珠小路家の庭に立つ桜の木が、美しく見頃を迎えたこの日。

 楽しみにしていた開花を慈しむ間もなく、小春は珠小路家を発つことになった。

 いまだ体調の戻らぬ明子は、最後まで「やっぱり私が……!」「小春にこんなことをさせるなんて」「私のせいでごめんなさい」と引き留めようとしたが、小春は「大丈夫ですから!」と何度も言い聞かせ、半ば無理やり珠小路の家を飛び出した。

「君はうちの大切な働き手だ。必ず帰ってきなさい」

 去りゆく小春の背に、そう言葉を贈ってくれたのは有文だ。
 思わず泣きそうになりながらもふたりと別れて、門の前で待つこと数分。樋上家から車で迎えが来た。

 自動車を間近で見るのも乗るのも、小春は初めてだった。

 明治の世に保有者は数えるほどしかおらず、大正の世になって関心が高まってきたとはいえ、まだまだ珍しい乗り物だ。

 おそるおそる乗り込んで、慣れない揺れに縮こまっていると、音を立ててやっと車が停止する。

(ここが樋上家……!?)

 かろうじてみっともない声はあげなかったが、現れた邸宅に小春は度肝を抜かれた。

 珠小路家ですら大きさに圧倒されたのに、その二倍は大きい。見慣れない洋館の白壁には、ハーフティンバーと呼ばれる、柱や梁などの骨組みが剥き出しのデザインが施され、それがとりわけ洒脱で目を惹いた。

 運転手も兼ねていた無口な使用人は、迷うことなく和館ではなくその洒脱な洋館を目指すので、小春はつんのめりながらついていく。

(ど、どうしよう……緊張してきた。私はちゃんとお嬢様に見えているよね?)

 廊下を彩る、枠の彫りが見事なガラス窓で、チラリと自分の身形を確認する。

 灰がかった桜色の地に、うっすら花菱の紋が入った着物は、明子から借りた御召だ。その大人びた品のいい色合いに、藍色の袋帯を合わせている。

 髪はひさし髪に結うつもりであったが、着物選びに時間をかけすぎて髪まで手が回らず、半結びの下げ髪に紫のリボンをつけた。
 小春自身の子供っぽさは隠せないものの、見た目はそれなりにお嬢様のはずだ。三日しかなかったが、所作や言葉遣いも叩き込んできた。

 かといって、自信があるかといえばまた別である。

(とにかく背筋を伸ばして……品位だけは落とさないように……)

 頭の中で自分に言い聞かせていたら、使用人が二階の一室の前で立ち止まった。
 てっきり応接室あたりに通されるのかと思いきや、お相手は仕事中なのか執務室らしい。

(ううん、歓迎する気なしっていうか……)

 お試しとはいえ、建前上は結婚相手。しかも華族のご令嬢にする対応ではない。
 やはり明子と代わって正解であったと、小春は再確認する。

「高良様、珠小路子爵家の珠小路明子様がいらっしゃいました」

 使用人が扉越しにそう述べれば、温度のない低い声で「入れ」と返ってくる。

(鬼の顔を拝んでやる……!)

 そう勇む心とは反対に、小春はしずしずと入室した。