ひまわりと老人~たとえそれが、彼女の頭の中の世界だとしても~

「あら、カワさんもいらしていたの? あなたの部屋の前に車椅子があったけれど」
「えぇと、その、朝の来客がある時は部屋に入ってまでチェックされないから、置いて来たんだ」

 もとよりゼンさんもカワさんも、車椅子が移動に欠かせないというわけではないのだ。

 ゼンさんの場合は、息子がここへ放り込む際に病気と共に体力が落ちるということで「要・車椅子」に丸をしていたので、ならばと開き直って「じゃあ、体力温存で使わせてもらうぜ」と他の入園者同様に使用していた。

 カワさんに関しては、歩行の際の関節痛と息切れしかないのだが、「楽が出来て便利だ」という理由だけで、今のところ全入園者がそうであるように「要・車椅子」としていた。

 診察では関節の悪さや内臓の老化を指摘されており、根っからの肥満体質な彼の本音について施設側は知らないのである。入園者一の肥満者代表である彼は、七十八歳にしては肌もぷるぷるで、髪は量があって艶も張りもあった。
「父さんが亡くなって、すぐだったなぁ」

 暇を潰すように、カワさんが思い出す表情でそう言った。会長が亡くなり、息子夫婦の元で老後生活を送っていたカワさんは、その一ヶ月後にここへ入れられたのである。

「僕の一人息子の嫁さんはね、とてもいい子なんだよ。実の母親も世話しなくちゃならないし、辛いってこぼしてはいて……その後に、彼女の両親がわたしの家に住み出した。それから、もう居場所がなくなったんだ」

 ゼンさんなら「この馬鹿者が! 誰の許可を得て貴様らは」と怒鳴るところだが、カワさんはそうしなかった。元々、そのような気持ちを持つことも出来ない男であったらしい、と今なら理解することができる。

 カワさん曰く「血の繋がった自分の親が大切なのは分かる」、「そちらの介護も大変なのに、彼女に自分の面倒までみさせて苦労を二倍にするのも申し訳ない」「息子夫婦には、息子夫婦の生活があるから……」なのだという。
 初めてその話を聞かされた時は、ゼンさんは、こいつはお人好し過ぎるんじゃないかと頭を抱えた。自分だったら、他人のことより老体の我が身を最優先に、しっかり自分のテリトリーを守ったことだろう。


 病院に緊急搬送され、薬の副作用で頭が朦朧としていなければ、息子と大喧嘩をしてでも家を守ったはずである。

 あの時は、怒鳴れる力が全部は戻っていなかった。息子とは短く話したが、買い言葉に売り言葉、最後は「父と息子」という関係が憎しみで押し潰されてしまったような気さえする。


 たった一人の息子だった。けれどゼンさんは、再会した際に怒りをぶつけられて、彼が十五歳になるまで一緒に暮らしながら何一つ思い出がないことにも気付いた。

 息子が学校でどんなことをして過ごしたのかも、年を追うごとに起こるイベントや行事も何一つ知らなかったのだ。思い返せば、酒漬けで理性がなくなり暴言を吐き、気付くと乱暴に手をあげる事も少なくなかった日々だった。
 この老人ホームで、アルコールのすっかり切れた頭でそれをじっくりと考えた。だから、息子に連絡を取って「ここから出せ」と言う気分にもなれないでいる。

「もう、向日葵は満開かしら」

 ゼンさんが最後の薬を飲み終えた時、ミトさんが窓辺に車椅子を寄せてそう言った。
 庭園の片隅では、小さな黄色がぽつんとした様子で浮かんでいる。それが数本の小振りな向日葵だと気付くまで、ゼンさんは数十秒かかった。

「驚いたな、ここには向日葵も植えられていたのか」
「去年、私がここへ来た時にも咲いていたわ。小さいけれど、立派な向日葵なのよ。視力が悪くなってしまって、少しぼやけて見えるのが残念ね」

 全開した窓の『開けるな厳禁』と貼られた注意書を脇目に、ゼンさんとミトさんが下を覗きこんでいると、カワさんも重たい腰を上げてそばに寄ってきた。

「どこに向日葵があるんだい? 黄色とピンクが混ざったところ?」
「おや、カワさんは目が悪いのかね?」
「老眼のうえに近視なんだ。私生活には、なんら不便はないけれど」

 カワさんは頬を桃色に染め、ミトさんの頭上から庭園を見下ろした。ミトさんは彼を振り返り、庭園の向日葵の形状が一回り小さいことを教える。
 彼女から聞く向日葵の話に、カワさんが心底嬉しそうな顔をしていたので、ゼンさんは「やれやれ」と肩をすくめて、そっと二人から離れてベッドに腰かけた。

 恋か。若いねぇ。

 二人より七歳年上だったゼンさんは、恋に年齢は関係あるまい、と思って彼らを見守っていた。何せカワさんを見ていると、純粋な恋愛感情のようで微笑ましくも思えたからだ。俺も歳かな、すっかり丸くなっちまったもんだ、と感じてしまう。

「三人で、向日葵畑を見に行きましょう」

 不意に、そう明るい声で言ってこちらを振り返ったミトさんを見て、ゼンさんはそっと目を細めた。そう言って嬉しそうに笑うミトさんが、不覚にも綺麗だと思った。

 するとカワさんも便乗してきて、「頑張って許可を取ろうよ」と意気込んだ。しかし、ぐっと立ち上がってこちらを振り返った彼が、途端に膝が痛いと口にしてそこを撫でさすった。

「はしゃぎすぎだろう」

 そうゼンさんが苦笑すれば、

「まぁ、子供みたいね」

 とミトさんが上品に笑った。対するカワさんは顔を真っ赤にして、

「うん、なんだか子供みたいだ。けれど、とても楽しいよ」

 と恥ずかしそうにしながらも白状して、照れたように笑った。
 ああ、三人で暮らせたら、どんなにいいだろう。

 ゼンさんは笑顔をそっと曇らせ、目尻に皺を刻んだ。もうそろそろ、二人は自分の部屋に戻らなければならないだろう。彼はまた、たった一人、ここでじっと時間が過ぎるのを待たねばならないのだ。

 最近はミトさんの勧めで、初心者ながら読書を始めていたので、一人過ごす時間の苦痛も半分に減ってくれていた。しかし、窓の外を見るたび、高い柵で囲まれた施設内の小さな部屋にいる自分を思って、ここが監獄であることを想像した。


 いつか向日葵をと前向きに言ったミトさんは、愛之丘老人施設について詳しく書かれた資料を読みに、カワさんは朝食後の睡眠を取りに部屋へと戻っていった。


 しばらくすると、たくさんの足音がゼンさんの部屋の前を通過し、奥の寝室にいた老人が、がらがらと音を立てる寝台で運ばれていく音が聞こえてきた。

          ◆◆◆

 全国的な雨期が日本列島を訪れたのは、奥の部屋の老人が病院へと移った翌日からだった。重い雲が空を覆い、朝から景色が霞むほどのひどい土砂降りになった。
 バケツをひっくり返したような雨が容赦なく地上に叩きつけ、ゼンさんは柄にもなく、庭園の花が痛んでしまわないかと心配した。ミトさんが好きな花が散ってしまうのは、嫌だった。

 雨天は体調も崩れてしまう。カワさんは関節の痛みが増したので一階にある整体に通い、食事の時間になってもミトさんが降りてくることはなかった。ゼンさんも不調で倦怠感と食欲不振に加えて、頭痛と吐き気をベッドの上で堪える日々が続いた。

 その間、歯の黄色い中年看護師がゼンさんの部屋を訪れ、身体の世話と粥のような飯を食わせて薬を飲ませた。副作用が出るとしゃれにならない事態に陥る危険性がある必要最低限の薬を、とても慎重に飲ませる彼女の姿は意外だった。「ここに優しいナースがいるなんて、俺もとうとう呆けちまったかな」と思ったほどだ。

 どうやら、ひどい天気にもかかわらず施設側は大忙しのようだった。立て続けに奥の入園者たちが大病院に移され、新しい高齢者が空いたそれらの部屋に運ばれた。専門医による診察とリハビリ室も、来客した家族と新入園者で混みあった。
 ゼンさんの部屋に訪れる女看護師の主任は、けれどむっつりと黙ったまま、普段の黄色い歯も覗かせず余計な言葉は吐かなかった。彼女は珍しく覇気のない声で彼の体調を窺い、「またあとで来ますから」と残して、どしどしと部屋を出ていった。

「雨なんて、くそくらえ」

 窓も閉められた部屋で一人、ゼンさんはそうベッドの上で呻いた。

 ここ数日、カワさんが短い時間だけ訪れているが、ミトさんとは顔を合わせてもいなかった。彼女も具合が悪いのだろうか。それとも、俺を気遣っているのだろうか?

 そして何より、こちらの様子を気に掛けているようにも見える看護師の態度についても、不思議でたまらなかった。あの分厚い、真っ赤な口紅の化粧臭い女看護師は、一体何を企んでいるのだろうか? 

 最近は『部屋のフロアの女主任』や『あの女』と言うにはしっくりこず、ゼンさんとカワさんの間では、あの女看護師に『オカメ』という呼び名がついていた。

「ゼンさん、大丈夫か?い」

 午後二時を回った頃、整体を終えたカワさんがやって来た。
 カワさんはここ数日、この時間帯にちょろりと訪れては、彼の体調を考えて早々に切り上げていく日々だった。その際に一階の様子や、職員たちのことを教えてくれるのだ。

「なんだかゼンさん、また痩せたね。すごく細いのに、手なんて枝みたいだよ」
「まぁ風邪じゃないだけましさ。余計な薬は使えねぇから、俺の場合は風邪を引いてもアウトだ。今回は、肝臓の機能をカバーしてる他の臓器が、ちっとばかし無理をしたらしい」

 雨で体調が安定しないせいで、医者を部屋まで寄越されて、夜には必要な分の点滴まで受けたしまつだ。

 病気について思案していたカワさんが、ようやく思い至ったような顔をしてこう言った。

「そういえば、腎臓の機能がどうのって言っていたね」
「おぅ。歳を取ると天気の悪さが体調にもかかってくるから、厄介だな」
「うん、あっちもこっちも大忙しだよ。食堂で食べている人はほとんどいないし、配膳なんかも全部キッチンの人がやっていたくらいだから」

 カワさんは膝に負担を掛けないように心がけながら、椅子をベッドに寄せて大きな尻を詰め込んだ。両肩をすぼめ、両足の間に手を押し込む。