから、アリスとパトリシア、御者さんの安否を確かめる術はなかった。無力な僕はただ、無事でいるのを祈ることしかできなかった。
だけど、神様は無慈悲だと、僕は思い知らされた。
「――おい、このメイドはどうする?」
「どうせ死んでるだろ、放っておけ。それよりも大事なのは、このガキのほうだ」
複数の男の声が、僕の視界の端から聞こえてきた。誰かが助けに来てくれたのかと思いたかったけど、言葉の節々から、僕らの身を案じてはいないと理解できた。
山賊か、山奥や谷底に住まう獣人の類いかとも思った。
でも、万が一身包みを剥がされるとしても、そのほうが幾分ましだった。
「忘れちゃいねえだろうな、報酬の条件はケイレム様にこいつを殺した証拠を持っていくことだ。一番いいのは首、ダメなら服でも何でもいいがな」
「それにしても、心底同情するぜ。こんな年でセルヴィッジの政権争いに巻き込まれて、事故に見せかけて殺されるなんてな。まあ、ついてなかったと諦めるんだな」
僕は自分の耳を疑った。
まさか、土砂崩れが意図したものだなんて。その首謀者がケイレムだなんて。
『発動の儀』の後の諍いが原因だろうか。僕が大した魔法を持たない、セルヴィッジ家に相応しくない人間だからだろうか。仮にそれらが理由だとしても、メイド達を巻き込んでまで僕を殺そうとするなんて、信じられない。
「まだ生きてたか。安心しな、今息の根を止めてやるからよ――」
そのうち、僕に気づいた男の一人が近寄ってきた。
逃げようと思っても逃げられない。動けたとしても、彼が右手に握りしめた鉈に対して、とても今の状態で、生身で抵抗できるはずがない。
僕は思いきり目をつぶって、自分に訪れる最後の瞬間を拒んだ。
まだ死にたくない、まだやりたいことがあるのに。
死ねない、死ねない、死ぬわけにはいかない――。
――誰か、助けて。
言葉にならない声を喉の奥から絞り出すのと、男が鉈を振り下ろすのは同時だった。
「――え?」
だけど、僕の死は訪れなかった。
代わりに、男が持っていた鉈が何かに弾かれる音がした。宙を切り、舞い、ぬかるんだ地面に刃が突き刺さる光景が僕の目に映った。
男の足が一歩、二歩、後ろに下がった。代わりに他の誰かが、のそりと姿を見せた。
鈍色の肌。黒い影。筋骨隆々なのにのっぺりとした、毛のない胴体。間違いなく人とは呼べない何かが合わせて三つ、僕と、傭兵達の間に立ちはだかった。
「な、な、なんだこいつはああああっ!?」
傭兵達が叫ぶのを皮切りに、『何か』が敵を蹂躙し始めた。
「どこから現れやがった、この野郎……ぎゃああ!」
「なんでだよ、このバケモン、殴っても斬っても傷一つつきやしねえ!?」
彼らは手にした武器で応戦していたけど、はっきり言って相手にもなっていなかった。
剣や斧、棍棒で攻撃しても、鉄の怪物――としか形容できないそれは気にも留めずに、傭兵を締め上げて地面に叩きつける。もしくは顔の形が変わるまで殴打を続ける。
いずれも、人間ならば即座に死に至る攻撃だ。
「うぎゃあああ! 痛でええええ!」
「だ、だれが、だずげでええぐげっ!?」
ものの数分の間で、傭兵達はうめき声を最後に、ことごとく地に伏せた。
ぴくりとも動かない姿からして、死んでいるのは間違いなかった。どれもこれも、目を伏せたくなるような惨い死にざまだった。
「……ああ……」
いったい、何がどうなっているのか。
彼らは何者なのか。傭兵を殺した後の標的は、自分達なのか。
くるりと振り向いた、顔のない鋼色のそれらがゆっくりと近づいてくるのも見ることしかできない僕は、今度こそ全身を迸った恐ろしい感情に慄き、目を閉じた。
だけど、やっぱり死は訪れなかった。代わりに僕の体が、ぐい、と持ち上げられた。
ぶらりと垂れさがることしかできない手足の感覚から、僕を担いでいるのがその鋼の怪なんだというのが分かった。攫われる、襲われて食べられるといった恐怖感はなかった。
『貴方を、友人を運ぼう。遠く離れた、最も近い村に』
それの声が聞こえた。
声というよりは、心の中に響いてくる言葉。音そのもののようだった。
「……きみは……だれ、だ……?」
『――私達は貴方が生み出した力、そのものだ』
「……それは、いったい――……」
そのやり取りを最後に、人もどきは走り出した。
後ろから、僕を背負っている怪物の後ろからも、残った二人が追いかけてくる。何かを担いでいるように見えたけど、アリスとパトリシアであってほしい。
ふと、僕はこの人形に既視感を覚えた。
のっぺりとした外見は、『発動の儀』で生み出した人形のようだった。
そういえば、あれはどこにやってしまったんだろう。荷物の中に押し込んであったはずだけど、手に取ったのはいつだったかな。
思案を巡らせようとしていたけど、ひんやりとした感触に僕の意識は奪われた。
高速でどこか遠くに駆け出すそれの行く先は、分からないままだった。
――虚ろだ。
うすぼんやりとした意識が、僕の中にもたらした最初の感想はこれだった。
細かい思考は行き届かなかったけど、手足の感覚は残っていたし、体のどこも損なわれていないというのはなんとなく分かった。それに、僕はまだ死んでいない。
というのも、僅かに開いた瞳の中に映る景色には、よく知る彼女達がいるからだ。
「……もう三日……イーサン君……」
視界の僅か左側に見えたのは、メイド服に身を包んだアリスとパトリシア。
どうやら僕は今、どこかに寝かされていて、二人はその看病をしてくれているらしい。もしも僕達三人があの時すでに死んでいて、ここがあの世でないならば。
「……万が一……目覚め……」
「滅多なことを……私達……ご主人様を……」
そして二人は、間違いなく生きている。そうでなければ、パトリシアは何か戸惑った調子で先輩メイドを問い詰めないし、アリスはいつも以上に厳しい口調で彼女を宥めない。誰かの身を案じて声を荒げられるのは、生きている証だ。
「――生き、てるよ」
安堵した僕は目を開きながらゆっくりと口を動かし、か細い調子で喋った。
病弱さのアピールとかではなく、現状出てくる声の限界が、この程度だった。
「……ご主人様」
二人は喧嘩をやめて、じっとこちらを見つめた。
確かに怪我を治療した痕は目立つけど、さほど大きな傷は負っていないみたい。
「……アリス……パティも、無事……だったんだ……よかっ――」
それだけを懸念していた僕は心底安堵したし、ゆっくりと一息つきたかった。
ただ、僕にそんな自由はなかった。
「ご主人様!」
「イーサンくーんっ!」
メイド達が感極まった表情で、僕に飛びついてきたからだ。
「おぶえっ!?」
どうにか二人の体から顔を出した僕は、やっと間近でアリスとパトリシアの顔を見た。
こんな顔は初めて見た、と言えるほど――二人の表情は、不安に満ち満ちていた。来るかもしれない結末への恐れと、信じた希望が繋がった喜びがごちゃまぜになっていた。
「ご主人様、私は一度だけご主人様が二度と目覚めないのではないかと、僅かにでも疑ってしまいました! この情けないメイドにどうぞ何なりと罰をお与えください!」
「あたし、イーサン君が起きないから、怖くて、怖くて……よかった……!」
アリスもパトリシアも、それぞれが各々の思いを口から漏らしながら、僕にしがみつく。こんなに愛されているなんて、僕は幸せ者に違いない。
「じんじゃう、こきゅう、ごぎゅうでぎない……」
一層強くしがみついてきた二人の胸部で、僕の顔が圧迫されていなければ、だけど。
僕が胸の中でもごもごと口を動かすと、二人は我に返った調子で僕から離れた。
「……し、失礼しました……とにかく無事で何よりでございます、ご主人様。パトリシアもいい加減離れなさい、ご主人様の体に障ります」
「ええー? 先輩だって、イーサン君の体にべたべた触ってたじゃん!」
「……ご、ごほん。ご主人様、お体に違和感はございませんか?」
パトリシアの白い目が示す通り、彼女にはやや危ない趣味があるらしい。僕はなるべく気にしないように努めながら、彼女に笑って返事をした。
「少し体が痛いけど、大丈夫、なんともないよ。二人こそ、怪我は酷くなかった?」
「あたし達はそれなりに鍛えてるから、ちょっとやそっとじゃ大怪我になんてならないよ。けど、どうにもあたしと先輩じゃ腑に落ちないことが……」
「腑に落ちないことは、確かにあるね。そもそも、ここはどこなんだろう?」
目を覚ました時から抱えていた疑問を口にすると、答えが返ってきた。
「――ここはディメンタ村。ランカスター領地の端っこの村だよ」
ただし、アリスでもパトリシアでもない、三つ目の方向から。
僕の問いに答えてくれたのは、部屋の入り口にもたれかかっている青年だった。彼の隣には、どうにもぶすっとした顔つきの少女もいる。
「あの、貴方は?」
僕が再び問うと、彼は歯を見せて笑いながら、僕達の方に歩み寄ってきた。
「俺か? 俺はロック・カーティス。で、こっちは妹のメイだ、よろしくな」
「……どうも」
ロックと名乗った青年の方は、茶髪のオールバックとギザギザの歯、太い眉毛が特徴的で、背はライド叔父さんよりも少し低い。一方でメイは、三つ編みに結っている茶髪と三白眼が目立ち、背はロックより頭一つ分小さい。
それにしても、兄妹なのに随分と顔つきが違う。兄の方は朗らかで明るい調子だけど、妹の方は可愛らしいのに、どこか人を寄せ付けない雰囲気を漂わせている。
というより――僕達を警戒しているんじゃないかな。
「気になることは色々あるだろうけど、俺が答えられる範囲で答えてやるぜ。まず、村の名産品の軟膏薬を使ったから、あんた達の傷はかなり早く治ったよ。そこのメイド二人も結構な重傷だったけど、もうぴんぴんしてるだろ?」
「あたしの修復魔法も使ったんだけどね」
谷底に落ちるほどの怪我を負った僕達が、三日で目覚められるほどに回復できたのは、どうやらロックの言う軟膏とパトリシアの修復魔法のおかげらしい。
「じゃあ、お二人がメイとパティを助けてくださったんですね。二人の主、イーサン・ホライゾン・セルヴィッジとしてお礼を申し上げます、ありがとうございます」
「敬語なんてよしてくれよ、こそばゆいじゃねえか!」
体を起こした僕が頭を下げると、ロックはからからと笑った。
「でも、どうやら本当にセルヴィッジ家の関係者なんだな。しかも三男坊だって?」
ロックとは初対面なのに、僕がどこの誰であるかを話したのには驚いた。
僕の着ている服には(部屋の窓の傍にかけられている)セルヴィッジ家の家紋、翼を生やしたドラゴンの紋章が刺繍されている。それを見ればセルヴィッジの関係者であるとは察せるだろうけど、僕が三男坊とまで知っているのは不思議な話だ。
「ご存じなんですか、僕のことを?」
「ちょっとだけ、そこのメイド二人が教えてくれた内容だけな。けど、知ってるのはそこまでだ。自分の怪我も治ってないのに「ご主人様の看病をする」の一点張りで、事情を聞いても突っぱねてばかり。だから正直、あんた達から金を――うぐっ!?」
そんな疑問をロックが解消してくれていた時、突然メイが彼の脇腹を肘で小突いた。
相当な力で一撃を叩き込んだのか、ロックの顔が一瞬だけ苦悶に満ちた。大丈夫かな。
「気にしないで。ほら兄貴、話を続けなさいよ」
「そ、そうだ! 俺達、お前らがどうしてこんな辺鄙な村の前でぶっ倒れてたのかが気になってたんだよ! セルヴィッジ家の連中がランカスター領で、しかも遭難してるみたいな格好で倒れてるんだからな!」
僕が谷底で倒れていた理由は、とてもではないが話せない――。
「えっと、僕達がそんな目に遭ってたのは、少し言えない理由があって……」
――そう、谷底で倒れていた理由は。
「……待って、僕達がどこにいたって?」
「どこにいたって……村の門の前に三人揃って倒れてたのを、俺が見つけたんだ」
ここまで話して、僕は自分の発現の違和感をやっと覚えた。
僕達の記憶が正しければ、傭兵に襲われたのはボジューダ渓谷の細道だ。けど、ロックが僕を見つけたのはこのディメンタ村の入り口だって。しかも、僕だけではなく、アリスとパトリシアも同じところに倒れていたらしい。
「ついでに、服だのなんだのが入った荷物も隣に転がってたから、全部集めておいたぞ。あんな大荷物を担いで、歩いてこの辺りをうろついてたのか?」
どうやらこれが、パトリシアの言っていた腑に落ちない点なんだろうね。
「……僕達が馬車に乗っていたのは、ボジューダ渓谷だよ」
「ボジューダ渓谷!? 信じられねえ、この村から歩いて三日はかかるぞ!?」
僕が呟くように告げると、ロックもメイも、目を丸くして驚いた。
「えっと、それじゃあ、走ったら?」
「走りなんてしたら、休憩を挟んだって三日も体力がもつわけないじゃない、バカなの? まあ、仮に馬でも走らせれば一日から半ってとこだけど、馬なんていなかったわよ」
「でも、それだと余計に納得がいかねえんだよなぁ。生身であれだけの荷物を担いで、ボロボロの格好でボジューダ渓谷から三日かけてこんな辺鄙な村までくるなんて、それこそ何もかも矛盾してるだろ?」
謎を解くように状況を語り合う兄妹を見つめながら、僕はあれを思い出していた。
『貴方を、友人を運ぼう。遠く離れた、最も近い村に』
僕やメイド達を助けた、鉄製の人形らしい物体について、だ。
傭兵を瞬く間に倒しただけでなく、動けない僕達を運んでくれた何か。あれが何だったのかは今のところさっぱりだけど、間違いなく現実として存在していたみたいなんだ。
「……やっぱり、あれは夢じゃなかったんだ……」
そしてロックの言い分が正しければ、見つかった時には僕の傍にもう誰もいなかった。アリスでも、パトリシアでもないそれは、結局何だったのかな。
今のところは不明だけど、とにかく僕達をロックが助けてくれたのには違いない。
「改めて、僕達を助けてくれてありがとう、ロック。お礼に、僕達にできることがあれば言ってほしい。できる範囲なら、なんでもやるよ」
「いやいや、いいんだよ、礼なんて。困ってる人がいたら――おぐっ!?」
にこにこと笑って両手を振るロックの脇を、またもメイの肘が狙い撃ちした。
しかも今度は、殺気よりもずっと強い力だ。ただでさえ不愛想に見えた顔が一層いら立ちと怒りに満ちていて、今にも爆発してしまいそうな様子だ。
「兄貴、ちょっとこっちに来て」
「な、なんだよメイ、俺はだな……」
「い・い・か・ら!」
辛うじてこの場で暴発こそしなかった代わりに、頭のてっぺんから湯気を噴かせているメイはロックの耳をつねりながら、乱暴に部屋のドアを開いた。どうやら、ロックと何か相談事があるみたい。
「わ、分かったっての……そんじゃイーサン、何か困ったことがあったらいつでも声をかけてくれよな! 元気になったら、村でもかるーく案内してやるよ!」
千切れそうなくらいの力で引っ張られるロックは、それでも手を振ってけらけらと最後まで笑いながら、メイに部屋の外へと引きずられていった。
そうして凄まじい音と共にドアが閉められ、部屋はさっきのように静かになった。
取り残された僕とアリス、パトリシアは互いに見つめ合って、一緒に首を傾げた。
「……不思議な兄妹ですね」
「妹の方は、なんだか油断ならないけどね」
「そうかな? 二人とも、僕にはすごくいい人に見えたよ」
「それはさ、イーサン君が優しいからだよ。さてと、起きたてのご主人様に食事を作らないと! イーサン君、何か食べたいものはある?」
そういうものかなと思いながら、僕は少しだけ間を空けて言った。
「……二人が作ってくれるものなら、なんでも」
二人は僕に微笑みかけて、てきぱきと食事の準備に移ってくれた。
――いつかアリス達にも、恩返しができるといいな。
そんなことを考えながら、僕はもぞもぞと布団の中へと戻っていった。
【ロック】
人に優しく。女性には特に優しく。
それが俺――ロック・カーティスの生きざまにして道しるべだ。
どんな時でもそれだけは譲らなかったし、いつだってそうやって生きてきた。このばっちりキマったオールバックに誓って、女性にはいつでも優しく、甘く接してきた。
とはいえ、全てが正しいわけじゃない。たまには厳しく接する必要もある。
「バカ兄貴! メイ達があんな泥だらけの貴族とメイドを助けた理由を忘れたわけ!?」
特に俺の可愛い妹――メイに怒鳴り散らされるときには、殊更そう思う。
「あー……なんだっけ?」
「ウルトラダイナマイトバカっ! 本当に脳みそ詰まってんの!?」
だから、こうして頭を小突かれながら叱られるのは、ある意味俺の役割ってわけ。
「あいつらの服に刺繍されてた家紋を見たでしょ! 翼を生やした竜の紋章、間違いなくセルヴィッジ家の家紋よ! ランカスター家の隣の、デカい領地を持ってる貴族よ!」
「ええっと、そりゃあ知ってるけどさ……」
「だったら、あいつらを助けたらやることは一つ! 恩を押し売ってやるの!」
兄の俺が贔屓目で見ても、メイの顔は随分あくどいものだった。
「遭難した貴族サマを助けて、世話して、そこに付け込んでお礼の金をがっぽり請求してやるって計画でしょ! なのに礼はいいだなんてカッコつけて、情に流されるなんて、そんなだから兄貴はお人好しだって、他所の村でも小馬鹿にされんのよ!」
「そ、そこまで言わなくてもいいだろ?」
メイの罵倒はもう毎日受けているから、今更気にならなかった。問題なのは、あのイーサンとかいう貴族の子に恩を押し売って金をせしめるなんて、怪しい作戦の方だ。
「あのイーサンって子、多分まだ十歳になって間もないくらいだぞ。そんな子に助けてやったから金を出せ、お礼をくれなんて言っちゃあかわいそうだろ……痛ででで!」
「だ・か・ら! 兄貴はバカ兄貴だっつってんのよ!」
だけど、俺に膝蹴りを叩き込む妹には、そんなことはちっとも関係ないらしい。
「貴族なんて、メイ達の事情も知らずに好き放題やってるクズばっかりじゃない! どれだけお金を掻っ攫ってやっても、心なんて痛まないっつーの! 第一、あんな世間知らずのガキに情なんて湧かないわよ!」
「で、でもよぉ……」
実際問題、俺も貴族はあまり好きじゃない。むしろ、嫌いだと言ってもいい。
けど、イーサンが嫌いかどうかとは話が別だ。たとえメイが、彼を嫌っていても。
「じゃあ兄貴は、村が今のままでもいいってわけ!?」
メイが俺を怒鳴りつける時の目つきが、一層きつさを増した。
確かにメイの言い分は間違っちゃいない。彼女がこれほど必死になるのには、村が今、よそ者には話せないほど苦しい状況に追い込まれてるからだって、分かっちゃあいるんだけども。
それでも俺が黙っていると、メイはとうとう深いため息を漏らした。
「もういいわ、兄貴はあのガキとメイドに怪しまれないように、明日にでもてきとうに村の案内をしてやりなさい。くれぐれも、計画がお婆ちゃんにばれないようにね」
でも、もう始まった作戦は止まらない。
メイは村の皆には協力させるけど、村長にこの計画を話していない。
いくらしっかり者のメイでも、一人でこんな危険な橋を渡ろうとすれば、貴族の怒りを買いかねない。彼女としては、いざとなれば村ぐるみで隠ぺいできる選択肢を選んだんだ。
難しい選択なんだが、俺は兄として、妹の考えた策に乗るしかないってわけだ。
「へいへい……」
「返事は一回! ったく、メイはこんなにしっかりしてるのに、どうして兄貴は……」
メイはやや乗り気じゃない俺への文句を垂れ流しにしながら、外に出て行った。
幾分乱暴な口調が目立つけど、自分の欲を満たす為にやっているわけじゃない。メイはメイなりに、自分の育ったディメンタ村を愛しているからこそ作戦を切り出したんだ。
とにかく今は、金を手に入れる作戦を遂行するのが一番だと、俺は心に留めた。
目が覚めて二日くらい経ってから、僕はやっと外に出られるくらいには回復した。
村の皆が用意してくれたらしいフルーツや、アリスとパトリシアの看病のおかげもあってか、後遺症も傷もほとんど残らなかった。包帯やガーゼも、すぐに外せた。
気前が良すぎるんじゃないかと思うほど、ディメンタ村の人々は誰も彼も優しかった。きっと、傷がアリスの予想よりも早く回復したのは、村人の温かさも理由の一つなんじゃないかと思えるほどに。
「なあ、イーサン? よかったら、一緒に村を散歩してみないか?」
調子が良くなった日の朝、ロックが僕にこんな提案をしてくれた。
彼の提案に、僕は頷いて同意した。アリス達は最初こそ僕の体が心配だって言って渋ったけど、結局二人もついてくることで納得してくれた。
こうして僕は、初めて部屋の外に出て、ディメンタ村の土を踏んだ。
僕達が寝泊まりしていた家は空き家で、ロック達の家ではなかった。だから、窓から見える範囲以外でこの村で誰がどんな生活をしているのかについて、正直関心はあった。
そんな僕が最初に村の光景を見て抱いた感想は、「温かい」だった。
木造の家屋がぽつぽつと建っており、その間には万屋のようなお店が点在している。畑も少し離れたところに見えて、人はところどころで生業の仕事をしている程度。子供から大人、老人までいる村民は、大まかに数えて八〇から九〇くらいかな。
鶏や猫が足元をよぎる、村一番の通りを四人で歩きながら、僕は感想を呟いた。
「いい村だね、ロック。静かで長閑な、温かい村だ」
「お、イーサンは分かってるじゃねえか! 『ブルーナッツ』で作った万能の軟膏も評判だけどよ、がやがや騒がしい中心部の街にはない雰囲気と人の温かさが、このディメンタ村の一番いいところさ!」
ロックの言う通り、すれ違う人は皆笑顔で手を振ってくれる。僕のような貴族の生まれがそもそも珍しいのかもしれないけれど、余所余所しい人は誰もいない。
「おーい、ばあちゃん! 腰の調子はどうだーい!」
それを一掃肯定するかのように、ロックが少し離れたところにいる、野良仕事をしている村人に明るく声をかけた。
彼の視線の先にいるのは、妹のメイと、白髪混じりの腰の曲がった、ばあちゃんと呼ばれた女性。老婆と呼んで差し支えない外見だけど、メイの隣で重そうな荷物を運んでいる。
「いつも通り元気だよーっ! 今日もほら、このくらいの荷物なら、よっと!」
「荷運びの手伝いもいいけど、腰をいわせない程度になー! メイも、ばあちゃんが無理しないように手伝ってやってくれー!」
「分かってるから、いちいち大声出さなくていいわよ!」
メイに刺々しい返事をぶつけられても、振り返ったロックは歯を見せて笑っていた。
「あはは、一応紹介しとくと、あの人はレベッカ・カーティス。ディメンタ村の村長だよ」
「カーティス……ということは、ロックとメイの家族なの?」
僕が問いかけると、彼は少しだけ考える様子を見せてから答えた。
「んー、正確に言うと育ての親、ってとこだな。俺達は孤児でさ、村の近くの森に放り出されてたんだ。それを、レベッカばあちゃんが拾ってくれたんだよ」
「放り出されてたって、どうして……」
「ばあちゃん曰く、両親は森の中で魔物に食われて死んでたんだと。俺達は茂みの中に隠されてたから、奇跡的に助かったってわけだ」
しまった。僕は、聞いてはいけないことを聞いてしまった。
「……ごめん」
「気にすんなって! 今の俺とメイにとっての親は、ばあちゃんだからな!」
僕が静かに謝ると、彼は僕の肩に手をかけて、ぽんぽんと叩いた。
表情はあまり見えなかったけど、声色からして笑っているのは間違いなかった。
「俺達が孤児だなんだなんて、誰も気にしちゃいない。同じ村民として、皆が優しくしてくれるからな。で、俺も恩返しってわけで、やれることは何でもやるのさ。これがディメンタ村、他にはない良さがある村なんだぜ!」
「うん……本当に、皆の優しさがロックからも伝わってくるよ」
セルヴィッジ家の屋敷の下に広がる街にも、同じような温かさがあった。
あの空気と雰囲気が好きで、もう帰れないとすら思っていた僕にとっては、ディメンタ村でしばらく過ごせる時間はとても楽しそうなものに感じられたんだ。
ただ、アリスとパトリシアには、僕とはまるで違う光景が見えているようだった。
「確かにご主人様の言う通り、和やかな雰囲気の村ではあります……ですが」
「イーサン君、言っちゃ悪いけど、この村は長閑ってよりは寂れてない? それもそんじょそこらの田舎より、ずっと酷いさまに見えるよね?」
僕の隣を歩く二人には、人ではなく、村そのものが見えていた。
――正確に言うと、僕も見えていたけど、口には出さないそれのこと。
村の端々にあるのは、自然的というより、明らかに人為的に倒壊した家屋。その奥には農業利用以外の意図で焼かれた畑。村人があくせく働いているのも、生活の為というより、破壊された家屋の修復をしているように見える。
「そんなこと言っちゃだめだよ、パティ。ごめんねロック、彼女も悪気が――」
僕は慌てて訂正しようとしたけど、それよりも先にロックが口を開いた。
「――『おんぼろ村』だ」
「え?」
先程までの彼と同一人物とは思えないほど、暗く澱んだ声だった。
彼もまた、アリス達と同じように、目を背けたいはずの村の有様を見つめていた。
「前に一度、村に立ち寄った行商人が村を見て呟いたんだよ、ここはおんぼろの村だって。どこもかしこもボロボロで、何にも残っていない、じきに滅びる村だって」
確かに現状だけを見れば、心無い人はそう言い放つかもしれない。
けど、ロックの視線の先に映っているのは、僕に見えている景色とは真逆だった。
「……そんなはずないんだよ。俺は小さい頃からディメンタ村を知ってるけど、近くの森で採れる食料はどれも美味しいし、昔はもっと多くの旅人が寄ってきた。名産品の軟膏は商業都市まで運べば全部売れたし、向こうに専門の店もできていたんだ」
「ロック……」
「村が変わったのは、『東西戦争』が起きてからだ。王族に貴族連中が反乱して、もう二年も戦争を続けてやがる。敗残兵に襲われる村や、魔物じゃなくて人間に殺されるのが怖くて外に出られない村人のことなんて、あいつらは気にも留めない!」
感情が溢れ出したロックは、僕やアリス達がいるのも忘れたかのように叫んだ。周囲の人が足を止めても、遠くで声を聴いた人がなぜか焦りの表情を見せても、気にも留めない。
「村の良さを全部、全部戦争が奪ったんだ! 貴族が起こした戦争で、何の関係もない俺達がこれだけ酷い目に遭ってるっていうのに、あいつらは権威を取り戻すだの、王族の正しさをしらしめるだのわけ分かんねえ大義名分をのたまって、まだ戦い続けてる!」
本当は、彼は僕のことが嫌いなんじゃないかと、そう思えてならなかった。
ギザギザの歯を剥き出しにしてまで激昂するロックの怒りが、よく僕の方に向かなかったなと思う。僕はこの二日間で、彼に殺されても仕方なかったはずだ。
「あんな貴族なんて、皆戦争で死んじまえば――あっ」
息が上がるほどに声を荒げていたロックは、ここでやっと我に返った。
周囲の――僕を含めた視線に気づいた彼は、さっきと同じようにはにかんでみせた。けど、もう僕の目には出会った時のロックと同一人物には見えなかった。
貴族と戦争への怒りと憎しみが渦巻いた彼の目が、ずっと暗く感じられたんだ。
「わ、悪りい! イーサンのことを言ってるんじゃないんだ、ごめんな!」
「……ううん、ロックの言葉は間違ってないよ。戦争を起こしたのは、確かに貴族だ」
僕は自分が貴族の生まれであると、認めるばかりだった。
視線が少しだけ冷たくなった気がして、彼から目を逸らした。
「えっと、あの……ちょっとあそこの店の様子を見てくるから、そんじゃ!」
彼は特に壊れてもいないお店に向かって、ささっと駆け出して行った。
ロックがいなくなった僕達三人の回りに寄ってくる人は、誰もいなかった。優しい笑顔で語り合っているのは間違いないんだ。
でも、僕達に対しては急に遠慮がちな視線を投げかけるようになった。
この時になって、僕はようやく理解した。
無知な貴族の子供など――ディメンタ村では、歓迎されていないんだって。