異世界戦国で侍と恋に落ちたら、巫女になって、一緒に国盗りしちゃいました♪


伊月(いつき)さんに連れられて行った地下牢は暗くジメジメしていた。
(おり)に入れられている人たちが私たちを物珍し気にジロジロ見た。

―― 正直怖い。

伊月(いつき)さんが一つの檻の前で止まり、ここだ、というように指をさした。

「あのアメコミは、あなたのですか?」

私は伊月(いつき)さんの後ろに隠れながら、牢の中の人に話しかけてみた。
内藤(ないとう)はバッと振り向いて、誰だアメコミのことを知っているのは?と言った。

―― やっぱりアメコミが分かるんだ。

伊月(いつき)さんの背中から出て、内藤(ないとう)の顔を覗き見る。普通にアジア人の顔だった。
牢獄暮らしで随分とやつれているようだったが、あの、黒く渦巻くような不気味な気の流れは変わらなかった。

「あなた、異界人ですか?」

内藤(ないとう)はそれには答えずに私をじっと睨んでいるようだった。
暗がりの中でよく分からなかったから、少し柵に近づいてみる。
その瞬間に内藤(ないとう)の顔を真正面から見た。

「あ! あなたは!」

「お前は!」

内藤(ないとう)は目を見開き、不敵な笑みを浮かべた。

「見つけたぞ! 見つけた!」

そして、柵に走り寄って、私に近寄った。
伊月(いつき)さんが私を柵から離す。
内藤(ないとう)は狂ったように、「お前を探していたんだ」と、叫び、わめいた。

「お前のせいでここに来たんだ!お前のせいだ!殺してやる!」

伊月(いつき)さんは私の顔を着物の袖で隠した。

「行こう。話しは後だ。」

伊月(いつき)さんはそのまま私とオババ様をかばい、出口へと促した。

―― 信じられない! 何で、あの男がここに?

私は震えていた。

―――

「あの男は日ノ本でお前を殺そうとした辻斬(つじぎ)りだな?」

牢を出て、オババ様が開口一番に言った。

「ど、どうして分かったんですか?」

「あの者の気は狂っておる。弱い者をいたぶり、人殺しを楽しむ種類の者の気だ。オヌシがこちらの世界に来た時に巻き込まれたのだと、カグツチの声がした。」

「でも、私と一緒にこちらの世に来たというのはおかしいです。私がここに来た時に、内藤(ないとう)はもうすでに翼竜を操る術を持っていました。」

「異界からの移動は同じ時間、同じ場所にたどり着くとは限らん。」

「私とは違う時間に違う場所に行ってしまったのですか。」

「そうかもしれぬ。」

オババ様は身震いをした。

伊月(いつき)那美(なみ)、タカオ山に帰るぞ。あのようなおぞましい気を受けてたままではかなわん。禊祓(みそぎはら)いをしたい。」

オババ様の言葉に従って、私たちはタカオ山に戻った。

「ワシは先に(みそぎ)をする。オヌシたちはここで待っていろ。」

そういうと、オババ様はタカオ神殿の裏手にある小川で(みそぎ)の儀式の準備を始めた。

思わず、はぁ、とため息をついた。
狂ったような内藤(ないとう)の顔とわめき声が脳裏に焼き付いて、気分が悪い。

那美(なみ)どの、少し休もう。」

伊月(いつき)さんは神殿の横に置いてある長椅子に私を座らせた。

「無理矢理牢に連れて行ってもらったのに、取り乱してしまってすみません。」

「いや。お陰で手がかりができた。内藤(ないとう)が異界人だと分かっただけでも、収穫は大きい。」

「私、日本で、あの男に殺されそうになったんです。でも、その瞬間、桜の木のうろに落ちて。気がついたらこの世界に来ていました。」

「怖い思いをしたな。だが、あの者は牢の中だ。那美(なみ)どのに危害を加えることは、もうない。」

「はい、ありがとうございます。」

伊月(いつき)さんが私の背中をさすってくれて、気持ちが落ち着いてくる。

「あの者の処刑は死刑と生田(いくた)から沙汰(さた)が出て、もう決まっておる。生田(いくた)としては、内藤(ないとう)が暗殺のことを話す前にサッサと殺したいのだ。」

「そうなんですね。」

「のらりくらりとまだ生かしているのは、私のためだ。生田(いくた)黒田(くろだ)が私を暗殺しようとした生きた証拠だからだ。だが、もし那美(なみ)どのがあの男を許せぬのなら、すぐにでも死刑に処してもかまわん。」

「私はあの男が何人もの人を無差別に殺したのを見ました。何の理由もなく、ただそこにいたというだけで。道を歩いていただけで殺されちゃったんです。それに加えて、こっちの世界でも女の人をかどわかしていたなんて、悪魔の所業です。とても許せません。でも、だからこそ、利用できるうちは利用して、伊月(いつき)さんのために使って下さい。」

伊月(いつき)さんは私の手を握って、空を見上げた。

「私にもあの者のような黒い気が流れておるのか?」

「え?」

「私も沢山の人の命を奪った。そなたも見たはずだ。」

伊月(いつき)さんの気には、内藤(ないとう)のような黒く渦巻いたような気は全くありません。」

私はもう片方の手を伊月(いつき)さんの手に重ねた。

―― きっとこの人は苦しんでいるんだ。

伊月(いつき)さん…。」

私は何と言っていいかわからなかった。
ただ、私も伊月(いつき)さんと一緒に空を見上げた。
秋の気配がにじむ晴れた空だった。

伊月(いつき)那美(なみ)。」

オババ様の声がして振り向いた。

「お前たちも(みそぎ)をしたほうが良い。那美(なみ)から、来い。」

「はい。」

私は(みそぎ)用の白い着物に着替えた。
オババ様がオオヌサで私を(はら)ってくれる。
オババ様に言われたとおりに玉櫛(たまぐし)を持ってそのまま小川の水に入り、肩まで浸かる。

―― 冷たい。

でもその冷たさが、私の脳裏に焼き付いた内藤(ないとう)の声と気持ち悪い形相と、体にまとわりついた薄暗い気を優しく包み込み、川下に流して行った。
ビックリするくらい気持ちがスッキリした。

(みそぎ)ってすごいですね!」

「当たり前じゃ。ほれ、着替えて来い。次は伊月(いつき)じゃ。」

「ありがとうございます!」

体を拭いて着替えると、いよいよ心が晴れてきた。
禊祓(みそぎはら)いをしてもらってスッキリさっぱりした伊月(いつき)さんと私は、オババ様の屋敷で夕凪(ゆうなぎ)ちゃんが淹れてくれたお茶をすする。

「さて、内藤(ないとう)のことはこれからまた取り調べでわかることも増えると思うが、次は()の国じゃな。」

オババ様が私の作ったきなこ餅を頬張りながら切り出す。

()の国情は思ったよりも悪く、民が飢えています。国内だけでは租税が取れず、近々伊の南部を攻めにやってくるでしょう。」

オババ様と伊月さんが何やら難しそうな話しをする中、私もきなこ餅を頬張った。
二人の会話を聞いていて分かったことは、伊月(いつき)さんは各地で色んな伝手(つて)を利用して、情報収集を行っているということだった。
()の北には伊月(いつき)さんの叔父様が、南には源次郎(げんじろう)さんの弟が住んでいて、定期的に(しのび)を送って情報を仕入れている。
()の東側の様子は()の国境あたりにいる伊月(いつき)さんの「手の者」が見張っていて、
()の西側の様子は()湯治場(とうじば)にいる商人たちからの情報が入ってくる。
そして、今回の旅で仲間にした兵五郎(ひょうごろう)さんたちは()の中ごろ、山脈の様子を伝える役目を担った。

―― 伊月(いつき)さん、すごいな。

「まずは()岩山城(いわやまじょう)を狙っているようです。」

「うむ。岩山城(いわやま)は良い岩石が取れ、名馬の産地でもあるからな。」

岩山(いわやま)城主(じょうしゅ)だけでは手が足りませんので、きっとこちらから誰かが加勢(かせい)しに行かされるはずです。」

「誰が行かされるのか。」

「多分、島田(しまだ)どの辺りが派遣され、私はその補助として行かされるでしょう。」

島田(しまだ)はついでに()の領地を攻めとるのか。」

「きっとそれを狙うでしょう。」

話しを聞いていると、伊月(いつき)さんは魔獣征伐や、ちょっとした小競り合いなどの領地が手に入らない戦いには一人で派遣されるのだけど、今回のように新たに領地を拡大できるかもしれない戦には誰かの補佐として付けられることが多いようだ。
さらに、伊月(いつき)さんが働いて新しく得た領地も、その大将への褒美として与えられることが多々あるらしい。

―― 伊月(いつき)さん、戦に行っちゃうのかもしれないのか。

「また今回も手柄を島田(しまだ)にやるつもりか。」

「そのつもりでしたが...そろそろ家臣の我慢も限界に来ております。」

「だろうな。」

二人はそれからしばらく黙っていた。
もしかしたら伊月(いつき)さんはこれを機に()国主(こくしゅ)反旗(はんき)(ひるがえ)すのかもしれない。

―― もし、そうなったら亜国(あこく)(いくさ)になっちゃうのかな?

那美(なみ)、心配するな。どんな(いくさ)が起きようとも、タカオ山は神の領域、不可侵地(ふかしんち)じゃ。」

「…はい。」

―― でも、伊月(いつき)さんが長期間、(いくさ)に行くのはやっぱり心配だ。

私は伊月(いつき)さんの顔を見れなかった。
ようやく(こころざし)に向けて伊月(いつき)さん達が動き出すかもしれない時に心配だなんて言いたくなかった。
私はここにいて、伊月(いつき)さんの無事を祈りながら、帰ってくるのを待つことしかできない。

那美(なみ)どの、心配するな。このようなことは日常茶飯事だ。」

伊月(いつき)さんは何事もない当たり前のことのように言って、きなこ餅を頬張った。
「お、美味いな。」 なんて、言っている。
私にはいつも能天気っていうのに。

――――

伊月(いつき)さんが帰って行き、いつものように夕凪(ゆうなぎ)ちゃんと一緒に夕ご飯の準備を始める。

「ねぇねぇ、那美(なみ)ちゃん。」

夕凪(ゆうなぎ)ちゃんが、私の顔を(のぞ)き込んだ。

那美(なみ)ちゃんは知らないと思うけど、伊月(いつき)さんの軍は最強だよ。」

「え?」

「心配してるって顔にでかでかと書いてあるからさ。」

「我慢して言わなかったのに、顔に出てた?」

「え? 我慢してたの? 那美(なみ)ちゃん考えてることが顔から駄々洩れだよ。」

「うっ。」

()の領地は、今よりももっと小さかったんだ。でも、伊月(いつき)さんの軍が少しずつ領地を増やしていったようなもんだよ。北の尾谷城(おたにじょう)も、南の竹日津城(たけびつじょう)も、東の長岡城(ながおかじょう)も、みんな伊月(いつき)さんの軍が取ったんだ。ただ、戦果は全部ほかの将軍に持っていかれちゃったけどね。」

「そんなに沢山のお城を取ったんだ。」

伊月(いつき)さん、なんでいつまでも今の状態に甘んじてるんだろうね。私だったら自分が攻め落とした城は自分がもらうって主張するのに。」

「きっと伊月(いつき)さんは目の前の小さな成功を気にしてないから、そういうお城はいらないんだよ。もっと大きいものが欲しいから。」

伊月(いつき)さんはタマチ帝国全体を狙ってるから、小さなお城をくれてやってもいいんだ。
いずれば全部自分の物にするつもりだから。
だけどそうやって戦果を上げて、各地に武勇を知らしめてる。
少しずつ、でも確実に、人望を得てる。
そして、城を持てない代わりにビジネスで財を築いてる。
こっそりと、でも順調に。
何て慎重で、何て頭がいい人なんだろう。

「よくわかんないけど、とにかく、伊月(いつき)さんの軍は強いから大丈夫だよ。」

「そうだね。ありがとう、夕凪(ゆうなぎ)ちゃん。」

夕凪(ゆうなぎ)ちゃんに言われて改めて気づいた。

―― 前から思ってはいたんだけど、すごい人を好きになっちゃったんだな、私。

そういう人の(そば)にいるには、小さいことでいちいち狼狽(うろた)えてたらダメだ。
伊月(いつき)さんを信じて、デンと構えてないと。
私は気持ちを新たにして、今日も沢山ご飯を食べた。
小雪(こゆき)ちゃんが、少しモジモジしたように差し出した紙の束をそっと受け取る。

「この短期間でこれだけ書いたの? すごい!」

それは漫画部が完成させた最初のエピソードだ。

「試作を色々作ったんですが、やっぱり、那美(なみ)先生が言ってた鬼武者(おにむしゃ)の話が一番人気だったんです。夕凪(ゆうなぎ)ちゃんのご指導もあり、鬼武者(おにむしゃ)の恋愛話にしてみました。」

―― ああ、夕凪(ゆうなぎ)ちゃんが指導したら絶対ラブストーリーになるよね。

「じゃあ、読んでみるね。」

「はい!」

漫画部の子たちが見守る中、私はできたてほやほやのマンガを読んだ。

鬼武者(おにむしゃ)が魔獣討伐に行った村で、ある女の子と出会う。
大きな魔獣を次々に倒し、すごく強い鬼武者(おにむしゃ)だけど、時々は怪我もする。
その日も、魔獣の鈎爪がかすり、小さな傷を作った。
魔獣の返り血をあびて、血まみれになって戦う鬼武者(おにむしゃ)を恐れずに、その女の子は彼に近づき、傷の手当をしようとする。
鬼武者(おにむしゃ)は初めての出来事に戸惑い、邪険(じゃけん)に扱ってしまうが、その女の子に恋心を抱いてしまう。
二人は少しずつだけど会話をするようになる。
ある日その女の子が魔獣に襲われそうになり、危機一髪ということろで鬼武者(おにむしゃ)が現れて女の子をかばう!
と、いうところでこの回は終わっている。

「えーーーー! 続きが気になる! この恋が実るのか、鬼武者(おにむしゃ)面具(めんぐ)を取って素顔を見せるのか色々と気になる!!!」

「どうでしょうか?」

「いいよ! すごくいい! 何より、絵が綺麗で物語の世界にどっぷり浸かれる!」

私の反応を見て、漫画部の子たちが一斉に歓声を上げた。

「売れると思うんだけど、一旦売り始めたら、続きを書き続けなくちゃだよ。できそう?」

漫画部の子たちは一人残らず、出来ます! と声を張り上げた。

「もう版元(はんもと)には話しがついてるんですよ。 あとは那美(なみ)様の了承を頂くだけです。」

と、お(せん)さんが言う。
手際が良すぎる。

「さっすが、お(せん)さん! じゃあ、さっそくこれを版元(はんもと)に持って行きましょう!」

「わーい!」

「あ、でも! ちょっと待って下さい。もう一人だけ、了承を得たい人がいます。」

「どなたですか?」

鬼武者(おにむしゃ)さん本人です。」

「え?」

私のこの発言には皆も驚いたらしく、鬼武者(おにむしゃ)を知ってるんですか?と騒然となった。

―――

私はさっそく、伊月(いつき)さんのお屋敷に行ってみた。
いつものように源次郎(げんじろう)さんが客間に通してくれる。

(あるじ)は今、平八郎(へいはちろう)に稽古をつけております。呼んで参ります。」

「あ、いいえ。邪魔したくないので、終わるまで待ってます!」

私は源次郎(げんじろう)さんを止めた。

「稽古の様子を御覧になりますか?」

「見たいです!」

源次郎(げんじろう)さんに促されて縁側に出ると、庭の奥で対峙している平八郎(へいはちろう)さんと伊月(いつき)さんを見つけた。
平八郎(へいはつろう)さんが先竹制の薙刀(なぎなた)を持ち、伊月(いつき)さんは竹刀(しない)を持っている。
平八郎(はいはちろう)さんが薙刀(なぎなた)伊月(いつき)さんに打ちかかるけど、その長い薙刀(なぎなた)が全然伊月(いつき)さんに届かない。
すぐに間合いを詰められ、伊月(いつき)さんが竹刀(しない)で胴を打つ。

「脇があまいぞ。重心を低くしろ。」

平八郎(へいはちろう)さんの体がよろつくも、ザっと地面を踏みしめて持ち直す。

「まだまだ!」

平八郎(へいはちろう)さんはまた負けじと向かっていくけど、何度やっても結果は同じだった。

―― 伊月(いつき)さんって、本当に強いんだな。

(あるじ)は雨の日も風の日も嵐の日も、訓練を欠かしません。体は熊のようにでかいですが、速さは兎のごとしです。」

源次郎(げんじろう)さんが自慢げに言う。
他の家臣同様、源次郎(げんじろう)さんも伊月(いつき)さんの強さに心酔しているようだった。

「あ!」

平八郎(へいはちろう)さんが思い切り、伊月(いつき)さんの竹刀(しない)を打ち付けると、伊月(いつき)さんが竹刀(しない)を落とした。

「あれはわざとでございますよ。油断をさせているのです。」

と、源次郎(げんじろう)さんが小声で解説してくれる。

(あるじ)、今日こそ一本取ります! やあああ!」

伊月(いつき)さんめがけて平八郎(へいはちろう)さんが切り込んでいく。

「わぁ!」

「え?」

一瞬何の出来事だったけど、伊月(いつき)さんは腰に指していた扇子をさっと取り出し、それで平八郎(へいはちろう)さんの後頭部を打ったらしい。
その瞬間あっけに取られた平八郎(へいはちろう)さんに隙が出来て、伊月(いつき)に足を取られた平八郎(へいはちろう)さんが盛大に地面に転がってしまう。

―― うっ…痛そう!

「今日はここまでだ。」

伊月(いつき)さんがそういうと、源次郎(げんじろう)さんも私も思わずパチパチと拍手した。

(あるじ)、さすがです。」

―― ふふふ。源次郎(げんじろう)さんって伊月(いつき)さんが大好きだよね。

那美(なみ)どの、来ておったのか。」

「あ、那美(なみ)様!」

私はペコリと頭を下げると、二人はこちらに歩み寄った。

那美(なみ)様にお恥ずかしい所をお見せしました。」

平八郎(へいはちろう)さんが頭をかきながら言う。

「怪我はありませんか?」

「大丈夫です。」

「盛大にやられておったな。」

源次郎(げんじろう)さんは笑っている。

那美(なみ)どの、ちょうど良かった。少し話がある。私の部屋へ。」

私は源次郎(げんじろう)さんと平八郎(へいはちろう)さんにお辞儀をして、伊月(いつき)さんの後に続いた。

―― 伊月(いつき)さんの部屋はいつ来てもシンプルで綺麗だな。

何気なく伊月(いつき)さんの部屋を見渡して、そこで、棚にあるものを見つけた。

―― あ!

それは、伊月(いつき)さんの部屋にはまるで似合わないコン吉人形だった。
全体的に渋い感じの部屋に異様な可愛さを漂わせてコン吉人形が目立っている。
何だかちぐはぐな感じが面白いけど、大切に持っていてくれている事がとても嬉しい。

「何をニヤニヤしている?」

「あ、つい、嬉しくて。」

「嬉しい?」

「はい。コン吉人形、ちゃんと持っててくれたんですね。私も部屋に飾ってるから、本当にお揃いだなって思って。」

「そんな事で嬉しいのか…。」

それならば、と、伊月(いつき)さんが、引き出しから小さな布に包まれている何かを取り出した。

「これも見てみるか?」

「何ですか?」

伊月(いつき)さんが包みを開けると同時に覗き込む。

「え? これって!」

私は目を丸くした。
それは私が子供の時に大好きだったチョコレートのプラスチック包装だった。

「幼いそなたが私にくれた物だ。」

「こんな物、そんな布に包んで大切に取っていたんですか?」

「こんな物とは何だ。このような材質の物は尽世(つくよ)のどこを探しても見つからんかった。」

―― 探したんだ。

「あの菓子が(うま)すぎて、家臣に頼んで色々と探してもらったのだ。だが誰にも見つけられんかった。今思えば無理もないな。異界の物だったとはな。」

「私も、今でもチョコレートを無性に食べたくなる時があります。カカオさえ手に入ればなぁ。」

「かかお?」

「はい。チョコレートはカカオとお砂糖で出来てるんです。あとは、牛乳も入れたりします。」

ふむ…と伊月(いつき)さんは何か考え込んでいるようだった。

「そういえば、何か話があるって言っていましたよね?」

「ああ。内藤(ないとう)の事だ。どのようにこの世界に来たかを詳細に聞いた。」

「話したんですか?」

「ああ。同じ異界から来たそなたがこちらで優遇されていること話した。今までは、自分が異界人だと言っても誰も信じなかったそうだ。だが、私が異界人の存在を信じ、優遇していることを伝えると、ペラペラと話しおった。」

伊月(いつき)さんによると、やはりオババ様の見立て通り、内藤(ないとう)は私の異世界への移動に巻き込まれて、あの桜の木のうろに落ちたらしい。
でも、内藤(ないとう)がたどり着いたのは今よりも3年も前で、場所も()の国の北の果てで、山賊がウロウロしているような物騒な所だった。

こちらに来た時の持ち物は人を殺すための包丁とポケットに突っ込んだアメコミ一冊、財布、バタフライナイフ、という私には到底理解できない持ち物だったそうだ。

山賊に自分は魔術を使えるとうそぶいて、詐欺まがいの事をしつつ、何とか生き伸びた。
ある日、山賊がさらって来た女が欲しくなって色々と理由をつけ、儀式をするために女をくれと言った。
山賊が儀式を見守るというので、アメコミで読んだ方法をそのまま実行してみた。
すると、女の体から赤い気が出て、近くの石に宿った。

それがカムナリキだったことを内藤(ないとう)は後で知ったそうだ。

「そんな!あんな物語のやり方で出来ちゃったんですか?」

「ああ。」

「でも、あのアメコミで読んだ方法って、結構、いや、かなり、残酷でした。あんな事を女の人にしたんですか?」

「ああ。」

「ひどいです…」

「あの者はオババ様の言った通り、人殺しを愉しむ気の狂った者だ。女をいたぶり、何人も殺している。」

私はあまりの理不尽さに怒りで震えた。
伊月(いつき)さんが私の背中をさすった。

「私はただ…那美(なみ)どのが無事で、本当に良かったと思う。」

伊月(いつき)さん…」

「とにかく、内藤(ないとう)の件は、すぐに、かたがつくだろう。」

伊月(いつき)さんは私が持ってきたマンガを見つける。

「ん…?それは?」

「あ、私、この事を聞きに来たんです。 伊月(いつき)さんの了承が欲しくて。」

私は事の次第を話して、伊月(いつき)さんに小雪(こゆき)ちゃんの絵を見せた。
怒られるかな、とも思ったけど、怒られはしなかった。
ただ、(あきれ)れられた。

「まったく女人(にょにん)が好きな事はわからぬ。これのどこが楽しいのやら。」

鬼武者(おにむしゃ)って、本物だけど架空の人物っていうか、そういう曖昧(あいまい)さ加減が物語にピッタリっていうか…」

「まったく…女人(にょにん)のことはわからぬ。」

伊月(いつき)さんは眉をひそめながら絵を見ている。

「だが、架空の人物というのは言い得て妙だな。」

「え?どういう事ですか?」

「できれば私の軍が共舘(ともだて)の軍だと市中の者に知られたくないのだ。だからいつも面具(めんぐ)をつけていたら、いつの間にか鬼武者(おにむしゃ)という架空の人物ができていたのかもしれぬ。」

「知られたくないってどうして? 伊月(いつき)さんほど戦果を上げていれば普通はもっと名前を広めたいって思いますよね。」

共舘(ともだて)亜国(あこく)の将だ。」

―― そういうことか。

それはきっと伊月(いつき)さんの本当のアイデンティティーと一致しないのだろう。
本当の伊月(いつき)さん、伊国(いこく)の王子、豊藤伊月(とよふじいつき)と、亜国(あこく)の将、共舘伊月(ともだていつき)は全然違う人物なんだ。
だからと言って、自分の本当の名前を言えない。

―― だから旗指物(はたさしもの)も真っ黒なんだな。

亜国(あこく)の将に戦果を取られるのが嫌なんですか?」

「ああ。(しゃく)(さわ)るな。これから名を上げるのは伊国(いこく)豊藤(とよふじ)だ。だからそれまでは鬼武者(おにむしゃ)ってことでいい。」

伊月(いつき)さんはニッと悪だくみをする少年のような笑みを見せた。

「とにかく、漫画のことは好きにしろ。 どうせ作り話と言うのは誰が見ても明らかだからな。」

「やったぁ。ありがとうございます。小雪(こゆき)ちゃんたちもきっと喜びます。」

「ところで、那美(なみ)どの、旅が終わったら出かけるという約束を覚えているか?」

「はい。もちろんです。

「私は…」

伊月(いつき)さんは、私の肩を抱いて、そっと自分の方に引き寄せた。
体が密着して鼓動が高鳴りだす。

「そたなを…」

伊月(いつき)さんの大きな手が私の頬を包んで、上向かせる。

―― キス、される?

甘い期待に目を瞑ったその時、

(あるじ)! 失礼します!」

源次郎(げんじろう)さんの大きな声が聞こえて、障子が開く。
私も伊月(いつき)さんも同時にバッと体を離した。

「城門の東に魔獣が出たようで討伐に出向くように城の使者が伝令を寄越しました。」

「わかった。すぐに準備しろ。」

「は。」

すぐに伊月(いつき)さんは甲冑(かっちゅう)を取り出し、着替え始めたので、私もそれを手伝う。

(ほり)を呼べ。いつもの編成で行く。 平八郎(へいはちろう)は留守を頼む。」

「承知!」

伊月(いつき)さんと源次郎(げんじろう)さんはあっという間に闘争準備を整えた。
正次(まさつぐ)さんをはじめ、武装した家臣たちも庭先に集まった。

那美(なみ)どの、明日までには戻ってくる。」

「気を付けて行って下さい。待ってます。」

伊月(いつき)さんは鬼の面具(めんぐ)を付けた。
完全武装した鬼武者(おにむしゃ)姿の伊月(いつき)さんは、正直、酒呑童子(しゅてんどうじ)よりも怖い。

「皆の者、行くぞ!」

「おー!」

私は伊月(いつき)さんの後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
私はお(せん)さんと一緒に版元(はんもと)を訪ね、小雪(こゆこ)ちゃんの漫画を持ち込んだ。
版元(はんもと)の人も、試作の時からこの漫画をいたく気に入っていたようだった。

「斬新です!」

版元(はんもと)の店主は鼻息を荒くして言った。
物語を伝える方法自体も斬新だけど、物語も斬新だと言った。
町の人から恐れられる鬼武者(おにむしゃ)に、こんな優しい一面があるとなると、色々と空想が膨らみます、と言い。

「よし、まずは100部すりましょう。できるだけ武家や金持ちのお嬢さんたちに営業して、売れ残りは貸本屋においてもらいます。」

と、いうことになった。
尽世(つくよ)で木版技術が発達したのはまここ最近で、まだまだ庶民にとって本は高価な物で簡単に買えない。
その代わり、最近貸本業が賑わってきて、数も増えている。
と言っても、貸本を利用するのはほとんどが読み書きができる男性だ。

小雪(こゆき)ちゃんの漫画は女性読者をターゲットにしているので、貸本屋で借りてくれる人がいるかはわからない。

「なぁに、大丈夫ですよ。最近は那美(なみ)先生の手習い所(てなら じょ)に通う女子供(おんなこども)が増えて、本を借りる女人(にょにん)も増えてきたと言っておりました。まぁ、少しずつ始めて、様子をみましょう。」

私はライターを売って儲かったお金から、木版を作る職人さんへの代金と、版元(はんもと)への代金と、諸々の諸費用を払った。
出版が決まったことを伝えると、漫画部の皆は歓喜して、さっそく鬼武者(おにむしゃ)の話の続きを書き始めた。

―― 初期費用がかかるな。もっとライターを売らなきゃ。それから次の製品の開発もしよう。

―――

いつものように、皆が帰って誰もいなくなった手習い所(てなら じょ)を片付けて、机に腰かけた。
机の上に紙を広げ、その紙に『作りたい物リスト』と書いた。
自分の雷のカムナリキを使って色んなものを開発したいけど、
旅行に行ったりバタバタしてたから一旦落ち着いて、考えを整理したかった。
以前ライターと同時進行で開発していた護身用のスタンガンは実験が難しいのと、悪用される可能性もあるので、とりあえず放置していた。

けれど、昨日、伊月(いつき)さんから聞いた内藤(ないとう)のことを思い出す。
女をいたぶって殺してしまうのが好きなんて、許せない。
そういうやつから身を守る何かが、女性には必要だ。
スタンガンの開発も再開して進めることにする。

でも、もっと日頃の生活が便利になるような物も作りたい。
私の雷のカムナリキは電気の力なのだから、電化製品ができるはず。

「照明器具、クーラー、パソコン、携帯、電気自動車」

自分が欲しいものを書き連ねてみるけど、この中で簡単に作れそうなのは照明器具くらいだ。
他の物は電気以外にも色んな物質が必要だ。
クーラーにはコンデンサがいるし、パソコンや携帯にはCPUとか液晶とか必要で、私には無理だ。
次は照明器具を作ることにした。

―― でも、電気自動車は我ながらナイスアイディアかもしれない。

道を整備しないと使えないけど、将来を見越して作り始めてもいいかな。

「電気とはなんだ?」

「電気って言うのはですね、雷のあの、バチバチってなる気に似た・・・って、誰?」

慌てて振り向くと、凄い至近距離で、ニヤニヤしている八咫烏(やたがらす)さんがいた。

「びっくりしたじゃないですか!気配消さないで下さいよ。」

八咫烏(やたがらす)さんは驚いて心臓が止まりそうになった私をガハハと笑っている。

「すっごく、お久しぶりですね。(みやこ)以来ですね。元気でした?」

那美(なみ)に会えなかったので元気ではなかった。」

「お元気そうでなりよりです。」

「元気じゃねーって言っただろ!」

久しぶりに八咫烏(やたがらす)さんの突っ込みが聞けて嬉しくて笑ってしまう。

(みやこ)での旅では何か、オババ様に言われた仕事をしていたんですか?」

「そうだ。最近頻繁に魔獣が人間の居住地域に出るから、そのことで調べものをしていてな。山や森に住まう獣のたちの面倒を見るのも俺の管轄だからな。」

「そうなんですね。意外にも重役担ってるんですね。」

「当たり前だろう。毎日ちゃらちゃらして生きてると思ってたのか?」

「はい。」

「おい、即答するな。」

「お茶飲みますか?」

「そんな悠長なこと言ってていいのか?」

「え? どうして?」

「お前、伊月(いつき)のこと聞いてないか?あいつ今ごろ・・・。」

―――

私はタカオ山を走って降りた。
八咫烏(やたがらす)さんに教えてもらった道を駆けて、亜国(あこく)の東門の前に着いた。
暮鐘(ぼしょう)が鳴ってしまったので、門番が門を閉めようとする。

亜城(あじょう)の東に魔獣が出て、伊月(いつき)さんの隊が魔獣討伐に出発したのを見送ったのは昨日の昼過ぎだ。
今までも、ちょっとした魔獣討伐に、伊月(いつき)さんはよく呼び出されていて、その都度対応していた。
だから、私もそんなに気にしてなかったのだけど。

―― ひどい怪我だったら、どうしよう。

「あ、源次郎(げんじろう)さん!」

もうすぐで門が閉まる、という所で、源次郎(げんじろう)さんが馬を走らせてやってきた。

共舘軍(ともだてぐん)凱旋(がいせん)いたします。しばらくお待ち下さい。」

と、門番に言うと、門番たちはまた門を大きく開く。

「え? 那美(なみ)様?」

源次郎(げんじろう)さんが私に気づく。

「あのっ、八咫烏(やたがらす)さんから、伊月(いつき)さんが怪我したって聞いて。」

源次郎(げんじろう)さんは大した怪我ではありません、大丈夫ですよと言って、また来た方に馬を走らせて行った。
しばらく待っていると、人々が、誰かが魔獣討伐から凱旋(がいせん)するそうだ、とささやきあった。

―― あ、伊月(いつき)さん達の軍だ!

50人くらいの集団の中に、鎧を着た伊月(いつき)さんが黒毛に乗ってこちらに向かって来るのが見えた。
(うわさ)通り、鬼の面具(めんぐ)夜叉(やしゃ)(かぶと)を付けたまま、返り血も拭かず、真っ黒の旗指物(はたさしもの)をして市中に向かってくる。

―― ここからじゃ、見どこを怪我しているのか分からない。

遠目に伊月(いつき)さんの集団を見た町の人たちが「鬼武者だ」と言い合い、野次馬が集まって来た。
怖い物見たさ、興味半分でやって来たというのが分かる。

「おぉ、見ろ、あの、でかい魔獣を倒して来たのか!」

町の人たちが指さす方向には、足軽の人たちが魔獣の死体を車に積んで運んでいる姿がある。
とても大きな、頭が三つある狼のような魔獣だ。
それが何頭か台車に積みあがっている。

「な、那美(なみ)どの?」

伊月(いつき)さんは門を抜けるとすぐに私に気づき声をかけたので、私は思わず歩み寄った。

「大丈夫ですか?」

馬に乗ったまま歩みを止められない伊月(いつき)さんに合わせて私も早歩きする。
他にも出迎えに来ている家族の人達がそれぞれの兵士に歩み寄った。

「どうしてここへ? こんな時間に女人が一人でウロウロするものじゃないぞ。」

「でも心配で…。八咫烏(やたがらす)さんから怪我をしたって聞きました。」

伊月(いつき)さんは、はぁと溜息をはき、あの阿呆めがと言った。

「心配せずとも良い。」

その時、ザーっと雨が降り始めた。

那美(なみ)どの、濡れてしまうぞ。」

「そんなの構いません。それより怪我は…。」

「私の屋敷で待っていてくれるか?」

伊月(いつき)さんはそう言うと、私の頭をポンポンと撫でた。

「...はい。」

これ以上伊月(いつき)さんの隊の邪魔はできない。
これから伊月(いつき)さんはお城へ帰還の報告に行くはずだ。

―― とりあえず普通に乗馬できてるってことはそこまで酷い怪我じゃなさそう。

雨はすぐに土砂降りになり、野次馬たちは急いで家の中に入って行く。
私は心配な気持ちを殺して、伊月(いつき)さんの屋敷の方へ向かった。
どこからともなくサッと音がして、隣に清十郎(せいじゅうろう)さんが立った。

(あるじ)の屋敷までご一緒します。」

「ありがとうございます。私...逆に迷惑かけちゃったみたいですね。」

「そんなことはありません。(あるじ)は出迎えられて嬉しそうでしたよ。」

「そんな風には見えませんでした。」

怪我のことが心配で思わず飛び出してきてしまったけど、思えば私が来たって伊月(いつき)さんの怪我を癒せるわけじゃない。
逆にお仕事の邪魔をしちゃったみたい。
こういう時、どうしていいか分からずに、無鉄砲に行動してしまった自分が痛い。
どうするのが正解だったんだろう。
伊月(いつき)さんを見て安堵したのもあって、少し涙が出てしまった。
土砂降りだったのは幸いだった。


清十郎(せいじゅうろう)さんに付き添われて伊月(いつき)さんの屋敷に行くと、留守番をしていた平八郎(へいはちろう)さんが出迎えてくれた。

「な、那美(なみ)様、ずぶ濡れでどうしましたか!」

平八郎(へいはちろう)那美(なみ)様を頼む。(あるじ)ももうすぐ帰られる。 那美(なみ)様、私はこれで。」

清十郎(せいじゅうろう)さんがそう言ってまた雨の中に消えていった。

那美(なみ)様、中にお入り下さい。風邪をひきますよ。」

平八郎(へいはちろう)さんは、私に湯殿(ゆどの)を使うように言って手拭いを渡してくれた。
そして、伊月(いつき)さんのものらしい浴衣を手渡される。

「これしかありませんが、濡れた着物よりかはましかと思います。お風呂の後、どうぞお着替えください。」

「ありがとうございます。」

私はびしょ濡れになった自分の着物を脱いでお風呂で体をあたためた。
平八郎(へいはちろう)さんが手渡してくれた男物の浴衣(ゆかた)を手に取ると、伊月(いつき)さんのヒノキのお(こう)(かおり)がする。
大好きな匂いだ。

―― でも、で、でかい!

私は渡された浴衣に着替えようとするも、横にも縦にも大きすぎる伊月(いつき)さんの浴衣にモタモタしていた。
長さはものすごく長くおはしよりを作れば何とかなるとして、身幅が大きすぎて、二周くらい回せる。

―― そして、(そで)から手が出ない!

一人であたふたしてると、湯殿(ゆどの)の外が少し騒がしくなった。
伊月(いつき)さんたちが帰ってきたみたいだった。
すぐに伊月(いつき)さんの声がした。

那美(なみ)どの、ここにいるのか?」

私は湯殿(ゆどの)の扉を開けた。

「あの、浴衣が大きくて…。」

伊月(いつき)さんは、大きな浴衣をどうにか着ている私を見て一瞬かたまった。

「ぷっ」

伊月(いつき)さんがたまらず笑いだす。

「あははは!何だそれは。浴衣の中に埋もれておるぞ!」

「わ、笑わないで下さい!それよりも、怪我は、きゃ!」

浴衣の(すそ)を踏んでしまって、転びそうになったのを伊月(いつき)さんがキャッチしてくれる。

「怪我は打ち身だけだ。八咫烏(やたがらす)が大げさなだけだ。心配するな。」

「打ち身? 見せて下さい。どこですか?」

ここだ、と言って伊月(いつき)さんは自分の左肩の後ろを指さす。

「受け身を取った時に打っただけだ。案ずるな。それよりもちゃんと温まったのか?」

伊月(いつき)さんは自分の怪我のことなど気にもせず、私の事を心配してる。

―― 戦いから帰って来たばかりなのに、心配もさせてくれないの?

私は少し不貞腐(ふてくさ)れる。

伊月(いつき)さんだってずぶ濡れじゃないですか。早く着替えて暖かくしてください。そして、怪我を見せて下さい。本当に心配したんです。私の事なんてどうでもいいじゃないですか。」

「じゃあ、脱がせてくれ。」

「へ?」

「怪我をみるのだろう?痛くて脱衣もままならん。風呂にも入りたいし。」

―― やっぱり痛いんだ!

「わ、分かりました。」

私は伊月(いつき)さんのつけている甲冑(かっちゅう)を全て取った。
具足(ぐそく)の下の着物まで雨でぐっしょり濡れている。

「着物も脱がせてくれぬか?いやー痛くてかなわん。」

「そ、そんなに痛いんですか?」

私は伊月(いつき)さんの着物の帯の結び目をほどいた。
帯を取ると、伊月(いつき)さんの着物がはだける。

「あ、あの、座ってくれませんか? 届かなくて。」

伊月(いつき)さんは大人しく私の前に背を向けて座った。
そっと襟元(えりもと)に手をかけ、着物を脱がすと、左肩の後ろに青あざができてた。

「うっ、痛そう。結構内出血していますよ。」

言いながら伊月さんの着物を全部取った。

―― どうしよう… 体が美しすぎる…。

「あの、お風呂に浸かりますか?」

こんな時に胸がドキドキしてしまっている自分が恥ずかしい。

「そうだな。ちょっと 湯に浸かってくる。待っていてくれるか?」

「はい。じゃあ、手拭いと、新しい着物を取ってきます。」

「助かる。」

私は平八郎(へいはちろう)さんに手拭いと、伊月(いつき)さんの着替えの着物をもらいに行ったのだけど、

「浴衣が歩いているのかと思いました」と、爆笑される。

「し、仕方ないじゃないですか...」

「我が家にも女性用の着物を買いそろえなければいけませんね。」

「いや、そこもまでしなくても…。今日は、たまたまこういう事になっただけなので。」

「あの、これも、良かったら、(あるじ)に渡してもらえませんか? 打ち身用の薬です。」

「分かりました。」

私は伊月(いつき)さんの着替えと、薬箱を受け取って、湯殿(ゆどの)に戻った。

伊月(いつき)さん、手拭い、ここに置いておきますね。」

伊月(いつき)さんは私の声を聞いてお湯から上がってきた。

「いやぁ、怪我が痛くて、体を拭くのも難儀だ。」

「え? だ、だ、大丈夫ですか?」

私は思わず伊月(いつき)さんの方を見ないように背を向けた。

「那美どのが体を拭いてくれればこの上ない幸せなのだが。」

そう言いながら、私の後ろで何か、ゴソゴソしている。

「う、は、はい...。体を拭きます。」

「こっちを向け。」

伊月(いつき)さんは私の肩を掴んで振り向かせた。
伊月(いつき)さんは(ふんどし)姿で、堂々としている。

―― あ、(ふんどし)つけてたのか。少しほっとした。

「あの、伊月(いつき)さん、座ってくれないと、届きません。」

「おう。」

伊月(いつき)さんはまた私の前に背中を向けて座ったので、体を拭き始める。

―― 打ち身、痛そうだなぁ。

「前も拭いてくれるか?」

「う...は、はい。」

私は伊月(いつき)さんの前に回り込んだ。
どうしよう、ドキドキしすぎて、見れない!

「なぜ目を瞑ったまま拭いている?」

「そ、それは…秘密です!」

緊張で伊月(いつき)さんの体を拭く手が震えているのが自分でもわかった。

「あの、打ち身の手当...湿布しましょうか?薬を持ってきました。」

「ああ。頼む。」

私は伊月(いつき)さんに言われるままに、薄い布に薬をへらで伸ばして、それを肩に貼り付けた。
それを固定するのに、包帯を巻く。

「着物、着せますよ。」

「ああ。」

伊月(いつき)さんの肩にそっと着物をかぶせる。

「帯、できますか?」

「いやぁ、痛くて手がまわらぬなぁ。」

「じゃ、じゃあ、立って下さい。私がしますから。」

伊月(いつき)さんに立ってもらい、真正面に立って、襟元(えりもと)を合わせる。
でも、伊月(いつき)さんの体をまだ直視できない。

那美(なみ)どの、顔が赤いぞ。大丈夫か?」

「だ、大丈夫です!」

伊月(いつき)さんの胴まわりに手をかけて帯をまいていくと、ハグしているみたいな恰好になる。

―― 伊月(いつき)さんが怪我で大変な時に、一人でこんなドキドキしてるなんて、ダメだ。

私は自分に(かつ)を入れて、帯を絞めた。

「で、できました。」

「ありがとう。」

伊月(いつき)さんはそういうと、私をひょいっと横抱きにした。

「な、何するんですか?」

「次は那美(なみ)どのを介抱(かいほう)せねばな。その赤くなった頬をどうにかせねば。」

伊月(いつき)さんは湯殿(ゆどの)を出て私を運んでいく。

「怪我が悪くなります!痛いんでしょ?おろして下さい。」

「ちっとも痛くない。」

「む、無理しないで下さい。さっきは痛がっていたじゃないですか。」

「嘘も方便というやつだ。」

「う、うそ?」

那美(なみ)どのに世話を焼かれるのは好きだからな。」

「な、何言って!」

那美(なみ)どのの反応が可愛くてつい、な。」

「ひ、ひどいです! 心配したのに!」

伊月(いつき)さんは、すまんすまんと言ったけど、ちっともすまなさそうじゃない。
そして、そのまま私を自室に連れて行くと、そっと床におろして、私の浴衣の帯を取った。

「な、何するんですか?」

「体に合っておらん。」

「だ、だからって。」

「そなたの着物がもうすぐ届く。」

「え?」

「今日はここに泊まっていけ。この雨ではそなたを送っていくのが大変だ。清十郎(せいじゅうろう)がオババ様にここに泊まると伝えて、そなたの着替えを持ってくる。もうすぐ帰ってくるだろう。」

そういうと、伊月(いつき)さんは私の唇をチュっと奪って、私を自分の膝の上に乗せた。
伊月(いつき)さんの大きな浴衣にくるまれて、そのまま伊月(いつき)さんに抱きしめられた。

那美(なみ)どのといると落ち着くな。」

伊月(いつき)さん…。無事に帰って来てくれてよかったで… ん…。」

言い終わる前に伊月(いつき)さんがキスをした。
すぐに伊月(いつき)さんの舌が私の唇を割って入って来た。
強引に入ってきたのに、すごく優しいキスだった。
ゆっくりと、舌を絡めて、ゆっくりと口の中を蹂躙してくる。

「はぁ、んん...」

息が上がって、肩が上下しはじめた時、伊月(いつき)さんがゆっくりと唇を離した。

「そなたの着物が届いたようだ。」

「…え?」

伊月(いつき)さんが自室の障子を開けると、廊下に風呂敷包みが置いてあった。
清十郎(せいじゅうろう)さんの仕事の速さはすごい。

―――

その日は、伊月(いつき)さんのお家で夕ご飯を作って、平八郎(へいはちろう)さん、源次郎(げんじろう)さんと清十郎(せいじゅうろう)さんも含め、皆で食卓を囲んだ。

雨は夜中までふり続けたけど、朝にはすっかり晴れていた。
夏は完全にどこかに行ってしまったみたいで、風が涼しい。

その日は、伊月(いつき)さんは、朝からお城に行かなきゃいけなかったので、伊月(いつき)さんをお見送りしてからタカオ山に帰ることにした。
玄関先に立って、刀を二本指した凛々しい姿の伊月(いつき)さんをお見送りする。

―― ここで、あれ、やりたい!

私は、ある衝動にかられて、周りを見回した。
誰もいないことを確認すると、伊月(いつき)さんに近寄った。

「あの、伊月(いつき)さん!」

そして、勇気を出して自分からキスしようとした。
憧れの、行ってらっしゃいのキスをしようとしたのだ。
だけど、頑張って背伸びしたけど、背の高い伊月(いつき)さんに届かなかった。

―― う…。恥ずかしすぎる。

憧れの、行ってらっしゃいのキスは不発に終わって恥ずかしさにうつむく。

一瞬、間をおいて、私が何をしようとしていたのか理解したのか、伊月(いつき)さんはふっと笑って、身を屈めた。

「もう一度、頼む。」

「は、はい。 あの、伊月(いつき)さん…」

私はもう一度背伸びした。

「行ってらっしゃい。」

そして、伊月(いつき)さんに、チュっと口づけた。

「行ってくる。」

そう短く言って、お城に行く伊月(いつき)さんの大きな後ろ姿を見送った。


「今日の殿(との)は、いつになく苛立っておられるな。」

(ほり)は魔獣に切り込んでいく伊月(いつき)を見た。
普段あんな戦い方をされないのに、何か、苛立ちを発散させているかのような太刀筋だ。
伊月(いつき)の鬼のような戦いぶりのおかげで、魔獣の討伐は早々に終わった。

「なぜ殿(との)は、あんなにむきになっておられたのだ?」

(ほり)源次郎(げんじろう)に聞くと、那美(なみ)様のことでしょうと言う。

(あるじ)はここの所、内藤(ないとう)の事と、()の国情の調査で忙しくされておりました。那美(なみ)様も何か忙しそうにしておられ、旅から戻って以来お二人の時間がないのでございますよ。」

「そういうことか。」

「今日、久しぶりに那美(なみ)様がお見えになられて、ようやくお部屋でお二人になられたのに、そこにこの魔獣の知らせが…。」

「ああ、だからあんなにも魔獣に怒りをぶつけておいでだったのか。納得だ。」

(ほり)!」

伊月(いつき)(ほり)を呼んだ。

「はい、殿(との)。」

「今夜はここで野宿する。魔獣は倒したが、ついでに八咫烏(やたがらす)の調査にも協力する。」

「は。」

八咫烏(やたがらす)はここ最近、人の居住区によく出てくる魔獣の様子を調べているらしかった。
天幕を張り、外で皆で飯を食べていると、八咫烏(やたがらす)が飛んできた。

「この1里先に別の魔獣の巣窟を見つけた。ついでにそいつらもどうにか出来るか。」

「ああ。明日の朝一番に見に行こう。」

伊月(いつき)は短く言うとサッサと天幕に入り、寝た。

「あいつはどうしたのか?」

八咫烏(やたがらす)(ほり)に聞く。

「深刻な那美(なみ)様不足に(おちい)っておられる。旅から戻って来てからお二人の時間がないのだそうだ。」

「はっ。そんなことか。」

「しかし、おかしなものだ。殿(との)は以前ずっとあんな感じだった。那美(なみ)様と出会われる前はずっとあのように眉根をひそめておられて、私たちも特別にそれを気にしなかったものだ。」

「確かにな。那美(なみ)が変えたのだな。あの堅物不器用(かたぶつぶきよう)男を。」

八咫烏(やたがらす)はため息をつきながら、明日は少し伊月(いつき)に加勢してやるか、と思った。

――――

次の日。

源次郎(げんじろう)亜城(あじょう)の門番に魔獣討伐隊の帰還を伝えている時に、那美(なみ)がそこにいるのが見えた。
八咫烏(やたがらす)から、伊月(いつき)が怪我をしたと聞いたと、血相を変えている。

―― 八咫烏(やたがらす)もなかなかやるな。

源次郎(げんじろう)はそう思いつつも、心から心配している那美(なみ)のことを少し気の毒に思った。
源次郎(げんじろう)は隊に戻り、(ほり)に言った。

那美(なみ)様がお出迎えだ。」

「おぉ。それは良いな。」

伊月(いつき)は門を入るとすぐに那美(なみ)を見つけた。
心配そうに伊月(いつき)に駆け寄っていく那美(なみ)はいかにも健気だった。

「鬼の面具(めんぐ)を付けていても、デレデレ顔なのがわかるようだ。」

(ほり)源次郎(げんじろう)に言うと、源次郎(げんじろう)はうんうん、と(うなず)いた。
雨が降ってくると、伊月(いつき)はすぐに清十郎(せいじゅうろう)那美(なみ)を屋敷まで送って行くように言った。

源次郎(げんじろう)どの、私は那美(なみ)様を屋敷にお届けする。そのままオババ様に今夜那美(なみ)様が屋敷にお泊りになることを伝えに行く。」

そういって、清十郎(せいじゅうろう)がさっと消えた。

「聞きましたか?」

源次郎(げんじろう)が目を輝かせて(ほり)を見る。

「聞いた! しばらくは殿(との)の機嫌も直るだろうな!」

城での帰還報告を手短に終えて、家に帰ると、すっかり機嫌を直した伊月(いつき)は嬉しそうに、そしてまっさきに那美(なみ)のもとへと行った。
那美(なみ)が夕飯を作ってくれ、皆でそれを食べている間も伊月(いつき)はデレデレだった。
夕飯の後は、伊月(いつき)と二人で仲睦まじく、ずっと話しをしているらしい。
談笑する声が伊月(いつき)の部屋から聞こえてくる。

「あの(あるじ)のデレデレ顔はどうかと思いますが、那美(なみ)様がいらっしゃると飯も美味いし、主の機嫌はいいし、屋敷の中が華やぎますね。」

源次郎(げんじろう)清十郎(せいじゅうろう)に言うと、清十郎(せいじゅうろう)は笑った。

「それにしても、健全なご関係のようだな。」

「そうなのですよ。今日も那美(なみ)様の布団は客間に敷けと仰いました。どれだけ奥手なのですか。」

「大切になさりたいのだろう。」

「しかしあの、デレデレした締まりのない顔は…」

「良いではないか。しかし、それに比べ平八郎は複雑そうな顔だったな。」

「ああ、あれは旅から帰ってきてから余計にこじらせております。きっと旅の間、那美(なみ)様のことをますます慕うようになったのではないかと... 本人は自分の気持ちにもまだ気づいておらんでしょうが。」

「そうか。若いな。」

「ですね。」

「ところで、あの、(あるじ)の部屋にある面妖(めんよう)な狐の人形だが…。」

「あぁ、旅の土産物らしいですが。あれがどうかしましたか?」

夕凪(ゆうなぎ)どのに頼んで那美(なみ)様の着替えを取りに行ってもらったのだが、その時に那美(なみ)様の部屋がちらっと見えた。」

「それで?」

那美(なみ)様の部屋にも同じ人形があった。」

「え? 何でしょうかね? 何かのまじないか何かですかね。」

奇妙なことをなさる、と二人は言い合って、酒を飲んだ。
随分と涼しくなった。
山のイチョウがうっすら黄色に色づき始め、朝晩の空気が冷たい。

―― 尽世(つくよ)での生活にも結構慣れてきたな。

現代日本で生きてきた時は一人暮らしで、家族もいなくて、仕事と家との往復しかしていなかった。
ずっと孤独で、どこかモヤモヤしながら生きてきた。
でも、今は、仲間もいるし、やりがいのある仕事もあるし、恋人もできた。
尽世(つくよ)での充実ぶりがびっくりだ。

少し自分の意志と違うのは、(みかど)の参与という役職を与えられて、色々と朝廷と文章をやりとりしていること。
(みかど)の質問に答えたり、タカオ山周辺の情報を提供したり、現代日本の政治システムのことを教えたり。
紙に手書きするのは結構時間がかかる。

―― 少しだけテクノロジーが恋しい。

とはいえ、尽世(つくよ)でもテクノロジーの発達はある。
少し前に()の国で開発された木版技術のおかげで、短時間にたくさんの印刷物が作れるようになった。
その技術もますます進んでいるらしく、最近では、新聞のような瓦版(かわらばん)も町中で安く買えるようになった。

このブームにのっかって、小雪(こゆき)ちゃんを部長にする手習い所(てなら じょ)の漫画部は鬼武者(おにむしゃ)を題材に漫画を出版して、ヒットを飛ばした。
漫画を読みたいがために字を習いに来る生徒も増えて、手習い所(てなら じょ)も忙しくなった。

小雪(こゆき)ちゃんたちの成功は女でも自立して働けるという、いいお手本になり始めている。
沢山お金を稼げるようになった小雪(こゆき)ちゃんと漫画部は、その一部を手習い所(てなら じょ)に寄付してくれた。

「こんなに寄付してくれるの?」

私は渡された金子(きんす)を見てびっくりする。

「はい。それもこれも那美(なみ)先生のお陰です。紙や墨を買うのに使って下さい。」

小雪(こゆき)ちゃんも漫画部の皆も生き生きして、まさしく青春って感じで眩しい。

「紙や墨を買うにしては多すぎるよ。じゃあ、このお金、手習い所(てなら じょ)に来たいけど、月謝を払えない子たちの奨学金にしてはどうかな。」

「奨学金?」

うん、と(うなず)いて、私は奨学金のことを説明する。

「お金が全然なくても、孤児でも、ここで学べるってことですか?」

「そう。だって、誰がどんな才能を持ってるか分からないじゃない? 孤児でも、いつか、小雪(こゆき)ちゃんみたいに才能を発揮して自立する子が出てくるかも。 そういう子たちに機会を与えるためにお金を使うのはどうかな?」

「それ、やりたいです!」

私たちは話し合って、学生支援機構を立ち上げた。
小雪(こゆき)ちゃんが信頼している手習い所(てなら じょ)で算術が一番得意な(さと)ちゃんという子にその運営を任せることになった。

「私、小さい時からずっと絵を描いていたのだけど、皆に馬鹿なことやめて嫁入り修行しろってずっと言われていたんです。」

小雪(こゆき)ちゃんは、今、15歳で、この辺りでは、このくらいの年にお嫁に出されるのが普通だ。
小雪(こゆき)ちゃんにも20歳も年上の男性から縁談の話しが来ていた。
小雪(こゆき)ちゃんのうちはお父さんが戦で亡くなって、お母さんが女手一つで小雪(こゆき)ちゃんをはじめ、6人の子供を育てていた。
だから、小雪(こゆき)ちゃんが、ずっと年上の財力のある人に嫁げば、家族の暮らしは多少良くなると思っていた。

「でも、どうしても嫌だったんです。あんなオヤジの元に嫁ぐのは。いかにもエロそうだし。ちょっとくさいし。キモイし。」

歯に衣着せぬ勢いで小雪(こゆき)ちゃんが縁談相手をディスる。
しかも私が教えてしまったエロとかキモイという言葉を使いながら。

―― しかし、エロくて、くさいのか。そんな人のお嫁に行かされそうになるなんて気の毒すぎる。

「私、もっと、中性的な人が好みなんです。スラっと背が高くて、色白で、見目麗しい、そう、光源氏のような…」

―― あ、小雪(こゆき)ちゃんが乙女モードに入った。小雪(こゆき)ちゃんはアイドル顔が好きそうだな。

でも、結果的に結婚しなくても、漫画を頑張った方がずっと暮らし向きは良くなり、お母さんも納得してくれて、縁談もすっぱり断った。

「私の絵を笑ったり、しかったりしないで、色々と指導して下さったことに本当に感謝しています。」

「指導だなんて。小雪(こゆき)ちゃんの才能だよ。」

「そんなことないです。那美(なみ)先生が認めてくれなかったら、私、自分でこんな風に自分の好きなことでお金が稼げるって知りませんでした。」

「そういう風に言ってもらえたら、私もすごく嬉しい。」

「あと、那美(なみ)先生にお願いがあるんですが。 あの、『すたんがん』っていう物のことです。」

小雪(こゆき)ちゃんは私に早くスタンガンの開発をしてほしいと言った。
このところ、私は照明器具の方に力を入れていたから、スタンガンの開発の進行具合はとてもゆっくりだった。

「どうしてスタンガンが欲しいの?」

話しを聞いていると、どうやら小雪(こゆき)ちゃんが縁談を断った相手がストーカーになりつつあるみたいだ。

「この前も帰り道をつけられて、怖かったんです。一人では出歩かないようにしているんですけど。」

やっぱり、女性を守る物が必要だな。
そんな事なら、私も急がなくちゃ。

私は小雪(こゆき)ちゃんの要請を受けて、スタンガンの開発を進めた。

―――

商品化できない問題点が二つあって、一つはスタンガンが悪用される可能性があることだ。
女性を守りたくて作ったのに、男性の手に渡り、女性を誘拐するのに使われたりしたら本末転倒だ。
これについてはオババ様に色々アドバイスをもらった。

「使用者が本当に危機を感じた時にしか発動しない仕組みにするといい。そうすれば、人を害そうとする者に悪用されることはない。」

「なるほど。本当に護身のためにしか発動しないのですね。」

オババ様はそうするための術を教えてくれたが、なかなか上手く行かなかった。

「その術式を毎日練習しろ。オヌシなら習得が早いぞ。」

もう一つの問題点は、威力がどのくらいか分からないことだ。
人体実験できないから、殺してしまうほどの威力があるかもしれない。
殺してしまわない程度だったとしても、どんな反応があるのか、後遺症が残るのか、未知の部分が多い。

これについては、伊月(いつき)さんが意外なアイディアをくれた。

「人体実験か。できるぞ。」

「え?」

内藤(ないとう)だ。」

「あ。内藤丈之助(ないとうじょうのすけ)で?」

「ああ。これまで、さんざん女人(にょにん)をいたぶってきたのだ。少しは女人(にょにん)の護身のために貢献しても良かろう。」

「でも、もし、威力が強すぎて、死んでしまったら・・・。」

伊月(いつき)さんは周りを見回して、グッと顔を寄せると、小声でささやいた。

生田(いくた)黒田(くろだ)に私の暗殺を頼まれたことを、いきさつも含め詳細に手記させた。」

「え? よく書きましたね!」

牢守(ろうもり)の手腕だ。」

―― 拷問ってことかな。

「嫌な思いをさせるだろうから、そなたにはこういう事を話したくないのだが…。とにかく私たちの欲しい証拠はそろった。」

「じゃあ、内藤(ないとう)はもう、用無しってことですか。」

「ああ。」

内藤(ないとう)はどのみち死刑が決まっている死刑囚だ。だけど。
いくら内藤(ないとう)がひどいやつでも、私は人に痛みを与えるような自分があまり好きじゃない。

―― 寝つきが悪くなりそうだ。

でも、平八郎(へいはちろう)さんが山賊に殺されかけた時に伊月(いつき)さんが言ったことが脳裏によぎった。

「ためらうな。お前のためじゃない。ここにいる全員の命のためだ。」

あの言葉がまだ胸の中に残って、ずっと響いている。

「ためらうな。私のためじゃない。小雪(こゆき)ちゃんたちや、かどわかされた女性たちのためだ。」

私は思わず声に出していた。

「ん? 覚悟が出来たか?」

伊月(いつき)さんを見つめる。
この人もこういう覚悟を毎日して生きているんだ。
ここにいる守りたい全員の人たちのために自分の手を汚すことをためらわない。
ためらえば、守れないから。
それがどんなに苦しいことでも。
寝付きが悪くなるような事でも。

「覚悟ができました。」

私は色々な強度の試作品を伊月(いつき)さんに見せた。

「スタンガンの使用実験をお願いします。」

こうやって、内藤で実験したことで、沢山データが集まり、スタンガンの出力調整が上手くできた。
オババ様から習った術式も、毎日練習していたら、2週間もしないうちにできるようになった。

この練習でカムナリキを相当に消耗したけど、夕凪(ゆうなぎ)ちゃんが差し入れてくれたおにぎりと、伊月(いつき)さんに以前教わった滋養強壮の薬で何とか乗り越えた。

―――

「商品化できたよ!」

私は小雪(こゆき)ちゃんに一番にスタンガンをあげた。

「ありがとうございます!」

小雪(こゆき)ちゃんは、うっすら涙を浮かべている。
最近、縁談を断った男のストーキングがひどくなってきているみたいだった。

「いくらスタンガンを持っていても、それは心配だな。絶対一人で出歩いちゃダメだよ!」

「はい。」

私は手習い所(てなら じょ)に通う全ての生徒にスタンガンを無料提供した。
使い方を教えて、いつも肌身離さず持っているように言った。
スタンガンは娘さんたちのためにと、武家と商家の親がよく買ってくれて、また収入が増えた。

同時進行で開発した照明器具はずっと簡単に商品化できて、それも売れ行きが好調だった。
まだまだ高価な代物で、庶民には行き届かないけど、こっそり、外国へと照明器具を輸出してくれる人がいた。
伊月(いつき)さんと阿枳(あき)さんだ。
タマチ帝国の人たちに売るよりも何倍もの値段で、外国の貴族たちが買ってくれたみたいだった。
そして、また収入が増えた。

―――

こうろぎたちの声が聞こえ始めた秋晴れの朝、内藤が処刑されたことが知らされた。
城下町でも瓦版が飛び交った。
字を読める人が読めない人に内容を教えたりしていた。

「かどわかし事件の張本人、翼竜を操る魔獣使い、内藤丈之助(ないとうじょうのすけ)、斬首に処せられる。首は五手河原(ごてがわら)にて、さらし首。共舘(ともだて)将軍の調査の賜物(たまもの)。」

ひと段落、というか、自分の中で何かの踏ん切りがついた、という気がした。

紅葉も赤く燃え、稲刈りの季節になると、収穫祭やら、何やらで、町中が少し浮ついた雰囲気になっている。
オババ様も雨ごいをしてやった農村の人たちから収穫祭に呼ばれることが多くなった。

「今日も酒をたんまり飲んでくるぞ。」

オババ様は上機嫌で出かけて、酔っぱらって帰ってくる。

―― 楽しそうで何より。

()の城下町の方も、食料が豊富にあるから、心にも余裕が出来るのか、市も賑わっているし、お芝居などの遊興もさかんになった。

小雪(こゆき)ちゃん率いる漫画部はあれからもヒットを飛ばし続けている。
鬼武者(おにむしゃ)だけじゃなく、雷巫女(かみなりみこ)という名前の女スーパーヒーローの話しも人気になった。
雷を操る巫女がタマチ帝国を旅しながら空飛ぶ悪しき龍と戦う話しだ。
旅の途中では狐のあやかしと出会ったり、鬼と出会ったり、楽しいアドベンチャーが含まれている。

―― なんだかそれって私のことのような...

それでもダントツの人気作品はやっぱり、鬼武者(おにむしゃ)だった。
ラブストーリーだけじゃなくて、鬼武者(おにむしゃ)の戦いぶりも描かれているので、女性だけじゃなく男性にも人気が高まった。
そして、この秋、鬼武者(おにむしゃ)の話はお芝居になった。

「皆さん、是非、お芝居を見に来て下さい! 芝居小屋の演出家と一緒にたくさん話し合って出来たお芝居なんです!」

小雪(こゆき)ちゃんは、お(せん)さんや、お(せん)さんの旦那さんを始め、手習い所(てなら じょ)に通う子たちをお芝居に招待していた。
お芝居のチケットはけっこう高価で、皆もお芝居に行く機会なんて早々ないから、とても嬉しそうだった。

那美(なみ)先生、那美(なみ)先生は、特別公演日に、私と一緒にお芝居を見に来てほしいんです!」

小雪(こゆき)ちゃんは私に言った。
話しを聞くと、お(せん)さんたちを誘ったのとは別の日に映画の試写会みたいなのがあるみたいだ。

「一般公開前に、特別な人たちを招待しての、完成披露公演(かんせいひろうこうえん)なんです。」

「そんな特別な日に私が呼ばれてもいいの?」

「もちろんです。あと、共舘(ともだて)の将軍様も来て頂けないでしょうか?」

「え? 伊月(いつき)さんも?」

「はい。 那美(なみ)先生が共舘(ともだて)の将軍様と翼竜を倒したり、旅に出た時の話しを聞かせて下さったお陰で、雷巫女の話しもできました。まだ鬼武者(おにむしゃ)ほどではないですが、人気が出てきています。共舘(ともだて)の将軍様にも見て頂いて、何か助言を頂けると嬉しいです。」

「分かった。聞いてみるよ。でも、伊月(いつき)さんは一応、お城にお勤めのお侍さまだから、どこに行くにもご家来がついて来ちゃうよ。」

「大丈夫です。ご家来の方もご招待します。」

そのことを文で 伊月(いつき)さんに伝えると、喜んで行く、平八郎(へいはちろう)(ともな)って行く、と返事が来た。

―――

「あのう、夕凪(ゆうなぎ)ちゃん、お芝居見るのにこんなに着飾る必要ある?」

お芝居の当日、私は夕凪(ゆうなぎ)ちゃんに着つけてもらいながら、聞いた。

「当たり前でしょ。那美(なみ)ちゃん、お芝居見に行ったことある?」

尽世(つくよ)では、ない。」

完成披露公演(かんせいひろうこうえん)なんでしょ? とても特別なのよ。」

「どういう風に特別なの?」

「まずは、位の高い人たちが沢山呼ばれて、観客席もすごく豪華になるの。綺麗な女の人を(はべ)らせてる人も多いのよ。お酒が運ばれて、ゆっくり芝居鑑賞しながら、美味しい物も食べれるの。」

「すごい贅沢だね。だから伊月(いつき)さん、輿(こし)寄越(よこ)すって言ったのか。夕凪(ゆうなぎ)ちゃんはそういうの、よく行くの?」

「前はオババ様、よく呼ばれて行ってたから、付き添いで行ったの。今はオババ様、そういうの面倒くさくて行かなくなっちゃったけど。年取ったのよ。」

「まぁ、1200歳だからね。」

「だけどね、那美(なみ)ちゃん、何よりも、今日おめかしなきゃいけない最大の理由は…」

夕凪(ゆうなぎ)ちゃんの鼻息が荒くなった。

「イケメン俳優さんたちを間近で見れて、しかもその俳優さんたちとお話しする機会もあるのよ!!!」

夕凪(ゆうなぎ)ちゃんのご指導の元、伊月(いつき)さんから貰った反物で作った打掛(うちかけ)に、宿場町で貰った髪飾りを合わせた。
お化粧もしてもらって、伊月(いつき)さんが派遣してくれた送迎用の輿(こし)に乗った。
そのまま城下に行き、芝居小屋の前に行くと、小雪(こゆき)ちゃんが待っててくれた。
小雪(こゆき)ちゃんもいつもよりずっとおめかししてて、とても可愛い。
輿(こし)から降りて、小雪(こゆき)ちゃんと話していると、伊月(いつき)さんと平八郎(へいはちろう)さんも来た。

小雪(こゆき)どの。この度は芝居にご招待下さり、ありがとうございます。ほら、平八郎(へいはちろう)も礼を。」

伊月(いつき)さんが小雪(こゆき)ちゃんにお礼を言って、平八郎(へいはちろう)さんを紹介する。

平八郎(へいはちろう)と言います。(あるじ)馬廻(うままわ)りをしております。ご招待頂きありがとうございます。」

私はこの時に、小雪(こゆき)ちゃんが平八郎(へいはちろう)さんを見て、ちょっと頬を赤らめたのを見逃さなかった。
そういえば、小雪(こゆき)ちゃん、色白の中性的なイケメンが好きって言ってたな。

―― 平八郎(へいはちろう)さん、ぴったりじゃん。笑顔もエンジェルだし。年頃も近いし。

私はここで少しおせっかい心が刺激された。
そんな私を他所に、伊月(いつき)さんがそっと私の手を取った。

「行こうか。」

中にエスコートしてくれるらしい。
平八郎(へいはちろう)さんもそれを見習い、小雪(こゆき)ちゃんに手を差し伸べた。
小雪(こゆき)ちゃんは、少し、もじもじしながらその手を取った。

―― おお、若い二人がいい感じに!

「芝居を見るのがそんなに嬉しいのか?」

伊月(いつき)さんが私の顔を覗き込んだ。

「ずっとニヤニヤしているな。」

「あ、いや、もちろん芝居を見るのも嬉しいんですが…」

私は伊月(いつき)さんの耳元でこっそり、平八郎(へいはちろう)さんが小雪(こゆき)ちゃんのタイプっぽいことを告げる。

「そうか…全く気づかなかった。」

伊月(いつき)さんはそういいながら少し複雑な表情をする。

―― もしかして、平八郎(へいはちろう)さんは、小雪(こゆき)ちゃんみたいな子、タイプじゃないのかな?

二人がいい感じになればいいのになと思いつつ芝居小屋に入る。
私たちが通されたのは二階の特別席だった。

「おぉ。このように良い席で芝居を見れるなんて夢にも思いませんでした。」

平八郎(へいはちろう)さんが目を輝かせている。

「すごーい、小雪(こゆき)ちゃんのお陰だね! 嬉しい!」

私も思わずはしゃいでしまう。
そして、周りを見渡して、夕凪(ゆうなぎ)ちゃんの助言通り、おめかしして良かったと思った。
周りの人は皆、豪華な着物を着ていた。

―― こんな中、普段着で来ていたら一人だけ浮いてたな。

「ご来場の皆々様!」

人気俳優らしい人が口上(こうじょう)を始め、観客席にいる女性たちが色めき立った。

「お楽しみ下さりませ!」

わっと盛り上がった所で幕が開いてお芝居が始まる。
ストーリーはとてもシンプルで、(さら)われた女の子を悪の巣窟から鬼武者(おにむしゃ)が救い出すという内容だった。
芝居の中の鬼武者(おにむしゃ)はスタントマンもさながらの立ち回りを見せ、観客を沸かせた。
そして、(さら)われた女の子を救い出し、その子をかばいながらも悪人と戦いつつ、敵のアジトから脱出するシーンは大いに盛り上がった。

お芝居の途中で、隣の席にいた人たちが話しているのが聞こえた。

「本物の鬼武者(おにむしゃ)はあんなに女に優しいのかしら。」

「それが、この前、東門で魔獣を連れて帰ってきた鬼武者(おにむしゃ)に、いたく心配そうに女人(にょにん)が駆け寄って、鬼武者(おにむしゃ)といい感じだったらしいぞ。」

「え?本当?」

「ああ。何やら鬼武者(おにむしゃ)もその女人(にょにん)の頭を撫でたり、何とも睦まじい様子だったとか。」

「まぁ! 素敵ねぇ!」

―― う…それって…

ちらっと伊月(いつき)さんを見ると、「どこで見られているものかわからぬものだ」と小声で言った。

お芝居の最後には、女の子にせがまれて、鬼武者(おにむしゃ)はとうとう面具を外して素顔を見せた。
鬼の面具(めんぐ)を外すと、中の人物は超イケメン俳優だ。
そして、二人の口づけのシーンで終わった。
きゃーーと、観客席から黄色い声がするとともに、拍手喝采で芝居は終わった。

「いやぁ、楽しかったですね!鬼武者(おにむしゃ)の芝居!立ち回りもなかなかでした!」

小雪(こゆき)ちゃん改めてすごい! 本当におめでとう! すっごく楽しかったよ!」

私と平八郎(へいはちろう)さんがきゃあきゃあ騒いでいると、小雪(こゆき)ちゃんが頬を赤らめて嬉しいです、と言う。

「私は小雪(こゆき)様の漫画とやらを読んでみとうございます。」

平八郎(へいはちろう)さんが漫画に興味を持ったらしい。

「下の土産物屋に売っていますよ。見てみますか?」

と言って、二人で土産物屋に行った。

平八郎(へいはちろう)のやつ、護衛の仕事を忘れてすっかり舞い上がっておるな。」

伊月(いつき)さんは小さく笑った。
お芝居は終わったけれど、まだ帰る人は誰もいない。
役者さんたちは、一つずつ、観客席のブースを回って挨拶をしている。

伊月(いつき)さん、自分のことを芝居にされるのはどうですか?」

「不思議な気分だ。しかも、まさかあのような役者が鬼武者(おにむしゃ)とは…」

「ふふふ。本物の鬼武者(おにむしゃ)の方がカッコいいですけどね。」

「馬鹿を言え。」

私は伊月(いつき)さんの手をそっと握った。
伊月(いつき)さんも手を握り返してくれる。
伊月(いつき)さんは私の横髪をそっと耳にかけた。

「その髪飾り、してきてくれたのだな。その...とても...似合っている。」

「ありがとうございます。」

照れ隠しで、少しうつむくと、伊月(いつき)さんが私の頬に手を置いて、上を向かせた。

那美(なみ)どの、旅の終わりにした約束を覚えているか?」

「あの、どこかに連れていってくれるっていう?」

「ああ。ずっと忙しくて、すっかり遅くなってしまったが、あの約束を果たしたい。」

「嬉しいです。」

「その、この後、行かぬか?」

「いいんですか?」

「ああ。平八郎(へいはちろう)には小雪(こゆき)どのを送らせる。」

伊月(いつき)さんはそう言って、私の耳元に顔を近づけて、「久しぶりに二人になりたい」とささやいた。

「おい、お前らイチャついてるとこ悪いが・・・」

「きゃーーー!!」

せっかくいい雰囲気だった所に煙が出て、八咫烏(やたがらす)さんが現れた。

「な、何をしている!」

「何をしているって、俺も芝居を見ていたのだ。さっきから遠目に見ておれば公衆の面前でイチャイチャしやがって。」

「な、なぜ遠目に見ている! 見るな!」

「きゅ、急に現れるの止めて下さい!」

八咫烏(やたがらす)さんに抗議していると、スッと真顔になった八咫烏(やたがらす)さんが言う。

「ところで、最近、小雪(こゆき)の周りを変な男が嗅ぎまわってないか?」

「え? どうしてそれを?」

吉太郎(よしたろう)から聞いた。」

「縁談を破断にされた男です。ずっと小雪(こゆき)ちゃんに付きまとっているんです。」

「多分、そいつだ。今、ここに来ているぞ。」

私と伊月(いつき)さんは下階(かかい)の土産物屋に行った。
土産物屋で買い物していた客たちは、騒然とした雰囲気になっている。
中年の小太りのいかにもエロそうなキモイ男が小雪(こゆき)ちゃんにすごんでいる。

「何故だ、小雪(こゆき)。お前は私が養ってやると言っている。」

「もう付きまとわないで。縁談はずっと前にお断りしたでしょう!」

「私と一緒になれば、働かなくてもいいのだぞ!」

「働くのが好きなんです。このエロおやじ!しつこい!キモイ!」

小雪(こゆき)ちゃんも負けじと言い返す。

「キ、キモイだと…? 私のもとへ来れば、このような、絵を描くなどという低俗な仕事をしなくてもいい暮らしをさせてやると言っているのだ! なぜわからぬ?」

「低俗?」

小雪(こゆき)ちゃんがエロキモ男を(にら)みすえた。

「な、何だその目は…。」

そこに平八郎(へいはちろう)さんが見かねて言う。

「おい、いい加減にしろ。それ以上小雪(こゆき)どのを侮辱するなら私が許さんぞ。」

「だ、誰だお前は!? 小雪(こゆき)の男か?」

すると、エロキモ男が(ふところ)から短刀を取り出し、刃を小雪(こゆき)ちゃんに向けた。
私が慌てて小雪(こゆき)ちゃんのもとに行こうとすると、伊月(いつき)さんが止める。

平八郎(へいはちろう)がついている。心配するな。」

平八郎(へいはちろう)さんは、さっと小雪(こゆき)ちゃんを背中にかばい、自分の刀の鞘に手をかけた。

「その刀を納めなければ、私も抜刀する。」

「こ、小雪(こゆき)、止めておけ、こんなひょろっとしたのはお前に似合わんぞ!私の元に来い!」

意外にも、小雪(こゆき)ちゃんは平八郎(へいはちろう)さんを押しのけて前に出た。

平八郎(へいはちろう)さん、気持ちはありがたいけど、これは私の問題です。口出し無用よ。」

「は、はい...」

平八郎(へいはちろう)さんは、一歩引いたが、自分の刀の鞘に手をかけたままだ。

「この人は私の男なんかじゃありません。私、誰の男の物でもありません!特に、あなたみたいな、女を自分の好きにできるって思っているキモイ、デブエロ男が大嫌いなの。虫唾(むしず)が走るわ!」

「こ、小雪...」

「低俗だろうがなんだろうが、これからは、女だって自分で稼いで、男に頼らなくてもやっていける時代が来るのよ!だから、私、あなたのお嫁さんになんかならない!それに私、あなたよりも、もっとずっと稼いでるの!」

「何だと...?小雪(こゆき)、どうしても私の物にならないというのなら、お前を殺して一緒に死ぬ!」

男は小雪(こゆき)ちゃんに短刀を向けたまま走り込んでいった。

「こ、小雪(こゆき)ちゃん!」

心配で身を乗り出した私の手を伊月(いつき)さんが引いた。

小雪(こゆき)ちゃんはスタンガンを取り出した。
その瞬間、バチバチと音がしてスタンガンが発動して、男に衝撃が走ったのがわかった。
男が動けなくなり、短刀を落とし、立ったまま白目をむいた。

「えい!」

小雪(こゆき)ちゃんはその瞬間、自分の打掛(うちかけ)(すそ)を思いっきり持ち上げ、の股間にキックをした。

「ぐおぉぉ」

男は変な声を上げて地に伏した。

「あれは痛いな…」

伊月(いつき)さんと平八郎(へいはちろう)さんを始め、その場にいた男性全員が痛そうーな顔をした。

とっさに平八郎(へいはちろう)さんは男の様子を伺って、「気を失っている」と言った。

おぉぉぉぉと、周りの人たちが小雪(こゆき)ちゃんに拍手喝采を送った。

平八郎(へいはちろう)の出番はなかったな。」と伊月(いつき)さんが笑った。

平八郎(へいはちろう)さんもあっけにとられたように、小雪(こゆき)ちゃんを見ていた。

でも、私は見逃さなかった。
その瞬間、平八郎(へいはちろう)さんが小雪(こゆき)ちゃんを見る目が少し変わり、その目に熱が灯ったことを。

―― これは芽生(めば)えたな。ふふふ。

(あるじ)、どうしましょう?」

平八郎(へいはちろう)さんは伊月(いつき)さんに指示を仰ぐ。

「殺人未遂だ。役所に連れて行け。小雪(こゆき)どの、一緒に行って証言してくれぬか?」

「はい。」

平八郎(へいはちろう)、今日はそのまま小雪(こゆき)どのを送っていけ。」

「承知。」

二人が去っていくと、「ありゃ、芽生えたな」と、八咫烏(やたがらす)さんがボソッと言った。

「何がだ?」 

と、伊月(いつき)さんは分からないようだった。

―――

小雪(こゆき)どののことは以前、瓦版(かわらばん)で読んだことがある。
女流絵師、漫画家、舞台演出家というすごい肩書で、一躍(いちやく)(とき)の人だ。
特にちまたの女人から人気があって、憧れの存在のようだった。
(あるじ)のお供として芝居に行き、小雪(こゆき)どのにお会うことになった時、傲慢そうな女性像を想像した。

ところが実際会ってみると、小雪(こゆき)どのは、若くて可愛らしいお嬢さんだった。
天真爛漫に笑う気取らない様子は、少しだけ那美様に似ていると思った。
(あるじ)のことを見よう見まねで、小雪(こゆき)どのに手を差し伸べ、芝居小屋の中にいざなうと、少しだけ頬を赤らめて、うつむき加減に自分の手をとった。

―― 可愛い。

と、素直に思った。

(ほり)様と源次郎《げんじろう》様が、このところやけに、自分を女人(にょにん)に紹介するのだが、その時には感じたことのない気持ちだ。
(ほり)様と源次郎《げんじろう》様が自分に会わせる女人(にょにん)は綺麗な人が多いが、話しをしていても、

―― つまらない

と思うことが多い。
皆、家のことを手伝いながら、縁談が来るまで親元にいる人が多いからか、特に話題が広がらない。
話すことと言えば、家のことや、せいぜい飼っている猫のことくらいだ。
それに、自分のことを値踏みされているような感じも嫌いだった。

―― 那美(なみ)様とは全然違う

那美(なみ)様は読み書きもでき、時世についても話ができるし、色んな経験があり、話を聞いていると引き込まれるし、自分の視野が広がった。
あの酒呑童子だって泣かせるくらいの人だ。
那美(なみ)様の話をつまらないと感じたことは一度もなかった。

小雪(こゆき)どのの話も面白かった。
那美(なみ)様以外の女人(にょにん)と、こうも話が盛り上がったことはなかった。
小雪(こゆき)どのは教養があり、女手一つで、母親と、兄弟5人を養っていると言った。
まだ若いのに、一本芯が通っている。

―― 可憐で、でも、凛としている。

それが私が小雪(こゆき)どのに抱いた印象だ。
小雪(こゆき)どのの漫画に興味が湧き、見せてもらうと、すぐにその絵の素晴らしさに目を奪われた。

「私は芝居よりも、この漫画の方が面白いと思います。」

平八郎(へいはちろう)さん、これも読んでみて。最新作なの。」

私は思わず、土産物屋で雷巫女の漫画を数冊購入した。
そこに変な太った男がやって来て、色々と小雪(こゆき)どのに迫っている。

「縁談を断った相手なの。最近、つきまとわれてて、本当にウザいの。」

小雪(こゆき)どのをかばおうとしたのだけど、私の出番は全くなかった。
小雪(こゆき)どのは強かった。男の股間を蹴った時には思わずこっちまで冷汗が出そうだった。
でも、小雪(こゆき)どのの股間蹴りを見た瞬間、私の中で何か衝撃が走ったような気がした。

―― なんて、素敵な人なんだろう。

不意にそう思ってしまった。
二人で男を役所に届けて、主の言いつけ通り、小雪(こゆき)どのを送ろうと思ったのだけど、なぜか、

「あのう、もしよかったら、お茶でも飲んでから、帰りませんか。」

と、尋ねていた。
もっと小雪(こゆき)どののことを知りたいと思った。
もっと小雪(こゆき)どのの話を聞きたいと思った。
それで、このまますぐに家に送り届けるのが口惜しいような気がした。

「じゃあ、お団子が美味しいところがいいな。」

小雪(こゆき)どのの言葉に私は嬉しくなった。
以前、源次郎《げんじろう》様や(ほり)様に教えて頂いた、女人(にょにん)を連れて行くと喜ぶ所10選の中から、ある茶屋を選んでそこに行くと、小雪(こゆき)どのは目を輝かせて、「わぁ可愛いお店ねー!」と、喜んでいる。

―― 源次郎(げんじろう)様、(ほり)様、ありがとうございます。助かりました。

と、この時ばかりは二人に心の中でお礼を言った。
伊月(いつき)さんは、平八郎(へいはちろう)さんと小雪(こゆき)ちゃんを見送った後、送迎用の輿(こし)に乗せて私を城下町の北の郊外に連れて来た。
差し出された伊月(いつき)さんの手を取って、そっと輿(こし)から降りる。

「わぁ、綺麗!!」

私は輿(こし)を出てすぐに、思わず声を上げた。
真っ赤に紅葉した山々の下に湖があって、湖面には、オレンジ色の落ち葉がたくさん浮かんでいる。
足元にも色づいた葉がびっしりと地面を覆いつくしている。
山々も湖も地も、真っ赤だ。

伊月(いつき)さんは私の手を握ったまま、ゆっくりと歩き出した。
奥の方の木々の隙間から、ガサガサという音がした。

「何か、今、音が…」

「し―。」

伊月(いつき)さんが人差し指を私の唇に当てた。

「鹿だ。」

伊月(いつき)さんに誘われるままに歩いていくと、鹿が数頭くつろぎながら草をムシャムシャ食べているのが見えた。

「可愛いーーー!!」

私が一生懸命声を押し殺して小声で言うと、伊月(いつき)さんがフッと笑った。

「鹿が好きなのか?」

「四本足の動物は何だって好きですよ。」

「そうか。じゃあ、八咫烏(やたがらす)はダメだな。」

なぜか伊月(いつき)さんが嬉しそうに笑った。

「え?」

「あいつは足が三本あるからな。」

「あの、それ、不思議に思ってたんです。八咫烏(やたらがす)さんって、カラス姿の時、足、普通に二本ですよ?」

「ああ。あれは普通のカラスの姿に化けた八咫烏(やたらがす)だからだ。」

「そ、そうだったんですか? ちょっとややこしいですね。 じゃあ本当の八咫烏(やたらがす)さんって...」

「本当の姿は、やたらと、でかいカラスだ。そして、足が三本だ。」

「どのくらいの大きいんですか?」

「前に阿枳(あき)の船に乗っただろう?」

「はい。」

「あの船よりもでかい。」

「そ、そんなに大きいんですか?」

「ああ。」

「意外です。全然知りませんでした。」

―― でも、なんでいきなり八咫烏(やたらがす)さんの話になったんだろう。

「もう少し歩けるか?」

「はい。」

伊月(いつき)さんはそういうと、私の指に自分の指を絡めて、しっかり握った。
しばらく景色を堪能しながら歩くと、一(そう)の小さな屋形船(やかたぶね)が湖面に浮かんでいるのが見える。

「あ、船がありますよ。」

「ああ。遊船だ。あの船に乗る。」

「え? そうなんですか?」

屋形船(やかたぶね)からはオババ様のカムナリキが感じられた。
伊月(いつき)さんは(ふところ)から龍の印のついた護符(ごふ)を出して、それを船にかざした。
オババ様の術式がかかっていて、結界が張ってあるのがわかる。
護符(ごふ)を持っている人しか入れないような仕組みになっているらしかった。

船の屋形(やかた)の中に入ると、畳が敷いてあり、ご飯が食べれるスペースがある。
伊月(いつき)さんが屋形(やかた)の障子をあけ放つと、紅葉した山々とそれを写しだす鏡のような湖面の景色が目に飛び込んでくる。

「こんな素敵な景色を見ながら船の中でご飯食べれるようになっているんですね。」

ちょっとした贅沢なクルーズだ。

「何か食べるか?」

「いいえ。今はいいです。さっき芝居小屋で沢山食べましたから。」

「寒くないか?」

最近は随分と涼しくなった。
でも、着物を重ね着しているし、伊月(いつき)さんが隣にいるとあったかい。

「寒くないです。」

「では、ここに座ろう。」

私たちが屋形(やかた)の中に腰かけると、船は自動的に動き出した。

「すごーい! 自動運転なんですね。オババ様のカムナリキを感じます。」

「オババ様と、阿枳(あき)と協力して、色々な種類の船を造ってみているのだ。」

「この船も外国に売るんですか?」

「いや。これは完全に私の趣味だ。いつか一般の者にも広まればいいと思うが、そういう日が来るのはまだまだ先だろう。いつか、タマチ帝国が統一され、戦がなくなり、民に遊興できるほどの余裕ができなければいかん。」

私は伊月(いつき)さんの手をきゅっと握った。
伊月(いつき)さんにはタマチ帝国を統一するという大きな志がある。

「きっとすぐにそういう日が来ますよ。」

やがて船は、湖の真ん中まで来て止まった。

「わぁーなんて素敵な景色なの。」

私は思わず息をのむ。
あたり一面を水と山に囲まれて、まるでこの世界には私たちしかいないような感じがした。
水鳥が時々湖面をゆらして、水に浮かぶ紅葉がゆらゆら揺れている。

「気に入ったようだな。」

伊月(いつき)さんが私の顔をのぞきこんで、穏やかな笑みを浮かべた。

「はい。まるで幽玄の世界ですね。」

伊月(いつき)さんは、私の肩を抱いて、自分の体の方に引き寄せた。

「気に入ってくれて、良かった。」

私も、自分の頭を伊月(いつき)さんの体に預けた。

伊月(いつき)さん、いつも私に素敵な景色を見せてくれて、ありがとうございます。」

「私はただ、そなたが喜ぶ顔を見るのが好きなだけだ。」

伊月(いつき)さんの優しい言葉に胸の奥がわしづかみにされたようにキュンとする。

「ど、...。どうしよう、伊月(いつき)さん。」

「どうした?」

「すごく、嬉しいです。嬉しすぎて、ギュってしたいです。」

「す…すればいいだろう。」

「いいんですか?」

「いちいち聞かずとも、良い。」

「ふふふ。」

私は伊月(いつき)さんにギュっと抱き着いた。
フワリ、と伊月(いつき)さんのお(こう)のかおりを感じる。

「な、那美(なみ)どの…」

伊月(いつき)さんは私のおでこに、チュっとキスをした。

「な、何ですか?」

「ここには私たち以外、誰もいない。」

「はい。湖の真ん中ですもんね。」

「だから、あまりにそういう可愛い事をすると…」

伊月(いつき)さんは私の顔を上向かせた。

「な、何ですか…?」

「私も色々と忍耐がもたぬ…」

「ん…。」

伊月(いつき)さんは優しくキスをした。
キスをしながら、伊月(いつき)さんに抱きついていた私の腕を解いた。
両手を握られて、そのまま両手に指を絡められる。

「あ、い、伊月(いつき)さん...」

私の体に、伊月(いつき)さんの体重がぐっと乗せられ、畳の上に寝転がってしまう。
伊月(いつき)さんは床に倒れこんだ私の上に覆いかぶさりながら、キスをやめない。
私の両手は私の顔の横で、畳の上に縫い付けられたように、伊月(いつき)さんの両手に抑え込まれた。
私は抵抗する術がなくて、そのまま伊月(いつき)さんのキスを受け止め続ける。

「はぁ、ぁ... んん...」

やがてキスが激しくなって、息が苦しくなってきたころ、伊月(いつき)さんはキスをやめ私の左手を解放した。
伊月(いつき)さんは離した手で、私の頬を、優しく優しくなでた。

那美(なみ)どの…」

切なそうに私の名前を呼ぶ伊月(いつき)さんがとても愛おしい。
私も解放された左手で、伊月(いつき)さんの頬を撫でた。

伊月(いつき)さん…」

伊月(いつき)さんがもう一度、顔を寄せてきたので、キスをされると思って目を瞑った。
でもキスされたのは唇じゃなかった。
首筋や耳にキスをたくさん落とされた。

「ひゃ。」

くすぐったくて、身をよじるけど、私の上に覆いかぶさった伊月(いつき)さんの体が、絡んだ足が、抑えられた右手が、私の体を優しく拘束している。
逃げられず、またなす術もなく、伊月(いつき)さんのキスを受け止める。

「あ、あ、だめです…」

与えれる強い快楽のせいで、涙がにじんだ。
伊月(いつき)さんは空いている手で私の腰や、太ももを撫で上げた。

「い、や・・・、あ」

厚手の着物の上からでも、伊月(いつき)さんの大きくて熱い手の感覚が伝わった。
ぞくぞくと鳥肌が立って、背中がビクンとはねた。
そんな感覚初めてで戸惑った。
辛うじて、自由な左手で伊月(いつき)さんの胸を押した。

「ま、待って...下さい...」

伊月(いつき)さんはキスをやめた。

「す、すまん。」

苦しそうにそういって、私をそっと、横向きに寝かせた。
伊月(いつき)さんも、私を後ろから抱きしめるように横向きに寝転がった。
涙でにじんでいたけど、美しい紅葉の景色が見える。
私の乱れた気持ちなんてどうでもいいような、どこまでも静かな景色だ。

「すぐに、自制がきかなくなりそうだ。」

はぁ、と一つ、ため息をついて、私の耳元で伊月(いつき)さんが苦しそうに(ささや)いた。

「一応、自制してるんですか?」

「頑張っている。今でも、こんな青空の下、那美(なみ)どのを抱いてしまわないように、()えている。」

私のことを抱きしめるように後ろから回されている伊月(いつき)さんの腕にそっと、自分の手を重ねた。

「ふふふ。ありがとうございます。」

伊月(いつき)さんが私の手首を取って、そのまま手を滑らせた。

「きゃ。」

私の着物の(そで)の中に伊月(いつき)さんの手が侵入してきて、(じか)に腕を撫でられる。

「んん…」

腕を触られただけでもゾクゾクするなんて、私もたいがい重症だ。

「随分空気が冷えたのに、那美(なみ)どのの体は子犬のように温かいな。」

「それは…伊月(いつき)さんのせいじゃないですか?」

「私がそなたの体を熱くしてしまったのか?」

「そ、その言い方はちょっと生々しいです。」

伊月(いつき)さんは笑いながら、私の耳にチュっとキスをする。

那美(なみ)どのの肌は心地よい。ずっと触っていたくなる。」

「そ、そういうの、言わないで下さい。」

「首まで真っ赤になっているぞ。」

「だ、だから、全部、全部、伊月(いつき)さんのせいです。」

「はぁー。あまり、(あお)るな。」

伊月(いつき)さんは、(そで)の中に入れていた手をサッと引き抜いて、体を起こした。
私もつられて、体を起こす。
伊月(いつき)さんは、そのままスクっと立ちあがった。

―― もしかして、また、叫びだすのかな…

案の定、「あ”ーーーーーーーーーー!」と、叫びだした。
山彦(やまびこ)が響いて、水鳥がびっくりして飛び立って行ってしまった。
そのまま、船内をズンズン一周歩いていて戻ってきて、私の横に、ドスン、と座った。

「ふぅーーー。す、すまぬ。」

「うふふふ。それ、よくやりますよね。」

「自分を落ち着かせるためだ。この攻城戦(こうじょうせん)はなかなかに難しい。」

「こうじょう…?」

「あ、いや、こちらの話だ。」

「あ、見て下さい!」

私は空を指さした。
大きな鳥の集団がV字を作って、バサバサと羽音を立ててこちらに向かって飛んでいる。

「あの鳥は何ですか?」

(かり)の群れだ。あれを見ると秋も深まった証拠だな。」

(かり)の群れは私たちのすぐ上を通って、飛んで行く。
手を伸ばせば届きそうなほどの低空飛行で、それはそれは圧巻だった。
(かり)たちの飛んでいった西の空には夕日が赤く燃えはじめていた。
さっきまで秋晴れの青空が広がっていたのに、みるみる空が紅に染まっていく。
空の色も山の色も、真っ赤に湖面に映し出されていた。