帰るなり、俺は部屋のベッドに倒れこんだ。
 生温い風の温度と、翔太の言葉が何度も頭の中にフラッシュバックする。

──燈子先輩、今年は指揮者だから。

 先輩…歌わないのか…。
 俺は無意識に、スマホで「指揮者」と検索をかけていた。俺の勝手なイメージ通り、燕尾服や蝶ネクタイを身にまとった、壮年の男性たちの肖像がずらりと並ぶ。
(そうだよな…指揮者っておじさんの職業だと思ってた。ってか、部活だと顧問の先生とかじゃないのか?)
 検索結果に誘われるまま、いくつかの動画を眺める。どれも、壮年の男性が難しい顔をして指揮棒を振り、大勢の合唱団や管弦楽団を率いているものばかりだ。
燈子先輩が…これを? あんな小さい体で…。
 何度検索しても、俺のイメージを覆し想像力を補うような情報は出てこなくて、ただただ“燈子先輩の歌声が聴けないらしい”というずしっとした失意だけが残った。

 翌日は雨だった。しばらく続くという。いずれ、梅雨入りの報が入るだろう。
 昨日の失意を引きずったまま、俺は半信半疑で放課後を迎えた。本当に、あの真ん中に燈子先輩が立つんだろうか…。
 信じたくないのももちろんあったが、まず、ただひたすらに想像がつかない。これまでに俺の人生で認識してきた「指揮者」の像──そうたくさんは無かったが、少なくとも昨日それは強化された──に、身長150センチにも満たない女子生徒の姿が絶望的に合致しないのだ。
「達樹、こっち」
 ストレッチ、筋トレ、発声練習。一通りの開始ルーチンをパートでこなした後、いつものテナー練習と違い、翔太に音楽室へいざなわれた。
 音楽室の中央に指揮台と、黒くて細い譜面台がある。昨日までのパート練習の時には無かった装備だ。周囲にはいつものテナーの面々、ベースパートの男子生徒、それから男子の倍はいそうな女子生徒たち。これでも全員ではないのだろうが、20人弱ほどが指揮台の前に雑然と立つ。
 リーダーが後列に、1年は前に…とざわざわしている中、燈子先輩が現れた。そして当たり前のように、真ん中に置かれた指揮台の横に並ぶ。
 練習の開始を汲み取った音楽室が静まり返る。
「はーい、おつかれさんでーす。んでは今日から、自由曲のほうの合わせに入っていきますので、宜しくお願いしまーす」
 いつものよく通る、しかし抑揚のない燈子先輩の声。おねがいしまーす! と部員たち。俺はやっぱりどこか現実味がなくて、出遅れた。
 昨日までのパート練習の二億倍は気合が入っていそうな翔太の視線が、左から刺さる…。
 ひょいと軽やかに指揮台の中央に立ち、後ろ見えるー? と燈子先輩。両端の、ソプラノとベースのパートリーダーが手を軽く振って呼応する。頷いた燈子先輩は指揮棒を取り出し、メトロノームよろしく目の前の譜面台にカツーン…カツーン…と打ちつけた。

 俺は思わず、えっ、と声に出してしまったように思う。
 左から翔太が「達樹どうした」という感じで視線を送ってきたような気がしたが、悪いけど俺は燈子先輩にくぎ付けだった。