ヒュッと、明子が息を呑む。
小春も大いに動揺したが、もとより十分あり得ることだ。明子は平静を取り繕い、「どなたからですか」と問いかけた。
「お相手は、貿易商を営む樋上商会の御子息だ」
「樋上商会ってあの……? 貿易の他にも手広く事業をされていて、成功を収めていらっしゃる……」
「ああ。もとより大きな会社だが、ここ数年でさらに勢いをつけているね。社長は派手好きの遊び人だと噂されているが、経営の腕は確かだ。ひとり息子がいて、ぜひに……とお話をいただいた」
明子に読み書きを習ったおかげで、最近では新聞も少し目を通すようになった小春は、一応その樋上商会の名前は知っていた。どうやら明子のお相手は大企業の御曹司らしい。
現時点では、話自体はそう悪くなさそうに聞こえる。
だが有文の顔つきは相変わらず硬い。
「この縁談には、実は先方の特殊な事情があってね……すぐに結婚を進めるというわけではないんだ。むしろ、成立しない可能性の方が高いかもしれない」
「おっしゃっている意味がよく……?」
うろたえる明子に、有文は順を追って説明する。
まず樋上社長の方は、息子を華族の令嬢と体よく結婚させて、箔をつけたいという目論見があるようだ。
言ってしまえば、華族であるなら誰でもいい。相手側も写真でくらいしか、明子のことを知らないだろう。地位や名誉を手に入れんと、華族との繋がりを求める縁談は珍しいものでもなかった。
しかし当の御子息が、結婚に乗り気ではないという。
「この話を私のところに持ってきたのは、その御子息の専属秘書を名乗る男でね。御子息は頑なに縁談を跳ね除けていて、すでに何件か破談になっているそうだ。そこで困り果てた樋上社長が、息子と交渉した上で、お試しの結婚期間を設けることになったんだよ」
「お試しの結婚期間? どういうことですか」
「こちらはただ、樋上の家に三ヶ月ほど住んで、御子息とそれらしく過ごしてくれたらいいと。要は疑似結婚で、籍を入れる必要もない。樋上社長としては、そうすれば息子も相手に情が移って、さすがに折れるだろうとの見立てだが……」
強引に結婚させてしまわないあたり、社長はその息子に強く出られないと見た。小春はふわっと、親に甘やかされたお坊ちゃんを想像する。
それにしたって、とんでもない話だ。
「つまり先方のワガママに、私がお付き合いしろと? そんな話、聞いたこともありませんわ」
普段は穏やかな明子の声に、明らかな険がこもる。
それもそうだろう。由緒正しき華族のご令嬢に対して、なんとも失礼な申し出だ。その秘書いわく、『我が主には簡単に結婚できない、切実な理由があるのですよ』とのことだが、それはこちらが考慮すべきことではない。
(でも、結婚できない切実な理由ってなんだろう……?)
密かに疑問に思う小春の横で、明子は「お断りはできないの?」と不愉快そうに尋ねる。
「それが……私たちの父が……」
気まずそうに言いかける有文。
その言葉で、ハッと明子は勘づいたようだ。
「……まさかお父様、樋上社長にも借金をされていたの」
「察しの通りだよ。父はどこで知り合ったのか、樋上社長と友人関係を築いていたそうでね」
「どうせ遊び人同士、ろくでもない付き合いに決まっているわ!」
「まあ、そうだろうね。方々で作ったツケを、樋上社長に工面してもらっていたらしい。利子も含めて相当額あった」
明子は絶句する。
借金から解放されて数年、やっと平和な暮らしを取り戻していたのに、まだ父の陰が子供たちにつきまとうようだ。
有文も疲れた顔で額を押さえている。
「今まで催促などしてこなかったのに、明後日までに娘を寄越せないなら、借金は一括で返せと……。逆にお試し結婚に応じれば、たとえ正式な婚姻が成立せずとも、借金はなかったことにしてやると言われた」
「む、無茶苦茶です! しかも明後日なんて急すぎますよ!」
あまりにも珠小路子爵家を、延いては明子を、軽々しく扱う内容の数々だ。たまらない憤りを感じ、小春は立ち上がって叫ぶ。
「まずその息子さんはどんな方なんですか? 明子様は無理の効かないお体です! お試しとはいえ、安心して預けられる方なんですかっ?」
「私も身近な者に聞いて、情報は集めたんだ。ただ……」
御子息はまだ二十歳と若いながらも、会社の一部の経営を任されるほど、すこぶる優秀な男ではあるそうだ。
だがやり方が手段を選ばず、慈悲など一切ない冷酷さから〝鬼の若様〟などと呼ばれているとか。
破談になったご令嬢方は、取り付く島もないほど冷たくされたそうで、『あんな恐ろしい方のところ、こちらから願い下げだわ』やら『鬼の名にふさわしく人間ではないのよ』やら、散々な言われようらしい。
小春が想像していた、甘やかされたお坊ちゃんより何倍も手に負えなさそうだ。
「そんな方のところに……明子様を……」
しん……と、部屋に重たい沈黙が落ちる。
小刻みに震えながら、口火を切ったのは明子だ。
「お兄様……私、樋上家に参ります」
「明子……!」
「束の間の結婚相手に徹するだけで、借金が帳消しになるのですもの。悪くない条件でしょう」
明子は気丈にもそう言うが、その顔からはすっかり血の気が引いていた。もともと陽に当たらないせいで白い肌が、透けそうなほどになっている。
病弱な彼女にとって、過度の重圧や緊張は体を蝕む毒だ。深窓の令嬢といっても差し支えない明子が、不穏な噂しかない男のもとで体調を崩さない保証はまるでなかった。
それに万が一のこともある。万が一、御子息が明子との結婚をよしとすれば、彼女はそのまま〝鬼〟の妻だ。どんな扱いが待っているかわからない。
(なにより……明子様には実近さんが)
きゅっと、小春は唇を噛む。
ただでさえ、慕う者がいる身で他の男のもとへ行くのは、貞淑な彼女には耐え難いものだろう。
有文は「本当にすまない!」と、明子に向かって畳に額をつけた。
「私が当主として不甲斐ないばかりに、お前にまたいらぬ苦労を……!」
「なにをおっしゃるの、お兄様!? 家を継いでから、私のせいで苦労しているのはお兄様の方よ! この弱い体のことで、いつも心配かけて……っ」
「そんなことはない! 私はただ、妹のお前に幸せになってほしいだけなんだ! やはり、今回の話は断ろう。借金のことは私がなんとかしてみせるから……!」
「それこそ無茶よ! 私が素直に従えば……うっ」
「明子様っ!?」
くらりと口元を押さえて倒れ込んだ明子を、とっさに小春は支える。息が荒く、どうやら微熱が出ているらしかった。
心身共に負荷がかかっていたところ、急に興奮したせいだろう。
「しっかりしてください、明子様!」
「急いで安静にさせるんだ!」
小春は有文とふたりがかりで、まだ片付けていなかった布団に明子を寝かせた。
せっかく整えた髪も解いてしまい、もう今日は女学校にも行けやしない。
騒ぎを聞いて「どうされたんですか!?」と駆けつけた佳代に看病を頼み、有文と小春はいったん部屋を出る。
戸の向こうで苦しそうに寝込む明子と、己の無力さにうちひしがれる有文。
そんなふたりを見比べて、小春は小さな拳を握りしめた。
(私は……命を救ってくれて、居場所まで与えてくださった珠小路家のためなら、なんだってできる)
決意を固め、くるりと有文に向き直る。
「有文様……私が、明子様の身代わりを務めます」
「小春?」
「私が珠小路明子として、樋上家に嫁ぐんです!」
「なっ……!?」
突拍子もない小春の提案に、有文は驚愕の目を向ける。「なにを馬鹿なことを」とすげなく返されるも、小春とて馬鹿は承知だ。
だけどこの状況を打破するには、もうこれしかないと訴える。
「写真で見たくらいなら、私が明子様のふりをしてもごまかせるはずです! 有文様が来られる前に、ちょうど明子様とそんなお話をしていました」
「無謀すぎる……バレるに決まっている! バレたら小春も、うちもただでは……」
「バレません! たった三ヶ月、騙しきればいいだけです!」
それに顔立ちは似ていても、所詮色気も女らしさもない自分なら、御子息に気に入られることもなく破談にできるだろうと、小春はどんと胸を張った。
明子にはあれほど否定していた身代わり役を、頑として押し進める。
「明子様にこれ以上、ご心労を与えるわけにはいきません! ここであの、雪の夜の恩返しをさせてください」
「け、けれど、縁談に焦る樋上社長もどう出るか……」
「その時はその時で、私がなんとかします!」
またもし、この企みがバレた場合……優しい有文を前にあえて口にはしないが、小春はすべての咎を背負う腹積もりだった。
(その場合は、私が独断でやったことにすればいい。珠小路家は、拾った使用人の浅はかな計略に騙されただけとか、いくらでも私のせいにしてしまえるはず!)
自分のことをあまり重視していない小春の、それは最後の予防線である。
だがもちろん、バレずにことを穏便に終わらせるのが第一使命だ。
「小春……君という子は……」
有文は眉を寄せた複雑な表情で、立ち竦んだままたっぷりと考え込んだ。その間、小春は大きな瞳を有文から逸らさなかった。
やがて深い深い息を吐いて、有文は「本当にこんなことを頼んでいいのかい?」と、小春の提案に乗ってくれた。
「はい! お任せください!」
「君はどうにも不思議な子だ……とんでもないことをしようとしているはずなのに、君なら大丈夫だと思わされてしまうよ」
有文は小さく苦笑し、次いで表情を引きしめる。
「ただ、心配なことには変わりない。いざとなったら私の名前を出しなさい、責任は当主の私がすべて持つ」
「……ありがとうございます」
小春は責任の所在に関しては、礼は述べても『はい』とは頷かなかった。幸いにして、有文にはその胸の内までは悟られていないようだ。
小春は彼に向け、今日の春空のような曇りのない笑みを浮かべる。
その裏で当然ながら、小春に不安がないわけではない。
むしろ不安でいっぱいいっぱいだ。
(恐ろしいと評判の〝鬼の若様〟……騙すのは心苦しいけど、実際お会いしたらどんな方なんだろう)
まだ見ぬ相手を想い、小春は震える手が有文の目に留まらぬよう、そっと着物の袖に隠したのだった。
樋上家のひとり息子・樋上高良は、個人に与えられた執務室で、黙々と仕事の書類に目を通していた。すっきりとした輪郭の端正な顔に、艶やかな黒髪がかかる。
神田にある樋上邸は、近年人気の和洋折衷な建物だ。
二階建ての洋館と和館を組み合わせており、広い庭では一際立派な沈丁花が香り高く咲いている。
だが現在、和館はわけあって立ち入り禁止となっていた。そのため高良が使っているのはもっぱら洋館で、この左右の壁が書架で埋められた執務室も、窓枠の装飾や調度品は豪奢なルネサンス風だ。
「ふう……」
区切りのいいところで机に書類を置いて、革張りの椅子に背を沈める。
ノックの音がした後、上質な三つ揃えに身を包み、モノクルをつけた青年が颯爽と入ってきた。
高良は「まだ入室許可はしていないぞ」と眉間に皺を寄せる。
「おや、これは失敬。でも私と高良様の仲ですからね。許可など些末な問題じゃないですか」
「はあ……もういい。お前と話すと頭が痛くなる」
タレ目がちの柔和な顔立ちながら、慇懃無礼な態度の真白涼介は、高良の専属秘書だ。
昔から付き合いのある幼馴染でもあり、高良にとっては兄弟のように共に育った相手である。
真白はなにやら資料を片手に机の前まで来て、やれやれと肩を竦めた。
「稀有な〝血〟をお持ちの方は大変ですね」
「今の頭痛はお前のせいで、俺の体質とは関係ないがな。それに体調不良を起こしていたのは昔の話だ。瘴気だって許容量を超えなければ問題ない」
厄介な特異体質だって、今やビジネスにさえ利用している。
高良も大人になって成長したのだ。
にもかかわらず、真白は「か弱い高良坊ちゃんだったおかげで〝運命の君〟と出会えたんですよね」なんて嘯いている。
真白は秘書としての能力は非常に高いが、無駄口が多いのが難点だ。高良はさっさと用件を話すよう促す。
「朗報、と言えばよろしいでしょうか? お父上と交渉された上で決まった、例のお試し結婚。あの話を、お相手の家のご当主にお伝えしまして、本日了承が得られました。明日にはうちにいらっしゃいますよ」
「……まさか本気で、あんな結婚ごっこを父が実行に移させるとはな」
飛び出したのは辟易している縁談話で、朗報というよりは悲報だ。高良の頭痛は増すばかりである。
おかしな提案を持ちかけてきたのは父だが、落としどころとして、高良もしぶしぶ首を縦には振った。しかし、お試しで娘を嫁がせろなどという、一方的な要求を呑む華族の家があるとも考えていなかった。
「大方、父に弱みでも握られたか……今度はどこの令嬢だ」
「珠小路子爵家の御息女、珠小路明子嬢ですね。お歳は十六。写真もありますよ、ご覧になりますか?」
机にペラリと置かれたのは、どこかの写真館で数年前に撮られた一枚だろう。品のいい藤色の着物を纏ったお嬢様が、澄まし顔で写っている。
高良は一瞥しただけで、「興味ない」と突き返した。
「華族の令嬢など、どうせ今までの女たちと同じだ。見栄っぱりで傲慢で……どいつもこいつも瘴気まみれで、気分が悪くなる」
「高良様がそうやって邪険に扱うから、破談になったご令嬢方に〝冷血漢の鬼〟だなんて言い触らされるんですよ。〝鬼〟は本当ですけれど」
「どうとでも言え。なにを言い触らされようと、仕事に障りはない」
「ですが今回ばかりは、最低限でも優しくしてあげてくださいね? 今までの縁談とは勝手が違って、親の借金のカタに来られるわけですし」
「なるほど、借金か。では悲壮な顔をした女が来るかもな」
それはそれで、とてつもなく面倒だと感じてしまう。
高良とて、親の尻拭いをさせられる羽目になった女性に、同情しないわけではない。華族といえど、財がない家が多いことも知っている。けれども、己は不幸だ、可哀想だと主張するようなら、優しく接するなど到底無理な話だった。
高良だってこの〝血〟さえなければ、もっと普通に生きられるのにと、何度思ったことか。
母のことを考えると余計にそう思う。けれども、そのたびに悲嘆に暮れず、己で道を切り開いてきたつもりだ。
(それにアイツなら、どんな時でも笑おうとするんだろうな)
郷愁にも似た愛しさが、ふと高良の胸に湧く。
三年前に出会った、枯れ木のような手足の幼げな少女。
彼女には瘴気による淀んだ空気がまったくなく、それどころか高良にとって、どこか心休まる気配がした。
過酷な環境下にいても損なわれない、明るさと純粋さがそうさせるのか。
どれだけ仕事が慌ただしくなろうとも、彼女のことだけは片時も忘れたことはない。
どこにいるのか探している、今もずっと。
「まあ、一途な高良様のお気持ちは、明子嬢がどんな方だろうと変わらないのでしょうけれど」
「そうだな。海の向こうにいる父に、今回も破談だと手紙で伝えておけ。三ヶ月共に過ごそうが結果は最初から決まっている」
淡々と無感動に言う高良に、真白は「いっそお父上に、ハッキリ申し上げればよいのでは?」と囁く。
「……なんと」
「『俺には心に決めた相手がいる』とね。高良様に甘いあの方なら、それで納得するかもしれませんよ? 体質のこともありますしね」
モノクルをカチャリと指先で上げて、真白はニヤリと笑った。
高良はげんなりとする。
「体質のことを引き合いに出すつもりはない。〝こちら側〟の話を、父はことさら嫌がるだろう。父が俺に甘いというのも違うな……俺にしか罪滅ぼしができないんだ」
その暗く重い呟きに、さすがの真白も軽い口を閉じた。
高良は亡くなった母のことで、父を恨んでいる。
父もそれについては負い目を感じていて、時には親らしいことをしようとするも、余計に父子がすれ違う現状を、真白は間近で見てきていた。
「口が過ぎました。申し訳ございません、高良様」
「いい……もうこの話題は終わりだ」
綿の輸出額の話に移れば、自然と真白も切り替える。
多忙な高良にはやることが山積みだ。
細かい数字を言い合う頃には、高良の頭からは写真の令嬢のことなど、すっかり抜け落ちていた。
珠小路家の庭に立つ桜の木が、美しく見頃を迎えたこの日。
楽しみにしていた開花を慈しむ間もなく、小春は珠小路家を発つことになった。
いまだ体調の戻らぬ明子は、最後まで「やっぱり私が……!」「小春にこんなことをさせるなんて」「私のせいでごめんなさい」と引き留めようとしたが、小春は「大丈夫ですから!」と何度も言い聞かせ、半ば無理やり珠小路の家を飛び出した。
「君はうちの大切な働き手だ。必ず帰ってきなさい」
去りゆく小春の背に、そう言葉を贈ってくれたのは有文だ。
思わず泣きそうになりながらもふたりと別れて、門の前で待つこと数分。樋上家から車で迎えが来た。
自動車を間近で見るのも乗るのも、小春は初めてだった。
明治の世に保有者は数えるほどしかおらず、大正の世になって関心が高まってきたとはいえ、まだまだ珍しい乗り物だ。
おそるおそる乗り込んで、慣れない揺れに縮こまっていると、音を立ててやっと車が停止する。
(ここが樋上家……!?)
かろうじてみっともない声はあげなかったが、現れた邸宅に小春は度肝を抜かれた。
珠小路家ですら大きさに圧倒されたのに、その二倍は大きい。見慣れない洋館の白壁には、ハーフティンバーと呼ばれる、柱や梁などの骨組みが剥き出しのデザインが施され、それがとりわけ洒脱で目を惹いた。
運転手も兼ねていた無口な使用人は、迷うことなく和館ではなくその洒脱な洋館を目指すので、小春はつんのめりながらついていく。
(ど、どうしよう……緊張してきた。私はちゃんとお嬢様に見えているよね?)
廊下を彩る、枠の彫りが見事なガラス窓で、チラリと自分の身形を確認する。
灰がかった桜色の地に、うっすら花菱の紋が入った着物は、明子から借りた御召だ。その大人びた品のいい色合いに、藍色の袋帯を合わせている。
髪はひさし髪に結うつもりであったが、着物選びに時間をかけすぎて髪まで手が回らず、半結びの下げ髪に紫のリボンをつけた。
小春自身の子供っぽさは隠せないものの、見た目はそれなりにお嬢様のはずだ。三日しかなかったが、所作や言葉遣いも叩き込んできた。
かといって、自信があるかといえばまた別である。
(とにかく背筋を伸ばして……品位だけは落とさないように……)
頭の中で自分に言い聞かせていたら、使用人が二階の一室の前で立ち止まった。
てっきり応接室あたりに通されるのかと思いきや、お相手は仕事中なのか執務室らしい。
(ううん、歓迎する気なしっていうか……)
お試しとはいえ、建前上は結婚相手。しかも華族のご令嬢にする対応ではない。
やはり明子と代わって正解であったと、小春は再確認する。
「高良様、珠小路子爵家の珠小路明子様がいらっしゃいました」
使用人が扉越しにそう述べれば、温度のない低い声で「入れ」と返ってくる。
(鬼の顔を拝んでやる……!)
そう勇む心とは反対に、小春はしずしずと入室した。
室内にいたのは、二十歳ほどの若い男性がふたり。執務机の横に立つ方はおそらく秘書で、一見すると柔和そうな印象だが、モノクルをつけた目は抜け目なく小春を観察している。
そして机の向こうで、上質なスーツを着て椅子に腰掛けているのが、噂の樋上家御子息こと〝鬼の若様〟なのだろうが……。
(……男性なのに、すごく綺麗な人)
黒檀色のサラリとした髪に、座っていても六尺近くありそうな高身長で、バランスの取れた体躯。シャープな輪郭にはパーツのひとつひとつが、これ以上ないくらい完璧に収まっている。
(女学生の間で読まれる小説では、こういう殿方と乙女が恋に落ちるのかな……)
小春は読んだことなどないのでわからないが、読書が好きな明子も同じ感想を抱くかもしれない。
彼女の場合は、『少女画報』という雑誌を好んで読んでいた。その雑誌では〝エス〟と呼ばれる、少女同士の疑似恋愛のようなものも人気らしいが、美しい殿方なら少女たちも大歓迎であろう。
しかしあくまでも、物語の中での話だ。
高良の切れ長の瞳は冷ややかで、深窓の令嬢なら震え上がるに違いない。感情の乗らない無表情からも、小春に一切興味がないことがわかった。
それでも怯まず背筋を伸ばし、小春は完璧な礼をとる。
「珠小路明子と申します。本日からこちらでお世話になります」
さすがに明子と名乗る時は、少し声が震えた。
だけどもう、引き返せない。
「……樋上高良だ。短い間だが、この家では好きに過ごせばいい。指示があればこちらから伝える」
(指示って……使用人相手みたい)
しかも〝短い間〟と強調するあたり、本当に結婚するつもりは端からないことを示している。ここまで冷淡な態度を取られると、いっそ小春としても清々しかった。
そんな主に代わって、愛想のよいモノクルの青年は「私は秘書の真白です。ようこそおいでくださいました、奥様」と腰を折った。
「奥様、とは」
「はい。当家にいらっしゃる間は、そのように呼ぶようにと、当主から言いつけられております」
どうやらお試し婚のことは、使用人にも周知の事実であるらしい。
周囲が小春を奥方扱いすることで、結婚に向けて高良をその気にさせようという、樋上社長の作戦だろう。
今の高良の様子だと、父の思惑は息子には通じなさそうだが……。
「わからないことがございましたら、なんなりと私にお尋ねください。それでは屋敷内をご案内いたしますね。その後はお部屋で、夕食までお休みいただければ……」
「あの、ご当主様に挨拶はしなくてよろしいのでしょうか?」
「当主の良正様は、もとよりこの屋敷には住んでおりません。赤坂(あかさか)の方に別邸がございます」
「別邸……」
小春は面食らった。
こんな大きな屋敷を持っていながら、まだ他に家があるとは。金持ちの考えることはつくづくわからない。
「また良正様は今回の縁談話が出てすぐ、急な仕事で仏蘭西(ふらんす)へと発っております。こちらでの仕事は高良様にしばし預けるとのことで、戻りは五ヶ月は先かと。奥様にお会いできないことを大変残念がり、倅(せがれ)をよろしく頼みますとのことです」
「そう、なのですね」
小春は「私も残念ですわ」と答えながらも、内心では好都合だと喜んだ。高良の父に会わなくて済むのなら、それに越したことはない。
業務的な初対面を終えて、真白にエスコートされるがまま、小春は部屋を出ようとする。高良の方はもう小春を見ることもなく、英語で書かれた難解そうな資料を読み始めていた。
しかし、重厚な扉は真白が開けるより先に、ガチャリと勝手に開く。
「しっ、ししし失礼いたします! 珈琲をお持ちしました!」
現れたのは、おさげ髪に顔のソバカスが目立つ、小春と同い年くらいの少女だった。真っ白なエプロンが眩しく、入ったばかりの使用人のようだ。
携えたお盆には湯気を立てる珈琲がのっている。小春は飲んだことがない、苦いと噂の西洋の飲み物。
真白は呆れた顔で「まずはノックをしなさい」と窘める。
「それに今は、高良様にお飲み物を届ける時間ではありませんよ。こちらの奥様がお部屋に入られたら、そちらにお茶の用意をするようお願いしたはずですが」
「あ……わ、私、全部間違えて……申し訳ありません! 奥様にもご無礼を……きゃあっ!」
勢いよく頭を下げた拍子に、少女はお盆のカップもひっくり返してしまう。ガシャンッ!と、高そうなカップは盛大に割れて、茶色い液体が絨毯に飛び散った。
ドジな彼女はますます青ざめて、急いで片付けようとする。
「痛っ……!」
「大丈夫ですか!?」
慌てすぎて、破片で指を深く切ったらしい。
小春は明子を演じることも忘れ、とっさに着物の袖から白い手帛を出し、少女のそばにしゃがみ込んだ。血の滲む指先に、そっとそれを当てる。
「お、奥様!? いけません、汚れてしまいます……!」
「そんなことどうでもいいです! 破片は素手で触っちゃダメですよ!」
ひとまず止血を済ませたところで、真白が廊下に出て、別の使用人を呼び止める。女中頭らしき年嵩の女性は、おさげの少女を叱りながらもテキパキと手当ても掃除もやってくれた。
小春がホッと一息ついたところで、立ち上がった高良がそばまでやってくる。
「……君もこれで手を拭いておけ。血がついているぞ」
彼はスーツに忍ばせた黒いポケットチーフを、スッと小春に差し出した。見れば小春の手には、止血した時の血が軽く付着している。
「い、いいんですか?」
「そのままだと着物につくだろう。……手帛も、綺麗にして後ほど返す」
「あ、ありがとうございます!」
意外な高良の気遣いに、小春は素のままの笑みを浮かべた。
高良は切れ長の目を微かに見開く。まっすぐ凝視され、初めて興味を持たれたようだが、小春は大いに焦った。
(ま、まずい……私ったら、ずっと素だった!)
急いで取り繕い、「ありがたく使わせていただきます」とチーフを受け取る。
高良は小春を見つめたまましばしなにかを考え込んでいたが、やがて小春から視線を逸らす。
そして、おさげの少女に向かって「千津」と呼んだ。
「は、ははははい!」
「手当てが済んだなら、真白の代わりにお前が明子嬢を案内してやれ。洋館内と、二階の彼女の部屋までだ。和館には決して近付くなよ」
「か、かしこまりました!」
忙しそうな女中頭は早々に退出し、高良と真白を部屋に残して、小春は千津と屋敷を歩くことになった。
(私が明子様じゃないって、まさかあれだけでバレていないよね……? 今後はもっと気を付けなきゃ)
密かに反省する小春に、隣を歩く千津が「あの、奥様」と声をかける。
「先ほどはご無礼を働いたのに、真っ先に心配していただき……その、心からお詫びとお礼を……」
「えっ? あ、ああ、いえ。たいしたことはしていないわ。それより指は痛まない?」
「大丈夫です! 奥様、お優しいんですね」
手当てをしてもらった指をちょいちょい動かしながら、千津はソバカス顔を綻ばせる。
「華族の方って、もっと近寄り難いかと思っていました。高良様の縁談相手のご令嬢方は、ご挨拶にいらしたくらいでしたが、皆さんツンとされていたので……」
(私は偽者だから)
多少なりとも気まずくて、小春は曖昧に微笑んでごまかす。
会話をしながら、千津の案内でふたりはいったん階段を下りた。優美な曲線を描く螺旋階段は、慣れない小春には転げ落ちそうで少し怖い。
「こちらは撞球(ビリヤード)室です。旦那様がご友人の勧めで作られたそうです。高良様はあまりされませんが、お上手らしいですよ。奥様は撞球は嗜まれますか?」
「いいえ、やり方もよく知らないわ。玉突きをするとは聞いたことがあるけれど……とても難しそうね」
「そうなんです! 私はやり方を聞いてもサッパリでした」
千津と小春は歳も近く、話すうちにどんどん打ち解けていった。
おまけに千津は数週間前まで、向島の花街にある茶屋で働いていたというのだから、小春の方は素性を明かせずとも、なんとなく通ずるものがあった。
食堂の前を通ったところで、千津は踏み込んだ質問を投げてくる。
「奥様は、えっと、本物の奥様にはなられたりはしないのですか……?」
「本物というと?」
「高良様と、正式な婚姻を交わされるおつもりなどは……」
「……そうね。今はお試しだけれど、高良さんのお心次第かしら」
(なんて、私はもちろん、あちらもその気には絶対にならないだろうけど……!)
小春の内心に反して、千津は「私は奥様になら、ずっといてほしいです」といじらしいことを言ってくれる。
「高良様は一見すると冷たくて、ちょっと怖いところは確かにございます。ですが結婚相手としては、きっと理想的ですよ! お仕事もできるし美形ですし! それに根はすごくお優しい方なんです!」
「彼が優しい?」
「はい! 私たち使用人のことを大事にしてくれます!」
一階はすべて見終わったので、また二階へと戻る。その途中で、千津は嬉々として高良のことを語った。
「新人の私を覚えて名前で呼んでくださいますし、無理な労働もさせません。お給料もお休みもしっかりいただけています。それに私がこうしてここで働けているのは、高良様に花街で助けてもらったからなんです」
なんでも千津は、お遣いの途中で掏摸に店の財布を盗られ、怒った店主に店先でひどい折檻を受けていたという。もとより店での扱われ方はひどく、まさしく蝶乃屋での小春とどっこいどっこいだったようだ。
だがそこでたまたま、その掏摸を捕まえた高良が店の財布を返しに来た。彼も狙われたようだが、一枚上手だったのだ。
そして財布を返すだけでなく、ボロボロの千津を見て眉をひそめ、『ちょうど女中がひとり辞めて足りないんだが、うちで働くか』と救い出してくれたという。
「それは……まるで王子様のようね」
「西洋の物語ですよね! まさしくその通りで! どうですか、夫としては理想的な殿方ではありませんか?」
小春の前向きな返答を期待して、千津は飼い主を見上げる子犬のように、円らな目を輝かせている。
しかし、小春はちゃんと重要な点に気付いていた。
「お優しいところがあるのはわかったわ。先ほども気遣ってくださったし……。けれどね、花街に行かれているということは、そちらに馴染みの女性でもいるのではなくて?」
「あっ!」
千津はしまったという顔をする。嘘がつけない性分の彼女は下手にごまかすこともなく、その点についても知っている情報を吐いてくれた。
「実は……あくまで使用人間での噂ですが、高良様は花街にずっと探している方がいるそうなのです」
「花街で、といったら……」
「高良様が焦がれる相手ですし、かなり器量よしの芸者では……と、もっぱら囁かれております」
「なるほど、芸者ね」
高良が頑なに結婚を拒む理由に、小春は納得がいった。すでに想い人がいるのだ、彼には。
(これで万が一、私が気に入られて本物の花嫁に……って流れは、さらになくなったよね)
小春的には願ったり叶ったりではあったのだが、千津はあわあわと謝罪する。
「すみません、奥様にこんな話……! 仮にもご結婚されるかもしれない方に、想い人なんてご不快ですよね。でも本当に、あくまで噂ですので! あまり真に受けないでください!」
「わかったわ、ただの噂ということにしておくから」
そうこうしているうちに、小春用にあてがわれた部屋へと到着した。
二階の一番右奥。広さは十二畳ほどで、鏡台や長椅子、天蓋つきの寝台などが置かれている。掃除は行き届いているが使われている痕跡はなく、長年放置されていた部屋のようだ。
慣れない洋室に、小春はきょろきょろと室内を見回したい気持ちを、千津の手前グッと我慢する。
「気に入っていただけました?」
「ええ」
「よかったです! また後ほどお茶を持って参りますね!」
にこにこと笑って、千津は一度場を後にした。
ひとりきりになった小春は、ご令嬢の皮をいったん脱ぎ去り、ふかふかの寝台にボフンッと腰掛ける。
「はあ……どっと疲れたな」
明子の御召を着ていなかったら、このまま倒れ込んでいただろう。
しばらくなにをするでもなく、気を抜いて座り込んでいたが、ふと思い立って着物の袖からポケットチーフを取り出す。
小春の手帛は女中頭が回収していったが、こちらは渡すのを忘れていたのだ。
「樋上高良さん……」
想像していたよりは、ひどい人物ではなさそうだ。
むしろ好感の持てる相手かもしれない。
「それにちょっと……おはじきさんに似ていたかも」
小春が素で礼を述べた時、驚いたあの無防備な顔は、どことなく重なるものがあった。
しかし小春の中のおはじきさんは、高良のようなしっかりした体躯の男前ではない。少女と間違う線の細さの、美少年であったと記憶している。彼がかけていた眼鏡も高良にはないし、高良の目はおそらく普通に黒だ。
おはじきさんの名の由来になった、時折金に輝くあの不思議な瞳。
あれがない。
三年という月日を挟んだとしても、やっぱり結びつかないなと、小春はすぐに考えを改めた。
(おはじきさんだったら、運命の再会だったのに……って、あり得ないよね。たとえそうだとしても、正体は明かせないし)
今の小春は、料亭の下働きをしていた吉野小春ではなく、珠小路明子なのだから。
「奥様、失礼いたします。お茶をお持ちしました!」
戻ってきた千津は、ちゃんとノックをしていた。真白の注意は彼女に効いていたらしい。
小春はこのチーフも千津に渡しておこうと、丁寧に折り畳み直す。
それから入るよう、扉の向こうの千津に声をかけた。
――樋上邸での身代わり婚生活は、こうして幕を開けたのだった。