翌日、俺は放課後になるのを待って、音楽室に足を運んでみることにした。
バンドの中心で歌うソロボーカルを目指す俺にとって、合唱という「モブの集まり」には正直魅力を感じなかったが…とにかく昨日の、川瀬先輩の声をもう一度聴いてみたい。
 趣味のレベルとは言え、歌ってると分かる。あの先輩は、きっと歌が上手い。
それを聴いてみたいという欲求が、一番大きかった。

 音楽室の扉は開いていて、中からは合唱部員と思しき数人が声を出し合っているのが聴こえた。奥からは伴奏の練習っぽいピアノの音もするし、廊下でも筋トレをしている部員がいる。ウロウロしていると、コピーした楽譜の束を抱えた女子生徒に追い抜かれた。
 こんな時間に音楽室を通ることがなかったから、合唱部が割と精力的に活動していたなんて全く知らなかったな…。
 しばらく周囲を見渡していると、筋トレがひと段落ついたっぽい男子部員を見つけたので、俺は小さめに深呼吸してから声をかけた。幸い、赤い名札が目に入り、あの先輩と同じ学年であることが俺を少しだけ安心させた。
「あの。合唱部の人ですか」
「そうですけど…もしかして入部希望?」
「あ、いや…入部というか、見学に…。その、2年の川瀬先輩から聞いて」
 先輩の名前を口にしながら、あの澄んだ声を思い出して、僅かに俺の心臓が跳ねた。
「川瀬? ちょっと待ってね…おーい、大輔! 1年の子、誘ってる?」
 呼ばれて出てきたのは、やはり赤い2年の名札を付けた、しかし男の先輩だった。
「いや? 別に呼んでないよ。こんにちは…女の先輩だった?」
 もう一人の川瀬先輩はにこやかに問う。
「あ、大輔じゃねーのか。じゃ、燈子のほうかな?」
 俺が返事をするより先に、音楽室の奥に向かって声を張る先輩。
「とうこー、とーうーこッ! 1年の子来てる!」
 すると、音楽室から聞こえていた伴奏の音が止まり。
 黒い大きなピアノの陰から、黒髪の小さな人影が立ち上がった。

 合唱部には川瀬が二人いて、区別するために1年は「燈子先輩」と呼ぶことになっていた。
 大きな川をシンボルに発展してきたこの町には、川瀬姓が多いらしい。そういえば俺の学年にもいた気がする…。あとで聞いたら、合唱部の二人も、他学年の川瀬たちも特に兄弟や親戚ではないそうだった。
 燈子先輩が川での出会いを簡単に説明してくれたあと、テナーと呼ばれた3人の男子生徒に取り囲まれた。総勢26人の小さめな合唱団とは言え、男子生徒9人・その中でテナーが3人というのは確かに少ないように思われたし、テナーのパートリーダーだという先輩からは、入部を明言してもいないのに大変感謝された。
 けど、俺は燈子先輩が説明しているその澄んだ張りのある声ばかりに耳を傾け、ところどころ話の内容が入ってきておらず…気づいたら、しばらく体験入部という形でお世話になる方向で話がまとまっていた。
「じゃあ、永島くん、リーダーについていってね」
「えっ、あ…」
 急に話しかけられて俺が我に返った時には、燈子先輩はくるりと踵を返し、黒髪をなびかせて音楽室のほうへ消えてしまった。

 その日はパートごとの練習だけで、燈子先輩のいる女性パートの歌声を聴くことはできないまま終わってしまった。
 全員の前で簡単に自己紹介し、部長が全体に連絡事項を伝え、解散となったと同時に、俺はテナーの3人のうち1人に声をかけられた。
「永島くん!」
 振り返ると、声の主はさっきまで一緒に歌っていたメガネの男子生徒。
 俺より少し背が低く、ふわっとした柔らかめの髪に「絶対着崩さない」という意志で固められた制服。名札は俺と同じ1年だった。
「僕だよ、牧野翔太。覚えてない? 永島くん、東中だよね?」
 そう言って、俺と同じ中学の出身を名乗る牧野翔太はメガネを外した。
「あ…牧野! 合唱部の部長! え、お前メガネなんか…」
 俺はその顔に見覚えがあった。俺が中学でギター部だったとき、音楽室の取り合いになった合唱部の部長こそ、目の前の牧野翔太その人だ。陰キャの代表みたいなやつで、その時以外の接点は一切なかった。
 どうやら高校でも合唱を続けているらしい。
「受験勉強で視力が落ちちゃって…。永島くんこそどうしたの? 合唱なんてキャラじゃなかったのに」
 俺が軽音部消滅事件について話していると、視界の端を黒髪の小柄な人影が横切るのが見えた。
「燈子先輩!」
 先に反応したのは牧野だった。おいおい、今俺が説明してる途中だろ?
「牧野くん。お疲れ様…あ、永島くん、今日は来てくれてありがとう」
 燈子先輩は牧野を一瞥したあと、その頭部を乗り越えて俺にも声をかけた。その瞬間、俺の中に何か優越感のような、謎の感情が芽吹く。
「二人は同じクラスだったの?」
「いえ! 今は違いますが、中学が一緒でした!」
 すごい反応速度で意気揚々と答える牧野。お前に何の手柄があったっていうんだ。
「そうなんだ。永島くん、分からないことがあったら牧野くんになんでも聞いてね」
「はいっ! 僕に任せてください!」
 だからー、燈子先輩は今、俺に話しかけただろ! なんで陰キャのお前が…
 またも燈子先輩の澄んだ声に陶酔しかかっていた俺は、陰キャだと軽くナメてかかってさえいた牧野の陽動的な振る舞いに苛立ったのか、前回よりも早めに我に返り、相変わらず表情の起伏がない燈子先輩に少しだけ食い下がりたくなった。
「燈子先輩ッ」
「?」
 先輩の目がようやく俺を捉える。
 ところが…。
「あの、こっちだけ名前で呼ぶのなんかアレなんで、俺のことも達樹って呼んでください!」
 無意識に牧野に僅かでも何かを先んじようとした俺の口から飛び出したのは、少しだけ食い下がるなんてもんじゃ済まされない暴言だった。
「はあっ?! な、永島くん、なにを失礼な…」
 メガネをずらさんばかりあからさまに動揺する牧野を横目に、
「え? いいけど」
アッサリ了承する燈子先輩、
「いいんだ?!」
 聞くなりマッハで先輩に向き直る牧野。
 俺が自分の口から出た言葉の行き先を自分で整理する前に、牧野も叫んでいた。
「じゃ、じゃ、じゃあ僕も!! 翔太って呼んでください!!!!!!!」
 え、いや、待て、これどういう状況…。
 そんな俺たちの顔を交互に見比べながら…初めて、燈子先輩が少しだけ笑った、ように見えた。
「えー、なんじゃそりゃ? じゃあ、達樹くん、翔太くん、また明日ね」
 それだけ言うと、燈子先輩はパタパタと下校していった。
 横では、牧野改め翔太が、とんでもないことを言ってしまった…という恐れを上回る「燈子先輩に翔太と呼ばれた喜び」に満ちた顔で、恍惚と立ち尽くしている。
 けど。
 たぶん、俺も同じ顔をしていたと思う。