パトリシアと出会ってから、あっという間に二年の月日が流れた。

 イーサンという少年は少しだけ成長して背丈も伸びた。僕のことながら、本棚に手が届き、武術も形になるくらいの歳になった事実はとても嬉しい。

 その間に、フォールドリア王国を巡る情勢も変化を見せていた。

 王国西部の貴族が連合を組み、王政に反旗を翻した。一昨年の半ばから続いているこの内乱は、戦況こそあまり大きくないが、少しずつ戦火は広まっているらしい。

 らしい、と僕が曖昧に言っているのは、偶然騎士達の噂を小耳に挟んだだけだから。
 とはいえ、明後日に十歳になる僕にとって、人生最大の転機になりかねない瞬間が、最早目と鼻の先まで迫っていた状況では、そっちが優先された。

「……いよいよ、明後日には『発動の儀』か……」

 そう、マナの力と有無を確かめる『発動の儀』が、明後日に執り行われるんだ。

 聞いたところによると、鑑定士と呼ばれる専門職の前で水晶玉に手を近づけると、その人物が有する魔法に応じた現象が発生する。それから水晶玉の方に、魔法の二つ名が映し出される。例えば、ライド叔父さんの時は儀式に使う部屋中に雷鳴が轟いたんだって。

「まいったな、変な魔法が出てきたらどうしようか」

「仮にそうだとしても、ご主人様は気高く心優しいご主人様のままでございます」

 そんな重要なイベントを前にして、ベッドに寝転がった僕はどうにもそわそわしていた。同じ部屋に居るアリスとパトリシアは、そんな僕をいつもフォローしてくれる。

「でもさ、イーサン君? セルヴィッジ家の跡継ぎはほぼイーサン君で確定じゃない?」

 椅子に座ってお菓子を食べながら、相変わらずメイドらしくない態度でパトリシアが言った。彼女は二年間で大きく変わったけど、気が抜けるといつもの彼女を見せてくれる。

「言っちゃ悪いけど、上の二人にこの家を継ぐほどの器量はないと思うな。そこでイーサン君がセルヴィッジ家代々の強力な魔法を発現させたら、人生バラ色確定だよ」

 あくまでパトリシアの主観だけど、僕は何故か屋敷の中で人気があるみたい。

 嫌味だなんて言われるかもしれないけど、使用人達がしきりに話しかけに来てくれるのがありがたくて、僕が礼を言いたくなるほどだよ。

「イーサン君はメイドにも騎士連中にも人気だし、屋敷の外に出た時も街の人に可愛がってもらってたじゃん。上の兄弟二人は可愛がられるどころか、正直煙たがられてると思うよ。街に轟くほどの傲慢なバカ息子、ってね」

 彼女が言っているのは、僕が何度か街に出向いた時の話だね、きっと。

 二人目の専属メイドを迎える少し前から、僕は馬車に揺られて近くの大きな街を視察させてもらうようになっていた。世間に関する勉強と経済状況、あとは僕の好奇心を満たす為の外出だったけど、これは本当に楽しかった。

 最初は街の皆も少し距離を取っていたけど、僕が複数回足を運ぶようになると、向こうから声をかけてくれるようになった。珍しい魚を使った料理をふるまってくれたり、恐ろしい呪具を見せてもらったりとか、とにかくたくさんお世話になった。

 まあ、後者の方は修羅の形相をしたアリスに回収されちゃったんだけど。

 あの時は、僕が貴族だから何かと要求を呑んでくれているんだと思っていた。けど、今になってパトリシアの話を聞いてみると、僕はすっかり愛されていたんだなって思える。

 ただ、二人が傲慢なんて評価が正しいとしても、彼女の場合は少し言い過ぎだよ。

「そんなこと言わないで、パティ。僕に人を導くほどのカリスマなんてないってば」

「時に必要なのは、ご主人様、導く力よりも寄り添う力でございます。そしてそれならば、ご主人様はもう、並の大人よりも素晴らしいものをお持ちでございます」

「アリスまで……僕は当主を継ぐなんて望んじゃいないよ」

 今更だが、いずれはセルヴィッジ兄弟のうち、誰か一人が当主を継ぐ。

 大抵は残った者が家を去るんだけど、それはあくまで長男が当主になった場合だ。そうでない時――ケイレムや僕が当主になった時、残された者は、はいそうですかとはいかない。あらゆる資産を総取りしようと目論む者達の、血みどろの戦いが始まる。

 僕はともかく、二人は僕を殺すのには躊躇いがないと断言できる。正直に言うと、僕はザンダーにもケイレムにも、相当嫌われている。特にケイレムは、パトリシアの一件で僕を憎んでいるとすらいえる。

 だとしても、僕は彼らと殺し合いなんて、兄弟での殺し合いなんてまっぴらごめんだ。

「少なくとも、当主の座を狙って二人と争うなんて、考えたこともないさ」

 だから、僕の望みは、どんな結果になっても変わらない。

 祖母から教わった優しさで、国を、家族を支え続ける。セルヴィッジ家にいるとしても、追い出されて他の領地に行ったとしても、ただまっすぐに自分の在り方を信じる。

「イーサン君ってば、相変わらず甘いよね。ま、そこがかわいーんだけど」

「いずれにせよ、明日、全てが決まるんだね。そう思うと、緊張してくるな……」

 ベッドの中に潜りはしたけど、どうにも目を瞑る気になれなかった。寝床の中でもぞもぞしている僕を見て、アリスが小さく微笑んだのが見えた。

「ご主人様。不安で寝付けないなら、久しぶりに添い寝をいたしましょうか」

 そして、何とも恥ずかしい提案をしてくれた。本当に、恥ずかしい提案を。

「添い寝!? そ、そんなの、六歳で卒業したよ!?」

「そう仰らず。ご主人様の心が揺らいでいるか否かが分からないほど、私は甘いメイドではございません。イーサン様に安堵してもらうことが、今は一番大事なのです」

 優しいのは嬉しいんだけど、僕の恥ずかしさも察してほしいな。

「で、でも、僕はもう十歳だし……」

「んー、じゃああたしもイーサン君に添い寝してあげよっかな!」

「パトリシアまで!?」

 もっとも、パトリシアの乗り気になったなら、もう僕に逃げ場はないんだけれども。

 敏腕メイド二人に囲まれた僕の結論は、もう決まったも同然だった。

「……じゃあ、その……お願いしても、いいかな」

「かしこまりました、ご主人様」

「仰せの通りに、イーサン君!」

 こんな調子で、気づけば僕はベッドの中で、パジャマに着替えた二人のメイドに挟まれていた。当然だけど、こんな状態じゃかえって寝付けない。

 ナイスバディなアリスも、スレンダーなパトリシアも、等しく柔らかい。

 どうにかちょっとでも距離を取ろうとしても、二人は僕を捕まえて離さない。

「あれあれ? イーサン君、もしかして照れてる?」

「そ、そりゃそうだよ……って、そこ、おへそ! おへそ擦らないでってば!」

「ふふっ、いいリアクションしてくれるねー!」

「パトリシア、悪戯もほどほどにしなさい。あくまで添い寝をする我々の目的は、ご主人様の安眠なのですから」

「そういうアリスも、なんだか抱きしめる力が強いような……」

「……さて、どうしてでしょうか。夢の中でお考え下さい、ご主人様」

 からかわれてるのか、真剣なのか分からない時間は、その後も少しだけ続いた。

 でも、どういうわけか――結局、その日はいつもよりぐっすりと眠れていたんだ。



 そして二日後。

 僕は二人のメイド、ライド叔父さんと共に、屋敷の中で最も大きな扉の前に立っていた。ここで行われる政はただ一つ。『発動の儀』だ。

 この厳かな扉の向こう側で、僕は今日、魔法を手に入れる。

「……来たね、この日が」

「そう気負うな、イーサン。お前にとって、単なる人生の通過儀礼の一つに過ぎない。覚醒した魔法がどんなものでも、お前自身は変わらない。それを、覚えておくんだ」

「ライド叔父さん……」

 そんなプレッシャーを、背中を叩くライド叔父さんの手がほぐしてくれた。

 叔父さんが来てくれたのはたまたまだったんだけれど、僕が『発動の儀』を受けると知ると、自分の仕事をほっぽりだしてまでついてきてくれた。本当にありがたいんだけど、後で山積みの書類を前に頭を抱えてる姿が想像できちゃうよ。

「ご主人様、この奥に入ることを許されているのは、セルヴィッジ家の者と鑑定士だけです。私達はここでお待ちしておりますので、気持ちを落ち着かせて臨んでください」

「イーサン君なら大丈夫だよ。胸張って、サイコーの魔法をもらって来ようね!」

 これだけの声援を受けておきながら、不安な面持ちでいるのは、かえって失礼だね。

「……ありがとう、二人とも。それじゃ、行ってくるよ」

 僕は三人に軽く手を振ってから、大きな扉を押し開けた。

 荘厳な扉は、僕の予想に反して軽い力で動いた。だけど、黒いローブを身に纏い、鑑定士と思しき老人を囲むセルヴィッジ家の男達――ヴァッシュ、ザンダー、ケイレムの三人の姿からは、重い雰囲気が醸し出されていた。

「イーサン・セルヴィッジ様。どうぞ、こちらへ」

 鑑定士に促され、僕は暗い部屋の中央に向かって歩いてゆく。噂に聞いていた水晶玉が鎮座する台の前まで来て、足を止めた僕は、周囲を軽く見まわした。

 父上と二人の兄の表情が見えたが、お世辞にも僕に期待を寄せているようには見えなかった。父上は僕が魔法を発動させるのを前提にしているようだったし、どれだけ強力なものか、それだけに関心が向いているみたいだ。

「これより『発動の儀』を執り行います。イーサン様の中に秘めたる力、マナを引き出し、魔法として発現させるのです。さあ、水晶玉に手を乗せ、深く深呼吸を……」

 水晶玉の上に手を翳す。小さな光が透明な球の奥に宿り、揺らめいて、僕の瞳に映る。

「大きく息を吸って、吐いて……力を解き放つイメージを浮かべて……」

 呼吸に合わせて、光が大きくなり、小さくなり、拡大と縮小を繰り返す。

 そして、何度目かの呼吸を終えた瞬間、いきなり水晶玉の光が凄まじく輝き始めた。

「……来ます……イーサン様にはマナがあります! その名と力が目覚めます!」

 薄暗い部屋の中をかっと照らすほどの光を前に、僕どころか、鑑定士を含めた全員が僅かに体を震わせた。こんな光は、そうそうないのかな。

 駄目だ、思考する余裕がない。

 頭から考えを奪いつくすほどの光が放たれている。

 そうこうしているうちに、僕の目が開けなくなるほどの光が空間を埋め尽くした。

「う、うわああああっ!?」

 思わず叫び声をあげてしまった僕の手が、途端に熱くなった。

 指先が震える感触と共に、水晶玉が台座から落ちて、転がっていくのが音で分かった。それでもなお、閉じた目の内側を焼くように視界が明るいし、手は熱いまま。

 その全てが収束するのは、あまりにも一瞬だった。

 光が急になくなったのを感じた僕は、ゆっくりと目を開けた。少しだけ何も見えなかった僕の目が、再び闇に慣れ始めた頃、そこに広がっていた光景は異様なものだった。

「…………なんだ、これは」

 僕の掌が翳す先――台座の上にあるのは、小さな人型の何か、だった。

 ごとん、と台座に横たわるそれを、ただ僕を含めた全員が唖然と見つめていた。

 僕だけがゆっくりとそれに近づき、触れた。ひんやりとしたのっぺらぼうの人形は、台座と同じ鉄でできているようだった。これが、僕の魔法が生み出したものなのかな。

「鑑定士、わしは聞いておるのだが? これは何なのだと?」

「は、はいっ! この人形が、イーサン様の魔法の力かと思われます! その名前も水晶玉に映し出され、どのような能力かも……」

 慌てて水晶を拾った鑑定士が透明な球を見つめるが、次第に顔が青ざめてゆく。

 僅かに曇った水晶玉を持ち上げ、鑑定士は震える声で言った。

「……あり、ません。名前も、能力も……出てきません」

 この瞬間、僕の魔法は決まった。

 自然の力を操る偉大な者を輩出してきたセルヴィッジ家の三男が持つ力は、小さな人形を生み出すこと。同時に、僕は自分の目を疑った。失望した父の隣に立つ二人が、口をつり上げて嗤ったように見えた――僕の現実を知り、安堵して、嗤っているように見えた。

 そんなはずはない、僕の気のせいだ。

 空想を振り払うように首を横に振ろうとするよりも早く、父が口を開いた。

「……つまり、この男の魔法は名前もない、能力が鉄くずを生み出すだけの、何の役にも立たない力だと、そういうわけだな。なるほど、分かった」

「父上……」

「『セルヴィッジ家に一点の曇りなし』。我が一族の家訓を忘れてはいないだろうな、イーサン。地位や名誉だけでない、何の価値もない無意味な魔法も陰りになる。ザンダーやケイレムほどでないとは思っていたが、まさかここまでとはな」

 これ一つで、父は躊躇いなく僕に言葉のナイフを突き刺した。

「いいか、セルヴィッジ家には黒点など不要なのだ。たとえそれが、血の繋がった息子であろうとな。元々不要な男だ、お前はこれから……」

 だからきっと、父は僕を、ここでセルヴィッジ家から突き放そうとしたんだと思う。

 追放か、或いは幽閉か。最悪のパターンが頭をよぎった。

「お待ちください、父上!」

 だけど、別の声が部屋に響き、僕の思考は中断された。

 父の隣に立ち、恐るべき宣言を寸でのところで止めたのは、ケイレムだった。

「なんだ、ケイレム」

「お言葉ですが、イーサンの魔法が全て決まったわけではありません。今はこのような体たらくでも、鍛えればいずれセルヴィッジ家に貢献できる可能性もあります」

 ケイレムの顔はやけに自信に満ちているように見えた。あまり考えたくはないけど、こうなることがすべて織り込み済みであったかのような、流暢な説得だった。

「どうでしょう、領地西部の避暑地で静養させるというのは? イーサンも現実を目の当たりにして、随分とショックを受けていますし……少し屋敷から離して置いて、彼の力の成長を見定め、それから処遇を決めても遅くはないかと思います」

「……ふん、いいだろう。イーサン、今のところはケイレムの提案に従い、己の魔法をセルヴィッジ家の為に鍛えろ。お前を一族に残すか否かは、その後に決める」

 少しだけ思案した後、父は僕を静かに睨みつけて言い放った。

 僕に、否定する権利などあるはずがなかった。

「……分かりました」

「では、早々にこの部屋から去れ。ここにいる資格を持つのは、優れた者だけだ」

 もう、父は僕の話など聞かない。聞いてくれるはずがない。

 そう悟った僕は、兄弟と父に背を向けて、扉の方へと歩き出した。せめて魔法を手に入れた証として、鉄の人形を持っていったのは、誰も咎めなかった。

 入る時よりも重く感じる扉を開いいた僕を、アリス達は変わらない様子で待っていた。

「ご主人様、結果はいかがでしたか?」

「中のことは外に聞こえなかったけど、きっと凄い魔法を発動させたんでしょ? 兄弟全員ビビらせて、その場で次期当主はイーサン君確定、って感じかな?」

 アリスとパトリシアは嬉々とした調子で声をかけてくれたけど、僕は心の整理がまだついていなくて、とてもじゃないけど笑顔に対して笑顔で返せなかった。

 そんな僕の顔を見た叔父さんは、何かを察したようだった。

「……イーサン、まさか」

「そのまさかだよ、ライド叔父さん。僕の魔法に名前はない。能力も、鉄の人形を生み出すだけだ。父上の期待には、応えられなかったよ」

 静かに突き出した人形に、三人の目線が集中した。

 どんな顔をしているのか、正直見たくはなかった。誰もが優秀な魔法を持つセルヴィッジ家の中で、唯一どうしようもない、何の価値があるかも分からない力を手にしてしまった子供に、どんな視線を投げかけるのかな。そんなこと、想像したくもなかった。

 父のように見放されるのかとも想像した僕は、静かに顔を上げた。

「――よかったじゃん! マナがあったんだから、とりあえずオッケーだよ!」

 僕の前にあったのは、いつもと変わらないパトリシアの笑顔。

 そして、嫌味なんて何一つもない、心からの言葉だった。

「パトリシア、その言い方は少し語弊があります」

 彼女の後ろにいるアリスも、僕に失望なんてしていないと断言できる優しい顔だ。

「ですが彼女の言う通り、魔法の発動こそ、そもそもは稀なのです。加えてご主人様、魔法とは使い方次第で無限に変化します。私はこの力を、無意味だとはまるで思いません」

「そうだ、イーサン。期待していたのは分かるが、悲観するにはまだ早いぞ」

 ちょっぴり力なくはにかむ僕の肩を、ライド叔父さんが強く叩いてくれた。

「部屋に入る前に言ったが、気に病むことはない。もしもお前に兄上が厳しい態度を取るようなら、必ず俺が説得してやる」

「ううん、もう僕の処遇は決まったよ。領地西部の避暑地で、しばらく静養だって」

 メイド達は「まさかそんなはずが」というような調子で顔を見合わせた。

「アリス先輩、それって……!」

「ええ、貴女の考えている通りです。ヴァッシュ様は、ご主人様を見放しました」

一方で、ライド叔父さんは僕の代わりに怒ってくれているようだった。叔父さんがこんなに顔を苛立たせて、歯を見せるほど感情を昂らせているのを、僕は初めて見た。

「追放など、全く、あのマナ至上主義の男は血も涙もないのか!」

「違うよ、静養を提案したのは父上じゃない。話を切り出したのは――」

 ライド叔父さんの誤解を解こうとした僕だけど、会話は遮られてしまった。

「――やあ、イーサン。随分としょぼくれた顔をしてるな?」

 扉を開けて、外に出てきたケイレムによって。

「ケイレム……!」

 複雑な顔をしている三人と違って、彼はやけに嬉しそうだった。

 ケイレムの顔は、それこそ細い目が見開き、白い歯を露にするほどに嗤っていた。にやにやとしか形容しようがない彼の笑みから、叔父さんは何かを悟ったらしかった。

「……なるほど、話は読めてきた。お前が父上を唆したのか、ケイレム」

「唆したなんて、随分人聞きの悪いことを言うのですね、叔父上殿」

 ライド叔父さんの鋭い視線を無視しながら、ケイレムは僕を彼から引き剝がすようにして、自分の下に引き寄せる。その動きが、まるで僕を体に取り込むような仕草に感じてしまって、どうにも怖気を抑えられなかった。

「それよりもイーサン、無事で何よりだったな。俺が口利きしてやらなければ、あの強情な父上のことだ。お前を牢に押し込めていたかもしれないぞ」

「……助かったよ。恩ができたね」

「そうだ、お前は俺に恩があるというわけだ」

 僕がどうにか絞り出した返事に、ケイレムはへばりついたような笑顔を見せつけた。

「なあ、命を助けてやったよしみで、少し頼みがあるんだよ。お前が静養している間――お前の名前を貸してくれないか?」

「名前?」

「ああ、単刀直入に言うとだな、俺は兄上……ザンダーを当主とは認めていない」

 本人に聞かれれば何を問い詰められるか分からないような暴言を、彼は平然と口にした。

「このままいけば、父上はザンダーを当主にするだろうな。勿論、俺は指をくわえて見ているつもりはない。だが、他で俺が勝っていたとしても、どうしても人望の差で劣る。誰も、本当の実力者のカリスマからは目を背けたがるものだからな」

「おめでたい頭してるねー、このバカ殿様は」

 パトリシアの悪口も耳に入らないほど、ケイレムは悦に浸っていた。

 自分の輝かしい未来を想像し、他の全ては何も目に入っていないかのようなんだ。

「そこで、だ。イーサン、お前は魔法の才能もないし、武術や学力に秀でているわけでもないが、どういうわけか召使や街の連中に好かれている。その人望を、お前がいない間、俺に貸してくれよ」

 彼は僕を見下している。それ自体はどうでもよかった。

 どうでもよくないのは、僕の名前で、仮初の意志で、何をするつもりなのかだ。

「安心しろよ、お前の名前で酷いことをするつもりはない。ただ『イーサンはケイレムを支持する』『ケイレムとイーサンは友好な関係にある』ってアピールするだけさ。馬鹿な民衆や使用人はそれだけで、俺を支持してくれるだろうよ」

 馬鹿。僕に優しくしてくれた人々を、彼は馬鹿といったのか。

 騙してどうするつもりなんだ。欺いて何をさせるつもりなんだ。

 そう思うと、背中の怖気が、静かに熱くなってゆく。十年間生きてきた中で、前の人生ですら覚えたことのない感情が、腹の底から湧き上がる。

「戦争でも何でもやって、ザンダーを倒してセルヴィッジ家を俺が継いだあかつきには、お前を静養地から引っ張り出してやる。そして、俺の部下になる名誉を――」

 そしてもう、僕はケイレムの偽善だけの主張に耐えられなかった。

「――ケイレム、僕は確かに君に恩がある。でも、君の望みとは話が別だ」

 僕が反論した。ただのそれだけで、ケイレムの顔が醜く歪んだ。

 怒りと苛立ちをこれでもかと孕んだ表情は、今度は見間違いじゃなかったけど、僕は食い下がるわけにはいかなかった。ここで断固として、彼に言わなければならない。

「悪いけど、僕は偽りの優しさを信用しない。押し付けられた優しさを受け取らない」

 自分のことを棚に上げた言い分だと言われても、僕なんかがはっきりものを伝えてもまるで怖くないなんて言われても、それでもケイレムには意志をぶつけなきゃいけない。

「何より、全てを隠して都合のいいことだけを話す兄上の言葉を、信じられない。僕の名前を、イーサン・ホライズン・セルヴィッジの名前を、争いなんかに使わせない」

 僕は優しさを信じて生きる。誰もが優しく在れるように前へ進む。

 それら全てを否定する目的で僕を使うというのなら、それだけは許せない。

「本当に僕に頼りたいなら……僕の目を見て言ってくれ、憎しみを広げないって。この国から、街から、屋敷から、優しさを失わせないって!」

「ぐっ……!」

 僕がきっとケイレムを睨み返すと、彼はたじろいだ。

 十歳になって間もない少年の視線など意に介さないと思っていたし、精一杯の反論と抵抗のつもりだったけど、思いのほか効果はあったようだ。

 ただ、僕はケイレムと戦いたいわけではない。やめてくれという意志を伝えたかっただけなんだけど、彼は完全に僕を敵とみなしているようだ――そこはもう、仕方ない。

 そうしないと、この屋敷と街から優しさと笑顔が失われると確信していたから。

「……もういいでしょう、ケイレム様。ご主人様は、貴方の言いなりにはなりません」

 僕がじっとケイレムを見続けていると、とうとうアリス達が間に割って入った。

「静養の件はありがたくお断りさせていただきます。そして、ご主人様がおられない間に好き勝手をすることは決して許しませんし、万が一屋敷を出ることになっても、公にさせていただきます……ご主人様、こちらへ」

「イーサン君に近寄らないでよね、バカがうつったらどうするのさ」

 アリスは冷静な反論を、パトリシアは乱暴だけどはっきりとした意見をぶつけた。二人が僕を庇ってくれたおかげで、ケイレムの怒りに染まった視線がようやく僕から離れた。

「あ、ま、待てよ! 俺の好意を無下にするつもりか!?」

「諦めな。仮にお前がイーサンの名前を使って民衆を操ろうとしたって、人々はその程度の浅知恵なんてお見通しだ。すぐに化けの皮が剥がれるに決まってるっての」

 だけど、声に棘があるライド叔父さんも介入すると、いよいよケイレムは言葉を詰まらせた。多分だけど、彼は叔父さんがひどく苦手なんだと思った。

「お、叔父上殿は分かってくれるでしょう! 俺があいつを……」

「ああ、分かってるさ。お前があの子を利用して、最後には使い潰す魂胆だってな」

 僕にはライド叔父さんの顔は見えなかった。背中が僕の前にあるだけだったけど、ケイレムの狼狽えぶりから、きっと凄い顔をしているんじゃないかと察せた。

「イーサンはランカスター領で預かる。お前の父親は、俺から説得しておいてやるよ」

 その忠告を最後に、叔父さんは僕の肩を抱いて、ケイレムに背中を見せるようにして歩き出した。僕だけじゃなくて、アリス達も後ろについてくる。

「ケイレム……」

「……俺様を認めないカス共め! 必ず後悔させてやる!」

 漏れるような僕の声に、ケイレムはただ怒鳴りつけるような調子で喚いていた。

「特にイーサン! お前だけはただで済むと思うなよ、クソガキ!」

 ケイレムの暴言を背中に受ける僕の中に、もう怒りはなかった。

 ただただ、寂しさだけが心の中に残っていた。

 兄の声が聞こえなくなっても、自分の部屋に戻っても、アリス達に手を強く握ってもらっても、しばらくは胸を刺す痛みが消えなかった。



 そんなやり取りから――僕の命運を決める儀式から、十日が経った。

 僕は兄や父との決定的な隔たりを悲しむ間もなく、セルヴィッジ家の屋敷から出発する準備に追われていた。といっても、主に準備をしてくれたのはメイド達だ。

 加えて、金銭から馬車と御者、日用品、その他諸々の手配をしてくれたのはライド叔父さんだった。家から騎士を借りるのを父が許してくれなかったようで、護衛だけは付けられなかったけど、アリス達がいるのなら問題ないと思う。

 僕にできることといえば、備品に不足がないかをチェックすることくらいだった。

 ちなみに、僕がどこに行くのか、どうして行くのかの理由には緘口令が敷かれていた。魔法についても同じだったし、ケイレムとの確執についても同様だ。

 ――ところが出発当日、僕の目の前には驚きの光景が広がっていた。

「……えっと、沢山の人が集まってるね……」

 屋敷の入り口にして出口の大きな門の前には、これでもかと人が集まっていた。

 メイドに騎士、執事に使用人、料理人、果ては街の住民。どう少なく見積もっても五十、六十を上回る人々が、僕がこれから乗る馬車を囲んでいた。僕に話しかけてくるメイドもいれば、お守り代わりのナイフを渡してくれる騎士が何人もいた。

 中には『イーサン様の無事と健康を願って!商業組合』なんて旗を振り回しているおじさんまでいる。うん、ありがたいけど、顔が赤くなるくらいには恥ずかしい。

「そりゃ、表向きには諸事情があるイーサン君の静養ってだけだからね」

 隣に立つパティの言う通り、確かに世間的には長期の静養とだけ伝わっている。

 帰ってこられる保証もないので、静養と呼ぶのは少し違う気がしないでもないけど。

「うーん、なんだか騙してるような気がしないでもないなぁ……」

「いいじゃん、いいじゃん。期間は言ってないし、いつかちゃんと帰ってくればいいんだし! 胸を張って帰れるように、あたし達も頑張るよ!」

 いつのまにか荷物を馬車に括り終えたアリスが、僕の前にやってきた。

「改めて、ご説明させていただきます。ランカスター男爵がご用意してくださったのは、ここから彼の領地に向かって七日ほど進んだ先の、山奥の土地です。渓谷地帯を通り、何度か野営をするかとは思いますが、ご了承ください」

「うん、大丈夫。野営は前から興味があったし、むしろ大歓迎だよ」

「心配無用です。私達がいる限り、ご主人様に何一つ不便な思いなどはさせません」

「ついてくるのはあたし達だけだけどさ、これはいわゆる少数精鋭ってヤツ。他の連中なんていなくたって、きっちりイーサン君のお世話をするから安心してね!」

「……ありがとう」

 僕はありがとう、と言ったけど、実は出発前に一度だけ退職の自由を提言したんだ。彼女達の将来を鑑みて、無理に僕についてくる必要はないと相談すると、彼女達は笑顔で、断固として拒否した。これだけは、僕もすごくびっくりした。

『申し訳ございませんが、これがもし命令だとしても私は受け入れかねます』

『ぶっちゃけ、イーサン君の傍にいられないなら、奴隷の頃と変わらないんだよね』

 正直な思いを伝えてくれる二人には、何百回お礼を言っても足りなかった。

『ご主人様、我々は最期の一時までご主人様とお供します』

『いついかなる時も、どんな時もお仕えさせてください……なんてねっ』

 本音は、二人が残ってくれて、僕はとても嬉しかった。

「おーい、イーサン!」

 微笑むアリス達と笑顔で応える僕に、ライド叔父さんが駆け寄ってきた。

「すまないな、イーサン。兄上殿に何度か話はしたが、追放自体を取り消させることはできなかった。それに、俺とお前が合うことを原則として禁止する、なんて条件まで取り付けてきやがった」

 叔父さんの言葉に、僕は目を丸くした。追放を取り消すなんてありえないと分かっていたけど、まさかライド叔父さんと会うのを禁止するなんて、想像もつかなかった。

「会っちゃいけないって、どうして?」

「俺がお前に、何か良からぬことを何か吹き込むとでも思ってるのさ。本当なら、別荘まで俺がついて行ってやりたかったんだが……」

「気にしないで。ライド叔父さんがこれだけ準備をしてくれただけでも、凄く嬉しいよ」

「兄上殿の引き留めさえなければ、俺が野営のテクニックを教え込んでやりたかったよ。こう見えて、ミアルゴの森で二週間、裸一貫で生き延びたこともあるんだぜ?」

「えっ、本当に!?」

 ミアルゴの森といえば、ランカスター領地の最北端、危険な魔物が犇めく危険地帯だ。巷の冒険者ですら近寄らない場所で生き延びたなんて、叔父さんは本当に凄い人だな。

「おう、森の奥の手長族とも仲良くなったもんさ。それに……」

「こほん……男爵。御者が既に待っておりますので、お話はその辺りに」

 アリスが咳払いをすると、叔父さんはいつもの調子ではにかんだ。

「そうだな、道中のトラブルにだけは気をつけてな……ま、アリスとパトリシアがいれば問題はないだろ。それと、万が一困ったことがあったら、これを使え」

 そして、僕の右手を掴むと、掌に何かを握らせた。

「……これは?」

 僕の手の中にあったのは、銀色のペンダント。盾の形に獅子と一対の剣を彫り込んだそれが、叔父さんの胸元に輝くランカスター家の家紋と同じとすぐに察せた。

「ランカスター家の家紋を象ったペンダントだ。後ろには俺の名前が彫り込んである。自分一人じゃどうしようもない問題が起きた時に、きっとお前を助けてくれるよ」

 驚いた顔の僕と視線を合わせたライド叔父さんは、歯を見せて笑った。

 その笑顔は、まるで僕の傍でずっと微笑んでくれていた祖母のようだった。屈託のない、いつだって僕の憧れと尊敬であり続けた、誰よりも優しい祖母のように見えた。

 あの人の面影が重なって見えた時、僕は思わず、叔父さんに抱き着いた。

「……ライド叔父さん、僕、叔父さんと離れたくない。ずっと一緒にいたいよ」

 僕は、泣いていた。

 静かに、叔父さんの服の裾を掴んで泣いていたんだ。

 転生前はいくつだったんだとか、子供じゃあないだろうとか言われても関係ない。我儘一つで彼を引き留められるなら、人生で数少ない地団太だって踏みたかった。ごねられるのならごね続けて、叔父さんの話を聞いて、一緒に笑い続けていたかった。

 心から尊敬する人と別れるんだと思うと、向こうの世界で苦しんだ時より、魔法の力で蔑まれた時より、ずっとずっと辛い。辛いに決まってるよ。

「ははっ、今生の別れじゃないんだ。涙を流すなんて男らしくないぞ、イーサン?」

 そんな僕の頭を、叔父さんは優しく撫でてくれた。

 顔をゆっくりと上げると、叔父さんはやっぱり笑っていた。

 笑っていたけど、瞳の奥は潤んでいた。

「――俺の方から会いに行くよ。今までで一番大きなお土産と、すっぽんぽんで森の中で生き延びた武勇伝を持って行って、お前が飽きるまで話してあげるよ」

 分かっていたけど、叔父さんは僕よりずっと強い。そして、ずっと優しい。

 辛いことや悲しいことよりも、誰かの喜びと笑顔を何よりも大事にできる叔父さんの目を見て、僕はこの瞬間から心に誓った。

 ――大きくなったら、ライド叔父さんのようなカッコいい男になるって。

「お気持ちは分かりますが、お時間です。ご主人様、参りましょう」

 アリスの手の温かさを肩に感じた僕は、叔父さんの服の裾から手を離した。

 涙を袖で拭いて、しっかりとライド叔父さんを見た。男らしくないなんて笑われないように、叔父さんが安心して僕を送り出せるようにね。

「……約束だよ、叔父さん」

「ああ、約束だ」

 互いに大きく頷いて、僕は叔父さんに背を向けて馬車に乗り込んだ。

 もう、叔父さんの方を振り返らなかった。もう一度振り向いてしまうと、叔父さんから離れられないような気がした。それはきっと、僕も彼も望んでいないことだ。

 アリスとパトリシアの乗り込み、馬車のドアを閉めると、ゆっくりと動き出した。

 門がぎしり、と開く音がした。揺れと共にそこをくぐると、明るい声が響いてきた。

「イーサン様、お元気でーっ!」

「のんびりお過ごしくださいねー!」

「気が向いたら、また街に遊びに来てくだせえーっ!」

 ――追放されずに、街にいられればどれほど楽しかっただろうか。

 皆とどれだけ楽しい話ができただろうか、新しい知識を得て、皆の為に生きることができただろうか。そう考えると、今更ながら追放の重みを心で感じられた。

「……戻って来られるといいな。屋敷でなくても、街にも……少しだけ、寂しいな」

 小さくため息をついた僕を、メイド達は見逃さなかった。

「ご主人様、どうぞこちらへ。パトリシアも来なさい」

「はいはーい」

 僕の向かい側に座っていた二人が、僕を挟むようにしてこちら側に座り込んできた。

 辛さを察してくれたのは、ちょっぴり恥ずかしいけど嬉しかった。すごくいい匂いがするのも、温かさに包まれるのも嬉しいんだけど、この慰め方はいろいろと問題がある。

 僕だって、一応は男性だ。美人二人に密着されて、ドギマギしないはずがない。

「……あの、二人とも……気持ちは凄く嬉しいんだけど、こう、密着する以外のやり方で元気づけてくれるとありがたいなって……」

「体が近づけば、心も近づくのです。寄り添う心持ちこそが、癒しとなるのです」

「アリス先輩の理屈はよくわかんないけど、まー、イーサン君にくっつくのは嫌いじゃないし? むしろスキだし、あたしは大歓迎かなー!」

 だけど、ここまで言ってくれたなら、断る方が失礼だというのは分かる。

 少なくとも、僕を見て微笑んでくれる二人の美女の提案を、断る理由はないかな。

「……じゃあ、あの、お言葉に甘えて……」

「どうぞ、ご主人様。私達に、好きなだけお甘えくださいませ」

 僕がアリスの方に体を預けると、彼女が静かに頭を撫でてくれた。パトリシアも僕の膝を軽く撫でながら、明るい笑顔を見せてくれた。

 皆の声が小さくなってゆき、窓から見える街の景色が自然の風景に変わりゆく。

 そのうち、馬車に揺られていたからか、次第に瞼が下りてきた。

 二人の静かな子守歌が聞こえてくると、僕の意識はまどろみの中に沈んでいった。