すっかり日が暮れたころ、阿枳(あき)さんが、船の中に簡易風呂があるというので、湯浴(ゆあ)みもさせてもらえた。
夜になったら2つの月が海の上に反射して、4つに見える。

―― 何て、幻想的な風景なんだろう。

護衛隊の皆が少し離れた所でお酒を飲んでいる。
明るい月の下で、皆の楽しそうな様子に心が和む。

―― そろそろ寝ようかな。

那美(なみ)どの、海は好きか?」

海に浮かぶ月を眺めていると、後ろから大好きな人の声がした。
嬉しくて、サッと振り向く。

「大好きです! 伊月(いつき)さんは?」

「あぁ。子供の頃はよく泳いでいた。」

伊月(いつき)さんはそっと私の手を取った。

「ここからなら、誰にも見えない。」

そういって目くばせすると、指をそっと絡めた。
久しぶりに伊月(いつき)さんに触れられて、いつも以上に鼓動が速くなるのを感じた。

伊月(いつき)さんにずっと触れられなくて、寂しかったです。」

「な、那美(なみ)どのは、その思ったことをそのまま言う癖をどうにかした方がいい。」

「す、すみません。」

私は自分が言ったことが急に恥ずかしくなってうつむいた。

「いや、やはり、どうにかしなくていい。」

「え?」

「やはり、那美(なみ)どのの思ったことをそのまま聞きたい。いや、だが、耐えられるかどうか…」

「どっちですか? ふふふ。」

「船の上では久しぶりに楽しそうに笑っているな。」

伊月(いつき)さんはそういって、海風に吹かれて顔にかかった私の髪を、そっと耳にかけてくれる。

(みやこ)では疲れているようだった。」

「少し疲れていました。毎日、帝に沢山質問されて、毎日重い着物を着て、沢山お化粧して、おしとやかにしてなくちゃいけなくて、結構つらかったです。」

「ははは。那美(なみ)どのらしいな。」

「私が(みかど)と問答会をしていた時、皆さんは何をしていたんですか?」

「貴族の余興に呼ばれていた。蹴鞠(けまり)をしたり、歌会に参加させられたり、色々だ。」

「そっかぁ。だから(うた)の手ほどきを受けていたんですね。」

「ああ。それに貴族たちから(まい)を所望されたが、私ができぬので、代わりに清十郎(せいじゅうろう)が舞った。」

「ああ、だから、清十郎(せいじゅうろう)さん、あんなにため息をもらしていたのですね!」

伊月さんが笑って、あいつには悪いことをしたなと言った。

「私、伊月(いつき)さんの事、まだまだ知らないことが沢山あるんだなぁって思いました。」

「私とて、那美(なみ)どののことは知らないことの方が多い。」

伊月(いつき)さんが繋いだ手を持ち上げて、私の指先にキスを落とした。

「これから少しずつお互いを知っていけばいい。」

「そうですね。でも、私、また、伊月(いつき)さんの秘密を知っちゃった気がします。」

「何か、ばれたか?」

伊月(いつき)さんは驚いたように、でも、嬉しそうに言った。

「それで、今回、分かったことは何だ?」

伊月(いつき)さんのビジネス...商売です。」

「おぉ、さすが那美(なみ)どのだな。私が商売をしていると、どうしてバレたのかな。」

「荷物です。伊月(いつき)さんが皆に運ばせていた荷が()湯治場(とうじば)で、けっこう減ってました。そして、(みやこ)でも減りました。それで、()(みやこ)で何か商売をしていたのかなって思ったんです。そこでお金が入る見込みがあったから兵五郎(ひょうごろう)さんにもあんな大金をあげたのかなって。」

「だいたい合っている。()湯治場(とうじば)周辺で稼げる見込みがあったから、兵五郎(ひょうごろう)金子(きんす)と食料を渡した。」

(みやこ)では違うんですか?」

(みやこ)の貴族たちには物を献上しただけだ。貴族とは名ばかりで、財を持っていないものが多い。しかし貴族には人脈があるからな。」

「なるほど、だから貴族たちの歌会なんかに参加していたんですね。」

「貴族に(まいない)を渡している私を(さげす)むか?」

伊月(いつき)さんは、すこし苦しそうな顔をした。
そういう事をする自分を一番嫌だと思っているのは伊月(いつき)さんなのかもしれない。

(まいない)と言わずにロビー活動って言うといいと思います。」

「ろびー??」

「とにかく、それもこれも、伊月(いつき)さんの大きな(こころざし)のためでしょう? 清十郎(せいじゅうろう)さんが言ったように、その(こころざし)が達成できれば、皆が飢えなくても生きていける世が来るかもしれないじゃないですか?」

伊月(いつき)さんは、小さくため息をついて海を見た。
しばらく何か考えていたみたいだったが、やがて私の顔を覗き込む。

「それで、私のやっている商売がどんな商売か分かったのか?」

「貿易ですか?」

「おお。そうだ。その通りだが、何故わかったか聞いてもいいか?」

「貿易だと思った理由はいくつかあります。一つは、前に伊月(いつき)さんが私にくれた差し入れです。」

「差し入れ?」

「私がまだ尽世(つくよ)に来てすぐのころ、伊月(いつき)さんが私に色々差し入れをくれましたよね?着物とか、お菓子とか、お裁縫箱とか。」

「ああ、そういう事もあったな。」

「あの中に、ジャム・・・果物の砂糖煮や、モフモフの襟巻があったんですが、ああいった物って、亜国(あこく)の城下町でも、()宿場町(しゅくばまち)でも、()湯治場(とうじば)でも見かけませんでした。かなり手に入りにくい物ですよね? 外国から買わないと手に入らないんじゃないですか? だから外国と貿易をしていると思いました。」

「参ったな。その通りだ。」

伊月(いつき)さんが頭の後ろをポリポリとかいた。

「それで、もう一つの理由は?」

「この船です。タマチ帝国を移動するだけにしては、この船は大きすぎる気がします。だから海外に行くために作られた船かなって思いました。それに、阿枳(あき)さんは家臣でも、ただの舟渡しでも、本物の兄弟でもなさそうだし、きっと一緒に商売をする仲間じゃないかなと思ったんです。それで、この船で新たな荷物を積んで()に持ち帰るんじゃないかと。」

「そうだ。」

伊月(いつき)さんがうん、とうなずく。

阿枳(あき)は昔、海賊をしていたんだが、色々あって、今は一緒に商売をする仲間だ。」

()の国で山賊をしていた兵五郎(ひょうごろう)さんたちを仲間にしてしまった伊月(いつき)さんを思い出す。
きっと似たようないきさつなのかもしれない。

「この海のずっとずっと向こうに、()という大陸がある。タマチ帝国とはくらべものにならんくらい大きな陸だ。」

「貿易相手は大陸の国々ですか?」

「ああ。()()の国主の目を盗んでコソコソとせねばいかんから、まだ規模は小さいが、それでも、なかなかに利を生んでいる。資金源が多いに越したことはない。人材を得るには金がいるからな。」

遠くの海原(うなばら)で魚がはねて、月の光が魚の背に当たり、キラキラ光った。

「やっぱり伊月(いつき)さんってすごい人ですね。武人としてもすごい才があるのに、商売の才もあるなんて。」

伊月(いつき)さんは私の(ほお)をそっと()でた。

「だが、歌はできんし、舞も、茶の湯もさっぱりだ。これは貴族たちと渡り合うにはいささか難儀だ。」

私の頬を撫でる伊月さんの手の上に自分の手を重ねた。

「その代わり、貴族たちが、見たこともない珍品奇貨(ちんぴんきか)を外国から買い付けて、それを献上できる人は、なかなかいないんじゃないですか?」

伊月(いつき)さんはニッと笑った。

「その通りだ。あと、蹴鞠(けまり)も得意だったぞ。」

「ふふふ。それは容易に想像できますね。」

「私にとっては那美(なみ)どのの方がすごい人だと思う。」

「私が?」

伊月(いつき)さんはしばらく何も言わず、ただ私の頬を撫で続けた。

「すごいと感心することが多々ある。私がやっていることも易々と見抜いたし。あの鬼のこともそうだ。大悪党として名を馳せる酒呑童子(しゅてんどうじ)を恐れず、力にも頼らず、言葉で制してしまった。」

「あ、いや、あれは…。」

那美(なみ)どのは、(まこと)、面白き人だ。」

そういって、私の頬を撫でていた指を(あご)にすべらせて、今度は私の顎を少し上向けた。

―― な、何?

「だが、正直に言うと、()けた。」

「え?」

次に伊月(いつき)さんの親指が私の唇をそっと撫でた。
その瞬間、言い知れない感覚が体中を走った。

那美(なみ)どのが酒呑童子(しゅてんどうじ)の告白を馬鹿にせず、(やつ)をきちんと一人の男として扱っていたからだ。」

そう言いながら、伊月(いつき)さんは、キョロキョロと辺りを見回した。
そして、身をかがめて、一瞬だけ、私の唇を奪った。
チュっと音を立てて、唇が離れると、伊月(いつき)さんの顔を引き寄せて、もう一度口づけをしたくなる衝動にかられる。

「い、伊月(いつき)さん、いつも、急にそういうことして、困ります。」

「嫌か?」

「嫌じゃなくて、嬉しいから、困るんです。」

「はぁ。」

伊月(いつき)さんはため息をつきながら、私の両手をこっそり取ってキュッと握った。

「そ、そういう可愛いことを言う那美(なみ)どのがいけないのだ。」

そういうと、伊月(いつき)さんは、また、周りを確認して、口づけた。
今度はもっと長くて、もっと深くて、甘い口づけだった。