藤野ヒカル

 黒目黒髪。癖毛。
 厄介な人間ばかりに好かれる。とんでもねぇ相手にガチ恋されてる姪孫(大叔父が経営する会社に就職したが本人は知らない)だが、元ヤン現オネェ(ツンデレ)とかに恋フラグが立ってたりする。
 好物はラーメン。

大宮篝火

 バツ2の金持ちイケ古稀。兄の孫娘に二十年弱片想いしてる。断じてロリコンではない。馴れ初めは自宅に姪孫(当時三歳)が遊びに来て池に転落したのを助けた時。「ありがとう大叔父ちゃま(当時四十三歳)大好き」と抱きつかれて恋の実弾けた。姪孫は貢癖を心配してる。年齢的にも血筋的にも普通に口説けないから。

空蝉葵

 ヒカルより年下。
 派手なタトゥーと複数のピアッシングが特徴の元ヤン青年。露天商。
 ヒカル以外にちゃん付けで呼ばれると不機嫌になるし場合によっては無視。

六条槿

 ある会社の課長。
 ヒカルより十歳以上年上のイケオジ。

古木紅葉

 強面の男性。
 ヒカルより年上。
 元ヤンらしい。惚れた相手にはお節介になりがち。『もみじ』と誤読されやすい。

大井賢希

 元半ぐれ清掃作業員。

柏木朱雀

 ヒカルの友人。

八宮初音

 ヒカルの友人。
 テーブルを挟んで、世界中の女性を虜にする眩しい笑顔が向けられる。狭い独身者向けアパートの中で見るには、キラキラし過ぎていて、眩暈がしそうだ。今日の夕飯は、カレーだ。本格的なスパイスを使ったカレーではなく、市販のルウで作る、じゃが芋が入った、フツーの家庭的なカレーライスだ。ヒカルの好みで、ポテトサラダと福神漬けも添えられている。ウィステリアは「このピクルス変わってて美味しいね」と言いながら、スプーンで全部ぐちゃぐちゃに混ぜて食べている。両親か祖父母に「やめなさい、行儀悪い!」と怒られそうな楽しみ方だ。

「……ウィステリア、毎日うちに食べに来るけど、私の作るのは大体日本料理でしょ。飽きない? 母国の料理食べたいんじゃないの?」
「会食やランチなんかでは、母国や他の国の料理も食べてるし。それに、ヒカルのごはん、美味しいよ」
「ああ、そう……」

 まさか、偶然入った店でお喋りしただけのイケメンが、毎日ヒカルの家に食べに来るようになるとは思わなかった。初めてウィステリアを夕食に招待したのは、もう一ヶ月前の事だ。いや、招待したと言うより『ウィステリアが強引に押しかけてきた』が正しいの経緯だが。それから毎日……仕事や付き合いで外食する時以外は、毎日ウィステリアはヒカルの家にやって来て、一緒に夕飯を食べている。

「一緒に暮らそうよ」

 一ヶ月前ウィステリアがそう言った時、ヒカルはビックリし過ぎて暫らく声も出せなかった。固まっているヒカルを見て、声を上げて笑って言う。

「返事は保留にしとこう。ちゃんと考えてね」

 片目を瞑ってウィンクした。それから一ヶ月、返事はまだしていない。ウィステリアも、特に返事を求めたりしない。キスも、あの日以来一度もしてこない。質の悪い冗談なのか、本気なのか判らない。ただ一緒にテーブルを挟んで向かい合い、食事を摂っているだけだ。なのでアレは現実だったのかさえ、判断がつかなくなってきていた。

「明日のごはんは何なの?」
「カレーうどんだよ。明後日は、カレードリア」
「えっ、何でカレーが続くの」
「日本人にとって、カレーはそういうものなの。節約のためにたっぷり作って、何日もかけて食べるんだよ」
「シュトーレンみたいだね……美味しいけど毎日……?」
「嫌なら無理に来なくてもいいよ、別に」
「毎日カレーでもいいよ!」

 ヒカルがちょっと意地悪く笑うと、ウィステリアは躰を乗り出して手を伸ばし、ヒカルの右手を包み込むようにして引くと、指輪に唇を押し当てるようにキスをした。

「……っ!」
「あー顔が真っ赤だ、ヒカル。可愛い」
「とっ、突然こういう事するのやめてよ。心臓によくない」
「じゃあ、次から言ってからするね。ヒカルちゃん、キスするよ」

 言うなり、ウィステリアは椅子から立ち上った。テーブルに片手をついて体を伸ばし、ヒカルの肩を引き寄せて口づけをした。ウィステリアはすぐに離れ、ニヤッと笑う。

「ごちそうさま。また明日ね、ヒカルちゃん」

 それだけ囁いて、あっさり帰って行った。ああいうのが、モテ男の駆け引きなのか。一瞬でインパクトを与え、躊躇いなくサッと引く。残された方は、いつまでもその余韻に引きずられてしまう。
 この調子じゃ、毎日一緒に食事をしているうちに、何だかなし崩し的に生活を共にさせられそうな気がする。そう思うと、怖いような嬉しいような、期待に震えて背筋がゾクゾクするような、何とも言えない初めての感覚をヒカルは覚えるのだった。
「そういや明日、出張で泊まりなんだよ」

 ベッドの中、ウトウトし始めた時に唐突に槿が言った。

「急ですね……」
「そうなんだよぉ! 行きたくないなぁ……明日はタコとポテトのアヒージョを作ろうと材料まで用意してたのに……」
「そうですか、ざんねんです」

 眠過ぎてあまり内容が頭に入ってこなくて、ヒカルは結構適当に返事をしてしまった。しかし、槿が「だよねぇ」と言いながら頷いたので、きっと大丈夫だったのだろう。

「しゅちょ、きをつけて……」

 そこまで言った記憶はあるのだが、その後すぐに寝てしまったのか気がつけば朝だった。目覚まし時計のアラームを三回聞いさせて、ギリギリの時間にようやく起きる。ベッドの隣はもう空っぽで、のそのそとした足取りでリビングに移動すると、ダイニングテーブルに律儀に槿からの書置きが置かれていた。

『飛行機の時間があるから先に行く、夕飯を用意できなくてごめんね』

 走り書きにしては読みやすい字なのがとても槿らしくて、ヒカルは小さく笑った。朝食は冷凍の焼きおにぎり二個とインスタントスープで済ます。久しぶりの恋人の居ないリビングで、ヒカルは口の中に醤油味のおにぎりを詰め込みながらその日の夕飯の事をぼんやりと考えた。





 仕事が終わり、家に帰ってきたのは二十時前だった。ルームウェアに着替えたヒカルは、早速キッチンに立った。いつも、夕飯を用意するのは槿だった。一緒に生活する上でのルールにそんなものは無いのだが、お前が美味いもん食べてる顔が好きでさ、なんて歯の浮くような事をサラッと言って、実際にヒカルが食べているところを見ながらニコニコしている槿が頭の中に思い浮かぶ。槿が買ったり作ったりしてくれる料理は美味しいし、いつも高級な味がした。
 赤ワインで柔らかく煮込んだ牛のすね肉、大ぶりの海老を使ったハワイ風ガーリックシュリンプ、何種類もスパイスが組み合わさったバターチキンカレー、お取り寄せした老舗の鰻……。
 そういった物を用意してくれて食べさせてくれる事はとても幸せだし、むしろ恐れ多いくらいだ。バリエーションも豊かで、飽きもこない。何より、今晩の料理はどうだと得意げにドヤ顔してくる年上の恋人が、いつもとても好ましかった。

(だけど――)

 ヒカルは、食材の棚の奥にひっそりと隠していたそれを取り出した。赤くて四角いパッケージに包まれた、オーソドックスな醤油味のインスタントラーメンだ。槿の居ない夜に、ヒカルが選んだ夕食はこれだった。栄養バランスのとれたパーフェクトな食事ばかりしているせいか、最近無性にこういうジャンキーな物が食べたくて食べたくて仕方なかったのだ。片手鍋に目分量で水を入れ、IHのスイッチを入れる。お湯が沸く間に冷蔵庫をあけ、具になりそうな物を片っ端から出していく。
 ウインナーは袋を破いてそのまま鍋に落とす。キャベツは葉っぱ二枚を手でちぎり、長ネギはキッチン鋏で適当に切り刻む。お湯が沸騰したら袋から麺を取り出しその中に沈めた。グツグツと煮立つラーメンを時たま箸でかき混ぜて、何となく感覚で時間を計り、鍋の中に付属のスープの素を溶かした。そして、トッピングとしてレンチンで作った温泉卵を落とし、更に溶けるチーズを上からたっぷりと掛けた。カロリーの上乗せに、変なスリルを感じた。結局、美味しさというのはカロリーに比例するとヒカルは思っている。
 ラーメンの入った鍋を持って、そのままリビングへ向かった。隙間に足を差し入れてドアを開け、そのままバタンと足で閉める。これも槿が居ないからできる動作だ。ダイニングテーブルには鍋敷きがなかったので、ポストから持ってきて置きっ放しになっていたパチンコのチラシの上に鍋を乗せた。
 鍋からホカホカと湯気が立つ。ラーメンの上に乗せたチーズは既に食べ頃に溶けきっていて、卵の白身も薄っすらと色を透明から白へと変わっていた。ヒカルは箸で鍋の中をかき混ぜた。黄身が割れ、とろりと中身が流れ出てチーズと共に麺に絡まっていく。ウインナーやキャベツにも。箸を鍋の下に差し入れて麺を掬い上げる。ふーふーと息を吹きかけておざなりに熱を冷ましてから、それを口に運んで一気に啜る。化学調味料の混じった醤油味に、頭の中でこれを待っていましたとファンファーレが鳴る。
 口の中の物を全て飲み込んで、ヒカルはハフッと一息ついた。湯気のせいで鼻の頭に水滴がついている。腹の中がホコホコと暖かくなっている。チーズの絡んだウインナーをかみ締めて、スープで喉の奥に流し込む。

「おいし……」

 丼ぶりを両手で持ちながら、ヒカルは思わず呟いた。槿がいないのは寂しいが、たまにはこういう夜も良い。ズルズルと残った麺を啜っていると、玄関からドアの開く音が聞こえた。思わず振り返ると、豚まんを販売している店の紙袋を提げた槿がドアを開けて現れた。ヒカルはびくりと丸まった肩を揺らした。

「ただいまー。思ったより早く商談が終わったから帰ってきちゃ……あ、ヒカルちゃん?」
「…………」
「何食べてんの?」
「……ラーメンです」

 槿はヒカルの手元を見た。

「鍋で?」

 彼のその声音に、面倒な事になったかなと密かに後悔した。

「その……洗い物とか、少ない方がいいかなと思って」
「そ、そっか」

 槿の中には、鍋から直接ラーメンを食べるという概念がなくて理解ができないのだろう。チラシを鍋敷き代わりにしていたのも見られてしまった。不自然な沈黙が二人の間に流れた。

「あ、あの。槿さん」

 ヒカルは槿に箸を差し出した。

「食べます?」
「う……うん」

 槿が頷いた。まさかイエスが返ってくるとは思っていなかったヒカルが、目を見開いて槿を見た。彼はヒカルが一回で掬う量の三分の一程の麺を掬い上げて自分の口に入れる。溶けるチーズが麺と一緒にびよーんと伸びた。

「あ、うまい……」

 槿が目を見開いた。

「美味しいですよね!」
「うん。こういうのもたまにはいいね。2929食べる?明日にする?」
「食べます」

 ヒカルは即答した。頭の中にふわふわと蒸気を放つ豚まんが思い描かれる。槿が、ヒカルの好きなドヤ顔をした。

「はは、だと思った。着替えたら蒸すよ」
「レンジで蒸せるの知ってました?」
「えっ、ほんとに?」
「これ食べ終わったら私がやりますよ」

 そう言ってスープを飲み干して、そしてふと気がついてヒカルは槿を見た。

「あ、お帰りなさい」
「ん、ただいま」

 槿がヒカルにキスして、ネギが口の中に入ったとボヤいて寝室に引っ込んで行った。
 ヒカルの恋人は、料理が趣味に入るかと聞かれれば、迷わず首を縦に振る。有難い事に普段は「腹減ったか?」と聞いてきて、肯定すれば何かしら作ってくれる。そんな男がヒカルに飯を作れと言ってくるのは珍しい事だった。何かあったのだろうか。出かける予定が潰れて機嫌が悪いだろうか。それともお気に入りの観葉植物が萎れていたからか。もしかしたら自分がサボっていたのがバレていたのかもしれない。彼が怒る事といえばほとんどは自分がやらかした事だし、また気付かないうちに怒らせたんだろう。ここは大人しく言う事を聞いた方がいい。
 冷蔵庫の真ん中の抽斗からパック詰めにされた野菜群を取り出す。キャベツ、人参、ピーマン。どれもすぐ使えるようにと紅葉がカットしておいた物だ。あとは醤油味の袋麺と、冷凍された豚肉、いつもの具材でいいだろう。何か別の具材の追加も一瞬考えたが、自分と言う人間は単身で少しでも背伸びをすると大体失敗するのでやめておく。
 湯を沸かして乾麺を放り込み、茹でている間に野菜を炒める。熱を持った胡麻油の香りに脳が刺激されたのか、腹がタイヤのスキール音のような間の抜けた主張をしてくる。一人暮らしの時期もあったので何も作れないというわけではないが、奇跡的に紅葉という恋人ができて、紆余曲折の果てにヒカルの自宅に転がり込んでくれてから料理はほとんど彼が行うになった。ヒカルが自炊する時といえば紅葉が早番か遅番の時ぐらいで滅多に無く、そういう時に作るのは大体ラーメンの類だ。簡単に作れる上に自分でちゃんと選びさえすれば野菜もそこそこ摂れる。

「ヒカルが料理してる」
「しろって言ったの紅葉さんでしょ。もうちょっと待って」

 シャワーを終えた紅葉が台所に入ってきた。さっぱりして機嫌が良くなったのか相当腹が減っていたのか、クンクンと鼻を鳴らしながらヒカルの肩に顔を寄せて手元を覗き込む姿は、人懐っこい大型犬にも見える。目の前で揺れる頭をどかし、フライパンに豚肉を入れて火が通ったら麺も放り入れる。それから粉末スープ、足りなければ他の調味料で適当に味付けすればいいだけだ。麺がベタベタにならないうちにさっとかき回して火を止める。

「カツオ節いります?」
「いる」
「青のりは?」
「いらない」

 紅葉が並べてくれた平皿に麺から盛り付けていく。片方を少し多めに。肉も多めに入れてあげよう。野菜をなるべく中央に寄せて、上からかつおぶしをかけてやれば完成。冷たい麦茶をコップに注ぎ、ダイニングテーブルに並べて自分達もコップの前に座る。ヒカルと紅葉の『頂きます』の挨拶はほぼ同時だった。箸で麺の山を崩すと中から湯気が漂ってカツオ節を揺らす。その様子を見ながら先に口をつけた目の前の恋人の反応を待つ。

「……うまい」
「よかった。まぁ不味くなるような物は入れてないので」
「……これを食ってみたかったんだ」

 ヒカルも一口と麺を運び込んだところだった。思いがけない言葉に顔を上げると、紅葉は自分の前の皿を嬉しそうに見つめている。どうしちゃったんだと思っていると、そのままの表情でこっちを向いた。顔にかかる黒髪の奥から見つめられ、味わう暇もなく麺と野菜を飲み込む。

「この前俺が予定よりも早く帰ってきた時、一人でこれ食ってただろ。俺も食いたいと思ってたんだ」
「え、それで私に昼ごはん作れって言ってきたんですか?」

 目の前の男はラーメンを頬張った顔を縦に振る。育ち盛りの子供のような食いっぷりにこっちが面白くなってきて、同時にホッとした。

「また私の事で怒ってるのかと思ってました」
「怒ってるように見えたか?」
「だって凄んでくるから」
「多分暑かったからだな。腹減ってたし。というか、自分が原因だと思うなら普段から気をつけろ」
「はぁい」

 いつものお小言が始まる気配がしたので、よい子のお返事を返して食事に意識を集中させる事にした。ヒカルにとってはいつもの、そこそこ美味しい焼きラーメン。それをさも特別な料理のように食べる姿がおかしいやら嬉しいやら、耳の周りが熱くなってきた気がするが、気の所為という事にしておこう。
 夏真っ盛りだ。この時期に差し迫った用もないのに外出するのは自殺行為に等しい。ヒカルは最近断捨離したワードロープの中で最大限に涼しい服を選んだものの、日陰のベンチにマネキンの如く座っているだけでダラダラと汗が流れ続ける今日の気温では全く無意味な事であった。

「暑い……」

 辺りが暗くなるより先に流れ始めた祭囃子に誘われて、さほど広くもない神社の参道はまともに歩けない程の人いきれだ。ヒカルはそんな人口の波に揉みくちゃにされる事を固辞した結果、道から逸れた古びたベンチに避難していた。飲み物を売る出店がそこかしこにある事と、その何処にでもヒカルが好きな物を扱っている事が救いだった。コンビニよりも更に強気な価格設定のそれは、熱をたっぷり蓄えたヒカルの躰を懸命に潤す。有り体に言えば帰りたいすぐにでも。けれどそういう訳にもいかない。一人で来ているワケがないのだから。
 ヒカルがもう数十回目ともいえる「暑い」を口に出した瞬間、人の波をすり抜けて参道を進む男の姿が見えた。色とりどりの浴衣にまみれてTシャツの上からでも判るムキムキ体系の彼は少し浮いていたが、あからさまにウキウキとしている表情だけが、そこかしこにいる中高生集団にも妙に馴染んでいた。

「ヒカルさん! じゃんけんに勝ったから ベビーカステラもう一袋貰えた! 一緒に食べよう」

 汗を滲ませてこちらに小走りで駆けてきた賢希の頭部に犬の耳が、腰の後ろにはパタパタと揺れる大きな尻尾が見えたからいよいよ熱中症になりかけている。そういえばコーヒー飲料は水分補給の手段にはならないと聞いた事があるなとヒカルはぼんやり思い出しながら適当な相槌を打った。
 手は二本しかないはずなのに、賢希の逞しい腕には複数のレジ袋がぶら下がっている。屋台で扱っているような#高__ハイ__#カロリーな食べ物と夏バテ気味の胃腸が受け付けられるか不安が脳裏を掠めたが、ニコニコとレジ袋を揺らす賢希を見ていたら食欲とは別の欲求が高まってきた。やはり、長時間熱気に晒されるのは良くないのだ。

「それ、家で食べるよ。これ以上外に居たら私死んじゃう」

 同じ姿勢で座っていた所為で立ち上がる動作もぎこちない。腰は生活する上で重要な部位である。無理するとその後に響くという事を経験則でウンザリする程に理解してはいたが、一刻も早く湧き上がった衝動をどうにかしたい気持ちに勝てない。ヒカルは一度ゆっくり腰を伸ばすと、戦利品で塞がった賢希の手に自身のそれを差し出す。賢希はごく自然な動作で右手にかけていたレジ袋をヒカルの左手へと渡した。

「いやそうじゃなくて」

 好物の焼きおにぎりだったから勘違いしたらしい。少し汗ばんだ賢希の手をぐいっと引き寄せて握る。驚きで目を見開いた賢希をよそに、ヒカルは参道に背を向けて歩き始めた。

「ヒカルさん、酔ってる?」
「飲んでないよ」
「……見られてもいいの?」
「この辺りは知り合い居ないし、誰も注目してないよ。帰ろう」
「うん」

 急いた心が語気を強める。不機嫌なわけではない事を証明するかのように、ヒカルは握っていた掌を開いて指を絡めた。更なる抗議を受けた際には、汗で滑るからとでも言い訳すれば良い。全ては憎っくき暑さの所為にして。
 やっと休憩に入れた賢希はベンチに腰を下ろして弁当用の巾着を解く。ラップに包まれているおにぎりが三つ。食べやすいようにと海苔がしっかり巻かれたそれは、いつもより大きい。一昨日おにぎりを作るグッズを買ったと聞いた気がする。朝に摂ったエネルギーが労働で消費され、空になった胃袋の虫が、ウシガエルのような鳴き声を上げる。

「いっただきまーす」

 両手を合わせて挨拶をしてから、大きく口を上げてかぶりつく。中身に辿り着かず更にもう一口、がぶり。
 口の中に広がる甘辛さは、賢希の好物である牛しぐれ煮。冷えても美味しいようにと少し濃い目に味付けされた牛肉は柔らかく煮込まれており、噛めばほろりと解けて、タレの染みた白米と絶妙に調和していた。

「うんめえ……!」

 咀嚼してゴクリと飲み下せば漏れる幸福の声を、どうしようもなく綻んでしまう口許を、誰が止められようか。自販機で買ったお茶を飲みつつ空腹に急かされてモグモグ頬張れば、表情は自然と緩々と蕩けていく。二つ目は白菜漬けの塩昆布、三つめはおかかチーズ。
 おにぎりの中身は、その日の恋人の気分と都合によって様々である。例えば焼鮭のほぐし身を混ぜ込んだり、彼女の母親が作った自家製梅干し、ケチャップライスを薄焼き卵で包んだオムライスのような物、いつだったか持たせてくれたおにぎりには半熟の味付け卵が一つそのまま仕込まれており、おにぎりを齧った途端に溢れ出た黄身に、かなり驚いた覚えがある。今回の大きいおにぎりも悪くないが、賢希としては彼女の掌に見合った俵型が好きだ。再び両手をぱんと合わせてご馳走様のご挨拶。

「ごちそうさまでした」

 愛する人が作った料理で満たされた胃袋が心地良く、退勤までまた頑張れそうだ。

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