闇深い冬空の下、綿毛のような雪がはらはらと降っている。
 積もるほどでもないが、寒さを感じるには十分だろう。
 その雪を時折見上げながら、吉野小春は向島にある花街の中を、あてもなくとぼとぼと歩いていた。

「はあ……寒い」

 小柄な痩せた体を守るのは、着古された木綿の着物一枚。剥き出しの肌は刺すような冷たさに襲われている。

 風呂敷で包んだ荷物は最低限しかないはずなのに、体が悲鳴をあげているせいか、ズシリと重くのしかかっているようだった。
 加えて、夕飯のまかないに預かる前に追い出されたので、腹もひどく空いている。

「これからどうしよう……」

 途方に暮れた呟きが、白い吐息と共に消えた。
 一時間ほど前まで小春は、この花街に店を構える老舗料亭『蝶乃屋』で、いつも通り下働きとして仕事に励んでいた。

 ――それがどうして、こんなことになったのか。

 小春は寒さに震えながらも、数ヶ月前の稀有な出会いから遡って、ぼんやりと思い返してみた。



(ああ、急がなくちゃっ!)

 障子の向こうからは三味線の音に乗って、伸びやかな唄が聞こえてくる。
 今宵の蝶乃屋には、踊りが上手いと評判の芸者も呼ばれており、お座敷はたいそうな盛り上がりを見せていた。

 気前のいい宴を開いているのは、今の大戦景気で一気に業績を伸ばしたという、どこぞの会社の社長だ。世に言う成金である。他にも今夜は数組の太客が来ていて、店は大忙しだった。

 景気の恩恵を受けているのはごく一部で、庶民の生活は依然として苦しいままだ。

 金を落としてくれる者は皆、大切なお客様である。

(また叱られないように、静かに静かに……でも急いで!)

 板張りの廊下を、小春は足音に気を付けながら走り抜ける。荒れた手に握るのは、指先をひんやりとさせる氷嚢だ。

(これを頭に当てて、少しは楽になるといいんだけど……)

 齢十三になる小春は、物心ついた頃からこの料亭にいた。
 母は小春を生んでからほどなくして病にかかり、亡くなる前に昔馴染みである、ここの大女将に娘を預けたそうだ。

 母のことは断片的にしか覚えていない。
 父の存在は最初からなかったように知らない。

 そのような状況は特別なことではなく、親と縁の薄い子供など花街ではありふれていた。

 ここでの小春は、〝雑に扱っていい居候のようなもの〟という立ち位置で、尋常小学校にもろくに通わせてもらえなかったし、朝から晩までお給料ももらわず、あくせくと働かされている。
 大女将は怖くて、毎日つらいことも多く大変だ。

 だけど環境ばかりを嘆いていても仕方ないと、小春は思っている。粗雑でも衣食住がそろっているだけで、自分はまだまだ恵まれているのだ。
 遠い記憶の中で、母も小春に言い聞かせていた。

『いつだって胸を張って、前向きな生き方をなさい。心に住まう鬼に負けないように……そうしたら小春の素敵なところを、必ず見つけてくれる人が現れるから』

 母の言葉を胸に、これまで小春は懸命に生きてきた。
 ……だがそんな人が現れる兆しはなく、代わりに今宵の小春のもとに現れたのは、ずいぶんと具合の悪そうな人だった。

「遅くなってごめんなさい! よかったらこの布巾で、痛むところを冷やしてください」
「ああ……悪いな。助かる」

 賑やかなお座敷から離れた、人目につきにくい柱の影。
 そこに片膝を立てて座り込んでいるのは、身形のいい美少年だ。

 サラリとした黒髪に、眼鏡をかけていてもわかる整った顔立ち。歳は小春より、三つか四つ上だろう。紺の久留米絣の着物を纏って、帯には丸型の中に小花模様が描かれた、女物の蒔絵根付がついている。少女と見紛う少年には、その根付がまた小粋だった。
 だがその麗容も半減するほど、今は顔色が最悪だ。

 少年は太客のひとりである社長子息で、今宵の宴には社会勉強として連れてこられたらしい。
 障子の隙間から偶然目が合った時、彼は涼しい表情を装ってはいるものの、小春にはその不調がすぐにわかった。

 でも他には誰も気づいていないようで、父親も芸者たちと投扇興というお座敷遊びにかまけていた。

 小春が心配でソワソワしていたところ、彼が席を立ってそっと廊下に出てきたため、思わず「休むならこちらへどうぞ!」と声をかけたのだ。
 少年は冷たい氷嚢を側頭部に当てながら、「ふう」と息を吐く。

「こういう瘴気の多いところは苦手だ……空気が悪くて、吐気と頭痛がする」
「しょうき? ですか?」
「こっちの話だ」

 なんのことかまったくわからなかったが、小春が詮索していいことではないのだろう。お客の事情に深追いしないのは、花街の暗黙の了解だ。

「少しは楽になりました?」
「ああ。体調が回復したら、すぐに座敷に戻る」
「えっ? さ、先に帰らせてもらった方がいいですよ。今にも倒れそうじゃないですか!」
「父には弱みを見せたくない」
「弱みって……」

 お金持ちの子供は子供で、小春とは別種の苦難があるのかもしれない。
 放ってもおけず悩んだ小春は、それならば……と、彼の隣で正座をしてポンポンと膝を叩いた。

「どうしてもお座敷に戻るなら、せめて数分でも横になった方がいいです。よかったら私の膝を枕に使ってください」
「は……」

 その申し出に少年は狼狽え、「そんなことまではいい」と当然のように辞退しようとする。だが、くらりと眩暈がしたようで、小さく呻き声を漏らした。

「ほら、このままだと座敷に戻ることもできないですよ。今日はこちらに人は来ませんし、私も少しくらいなら仕事を抜けても大丈夫ですから!」
「そういう問題ではないだろう……」
「早く戻りたいんですよね?」
「それはそうだが……わかった、失礼する」

 観念して彼は眼鏡を外し、形のいい頭を小春の膝に乗っけた。
 眼鏡がない方が、整った容姿がよく映える。
 この時小春は初めて、彼の切れ長の瞳を近くで覗いたが、よくよく見たら、色がなんと黒ではなく金だった。異国の血でも引いているのだろうか、それが息を吞むほどに美しい。

(キラキラしたおはじきみたい……)

 宝石などは見たことがない小春には、母と昔遊んだ、おはじきに例えることくらいが関の山だった。

 もしかしたら彼の眼鏡は、この特徴的な目を隠すためだったのかもしれない。

 見惚れているうちに、少年はスッと瞼を落とす。「ホッとするな……」と呟く彼に、小春は「人の体温がそばにあると安心しますよね」と笑う。
 しばし穏やかな空気が流れたが、不意に少年は小春に声をかけた。

「……このままだと本格的に寝入りそうだが、それはさすがにまずい。なにか話していてくれないか」

 どうやら開き直って、小春にとことん甘えることにしたらしい。
 気位の高い猫に懐かれたようで、小春は嬉しくなる。

「いいですよ。でも私、学がないのでは話は得意じゃ……そうだ! 流行(はや)りの唄でも歌いましょうか」

 長唄や清元は散々お座敷で聞いただろうが、流行歌なら気軽に耳を傾けられるのではないかと思った。松井須磨子の『カチューシャの唄』が大ヒットしたことは記憶に新しく、世の中には次々といろんな唄があふれている。

 小春の母も、たまに口遊んでいたが上手かった。だから娘である自分も上手いはずと自負する小春に、少年が「それでいい」と頼む。
 そして小春は、なるべく声の大きさは抑えて、一曲披露したのだが……。

「ふっ、くくっ! お前の唄、なんというか……ははっ、独創的だな」
「え、よかったですか?」
「くくっ……ああ、最高だった」

 なぜか少年は、横になりながら腹を抱えて笑っている。
 有り体に言ってしまえば、小春はものすごい音痴なのだが、ここで間違った自信をつけてしまった。ひとつの悲劇の誕生である。
 少年はひとしきり笑うと、ゆっくりと体を起こした。

「もう行かれるんですか?」
「笑ったら気分も治ったからな。お前の周りは瘴気もなくて、そばにいると休まった。礼をしなくてはいけないな……」

 彼は着物の懐から、キャラメルの箱を取り出した。
 小春に「手を出せ」と命じ、かさつく荒れた手の上に、キャラメルをコロリと二粒転がす。

「ここに来る前に、知人から押し付けられたものだ。さっきの唄を含め、お前の時間を使わせた花代として受け取れ。後で好きに食べるといい」
「こ、これ、高価なものですよね!? 大人が食べる……いただけません!」

 芸者に支払う代金を〝花代〟と言う。

 ここが花街ゆえの軽口だとわかっていても、小春は芸者ではないのに、こんなお代をいただくなんて申し訳なさすぎた。キャラメルは本当に高価な甘味なのだ。
 しかし返そうとする小春の手に、少年は自分の手を重ね、ぎゅっとキャラメルを握り込ませる。

「返される方が、俺の矜持に傷がつく」
「……わかりました」
 そこまで言われてしまえば、受け取らないわけにはいかない。
 しぶしぶ引き下がった小春に、少年は満足そうに口角を上げていた。

 その夜、初めて食べたキャラメルの美味しさは、小春にとって一生忘れられないものとなった。一粒だけで天にも昇れるほど幸せになれる。
 彼のおはじきのような玲瓏たる金の瞳も、鮮烈な印象を残して消えなかった。

(また会いたいな……。住む世界が違うし、きっと無理だろうけど)

 小春は叶わぬ望みを抱いて、粗末な布団で眠りについた。