ヒカルの恋人は、料理が趣味に入るかと聞かれれば、迷わず首を縦に振る。有難い事に普段は「腹減ったか?」と聞いてきて、肯定すれば何かしら作ってくれる。そんな男がヒカルに飯を作れと言ってくるのは珍しい事だった。何かあったのだろうか。出かける予定が潰れて機嫌が悪いだろうか。それともお気に入りの観葉植物が萎れていたからか。もしかしたら自分がサボっていたのがバレていたのかもしれない。彼が怒る事といえばほとんどは自分がやらかした事だし、また気付かないうちに怒らせたんだろう。ここは大人しく言う事を聞いた方がいい。
 冷蔵庫の真ん中の抽斗からパック詰めにされた野菜群を取り出す。キャベツ、人参、ピーマン。どれもすぐ使えるようにと紅葉がカットしておいた物だ。あとは醤油味の袋麺と、冷凍された豚肉、いつもの具材でいいだろう。何か別の具材の追加も一瞬考えたが、自分と言う人間は単身で少しでも背伸びをすると大体失敗するのでやめておく。
 湯を沸かして乾麺を放り込み、茹でている間に野菜を炒める。熱を持った胡麻油の香りに脳が刺激されたのか、腹がタイヤのスキール音のような間の抜けた主張をしてくる。一人暮らしの時期もあったので何も作れないというわけではないが、奇跡的に紅葉という恋人ができて、紆余曲折の果てにヒカルの自宅に転がり込んでくれてから料理はほとんど彼が行うになった。ヒカルが自炊する時といえば紅葉が早番か遅番の時ぐらいで滅多に無く、そういう時に作るのは大体ラーメンの類だ。簡単に作れる上に自分でちゃんと選びさえすれば野菜もそこそこ摂れる。

「ヒカルが料理してる」
「しろって言ったの紅葉さんでしょ。もうちょっと待って」

 シャワーを終えた紅葉が台所に入ってきた。さっぱりして機嫌が良くなったのか相当腹が減っていたのか、クンクンと鼻を鳴らしながらヒカルの肩に顔を寄せて手元を覗き込む姿は、人懐っこい大型犬にも見える。目の前で揺れる頭をどかし、フライパンに豚肉を入れて火が通ったら麺も放り入れる。それから粉末スープ、足りなければ他の調味料で適当に味付けすればいいだけだ。麺がベタベタにならないうちにさっとかき回して火を止める。

「カツオ節いります?」
「いる」
「青のりは?」
「いらない」

 紅葉が並べてくれた平皿に麺から盛り付けていく。片方を少し多めに。肉も多めに入れてあげよう。野菜をなるべく中央に寄せて、上からかつおぶしをかけてやれば完成。冷たい麦茶をコップに注ぎ、ダイニングテーブルに並べて自分達もコップの前に座る。ヒカルと紅葉の『頂きます』の挨拶はほぼ同時だった。箸で麺の山を崩すと中から湯気が漂ってカツオ節を揺らす。その様子を見ながら先に口をつけた目の前の恋人の反応を待つ。

「……うまい」
「よかった。まぁ不味くなるような物は入れてないので」
「……これを食ってみたかったんだ」

 ヒカルも一口と麺を運び込んだところだった。思いがけない言葉に顔を上げると、紅葉は自分の前の皿を嬉しそうに見つめている。どうしちゃったんだと思っていると、そのままの表情でこっちを向いた。顔にかかる黒髪の奥から見つめられ、味わう暇もなく麺と野菜を飲み込む。

「この前俺が予定よりも早く帰ってきた時、一人でこれ食ってただろ。俺も食いたいと思ってたんだ」
「え、それで私に昼ごはん作れって言ってきたんですか?」

 目の前の男はラーメンを頬張った顔を縦に振る。育ち盛りの子供のような食いっぷりにこっちが面白くなってきて、同時にホッとした。

「また私の事で怒ってるのかと思ってました」
「怒ってるように見えたか?」
「だって凄んでくるから」
「多分暑かったからだな。腹減ってたし。というか、自分が原因だと思うなら普段から気をつけろ」
「はぁい」

 いつものお小言が始まる気配がしたので、よい子のお返事を返して食事に意識を集中させる事にした。ヒカルにとってはいつもの、そこそこ美味しい焼きラーメン。それをさも特別な料理のように食べる姿がおかしいやら嬉しいやら、耳の周りが熱くなってきた気がするが、気の所為という事にしておこう。