「そういや明日、出張で泊まりなんだよ」
ベッドの中、ウトウトし始めた時に唐突に槿が言った。
「急ですね……」
「そうなんだよぉ! 行きたくないなぁ……明日はタコとポテトのアヒージョを作ろうと材料まで用意してたのに……」
「そうですか、ざんねんです」
眠過ぎてあまり内容が頭に入ってこなくて、ヒカルは結構適当に返事をしてしまった。しかし、槿が「だよねぇ」と言いながら頷いたので、きっと大丈夫だったのだろう。
「しゅちょ、きをつけて……」
そこまで言った記憶はあるのだが、その後すぐに寝てしまったのか気がつけば朝だった。目覚まし時計のアラームを三回聞いさせて、ギリギリの時間にようやく起きる。ベッドの隣はもう空っぽで、のそのそとした足取りでリビングに移動すると、ダイニングテーブルに律儀に槿からの書置きが置かれていた。
『飛行機の時間があるから先に行く、夕飯を用意できなくてごめんね』
走り書きにしては読みやすい字なのがとても槿らしくて、ヒカルは小さく笑った。朝食は冷凍の焼きおにぎり二個とインスタントスープで済ます。久しぶりの恋人の居ないリビングで、ヒカルは口の中に醤油味のおにぎりを詰め込みながらその日の夕飯の事をぼんやりと考えた。
仕事が終わり、家に帰ってきたのは二十時前だった。ルームウェアに着替えたヒカルは、早速キッチンに立った。いつも、夕飯を用意するのは槿だった。一緒に生活する上でのルールにそんなものは無いのだが、お前が美味いもん食べてる顔が好きでさ、なんて歯の浮くような事をサラッと言って、実際にヒカルが食べているところを見ながらニコニコしている槿が頭の中に思い浮かぶ。槿が買ったり作ったりしてくれる料理は美味しいし、いつも高級な味がした。
赤ワインで柔らかく煮込んだ牛のすね肉、大ぶりの海老を使ったハワイ風ガーリックシュリンプ、何種類もスパイスが組み合わさったバターチキンカレー、お取り寄せした老舗の鰻……。
そういった物を用意してくれて食べさせてくれる事はとても幸せだし、むしろ恐れ多いくらいだ。バリエーションも豊かで、飽きもこない。何より、今晩の料理はどうだと得意げにドヤ顔してくる年上の恋人が、いつもとても好ましかった。
(だけど――)
ヒカルは、食材の棚の奥にひっそりと隠していたそれを取り出した。赤くて四角いパッケージに包まれた、オーソドックスな醤油味のインスタントラーメンだ。槿の居ない夜に、ヒカルが選んだ夕食はこれだった。栄養バランスのとれたパーフェクトな食事ばかりしているせいか、最近無性にこういうジャンキーな物が食べたくて食べたくて仕方なかったのだ。片手鍋に目分量で水を入れ、IHのスイッチを入れる。お湯が沸く間に冷蔵庫をあけ、具になりそうな物を片っ端から出していく。
ウインナーは袋を破いてそのまま鍋に落とす。キャベツは葉っぱ二枚を手でちぎり、長ネギはキッチン鋏で適当に切り刻む。お湯が沸騰したら袋から麺を取り出しその中に沈めた。グツグツと煮立つラーメンを時たま箸でかき混ぜて、何となく感覚で時間を計り、鍋の中に付属のスープの素を溶かした。そして、トッピングとしてレンチンで作った温泉卵を落とし、更に溶けるチーズを上からたっぷりと掛けた。カロリーの上乗せに、変なスリルを感じた。結局、美味しさというのはカロリーに比例するとヒカルは思っている。
ラーメンの入った鍋を持って、そのままリビングへ向かった。隙間に足を差し入れてドアを開け、そのままバタンと足で閉める。これも槿が居ないからできる動作だ。ダイニングテーブルには鍋敷きがなかったので、ポストから持ってきて置きっ放しになっていたパチンコのチラシの上に鍋を乗せた。
鍋からホカホカと湯気が立つ。ラーメンの上に乗せたチーズは既に食べ頃に溶けきっていて、卵の白身も薄っすらと色を透明から白へと変わっていた。ヒカルは箸で鍋の中をかき混ぜた。黄身が割れ、とろりと中身が流れ出てチーズと共に麺に絡まっていく。ウインナーやキャベツにも。箸を鍋の下に差し入れて麺を掬い上げる。ふーふーと息を吹きかけておざなりに熱を冷ましてから、それを口に運んで一気に啜る。化学調味料の混じった醤油味に、頭の中でこれを待っていましたとファンファーレが鳴る。
口の中の物を全て飲み込んで、ヒカルはハフッと一息ついた。湯気のせいで鼻の頭に水滴がついている。腹の中がホコホコと暖かくなっている。チーズの絡んだウインナーをかみ締めて、スープで喉の奥に流し込む。
「おいし……」
丼ぶりを両手で持ちながら、ヒカルは思わず呟いた。槿がいないのは寂しいが、たまにはこういう夜も良い。ズルズルと残った麺を啜っていると、玄関からドアの開く音が聞こえた。思わず振り返ると、豚まんを販売している店の紙袋を提げた槿がドアを開けて現れた。ヒカルはびくりと丸まった肩を揺らした。
「ただいまー。思ったより早く商談が終わったから帰ってきちゃ……あ、ヒカルちゃん?」
「…………」
「何食べてんの?」
「……ラーメンです」
槿はヒカルの手元を見た。
「鍋で?」
彼のその声音に、面倒な事になったかなと密かに後悔した。
「その……洗い物とか、少ない方がいいかなと思って」
「そ、そっか」
槿の中には、鍋から直接ラーメンを食べるという概念がなくて理解ができないのだろう。チラシを鍋敷き代わりにしていたのも見られてしまった。不自然な沈黙が二人の間に流れた。
「あ、あの。槿さん」
ヒカルは槿に箸を差し出した。
「食べます?」
「う……うん」
槿が頷いた。まさかイエスが返ってくるとは思っていなかったヒカルが、目を見開いて槿を見た。彼はヒカルが一回で掬う量の三分の一程の麺を掬い上げて自分の口に入れる。溶けるチーズが麺と一緒にびよーんと伸びた。
「あ、うまい……」
槿が目を見開いた。
「美味しいですよね!」
「うん。こういうのもたまにはいいね。2929食べる?明日にする?」
「食べます」
ヒカルは即答した。頭の中にふわふわと蒸気を放つ豚まんが思い描かれる。槿が、ヒカルの好きなドヤ顔をした。
「はは、だと思った。着替えたら蒸すよ」
「レンジで蒸せるの知ってました?」
「えっ、ほんとに?」
「これ食べ終わったら私がやりますよ」
そう言ってスープを飲み干して、そしてふと気がついてヒカルは槿を見た。
「あ、お帰りなさい」
「ん、ただいま」
槿がヒカルにキスして、ネギが口の中に入ったとボヤいて寝室に引っ込んで行った。
ベッドの中、ウトウトし始めた時に唐突に槿が言った。
「急ですね……」
「そうなんだよぉ! 行きたくないなぁ……明日はタコとポテトのアヒージョを作ろうと材料まで用意してたのに……」
「そうですか、ざんねんです」
眠過ぎてあまり内容が頭に入ってこなくて、ヒカルは結構適当に返事をしてしまった。しかし、槿が「だよねぇ」と言いながら頷いたので、きっと大丈夫だったのだろう。
「しゅちょ、きをつけて……」
そこまで言った記憶はあるのだが、その後すぐに寝てしまったのか気がつけば朝だった。目覚まし時計のアラームを三回聞いさせて、ギリギリの時間にようやく起きる。ベッドの隣はもう空っぽで、のそのそとした足取りでリビングに移動すると、ダイニングテーブルに律儀に槿からの書置きが置かれていた。
『飛行機の時間があるから先に行く、夕飯を用意できなくてごめんね』
走り書きにしては読みやすい字なのがとても槿らしくて、ヒカルは小さく笑った。朝食は冷凍の焼きおにぎり二個とインスタントスープで済ます。久しぶりの恋人の居ないリビングで、ヒカルは口の中に醤油味のおにぎりを詰め込みながらその日の夕飯の事をぼんやりと考えた。
仕事が終わり、家に帰ってきたのは二十時前だった。ルームウェアに着替えたヒカルは、早速キッチンに立った。いつも、夕飯を用意するのは槿だった。一緒に生活する上でのルールにそんなものは無いのだが、お前が美味いもん食べてる顔が好きでさ、なんて歯の浮くような事をサラッと言って、実際にヒカルが食べているところを見ながらニコニコしている槿が頭の中に思い浮かぶ。槿が買ったり作ったりしてくれる料理は美味しいし、いつも高級な味がした。
赤ワインで柔らかく煮込んだ牛のすね肉、大ぶりの海老を使ったハワイ風ガーリックシュリンプ、何種類もスパイスが組み合わさったバターチキンカレー、お取り寄せした老舗の鰻……。
そういった物を用意してくれて食べさせてくれる事はとても幸せだし、むしろ恐れ多いくらいだ。バリエーションも豊かで、飽きもこない。何より、今晩の料理はどうだと得意げにドヤ顔してくる年上の恋人が、いつもとても好ましかった。
(だけど――)
ヒカルは、食材の棚の奥にひっそりと隠していたそれを取り出した。赤くて四角いパッケージに包まれた、オーソドックスな醤油味のインスタントラーメンだ。槿の居ない夜に、ヒカルが選んだ夕食はこれだった。栄養バランスのとれたパーフェクトな食事ばかりしているせいか、最近無性にこういうジャンキーな物が食べたくて食べたくて仕方なかったのだ。片手鍋に目分量で水を入れ、IHのスイッチを入れる。お湯が沸く間に冷蔵庫をあけ、具になりそうな物を片っ端から出していく。
ウインナーは袋を破いてそのまま鍋に落とす。キャベツは葉っぱ二枚を手でちぎり、長ネギはキッチン鋏で適当に切り刻む。お湯が沸騰したら袋から麺を取り出しその中に沈めた。グツグツと煮立つラーメンを時たま箸でかき混ぜて、何となく感覚で時間を計り、鍋の中に付属のスープの素を溶かした。そして、トッピングとしてレンチンで作った温泉卵を落とし、更に溶けるチーズを上からたっぷりと掛けた。カロリーの上乗せに、変なスリルを感じた。結局、美味しさというのはカロリーに比例するとヒカルは思っている。
ラーメンの入った鍋を持って、そのままリビングへ向かった。隙間に足を差し入れてドアを開け、そのままバタンと足で閉める。これも槿が居ないからできる動作だ。ダイニングテーブルには鍋敷きがなかったので、ポストから持ってきて置きっ放しになっていたパチンコのチラシの上に鍋を乗せた。
鍋からホカホカと湯気が立つ。ラーメンの上に乗せたチーズは既に食べ頃に溶けきっていて、卵の白身も薄っすらと色を透明から白へと変わっていた。ヒカルは箸で鍋の中をかき混ぜた。黄身が割れ、とろりと中身が流れ出てチーズと共に麺に絡まっていく。ウインナーやキャベツにも。箸を鍋の下に差し入れて麺を掬い上げる。ふーふーと息を吹きかけておざなりに熱を冷ましてから、それを口に運んで一気に啜る。化学調味料の混じった醤油味に、頭の中でこれを待っていましたとファンファーレが鳴る。
口の中の物を全て飲み込んで、ヒカルはハフッと一息ついた。湯気のせいで鼻の頭に水滴がついている。腹の中がホコホコと暖かくなっている。チーズの絡んだウインナーをかみ締めて、スープで喉の奥に流し込む。
「おいし……」
丼ぶりを両手で持ちながら、ヒカルは思わず呟いた。槿がいないのは寂しいが、たまにはこういう夜も良い。ズルズルと残った麺を啜っていると、玄関からドアの開く音が聞こえた。思わず振り返ると、豚まんを販売している店の紙袋を提げた槿がドアを開けて現れた。ヒカルはびくりと丸まった肩を揺らした。
「ただいまー。思ったより早く商談が終わったから帰ってきちゃ……あ、ヒカルちゃん?」
「…………」
「何食べてんの?」
「……ラーメンです」
槿はヒカルの手元を見た。
「鍋で?」
彼のその声音に、面倒な事になったかなと密かに後悔した。
「その……洗い物とか、少ない方がいいかなと思って」
「そ、そっか」
槿の中には、鍋から直接ラーメンを食べるという概念がなくて理解ができないのだろう。チラシを鍋敷き代わりにしていたのも見られてしまった。不自然な沈黙が二人の間に流れた。
「あ、あの。槿さん」
ヒカルは槿に箸を差し出した。
「食べます?」
「う……うん」
槿が頷いた。まさかイエスが返ってくるとは思っていなかったヒカルが、目を見開いて槿を見た。彼はヒカルが一回で掬う量の三分の一程の麺を掬い上げて自分の口に入れる。溶けるチーズが麺と一緒にびよーんと伸びた。
「あ、うまい……」
槿が目を見開いた。
「美味しいですよね!」
「うん。こういうのもたまにはいいね。2929食べる?明日にする?」
「食べます」
ヒカルは即答した。頭の中にふわふわと蒸気を放つ豚まんが思い描かれる。槿が、ヒカルの好きなドヤ顔をした。
「はは、だと思った。着替えたら蒸すよ」
「レンジで蒸せるの知ってました?」
「えっ、ほんとに?」
「これ食べ終わったら私がやりますよ」
そう言ってスープを飲み干して、そしてふと気がついてヒカルは槿を見た。
「あ、お帰りなさい」
「ん、ただいま」
槿がヒカルにキスして、ネギが口の中に入ったとボヤいて寝室に引っ込んで行った。