ふと源次郎さんが思い出したように口を開いた。
「そういえば、先日那美様がお助けになられたお仙様という方がここに訪ねて来られました。那美様の居場所を探しておられたのでオババ様の場所をお教えしました。」
「源次郎さんがお仙さんに私の居場所を教えてくれたんですね。お陰様で、お仙さん、タカオ大社まで来てくれました。」
「無事にお会いできて何よりです。」
「実はお仙さんに頼まれて、足軽の奥さん達に読み書きを教えることになったんです。あと、算術も。」
「え? それは凄いですね!」
「本当か。それは素晴らしい。」
源次郎さんも伊月さんも喜んでくれた。
「え? 那美様は読み書きと算術までなさるのか?」
と正次さんはびっくりしたようだった。
「那美様は美しく勇敢なだけでなく、大変な才がおありなのです。」
源次郎さんが正次さんに言うと、正次さんは私をまじまじと見た。
「そ、そんなに言われるほどじゃないです。」
手放しで褒められて恥ずかしくなった。
「オババ様も賛同してくれて、タカオ山の麓に使ってない小屋があるから、そこを手習い所として貸してくれるそうです。」
「あぁ、あの小屋か。」
伊月さんは少し懐かしそうに言った。
「随分とボロ小屋で修繕が必要なのではないか?」
「ふふ。その通りです。やっと足が良くなったので、明日から、お仙さんや皆と一緒に修理したりお掃除したり準備を始める予定です。」
「そうか。それは楽しみだな。」
「はい。やっとこの国で自分にも出来ることが見つかった気がして嬉しいです。大したことじゃないけれど。」
「いやいや、それは大したことですよ、那美様。」
正次さんが心底感心したように言ってくれて、うれしくなる。
「ん? 那美様、それは笛ですか?」
ふと、正次さんが私の帯にさした、八咫烏さんの笛を見た。
とても興味がありそうだったので、帯から出して、手渡す。
「おぉ、これはいい笛ですなぁ。那美様は笛もたしなまれるのか?」
「あ、いいえ、吹いたことないです。でも、オババ様が、迷ったらこれを吹けって。」
「おぉ、では某が、那美様の門出を祝って一曲!」
正次さんはそういうと、笛を吹く。
「ま、待て、堀!」
伊月さんが止めようとしたが、ピロローと優雅で綺麗な音色がした。
「正次さんは笛が吹けるのですか?すごい!綺麗な音ですね。」
笛の音色に感動している私をよそに、伊月さんはたしなめるように言った。
「堀、それは八咫烏の笛だぞ。」
それを聞いて、正次さんも、源次郎さんも、
「げ? 八咫烏の?」
「うわー八咫烏ですか。」
と、難色を示している。
―― 八咫烏って、一体、どんなあやかしなの?
そう思った瞬間、一羽のカラスが庭の方から飛んできて、客間の真ん中に止まった。
するとカラスの体から煙が出て、煙が消えるとともに、カラスの姿は消え、代わりに男の人が現れた。
黒くてツヤツヤの短髪に山伏頭巾をつけて、結袈裟をかけている。
背中からは大きな黒い翼が生えていて、金色に輝く瞳を持っている。
明らかに人間ではない。
―― うわぁ。ミステリアスな人だな。
その男の人は、びっくりして固まっている私を見ると、すっと手を取った。
「え?」
「お前があの美しき笛の音の主か?このむさ苦しい状況から救って欲しいのだな?」
「いえ、あの・・・」
源次郎さんが、その人の手をサッと私の手から引き離した。
「おい、八咫烏、その手を離せ!」
―― やっぱり、この人が八咫烏さんなんだ。
「その美しき笛の音を鳴らしたのは俺だ!」
正次さんが、八咫烏さんの顔を両手ではさみ、ぐいっと自分の方に向けた。
「げ、な、何をする!離せ!」
抵抗する八咫烏さんを正次さんが抑える。
「いいから、笛を吹いた俺の相手をしろ。その人から離れろ!」
「俺は若い女しか相手にせぬ! お前のようなむさ苦しい男が俺の笛を吹いたなどとは許せぬ!」
「私の間違いでお前を呼び出してしまい悪いとは思うが、那美様には手を出すなよ。」
―― 何が起こってるの??
私は状況がわからずにバタバタしている八咫烏さんと正次さんと源次郎さんを見る。
「おい、お前ら落ち着け!」
伊月さんが呆れて喝を入れると、源次郎さんも正次さんもピタっと静かになり、すごすごと座った。
八咫烏さんは私を改めて見ると、口の端を吊り上げて笑った 。
「そうか、お前がオババ様の言っていた那美か。なるほど美味そうな匂いがする。」
「え?」
不穏な事を言われて一瞬固まる。
「八咫烏、お前も、ひとまず座れ。」
伊月さんが促すと八咫烏さんは私の隣に腰を下ろして、私の顔を覗き込んできた。
「あ、あの、おはぎ食べます?」
私は少しの気まずさをかき消すように、八咫烏さんにおはぎの入ったお重を差し出した。
「おぉ。」
八咫烏さんは、一瞬、餌を与えられた子犬のような目をしておはぎを一つ食べ始めた。
―― あ、やっと落ち着いた。
顔を覗き込まれなくなり、ホッと一息つく。
「那美様、八咫烏は無類の女好きですので気を付けて下さいね。触れると妊娠します!」
源次郎さんが言う。
「そんなことはない。俺の美しさに人間の女の方から寄ってくるのだ。」
八咫烏さんは食べながらも反論するが、正次さんも反論する。
「お前は女となると見境がないではないか。」
「女なら誰でもいいという訳ではない。若くて美味そうな女しか相手にせぬ。」
伊月さんはやれやれという感じで、首を小さく左右に振っている。
「おい、那美、お前も、食え、ほら。」
八咫烏さんはそういうと顔をぐっと近づけておはぎを私のを口元に差し出した。
「え?」
「ほら、食べさせてやるから口あけろ! あーん」
「ちょ、いや、それはさすがにやめて!」
私はとっさに後ずさりして伊月さんの背中に隠れた。
八咫烏さんは一瞬驚いた顔をして、すぐに眉をひそめる。
「おい、何で隠れるんだ。しかも伊月のやろうに。」
「だって、いきなり近づくから!」
「私の周りで何やってるんだ。うるさいからやめろ。」
伊月さんは淡々とおはぎを食べながら、片手を八咫烏さんの肩に当て、ぐーっと押し返す。
―― あ、助けてくれた。
「こら、伊月、邪魔するな。」
「こちらの方が食べるのに邪魔だ。那美どのも、何故私の後ろに隠れる?」
「す、すみません…何か安全地帯で。」
八咫烏さんがあきらめたように体を離して座りなおした。
「ま、今日は伊月に免じて引き下がってやる。」
八咫烏さんはそういうと、私の湯呑を取り上げ、お茶をグイっと飲みほした。
―― あ、私のお茶。
ドンと空になった湯呑を畳の上に置いて、八咫烏さんはスッと立ち上がった。
「那美、今度はこいつらがいない時に俺を呼べ。野郎どもがいては、やり辛い。」
八咫烏さんは立ち去る素振りを見せた。
「あの、いつかお世話になるかもしれません。宜しくお願いします。」
私は伊月さんの背中から顔を出し、ペコリと頭を下げた。
「ああ。お前ならばいつでも助けてやるからな。」
八咫烏さんは私に妖艶な笑みを見せた。
「伊月もこの俺をこれだけ牽制したのだ。もうちっと那美を甘やかせ。」
―― え?
八咫烏さんは大きな羽を羽ばたかせ、そのまま庭の外へと飛んでいった。
私がスゴスゴと伊月さんの後ろから出ていき、もとの席に座り直すと、
源次郎さんも正次さんも、伊月さんを見てにやにやしている。
「へぇ…」と、源次郎さん。
「ふうん…」と、正次さん。
―― 何...???
伊月さんは不機嫌そうにお茶を飲みながら黙っている。
「あの、どうかしたんですか?」
伊月さんに聞くと、
「さあ。何かこの者達が勝手に勘違いしているのではないか?」
「勘違い?」
よく分からないまま小首をかしげる私に源次郎さんは、まあまあと言って、八咫烏さんに飲まれてしまったお茶の湯呑を片付けて、新しくお茶を入れ直してくれた。
「ところで堀、お前は何か用事があって来たのではないか?」
伊月さんが話題を変えると正次さんはハッとする。
「あ、那美様の美しさとおはぎの美味しさにスッカリ忘れておりました。」
―― この人も八咫烏さん並みに口が上手いな
「この前のような大きな魔獣はあれ以来現れておりませんが、地方に小物魔獣が増えております。」
「その報告は受けておる。」
「もう少し人手を増やしたいのですが、なかなか良き人材が集まらず。そこで武術大会を開催して若者を競わせ、見込みのある強者を軍に雇い入れたらどうかと。」
「うん。良い案だ。」
―― 武術大会かぁ
「何だか楽しそう。」
思わずそう呟くと、正次さんが身を乗り出して来た。
「那美様がご観覧席にいて下されば会が華やぐと思います!」
「え?」
「そうですねぇ、堀様。那美様、ぜひともご観覧下さい。」
源次郎さんも乗ってきた。
「見てもいいんですか?」
「良うございましょう? 主?」
源次郎さんが伊月さんに前のめり気味で聞く。
「別に構わんが...」
伊月さんも私と同様にこの二人の前のめり気味の反応に訝しげにしている。
正次さんはさっそく会場探しを始めると言っておはぎをもう一つ頬張ると、席を立つ。
「那美様にお会いできて光栄でした。おはぎも美味しゅうございました。それではまたお会いしましょう。」
正次さんが出ていくと、源次郎さんも仕事に戻ると言って退室していった。
「ふふふ。皆さん、楽しい方ばかりですね。八咫烏さんと伊月さんは古い知り合いなんですか?」
「ああ、共にオババ様のもとで修行をしておったよ。」
「そうなんですね。皆さん揃って仲が良さそうでした。」
「仲がいい? 馬鹿を言え。」
伊月さんは呆れたようにそう言うと、不意に私の手を取った。
―― ん?
「傷は治ったみたいだな。」
―― あ、この前の擦り傷を確認してくれてるんだ。
「はい。お陰様で。」
言いながら自分の心臓がトクトクと高鳴りだすのを感じた。
伊月さんの手はとても大きくてあったかい。
八咫烏さんから手を握られた時には感じなかった心臓の高鳴りだった。
「そ、そういえば。」
私は懐から手ぬぐいを出した。
「これ、捻挫をした時に貸して頂いた手ぬぐいです。本当にありがとうございました。」
綺麗な藤の文様が入った紫の手ぬぐいだった。
伊月さんの髪や目の色にとても合っている。
手ぬぐいを受け取る伊月さんの手が触れて、また、鼓動が高鳴った。
「おい、堀。」
正次が家路に着いていると、目の前に煙が湧き上がり、八咫烏が現れた。
「何だ、まだいたのか。」
「伊月はどうしてしまったのだ?」
「見て分からぬか? 那美様をたいそう気に入っておられる。」
「あいつが女を気にかけるとは…。」
「那美様には不思議な雰囲気がある。殿は人を寄せ付けぬよう、見えない壁を作っておられるが、それを易々と乗り越えられたようだな。」
「人間にはそのように感じられるのか。俺には、那美は、誠、美味そうな匂いがする。」
「やめておけ。那美様も殿にベッタリだ。」
「ベッタリというか、熊の後ろに隠れるウサギのようだったぞ。」
「ははは! それは言い得て妙だ。」
「しかし見たか? 俺が那美の手を取った時の伊月の顔を。 」
「ああ、見た。今頃は何か理由を作ってお前の握ったあの手を握り直されているかもな。」
「そうか? あいつがそんなことをするか?」
「私がなら、そうする。」
「そして、見たか? 俺が那美に菓子を食べさせようとした時の伊月の様子を。」
「見たとも。死地に立っても眉一つ動かさない殿があんな顔をなさるとは。」
「しかし伊月はこじれておるぞ。気になる女にあの態度と口調はないだろう。甘い言葉一つも言えんとは。」
「殿は自分のお気持ちに自覚がないのかもしれん…。」
「あいつがウカウカしていれば俺が横から那美をかっさらうぞ。」
八咫烏は不適な笑みを浮かべた。
「やめておけ。殿には私と源次郎どのから、女の甘やかし方をしっかりとご指導、ご鞭撻する。」
堀は不器用すぎる自分の主を助けようと決心した。
私は青い空を見上げた。
桜が散って、朝夕の肌寒さも和らいで、カラっと明るい晩春の空が広がっている。
―― 伊月さん、元気かな。
二週間前に伊月さんの屋敷に薬草を届けに行って以来、伊月さんとは文を何度か交わしているけど、会えてない。
オババ様によると、最近、魔獣が農村を襲ったり、若い女が誘拐されたりする事件が多いので、伊月さんたちはそういうのの対応に忙しいのだとか。
―― そんな忙しい中、私のことを気遣って、わざわざ人を送ってくれたんだ。
それは二週間前、伊月さんのおうちで、正次さんや八咫烏さんたちとお茶をした次の日だった。
お仙さんたちと、手習い所として使う小屋を掃除していた時、吉太郎が飛んできて、「那美に客人来る!男三人!」と言った。
その三人は伊月さんの軍で働く人たちで、黒鍬衆という土木工事などを専門とする役職の人だという。
「殿の命で、この小屋の修繕の手伝いをするように言いつかっております。」
そういって、私やお仙さんたちが掃除や片付けをする中、黒鍬衆の人たちは雨漏りの場所や、壁にあいた穴を修繕してくれて、文机まで作ってくれた。
「何とお礼を言っていいかわかりません。」
と、私もお仙さんたちも感謝の気持ちでいっぱいだった。
―― 伊月さんには恩返しするって宣言したばかりなのに、また助けてもらって、全然追いつかないな。
伊月さんの優しさに感動するのと、自分のことを気にかけてくれているという事実が、この上なく嬉しい。
お陰で、無事に手習い所をオープンすることができた。
―― 今日もお仕事開始!
私はこのところ、自分の手習い所の運営と、カムナリキの修行で忙しくしていた。
今までと同じなのは、夕凪ちゃんと、朝ご飯の用意をして、そのうち寝ぐせのついたオババ様が起きてきて、皆でワイワイ朝ご飯を食べて、一日が始まることだ。
朝餉のあと、私はすぐに手習い所のある、タカオ山のふもとまで歩いて出勤する。
お仙さんと、お仙さんのママ友たちが入れ替わりやって来るので、一日に2、3時間、週に2日教えている。
そして、私の学校は、タカオ山手習い所と名付けられた。
皆がやって来る少し前に手習い所に着いて、あれやこれやと準備する。
やっぱり教科書や教材があった方が教えやすいので、手作りで教科書っぽいものも用意したりした。
一つの教材を仕上げるのでいっぱいいっぱいで、皆の分は作れないから、各自、写本してもらう。
字を書く練習にもなるので、一石二鳥。
準備するうちに、生徒さんたちがやって来る。
ここで、私は皆に教えるよりも、色んなことを教わっている気がする。
例えば、手習い所の近くにある木や草花の名前を教えてもらったり、タカオ山に生息している小動物や鳥のことも教えてもらったり。
他にも、女性たちのうわさ話は多岐に渡り、この世のことを知るにはとてもためになる。
例えば、『鬼武者』と呼ばれる武士の存在をよく聞く。
生徒さんたちはほとんどが子連れのお母さんで、子供たちが騒いでいると、「鬼武者が来て食べちゃうよ」と言って、子供たちを黙らせている。
「あのう、鬼武者って何ですか?」
「鬼武者は亜国ではとても有名な武将です。とっても怖いんです。」
鬼武者は亜国の将軍の一人で、市中でもいつも鬼の面具を付けているそうだ。
顔が醜く恐ろしいから、いつも面具を付けているという噂なのだとか。
普通、軍が勝利して凱旋する時、兵たちは身ぎれいにして、
取った首も袋や箱に入れて城内に帰ってくる。
旗指物にも自分の家紋を入れて、自分の家の名をしらしめようとする。
だけど、鬼武者と鬼武者の兵たちは返り血もふかず、取った魔獣や敵兵の首もそのまま、手に持って帰ってくるのだとか。
そして、旗指物も真っ黒で、一体誰なのかわからないらしい。
「まさに鬼の形相で、血まみれで、それはそれは酷い死臭を漂わせて城内を歩いて行くんです。」
「夜に凱旋した時なんか、もう恐ろしくて、恐ろしくて。まるで百鬼夜行でした。」
「でも、とても強くて、大きな魔獣も退治するそうなんです。」
「つい数ヶ月前もすごかったですよ。こんなに大きな大蛇のような、翼竜の魔獣を引きずりながら歩いていました。」
「何やら、その魔獣たちを料理して食べているそうよ。」
「若い女をさらって食べてしまったって、うわさも立っているの。きっと乱取りもしてるんじゃない?」
「うわさによれば、家紋を使わないのも、人間ではないかららしいわ。」
「恐ろしいわ!」
確かにそれは怖いかも。
他にも、国政や、国交についてのうわさ話も色々と聞いた。
オババ様の管理しているタカオ山は、亜国と伊国の国境に位置している。
東に行けば、亜国、西に行けば、伊国だ。
ちなみに私は亜国の東北に位置する江国から来たことになっている。
伊月さんが空から降ってくる私を発見した場所が江国の国境だったらしい。
「江国出身の那美先生は知らないかもしれませんが、亜国の前の国主の時代はもっと平和だったんですよ。」
「そうなんですよ。現国主になって治安が悪くなったんです。」
「それはどうしてですか?」
「20年くらい前に、前の国主が伊国との同盟を成り立たせて、それから国同士の戦は減ったんです。」
「でも、少し戦が落ちついたからって、今の国主はダラけて内政をサボっているんです。」
「国主が政治をほったらかして、酒色にふけっているって専らのうわさなの。」
「悪事を働く人を取り締まらなくなったんで、国内の治安は悪くなるばかり。」
「オババ様にも敬意を払わないし!」
「そうそう。前の国主はオババ様と協力して色々な改革をしたんです。」
「そうなんですか! どんな改革ですか?」
「一番大きかった改革は、上下水道の整備です。水の循環が良くなって、疫病がとても減ったんです。」
「今の国主はオババ様が政治に関わるのを恐れているそうよ。」
「それはそうよ。今の国主よりも、オババ様が国主になったほうがいいって、みんな思うもの。」
―― オババ様も今の亜国の国主は愚鈍だって言ってたな。
「じゃあ、伊国の国主はどうなんですか?」
私のこの問いに、皆はお仙さんを見た。
「お仙さんは伊国の出身だけど、どう思ってるの? 今の国主。」
「伊国で生まれ育った私には今の状況は正直悔しいわ。」
お仙さんの話によると、今の伊の国主はもともと伊の人ではなく、亜国から派遣されてきた人なのだそうだ。
「伊国の王子様を人質に取る代わりに、亜国と伊国は同盟を組んだんです。そして、伊国の王子様が元服したら、王子を伊国に返してくれる約束でした。」
「そうよね。でも、今の亜国の国主になって、急にその約束を反故にされたのですよね。」
「そうなんです。今でも伊国の王子様は人質としてこの亜国で辛い思いをしているそうです。そして、代わりに今の伊国の国主に据えられたのは、亜国の国主の甥にあたる人です。」
「それって亜国が伊国を乗っ取ったてことですか?」
「そうです。今は伊国は亜国の属国みたいな扱いです。伊の民から沢山税金をとって、亜国の国主に流しているみたいなの。伊の民たちは皆、伊国の王子様が帰ってきてくれることを願っています。」
お仙さんは悲しそうに言った。
お仙さんも、みんなも、激動の国政の中に暮らしているんだな。
こんなにも不安定な状況で、みんな子供を育て、家計を助け、とてもたくましく生きている。
改めて、ここにいるみんなに、尊敬の念を抱いた。
手習い所での仕事と、噂話タイムが終わると、私はカムナリキの修行を始める。
オババ様に手習い所を運営する代わりに、カムナリキの修行は欠かさないと約束した。
毎日、毎日、カムナリキで攻撃する力加減を調節する方法を試した。
岩を相手にカムナリキを放出して、沢山の岩を粉々に砕いてしまった。
でも、ここ数日、ようやくカムナリキの放出量を調節できるようになっていき、コツを掴めた気がした。
「オババ様、ちょっといいですか?」
神殿でゴロゴロしていたオババ様を起こす。
「どうした?」
「多分、カムナリキの放出量を調節できるようになりました。でも、岩でしか試してないからよくわからなくて。」
「ほう、見せてみろ。」
オババ様は寝転がりながら言った。
私は近くにあった、オババ様の湯呑を目の前に置いて、雷石のついた数珠に左手を当て、右手の手のひらを湯呑にかざした。
カムナリキを放出すると、バチンと小さな電気の筋が走って、湯呑にあたり、湯呑はコトリ、と倒れた。
「なかなか良いな。もう少し強くできるか?」
「はい。」
私は湯呑を起こして、もう一度、カムナリキを放出する。
今度はバチバチと音がして、さっきより太めの電気の筋が走った。
湯呑はパン!と音を立てて、30cmくらい飛ばされて倒れた。
「うむ。良いな!」
「でも、人に当てるとどのくらい痛いのかがわからなくて。自分に当てても全然痛くないんです。」
「自分のカムナリキで自分を攻撃することはできぬからな。では、やはり人で実験せねばな。」
「でも誰がこんなことの実験台になってくれるでしょうか?」
「ワシがいい実験台を見つけてやる。」
オババ様が不敵な笑みを浮かべた。
―― 何か、嫌な予感がする。
「ところで、那美。」
「はい?」
「それだけカムナリキの放出を調節できるようになったのだから、オヌシの修行も次の段階に移らねばな。」
「わーい! 嬉しいです! 次はどんな修行ですか?」
「次からは研究室での修行じゃ。」
「研究室で? オババ様も時々こもって何かしていますよね?」
「そうだ。私は私の力を使って何か新しい物や仕組みを開発できないか模索している。一度自分のカムナリキの放出量を調節できるようになれば、いろんなことに活用できるようになる。オヌシも自分のカムナリキの使い道を広げられるようになるぞ。」
「すごくやりがいがありそうです!」
「うむ。では、次から、手習い所の仕事が終わったら、研究室に来るように。」
「はい!」
私はようやく修行の第二フェーズをクリアできたみたいだった。
やっと研究室デビューできる。
「ところで、那美、明日の宴のことは皆に告げたか?」
「はい。ちゃんと伊月さんに文で伝えて、返事も来ました。」
「そうか。宴の準備は進んでいるのか?」
「もちろん、万事オッケーです!」
「桶???」
――――
伊月がいつものように朝、剣術の稽古をしていると、庭の裏手にある門の外に人の気配がした。
「主、戻りました。」
気配の主が声をかける。
「入れ。」
裏門から、清十郎が庭に入り、伊月の前にひざをついた。
「主、あの男の所在を突き止めました。」
「良くやった。」
清十郎の報告によると、魔獣を扱うことの出来る男は内藤丈之助と名乗っているが、本名ではなさそうだということだ。
江の国を本拠にしているが、なぜかよく亜の国に出入りしている。
「亜の国では買い物をしたりして帰るだけで、他の者との接触は認められません。ただ、気がかりなのは、亜国に来るたびに、カグツチの祠に必ず行きます。」
「何か目的があるに違いない。引き続き、頻繁に亜国を訪れる理由を調査しろ。」
「は。」
「他に分かったことは?」
「今のところ、あの者が扱えるのは先日主がとらえた、火を吐く翼竜のみです。」
「今のところというと、内藤という男はもっと他の魔獣をつかいたがっているのか。」
「おそらく。自身の力を研究しておるようです。ですが、他の者に術を教えるということはないようです。」
「それでは組織を作っているわけではないのか。」
「それが、組織を作っているのです。」
清十郎がいうには、内藤の率いる組織は、どうやら強盗などを生業としているごろつきが主で、魔獣を扱えるものや、そういった術に興味のある者は他にいないらしい。
「江の国主との関係は?」
「たぶん、魔獣を使える力を買われて、雇われたのかと。まだ、はっきりはわかりません。良ければ、江の国に潜入捜査したく。強盗一味の一人に近づこうかと。」
「良し。許す。無事に戻ってこい。」
「承知。」
清十郎は次の瞬間にサッといなくなった。
伊月はそのまま剣術の稽古を終えて、汗を流し、着替えた。
仕事のために自室に戻ると、文机の上に何通かの文が置いてある。
いつも文が届くと、源次郎がこの文机に置いておくか、伊月に直接渡す。
重なり合った文の束の一番下に薄桃色の封筒が見える。
「那美どのか…。」
―― 相変わらず、このような文をもらうのは慣れんな…。
と、思いつつも、真っ先に手に取って、開けてみる。
先日、黒鍬衆の者たちに、あのボロ小屋の修繕をするように命じたのだが、その礼がつらつらと書いてある。
黒鍬衆が屋根に空いた雨漏りの穴を見つけ、修繕してくれ助かったと書いてある。
ネズミが入って来るとオババ様が言っていた壁の穴もふさがったらしい。
他にも、お仙さんがネズミが大嫌いで、怖がっていたけど、その心配がなくなり、助かったということ。
黒鍬衆は文机も作り、皆、勉強道具がそろって、やる気になっているということが書かれている。
このようなことはとっくに黒鍬衆から報告を受けたが、改めて那美が書いて知らせてくると、ただの事実報告だった内容に彩が加えられる気がした。
―― 那美どのが書くと、皆の喜んでいる顔が思い浮かぶ気がするな。
そして、文の最後には、宴を催すので来てほしいとあった。
手習い所の開設のお祝いと、協力してくれた皆への感謝会を兼ねての催しだということだ。
筆を取り、さっそく返事を書こうとするが、すぐに筆が止まった。
前々から、那美に文を書く度に、源次郎からダメ出しをくらう。
例えば、以前、湿布薬を送った時に文を添えたが、源次郎曰く、
「これは文というか、薬の使い方を教える、指南書ではないですか。もっと、こう、心配しているとか、早く良くなってほしいという気持ちを込めるべきです!」
ということだった。
だから、『はやく良くなるように願う』と書き足したが、それでも「色気がない」とダメ出しされた。
―― 文と言っても、何を書けばいいのか… 色気とはなんだ!?
とりあえず思いついたことを書くことにする。
「息災にしているのか? 手習い所の仕事はどうか?何か要り用の物はあるか?宴には行かせてもらう。』
―― こんなことしか書けぬ。
頭を抱えていると、源次郎が茶を持って入ってきた。
「主、那美様にお返事ですか?」
「な、なぜ分かる?」
「分かりますよ。それよりも、今回は指南書ではないものを書いて欲しいものです。」
「今回は指南書ではない。」
源次郎に書きかけの文を見せると、今度は源次郎が頭を抱えた。
「これでは、報告を促す催促状ではありませぬか。女人の好きそうな短歌の一つでも添えたらどうですか?」
「た、短歌だと?」
「はい。季節の花の色や鳥の声の様子も書き添えたりすると良いですよ。」
「源次郎、その思考はどこからやって来る?」
「私は主よりも頻繁に女人に文を書くのです。」
「そ、そうなのか?」
「はい。そうですよ。」
源次郎はあきれたように、それでは、と言って部屋を出て行った。
「短歌だと?花の色?鳥の声?」
伊月はしばらく文机に座って眉を寄せていたが、降参し、仕事の書類を片付け始めた。
しばらく仕事に専念していると、文机の先の窓から、最近、庭に咲きはじめたスズランが見えた。
伊月は那美宛の文に書き足す。
『庭に鈴蘭が咲き始めた。暇があればまた庭の花でも見に来ると良い。』
―― これ以上は無理だ。むぞがゆすぎる!
伊月は早々に文を折り、封に入れて、源次郎に渡した。
「何か趣のある内容を書き添えられましたでしょうか?」
文を受け取りながら源次郎が聞く。
「スズランが咲いたので見に来ると良いと書いた。」
どうせまたダメ出しをしてくると思っていたが、源次郎は意外にも、
「おぉー!それはようございますね!」
と嬉しそうに言った。
「スズランの花言葉は幸せの再来にございます。」
「そ、そうなのか?」
「それを見にまた我が家に来られるようにと那美様に促し、那美様の再来が幸せの再来であると、かけられたのでございますね。」
「あ、いや、そういうわけでは・・・」
「なかなかでございます、主。では、文を出してまいります。」
源次郎は嬉しそうに部屋を出ていく。
―― まったく源次郎のやつ、花言葉なぞどこで習うのか?
伊月はそれ以上考えないようにしたが、ふと、
―― 那美どのもあの一文を読んで源次郎のように解釈するのだろうか。
と思い、顔が赤くなった。
空が夕焼け色に染まった。
今日は朝からずっと宴の準備をしていた。
「準備万端だね。」
夕凪ちゃんと私は、今日二人で一日かけて作った料理の数々を見回す。
「バッチリだね。気がかりはオババ様のつまみ食いだけだね。」
夕凪ちゃんは真剣に言ってる。
「ねえ、那美ちゃん、そろそろ着替えて来なよ。そんな格好でお客様をお迎えできないよ。」
私は朝からバタバタと宴の準備をしていたので、襷をかけて、着物の裾を上げ、手拭いで髪を覆っていた。
「そ、そうだよね。じゃあ、ちょっと着替えて来るね。夕凪ちゃんは着替えないの?」
「私は化けだぬきだから、直前に化ける。」
「あ、そっか。じゃあ、行ってくるね!」
「ちょっとはお化粧もしておいでよ。」
「う…。苦手だけど頑張るよ。」
何とかいつもより5%くらい増しでおしゃれして、宴の時間に間に合った。
いよいよ日が暮れて、次々と招待客が訪れ始める。
私は準備した部屋へとお客様たちを案内する。
お仙さんとお仙さんのママ友たちも今日は旦那さんを連れて来てくれた。
手習い所の小屋を修繕してくれた黒鍬衆の人達も来てくれた。
他にもオババ様の眷属の吉太郎と吉太郎の仲間、オババ様と古い付き合いだという神使の猿の一団、八咫烏さんなど、あやかしたちも来た。
「お、那美、今日は前に会った時よりも着飾ってて可愛いぞ。ますます美味そうな匂いがしておるな。」
八咫烏さんが開口一番そういった。
「あーはいはい、ありがとう、八咫烏さん。」
私の中で八咫烏さんはチャラ男認定されているので、話半分に聞きながら、席に着かせる。
そこに、伊月さん、源次郎さん、正次さんたちもそれぞれ馬に乗ってきた。
正次さんも八咫烏さんと同様に開口一番
「おぉ、那美様、今日はまた一段とお美しいですな!」
と、言った。
―― 八咫烏さんと正次さん、ちょっとチャラいところがそっくりだ。
伊月さん達が来ると、お仙さん達の旦那さん方や黒鍬衆たちは床に頭をついて平伏していた。
―― あ、皆、兵だから、将軍の伊月さんは上司になるのか。
でも、伊月さんは
「今日は仕事に関係のない宴なので上も下も関係なく無礼講でお願いしたい。この通りだ。」
と言って皆に頭を上げさせるとともに、自分が頭を下げた。
―― そういう偉ぶらない伊月さんは、やっぱりかっこいいな。
「何をニヤニヤしておる気色悪いぞ。」
後ろからオババ様の声がする。
振り向くと、いつもとは違う衣装のオババ様がいた。
「あ、オババ様、すごくキレイ!」
いつもは裾引きの薄い着物を幾重にも重ねて割と派手目な格好のオババ様だけど、
今日は長袴に水干の巫女姿という、いつもよりシンプルな装いだ。
そのシンプルさが、オババ様の銀色の髪や、深紅色の目や、人間離れした雰囲気を引き立たせている。
そして銀色に輝く髪には金色に輝く冠のような簪を付けている。
「ワシはいつも美しいのだ。」
自信たっぷりに言うオババ様にクスっと笑う。
「自分で言うのはどうかと思いますが、反論はできません。」
皆が揃い、席に着いたのを見て、オババ様が挨拶をした。
「さて、ご来場の方々。今宵は那美のために手を貸してくれた皆に感謝を表す宴じゃ。大いに食べて、飲んで、歌って踊ろうぞ! 乾杯!」
オババ様が乾杯を皆に呼びかけ、宴が始まる。
夕凪ちゃんと私は皆に料理を運び、お酌をして、一人ずつ挨拶をしていく。
皆、思い思いに会話と料理とお酒を楽しみ、楽しそうだ。
ある程度お酒も料理も行き渡り、私も夕凪ちゃんも席に着いてくつろぐことにする。
私は伊月さんの横に空いている席を見つけて座る。
「伊月さんも、お酒、どうですか?」
「頂こう。」
私は伊月さんの盃にお酒を注ぎ、横顔を見た。
伊月さんはお酒を飲む姿まで優雅だ。
「今日は来て下さってありがとうございます。」
「こちらこそ、呼んで頂いて感謝する。源次郎も正次も、あのように喜んでいる。」
伊月さんの指差す方を見ると、源次郎さんも、正次さんも、そして八咫烏さんも、手習い所に来ている若い生徒さんたちと楽しそうに会話している。
「ふふふ。楽しそうで何よりです。」
「那美どのも、一杯どうか?」
「良いんですか? じゃあ、一杯だけ。」
伊月さんが私にお酌してくれる。
「んー! 美味しいですね。」
オババ様が皆のために用意してくれたお酒は、少し甘さがあり、まろやかだった。
お酒を堪能していると、オババ様が、伊月さんに声をかけた。
「伊月、拐かしの事件の捜査はどうじゃ。」
「それがサッパリです。若い女を狙っているみたいで、私達のようなむさ苦しい者が調査を始めるとパタッと事件がなくなる。」
「そんな事だろうと思い、今日はワシが良い案を授けてやろうと思ってな。」
オババ様は言いながら私の顔を見てニヤっと笑った。
―― な、何?
「おとり捜査をしてはどうか。那美が、おとりになる。」
「は?」「え?」
伊月さんと私は同時に驚いた声を出した。
「それは、出来ぬ。危ない目に合ったらどうしますか?」
伊月さんは即座にオババ様の案を却下する。
「那美は最近カムナリキの使い方を心得て来ておるので、多少危ない目に合っても自分の身は守れるぞ。」
そういえば、私のカムナリキの攻撃がどれくらい効くのか実験する相手がいないと言ったら、オババ様が実験台を見つけてやると言っていた。
「オババ様、実験台ってもしかしてこのことですか?」
うんと、オババ様がうなずく。
―― 確かに誘拐犯人が相手だったら気兼ねなく力を試せるな。自分のカムナリキを試せる絶好のチャンスかも。
それにもしかしたら、少しでも伊月さんの役に立てるかもしれない。
「伊月さん、あの、お願いです。やらせて下さい。」
私は伊月さんの顔を覗き込んだ。
「駄目だ。」
「お願いします!」
「駄目なものは駄目だ。危険すぎる。」
伊月さんは譲る気がなさそうだったけど、私も引き下がらなかった。
「今、調査は難航してるんですよね? その間にも他の人が拐かされちゃうかもしれないじゃないですか? 少しでも違うことを試したほうがいいと思います。」
「だが…。」
「何かお役に立てそうなことがあるのなら、少しでも可能性があるのなら、させて下さい。」
私は伊月さんに向かって深く頭を下げた。
「伊月、那美はオヌシが思っているよりずっと怪力じゃぞ。自分の背丈ほどの岩をやすやすと砕ける。那美の力を信じてみろ。」
オババ様も説得してくれる。
「…」
伊月さんは黙っていたが、ふうっとため息をついて、私の両肩を掴み頭を上げさせた。
そのまま私の目を見て、子供に言い聞かせるように言う。
「分かった。ただし、危なくなったらすぐに身をひくことだ。無茶をしないと約束できるか?」
「はい!」
私はこうやって伊月さんの調査に加わることになった。
「よし。決まりだな。だが、その前に、今夜は宴を大いに楽しめ。」
そういうとオババ様は立ち上がり、声を大にした。
「これより舞を奉納する!」
皆の拍手を受けながら、オババ様が神楽舞台へと立った。
オババ様の招待で来ていた神使の猿の一団がそれぞれ楽器を手に舞台へと上がる。
猿の神使たちの演奏が厳かに始まった。
それに合わせてオババ様も巫女舞を始める。
「わぁーキレイ。」
オババ様の舞はとても神秘的で美しい。
水干の袖が、長袴の裾が、ひらひらと翻り、その優雅さに目を奪われる。
オババ様が鳴らす鈴の音も耳に心地良い。
思わず我を忘れ見とれていると、
「おぉー!」
と皆が空を見上げ、歓声を上げ始めた。
私も皆の視線を追って空を見上げる。
何と、そこには大きな龍が銀色に輝く体を雲に乗せて、空からオババ様の舞を見ていた。
「え? りゅ、龍?」
驚く私に伊月さんが教えてくれる。
「淤加美の龍だ。タカオ大社に祀られている、オババ様の父上、高龗だ。」
オババ様は以前、カムナリキを神のために使うには舞や音楽を奏でる必要があると言っていた。
「す、すごい。」
あまりに神秘的で美しい光景に目を奪われているうちに、オババ様の舞が終わり、音楽が鳴り止んだ。
その瞬間、空を飛んでいた龍の体からキラキラと光の粒が降りてきて、その光とともに龍の姿が見えなくなった。
わっと皆の拍手喝采が鳴り響いた。
「このキラキラしたのはなんですか?」
「神の祝福だ。ここにいる皆に神の加護があるとおぼしめされた。」
「まぁ素敵ですね!」
私も皆と一緒に拍手しながら感動を隠せずにいた。
お仙さんやお仙さんのママ友さんたち、彼女たちの旦那さん方、他の手習い所の生徒さんたち、黒鍬衆の皆さんが、ほろ酔いのまま少しずつ帰って行く。
私は一人ずつ挨拶をして、来てくれた感謝を伝え、見送る。
―― 皆、楽しそうにしてくれてて良かった。
食事も美味しいって言ってくれたし、頑張って作ったかいがあったな。
何よりもオババ様の舞は感動的だった。
―― ただ、あれはないな。
オババ様はその後、グダグダに酔って、皆に絡み、酒癖の悪さを発揮していた。
源次郎さんや正次さんにも無理矢理飲ませていた。
八咫烏さんや猿の神使の皆は、オババ様の酒癖の悪さを知っていたみたいで、「絡まれぬうちに帰る。」と言って退散して行った。
夕凪ちゃんも眠いから寝るって、煙をまいて消えてしまった。
私が帰って行く皆のお見送りを終えて、宴を催した部屋に戻ると、オババ様、正次さん、源次郎さんが酔いつぶれてグースカ寝ている。
―― あれ? 伊月さんの姿が見えないな。
私は床で寝転がってる人たちが風邪をひかないように、お布団をかけてあげることにした。
別の部屋から布団を運んでいると、伊月さんが後ろから、歩いてきた。
「私が持とう。」
そういうと、伊月さんは私の手からスッと布団を奪い取った。
「あ、ありがとうございます。皆、酔いつぶれちゃって、寝てしまったので、お布団をかけようと思って。」
「酔っ払いどもにそこまでせずともよいのではないか?」
伊月さんはそう言いながらも、お布団を皆にかけるのを手伝ってくれた。
「伊月さんはどこか行ってたんですか?」
「ああ、馬の様子を見ていた。那美どのはもう眠いか?」
「いいえ。私、ほとんどお酒飲んでなくて、まだ眠くないです。」
「馬に乗ってみるか? 夜だから速駆はできぬが。」
伊月さんからの突然の提案に胸が弾む。
「いいんですか? 馬に乗ったことがなくて。乗ってみたいです!」
私と伊月さんは厩まで歩いた。
伊月さんが自分の馬を私に紹介してくれる。
黒くてツヤツヤの毛並みをした馬だった。
「黒毛という。」
―― ネーミングセンスがそのまんまでウケるかも。
―― せめて〇〇黒毛とかにしてもいいのに。
「黒毛さん、こんばんは。どうぞ宜しくお願いします。」
黒毛は私に鼻を寄せクンクンとにおいをかいだ。
恐る恐る頭を撫でると、もっと撫でろというように顔を擦り寄せてきた。
「ふふふ。かわいい!」
伊月さんに促され、私は黒毛の背中に乗せてもらう。
そして、私の後ろに伊月さんが乗った。
体が密着して、伊月さんの筋肉質な体を背中に感じて、どうしようもなく胸がドキドキし始める。
極めつけに、後ろから、伊月さんの手が私の両手を持った。
後ろから抱きしめられているような感覚に陥り、ドキドキがさらに加速する。
「ここに掴まっておけ。」
と言って、鞍の出っ張った所を持たせてくれる。
「は、はい。」
「タカオ山の西側に、ちょっとした崖がある。行ったことがあるか?」
「いいえ。そのへんはまだ。」
「そうか。ではあの崖まで行こう。」
伊月さんが私の顔の近くで話すから、重低音ボイスが耳元をくすぐって、さらに鼓動が速くなる。
―― ちょっと、心臓がもたない!
「そ、その崖に何かあるんですか?」
「月がよく見える。」
伊月さんが手綱を握り、黒毛の横腹を軽く蹴ると、ゆっくりと前進し始める。
「うわぁ、結構ゆれるんですね。」
「あぁ。私に背中をもたれさせておけ。」
伊月さんの太くてゴツゴツとした片腕が私のお腹にそっと回って、体を支えてくれる。
ドキドキしながらも、私は伊月さんの大きな体に自分の背中を預けた。
伊月さんの息遣いや、心臓の音が聞こえた。
そしていつものヒノキのお香の香りが鼻をくすぐる。
「何だか、とても安心するな。」
「そ、そうか…」
―― あ、また、つい心の声が漏れてしまった。
「ほら、もう着くぞ。」
伊月さんがそう言うと、周りに繁っている木々の数が減り、先の方に岩肌がむき出しの崖が見えた。
そのまま真っすぐ馬を歩かせると、視界を遮る木々は完全になくなった。
ただ目の前に大きな月が二つ並んでいる。
「わぁ。」
山肌から突き出ている崖に立つと、夜の空に岩ごと浮いているような感覚に襲われる。
月が大きくて近い。
「月まで歩いて行けそう!」
雲ひとつない晴れた夜空は言葉では言い表せないほど綺麗だ。
伊月さんが、馬から降りて、私の手を取り、馬から降ろしてくれる。
「この月を肴に一献傾けようと思ってな。」
伊月さんは岩肌に腰を下ろすと、腰に下げた酒瓶を見せた。
私も伊月さんの隣に腰を下ろす。
「こんな景色を肴にお酒って、何て、ロマンチック。」
「ロマンチックとは何だ?」
「えっと、情緒的というか、趣があるというか。」
「私には皆目似合わぬ言葉だ。」
伊月さんは苦笑いをしながら、懐から手ぬぐいの包みを取り出した。
綺麗に包んである手ぬぐいを開くと、中からお猪口が二つ出てきた。
「那美どのも飲むか?」
「じゃあ、少し頂きます。」
私達はまたお酌しあって、改めて乾杯した。
私は伊月さんがくれたお酒を一口飲んだ。
「はぁぁ。おいしい。本当に月が綺麗ですね。」
美味しいお酒と綺麗な月にウットリしていると、伊月さんがぼそっと言う。
「そなたの方が綺麗だ。」
―― え?
私はびっくりして伊月さんを見つめた。
「な、何でもない。」
伊月さんは私から目をそらし、月を見ながらお酒をグイっと飲んだ。
―― 頑張ってお世辞言おうとしてくれたのかな?
八咫烏さんや正次さんと違って、不器用な感じの褒め方が妙にくすぐったかった。
「そういう伊月さんはとてもかっこいいですよ。」
私は空になった伊月さんの杯にお酒を注ぎながら言った。
「世辞など言わなくていい。」
―― 本心から言ったのにな…
「お世辞じゃないです。いつも思ってます。大きくて、カッコよくて、私を助けてくれて、私にとってはスーパーヒーローです。」
「すうぱあひいろ、とは何だ?」
「えっと、英雄ってことです。」
「英雄? 私が?」
伊月さんは心底驚いたように目を大きくした。
「城どころか砦一つ持たぬ、扶持暮らしの一介の将だぞ。」
伊月さんは言いながら自嘲気味に笑う。
「そんなこと関係ないです。伊月さんは私のスーパーヒーローです!」
お世辞で言っていると思われたのがヤケに悔しくなり、ムキになって言い返す。
別にお城や砦を持ってなくても、沢山の兵士を率いる将ってだけですごいと思うのに。
伊月さんは一瞬びっくりして、破顔した。
「そんなに力説せんでもいい。」
私も少し恥ずかしくなって、恥ずかしさを紛らわすために、お猪口のお酒を飲み干した。
伊月さんがまた、お酒を注いでくれる。
「那美どのはこの世に来て三カ月も経たぬうちにすっかり馴染んでおるようだな。お仙どのの様子も前と変わっていた。知識を得てどこか自信がついたようだった。」
「そうですか? そうだといいです。」
お仙さんやお仙さんのママ友達は算術を覚えて、家計簿をつけ始めた。
やりくりが上手くなって、どうすればいいのかわかるようになってきたと言っていた。
「そういえば、お仙さんは伊の国の出身だって言ってましたけど、伊月さんもですよね?」
「ああ。ここを真っすぐ西に行くと私の生まれた地だ。」
伊月さんは崖の先をゆび指さした。
「お仙さんが言ってました。伊の国の人はみんな、伊国の王子様が帰って来て、国主になってくれることを望んでいるって。伊月さんもそうですか?」
「そうか、お仙どのはそう言っていたのか。」
伊月さんは私の質問には答えずに遠い目をした。
「ならばいつか伊に帰らねばならぬな。」
私はまた空になった伊月さんの杯にお酒を注いだ。
「どういうことですか?」
伊月さんは月を見たまま悲しそうに言った。
「その伊国の王子というのは私のことだ。」
「え? 伊月さんが伊国の王子様?」
「ああ。私もそなたの秘密を知っているから、そなたにも私の秘密を教えよう。」
伊月さんは崖の下を見ながら言う。
「伊国の前の国主は私の父だ。家督相続権のある息子は私一人で、子供の時に人質としてこの国に来た。」
そういった横顔が儚げでまるで月光に消えてしまいそうだった。
―― そういでば…
亜城の近に、位の高い武家の屋敷の並ぶ一画にある、一際小さい伊月さんの屋敷を思い出した。
―― そうか、隣国の王子だから位は高いけど、この国では冷遇されてるってことか。
伊月さんが城も持ってない扶持暮らしだと自嘲したのも納得がいった。
人質に出されずにそのまま家督を継いでいたら、一国一城の主になっていただろう人だ。
「共舘という氏は亜の先代の国主がくれた名だ。お仙どのもまさか私が伊国の前国主の息子とは思っていまい。」
異世界からやって来た私が新しい世界に馴染んでいるか伊月さんはいつも気にかけてくれてた。
そんな伊月さんも自分の意志に関係なく知らない土地に行かされた人だったんだ。
―― そして名前まで奪われて…。
「元々の名前は何ていうんですか?」
「豊藤だ。伊の国を興した一族の名だ。」
―― 豊藤伊月
私はなぜか伊月さんの本当のフルネームを心の中で反芻した。
―― 綺麗な名前。
「このことはお仙どの達には内緒にしておいてくれるか?」
伊月さんは私の顔を覗き込む。
「もちろん、言いません。約束します。」
私はうなずいて、伊月さんに小指を突き出した。
「それは何の仕草だ?」
―― あ、この世には指切りってないのかな。
「私のいた世では約束する時に、こうするんです。」
私は伊月さんの右手をそっと取って、その小指に自分の小指を絡めた。
「指切りって言うんです。」
「物騒な名だな。」
「ふふふ。はい。でも、それくらい本気の約束ってことです。」
「そうか。」
「はい。指切りです。約束の証です。」
「ああ。約束だ。」
伊月さんはいつになく優しい笑みを浮かべた。
私も笑みを返した。
「伊月さんと秘密を共有してるって、何か、嬉しいです。」
少し酔いが回ってきて、普段は恥ずかしくて言えなさそうな事が口をついて出てくる。
「なぜだ?」
「それは、伊月さんのこともっと知りたいからです。」
「な、なぜだ? 私のことを知っても何の得にもならんぞ。」
「得とかそういうの、関係なく、ただ知りたいんです。」
伊月さんは私の顔を覗きこむ。
「酔いが回っておるな? これは没収だ。」
伊月さんは私のお猪口を取り上げた。
「あー、伊月さん、いじわる。」
「そろそろ戻るぞ。」
伊月さんは私を立たせた。
自分で思うよりも酔っていたみたいで、足元がおぼつかない。
立ち上がる瞬間に少しよろけて、伊月さんの胸の中にすがってしまう形になった。
「す、すみません。」
「かまわん。そのまま歩けるか。」
「はい。」
伊月さんは私の腰をぐっと引いて体を支えてくれながら歩き始めた。
密着した伊月さんの着物越しに、心臓の音がする。
そしていつものヒノキの香りがした。
「伊月さんといると、安心します。」
「そ、そうか…。だが、あまり安心するな。」
伊月さんはため息まじりに言いながら私を馬に乗せた。
「安心するなって、どうしてですか?」
「分からぬなら、良い。」
ぶっきらぼうに言いながらも、伊月さんは馬に乗り、優しく私の体を支えてくれる。
「こんなに素敵な所に連れて来てくれてありがとうございます。」
「ああ。」
馬が歩き始める。
「この場所、ずっと崖って呼んでますけど、名前はないんですか?」
「名前?ないな。ただ、崖とか、あの峠とか呼んでいる。」
「じゃあ、月の峠って名付けましょう。特別感出るし。」
「いい名だな。」
「伊月さんと、また来たいです。」
「あぁ。」
馬上の揺れがとても心地良い。
「伊月さんと、もっと…一緒に...いたいです。」
「なっ、も、もう黙っていろ。…て、寝たのか? お、おい。那美どの?」
―――
朝目覚めたら、自室の布団で寝ていた。
―― え? どうやって帰ったんだっけ??
慌てて起きて台所に行くと、夕凪ちゃんが朝ご飯の支度を始めていた。
夕凪ちゃんによると、伊月さんが源次郎さんと正次さんを叩き起こして、日の出と同時に帰っていったそうだ。
―― もしかして伊月さんが私を部屋まで連れて行ってくれたのかな。失態をさらしてないといいけど。
この日、オババ様は昼過ぎまで起きてこなかった。
那美に呼ばれた宴に行く直前、出かける準備をしていると、堀が伊月の屋敷にやって来た。
「良いですか、殿!」
そして、前のめりで言う。
「宴の前に、女人の甘やかし方を伝授いたします!」
「なぜだ?」
伊月は訝し気に眉根を寄せた。
「なぜって、伝授しなければ、あまりにも那美様が可哀そうだからです。」
「那美どのが可哀そう? ど、どういうことだ。」
適当にあしらってスルーつもりだったが、意外な堀の言葉に、伊月は少し耳を傾ける気になる。
「那美様はあんなに健気にも殿の事をお慕いされておりますのに、殿ときたら那美様の喜ぶようなことを全然言いませんし、致しません。」
「ちょ、ちょっと待て! まず、那美どのが私のことを慕っているというのはありえん。」
はぁぁぁ、と物凄いため息が聞こえて振り返ると、源次郎だった。
「主、女人のこととなると、なぜそんなにも鈍感なのですか!」
「は?」
「あんなに文をお互い書きあったり、お会いになった時も仲睦まじく…。那美様は主を一人の男として見ておいでです!」
源次郎が力を込めて言う。
「それは、私は男だからな。女には見えんだろ。」
「はぁ。私が言っていることはそういうことでは…」
源次郎がいつになく白らけた目を伊月に向けている。
「まぁ、とにかく、殿、今日は聞いて頂きます。女人の甘やかし方を!」
堀が詰め寄った。
「しっかり、堀様のお言葉をお聞きください、主!」
源次郎も詰め寄った。
―― ちゃんと聞かんと逃げられぬ雰囲気だな。
伊月は諦めて、居住まいをただした。
「よし、聞く。言え。」
「まず、いつもとは違う簪をしていたり、紅をひいていたりしたら、それを褒めることです。」
「どうやっていつもと違う紅とわかる?」
「日ごろからの観察でございます!分からぬ時はただ綺麗だと言えばよろしい。」
「そなたら、そういう、こっぱずかしいことを女人に普通に言えるのか?」
「もちろん。」「当たり前です。」
二人とも同時にキッパリと返事をした。
「次に、馬に乗せるとようございます。」
「何故だ?」
「二人の距離がグッと縮まります。」
「それは、女人のためではなく、己の下心のためではないのか?」
伊月が片眉を上げ、堀を見る。
「もちろんそれもありますが、女人は馬に乗る機会が少ないのです。馬に乗れるとなれば、きっと喜びます。馬をなでるだけでも嬉しがるものです。」
「…そうか。」
「堀様はいつもそうやって町娘を…」
「げ、源次郎どの、それは今はいいではないか。」
堀は焦ったように源次郎を諫めた。
―― 源次郎も堀も私の知らぬところで色々とありそうだな。
伊月は今までこの二人のそういうプライベートに興味もなかったが、今頃そんなことに気づき始めた。
「殿、そして、何より、場所が大切です。 景色の美しい所に連れて行くと女人は何より喜びます。」
「景色の良いところか…。 それなら、いくつか知っている。」
「お、その調子で御座います。 できるだけ人気のない所がおススメです。 二人でゆっくり話ができますから。」
「なるほど。一応、心に留めておく。」
―――
宴に着くと、なるほど、堀も源次郎も、そして八咫烏まで、女人に対してポンポン誉め言葉を言っている。
―― よくそういう歯の浮くようなことを言えるものだ。
そして、手習い所の若い女たちとすぐに打ち解けていた。
少し飽きれて観察していた伊月の元に那美が来て酌をした。
いつもより着飾って化粧をしている那美を見て、素直にきれいだと思ったが、それを素直に言えなかった。
―― 何故、堀たちはあんなにも、いとも簡単に口に出せる?
不思議に思いながら酒を飲んだ。
宴もたけなわとなり、皆が酔いつぶれ、思いがけなく那美と二人になったので、馬に乗りたいか聞いてみたら、いたく喜んでいた。
―― 堀の言ったこともまんざら嘘でもなかったな。
そうして馬に乗せたはいい物の…
―― こ、これはいかん!
那美の体を後ろから抱きしめているような形になってしまい、伊月は焦った。
月明りに照らされて、那美のうなじがなまめかしく見えた。
少し甘い花のようなにおいが那美の髪から香った。
一生懸命平静を装おうとするくらい一人ドギマギしているのに、那美は、「何だか、とても安心するな。」と言う。
―― この前、背中におぶった時もそうだったが、かなり安心されている…
伊月は複雑な気持ちだった。
源次郎は那美が伊月を男として見ていると言ったが、その割には安心しきって警戒心がない。
―― 男として意識していない証拠ではないか?
酔いが回ってきて、那美の目がとろんと溶けたようになる。
那美の顔が少し上気して、赤くなってきた。
うるんだ目で見つめられてどうしようもなく、胸をかき乱された。
どうしても酒でうるんだ那美の唇に目線が行ってしまう。
―― いかん、このまま一緒にいてはダメだ!
頭の中で警告がなり、那美から酒を没収して馬に乗せる。
那美のふらつく体を支えると、また、「伊月さんといると安心します。」などと言う。
―― やはり安心されているではないか!
と、思えば、「もっと…一緒に...いたいです。」などと言われる。
―― また、そういう事を言って私の心をかき乱す!
「なっ、も、もう黙っていろ。…て、寝たのか? お、おい。那美どの?」
伊月はスヤスヤ眠る那美の寝顔を見た。
気を失っていた時とは違う、安らかな寝顔だった。
部屋まで運び、布団に寝かせても、赤ん坊のように眠りこけて起きない。
―― ふっ。可愛いな。
こういう寝顔を見れたのだから、堀の助言はまずまずだったなと思い直した。
しばらく、そのまま寝顔を見守っていた。
那美は、伊月、堀と一緒に、城下町の外れに来ていた。
すっかり夜も更けて、もう誰も外を歩いていない。
「理想を言えば、犯人を生け捕りにし、主犯が誰か吐かせることだが、」
伊月は那美の目を覗き込んだ。
「那美どの、そなたの安全が第一だ。もし危うくなったら犯人を殺してしまっても致し方ない。」
「は…い。」
今日から、那美のおとり捜査が始まる。
堀の調査で、過去の拐かし事件が発生した経歴から、次はこのあたりに犯人が来る可能性が高いと思われた。
「とは言え、予想の範囲を超えぬので、とりあえず、このあたりを那美様一人で歩き回って頂けませぬか?」
「何事もなければそれはそれでいい。」
「殿と私は陰で見守っています。他にも兵を伏せております。危なくなったらすぐに駆けつけますが、できれば犯人の拠点までたどり着きたく思っています。」
「はい。大丈夫です。行ってきます!」
「待て。」
伊月は行こうとする那美の腕を取った。
「無茶は禁物だ。乱暴なことをされたら、すぐにカムナリキで攻撃して逃げること。我慢しないこと。約束だ。」
伊月は右手の小指を突き出した。
それを見て、那美は大きく頷き、伊月の小指に自分の小指を絡めた。
「約束です。」
その様子を堀は不思議そうに見ていた。
那美は一人で路地を出て、外をうろつき始める。
今日は月に雲がかかっていて、提灯を持っていても、足元がよく見えない。
しばらくウロウロしていたが、何も起こらなくて、那美は調子が狂うなと思った。
ふと立ち止まって、空を見上げる。
―― 本当に誘拐犯、出るのかな?
と、那美が思った瞬間だった。
ガサガサっと足音がして、びっくりして後ろを振り向くと、黒い頭巾をかぶった男が三人現れた。
―― きゃ!
次の瞬間、那美は一人の男に羽交い締めにされ、口を布でおさえられた。
他の二人には腕と足をおさえられる。
「声を出すな。暴れれば殺す!」
男の声がする。
那美はうんうんと頷き、抵抗しない意思を表明する。
口を塞がれた布からは不思議な臭いがする。
―― これってずっと吸ってたら駄目なやつじゃ?
那美は息を止め、できるだけそれを吸い込まないようにすると同時に、体の力を抜き、意識を失ったふりをした。
男たちは那美の口から布を取り、体を抑えていた力を緩めた。
―― よし、力をゆるめてくれた。
―― このままアジトに連れて行かれればいいんだよね…?
那美の思惑通り、男たちは那美をどこかへ運び始めた。
「くそっ。」
伊月は今すぐ走り出して那美を助け出したい衝動を抑えている。
―― いくら那美が強力なカムナリキの持ち主だとしても、意識がない時に何かされたら抵抗できぬではないか!
「殿、ご辛抱を。」
堀が小声で諌める。
「わかっておる。」
黒頭巾の男たちは茅蓑で那美を包むと、肩に担いで運んだ。
伊月と堀は川岸に伏せている忍に鏡で合図を送る。
そして闇にまぎれ、那美を拐った男たちをつけた。
男たちは港の近くの倉庫街まで那美を運び、立ち並ぶ倉庫の一つに入る。
表に見張りの者が二人立っているが、隙だらけだ。
裏口に回ると、見張りはいない。
そこに先程の忍たちが合流し、そのうちの一人が屋根に登る。
壁に耳を当てると、人の声と足音がした。
伊月は堀にハンドジェスチャーを送る。
―― 中にいるのは少なくとも五人だ。
堀は頷き、忍と共に倉庫の表に回り、伊月は裏手で様子を伺った。
―― いたっ
那美は体を動かそうとするが、手足を縛っている縄が肌に喰い込み痛い。
周りを見ると、他にも女の人たちが手足を縛られて寝転がらさせられている。
皆、意識はあるようだったが、暗くてよく見えない。
声が出せないように口にも何かつけられている。
頭巾を取った男たちが暗がりの中でタバコを吸いながら何か話している。
「女に手出しは禁物だって言われてる。」
「バレるものか。」
「いや、その男には分かるらしいのだ。バレて殺された奴が片手で数えられねえほどいる。」
「ん…」
那美は体をくねらせて、背中を壁に預けた。
「そろそろ薬が切れたようだな。」
那美が動いたのに気がついた男が声をかけた。
「命が惜しければ大人しくしていることだ。」
それだけ言うと、また、男たちの会話が始まった。
那美はできるだけ小さなカムナリキを使って、後ろ手に縛られている縄をそっと焼き切った。
かすかだが、縄の焼けるにおいが立って、那美の横にいる女がそれに気づいたようだった。
男たちはタバコを燻らせていて、気づいてない。
那美は隣の女の人を見て、自由になった手で、人差し指を立て、「しー」っと、ジェスチャーをした。
女は恐怖から涙を浮かべているが、希望を見出したみたいに、ウン、と、うなずいた。
那美は両手を背中に隠し、縄を焼き切ったことを悟られないようにした。
そのまま隣の女の縄も、こっそり焼き切る。
その時、建物の奥の方から、扉を蹴り破る音がする。
男たちは慌てふためいて、武器を手に取った。
―――
伊月が裏口を蹴り、倉庫に押し入ると、中にいる者たちが騒ぎ始めた。
表に立っていた見張りが何事かと扉を開け、中を覗き込んだ瞬間、堀が後ろから頭をなぐりつける。
見張り二人は気絶し、地に這いつくばった。
忍達はこの二人に縄をかけて身柄を確保する。
堀は二人を踏みつけて中に押し入る。
建物の中にいる誘拐犯達は伊月の見立て通り五人だった。
すでに伊月が裏口に殺到した二人を地に転がして、同じように忍たちが身柄を抑えていた。
表口と裏口からの侵入者に、統率の取れていない犯人たちはパニックになっている。
倉庫の中央付近には那美を含めて女が8人いる。
那美は伊月たちを見ると安堵した顔をした。
那美はどさくさに紛れて、全ての女の手足を縛っていた縄を切っていた。
堀と伊月が残りの男達と刀を交えているうちに、忍がやってきて、女達を外に逃がす。
那美も外に出ようとするが、男の一人が那美の腕を掴み、ねじりあげた。
「い、いたぃ!」
「それ以上近づけばこの女を切る!」
男は伊月と堀を牽制して那美に短刀を向けた。
伊月も堀も忍びも動きを止めたが、その瞬間、
「やめて!」
と、那美がカムナリキを放出した。
バチバチッと雷の閃光が男の体に走って、男は体をビクンと一度くねらせ、そのまま意識を失い、その場に倒れた。
「那美どの、外に!」
「はい!」
那美が外に出ると、倉庫に囚われていた女たちは身を寄せ合ってすすり泣きはじめる。
「もう大丈夫です。」
那美は女たちに声をかける。
「あ、ありがとうございます。」
女たちは恐怖と安堵で震えていた。
履く物もなく裸足の者もいる。
着物も羽織っておらず、襦袢だけを着ている者もいた。
那美は自分の羽織っていた上着をその女にかけ、草履のない者に自分の草履を履かせた。
「でも、あなたは…。」
女は戸惑ったが、那美は「私は底厚の足袋をはいているから大丈夫。」と言ってゆずらなかった。
一人、足を怪我していて、思うように歩けない女がいて、伊月の忍がその女を背中に背負った。
そのうちに伊月と堀が倉庫から出てきた。
「那美どの、怪我は?」
「大丈夫です。ピンピンしてます。伊月さんは?」
「私も怪我はない。」
「良かった。」
「堀と一緒に、女達を連れて先に屋敷に戻ってくれるか?私は後始末をする。」
「はい。」
那美は堀と忍と一緒にみんなを連れて城下町へと入り、武家屋敷街へと入った。
「堀様! 那美!」
伊月の屋敷で待機していた源次郎さんが帰ってきた私たちを見つけて屋敷から出てきた。
「さぁさぁ、皆さん、こちらへ。」
源次郎さんは皆に優しく声をかけ、広間に連れて行く。
正次さんのの部下たちも待機していたらしくて、広間に集まっていた。
正次さんの部下たちは広間ですすり泣く女性達に、白湯を飲ませ、怪我がないか見たりしている。
源次郎さんに指示を仰いで、私も皆の怪我した人たちの手当てのお手伝いをした。
正次さんは、女性たちの身元を聞き、事情を聞きながら、紙に書き留めている。
「皆をきちんと家に送り届けるので、もう泣くな。」
正次さんは一人一人に言葉をかけ、皆、次第に落ち着きを取り戻していった。
―― みんな、すごく頼もしいな。
私が手伝えることも少なくなってきた所に伊月さんたちが帰ってきた。
「殿のお帰りだ。」
伊月さんたちが広間に入ると、源次郎さんも、正次さんも、皆、床に平伏した。
「面を上げろ。」
伊月さんは女の人たちを見回して言う。
「そなたらを《拐かどわ》かした者たちは皆、|生け捕りにして、牢に入れた。これより同じような事件が起きぬよう、主犯の者をさがす。明日の朝から、順次そなたたちを家に帰す。身寄りのないものは行き先を見つける。炊き出しをするので、飯を食って、仮眠を取り、朝まで体を休めよ。」
女性たちは皆わっと嬉し涙を流し、ありがとうございます、ありがとうございます、と頭を下げた。
私も「良かったですね」と嬉しくて涙ぐんだ。
すぐに炊き出し用の窯が運ばれ、伊月さんの部下がご飯を作り始めた。
寝具なども広間に運ばれ、今夜皆がこの屋敷で休めるように準備が整い始めた。
皆の仕事の手際の良さに関心していると、伊月さんが「那美どの、ちょっといいか?」と、部屋から出るように促す。
私は伊月さんの背中を追って、部屋を出た。
「伊月さん、無事で良かったです。」
私が言うと、伊月さんはバッと振り向き、身を屈め、私の顔を覗きこんだ。
「それは私のセリフだ。」
伊月さんは手を伸ばし、私の顔に触れようとして、途中で手を止めた。
―― な、に?
「…心配した。」
伊月さんは苦しそうにそれだけ言って、手をひっこめ、また背を向けて歩き出した。
この前、通してもらった客間や、薬を作る部屋とは別の部屋に通される。
伊月さんは部屋の前に設置してある手水舎で手を洗ったので私もそれに倣う。
「ここに…。」
私を座布団に座らせ、伊月さんが火打ち石を使って部屋の行灯に火を点けると、部屋の輪郭が浮かびあがった。
―― ここってもしかして、伊月さんの部屋?
「こら、キョロキョロするな。そなたの怪我を見る。」
「え? 怪我、ないですよ?」
伊月さんは無言で私の手をとり、手首についた縄の跡を見た。
「あの、このくらい平気ですよ。それよりも…」
伊月さんは私のコメントには答えず、私の着物の袖をスッと捲し上げた。
―― え?
伊月さんが私の腕をそっと撫で上げる感覚に、背筋が一瞬ぞくっとなった。
今度は私の腕をまじまじと見ている。
―― あ、あの時ねじられた腕だ!
「骨や筋は大丈夫そうだが、やはり、縄の跡が擦り傷になっている。」
伊月さんは私の手首を綺麗な布で拭き、次に軟膏を取り出し、塗り始めた。
―― あ
この上なく優しい手つきで伊月さんの指が肌にそっと触れる。
触れ方が優しすぎて背筋がまたぞくぞくっとなり、肩が震えた。
「あ、あの、伊月さん・・・」
「何だ。」
「んっ。きゃ。」
我慢できなくなってしまい、変な声が出た。
伊月さんは手を止めて、私を見た。
「少し痛いのは我慢しろ。」
また伊月さんの指が肌の輪郭をつっとなぞり、不思議な感覚に襲われる。
「すみません、でも、ひゃっ。」
「な、何だ。」
伊月さんは手を休めずに訝し気な顔を向ける。
伊月さんが私の手首をなぞる度に不思議な熱がこもる。
「く、くすぐったくって。あっ。が、我慢できません。んんっ。」
「な、なんだっ。」
伊月さんはパッと手を離し、少し固まっていた。
やがて顔を赤くして、軟膏の入れ物をドンと床に置いた。
「全く、そなたは、こんな時に、なんて能天気なのだ!」
伊月さんはスッと立ち上がった。
「足の擦り傷には自分で塗るように。」
そう言って、部屋を出て行った。
―― あ、何か、怒らせちゃったみたい。
「くすぐったいものはくすぐったいんだもん、しょうがないじゃない。」
私は少し不貞腐れて伊月さんの置いて行った軟膏を手に取った。
自分の片方の足首に薬を塗りながら、廊下での伊月さんの様子を思い出す。
伊月さんは私のことを心配したと言って、とても苦しそうな表情をしていた。
―― すごく心配してくれてたのに、私が一人ヘラヘラしてるから怒ったんだろうな。
もう片方の足首にも薬を塗る。
―― きっとまたこんな時に能天気だって呆れられちゃったんだ。
「でも、あんな触り方されたら…。」
私は伊月さんの指の感覚を一人思い出して顔が赤くなる。
―― 何考えてんの。
真剣に心配して治療してくれていただけなのに、自分だけ変なこと考えてしまった気がして急に恥ずかしくなる。
―― 後でちゃんと謝ろう。