立ち込める黒煙と消炎が、見通しを悪くしてしまっている。
迷彩服を着込んだ軍人が脇から飛び出し、逃げ惑う民間人を押しのけて銃器を構えた。彼らを迎え撃つのは私服のテロリスト達で、分かりやすい的のように、全員が髑髏マークの入った黒いマントを着ていた。
流れ弾に当たった人間や撃ち殺された軍人達は、支柱の崩壊と同じように、灰のように崩れ落ちながら消えていった。人以外の物だけが、仮想空間に再現されたまま残されている現状を見て、これは演習その物の風景だろうとスウェンは察した。
システムに生じたバグが、当時の演習風景の記録を再現している?
上空からヘリコブターの羽音が近づいて来た。どこからともなく飛んできた砲弾が、スウェンの頭上にまで迫っていた空軍機に着弾し、炎上した。
爆風で吹き飛ばされたスウェンは、近くにあった剥き出しの鉄筋に掴まり、何とか壁への衝突を回避した。息もつかずに、彼は隠れられる次の場所への移動を開始し、走った。
スウェンの聴覚は、既に、先程聞き覚えてしまった最新兵器の稼働音を拾っていた。
スウェンが身を隠してすぐ、マルクが拡声器越しに怒号する雄たけびが聞こえて来た。
テロリストも軍人も民間人も、対地上用戦闘機MR6が数メートルの距離に迫ったところで、ようやく初めて存在に気付いたように反応した。
どうやら、演習実験の記録が起こした亡霊でしかない彼らにとって、シナリオに含まれない未知の兵器は、悪魔の化身に見えたらしい。得体のしれない二足歩行型の対地上戦闘兵器MR6に向かって、勇気ある軍人とテロリストの一部が、共同作戦に打って出たように発砲と爆撃を始めた。
対地上用戦闘機MR6は、目にとまる人間を片っ端から押し潰し、打ち払い、怒り狂ったように殺し始めた。亡霊たちの物理的攻撃は、どうやらスウェンだけではなく、対地上用戦闘機MR6にも有効なようだ。頑丈な装甲には、引っかき傷や塗装の剥がれが目立ち、爆撃の際の窪みも確認出来た。
スウェンは、暴れ狂うマルクを注視しながら、武器が収納されている腰のポーチを探り、的確にバズーカ砲を組み立てた。こういう時には、ゲームのような『何でも無限大に収納できる鞄』は楽だなと思った。
というのも、スウェンの中では既に、マルクを始末する方へ優先順位が傾いていた。後々厄介な事になる前に、片付けておいた方が良さそうだと判断したのだ。
その時、不意に、スウェンの肩を叩く者が現れた。
まさか自分が気配に気付かないとは、と驚愕し、スウェンは反射的に腰から銃を引き抜いたが――
「ちょッ、待ってください、私ですよ!」
そこにいたのは、出会った頃よりもスーツに張りのなくなった、何もかもが胡散臭い作りをしているホテルマンだった。
スウェンは彼を見た途端、一気に落胆してしまった。
「なんだ、君だったの……」
「なんですか、露骨に失望したような顔をされて。ショックで誰かの心臓を止めてしまいたいほど私は悲しいですよ!」
「ああ、結局は君の心臓ではないんだね」
相変わらずホテルマンの面倒な性格は健在のようで、スウェンは遠い目で適当に相槌を返しつつも、何故だか安堵を覚えた。
ホテルマンが彼の隣から、騒ぎの中心の様子を確認した。
「親切なお客様、アレを狙っても徒労損ですよ。彼もまた、我々が到着する前の『記録の残像』にすぎないのですから」
「あれが残像だって?」
嘘だろ、とスウェンは、思わずマルクの荒れ狂う様子を目に止めた。
「夢世界では、心あるものが投影されてしまう事は説明したと思いますが、――『仮想空間エリス』は今、プログラムに残されているデータ記録が崩壊の衝撃で狂い、世界の時間軸も歪んでしまっているのです。あの男の強い思いや願望が、彼の身体に収まりきらず、記憶残像として、歪んだ空間内で勝手に動き回っているのですよ」
「……ごめん、君の言っている事が、いまいち理解出来ないのだけれど」
現実世界の常識に近づけて話して欲しいものだが、とスウェンはホテルマンを見やった。
ホテルマンが片方の眉を上げて、どちらとも付かない胡散臭い呑気な顔のまま、僅かに首を傾けて――どこか小馬鹿にするような眉影を、そっと浮かべた。
「空間内での彼の行動もまた、データとして上書きされてしまっている、という訳です。一時間前の時間軸の彼を倒したところで、本体には何も影響がないという事ですよ。その時刻を再現された空間に足を踏み入れれば、貴方様も私も、その時間軸に囚われる為にリアルな影響を受けますが、倒した相手が『過去の記録』に過ぎないのであれば、結局のところ『倒すという目的』は達成出来ないという訳です」
スウェンは、惨状に改めて目を向けた。
これが、ただの記録の再現というのであれば厄介だ。スウェンには、歪みの前触れも視えなかった。どれが現在の時間軸のマルクであるのか、彼には見分けようがない。
「つまり、『亡霊』の正体は『過去の記録』だということかい……?」
「半分は正解、半分は不正解、といったところですかね。実は『外』の人間の精神が紛れ込んでおりまして、彼らがこの世界を悪夢として見ている、といいますか」
「……ああ、なんだか頭が痛くなって来たな」
仮想空間という研究だけの話でなくなって来て、スウェンは再び頭を抱えた。
完全にファンタジーに足を突っ込んだような話になって来たぞ、ややこし過ぎる。つまり、ここは既に人工的に造り上げた仮想都市というだけでなく、実際に夢として不特定多数の人間が、ぼんやりとした姿形で参加させられてしまっている……?
そこまで考えたところで、スウェンは、『仮想空間エリス』に来てすぐに見掛けた白衣の登場人物について思い至った。あれは、『外』の研究所にいた本物の研究員ではないだろうか。
おいおい、マジか。ハイソンのラボは無事なのだろうか?
「君に質問したいんだけど、もしかして『外』に何かしら厄介な影響でも出ていると推測しても……?」
「うっかり居眠りしてしまうと意識がこの世界に引っ張られてしまう、ぐらいですかね」
「なんだか、とぼけられた気がするんだけど」
スウェンは訝しげに見据えたが、ホテルマンが自然な様子で視線をそらした。
「君の方で、何か策でもあるのかい」
「おや、そこを『推理』してしまいましたか」
「何となくだよ」
「迷い込んでしまっている意識については、『外』の人間が『エリス・プログラム』の主導権をいくらか奪還出来れば、自然と剥がれていきますから、ご安心ください」
深く訊くな、ということか?
先手を打たれた気がして、スウェンは眉を顰めた。しかし、その件がハイソン側でどうにかなると言われても、『亡霊』の正体の半分である『過去の記録』の再生が厄介な存在である事に変わりはない。
そんなスウェンの思案を眼差しで察したのか、ホテルマンがその視線を横顔に受け止めながら、「そうですね、これはこれで厄介な現象ではあります」と認めるように言った。
「この世界は、予定していた以上に色々と歪み過ぎていますし。――この記録の再生も、厄介ではある」
ホテルマンの声が、冷気を帯びてスウェンの耳朶を打った。
スウェンは、剣の切っ先を喉に押し当てられたような殺気を覚えた。スウェンの軍人としての生存本能が、隣にいるホテルマンを危険だと警告し、悪意とも殺意とも取れない濃厚な気配が、押し潰すようにスウェンの身体を圧迫した。
ホテルマンは、ゆらりと立ち上がると、どこともつかない場所へ目を向けた。僅かに陰る冷酷な横顔が、スウェンには、知らない男のものに見えた。
「予備の蓄えですが、仕方がありません。壊れた記録のループには消えてもらいましょう。そうすれば、我々の『視界』も少しはクリアになるでしょう」
スウェンが、ホテルマンの足元から闇が滲んだ事を認識した直後、黒い粉塵の嵐が巻き起こった。
視界は、瞬時に闇へと覆われた。
多くの悲鳴が濃厚な沼に沈みこんでゆくように小さくなり、次第に何も聞こえなくなる。装甲が砕かれ、圧縮される嫌な破壊音が、くぐもり上がったかと思うと、世界は途端に静寂へと包まれてしまった。
――ああ、やはり、喰える物は何もなかったか。
闇が冷酷に呟き、舌舐めずりをして嗤ったような気がした。
ホテルマンが何を行ったのか、正確な事はスウェンには理解出来なかった。
スウェンが視覚を取り戻した時、そこには荒れた街が伽藍と佇んでいるばかりだった。人の姿は一つもなく、兵器らしき残骸だけが辺りに散らばっていた。
説明を求めて立ち尽くすホテルマンの背中を見上げたが、彼は、こちらを振り返ってはくれなかった。
「……何も出来ないと言っていた割りには、結構な事をするじゃないか」
スウェンは強がる声を上げたが、ふと、自身の手が震えている事に気が付いた。
圧倒的な力の差は恐怖を産む。我ながら情けないと思いつつ、スウェンは立ち上がると、ズボンについた瓦礫を払い退けた。
ホテルマンが人間ではないという事は認識しているつもりだったが、今更ながら、敵でなくて良かったと思う。
「何をしたのか、君の口から説明してもらってもいいかい?」
「面倒になったので、手っ取り早く『過去の記録』を再生し続けているバグを消しました。後は、あなたが『亡霊』だと認めているイレギュラーな登場人物達が残されている程度でいすが、こちらは勝手に解決しますから」
あっさりと言ってのけているが、そんな事は普通なら有り得ない。
とはいえ、現実世界の常識で考えたら、大変な思考の迷路に陥る事になるだろう。スウェンは、目頭を丹念に揉み解して時間を稼ぎ、どうにか自分を落ち着けた。
「――どうして、今まで行動しなかったんだい?」
「先に申しましたでしょう。今の『私』には、何も出来ないのです。期待するだけ損ですよ」
「それは、出来る限りしたくないという事かい?」
スウェンは疑問を覚えて、そう問いかけた。
少し前から、ホテルマンから時々感じる畏怖には気付いていたのだが、ログに『夢人』かと問われた彼が、「否」と答えた時から、彼には『力』とやらを行使する事が出来ない理由があるのではないか、とそんな違和感を持っていたのだ。
ホテルマンを見てきた限り、戦闘能力値はかなり高いだろうと思われた。
しかし、生物を食うという森で『エリス・プログラム』から妨害行為を受けたと告げた際にも、ホテルマンは、夢世界の住人としての能力は一切見せなかった。エルが木々の檻に閉じ込められた時、まるで人間のように、必死に手を伸ばしていた事を、スウェンは思い出した。
スウェンは、そこで一つの推測に思い至った。
これまでのホテルマンとのやりとりが、スウェンの脳裏に次々と思い起こされた。少ない情報が点と点を結び付け、あっという間に一つの憶測を作り上げてしまう。
そこで気付かされたのは、ホテルマンという男が、必要最小限の嘘以外は口にしていない事実だった。
スウェンは、ホテルマンの顔色を探った。思考も全て把握してしまえるらしいホテルマンは、こちらに顔を向けて静かに待っている。珍しく、どこか困ったように微笑む胡散臭い表情からは、考えを読み取る事は出来なかった。
試されているのだろうか、とスウェンは悩んだ。
恐らく、こちらの回答を待っているのだろう。スウェンはそう判断すると、自身の憶測を語ってみる事にした。
「僕は君達の事情や立場は上手く分からないけれど、君はログに答えたように『夢人』という存在ではなく、この世界で生きる『何か』なんだろう。僕の考えが正しいとするならば、君は今『夢人』のように行動出来るけれど、目立った行動は起こしてはならないという、何かしらの制限も持っている――ここまでは、だいたい合っているかな?」
「上出来で御座います、『親切なお客様』」
ホテルマンが、ほくそ笑んだ。
ホテルマンの嘲笑するような笑みを見て、スウェンは自分の回答が彼の期待通りだったと、ひとまずは安堵に胸を尾と付けた。
さあ、ようやく答えらしい事が聞けるようだ、とスウェンはホテルマンに耳を傾けた。
「簡単に言ってしまえば、『夢人』と『私』は、反対の存在であると認識された方がよろしいでしょう。まずは『夢人』ですが、創造を担う存在が『夢守』や『表の子』と呼ばれ、創造された質量分の闇を受け持つ存在が『裏の子』と呼ばれています。それらは全て『理』から生み出された役者で、全て『夢人』と称される存在です」
けれど、それ以上の詳細は必要ないでしょう、とホテルマンが営業用の笑顔を浮かべた。
スウェンとしても、今必要な情報だけが欲しかった。それらがどういう理屈で存在し、何をしているのかという説明よりも、今関わっているホテルマンの正体が知りたいのだ。何故なら、スウェンの推理では、彼がエルと深く結び付いているからだ。