志貴は8歳までちゃんと両親のいる家庭で育った。父親が刑事で母親が専業主婦の、ごく普通の家庭に。家も他の家庭と変わらない一戸建て。志貴の両親は息子に厳しすぎず、かと言って過保護でもなく、親子仲良く3人で楽しい毎日を過ごしていた。
 しかしある冬の日の昼下がりに、悲劇が起きた。志貴は留守番をしていて、家には他に誰も居なかった。父が母に告白をした記念日ということもあって、2人で食事に出かけていたのだ。幼い志貴はテレビを見ず、母が作ってくれたおにぎりを自分の部屋で食べていた。
 しかし、下の階から物音がした。志貴は物音に気づき、2階から忍び足で下に降りた。リビングには空き巣らしい男の姿があった。短髪で歳は30代半ばぐらい、電力会社の社員と同じブルーの作業着を着ていて、部屋のあらゆるところを物色していた。
 志貴は警察に通報しようと思ったが、リビングに電話があり、通報できる状態ではなかった。男が階段に近づいたので、志貴は2階の奥の部屋、両親の寝室へと向かった。
 ドアからこっそり廊下を覗くと、男が志貴の部屋へと入った。しかし志貴の部屋には、特に金目のなるものが置いていなかった。両親がゲームに関して否定的だったので、殆ど買ってもらっていなかった。
 男がすぐ志貴の部屋から出ると、今度は志貴のいる寝室へと入ってきた。急いでベッドの下に隠れると、男が入ってくるのが見えた。一重まぶたのこの男が、頻りに人が隠れていないか疑うような表情を見せていた。志貴は息を殺し、見つからないように出来る限り震えを抑えていた。
 男が寝室に入ってきた辺りから、外で大きな工事の音が鳴り響いていた。この頃、近くで高層マンションの建設工事が行われていた。特にこの時間帯に音が大きくなり、近くに住む住民が煙たがっていた。そして、この騒音さえ無ければ、志貴の両親が死なずに済んだかもしれないのだ。
 実は男が寝室に入ってきたのとほぼ同時に、両親が帰ってきていた。母が静かにドアを開けたので、志貴も男も気づかなかった。
 本当は夜の9時過ぎに帰ってくる予定だった。恐らく親子3人で夕食を食べに行こうと思って、わざわざ自分のために帰ってきたのだと、志貴はこの頃を思い出すと、いつもこう思うのだ。
 そして、寝室に向かった母が男と遭遇し、ナイフで胸を刺され床に倒れる。続いて父が部屋に入ってきて、またぐさりと刺され絶命してしまう。志貴はこの絶望的瞬間が心に焼き付き、今まで一度たりとも忘れることがなかった。
 身寄りのなかった志貴は、一定期間警察の保護対象となる。志貴の父が刑事だったため同僚の刑事に一時的に引き取られたりした事もあったが、その刑事や刑事の家族から冷ややかな態度で接されたこともあってか、いろいろ転々とした後、孤児院へと送られた。
 あれから10年間、志貴は孤児院が我が家となって、小中高特別問題もなく、普通に友だちと遊びながら毎日を過ごしていた。しかし高校3年のある日を境に、闇の世界へと足を運ぶこととなる。
 高校3年の夏、進路を決めなくてはいけない時期に、志貴は学校の帰り道に偶然、両親を殺した男と擦れ違う。今まで逃げ延びてきた男の顔を、志貴は一度も忘れなかった。10年も経ち白髪が増えていたが、それでも見間違えることはなかった。
 志貴は男を尾行し、廃ビルの地下駐車場に入っていくのを確認すると、志貴も入っていった。汚れた車が並ぶ駐車場には、監視カメラが設置されていなかった。男は止めてある黒いバンの後部座席を開け大量の大麻が積まれているのを確認すると、ドアを閉めて煙草を吸い始めた。
 志貴は男に声をかけた。男の白いTシャツと青のジーンズが酒の染みで、所々汚れていた。志貴は男の目を見て、麻薬依存症になっていることが分かった。男の状態から見て大麻だけではなく、他の薬物も常習的に吸っているようだ。しかし、こんなことは、志貴には関係ない。志貴は男の胸倉を掴み、なぜ両親を殺したのか問いただした。最初はろれつの回らない事ばかり口にしていたが、何度も頭を壁に叩きつけていくうちに信じられない事実を語り始める。
 志貴の父親は密かに、大物政治家の汚職事件を調べていた。この政治家が警視庁出身ということもあり、公に捜査ができない状況だった。しかしこの政治家と繋がりのある刑事に、秘密裏に捜査を進めていることがバレてしまう。そこで厚生省の麻薬取締官だったこの男を金で雇い、空き巣の犯行と見せかけて殺害したとのことだった。
 志貴は怒りに身を任せ、男の頭を壁に叩きつけた。男は頭から血を流し、床に倒れた。志貴は男の首筋に手を触れるが、脈がなかった。志貴の瞳孔が拡張して、手の震えが止まらなかった。
 駐車場に人が居ないことを確かめると、急いでその場から逃げ出した。まるで今日初めて人を殺した自分自身から逃げるように。
 志貴は殺した時の感覚が、身体から染み付いて離れなかった。朝登校している時、授業を受けている時、バイトをしている時、食事している時、寝ている時、どんな時も。
 しかし、この感覚も2週間程度で治まった。最初は恐怖に首を締められていたが、やがて人を殺した恐怖体験をも飲み込む、どす黒い狂気が体の内側から溢れ出てきた。この狂気が侍の形となり、現代版の人斬りを作り上げていくこととなる。
 志貴は高校を卒業後、日本を始め、中国やロシアなど極東を中心に裏社会で活動するようになる。最初は蛇頭の下っ端の構成員として、街のチンピラと殆ど変わらないことをやらされていた。窃盗、ゆすり、偽造パスポートの密売など、末端の構成員らしい仕事をこなしながら、日々を過ごすこととなる。日本から離れた生活であったものの、中国を中心に東アジア全域で若者を中心とした日本語話者や学習者が多いため、言葉の面で困ることがあまり無く、普通话を中心に英語やロシア語など他の言語の勉強にも日々費やした。だがある時、華奢でありながら腕っ節が強く判断能力の高さをある幹部から買われ、殺し屋としての訓練を受けさせられる事となる。志貴はこの時を密かに待っていた。銃の扱いから、近接格闘、スナイパーやスパイとしての心得など、あらゆるものを叩き込まれ、蛇頭に入って2ヶ月で実戦に出ることとなる。
 殺し屋として敵組織の構成員や幹部、蛇頭を嗅ぎ回る捜査関係者など、蛇頭を仇なす全てのものを、この手にかけてきた。同じ蛇頭の仲間の内日本語が話せる者の何人かが、最初はそんな志貴のことを死期が迫ると呼んだ。しかしいつの日か、志貴の戦いを求めるかのようなその姿から、皆が次第に志貴のことを殺し屋修羅と呼ぶようになる。裏社会とは縁のなさそうな優男が、通り名に相応しい阿修羅のような顔つきで、敵組織の拠点へと攻め込んでいく。劣勢になっても怯むことなく、標的を探して弾丸の雨の中前進する。どんな相手であっても一切ひるまない。勢いに乗っている時は、1人で敵組織の拠点を壊滅させることもあった。志貴が通る道はどこも血で溢れ、組織で一番危険な男へと変貌していった。
 殺し屋として名が知られるようになってからは、アメリカやロシアなどの諜報機関との利害関係の一致から、政府高官や軍の幹部、テロ組織のリーダーの暗殺を任されるようになる。(無人機やドローンでの暗殺が技術的に可能だったが、法律や政治上の関係で公に行うことが出来ないという経緯から)志貴はテロリストのアジト、軍の施設、大物政治家の豪邸に忍び込み、標的をあの世に送り込んでいった。大物政治家の死体のそばにいる妻やその(むすめ)が恐怖で震えていても、志貴は冷たい表情のまま、涙で溢れたその瞳に銃弾を放った。
 組織からの命令がくだされない時でも、志貴は殺しをおこなった。仕事と仕事の間、いろいろ情報を集め、両親を死に追いやった元凶である大物政治家とその一味を突き止め、ひと月ごとに1人ずつ暗殺していった。1人は額を撃ち抜かれ、別の男は毒針で刺され、そして某大物政治家が全身生皮を剥がされ、両腕両足を切断された状態で、高級ホテルのVIPルームで発見された。
 志貴は殺して、殺しまくった。相手が誰だろうと命令を出されれば、ためらいなく。志貴はこの手で裏社会の側から、人の生き血を吸うような悪人を一掃できれば、そう信じて今までやってきた。でも、志貴には分かっていた。この生き方を両親が望んでいないことを。自分も両親を殺した男たちと同じ存在だと気づいていた。そして、決して負の連鎖が止められないことも。
 志貴は3年間の活動を節目に、裏社会から足を洗おうと決意する。もちろん、組織は許さない。志貴を消そうと構成員が総出でかかったが、志貴には到底かなわない。ドローンなども使いしつこく志貴を消そうとするが、狙えば狙うごとに戦いの爪痕がはっきりと残っていった。しかし、志貴は同じ蛇頭の構成員を1人も殺さなかった。腕や足などを銃で撃ち抜くぐらいで、命に直接関わる箇所は避けた。時が少し経ち、志貴を殺し屋へと導いた幹部の男が、1人で志貴の下を訪れた。そして、組織に関わる全ての事柄を口外しないことを条件に、組織から抜けることを許そうと言ってきた。志貴は条件を飲むと、直ぐ様蛇頭を抜けた。
 志貴は裏社会から抜け出した後、今までの3年間を取り戻すように、新聞記者や執事など様々な職に就いた。そして去年、事務所を立ち上げるに至る。
 志貴は自分が今まで辿ってきた過去を振り返りながら、愛玲の手を掴んで夜の街を走っている。今まで自分は逃げてきただけだ。薄汚れた闇から逃れたい一心で、甘く暖かい日常へと。しかしついさっき、マフィア共をこの手で始末した時、自分が何者なのか改めて思い出した。俺は修羅なんだ。初めて人を殺した時、(かたき)を取った時から何も変わっていない。人の世に害悪を成す者を一掃して、自分のような不幸な人を作らせないなど、ただの言い訳だ。自分も何一つ変わらないのだから。心の中で自分に言い聞かせながら、見えない結末に向かい必死に走っていく。
 志貴はどの辺りを走っているのか分からなかった。スマホの電池も切れていて、マップも使えない。ただ闇雲に走り回るしかなかった。
 気がつくと、廃ビルが建ち並ぶ地域に入っていた。ビルの窓ガラスがあちこち割れていて、電灯が不規則に点滅していて暗かった。
 志貴は早くこの場所から抜け出し、どこかホテルにでも泊まろうと考えていた。でも、この時間帯だ。チェックインできるホテルがあるかどうか……寒さで思考力が低下した頭を何とかフルに使い、これからのことを考えていた。
 愛玲はコートを羽織らず、チャイナドレスの格好のままここまで一緒に来ていた。そのため、寒さで苦しそうに白い息を吐きながら、志貴の手を強く掴んだ。志貴もそんな愛玲の様子に気づき、コートを脱いで愛玲に被せる。愛玲はコートを強く身体に寄せながら、必死に志貴の手を握る。
 しかし突然どこからか短刀が飛んできて、志貴たちの数メートル手前のアスファルトに突き刺さる。2人は手を離し、志貴は内ポケットからオートマチックを取り出す。
 短刀が突き刺さったことから、建物の上から投げられたことは確かだ。志貴は近くの廃ビルの窓や屋上周辺を確認し、敵の姿を捕らえようと努めた。この辺りのビルは3階建てが多く、拳銃でも充分狙えるだろうと、銃を握る指先に力が入る。
 必死になって自分を探す志貴を嘲笑うかのように、どこからか笑い声が聞こえてきた。女の声だ。しかも若い。まだ20歳もいっていないだろう少女の声が闇夜に響いた。
 志貴は声が聞こえる方向に銃を構えるが、また別の方向から声が聞こえ、後ろに振り返ったり左右に首を回しながら、どこに敵が潜んでいるのか探す。だが敵は自分の方から姿をさらけ出すかのように、話しかけてきた。
「へぇ~、まさかこんなところであの殺し屋修羅に会えるなんてね」
 志貴は後ろを振り返った。志貴の瞳には点滅する電灯の上に立つ、暗い緑のチャイナドレスを着た女の姿が映っていた。歳は高校生ぐらい、黒い髪を左右に団子状に纏め上げた少女が、志貴たちを見下ろし不敵な笑みを浮かべていた。
 志貴は少女目掛けて銃を撃つが、少女は上に飛んで弾を躱し、猫のように下に着地した。
「姿を見せた途端、いきなり撃ってくるなんて!あぁ、怖い怖い」
 少女は笑いながらわざと怯えるような素振りを見せると、志貴たちにゆっくりと近づき、5m手前で止まる。
 志貴は殺し屋時代と同じ阿修羅のような表情で、少女を睨みつける。愛玲とまではいかないものの、なかなかきれいな顔をしている。女子高生がコスプレをして、夜の廃墟を歩き回っているかのような光景だ。
「おまえもこの愛玲を追ってここまでつけてきたんだろうが、どうして俺のことを知ってる?どこの手の者だ?」
 志貴が落ち着いた口調で質問すると、少女は高笑いした。腹を手で抑え顔を上に向けながら、あまりに可笑しいといった様子だった。志貴が銃口を再び向けると、少女も気づいて視線をこっちに向けた。
「どんなことを訊いてくるのかと思ったら……殺し屋が素性を明かすなんて、普通ありえないでしょ?殺し屋修羅と分かって、どんな男なのかワクワクしてたのに。随分平和ボケしたみたいね」
 志貴は銃を握っている手に力が入る。少女もその様子に気づいて、流暢な日本語で先を続けた。
「まぁ、いいわ。あんたの素性をどこで知ったのかぐらい話してやる。さっきあんたたちがドンパチやってたキャバレーに、わたしもいたのよ。あんたの隣りにいるその女がいるって分かって来てみれば、別の組織の奴らが来てるんだもん。どこの組織か知らないけど、そこのお嬢さんは随分交友関係が広いようね。それであの上海美人ってキャバレーから、ずっとあんたたちのことをつけてきたのよ。てっきり気づかれてたかと思ってたけど、その様子じゃ全く気づいてなかったみたいね。もっと鋭い男だと思って期待してたんだけど……ちょっと余計なことを喋りすぎたかな」
 志貴は目の前にいる少女が、ただものでないと肌で感じとる。いつでも身体が反応できるように、つま先に重心を置き、少女の動きに目を配った。
「用があるのはそこの女なんだけど。いいわ、名前だけなら教えてあげる。あんたのことは、どうせ殺すつもりだったし。あの殺し屋修羅と一度は戦ってみたいと思ってたわ。わたしたちの間でもかなり有名だったから」
 少女は鋭い殺気を放ち、悪魔のような笑みを浮かべる。
「わたしの名前は胡蝶。昔のあんたと同じ殺し屋よ!」
 胡蝶は右太ももの辺りから短刀を素早く取り出すと、志貴目掛けて投げつけようとした。志貴は直ぐ様、心臓のあたりを狙って銃弾を放った。
 しかし胡蝶はどこも血を流さず、平気な顔で立ったままだった。確かに心臓の辺りを撃ち抜いたはず、志貴は驚いた表情で不気味な敵と対峙する。胡蝶は志貴の様子にニヤッとすると、身体が緑の炎に包まれた。炎から同じ色の無数の蝶がバラバラに飛び立つと炎が無くなり、胡蝶の姿が消えていた。すると、志貴の右肩に短刀が突き刺さる。
 志貴は痛みで膝をつき、後ろを振り返った。後ろには胡蝶がいた。
 志貴は幻覚でも見ているかのようだった。近くに幻覚剤でも撒かれているのか?いや、違う。そんな感じじゃない。ホログラムとも違う。グラスでもつけない限り、これほど高性能なホロを出現させることはできない。志貴は痛みで汗をかきながら、相手がなにをやったのか、その正体に気づいた。
 この世にはごく少数であるが、異能の力を扱える者が存在する。扱う能力や発動条件などによって魔法や妖術、超能力といった呼び名など様々だが、どれも異能の力であることには変わりない。これほどまでに科学が進歩した現代でも到底信じ難いような、特別な力を持つ者と今対峙している。胡蝶の能力からすれば、この異能の力は妖術と言うべきだろう。
 志貴は右肩から短刀を引き抜き、苦しそうな表情で胡蝶を見上げた。
 愛玲は志貴の右側にしゃがみ込み、花柄の白いハンカチを傷口に押さえつけた。ハンカチは血を吸って赤く滲み、直ぐ様別の色の布切れへと変わった。
 胡蝶はがっかりとした表情を見せ、冷たい眼差しで見下ろしいていた。
「この程度なものなの?正直、がっかりだわ」
 胡蝶はゆっくり志貴たちに近づくと、懐からコルト式の拳銃を取り出して志貴の額に向けた。志貴は銃を向けようとするが、腕に力が入らず、荒く息を吐きながら胡蝶を睨みつけた。
「この女を連れて行く。でも、あんたは殺すわ。わたし好みのいい男なのに。残念ね……」
 胡蝶は冷たい表情のまま、ゆっくりと引き金に触れている指先に力を入れた。「ここで俺は死ぬのか?」志貴はこの時そう思った。
 突然、志貴の後ろ側から銃声が聞こえた。胡蝶は右横腹を銃弾で掠める。激痛と怒りで顔が歪んだ。自分を撃った何者かを殺してやろうと銃を構えるが、流れ出る血の量が思ったよりも多く、身体に力が入らない。再び銃弾が近くのアスファルト付近に当たったので、ここは一旦退くべきだと考えた。
「へへへ~、ちょっと油断してたかな……チッ、痛いな。ねぇ、今日のところは、取りあえず退いてあげるわ。でも、必ずあんたを殺す。そして、わたしを撃ったクソ野郎もね。それじゃあね」
 膝をついていた胡蝶は立ち上がると、廃ビルが生い茂る暗いジャングルの中へと消えていった。
 志貴は後ろを振り返り、自分を助けてくれたのが誰なのか、薄暗い夜道を見つめる。人影が近づいてくるのが確認できる。しかし視力が良い志貴も、今は目が霞んでよく見えなかった。手で目をこすり、再び視線を向けると、よく知っている男の姿が映っていた。
 両手に銃を構えた義和が、ゆっくりとこちらに近づいてきた。周囲に敵がいないか入念に確かめ、志貴のそばまで来る。膝をついた男の顔を見て志貴だと分かると、志貴の目の前にしゃがみこんだ。
「志貴じゃないか!おいっ、大丈夫か!?」
 義和は話しかけると、志貴の状態を確認する。黒のスーツを着ているためあまり目立たないが、所々銃弾を掠めた箇所を見つけ、今までどういう状況に置かれていたのか理解する。志貴はゆっくりと立ち上がった。
 義和は志貴の右肩が濡れていることに気づいた。後ろに立っている愛玲のハンカチを見て、出血していることが分かった。
「おまえっ、血が……」
「大丈夫。傷が浅い」
 義和は志貴の右肩から視線を逸らすと、足元に短刀が落ちてることと、志貴の左手に銃があることを確かめる。
「どうしておまえ、銃なんか持ってる?」
 志貴は義和の質問に少し間を置き、掠れた声で答えた。
「別に持っててもおかしくないだろ。警察や自衛官以外でも、俺のような探偵業や警備会社のような危険を伴う可能性がある職に就いているものは、申請さえすれば銃の使用許可が下りることぐらい、おまえだって知ってるだろ。今がまさにそんな状態だ」
 志貴は義和の肩に手を置き、そして義和から離れる。
「もう行くよ。じゃあな」
 志貴は後ろを振り向き、この場を離れようとする。しかし、義和がそれを止める。
「行くって、どこにだ?怪我をしてるじゃないか!まず病院に行くのが先だろ。それにおまえは何者かに銃を向けられていた。俺が来なければ、殺されてもおかしくなかったんだぞ。署まで来てもらう」
 志貴は面倒くさそうな顔になり、苛立った口調になる。
「だから言っただろ。探偵業のような仕事は危険を伴うって。俺の後ろにいる彼女は依頼人。つまり、今依頼を受けた仕事をおこなっているところだ。それとさっき襲われたのは、この依頼と関係ない。署になら後で行く。もし無理矢理署に連れて行こうものなら、守秘義務を盾に警察の要求を無理矢理取り消してもいいんだぞ。腕の良い弁護士を雇ってな」
「何だその言い方は?人がせっかく心配してるのに。おまえは知らないかもしれないがな、今この街で殺人事件が複数起きてるんだ。どうも裏社会系の組織同士の抗争みたいだが……この事件の捜査でこの辺りを1人で回っていたのだが、まさかお前に会うとは思わなかった。それと、実はおまえのことを探してたんだ」
「うん?」
「昨日、おまえ花籠に行くって言ってただろ。あの店の店主が昨日の夕方、死体で発見された。店の近くで別の男の死体も……」
「そのことはニュースで知った」
「それともう1つ。おまえの事務所が火事で焼けた。火を何とか消し止めたが、おまえと連絡を取ろうにも取れなかった。杉浦さんもだ。ここまで来たら、おまえたちがこの一連の事件と無関係に思えなくてな。本当は巻き込まれたんじゃないのか?やっぱりおまえを署に連れて行く。杉浦さんもだ」
「沙代なら依頼の仕事で、今かぐやを離れている。それと今言ったことを理由に無理矢理連れて行く理由としては、まだ関連性としては不十分だな。もし無理やり連れて行くのなら、俺が事件と関係してる決定的な証拠を持ってくるんだな。時間がない。もう、行く」
「おいっ、志貴!」
「だから持って来いと言ってるんだ!俺は依頼を引き受けたら、期限までに必ず全うする。もし邪魔しようってなら、おまえでも容赦しない。弁護士でも何でも使ってやるさ。義和、ここは本土と勝手が違うんだ。この前大手企業の幹部が腕の良い弁護士を雇って、警察の会社への立ち入り捜査を退けたってニュースになってただろ。自由主義を尊重したこの街の法律では、こうなるのさ。それと今までおまえに言ったことがなかったが、俺は警察が大嫌いだ。犯罪者を取り逃がすばかりか、利権が絡むとまるで蠅のようにたかってくる。本当に反吐が出そうだ」
 義和は苦い顔をして志貴に告げる。
「もういい。勝手にしろ……」
 義和は志貴と反対方向の夜道を歩き出し、暗い廃墟の町へと消えていった。志貴はそんな義和の後ろ姿を見ながら、心の中で義和に向けてこう言った。「義和、おまえまで裏の世界へと巻き込みたくないんだ。だから、俺には関わらいでくれ」
 志貴は悲しそうな表情のまま、愛玲と一緒にこの場を離れた。追手に気をつけながら、何とか三番街のホテルが並ぶエリアに辿り着き、深夜3時半過ぎに、安ホテルにチェックインすることができた。
 志貴が目を覚ましたのは正午前だった。外は昨日より寒さが緩み、小春日和といった陽気だ。志貴は上半身を起こし室内を見る。志貴のそばには、パイプ椅子に座って寝ている愛玲の姿が見えた。室内は狭く、ベッドと椅子と机にPC、そして小さな冷蔵庫以外何もない。とても質素で味気ない部屋だ。
 志貴は体全体が熱っぽく感じ、右肩が疼いた。ホテルに入る前に近くのコンビニで消毒液と包帯を買って、愛玲に手伝ってもらいながら手当をした。ナイフをライターの火で炙って傷口に押し付けたおかげで止血することができたが、痛みを抑えることは出来ない。志貴は右肩を抑えながら、窓の外を眺めた。
 窓の外からは、遠くにある大学のキャンパスが見えた。学生が楽しそうに歩き回る様子を見ると、昨日の出来事がまるで嘘のようだ。
 スマホを充電器から抜いて画面を見る。義和が言っていた複数の殺人事件に関する記事を、ニュースアプリで確認する。
 志貴はスマホを枕のそばに置くと、愛玲の方を向いた。この女のせいで沙代が裏社会の小競り合いに巻き込まれてしまったと、怒りで腸が煮えくり返る思いだった。そして、ベッドの下に隠しているリボルバーを取り出すと、愛玲に銃口を向けた。
 愛玲は健やかに眠っている。志貴はその寝顔に余計腹が立ち、銃を持った手の指先に力が入る。手が震え思わず撃ちそうになる。しかし感情的になるのを抑え、銃を下に向けた。
 志貴はベッドから起き上がると、机に置かれたPCのそばまで行く。カメラ部分をガムテープで覆いPCを立ち上げると椅子に腰掛け、上着のポケットからUSBメモリを取り出しPCに挿し込んだ。
 志貴は入管システムに不正アクセスして、沙代に関する記録を破壊しようと考えていた。義和についた嘘もあったため、どうしても記録を破壊しなければならないと考えたからだ。
 しかし、志貴は電子戦が得意という訳ではない。それなりにコンピューター関連に関する知識や技術はあるものの、電子戦を得意とする本物のハッカーやAIには到底(かな)わない。
 もちろん、不正アクセスをしようと試みたら、間違い無く防衛システムであるAIに感知されるだろう。このホテルには身分証の提示も求められることもなく偽名で泊まることが出来たものの、特定される可能性は充分にある。
 しかし、大陸系のマフィア共がこの学芸研究都市に入り込んだ状況から、この学芸研究都市のシステムが外部からサイバー攻撃を受けてシステム麻痺を起こしている可能性があるとも考えた。この状況に(じょう)じれば、上手く誤魔化せるかもしれない。志貴はこの可能性に賭けた。
 志貴は入管システムへの入り口を見つけ、PCに事前に挿し込んでいたUSBメモリの中に入っているウイルスプログラムを注入しながら、入国管理局のコンピューターへと侵入していく。
 志貴が予想していた通り、どうやらサイバー攻撃を受けて機能が麻痺しているようだった。志貴は数分足らずの時間で、沙代に関するファイルがある領域を探し当てた。沙代のファイルのみを書き換えまたは破壊してしまうと怪しまれるため、沙代のファイルの周辺の領域ごとウイルスに感染させ、ファイルを破壊しようと試みた。
 沙代のファイルごと周辺のファイルもじわじわと破壊されていく様子が確認出来る。志貴は息を漏らして安堵の様子を見せたその束の間、外部からこちら側のPCのシステムが徐々に乗っ取られる様子が確認出来た。志貴は慌てて対抗してみるものの、どんどん浸食されていて手に負えない。志貴は急いでPCを強制シャットダウンさせケーブルを全て抜くと愛玲を叩き起こし、ホテルを急いで出て近くにある別のホテルに急いでチェックインした。
 志貴が再び目を覚ましたのは、夜の10時過ぎだった。PCがハッキングを受けて直ぐ様別のホテルに移って窓から様子を(うかが)ってたものの、最初に泊まった安ホテルに怪しい人物の出入りが無かったため、ひとまず安心しきってしまったのか、志貴自身いつ眠ってしまったのかさえ分からないほど、ぐっすりと眠ってしまっていた。
 外は街灯とライトアップされた店の看板以外真っ暗で、昼間と違い静まり返っていた。
 志貴は部屋の中を見渡した。しかし、どこにも愛玲の姿が見当たらない。ベッドから起き上がるとハンガーに掛けてある上着とコートを羽織り、内ポケットに隠してあった銃とナイフがあることを確かめた。部屋の中を片付けると、ホテルを引き払い急いで外に出た。
 夜の街は人が少なかった。人が急にいなくなったかのようなビルのジャングルを歩き回り、愛玲の行方を追った。
 どこを見ても、春物の薄手の上着を着た男しか目に入らず、チャイナドレスを着た女性の姿がなかった。コンビニやファミレス、酒場を覗きながら、あちこち探した。そうすること30分、明かりのついていない中小企業のビル群が並ぶエリアに入った。
 3階から5階ほどの高さ。さっきまでいたホテルの周辺から、だいぶ離れてしまった。もうここに来ると人の気配がなく、音も何も聞こえない。
 冴えないビルとビルの間の狭い道を通り、ちょうど十字路に差し掛かったところで、急に声が聞こえてきた。
 聞き覚えのある幼い笑い声。志貴は4つのビルの屋上から、黒い影に囲まれているのを確認する。
 胡蝶だ。胡蝶とその分身に囲まれ、志貴は立ち止まって身構える。胡蝶は楽しそうに話しかけてきた。
「やっと見つけた!言ったでしょ。あんたのことは殺すって。あの時は邪魔が入ったけど、もうここまでよ。あっそうそう、あの時撃たれた傷、まだ痛むのよね。後であいつも殺してやる。でも、良かった。今日の夜は寒くなくて。寒いと身体の動きが鈍くなっちゃうもん。あぁ、そう言えば、あの女の姿が見当たらないわね。どこに隠したの?言いなさい」
 志貴は黙ったまま、胡蝶を睨みつける。
「まぁ、いいわ。あんたを殺した後、ゆっくり探す。それじゃ、さっさと死んでね」
 四方にいる胡蝶の分身が右手を上に上げ、手のひらから緑色の小さな炎を作り出した。志貴は銃を内ポケットから取ろうとコートに右手を突っ込むが、身体が硬直してしまう。少しでも銃を抜く瞬間を見せれば、間違いなく敵はそのタイミングで攻撃してくる。四体のうち、どれが本体なのか見当がつかない。さぁ、どうする?
 志貴が銃を抜く暇を与えず、胡蝶が小さな炎を一斉に投げる。4つの小さな炎は蝶の形に化け、志貴の周囲を飛び回る。
 目くらましか?そう思った瞬間、志貴の喉に向かって短刀が飛んでくる。志貴が左手で刃をキャッチすると、胡蝶が間合いに入ってきて、志貴の腹に横蹴りを決める。
 志貴は突き飛ばされ、地面に身体をつける。胡蝶は分身を消して、志貴をあざ笑いながら、ゆっくりと近づく。
 志貴は膝をついた状態から、何とか立ち上がろうとする。胡蝶は懐から銃を取り出し、志貴の額に銃口を向けた。
 しかし、後ろから銃声が聞こえてきた。銃弾は拳銃を持ってる胡蝶の右手を掠めた。志貴の後ろから、銃を持ったコート姿の女たちが4人、こちらに近づいてきた。女たちの中には、月光の白いドレスの女もいた。
 女たちは志貴のそばに来ると、胡蝶に銃を向けた。胡蝶は劣勢に立たされたと舌打ちをして、直ぐ様建物の上に跳び移り撤退した。
 白いドレスの女は、ベージュのコートを着ていた。志貴に視線を移すと、笑顔になった。
 再びこちらに近づいてくる足音がした。志貴は後ろを振り返ると、黒のコート姿の弥生が見えた。弥生は志貴のそばまで来ると、少し意地悪く微笑み、ハスキーな声で話しかける。
「何とか無事みたいだね」
「あぁ、助かった。でも、どうしてここに?」
「あんたを探してたのさ。沙代って()の監禁場所らしいところを見つけてね」
 志貴は目を大きくした。
「どこだ?」
「二番街の貸倉庫が並んでいる辺りさ。監視カメラにも引っかからないし、見つけるのに苦労したけど。情報収集用のカラスに小型カメラを付けておいて、あちこち飛ばさせておいたら、ようやく引っかかってね。たぶん、間違いない」
 志貴は急いで来た道を引き返そうとする。弥生は志貴を引き止める。
「1人で行く気かい?」
「あぁ。あんたたちには世話になったからな。もう迷惑をかけたくない」
「何水臭いこと言ってんだい!ウチからも人を貸してやろう」
「すまない。だったら、さっきの殺し屋を追ってくれないか?若い小娘だと思って油断しないでくれ。あいつは異能の力を持ってる。自分そっくりの分身を作ったり、恐らく幻術をメインとした異能の力を持ってる。かなりの強敵だ。他にも隠してる力があるかもしれない。奴は俺を狙ってる。沙代を助ける時邪魔されたくない」
「分かった……あぁ、そうそう。もし助けに行くなら、ウチのバンに載せているバイクを使いな。早く助けに行きたいんだろ?」
「あぁ、ありがとう。恩に着るよ。あんた、本当にいい女だな。生まれるのがもっと早ければ、あんたと結婚してたかもな」
「無駄口言ってないで、さっさと迎えに行け。あぁその前に携帯出しな。何か新しい情報が入った時、連絡するからさ。あの時連絡先交換すれば良かったよ。すっかり忘れてた。探すのに苦労したんだから、有り難く思いなよ。何か困ったことがあったら、直ぐ電話をかけな」
 志貴は連絡先を交換した後、白いドレスの女に連れられてバンを止めている場所まで向かった。弥生は消えていく志貴の後ろ姿に、小さな声でこう呟く。
「死ぬんじゃないよ……」
 志貴はナンバープレートが外された中型の日本製バイクに乗って、薄暗い夜の街を突っ切った。志貴はバイクを飛ばしている間、心の中で自分自身と対話していた。恐らく、沙代は死んでるだろう。全て俺のせいだ。せめて亡骸だけでも持ち帰らないと。沙代が浮かばれない。感傷に浸りながらも、あくまで冷静に。高速を使うのは避けて、ジグザグに走り回って30分ほどで目的地に着いた。
 貸倉庫が並ぶ辺りは、白の外装の研究所らしい複数の建物に囲まれている。バイクから降りると、黒い手袋を両手にはめた。ナイフをハンカチで拭い、袖元に仕舞い込む。ゆっくり歩いて見て回り、一番奥に目的の倉庫を発見する。
 倉庫のシャッターの両脇に、短髪の黒スーツを着た男たち2人が立っていた。貸倉庫はやたらと大きい。2人ともアジア系で強面な感じから、恐らくアタリだろう。
 志貴は別の貸倉庫の影から姿を見せて、両方の袖からナイフをさっと取り出す。男たちは銃を構えるが、志貴は素早くナイフを2本投げつけ、男たちの喉に突き刺さる。
 男たちは苦しみながら、絶命する。見張りの男たちを殺してシャッターを叩くと、ゆっくりと開いていった。隙間から光が漏れくるのが確認できる。志貴は銃を取り出した。シャッターが途中まで開いた頃には、中にいる中国マフィアの顔が目の前に見えた。志貴は顔が見えた途端、ためらわず銃弾を放った。
 敵が10人近く、車が2台止まっているのが目に入った。黒スーツを着た男たちが銃を向け、志貴に襲いかかる。しかし銃を向けた途端、志貴に頭、喉、胸を的確に撃ち抜かれる。
 車や資材置き場などに隠れながら志貴を狙うのだが、少しでも銃を撃つために姿を見せれば、あっという間に志貴にやられてしまう。そうやって、1分も経たない内に5人も死体となってしまった。
 この状況に黒スーツの男たちの内の1人が、後部座席から人質らしい人物に銃を突きつけ出てきた。そこには、手首を紐で締められている沙代の姿があった。
 沙代に銃を突きつけているスキンヘッドの男が、志貴を脅すように大きな声を出した。
「おいっ!銃を床に捨てろ!さもないと人質を殺すぞ!」
 しかし、志貴は銃を撃つことをやめない。また1人、また1人、志貴の放つ銃弾に倒れる。
「おいっ!殺すぞ!本当に殺すぞ!」
 志貴の目には沙代の姿が入らなかった。殺し屋修羅としての感覚が完全に戻った今、自分に銃口を向ける敵の姿しか映らない。また1人殺し、また1人殺して、ついに沙代に銃を突きつけている男だけになってしまった。
 志貴はゆっくりと近づき、男に銃口を向ける。そんな志貴に、沙代は小さな声を出す。
「やめて……」
 沙代は今にも泣き出しそうな、悲しい顔をしていた。
「お願いだから、もうやめて……」
 しかし、沙代の悲痛な声は届かない。志貴はそばまで来ると、男の額に銃を突きつけた。男の目の前には、どす黒い妖気を放った阿修羅が立っていた。
 志貴はゆっくりと引き金に触れている指先に力を入れる。
「やめて……」
 今にも男を殺そうとする瞬間、沙代は涙を浮かべながら、志貴と初めて出会った頃のことが蘇ってきた。
 沙代が初めて志貴と出会ったのは、実は高校生の頃だ。志貴はこのことを全く覚えていない。あれは高2の秋、沙代が同級生の女子からいじめにあった後のことだった。沙代は質素だったが、男子からそれなりの人気があった。告白されることも時々あって、その度に断っていた。この中には同じクラスの女子たちから人気のあった男子もいて、このことが原因でいじめの対象となった。
 放課後同じクラスの女子数人に校舎裏へ呼び出され、掃除の時使った汚れた水の入ったバケツを2階の窓から自分のいる真下へと落とされた。沙代はバケツを頭から被り、セーラー服がずぶ濡れになる。髪を染めている同級生たちはクスクス笑って、みんなで今からカラオケでもいくようなノリでそのまま帰っていった。
 この日は土曜日で、午前中だけ授業だった。沙代は涙を目に浮かべながら、夕方までグラウンドのそばのベンチで顔を下に向けながら座っていた。
 夕方になり暗くなってきた頃、沙代に話しかける声が聞こえてきた。顔を上げると、青いジャージを着た男子が話しかけてきた。ここの体操服は臙脂色(えんじいろ)のジャージだったため、ここの生徒でないことは確かだった。そう言えば、サッカー部が他校と練習試合をするって話を、廊下ですれ違った他の生徒たちが話していたことを、沙代は思い出した。
 背が高くサラサラな黒い髪、そしてきれいな顔。女子が羨ましがるような美貌を持った男の子が、何やら心配そうな表情で話しかけてきた。
「大丈夫?あっ、いきなり話しかけてゴメン。何だか暗い顔してたから。あの良かったら、これ使う?」
 男の子はズボンのポケットから、ハンカチを取り出す。沙代に渡すと、沙代はハンカチで顔を拭いた。そして、何とか笑顔を作ってみせた。
「大丈夫そうだね。良かった。って、タメ口使っちゃってるけど、2年だよね?鞄の隙間から数Ⅱの教科書がちらっと見えたからさ。俺も2年なんだよ」
 男の子の親切に沙代は救われた。そして、本当の笑顔を見せた。すると、校舎の渡り廊下の方から男の子を呼ぶ声が聞こえてきた。
「おいっ、志貴!こんなところで何やってんだ?」
 2人は振り返ると、渡り廊下に眼鏡をかけた紺のブレザー姿の男子がいた。沙代は話したことが今まで一度もなかったが、その男子が中学の同級生の義和だということを知っていた。男の子は大きな声で、義和に応える。
「サッカー部の加藤が、この前捻挫になっただろう。それで練習試合のメンバーが足りないってんで、俺が助っ人ということで来たんだ。義和こそ何でここにいるんだ?」
「他校との生徒会合同会議といったところさ。昼過ぎから今まで会議室にいたんだ。もう終わったんだろ?一緒に帰ろうぜ!」
 男の子は走って義和の下へと向かう。沙代は後ろから呼び止める。
「あの、ハンカチ!」
「あぁ、いいよそれ。あげる。それじゃ、達者でね」
 男の子はそう言い残すと、義和の下へと走っていった。2人とも仲良さそうに話している様子が目に入った。志貴君って名前なのか。沙代はこの瞬間、志貴に恋をした。
 それから7年後、沙代は偶然街中で志貴が今の事務所に入っていくのを見かけた。7年前と全く変わらない、きれいな優しい顔。そのすぐ後、近くの電柱に貼られた事務員募集の貼り紙が目に止まるのだ。沙代はこの時働いてた会社を辞める明確な理由ができて、志貴の事務所へと足を運ぶのだ。そう、初恋の男の下へと。
 その沙代にとっての憧れの人が、目の前で自分を人質に取ってる男を殺そうとしている。恋に落ちた頃の優しい顔ではなくて、殺すことを一瞬でもためらわないような冷たい表情で。
 男は怯え肩がガタガタ震えていた。額から汗が吹き出て、ダラダラ流れ落ちていた。志貴は鋭い眼光を向けながら、確実に殺そうと男の額に銃口を突きつけた。今にも撃とうとしたその瞬間、沙代は涙を流しながら叫んだ。
「お願い。もうやめて!わたしの知ってるいつもの優しい志貴君へと戻って!お願いだから……」
 沙代の涙が床に落ちた瞬間、志貴は我に返った。沙代の泣いている顔を見て、心の奥底でずっと封印していたある思い出の断片、まだ沙代という名前さえ知らなかった、初めて出会ったあの頃のことが頭の中で蘇った。
 志貴は額に押し付けていた銃を男から離すと、男は失禁しながら気絶した。志貴は一緒に倒れた沙代へと近づき、しゃがみこんで声をかけた。
「沙代ちゃん、怪我はない?大丈夫?大丈夫!?」
 沙代は志貴が普段通りに戻ったのが分かると、涙を流して喜んだ。
「良かった。本当に良かった……」
 志貴は手首の紐を外すと、沙代を立ち上がらせた。沙代の両肩に手を置き、ホッとした口調になった。
「沙代ちゃん、怪我は無いようだね。危険なことに巻き込んでしまって、本当にすまない。全て俺の責任だ。恨んでくれて構わない」
 沙代は首を横に振って、優しく微笑んだ。志貴は真剣な顔のまま、先を続ける。
「沙代ちゃん、今からすぐ警察のところに行ってくるんだ。事情、いや今まで起こった全ての事実を話して、そして保護してもらえ。俺はこの件のかたをつけるために、一緒には行けない。1人で行くんだ」
 沙代は志貴の言葉を聞いて、志貴が自分の下を離れていく気がした。沙代は首を横に振った。
「沙代ちゃん……」
 志貴は困った顔をするが、それでも沙代は首を横に振る。
「ヤダ。だって、志貴君死ぬ気なんでしょ?顔を見れば分かるもの、そんなこと絶対イヤ!」
「沙代ちゃん、俺は沙代ちゃんが知るずっと前から、この手を血で汚してきたんだ。俺が生きていれば、また誰かを不幸にする。楊さんは殺された。俺と関わったせいで。だから、もう消えたいんだ」
 暗く自分自身を嘲笑うかのような志貴の顔に、沙代は平手打ちをした。志貴は驚いたように、沙代を見つめる。
「ふざけたことを言わないで!命を何だと思ってるの?それに人を不幸にする原因を作ったのなら、その罪から逃げないで、最後の最後までその罪と向き合ってそれを背負いながら生きていくのが人として正しい在り方なんじゃないの?今までだって、自分の罪と向き合って償う道を考えながら、生きてきたんでしょ?便利屋として、この街の人のために働いているのもそうよね?だって、あんな格安で普通依頼を引き受けないもの。だから、生活費もぎりぎり。でもね、そんな志貴君のことが好きなの。志貴君の罪の重さをわたしは知らない。でもね、支えにはなるつもり。志貴君の罪はわたしも一緒に背負うから。だから、消えたいなんて言わないで」
「ありがとう。ありがとう……」
 志貴は涙を流すと、沙代を抱きしめた。そして、沙代の瞳を見つめる。
「分かった。じゃあ、信頼できるところへと行こう。四番街の外れにある月光って娼館を経営してる弥生って婆さんがいるんだけど、彼女に保護してもらおう。この婆さんの裏の顔は情報屋で、この場所を教えてくれたのも彼女なんだ」
 沙代が頷くと志貴は笑顔になった。しかし突然、ブンブン蝿の飛び回るような音が聞こえてきた。志貴は周囲を警戒すると、スズメバチをもう少し大きくした黒い蜂型のドローン5体に囲まれたのに、気がつく。5体が2人に向かって勢い良く向かってくると、志貴は銃を構えた。
 志貴は前に走って敵を迎え撃つ。右にいる2体、左にいる2体を撃ち落とす。銃弾が当たった瞬間、ドローンが小さな爆発をする。接触時に爆発するように、設計されているのだろう。しかし1体撃ち漏らして、残りの1体が後ろにいる沙代へと迫る。志貴は胡蝶との戦闘で拾っておいた短刀を袖から取り出して、後ろに投げつけた。
 沙代は志貴の下へと走る。ドローンが沙代に迫ろうと、人工の羽を羽ばたかせる。だが幸運なことに、志貴の放った短刀の方が速かった。ドローンは短刀と一緒に気絶しているスキンヘッドの男の頭へと向かっていき、爆発した。
 沙代は志貴の胸元へと飛び込み、抱きついた。志貴は優しく沙代の背中を擦りながら、ホッとした。
 しかしシャッターの方から、足音が近づいてくるのが聞こえた。志貴は振り返ると、黒の戦闘服を着たスキンヘッドのロシア系男性が近づいてきた。2mを超える身体で、志貴たちの前に立ちはだかる。
 志貴は弾を補充すると銃を向けた。その瞬間、男はこちらに走ってきた。志貴は足を狙って撃った。見事命中し、男が止まるかと思った。しかし男は止まらず、志貴の顔を思いっきり殴った。
 志貴は後ろに倒れ大の字になる。その後、起き上がって膝をついた。志貴は顔を上げ男を見る。右太ももを撃ち抜いたはずだが、ズボンに穴が空いただけで、血が流れている様子がない。そして、先程のパンチの威力。今目の前にいるのは、開発途中である軍用アンドロイドだ。志貴はそのことが分かって、手持ちの武器であれを倒せそうなものがないか、頭の中で考える。
 拳銃2丁、短刀1本、弾が残り少ない。他は持ち前の腕っ節だけ。どれも勝てる要素が見当たらない。しかし、志貴は立ち上がってファイティングポーズを取る。
 アンドロイドが一気に志貴の間合いに入り、横腹にボディーブローを入れる。志貴は口から血を流し、床に崩れ落ちる。
 沙代は心配そうな表情で、志貴に駆け寄る。志貴の眼の前で両腕を横に広げ、志貴をかばうような体勢を見せた。
 もう本当にここまでなのか?志貴は自分の非力さに激怒しながらも、絶望的な状況に諦めかけていた。しかし、どこからか人の声が聞こえてきた。
「志貴ちゃん。沙代ちゃんを連れて、すぐ男のそばから離れて!」
 志貴は急いで立ち上がり沙代の腕を掴むと、アンドロイドから急いで離れる。アンドロイドがいる方向へ小型のロケット弾が飛んできて、辺り一帯が爆発する。
 志貴はシャッターの方へと目を向ける。坊主頭で屈強な男たちが5人、こちらへと向かってくる。全員自衛官が着用する迷彩服を着ている。ちょうど真ん中にいる男が手を振って、志貴たちに声をかける。
「2人とも大丈夫?助けに来たわよ!」
 志貴たちには聞き覚えのある声だった。そう、ゲイ・バーの店主のスミレだ。スミレはいつもと違って男らしく、右肩にバズーカを担ぎ、志貴のそばまで来た。
「スミレさん。どうしてここに?」
「弥生って婆さんに頼まれたのよ。志貴ちゃんが無茶して取り返しのつかなくなる前に、加勢しに行ってくれってね」
「そうなんですか。ありがとう……本当に助かった。でも、どうしてスミレさんに?」
「わたしとあの婆さんは昔からの知り合い。警察があまり頼りないってんで、時々治安が悪くなった頃に、ウチの店から自警団のメンバーを募ってね。婆さんの店の方も同じことをやってたから、その縁でね。って、そんなことより、あんたに伝えなきゃならないことがあるのよ!」
「何です?」
「二番街のチャイナタウン付近で、あんたが探してる愛玲によく似た女の目撃情報があるのよ。それと今は街が大変な事になっててね。中国系マフィアのアジトが次々と襲われて、街が火の海といった状態よ。行くなら早く行ったほうが良いわ」
 志貴が頷くとスミレも頷いた。しかしロケット弾で破壊したと思われたアンドロイドが、煙の中姿を現す。右腕が無くなっていたが、それでも脅威に変わりはない。志貴は銃を構えるが、スミレが志貴の前に出てこう言った。
「こいつのことはわたしたちに任せて。あなたは早く二番街へ行って」
 志貴は頷くと沙代の手を握って、倉庫を出た。暗い倉庫街の中、先程のダメージを忘れたかのように、バイクが置いてあるところまで走った。
 志貴は弥生に、倉庫での1件についての礼と沙代を保護してもらう内容の電話を入れた。弥生が電話に出て、二番街と四番街の境にあるインター付近で降ろすよう指示された。そこからなら近くにある大きな通りを真っ直ぐ行けば、目的地へとそうかからないとのことだった。それともう1つ、胡蝶を取り逃がしたとのことだった。志貴は電話を切って急いで指定の場所へと向かった。
 大きな通りをバイクで必死に駆け抜ける。通りはとても静かで、志貴と沙代以外誰の姿も見当たらない。遠くからサイレンの音が微かに聞こえる程度だ。志貴はこのまま無事に沙代を目的地まで送り届けられればと思っていたが、突然後ろから車の音が聞こえてきた。志貴は一度止まって後ろを振り返った。
 パトカーが音を鳴らしてこちらに近づいて来る。「そこの2人止まりなさい!」との声もあったので、志貴は逃げようと一瞬考えたが、考えているその一瞬にパトカーが横に詰めて来た。
「君たちこんな夜中に何してるの?」
 パトカーから男性警官2人が降りて来た。志貴は面倒なことになってしまい、どう対応すれば良いか分からず額から汗を流していた。
 しかし、後ろから車の音が聞こえて来て、警官の1人がそちらに向かった。普通の黒のセダンであったため、警官の1人がその車を静止させようと声をかけたその瞬間、突然銃声の音が鳴り響いた。警官の1人が頭を撃ち抜かれ地面に倒れた。もう1人の警官も銃を構えたが、直ぐ様腹部を2発撃たれて地面に倒れ込んだ。
「沙代ちゃん、バイク運転出来る?」
「えっ?」
「俺が後ろに乗って奴らと応戦するからさ」
 沙代はこの危険な状況の中、突然バイクが運転出来るか訊かれ困った顔をする。
「運転出来るの?出来ないの?早くして!」
 志貴の焦った表情に、沙代は急いでバイクを降りて前の座席に跨った。志貴も急いで後ろに乗ると、沙代は猛スピードでバイクを発進させた。
 沙代は限界までスピードを出していたが、黒のセダンが直ぐに追い付いて来る。車のサイドガラスの窓が開くと、黒スーツを着た男が発砲して来た。後ろから銃声が聞こえることに動揺して、ジグザグに進んだせいでバイクの走行が不安定になっていた。
「後ろは何とかするから、真っ直ぐ突っ切って」
 志貴が沙代の耳元に優しく声をかけると、沙代もその言葉を信じて身体の震えが止まった。走行も安定して、志貴は懐から銃を取り出し狙いを定めた。
 志貴の側からは銃を撃ってくる男と運転者の2人を確認出来た。それ以外の乗車は確認出来ず、他の車がこちらを追って来る気配も無かった。2人の服装からして、沙代を拉致した組織に所属している奴らのようだ。
 銃を持っている男が志貴の顔に狙いを定めると、銃を撃って来た。銃弾は志貴の頬を掠めた。志貴は頬から流れ出る血に気もかけず、しっかりと狙いを定めて銃弾を放つ。志貴たちに銃を撃って来た中国マフィアの男は額を見事に撃ち抜かれ、白目の状態で絶命した。
 仲間が額を撃ち抜かれたのを見て、運転している男は冷静さを失った様子で、猛スピードでバイクに突っ込んで来る。志貴は再び狙いを定めると額を狙った。しかし、志貴が放った銃弾はフロントガラスを突き破らず、微かな傷を付けた程度だった。
 運転している男はニヤリと笑った。そして、志貴たちとの距離も少しずつ縮まりつつある。このままだといずれ後ろからぶつけられてしまう。
 しかし志貴は冷静さを失わず、再び銃で狙いを定める。運転している中国マフィアのこの男はニヤついた不敵な笑みを浮かべ、思いっ切りアクセルを踏み付ける。志貴はその余裕そうなその顔に再び狙いを定める。そして、もうあと数秒でバイクと接触するそのタイミングで、志貴は別の場所に狙いを変えた。
 銃声が鳴り響く。志貴の瞳には右側の前輪のタイヤを撃ち抜かれ、スリップして建物の壁に激突する黒のセダンが映っていた。黒のセダンはその数秒後爆発して、大きく火花を散らしていた。
 その後他に追っての姿も無く、無事に沙代を目的地まで送り届けることが出来た。月光の女たちのバンに乗る沙代を見送る暇もないまま、二番街のチャイナタウンへとバイクを走らせた。
 二番街のチャイナタウンに着いたのは深夜の2時過ぎだった。街が所々赤く燃えていて、まるで市街戦のような様子だった。道端には制服を着た警官が数名倒れている。志貴はバイクを止めて、赤く燃え上がるジャングルの中へと入っていった。
 チャイナタウンの中を進んでいくと、燃えている場所が少なっていって、段々薄暗くなっていった。ここのチャイナタウンは特に酒場や風俗店が多く、人が普段住んでいる住居が見当たらなかった。人気のない街を歩き回り、橙色の屋根の大きな中華料理店の角を曲がると、大きな通りに出た。すると、角の直ぐ側にベージュのトレンチコートを着た若い男の姿が見えた。男が振り返り、志貴に銃を向けた。志貴も懐から素早く銃を抜いたが、相手の顔が分かると銃を下に向けた。
「義和か?」
「志貴!おまえどうしてここに?」
「そんなことより先に、この状況を説明してくれ」
「分からんが、部下が数人やられた。部下を殺したのは、恐らく今この街を騒がせてる殺人鬼。若しくはその一味といったところだろう。ここは危ない。今直ぐ離れろ」
「いや、それが出来ないんだ。昨日おまえと会った時俺と一緒にいた依頼人。覚えてるだろ?彼女がこの街にいるんだ。早く連れ出さないと。それに義和。おまえも部下を殺されて孤立した状態なんだろ?彼女を見つけるまでの間、一緒に行動しよう」
「分かった。一緒に出るぞ」
 頷くと一緒に通りを出た。すると右の方向、何やら通りを歩く人影が目に入る。志貴たちはゆっくりと近づいていった。
 志貴たちと人影との距離が10mぐらいになると、街灯の灯りで人影の正体が分かった。牡丹などの花柄で彩られた白のチャイナドレス。長くてきれいな髪。相手も志貴たちに気づいて振り返る。すると、そこには愛玲の姿が見えた。
「おいっ、いたぞ!」
 義和は声を上げる。志貴たちが愛玲のそばに近づき5m手前まで来た瞬間、愛玲は額を銃弾で撃ち抜かれる。そして今度は義和が頭を撃ち抜かれて、アスファルトに倒れた。
「義和!義和っ!!」
 志貴は銃弾で倒れた義和に、寄り添う形でしゃがみ込む。即死だった。後頭部を撃ち抜かれ、顔を地面へと叩きつけた状態だった。周囲には割れた眼鏡のレンズが散らばって、赤く淀んだ血の沼ができていた。
 志貴は涙を流しながら、振り返り銃を構えた。銃口の向かう先には、街灯の上に立つ胡蝶の姿があった。胡蝶は意地悪く笑うと、何だかスッキリした表情を見せる。
「やっとこいつを殺せたわ。横腹を撃たれたあの傷、ホント痛かったのよね。これでスッキリした。次はあんたね、修羅」
 志貴は怒りの感情を抑えながら、涙を袖で拭った。そして、胡蝶に尋ねる。
「義和を殺したのは分かるのが、でもなぜ愛玲を殺した?生かしたまま連れて行くんじゃなかったのか?」
「へぇ~、泣いていたから、もっと感情的になるのかと思った。そこのクソ眼鏡とは、随分仲よさげに見えたから。……いいわ。理由を話してあげる。わたしが所属する組織のアジトが次々と襲撃されたのよ。それで調べてみたら、襲撃される前日まで組織が経営する店で働いていることが分かってね。アジトは他の街にもあったんだけど、他の街の店でも働いていたことが確認できた。本当は殺さず捕らえろってことだったけど、組織ももう潮時ね。面倒くさくなったから、殺したのよ。もしかしたらアジトを襲ったのが彼女かもって思ったけど、こんな簡単に殺されるようじゃ違ったようね」
 志貴は街を見渡し、そして空を見上げた。すると、いろいろな人との記憶が蘇ってきた。人の暖かさに触れた感触が、再び志貴の身体を包み込み、志貴は心の中宇宙を駆け巡りながら思いに馳せた。そして、再び胡蝶に尋ねる。
「今事件を起こしてるのは、おまえなのか?」
「そういうことになるのかな。この街の組織のアジトをやられたから、敵対組織の拠点を幾つかね。後は警察との小競り合いで、いろいろ()ったかな」
 志貴は冷静なまま胡蝶を睨む。
「おまえは義和の仇だ。それとこの街の脅威。この街に住む人たちの害悪だ。だから、おまえをここで止める」
 志貴の言葉に胡蝶が高笑いした。
「ハハハッ!わたしを止めるって?今までわたしに手も足も出なかった男が、よくそんなセリフを言えるわね!」
 胡蝶に嘲笑れようが、志貴は冷静なまま真剣な表情で話を続ける。
「確かにそうだな。ホント、助けられてばかりだ。でも、助けられてばかりもいかない。今まで俺を助けてくれたみんなが、今度は窮地に立たされている。そう、今度は俺が助ける番だ。それともう1つ。俺は殺される気は毛頭ない。生きてみんなのところへ帰るんだ。……さぁ、どうした?俺を殺すんだろ?かかってこいよ。こっちはもう準備ができてるんだぜ」
 志貴の言葉に胡蝶がニヤッと笑った。
「いいわ。だったら、お望みどおり殺してやる!」
 志貴は直ぐ様銃を撃つ。しかし胡蝶は上に飛んで弾を避ける。志貴は胡蝶の飛んだ方向に銃を向けようとした。その瞬間短刀が飛んできて、志貴は後ろに下がりながら避ける。アスファルトに3本の短刀が刺さる。
 胡蝶は両手から小さな緑の炎を作って投げつける。炎が大きな蝶の形に化けて志貴に襲いかかる。志貴は(かわ)そうとするが、大きな蝶の羽に肩を(かす)ってしまう。志貴の瞳には羽織っていたコートの生地が焼けただれる様子が確認出来た。この様子から殺傷能力が低いと分析して、胡蝶が生み出した緑色の炎の蝶の攻撃も避けながら、胡蝶本体の動きにも気を付けていた。
 胡蝶はアスファルトに着地して、腰に下げていた瓢箪を手に持って、何やら口に含む。そして頬を大きく膨らませ、大きな炎を志貴に向かって吐き出した。
 志貴は炎を左右に跳びながら躱していく。胡蝶はそれを追いかける。志貴は後ろに下がりながら、ビルが並ぶ地域へと誘い込む。志貴は胡蝶が火を吹いたその瞬間に、炎の蝶の姿が消えたことを見逃さなかった。
 胡蝶は瓢箪の中身が無くなると、腰に下げていた大陸製の一振りを抜いて、志貴に斬りかかる。志貴は右袖から素早くサバイバルナイフを取り出して攻撃を防ぐ。志貴は不敵な笑みを浮かべながら、今までの戦いで分かったことを胡蝶に話す。
「おまえ、確かに強いが、その力も万能では無いようだな。攻撃力の高い力、若しくは他の能力を使ってる間は、おまえお得意の分身を作り出せない。そうだろ?もしそうでないなら、俺はもうとっくにやられてる」
 志貴の言ったことが図星だったようで、胡蝶は不気味な笑みを浮かべる。
「だったらお得意の分身を使ってあんたを殺してあげるわ」
 胡蝶が剣を握っている手に力を入れる。サバイバルナイフの刃が折れそうになり、志貴は後ろへと跳ぶ。ナイフの刃が折れて、志貴は後ろへと走る。しかしまるでデジャブのように、十字路に差し掛かってしまった。胡蝶は分身を作って、4つのビルの屋上から志貴に銃口を向ける。
「フフフッ、この展開、前にもどこかで。……あんたの死に場所は、こういうところが似合ってそうね。わたしも殺し屋らしく銃で殺してあげる」
 志貴はどれが本体なのか考える。殺し合いとは本当に刹那的だ。一瞬の判断が生死を決める。胡蝶がニヤッと笑う。
「じゃあ、殺すね。サヨナラ……」
 胡蝶が引き金を引く瞬間、志貴はビルの窓ガラスを見る。そして、暗い夜の中銃声が鳴り響く。
 志貴は左斜め後ろに立っていた胡蝶を撃った。胡蝶は胸を撃たれて、十字路に倒れた。他の分身が緑の炎に変わって、そして消えた。志貴は撃たれる寸前窓ガラスを見た時、1体だけしか見えなかった。志貴は胡蝶がガラスや鏡に分身を映し出せないことに、ぎりぎりのところで気づいた。
 志貴はゆっくりと胡蝶の下へと近づいた。胡蝶は大の字に倒れ、とても苦しそうな様子だ。志貴は胡蝶のそばにゆっくりと近付いた。
「どうして?」
「殺し合いとは本当に一瞬の出来事だ。僅かな隙が命取りになる。おまえは確かに俺より強い。強い力を持ってる。でも俺たちの後をつけてたあの時に、おまえは姿を見せず真っ先に俺を殺すべきだったんだ。確かに俺はおまえのような異能の力を持ち合わせていない。だからこそ、おまえは俺たちの前に姿を現した。自分が負けるはずが無いと思って。でもその過信こそが命取りなんだ。確かにおまえは強い。でも命の駆け引きが一瞬であることを、おまえはしっかりと理解するべきだった。この世に完璧なものは存在しない。だからこそ、弱点は必ずあるとね。おまえの場合、鏡やガラスにまでは分身を映し出すことが出来ないことが決定的な弱点だ。だからこそ、おまえは俺に撃たれて今倒れている。そう、この僅かな過信こそがおまえの敗因だ」
「フフフッ、あんたを徹底的に追い込んで殺せたと思ったのに、逆に説教される立場になるとはね。はぁ〜、あんたの言う通り、確かに油断してたかも。殺し屋修羅って通り名のわりに、正直あまり大したことないなと思ってたから。でもそうね、今だから思うのだけれど、そうやってわたしのように油断している相手の僅かな隙を決して見逃さないから、あんたは殺し屋修羅として闇の世界の人間からも恐れられてたんでしょうね。ホント、わたしの完敗ね……ゴホッゴホッ!」
 胡蝶は一層苦しそうな表情になって血を吐いた。志貴は地面に膝を付けると胡蝶の手首から脈を測った。
「何するつもり?」
「今からおまえを助けようとしているんだ。医者や看護師でも無い俺がやるから心許ないが、おまえは生きなければならない。そして、罪を償うんだ」
 志貴のこの言葉を聞いて、胡蝶は隠し持っていた銃を手に持って志貴に向けた。
「ふざけないで。それとこんなに見事に胸を撃たれてちゃ、わたしはもう助からないよ。それにもしわたしが助かるのだとしても、刑務所に行くのはやだね。わたしのような異能の犯罪者にはどうせ人権なんて無いだろうし、モルモットにされることなんて分かってる。だったら、自分の命なんだから自分でケリをつけるわ」
 胡蝶は自分のこめかみに銃口を向けた。
「おいっ、やめろ!!」
 志貴が胡蝶から銃を取り上げようとするその瞬間、大きな銃声が鳴り響く。胡蝶は自身の頭を撃ち抜きあの世へと旅立った。
 亡骸となった胡蝶を見下ろす志貴。近づいてくる複数の足音が聞こえてきたため、後ろを振り返る。弥生、月光の娼婦2人、そして義和の亡骸を抱きかかえたスミレの姿が見えた。弥生はうずくまった胡蝶の姿が目に入ると口を開く。
()ったのかい?」
「あぁ、殺すつもりで戦わなければ、こっちがやられてた。駆けつけてくれて、ありがとう。スミレさんもありがとう……義和を、義和をここまで運んできてくれて」
「志貴ちゃん……」
 スミレは悲しい顔を浮かべながら志貴を見る。弥生は志貴にお構いなしに、話を続ける。
「この坊やが倒れてたところに、もう1人死体があったんだが、もしかしてあれが愛玲なのかい?」
 志貴が首を縦に振ると、弥生が苦い顔をした。そして、言いにくそうにまた話を続ける。今度は独り言のように。
「あんたが前チンピラから助けてくれた、あの()がね、麻衣がね死んだんだよ。流れ弾が当たっちまった。チッ、何でだろうね?人が死ぬと何でこんなに悲しくなっちまうのは……」
 志貴は言葉が見つからなかった。右手で目元を覆う弥生を見ると、とても胸が苦しくなった。
「でも、あの()は幸せだった。だって、あんたを助けに行くって、真っ先に飛び出していったのがあの()だから。自分の生き方を貫き通して、そして死んでったんだ」
 弥生は目元から手を離すと、深く深呼吸した。そして感情的な部分を押し殺すと、志貴に目を向けた。
「……あんたに伝えなければならないことがある」
 志貴が頷くと弥生は枯れた声で続ける。
「ついさっき、ウチのPCにメールが届いてね。今日の朝5時に、一番街にある海岸沿いの日本庭園にあんた1人だけで来てくれって内容だった。そうすれば、今起こってる事件の発端と真相を教えてやるってね。どこから送られてきたのか、念入りに調べてみたけど駄目だった。かなりのやり手だよ」
「分かった。1人で行く」
 スミレが心配そうな表情で声を上げる。
「志貴ちゃん、駄目!明らかに罠よ。1人で行っては駄目。行くんだったら、みんなで一緒に……」
 志貴は首を横に振る。そして優しい顔をみんなに向けながら、ゆっくり語りかける。
「ありがとう。この気持ちだけ受け取っておくよ。でも、1人で行く。みんなを巻き込んでしまっておいて、勝手な言い草だとは思ってる。でも、今まで起こってきた出来事全て自分の過去と少なからず関わりのあることばかりだ。そして俺を呼び出そうとしている人物は、俺の過去をよく知ってる。分かるんだ。恐らく、相手も1人だ。だから、1人で行かせてくれ。過去の自分とケリをつけるためにも」
 スミレが再び引き留めようとするが、弥生が右腕を横に広げ、スミレを止める。弥生はいつもどおりのハスキーな声で、志貴に声をかける。
「分かった。1人で行っておいで。でも、死んじゃ駄目だよ。そしたら、あんたを待ってるあの()が悲しんじゃうから」
 志貴は優しく微笑む。
「分かってる。そのためにも、銃の弾を分けてもらえないか。もう残ってないんだ」
 志貴は弥生から弾を受け取ると、ふらつきながら夜の荒れた街の中へと消えていった。
 朝の4時過ぎ、志貴はよろよろと歩きながらチャイナタウンから一番近い駅へと行って、モノレールに乗り目的地へと向かった。志貴は窓の外を見て、薄暗いなか、学校の校舎や研究所、企業の工場などが静かに佇んでいる様子が目に入る。志貴は心の中でこう思った。「この学芸研究都市かぐやは、これからの未来に展望を抱いて作られたはずだ。でも、どうしてこの街はこんなにも悲しみに溢れてるのだろう?」志貴は憂いを帯びた瞳で、目的の駅まで着く間街の景色を眺めた。
 朝の5時ちょうど、海岸付近の東洋の美に包まれた庭園へと辿り着く。庭園の石畳でできた道の両脇には、人工的に作られた桔梗、睡蓮、曼珠沙華などが咲いていた。そして赤い鳥居が並ぶ道を行った先に海が見えた。そばには桜の木が何本も植えられ、蕾を膨らませていた。この場所は庭園でもあって、岬でもある。だから、絶壁の下を覗くと海が見える。志貴は桜の木が両脇に並ぶ先に、ある人物の姿が目に入る。黒のチャイナドレスを着た、黒くきれいな髪の持ち主。志貴の瞳には、死んだはずの愛玲が映っていた。
 愛玲は不敵な笑みを浮かべながら、真っ直ぐこちらを見る。アイシャドーを入れたことにより、今まで見てきた表情とはまるで別人。悪魔的な顔つきだ。愛玲は志貴との距離が5mになったところで、志貴に銃を向ける。
「やぁ、志貴。ここまでご苦労さん」
 愛玲のハスキーな中国訛りな日本語が聞こえると、志貴は口を開く。
「愛玲なのか?おまえは死んだはずじゃ……」
 愛玲は志貴の言葉に翳りのある笑みを浮かべる。
「あぁ、あれね。あれはわたしのクローン。2年間で急速成長させた試験管ベイビー。劣化版だけど、よく出来てるでしょ?日本にあるアメリカ政府の秘密研究所から連れてきたの。蛇頭とCIAとの間でいろいろ取引があってね。商品の人を使って、いろいろ実験をやってたみたい。わたしのクローンもその1つ。構成員だったわたしのサンプルをどこで取ったのか知らないけど、おかげで目くらましになったわ。だから、今わたしが生きてるってことを知るのは、あなたただ1人。でも、こういう形で先輩であるあなたと話ができるってのも、なかなか感慨深ってものね」
「最近頻発してる中国系マフィアのアジトを襲撃してまわってるっていうのは、おまえの仕業だな?なぜこんなことをする?」
 愛玲は一瞬表情が硬くなる。しかし、再び不敵な笑みに戻った。
「なぜって?そうね、なぜかって敢えて問うなら、この世の全ての悪を憎んでるから。……わたしは物心がついた時には、既に売り物にされていた。商品として中国各地を転々としながら、身体を売られそして犯された。わたしは薄汚れた世界から抜け出すために機会を待った。そして、かつてのあなたと同じ殺し屋となって、人の生き血を吸う裏社会の者たちを次々と殺していったわ。でも、それだけじゃ、世の中のクズどもは消えない。だから、方法を変えることにした。マフィア同士の抗争を煽り立て、そして自滅させていく。もううんざりなの。だから、この世から奴らを全て消し去ってしまえば、自分の居場所が見つかる。そう思ったの」
「よくそんなことを思いついたな。俺も考えつかなかったよ。でも、無謀だ」
「確かにね。ヘマをやったわ。だから、ここまで逃げてきたの。あなたがこの街にいる情報を掴んでたし、蛇頭があなたを巻き込むと思ったの。それに乗じて、行方をくらまそうとしたわ。案の定、上手くいった。でも、それぐらいやらないと、わたしは生き残れないの。あなたのようにあんなバケモノたち相手と、真っ向に戦おうなんて思わないから」
 志貴は悲しそうな表情を見せる。愛玲は目を細めて、穏やかな口調になる。
「どうやら、あなたの他にもお客さんが来たみたい」
 志貴は後ろを振り返る。そこには2人のよく知る人物の姿が映っていた。黒の長袍を着た男の姿が。
黒龍(ヘイロン)……」
 黒龍。志貴を殺し屋へと導いた張本人で、現在蛇頭の首領。後ろに流した黒髪、切れ長な眉、そして鋭い瞳、志貴と負けるとも劣らない二枚目だ。歳も変わらないように見えるが、実際20も歳が離れている。志貴のそばまで来ると、穏やかな口調で話しかける。
「久しぶりだな、志貴」
 黒龍は志貴の隣に立つと、愛玲に視線を向けた。
「愛玲……」
 黒龍は志貴に視線を戻すと、再び話しかける。
「すまないな、志貴。いろいろ迷惑をかけたみたいだ」
 黒龍は懐から銃を取り出して、愛玲の銃を狙う。命中して愛玲の手から弾け飛ぶ。黒龍は銃を向けながら説得し始める。
「さぁ、一緒に帰ろう。今ならまだ間に合う。同胞を襲っていない今だからこそ、首領である俺の力で何とか部下たちを説得させることができる。だから、さぁ」
 黒龍は普通话で話して説得するが、愛玲は首を横に振る。
「嫌よ!」
 黒龍は銃を持つ手に力が入る。
「愛玲、俺は殺し屋としてのおまえを、組織のトップとして愛している。でも男として、女であるおまえのことも愛しているんだ。だから、一緒に戻ってくれ。嫌なら無理矢理にでも連れて行く」
 黒龍は銃口を向けながら、ゆっくりと愛玲に近づく。愛玲はおとなしく両手を上げるふりをする。しかしそれは一瞬で、右太ももに隠していたもう1つの拳銃を素早く取り出すと、黒龍の胸を撃ち抜く。
「黒龍!」
 志貴は崩れ落ちる黒龍に、寄り添う形でしゃがみ込む。黒龍は血を吐きながら、志貴に語りかける。
「志貴、すまない。おまえの事務所の女をさらったのは、俺の部下なんだ。おまえなら愛玲を必ず見つけ出してくれると思って、俺が直接命令した。見つけても見つけられなくても、必ずおまえのとこの女を返すつもりでいた。だが部下たちは、組織を抜けたおまえをどうしても許せなかったみたいだ。すまない、本当にすまない」
 志貴は優しく微笑む。黒龍はそんな志貴を見て、顔を青くしながら、そして苦しみながらも笑顔になる。
「本当に優しい奴だな、おまえは。昔からそうだ。組織内で俺が孤立した時も、おまえだけが裏切らなかった。そんな優しいおまえだからこそ、最後の頼みを言う。聞いてくれ。愛玲を殺さないでくれ。本当に可愛そうな(むすめ)なんだ。売り物にされた彼女を闇市場で偶然見つけて、引き取った。愛玲はどこか足掻いているように思えた。今の生活から何が何でも抜け出したいような……だから、俺が新しい居場所を作ってやった。俺にはこのぐらいのことしかしてやれなかった。でも、気に入らなかったみたいだな。そしていつしか、愛玲に惚れている自分に気がついた。ホント、首領として失格だな。ゴホゴホッ、たぶん志貴、近くで銃声を聞いた者がいるはずだ。急いでここを離れろ。後はおまえに……」
 黒龍はそう言い残すと、静かに息を引き取った。愛玲は冷たい瞳で黒龍の亡骸を見る。
「ホント、馬鹿な男……」
 愛玲は弾き飛ばされた銃を拾うと懐に仕舞う。志貴は立ち上がって愛玲に視線を向ける。
「あなたをここに呼んだ理由。教えてあげるわ。それはあなたにわたしという存在を知ってもらいたかったからなんだと思う。……あなたとわたしはよく似ている。人の世の闇によって人生を狂わされ、裏社会の一番深淵へと入り込み、闇の世界から逃れようともがき苦しんだ。わたしのことを理解してくれそうな、あなただから話したかったのかもしれない」
 志貴は哀れみを帯びた表情で、愛玲に言葉を放つ。
「そんなことを続けても、誰も救われない。もちろん、自分自身もな。そして、自分自身がおこなってきたこと全てが、今まで憎んできた存在と同じだと気づき、自己矛盾、今までの罪の重さで一生苦しむことになる。だから、もうやめるんだ」
 志貴の言葉に、愛玲は銃を持つ手に力が入る。
「もし邪魔するつもりなら、ここで殺すしかないわ。それに一度戦ってみたかったのよ。あの伝説の殺し屋修羅と」
 愛玲は銃を撃とうと引き金に力を入れる。しかし、突然悲しそうな表情へと変わり、志貴にこう言う。
「でも……やっぱり駄目みたいね。あなたとは戦えないわ。だって、あなたはもう手に入れてしまったから。わたしが決して手に入れられなかったものを」
 愛玲は銃口を下に向ける。
「ねぇ、本当の善悪って何だと思う?わたしもあなたも社会の裏側を歩いてきた。そこには国家も絡んだ、必要悪と唱えた非情な殺戮の数々もたくさんあったでしょ?国がそのことを合法だと言ってる今の狂った人の世に、明確な善悪を決める基準があると思って。まぁ、いいわ。あなたがわたしの生き方を否定するのは構わない。でも、ここまで闇が浸透している世の中、あなたはどうやって自分の信念を貫き通すつもりなのかしらね?話はここでおしまい。じゃあ、もうそろそろ行くわ」
 愛玲は志貴の横を通り過ぎ、静かに消えるように庭園を離れていった。
 志貴はさっきまで愛玲がいた岬から、海を眺めている。ゆっくりと日が昇っていく様子が目に入る。その様子を見ながら、この1件で死んだ人たちの顔が蘇る。敵味方を問わず、多くの人の犠牲の上でしか成り立たない自分の人生に悲しみを抱くも、決して表情に出すことはなかった。感情的にならず、涙を流すこともない。いろいろな人との出来事が頭のなかで蘇ってくるなか、志貴は最後に言われた愛玲の問いが耳に残る。闇の世界の中、どうやって自分の信念を貫き通していくのか。いろいろな出来事が頭の中をうねりながら、心の闇となり志貴の首を締め付ける。
 そう、怨念は決して消えることがない。悪業もそうだ。殺した数だけ闇が募り、それが悪霊となって姿を現す。実体のない無数の手が志貴の首を探し求め、殺そうとする。志貴は人を殺した時から覚悟していた。この苦しみが死ぬまで続くことを。しかし、まだどこかこの世に未練があるのか。この世とあの世の境を行ったり来たりしている状態になっていた。志貴は本能的に抵抗するのだが、心の闇がどんどん首を力強く締め付けていく。
 しかし志貴の心の中の小さな光が、志貴の手を掴み心の闇を振りほどいた。この瞬間、志貴は沙代を思い出す。「一緒に罪を背負うから」あの言葉を思い出すだけで、志貴は前を向いていられるような気がした。
 志貴は後ろを振り返り、みんなの下へと帰っていく。志貴は桜の蕾が次々と開いていく帰り道の中、報告書の文章を考えていた。誰にも見せることのない、自分のための報告書を。

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