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「―――ある人は、言いました」
「うん?」
「“された側にも、問題がある”と」
「………へえ」
「それに関してきみは、どう反抗する?」
―――――20:00
灯りが全部消えた校舎、2階。南側から3番目の教室。
スマートフォンの照らす画面だけが、その場所に俺たちがいることを示していた。
制服姿で教卓に裸足のまま飛び乗って胡座をかいている彼女と、教室のど真ん中の机に土足のまま上がり込んでいる俺。
暗がりでたったふたりだけが、この教室で息をしている。
毎週金曜日、19時55分に校舎裏の抜け道を利用して校内に忍び込む。警備員の見回りが完全に終了したあとに乗り込む校舎は、自分たち以外誰もいない。
その背徳感が、彼女の望むものだろう。
黒板に手を伸ばして白いチョークを握り、絵心のない動物を書いては、「猫じゃなくて、虎だもん」と俺の答えに頬を膨らます。
スマートフォンを眺めている俺に向きなおって、彼女は今日もくだらない話をする。
「――…なんで俺に聞くんだよ」
「えー?当事者だからじゃない?」
「ふうん」
「何言われても黙ったまま。手出してこないだけましだけどさ、反抗すればいいのに」
「無駄だろ、そんなことしても。余計に面倒臭くなるだけだ」
「まあ、無駄、だよねえ」
誰が悪かったのか、
俺は悪くなかったとか、
じゃああいつがすべて悪いんだ、とか。
「どうでもいいよ」
「……どうでもいい」
「ああいうやつらは、どっか知らないところで痛い目に遭って、寿命縮めてて、俺よりもすげえ早く死ぬんだよ。どうでもいいけど」
「どうでもいいしか言ってないよ」
「それ以外に示す言葉がない」
「うん、じゃあどうでもいっかあ」
占められた教室の扉、そこに並べられるふたつの先が青い上靴。
そして自分たちが纏っているのは土足のローファー。俺たちは“わざわざ”教室で履き替える。
ふたりして教室についた瞬間に手に持っていたローファーを地面に落とす。その仕草に決まって彼女は面白そうに喉を鳴らす。
大嫌いなこの教室に、あと何ヶ月収容されなければいけないのだろうか。
指定された出席番号、この場所で生活しなければいけない義務、勝手に生み出すチームワーク、趣味も性格も頭のレベルもちっとも似つかない36人を無理矢理閉じ込めて、教師は口を揃えて“仲良くしてね”と言う。無理な話だ。
義務教育を過ぎた環境なのにもかかわらず、その義務を押し付けてくる空間。そこで当たり前に過ごす日常。自分の立場がなんだとわきまえて、その生活に順応していく3年間。
学校と言うこの世界が、誰にとっても楽しい場所と思えばそれは大きな間違いだ。
見て見ぬふりするクラスメイト、教師。笑いながら自分が正だと勘違いして笑いころげてる阿呆な連中、集団になれば怖いもの無しだと強者にくっつくしょうもない仲間。
この場所で行われている毎日は、窮屈で最悪だ。
「―――そんなきみに、はい」
「なんだよ」
「なんだよって、いつもわかってるくせに。いくよ?はい、どっちのてーに、はいってーるか」
「右」
「うわー、いつも右じゃん、」
「どっちでもいいよ正直」
「はいはい、どっちでもいいね」
教卓の上で何の気にもせず胡座をかいている彼女に、何度下着がみえると注意したかは分からない。
彼女は決まって「見たいのー?」とおちょくってくるけど、丁重に断っている。
でも気になっちゃうなんて男の子だね、彼女が煽る言葉に毎度スルーで対応することにも慣れている。
こちらに身体を向け、拳をふたつ作って前に差し出す。机3つあいた距離で彼女はもう一度「どっちの手に、はいってるか」と繰り返した。
右って言っただろ、そう言えば、ああ、そうだったねと言って右手を開く。
ど真ん中の席に土足で乗り込んでいる俺は、わざわざ机に靴を置いて踏み荒らす。多少の砂くらい、バカは気づかない。
週明け月曜日にアイツが机に荷物を降ろして、授業中に頬をつけて眠っていると考えると本当に気分は最高だ。
「ジャーン」
「いや、暗くて見えねーっつうの」
「今日はねえ、サイダーだよ」
「ふうん」
今日も彼女の片方の拳には、アイツからもらった飴玉が入っている。
にこにこと笑って、サイダー好き?と聞いてくるから首を横に振る。じゃあ私もキライって言うから、ちっとも面白くないのに笑い返してやった。
―――人の女に手出してんじゃねえよ
あれをイジメと呼ばずして何になるんだろうと散々考えてみたけれど、誰かがイジメだと認めて、それがこの場所での“誤り”だと決めつけられない限り俺は決して「いじめられてる」には部類されないらしい。
最初から仲が悪かった訳でもない。最初から友達がいなかったわけでもない。
最初から学校が嫌いだったわけではない。最初から、学校なんてくだらねえと思っていたわけでもない。
俺はそれなりに友達もいたし、目立って騒ぐようなタイプでもないが普遍的で充実した高校生らしい生活を送っていた。
誰とでも話して騒ぐようなキャラではなくとも、それなりに会話はできるし一人でいることは殆どなかった。
ここでいうのなら、一軍でもなければ、三軍でもない。二軍の中ではまあまあ上の方で、どちらとも会話できるような。
いわば中途半端な人間だった。その定位置についている時点では、全く不自由しない生活だった。
アイツとだってそれなりに仲が良かったと思う。
去年の秋くらいまでは。
「ねえ、なんで嘘ってすぐに広まるんだろうね」
「嘘だろうが真実だろうが、噂する奴には関係ないからだよ」
「じゃあ結局みんな、噂が好きなんだ」
「そういうこと」
「誰もホントのことなんか知らないくせに」
「嘘かホントかなんてどうでもいいんだよ、あーいうやつらって」
「だいたいさあ、藍沢が人のカノジョとるような男にみえるんかね、みんなは。目が腐ってるんじゃないかな」
「しょうがねーだろ、アイツがイエスって言ったら絶対なんだから」
「ほんと、クソ野郎ね」
「―――ほんと、よく付き合ってられるよな、そんなクソ野郎と」
ふふ、と白鳥は不気味に微笑んで教卓を飛び降りる。
次から体育着履いてこいと告げれば、「藍沢が貸してくれるならいいよ」と返された。
それから俺が居座っている“彼女の彼氏”の机まで近寄ってくるから、俺はそんな彼女を冷たい目で見下ろしていた。
「クソ野郎と付き合ってる私は嫌い?」
「わかりきったこと聞いてくんなよ」
「ふは、まさかたった今カノジョが大嫌いな男に取られてるだなんて思ってないだろうなあ」
「人聞き悪いこと言うなよ、取ってはねえよ、取っては」
「そうだねえ、わたしが奪われにいってるだけだもんね」
「お前も、相当な物好きだよ」
「そう?でもきっと、わたしが“フツウ”だよ」
誰もいない校舎に乗り込むようになったのはいつからか。警備員が仕事をサボり始める時間が20時だと知ったのはいつからか。
くそみたいな彼氏を放っておいて、週末の夜を二人で過ごすようになったのはいつからか。
それを知ってるのは、別に俺たちだけでいいのだろう。