私、橘千明は、ごく普通の高校2年生。勉強も運動も自慢できるものではないが、友達には恵まれた。この先もずっと、平穏な日々が続くと思っていたのに──。
あいつと出逢ったことで、私の人生は激変した。
──始まりは、ある日、私がリビングで雑誌を読んでいた時のことだ。
「千明、少し良いかな?」
父がそう言った。
「何?」
そう言って、私が雑誌から視線をずらすと、そこには神妙な面持ちの父が居た。そして、私の隣の椅子にゆっくりと腰かけた。
何か大事な話があると感じた私は、読みかけの雑誌をテーブルに置き、父に体を向けた。
「どうしたの?」
「あのさぁ……」
父が話の途中で黙り込む。よく見ると、目があちこち泳いでいる。
何が言いたいのか、私には検討もつかなかった。
──そして、しばらく沈黙が続いた。
そこへ母がやって来て、沈黙が続く2人を見て言うのだった。
「2人とも黙り込んじゃって、どうしたの?」
不思議そうな表情を見せる母に、私が言った。
「お父さんが何かいつもと違うの……」
なかなか話し出せないでいる父を見て、母が代わりに話をする。
「お父さん、転勤することになったんだって! だから皆で引越しだよって話」
「えっ、引越し⁉︎」
私は驚いて思わず立ち上がった。
「そんなに驚かなくたっていいでしょう。新しい土地はどんな所かしら? 楽しみよねぇ、お父さん」
母は平然と言う。
「ううん、そうだね。そういう訳だから……。よろしくね、千明」
父はようやく口を開き、苦笑いしながら私を見上げた。
「いや、普通驚くでしょ!」
私の脳内はパニック状態となっていた。
何を言っているんだこの2人は⁉︎ そんなこと急に言われても、受け入れられないよ。もし私が引越しを拒否したら……、2人を困らせるかな?
──私は、平静を取り繕って話し始めた。
「あのね、今の学校、とっても気に入ってるんだ。友達もいっぱいできたし、皆も私が転校すると『寂しい』って言うと思うんだよね……」
両親を困らせたくはないが、少し抵抗してみたいと思ったのだ。
「あら、それなら大丈夫よ! もう学校には転校のこと伝えてあるし、お友達からは色紙も預かってるから」
ニコニコしながら楽しそうに話す母。
抵抗しても無駄だと悟った私は、ここでようやく椅子に座り、今後について話し始めた。
「……それで、いつ引越すの?」
父が申し訳なさそうに私を見て答える。
「それが……、明後日にはこの家を出ないといけないんだ」
すかさず母も、私が読みかけていた雑誌を手に取って言う。
「そうなのよ! だから、雑誌なんて読んでないで、荷物の整理よろしくねぇ〜」
両親の発言を聞いた私は、心の中で叫ばずにはいられなかった。
明後日‼︎ ずいぶん急だな……。
──しばらく沈黙が続いた後、私は呟いた。
「……荷物、まとめるわ」
両親が頷き、ニッコリ笑った。
──そして、私たちは長らくお世話になった家を後にし、新しい家へと向かったのだった。
これからお世話になる家は、閑静な住宅街の一角にある、洋風造りの可愛いらしい戸建住宅だった。
新しい学校はどんな所だろうか? 友達はできるかな? 私のそんな不安など関係なく、日が過ぎていった。
──転校初日の朝、私は大きなあくびをしながら、朝食を口に運ぶ。その光景を目の当たりにした母が、やや困ったような表情で言う。
「あら、そんな大きいあくびして。さては、緊張して昨日眠れなかったんでしょ? しっかり両目を見開かないと、素敵な出逢いを見逃しちゃうわよ〜」
朝から何を言ってんだか、というような呆れ顔の私をよそ目に、母は続ける。
「理事長には話してあるから、安心していってらっしゃい!」
意味ありげな笑みを見せる母に、疑問を持ちつつも、眠気と緊張が入り混じり、私は問い詰める気にもならなかった。
そしてついに、私は学校に向かって、歩き出した。
これから多くの波乱が、私の身に降りかかるなんて、この時は思いもしなかった──。
──とうとう新しい学校に到着した。
「うわぁ……思っていた以上に立派な学校」
想像より豪華な造りの校門や校舎を目の当たりにした千明は、思わず呟いた。
こんな所に私が通うの? 学費とか大丈夫なのかな……?
つい、現実的なことを考えてしまう千明。
すると、スーツを着た細身の男性が、千明に近づいてきた。
年齢は50代ぐらいかな? 黒髪の短髪で、スッキリしてる。眼鏡をかけ、スーツを着こなし、いかにも仕事が出来そうな雰囲気の人だなぁ。
千明がそんなことを考えていると、男性が彼女の前で立ち止まった。そして、微笑みを見せながら話し始める。
「お待ちしておりました、橘様。私は、本日ご案内を担当します、石崎と申します。よろしくお願いいたします」
すごいきっちりした人だ。こんなすごい学校で働いるだけのことはあるなぁ。
千明は、その男性の丁寧な応対に感心した。
「よろしくお願いします! それにしても、立派な校舎ですね。私が、以前通っていた学校とは全然違うので、驚いています」
千明が校舎を見渡しながら、そう言うと
「ありがとうございます。当学園は、名家の御子息、御息女が大勢通っておられます。そのため、相応な造りとなっております。──それでは早速、園内をご案内しますのでこちらへどうぞ」
そう言われ、石崎の後ろに続いて歩き始めた千明。
校舎の綺麗さもさることながら、廊下のあちこちには高価そうな置物や絵画が飾られている。千明は、キョロキョロ辺りを見回しながら歩く。そして、ハッと、あることに気がついた──。
「あっ! この曲、どこかで聴いたことある」
思わず声を出してしまい、慌てて両手で口を抑える。
それを見た石崎がクスッと笑う。
「こちらでは、生徒の皆様がゆったりした気持ちで過ごせるよう、休息時間にはクラシック音楽を流しております。お気に召していただけましたか?」
すかさず千明が笑顔で答える。
「はい! とっても素敵ですね! 私までお嬢様になった気分です」
校舎内の雰囲気に、魅了される千明。
それから、併設されているカフェ、お洒落な噴水がある中庭、離れにある花園や教会などを案内された。
園内のどこをとっても、その素晴らしさに圧倒される千明。そして、自分の来る所ではないと改めて感じた。
「あっ、あの……、石崎さん。こんなことを石崎さんに言ってもしょうがないんですが──。私は、こんなすごい学校に通えるほど、お金持ちじゃないんですけど」
石崎は千明を見て、ニッコリ微笑む。
「心配には及びませんよ。橘様は、学費を含め、こちらでかかる費用は免除されます。なので、ご安心ください」
「えっ! そうなんですか⁉︎」
「はい。お母様から学園について、お話はありませんでしたか?」
「いえ、何も……」
困惑する千明に対して、石崎が優しく説明する。
「こちらの学園では、主人となる者が、使用人となる者の学費やその他諸々の支払いを行うこととなっております。橘様は、先日の試験にて使用人に分類されました。そのため金銭面の心配は無用なのですよ」
「はぁ……」
当然のように「主人」とか「使用人」とか言ってるけど……、今の時代にそんなのある? そして先日の試験って……。
──あっ!
この前、自宅で母に「実力テストで〜す!」と言われ、遊び半分でやったあれかな? 驚くほど出来なかったやつだ!
何か思い出したような顔をする千明を見て、石崎が言う。
「頭の整理ができてきたようですね。それでは、理事長がお待ちですので、そろそろ向かいましょうか」
石崎は、千明を理事長室に案内した。
──理事長室の前まで来た2人。
扉は、なんとも重厚感のある造りだ。
この先には、一体どんなすごい人が待っているんだろう……? 急に緊張してきた。
どんどん表情が、かたくなっていく千明を見て、石崎が優しく声をかける。
「大丈夫ですよ。理事長はとてもお優しい方ですから」
石崎の言葉に、少しホッとする千明。
「あっ、ありがとうございます」
石崎さんは優しい。私の気持ちを察してくれている。よく周りの人を見ているんだなぁ。
千明は、石崎のきめ細やかな対応に感服した。
石崎がコンッ、コンッと2回ノックをし、ゆっくりと扉を開ける。
──すると、真っ先に明るい陽の光が目に飛び込んできた。
「うわっ、眩しい──!」
千明はそう言うと、思わず手で両目を隠した。
ゆっくり手をどかし、目を凝らすと、そこには床から天井まで続く大きな窓があった。その窓からは、暖かく優しい陽の光が差し込み、校舎や手入れされた中庭が一望できる。
大きく立派な木製の机、ガッチリとした焦茶色の皮っぽい椅子が、私達に背を向けている。
あそこに理事長が座って居るんだ……。緊張する。
緊張を隠しきれない千明の横で、石崎が言った。
「理事長、橘様をお連れしました」
──すると、聞き覚えのある女性の声が、どこからか聞こえてきた。
「やっと来た! 待ってたわよ〜!」
どこから声が聞こえてきたのか考えていると、千明の肩を誰かがトントンと軽く叩いた。
千明が振り返ると、何者かの指が彼女の頬に刺さった。
そこに立っていたのは──。
「理事長! そんな子供みたいなイタズラは、おやめください! 橘様が驚かれてるじゃないですか。申し訳ありません、橘様」
石崎が慌てて謝罪をする。
「だって、久々に姪っ子に会えたんだも〜ん! そりゃあ、小学生の男の子みたいな意地悪したくなるわよ!」
私の頬に指を刺した犯人は──、母方の伯母であった。
伯母は昔から綺麗で、実年齢よりも若く見える人だ。
髪は茶色、ゆるく巻いた長いが優しいフローラルの香りをまとう。白くツヤのある若々しい肌。細身で可愛らしいけど凛とした大人の魅力溢れる女性。それこそが伯母である。
そういえば母からは、管理関係の仕事をしていると聞いたことがある。
まさか、ここの理事長だったとは……。
「やだぁ、千明、久しぶり〜! 大きくなったわね! 最後に会ったのいつだっけ? 元気にしてたぁ〜⁉︎」
伯母は、驚きのあまり固まる私を抱きしめ、お得意のマシンガントークをするのだった。
「理事長! 嬉しいのは分かりました。早く、席にお戻りください。なぜ席に座ってお待ちになれないのですか? こういう場合、理事長は椅子に座っておられると、誰しもが思うじゃないですか!」
少し怒り口調で石崎が言う。
「そんなの、千明を驚かせたいからに決まってるじゃない! 皆が想像することをやっても、つまらないも〜ん」
伯母は大満足の様子。陽の光に負けないぐらいの明るい笑顔で、そう言うのだった。
ドッキリを仕掛けられた人の気持ちが、今ならわかるわぁ。緊張していたのもあって、何だかドッと疲れが……。
疲れを隠しきれない千明に対して、石崎が優しい声で話す。
「大変、申し訳ありません。理事長は、橘様にお会いできることを、心から楽しみにしておられました。なので、どうか大目に見ていただけますでしょうか?」
「気にしないでください! 私は、大丈夫ですから」
理事長室に入って、初めて千明が口を開いた。
「さすが、私の姪っ子。受け入れが早くて感心!感心!」
伯母が笑いながらそう言うと、ゆっくり椅子に腰かけ、千明と石崎が立つ方に体を向ける。
「そういえば、橘様はここの校則をご存じないようですが……」
石崎が困った表情で伯母に話す。
「あらっ、そうなの! じゃあ簡単に説明するわね!」
「ここ白丘学園は、お金持ちのお坊ちゃんやお嬢ちゃんが多く通う学園よ。その中には、いずれ組織のトップに立つ子達も居るわ。雇う側に必要な知識などを、高校生のうちから学習する目的で建設されたの。分かった?」
伯母が上目遣いで千明を見つめる。
「……はい。だから、主人と使用人って話になるんですね」
石崎が話していた「主人」と「使用人」の意味を、ようやく理解した千明。
「主人と使用人? あら、やだぁ〜! ずいぶん聞こえがいいわね。ここではね──」
伯母が千明を見つめてニコニコしながら話を続ける。
「『ご主人様』と『奴隷』って言うのよ」
「ごっ……『ご主人様』と『奴隷』──⁉︎ そんなの聞いてない!」
千明は思わず、大声で叫ぶのだった。
「やだぁ〜、そんなに叫ばなくてもいいじゃな〜い!」
と、笑いながら伯母が言う。
「いやいや、伯母さん! ここで叫ばないで、いつ叫べって言うの⁉︎」
慌てて千明が言い返した。
「千明、学園では『理事長』って呼んでね! あなたが私の姪だって、他の生徒に知られたら色々面倒だから」
伯母が私を見つめてそう言うので、すぐに頷いた。
「本当に素直でいい子ね! それで何の話だっけ?」
「ご主人様と奴隷の話ですよ」
石崎が淡々と答える。
「あ〜、そうそう! 奴隷と言っても、パートナーみたいなものよ! 最高の友達……、もしかしたら恋人にだってなるかも知れないわよ〜」
なにやら怪しげな笑みを浮かべる伯母を見て、今朝の母の顔を思い出した。
そして千明は確信した。
この姉妹──、絶対私を弄んでる!
「私、今は恋人なんていらないよ! ただ、穏やかな生活を過ごしたいだけ‼︎」
必死に訴えるが、伯母は聞く耳を持たない。
千明は、助けを求めるかのように石崎を見るが、石崎は申し訳なさそうな表情で、首を横に振るのであった。
その反応を見た彼女は悟った──。伯母の意見には逆らえないのだと。
千明の反応など構わず、伯母は話し始める。
「千明のご主人様なんだけど──、実はもう決まってるのよ! もうすぐ、ここに来るから紹介するわね」
もう決まってるんだぁ……。どうせ誰かの奴隷になるしかないなら、優しい人であってほしいよ。
千明は泣きそうな顔で、ただ黙っている。
その時──、
コンッコンッと扉をノックする音が聞こえた。
「どうぞ〜」
伯母が席から立ち上がり、明るい声で言う。
「失礼します」
そう言って入ってきたのは──、
とんでもないイケメンだった。
身長は180cmぐらいあるだろうか? 細身で、髪は薄茶色、ふんわりと柔らかそうな髪質。だけど、目はキリッとしていて鼻筋がスッと延びている。色は白くて、手の指なんか細くてゴツゴツとした男らしい感じがない。
負けて悔しいなんて全く思いもしないぐらい、別次元の美しさとカッコよさを兼ね備えている。
千明は、部屋に入ってきたその青年から目が離せなくなっていた。
「来てくれてありがとう! じゃあ紹介するわね。こっちの小動物みたいな可愛い女の子が、私の自慢の姪よ! そして、こっちのイケメンが、佐田理人くん。理人くんは、こ〜んなにカッコいいのに、頭もすっごくいいのよ。漫画に出てくる王子様みたいでしょ! 学園中の女の子が理人くんのファンなんだから‼︎」
と言いながら、千明と彼の間に伯母が立つ。
「アハハ! 理事長、それはオーバーですよ」
理人が爽やかな笑顔を見せ、伯母の発言を言い消した。
千明の目には、彼から神々しい光が放たれているように見えた。そして、ふとあることに気がついた。
あれっ? そういえば伯母さん、私を姪って紹介してたよね……⁉︎
「理事長! 私との関係をこの人に教えて良いんですか?」
千明は伯母の方を向き、ヒソヒソ話をするように問いかける。
すると、
「いいのよ! 理人くんはとっても信頼できるし、何よりイケメンに悪い子は居ないもの〜」
と、伯母が笑いながら言う。
どういう根拠をもとに、そんなこと言ってんだこの人!
伯母と千明がコソコソ話しているのを、理人はジーッと見つめる。
その熱い視線に気がついた千明。
えっ、何? 私の顔に何か着いてるかな⁇ こんなイケメンに見つめられた経験ないから、どうしたら良いか分からないよ……。
千明が焦っているのを知ってか知らずか、理人は、彼女に優しく微笑む。
「これから、よろしくお願いします」
「よっ、よろしくお願いします」
つい数分まで、恋人を望んでいなかった千明の心の真ん中には、既に理人がいた。ただ挨拶をかわすだけなのに、彼女の脈は速くなり、周りの雑音が聞こえなくなる。息することさえも忘れてしまうほど、彼に魅了される。
こんな感覚、初めてだ。そうか……、これが恋なんだろうな、きっと。
冬眠から目覚め、ポカポカと暖かい春の光に包み込まれた時のような表情を見せる千明。
そんな千明の表情を見て、伯母は微笑みながら話し出す。
「じゃあ主従関係の証として、ブレスレットの交換をしましょうか! 千明のは私が持ってるから、これを理人くんにあげて〜。理人くんのは、千明が身につけてね」
伯母はそう言うと、ブレスレットを2人の手首につけた。それは黒の皮っぽい生地で、一部にシルバーのプレートがついたブレスレットだ。
このブレスレット、よく見るとプレートには筆記体で名前が彫られているんだ。冷静に考えると……、これ首輪みたいじゃん!
ブレスレットを凝視する千明を見て、伯母が言う。
「首輪みたいでしょ! だって、それをイメージして作らせたんですもの〜」
千明は、ハッと伯母の顔見た。
ビックリした! 私の気持ちを、伯母が察知したのかと思った。首輪をイメージしたって……、趣味悪すぎでしょ。でも、そのお陰でこんなイケメンとペアルックになれた。ありがたい。
「じゃあ、後は理人くんに任せる! 千明をよろしくねぇ〜」
伯母が理人に笑顔で言う。
そして理人が
「お任せください! では、僕らはこれで失礼します」
と言い、千明の手を優しく握って部屋を出た。
──理事長室に残された石崎が口を開く。
「これで良かったのでしょうか?」
理事長は、ゆっくり椅子に腰かけ、大きな窓から外を眺めて言う。
「これで良かったのよ。あの2人、ぶつかることも多そうだけど、きっと上手くいくわ! 私の勘、結構当たるんだから」
と優しい表情で呟いた。
「そうですね」
石崎もまた、理事長と同じ方向を眺めながら優しい声で同意するのだった。
──理事長室を後にした理人と千明。
千明は、理人に握られている自分の手を見つめて思うのだった。
私が、こんな爽やかイケメンに手を握られているなんて、夢みたい。あぁ……、夢ならどうかこのまま覚めないで!
そう思ったのも束の間──、
理人は急に立ち止まった。
あまりにも突然だったので、千明は理人の背中にぶつかった。
慌てて千明が謝る。理人は不機嫌そうな顔で振り返り、舌打ちしながら彼女を睨みつける。
「ごめんなさい。いきなりだったから止まれなくて……」
舌打ちとか感じ悪いわぁ。ぶつかったぐらいでそんな怒らなくたっていいのに。さっきまでの爽やかさは何処へ⁉︎
「はぁ? ごめんなさい? お前、誰に向かって口きいてんだよ」
理人が千明に顔を近づけ、問い詰める。
「えっ、近い近い! 理人くん、どうしちゃったの? さっきまでと全然違うんだけど……」
困惑した表情を浮かべる千明に理人が話し出す。
「お前、マジで自分の立場を分かってねぇみたいだな。お前は俺の奴隷になったんだぞ! 主人に口答えしてんじゃねぇよ。そして、馴れ馴れしく『理人くん』とか呼んでんじゃねぇよ」
「いや、待って! 好きであなたの奴隷になったわけじゃないし。それから、『理人くん』って呼んじゃダメなら、なんて呼べばいいのよ?」
理人の発言に苛立ち、千明も負けじと言い返す。
「俺だって、お前みたいなバカ女が奴隷だと思うと、先が思いやられるよ。これから『理人様』と呼べ」
こんな最低男の奴隷なんて、あり得ない! そして、こんな奴にときめいたなんて一生の恥だわ。
千明は自分の手首のブレスレットを外そうとするが、なかなか外せない。
それを見た理人が、クスッと笑いながら言う。
「お前、何してんの?」
「頭いいんだから、見れば分かるでしょ? あんたの奴隷をやめようとしてるんだよ。あー、もう! 何で外れないのよ⁉︎」
理人が嘲笑いながら言う。
「俺が外してやろうか?」
千明は、理人の言動に苛々を募らせてムキになる。
「あなたの助けなんて必要ないわよ」
と言って、必死にブレスレットを外そうとする。
「可愛くねぇな。──それ外して、俺の奴隷じゃなくなったら、お前の親は支払い大変だろうなぁ」
理人が腕を組みながら廊下の壁に寄りかかり、千明を見つめる。
学費……。いくらか知らないけど、きっととんでもない額だ。……そんなの支払えるわけないよ。転入して早々に退学できるわけもないし。何より、お父さんとお母さんを悲しませたくない──。
千明は手を止め、理人を見つめる。
理人がゆっくり手を差し出す。
その手を握ろうと、千明が手を伸ばした時──、
「おて」
と、理人が言いながら手のひらを上に向ける。
「えっ! 握手じゃないの⁉︎」
驚いた千明が思わず叫ぶ。
「はぁ? なんでこの俺が、わざわざお前なんかと握手しなきゃいけねぇんだよ。服従の証の『おて』に決まってんだろ」
本物のクズだ。暴君、鬼畜、人でなし、悪魔め! おてなんて誰がするか! いや、でも支払いが……。
過労で今にも倒れそうな両親の姿が千明の脳裏に浮かぶ。
千明は決心したように理人を見つめ、彼の掌の上にギュッと握った拳をなせた。
理人は、とびっきりの笑顔で千明の頭を撫でて言う。
「よくできました」
笑顔と、不意に頭を撫でられたことで再びときめいてしまった。
いやいや、ときめいてる場合じゃない。これは、お父さんとお母さんのために契約しただけなんだから。
2人のその光景を、誰かが物陰からジッと見つめていた。しかし、この時2人はそんなことに気がつきもしなかった──。
突然、理人が手を差し出しながら言った。
「お前のスマホ貸せ」
そう言われ、千明は疑問に思いながらも理人にスマホを渡す。
「俺が連絡したら、すぐに来い」
そう言いながら、自分の連絡先を登録した後に、千明にスマホを返す理人。
「そんなことに言われても、すぐに行けないことだってあるよ!」
千明は、差し出されたスマホを受け取りながら、理人に言い返す。
「じゃあ、5分待ってやるよ。それまでに来れなければ、罰を与える」
「だから! 5分でも行けない時は行けないってば‼︎」
怒り口調で千明が反抗する。
「俺が、お前に5分も時間をやるって言ってんだから、それで満足しろよ! どんだけ図々しいんだ」
理人も怒り口調で言い返す。
「満足なんて、できるわけないでしょ! だいたい何でそんなに横柄なの。ムカつくわ〜」
「それはこっちのセリフだよ! 奴隷のくせに偉そうにしやがって。腹立つ〜」
お互い苛立ちが募り、そっぽを向く。
そこへ、1人の女子生徒が2人の近くを通りかかり、理人に向かって、笑顔で話しかけてきた。
「あら、りっくん! ごきげんよう」
とても小柄で、お人形のような可愛らしい女子生徒の仕草を見て、千明はピンッときた。
この子……、令嬢だ。なんて、清楚で可愛い子なんだろう。でもあれ? 今「りっくん」って呼んだ⁉︎ こいつと仲良いのかな?
そう思いながら、千明は彼女を見つめた。
すると、その視線に気がついた彼女が、千明に会釈をする。すかさず千明も彼女に会釈をした。
「あ〜、綾音か。こいつ、今日から俺の奴隷になったから、よろしくな」
理人がそういうと、彼女が千明に近づき挨拶をする。
「はじめまして! 私は本条綾音です。彼とは長い付き合いなので、何かお困りのことがあれば、力になりますよ!」
ニコッと微笑む綾音に、千明は緊張しながら挨拶をする。
「私は、橘千明です。転入したばかりで何も分からないので、色々教えてもらえると嬉しいです!」
千明の話を聞いて、すかさず理人が言うのだった。
「そう! こいつバカだから、本当に何も分かんねぇんだよ」
「うるさい! あんたは黙ってて」
「はぁ? ご主人様に向かって、そんな口きいていいと思ってんのかよ⁉︎」
「思ってますけど、それが何か?」
いがみ合う2人を見て、綾音がクスッと笑いながら言う。
「2人は、もう既にとっても仲良しね! これなら心配いらないわ」
「仲良くなんかない!」
千明と理人が口を揃えて言う。
「ほら、息ぴったり!」
ほんわかマイペースの綾音に、呆れてため息をつく理人。それを見た千明も、言い合いをする気がなくなるのだった──。
「あ〜、バカバカしい。あとは綾音、頼んだぞ」
そう話すと、理人はどこかへ立ち去っていくのだった──。
千明が、立ち去る理人を見つめながら呟く。
「なんだあいつ、自分勝手な奴だなぁ」
すると、少し悲しそうな表情の彩音が、理人の背中を見つめながら話す。
「千明ちゃんには、りっくんが自分勝手に見えるかも知れないけど……。本当は、誰よりも周りを気遣って立ち回っているんだよ」
そう話す綾音の顔を、千明がジッと見つめる。そして、綾音も千明の方を向いて話を続ける。
「彼のお父様はね、大手貿易会社を一代で設立、成長させたすごい方なの。りっくんが小さい頃から、彼に対する周りのプレッシャーが凄くてね。会社の恥にならないよう、学園でも模範となるような立ち振る舞いをしてきたの」
千明の目には、涙ぐむ綾音の姿が映る。泣き顔でさえも美しく、つい見惚れてしまう。千明が慌てて鞄からハンカチを探し出す。
「ごめんなさい、大丈夫」
綾音はそう言うと、サッと自分のハンカチを取り出し、目尻に軽く当てながら話を続ける。
「私、悲しくて泣いてるわけじゃないの。りっくんが気の許せる人と、ようやく出逢えたことが嬉しいの。千明ちゃんには本音を言えてる、これってすごいことよ! あんな風に怒ったり、笑ったりする顔なんて、本当に久しぶりに見たもの!」
綾音は興奮したように話す。涙は、いつの間にか止まっていた。
「お金持ちのお坊ちゃんも色々大変なんだ……。あいつは気を許しているというより、私が奴隷で、反抗できないから言いたい放題なんだと思うけどなぁ」
千明が少し照れたように話す。すると綾音から──
「でも千明ちゃん、さっき奴隷なんて感じさせないぐらい、すごく反抗してたよ!」
と笑顔で言われる。
千明は、苦笑したのだった──。
──その後、綾音に案内されて職員室に行き、自分の教室までやって来た。緊張していた自己紹介も無事に終わり、ホッとしていた千明。
そんな彼女に、近くに触っていた女子3人組が話しかけてきた。
「ねぇねぇ、噂で聞いたんだけどさぁ、橘さんのご主人様って、あの理人様なの⁉︎」
「『あの理人様』が誰のことだかよく分からないんですが……」
千明が恐る恐る答えると、女子達が話しだす。
「いやだ〜、『あの理人様』って言ったら1人しか居ないじゃない。佐田理人様よ! お父様は優秀な方で、お金持ちだし、理人様本人は格好よくて、天才。しかも、それにおごることなく、皆に優しいのよ。まさしく王子様よね〜」
「そんな素敵な方と同じ学園に通っているってだけで幸せを感じるわ」
呆れ顔で話を聞く千明に、女子達が問い詰める。
「それで、噂は本当なの?」
千明が答えにくそうな表情で、女子達から目を逸らして話す。
「えっ……、そうですね。確か、そんな感じの名前でした」
「やっぱり! もう彼に会った?」
「羨ましい〜! どうして奴隷になれたの?」
「ずる〜い。理人様からは、どんなこと頼まれたりするの?」
皆、一斉に質問し始め、千明は目が周りそうになる。そのうえ、女子3人組が大声で話すもんだから、他の女子も寄ってきて、あっという間に千明は囲まれてしまう。
「あっ、あの! まだ初日だし、さっき会ったばかりなので、まだ何も分からないんです。すみません……」
立ち上がり、叫ぶように大きな声で話す千明。それには女子も驚いた様子。一瞬静かになるが、すぐにお喋りが始まり、騒がしくなる。
その時──、千明のスマホが鳴った。見てみると、それは理人からのメールだった。そのことを知った女子達が、また大騒ぎ。早くメールを読むよう催促の嵐であった。千明がメールの内容を見ると、そこには──、
「茶」の文字だけであった。
「『茶』って何なの⁉︎」
思わず千明は叫んだ。そして、女子達も謎に満ちたメールに頭を悩ませた。
「理人様は何が言いたかったんだろう?」
「打ち間違えなのかな?」
「あっ、なぞなぞとか⁉︎」
「もし、なぞなぞだとしたら、何何を意味してるのかなぁ?」
「もう……、全然分かんない!」
ただ1人、素の理人を知る千明だけはメールの意味を理解した。
「すみません、私ちょっと行ってきます!」
そう言って、教室を飛び出す──。
「5分以内にミッションこなさないと、罰があるってキツすぎるでしょ! そして、何この校舎! 無駄に広すぎだよ──!」
千明は叫ばずにはいられなかった。
──ガラガラ。理人が待つ教室の扉が勢いよく開き、皆一斉に扉の方を向く。そこには、息を切らす千明の姿があった。
「しっ……、失礼します!」
大声でそう言うと、窓側の席で足を組見ながら優雅に座る理人の元へと歩いていく。理人の周りには着飾った沢山の女子達が居た。千明が荒々しい息遣いで近づくと、理人までの道のりを作るかのように女子達が左右に分かれた。
「お待たせしました」
千明はそう言ってペットボトルの緑茶を差し出した。
理人はニッコリ笑って、千明に労いの言葉をかける。
「ありがとう! そんなに息切らしちゃって……、大変だったよね。ごめんね。もう教室に戻って大丈夫だよ」
「お茶ぐらい自分で買いに行けや!」と、叫びたい気持ちでいっぱいの千明であったが、グッと堪えた。ムッとした表情で、何も言わずに向きを変え、理人が居る教室を後にした。
──自分の教室まで戻る途中、千明の心の中は荒れていた。
なんなんだあいつ! お茶なんて全然必要としてなさそうだったじゃん! 女子に囲まれてデレデレしちゃって、ムカつくわ〜。
そんなことを思っていると、背後から視線を感じた。振り返るが、そこには誰も居ない。
あれ? 気のせいかなぁ⁇
千明が歩き出すと、またスマホが鳴る。千明は嫌な予感がした。
──やっぱり! 理人からのメールだ。
「来るの遅い。しかも緑茶じゃねぇし。俺が『茶』って言ったら『ほうじ茶』に決まってんだろ。あとペットボトルって……、ふざけてんの? 普通カフェで買ってくるだろ」
メールを読んだ千明は、
「知るか、ボケ────!!」
廊下の端から端まで聞こえるほど、大きな声で叫んだ。そして心の中では、まだ文句が止まらなかった。
「茶」の一言で「お茶を買って行くんだ!」と、ひらめいた私を褒めて欲しいぐらいだよ。ほうじ茶が好きとか知らないし、カフェで買うのが普通って……。凡人には普通じゃないんだけど。あ〜、もう! こんな生活がずっと続くなんて本当に嫌だわ。
すると、またしても理人からメールが届く。
「もう! 今度は何よ⁉︎」
千明が苛々しながらメールを見ると、
「うるさい、バカ女」
その一言だけだった。
千明は歯を食いしばり、拳を強く握り締めた。そして振り返り、理人が居る教室の方に向かって念を送った。
お腹よ、痛くなれ〜。トイレから出て来られなくなるぐらい痛くなってしまえ〜。──よし、これでいいだろう。
念を送って気が済んだ千明は、何食わぬ顔で自分の教室に戻るのだった。