「察しの通りだよ。父はどこで知り合ったのか、樋上社長と友人関係を築いていたそうでね」
「どうせ遊び人同士、ろくでもない付き合いに決まっているわ!」
「まあ、そうだろうね。方々で作ったツケを、樋上社長に工面してもらっていたらしい。利子も含めて相当額あった」

 明子は絶句する。

 借金から解放されて数年、やっと平和な暮らしを取り戻していたのに、まだ父の陰が子供たちにつきまとうようだ。
 有文も疲れた顔で額を押さえている。

「今まで催促などしてこなかったのに、明後日までに娘を寄越せないなら、借金は一括で返せと……。逆にお試し結婚に応じれば、たとえ正式な婚姻が成立せずとも、借金はなかったことにしてやると言われた」
「む、無茶苦茶です! しかも明後日なんて急すぎますよ!」

 あまりにも珠小路子爵家を、延いては明子を、軽々しく扱う内容の数々だ。たまらない憤りを感じ、小春は立ち上がって叫ぶ。

「まずその息子さんはどんな方なんですか? 明子様は無理の効かないお体です! お試しとはいえ、安心して預けられる方なんですかっ?」
「私も身近な者に聞いて、情報は集めたんだ。ただ……」

 御子息はまだ二十歳と若いながらも、会社の一部の経営を任されるほど、すこぶる優秀な男ではあるそうだ。
 だがやり方が手段を選ばず、慈悲など一切ない冷酷さから〝鬼の若様〟などと呼ばれているとか。

 破談になったご令嬢方は、取り付く島もないほど冷たくされたそうで、『あんな恐ろしい方のところ、こちらから願い下げだわ』やら『鬼の名にふさわしく人間ではないのよ』やら、散々な言われようらしい。

 小春が想像していた、甘やかされたお坊ちゃんより何倍も手に負えなさそうだ。

「そんな方のところに……明子様を……」

 しん……と、部屋に重たい沈黙が落ちる。
 小刻みに震えながら、口火を切ったのは明子だ。

「お兄様……私、樋上家に参ります」
「明子……!」
「束の間の結婚相手に徹するだけで、借金が帳消しになるのですもの。悪くない条件でしょう」

 明子は気丈にもそう言うが、その顔からはすっかり血の気が引いていた。もともと陽に当たらないせいで白い肌が、透けそうなほどになっている。

 病弱な彼女にとって、過度の重圧や緊張は体を蝕む毒だ。深窓の令嬢といっても差し支えない明子が、不穏な噂しかない男のもとで体調を崩さない保証はまるでなかった。
 それに万が一のこともある。万が一、御子息が明子との結婚をよしとすれば、彼女はそのまま〝鬼〟の妻だ。どんな扱いが待っているかわからない。

(なにより……明子様には実近さんが)

 きゅっと、小春は唇を噛む。
 ただでさえ、慕う者がいる身で他の男のもとへ行くのは、貞淑な彼女には耐え難いものだろう。

 有文は「本当にすまない!」と、明子に向かって畳に額をつけた。

「私が当主として不甲斐ないばかりに、お前にまたいらぬ苦労を……!」
「なにをおっしゃるの、お兄様!? 家を継いでから、私のせいで苦労しているのはお兄様の方よ! この弱い体のことで、いつも心配かけて……っ」
「そんなことはない! 私はただ、妹のお前に幸せになってほしいだけなんだ! やはり、今回の話は断ろう。借金のことは私がなんとかしてみせるから……!」
「それこそ無茶よ! 私が素直に従えば……うっ」
「明子様っ!?」

 くらりと口元を押さえて倒れ込んだ明子を、とっさに小春は支える。息が荒く、どうやら微熱が出ているらしかった。
 心身共に負荷がかかっていたところ、急に興奮したせいだろう。

「しっかりしてください、明子様!」
「急いで安静にさせるんだ!」

 小春は有文とふたりがかりで、まだ片付けていなかった布団に明子を寝かせた。
 せっかく整えた髪も解いてしまい、もう今日は女学校にも行けやしない。
 騒ぎを聞いて「どうされたんですか!?」と駆けつけた佳代に看病を頼み、有文と小春はいったん部屋を出る。

 戸の向こうで苦しそうに寝込む明子と、己の無力さにうちひしがれる有文。
 そんなふたりを見比べて、小春は小さな拳を握りしめた。

(私は……命を救ってくれて、居場所まで与えてくださった珠小路家のためなら、なんだってできる)

 決意を固め、くるりと有文に向き直る。

「有文様……私が、明子様の身代わりを務めます」
「小春?」
「私が珠小路明子として、樋上家に嫁ぐんです!」
「なっ……!?」

 突拍子もない小春の提案に、有文は驚愕の目を向ける。「なにを馬鹿なことを」とすげなく返されるも、小春とて馬鹿は承知だ。
 だけどこの状況を打破するには、もうこれしかないと訴える。

「写真で見たくらいなら、私が明子様のふりをしてもごまかせるはずです! 有文様が来られる前に、ちょうど明子様とそんなお話をしていました」
「無謀すぎる……バレるに決まっている! バレたら小春も、うちもただでは……」
「バレません! たった三ヶ月、騙しきればいいだけです!」

 それに顔立ちは似ていても、所詮色気も女らしさもない自分なら、御子息に気に入られることもなく破談にできるだろうと、小春はどんと胸を張った。
 明子にはあれほど否定していた身代わり役を、頑として押し進める。

「明子様にこれ以上、ご心労を与えるわけにはいきません! ここであの、雪の夜の恩返しをさせてください」
「け、けれど、縁談に焦る樋上社長もどう出るか……」
「その時はその時で、私がなんとかします!」

 またもし、この企みがバレた場合……優しい有文を前にあえて口にはしないが、小春はすべての咎を背負う腹積もりだった。

(その場合は、私が独断でやったことにすればいい。珠小路家は、拾った使用人の浅はかな計略に騙されただけとか、いくらでも私のせいにしてしまえるはず!)

 自分のことをあまり重視していない小春の、それは最後の予防線である。
 だがもちろん、バレずにことを穏便に終わらせるのが第一使命だ。

「小春……君という子は……」

 有文は眉を寄せた複雑な表情で、立ち竦んだままたっぷりと考え込んだ。その間、小春は大きな瞳を有文から逸らさなかった。
 やがて深い深い息を吐いて、有文は「本当にこんなことを頼んでいいのかい?」と、小春の提案に乗ってくれた。

「はい! お任せください!」
「君はどうにも不思議な子だ……とんでもないことをしようとしているはずなのに、君なら大丈夫だと思わされてしまうよ」

 有文は小さく苦笑し、次いで表情を引きしめる。

「ただ、心配なことには変わりない。いざとなったら私の名前を出しなさい、責任は当主の私がすべて持つ」
「……ありがとうございます」

 小春は責任の所在に関しては、礼は述べても『はい』とは頷かなかった。幸いにして、有文にはその胸の内までは悟られていないようだ。
 小春は彼に向け、今日の春空のような曇りのない笑みを浮かべる。

 その裏で当然ながら、小春に不安がないわけではない。
 むしろ不安でいっぱいいっぱいだ。

(恐ろしいと評判の〝鬼の若様〟……騙すのは心苦しいけど、実際お会いしたらどんな方なんだろう)

 まだ見ぬ相手を想い、小春は震える手が有文の目に留まらぬよう、そっと着物の袖に隠したのだった。