三×××年 七月。

『里を追われたあやかしたちが、いつからか人間界で人間に混じり生活するようになったと言われておりますよね。始まりは一人の人間とあやかしが恋に落ちたなんて素敵なお話ですが、実際のところ、あやかしはいると思いますか?』

『私はいると信じています。過去には天狗と思われる黒い羽根を生やしたあやかしが空を飛んでいたという目撃情報もありますからね! いつかこの目で見る日を楽しみにしているんですよ!』

『天狗と言えば、ここ百年ほど犯罪者が増加傾向にあるのは、人間界を守護している天狗の妖力が弱まっていったせいだと言われておりますね。たしかに犯罪者の増加は無視できませんが、あやかしとの関係は本当にあるんでしょうか?』

『昔から人間は災害などの自然現象すら霊的存在のせいにしていたじゃないですかぁ。犯罪者の増加を天狗のせいにしたい誰かの思惑って可能性もありますよねぇ』

『スタジオには何名かのあやかし否定派の皆さんもいるようですが……さて、ここで質問です。ここにいる皆さんは、全員人間ですか? この番組を見ているあなたの友人や恋人は本当に人間でしょうか?』

『一気にホラーになるじゃないですかぁ! やめてくださいよぅ!』

『ですね! あはははは!』

 温度管理が常に適温になるよう設定された自室で、伊勢《いせ》鈴鹿《すずか》はペンをくるくると指先で弄びながら、なんともなしに流れるテレビ番組を眺めていた。

 一緒に住んでいる叔父と叔母は仕事で、二十時を過ぎたというのにまだ帰らない。それもいつものことと、鈴鹿はノートに目を走らせた。
 とはいえ、集中力は低下中。鈴鹿はぼんやりとしながらノートにシャープペンシルで天狗の絵を描いていく。
 絵心はまったくない。黒く短い髪で鼻がやたら長い男性の絵が出来上がった。
 黒装束をなんとなく思い出しつつ描いて、背中から羽を生やしてみた。

(こんなのが本当にいたら、画像なり動画なりが残ってるはずでしょ……)
 あやかしなんて眉唾物だ。誰も信じていないのに、夏になると幽霊やら妖怪やらその手の番組が増えるのは、歴史を紐解けば千年以上前から変わっていないという。

 鈴鹿だって、眉唾物だと言いながらまったく信じていないわけじゃない。だが、多くの人がそう思うように、見たことがないから得体の知れない恐怖があるというだけだ。
 天狗が空を飛んでいたなんて、それこそ飛行機かなにかと見間違えただけだろう。

 毎年夏になると四十度を超える猛暑のため、鈴鹿の通う高校を含めた教育機関は七月から八月末まで休みとなっている。

 鈴鹿は三年生で、本来ならば受験勉強真っ只中だが、幼稚園からエスカレーター式の私立に通っているため、形ばかりのテストがあるだけだ。
 勉強が捗るはずもなく、夏休みのほとんどを幼馴染みで同い年の大峰《おおみね》那智《なち》と、クラスメイトである天野《あまの》比子《ひこ》と、部屋でだらだらと過ごすことが多かった。

 そんなことをつらつらと考えながらペンを回していると、突然、インターフォンが鳴りひびく。

「わっ、びっくりした……」

(こんな時間に誰だろう)

 宅配便であれば、宅配ボックスに入れていくはずである。クラスメイトが家を訪ねる時間でもない。
 伊勢家は二階建ての一戸建てで庭に木々はない。玄関先は人が来ると自動的にライトが点灯するように設定されている。

 もう一度チャイムが鳴らされた。

 鈴鹿は足音を立てないように階段を下りると、インターフォンに備え付けてあるカメラで画面を確認した。

「……っ」

 またか、と重苦しいため息が漏れた。
 ここ何ヶ月か、鈴鹿は気味の悪い現象に悩まされていた。

 玄関前には、やはり人っ子一人いなかった。窓から見える玄関も庭も真っ暗なままだ。どこかに逃げたのではとカメラに写る周辺を見回すも、人の姿はない。

(うそでしょ……もう、いや……)

 最初は、近所のいたずら好きの子どもが遊びでチャイムを鳴らして逃げたのだと思っていた。だがそれが何度も続けば、恐ろしくなるというもの。
 鈴鹿は壁を背にして蹲り、耳を両手で塞いだ。
すると、家の電話がけたたましい音で鳴り響いた。

 いつもと同じだ。インターフォンが鳴らされると次に電話がかかってくる。電話に出ると「出てこい、出てこい」と女の声で繰り返されるのだ。

 得体が知れない、という意味では、あやかしと同じかもしれない。
 むしろ、鈴鹿にとってはあやかしであってほしいくらいだ。正体不明の悪意が人間の仕業だと考える方がよほど怖かった。

(だって、あやかしなんかより、人間の方がよっぽど怖いって私は知ってる)
 鈴鹿の両親は、幼い頃に通り魔に襲われ亡くなった。
 両親に恨みがあったわけじゃないらしい、ただ誰かを刺してみたかった、という理由で大切な家族の命が奪われたのだ。
 幸い鈴鹿は人のいい叔父夫婦に引き取られ、それなりに幸せに生きてはいるが、両親が殺されたという事実はいつまで経っても心の中に暗い影を落としたままだ。

 鈴鹿は急いで、隣家に住む那智に電話機能付きの通信端末──SPでメッセージを送った。
 SP端末には那智が旅行で買ったというお守りストラップがついている。悪い奴が近づいてこないからいつも持っておけ、と言ってプレゼントしてくれたのだ。

 もちろん気休めだとは思う。
 それでも縋らずにはいられない。鈴鹿はお守りをぎゅっと握りしめ、自分の肩を抱き締めながら周囲を警戒する。

「鈴鹿! 入るぞ!」

 すると、五分も経たないうちに玄関の鍵が開けられて、鈴鹿の名前を呼ぶ声がした。合い鍵で家に入ってきた那智が、玄関先から顔を覗かせる。

「大丈夫か?」

「那智ぃ……大丈夫じゃない……やっぱり、そこに誰もいなかった?」

「あぁ、いないな。周辺を確認しながら来たが、家の前は誰も通らなかった」

 ほっとしたせいで、涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。那智は宥めるように鈴鹿の肩にそっと触れて、痛々しい顔をする。

「またインターフォンと電話だろ? 今日もおじさんたち遅いんだよな……やっぱり誰かに来てもらっていた方がいいかもしれないぞ。俺がいつも一緒にいられるってわけじゃないんだから」

「うん……でも、こんな話信じてくれるかな。一人の時しか起こらないし。私も、最初は小学生のいたずらだろうって思ったもん。置いてもらってるのに、変なこと言って迷惑かけたくなくて」

 叔父夫妻は病院経営をしており、ほとんど家に帰ってこない。家に一人でいることになる鈴鹿のために家政婦でも雇うかという話も出たのだが、申し訳なくて断ってしまった。

 あのとき、甘えておけば良かったと思っても今さらだ。

「まぁ、おじさんたちは非科学的なものは信用しないってタイプだもんな……」

「私だって信じてるわけじゃないけど。悪意のある人間の仕業って思う方が怖いから、オバケだと思おうとしてるだけ」

 那智は、鈴鹿の両親が通り魔に襲われた事件を知る一人だ。
 ますます気の毒だという顔で見つめられて、言葉に詰まる。同情してほしかったわけじゃない。ただ、怖いのだ。はっきりとわからないことがなによりも怖い。

「原因をはっきりさせたいか?」

「当たり前じゃない。誰かが自分を憎んでるとか知りたくないけど、原因がわからない今の状態よりマシだから」

「人間の仕業じゃなかったら?」

「人間の仕業じゃない方がまだいい」

 鈴鹿は小さく頷きながら言った。
 この国に伝わる伝承によると、テレビ番組で放送されていたとおり、一人の人間の女性とあやかしの男性が恋に落ち、子孫を残したと言われている。

 あやかしが人間と恋ができる存在なら、さほど恐れる存在ではないのでは、と思ってしまう。まぁ自分がそう思いたいだけかもしれないが。

「俺の知り合いに、そういうの詳しい人がいる。よかったら聞いてみるか?」

「那智の知り合い? そういうのって、超常現象とか怪奇現象とか?」

「ちょっと違うが……ま、近いな。人間の仕業でなければ、その人が解決してくれるはずだ。人間の仕業だとわかったら国家警察を呼ぼう」

 那智は神妙な顔つきでそう言うと、もう寝ろといい鈴鹿をベッドに促した。
 線が細く頼りなさげな印象なのに、こういうときだけは男らしい。鈴鹿にとっては、大事な友人であり、頼れる兄のような存在でもある。

 両親が亡くなってから、鈴鹿を守るようにそばにいてくれた幼馴染みに感謝をしながら、鈴鹿はようやく眠りについたのだった。


 翌日、クラスメイトの天野比子と那智が家にやって来た。
 比子には買い物に付きあってと再三誘われていたが、最近、おかしなことが立て続けに起こるからと断っていた。

 嫌がらせの犯人が外でなにかしてきたらと考えると、外出する気になれない。比子はふてくされていたが、比子を自分の事情に巻き込むわけにはいかない。
 突然命を落とした両親の事件が頭を過り、ますます腰は重くなる。比子には、うちで遊ぶならと納得してもらった。

「すずちゃん、久しぶり~! もう、暗い顔してるなぁ。部屋にいるより、ちょっとは外に出た方が気が紛れるんじゃないの?」

 楽観的な比子の意見に苦笑を返し、先に部屋に来ていた那智と共にテーブルに参考書を広げる。

 べつのテーブルには大量の菓子と飲み物を置いていて、おそらくほとんど勉強は進まないだろうと踏んでいる。

「いただきまーす」

 想像通り、比子は菓子の前に座り、早速とばかりにばりばりとせんべいを貪った。

 比子は女性にしてはかなりの健啖家で、細い身体のどこに入っているのかと驚くほどよく食べる。テーブルに置いた菓子はほとんどが比子のためのものだ。
 本人曰く「この体は燃費が悪い」らしい。いくら食べても太らないなんて羨ましいことだ。

「で、犯人ってまだわからないの? 玄関見ても誰もいないんだっけ?」

「うん……っていうか、何度カメラを見ても誰も映ってないの。だからよけいに気味が悪くって」

「ドアを開けて外に出てみた?」
「ううん。叔父さんたちにインターフォンを確認してからじゃないと玄関に出ちゃだめって言われてるから」

「え~厳しい! ちっちゃい子どもがピンポンして、カメラに写ってないだけかもしれないじゃん! 一回外に出て見てみればすっきりするかもよ?」

 比子が言うのもわかる。だが、一人で家にいるときばかりインターフォンと電話が鳴らされるので、ドアを開ける勇気はなかった。

 せめて那智が一緒にいるときに来てくれれば、と思うのだが、図ったように一人で家にいるときばかりなのだ。

「いや……小さな子どもがこの家に何度も来る理由がないだろ? それにこの家、何台もカメラがついてるから全方位確認できるんだよ」

 那智がそう言うと、比子は納得できないような顔で唇を尖らせた。

「え~でもさ、見えないから怖いって思うんじゃない? 実は風でインターフォンが鳴ってたとか。なにか飛ばされてきたとかさ、はっきりすればなんでもないことかもしれないじゃん」

「比子の言うとおり、誰もいないのにインターフォンが鳴るって思うから怖いのかも。こういうのって本当は大した原因じゃない場合が多いもんね」

 なにかが風に飛ばされてインターフォンが鳴る。というのも偶然が続いたと考えれば可能性はゼロではない。
 電話だって本当にただのいたずら電話かもしれない。

 それを超常現象とか、誰かの悪意だと考えている方がおかしいのではないか。そう考えると、少しだけ気分も軽くなった。

「いや、用心に越したことはない。鈴鹿、インターフォンが鳴ってカメラに誰も映ってなかったら絶対に出るなよ?」

「でも……那智と一緒にいるときならいい?」

「それならいいけど。俺がいるときは不思議とないんだよなぁ」

「叔父さんたちが家にいるときもないの?」

 比子に聞かれて、頷いた。

「叔父さんたちは仕事でほとんどいないから偶然かもしれないけど、ほかにも友達が来てる今みたいな時とかはないの。なんだか常に見張られているような気がして、よけいに気持ち悪くって」

 比子は「やだぁ、怖い」と言いながらも、さほど言葉に重みはなく、十枚以上のクッキーを両手に持ち次々と減らしていった。比子のこういう適当さに救われる気がする。

「そういえば話は変わるけど。那智さぁ、今年は里帰りしないの? 去年までは夏休みは毎年本家だかなんだかに行ってたよね」

 那智はちらりと鈴鹿を見てから、視線を比子に戻して答える。
 たしかに去年も一昨年も、那智は夏休みの間中、家には戻っていなかった。
 よく知らないが、那智の家は大きな家の分家らしくいろいろと用事を言いつけられるとか。本家とか分家とかたいそうな話だなと、平々凡々な育ちの鈴鹿は思う。

「今年はこっちでやる大事な用ができたからな。帰省するつもりはない」

「大事な用って?」

 比子が聞くが、那智は曖昧に笑って言葉を濁した。

「ちょっとな」

 そう言って那智は、ふたたび鈴鹿を見つめた。
 なんだろうと首を傾げていると、なんでもないと微笑まれる。その笑みが、妙に意味深で気になった。

「え~なんか二人見つめ合っちゃって! 怪しいんですけど!」

「比子が来るとほんと騒がしいな! ほら、そろそろ勉強するぞ!」

「はぁい」

 その後、勉強を一時間ほどやり、夕方頃に二人が帰っていった。


 それから一週間後。
 那智が、見たこともないほどの美形を連れて、家にやって来た。

 二十代半ばだろうか。真っ黒の髪に、髪と同じ色の目。すらりとした長身で、この暑さで黒っぽい着流しを着ているのが非常に目立つ。

 長いまつげに縁取られた目は、真っ直ぐに鈴鹿を見つめ、鋭く細められていた。間違いなく男性だとわかるのに、見惚れてしまうほど綺麗な人だ。

(怖いくらいの美形って、こういう人のこと言うんだろうな……)

 邪魔そうに長い前髪をかき上げる仕草でさえ絵になる。思わずぽうっと見蕩れていると、男性の真横にいる那智から「おい」と呆れたように声をかけられた。

「は、初めまして!」

「えぇと、こちらは白峰《しらみね》天馬《てんま》さま……じゃなくて、天馬さん、だ。こっちは伊勢鈴鹿です」

「知ってる」

「失礼しました」

 普段ならば、天馬様ってなに、お貴族ごっこ? とでも突っ込んでいたところなのに、紹介された天馬の美貌にあてられて言葉が出てこない。

「暑いんだが……入ってもいいか?」

「あっ、すみません! 玄関先で、どうぞどうぞ! えぇと、那智……部屋に行っててくれる? お茶持っていくから」

「わかった。こちらです」