これが漫画や小説の主人公なら、一念発起した永島達樹少年はドラ●エよろしく学内を駆けずり回って仲間を集め、軽音など触れたこともないような頭数だけのヤツらとぶつかりあいながら、みんなで文化祭のステージを目指す一大青春スペクタクルが始まる…ところだけど。
 残念ながら、5月になっても、6月になっても、俺は軽音部の存続に名前を貸してやろうというヤツすら見つけられなかった。
「あーッ! 歌いてぇ〜!!」
 帰り道の河原に自転車を放り出し、俺は草むらに大の字をキメた。
 もともとそれなりに歌が上手い方だと思っている俺は、去年、文化祭の見学に来て軽音部のステージを見てから、この東高校でバンドデビューすると心に決めて、受験勉強を頑張ってきたのだ。
 それがまさか、全員3年生だったなんて。まあ、今にして思えば、だからこそあんなに心に響く熱い演奏だったのかもしれないけど…。
 それにしたって、その熱意と歌唱欲が行き場をなくしてもう2ヶ月。一人でカラオケも飽きたし、バイトもしてない俺には金が続かない。友達は軒並み何らかの部活に入って毎日先輩たちにしごかれているか、バイトを始めたり、できたばかりの彼女と帰ったり。みんな青春の謳歌先を見つけた今、一人でダラダラ帰宅してるのは俺くらいだ。
 梅雨入り目前の河原は蒸し暑く、蚊もいる。自分でテリトリーに踏み込んでおきながら、俺は無性に腹が立った。
「くそっ!」
 起き上がって、あ~ッともう一度大声を出す。腹から、発声練習でもするように。
 そのまま、カラオケでよく歌う歌をサビからぶっ放した。
 大きめの川で、それなりに水流もキツく音が紛れてくれるので、この川沿いに楽器や歌の練習に来る人は多い。俺の歌声も、そう遠くまでいかないうちにかき消されているだろうと、かなり声を張り上げて歌い募った。
 そこへ…

 ギッ!!
 錆び気味な自転車のブレーキ音。
 びっくりして振り返ると、俺と同じ高校の制服を着た女子生徒が、急停車の主ですという形状で背後に存在していた。
 膝丈のスカートと、肩ぐらいの黒髪がサラサラと軽やかに川辺の風になびいている。名札が赤い。2年生か。
「いい声だね。青い名札…1年生? 部活、やってないの?」
 東高2年生と思しき女子生徒は、思いのほか良く通る声で話しかけてきた。腹まで芯の通ったオーラのある声に、俺は一瞬だけ、気圧された。
「えっ、まぁ…軽音部やりたかったんスけど、なくなっちゃって。歌うのは好きなんスけどね」
 声を褒められ、俄に調子に乗った俺はアンニュイな笑みを浮かべたつもりで「居場所のない孤独な俺」を演出してカッコつける。
「そっか。そういえば軽音部、去年みんな卒業しちゃったもんね…。ねぇ、歌が好きなら…合唱部は興味ない?」
 すとっ。
 自転車から飛び降りた先輩は、オーラから想像したよりだいぶ背が低かった。170センチの俺から見ると、頭ひとつ分以上小さい。150センチも無いかもしれない。
「合唱部…ですか?」
「今、夏の大会の練習をしてるんだけど…テナーが足りなくて。すごくいい声だから、一度見学だけでも来てみないかな」
黒髪の小さい先輩は、すごく通るが感情の起伏があまり無い声で、俺に説明を続けた。
「大会? テナー??」
 耳慣れないワードを並べ立てられ、俺はいちいち鸚鵡返す。
 合唱部といえば俺の中学にもあった気がするが、熱血音楽教師と陰キャオタク集団だったのでほとんど関わっていないはずだ。文化祭前に、俺のいたギター部と音楽室の取り合いになった時ぐらいしか、会話の記憶がない。合唱そのものだって、それこそクラス別のコンクールでしか経験がなかった。
「あ、中学ではテノールって言ってたかな、それとも男声パートは男声だけか。とにかく、高い音の出せる男の子を探してるんだ。どう?」
「え、ええ、まぁ…」
 正直、気は進まなかった。いくら歌う場所を求めていたとしても軽音と合唱じゃジャンルが違うし、俺だって歌えりゃどこでもいいとかそんな節操の無い男ではない。
 けどこの時俺は、黒髪の小さな先輩が持つ声のオーラにどうにも惹きつけられてしまって、もっと聴きたいと思うようになっていた。
「明日も練習やってるから。放課後、音楽室覗いてみてよ」
「あ、はい…えっと」
 赤で縁取られた名札をよく見ると、川瀬、の文字。
「おっと…ごめん」
 先輩は俺の視線に気づいたのか、慌てて姿勢を正す。
「あたしは2年C組の川瀬燈子。川瀬の紹介で来たって言ってくれていいから…もし興味があったら、興味がなくても、是非」
「お…俺は、永島達樹です。1年A組です」
 なんだかめちゃくちゃなことを言われている気がしたが、澄んだ声の自己紹介に圧されて俺もつい名前を口走った。
「永島くん。じゃ、待ってるね、明日」
 ガシャン!
 まるで約束が成立したかのような誤解を招く発言を残し、黒髪の小さい先輩改め川瀬燈子先輩は、再び自転車に跨って走り去ってしまった。
 結構ギシギシ聞こえるけど、大丈夫なのか、あの自転車…。
 この時間に通学路を走ってるってことは、今日は部活がないのかな? 休みがあるなら他の友達が入ってる運動部よりは緩そうだ。あいつら、毎日走ったりしてるからな…。

(ってか…勧誘に来たのに、一瞬たりとも笑わなかったな、あの先輩…)

 そのせいか余計に、彼女の抑揚のない澄んだ声が、いつまでも耳に残って離れなかった。

 翌日、俺は放課後になるのを待って、音楽室に足を運んでみることにした。
バンドの中心で歌うソロボーカルを目指す俺にとって、合唱という「モブの集まり」には正直魅力を感じなかったが…とにかく昨日の、川瀬先輩の声をもう一度聴いてみたい。
 趣味のレベルとは言え、歌ってると分かる。あの先輩は、きっと歌が上手い。
それを聴いてみたいという欲求が、一番大きかった。

 音楽室の扉は開いていて、中からは合唱部員と思しき数人が声を出し合っているのが聴こえた。奥からは伴奏の練習っぽいピアノの音もするし、廊下でも筋トレをしている部員がいる。ウロウロしていると、コピーした楽譜の束を抱えた女子生徒に追い抜かれた。
 こんな時間に音楽室を通ることがなかったから、合唱部が割と精力的に活動していたなんて全く知らなかったな…。
 しばらく周囲を見渡していると、筋トレがひと段落ついたっぽい男子部員を見つけたので、俺は小さめに深呼吸してから声をかけた。幸い、赤い名札が目に入り、あの先輩と同じ学年であることが俺を少しだけ安心させた。
「あの。合唱部の人ですか」
「そうですけど…もしかして入部希望?」
「あ、いや…入部というか、見学に…。その、2年の川瀬先輩から聞いて」
 先輩の名前を口にしながら、あの澄んだ声を思い出して、僅かに俺の心臓が跳ねた。
「川瀬? ちょっと待ってね…おーい、大輔! 1年の子、誘ってる?」
 呼ばれて出てきたのは、やはり赤い2年の名札を付けた、しかし男の先輩だった。
「いや? 別に呼んでないよ。こんにちは…女の先輩だった?」
 もう一人の川瀬先輩はにこやかに問う。
「あ、大輔じゃねーのか。じゃ、燈子のほうかな?」
 俺が返事をするより先に、音楽室の奥に向かって声を張る先輩。
「とうこー、とーうーこッ! 1年の子来てる!」
 すると、音楽室から聞こえていた伴奏の音が止まり。
 黒い大きなピアノの陰から、黒髪の小さな人影が立ち上がった。

 合唱部には川瀬が二人いて、区別するために1年は「燈子先輩」と呼ぶことになっていた。
 大きな川をシンボルに発展してきたこの町には、川瀬姓が多いらしい。そういえば俺の学年にもいた気がする…。あとで聞いたら、合唱部の二人も、他学年の川瀬たちも特に兄弟や親戚ではないそうだった。
 燈子先輩が川での出会いを簡単に説明してくれたあと、テナーと呼ばれた3人の男子生徒に取り囲まれた。総勢26人の小さめな合唱団とは言え、男子生徒9人・その中でテナーが3人というのは確かに少ないように思われたし、テナーのパートリーダーだという先輩からは、入部を明言してもいないのに大変感謝された。
 けど、俺は燈子先輩が説明しているその澄んだ張りのある声ばかりに耳を傾け、ところどころ話の内容が入ってきておらず…気づいたら、しばらく体験入部という形でお世話になる方向で話がまとまっていた。
「じゃあ、永島くん、リーダーについていってね」
「えっ、あ…」
 急に話しかけられて俺が我に返った時には、燈子先輩はくるりと踵を返し、黒髪をなびかせて音楽室のほうへ消えてしまった。

 その日はパートごとの練習だけで、燈子先輩のいる女性パートの歌声を聴くことはできないまま終わってしまった。
 全員の前で簡単に自己紹介し、部長が全体に連絡事項を伝え、解散となったと同時に、俺はテナーの3人のうち1人に声をかけられた。
「永島くん!」
 振り返ると、声の主はさっきまで一緒に歌っていたメガネの男子生徒。
 俺より少し背が低く、ふわっとした柔らかめの髪に「絶対着崩さない」という意志で固められた制服。名札は俺と同じ1年だった。
「僕だよ、牧野翔太。覚えてない? 永島くん、東中だよね?」
 そう言って、俺と同じ中学の出身を名乗る牧野翔太はメガネを外した。
「あ…牧野! 合唱部の部長! え、お前メガネなんか…」
 俺はその顔に見覚えがあった。俺が中学でギター部だったとき、音楽室の取り合いになった合唱部の部長こそ、目の前の牧野翔太その人だ。陰キャの代表みたいなやつで、その時以外の接点は一切なかった。
 どうやら高校でも合唱を続けているらしい。
「受験勉強で視力が落ちちゃって…。永島くんこそどうしたの? 合唱なんてキャラじゃなかったのに」
 俺が軽音部消滅事件について話していると、視界の端を黒髪の小柄な人影が横切るのが見えた。
「燈子先輩!」
 先に反応したのは牧野だった。おいおい、今俺が説明してる途中だろ?
「牧野くん。お疲れ様…あ、永島くん、今日は来てくれてありがとう」
 燈子先輩は牧野を一瞥したあと、その頭部を乗り越えて俺にも声をかけた。その瞬間、俺の中に何か優越感のような、謎の感情が芽吹く。
「二人は同じクラスだったの?」
「いえ! 今は違いますが、中学が一緒でした!」
 すごい反応速度で意気揚々と答える牧野。お前に何の手柄があったっていうんだ。
「そうなんだ。永島くん、分からないことがあったら牧野くんになんでも聞いてね」
「はいっ! 僕に任せてください!」
 だからー、燈子先輩は今、俺に話しかけただろ! なんで陰キャのお前が…
 またも燈子先輩の澄んだ声に陶酔しかかっていた俺は、陰キャだと軽くナメてかかってさえいた牧野の陽動的な振る舞いに苛立ったのか、前回よりも早めに我に返り、相変わらず表情の起伏がない燈子先輩に少しだけ食い下がりたくなった。
「燈子先輩ッ」
「?」
 先輩の目がようやく俺を捉える。
 ところが…。
「あの、こっちだけ名前で呼ぶのなんかアレなんで、俺のことも達樹って呼んでください!」
 無意識に牧野に僅かでも何かを先んじようとした俺の口から飛び出したのは、少しだけ食い下がるなんてもんじゃ済まされない暴言だった。
「はあっ?! な、永島くん、なにを失礼な…」
 メガネをずらさんばかりあからさまに動揺する牧野を横目に、
「え? いいけど」
アッサリ了承する燈子先輩、
「いいんだ?!」
 聞くなりマッハで先輩に向き直る牧野。
 俺が自分の口から出た言葉の行き先を自分で整理する前に、牧野も叫んでいた。
「じゃ、じゃ、じゃあ僕も!! 翔太って呼んでください!!!!!!!」
 え、いや、待て、これどういう状況…。
 そんな俺たちの顔を交互に見比べながら…初めて、燈子先輩が少しだけ笑った、ように見えた。
「えー、なんじゃそりゃ? じゃあ、達樹くん、翔太くん、また明日ね」
 それだけ言うと、燈子先輩はパタパタと下校していった。
 横では、牧野改め翔太が、とんでもないことを言ってしまった…という恐れを上回る「燈子先輩に翔太と呼ばれた喜び」に満ちた顔で、恍惚と立ち尽くしている。
 けど。
 たぶん、俺も同じ顔をしていたと思う。

 数日を合唱部で過ごすうちに、燈子先輩に対する翔太の強い憧憬は、部内でも有名な話であることを知った。
 俺が燈子先輩のスカウト入部(意訳)であることを聞いて、牧野くんから嫉妬されないようにね、と謎の忠告をくれた1年もいた。
 同じ中学方面で一緒に下校することが増えた翔太は、毎日楽譜の話をしている。俺もバンドマンを志したことがある以上、楽譜が読めないわけではないが、合唱歴の長い翔太の音楽に対する造詣の深さにはミリもついていけてないのが現実だった。
「達樹、明日からやっと全体練習だね!」
「そう言ってたなー。やっと燈…女性パートの声が聴けるのか」
 今日も川沿いの道を、自転車を押しながら二人で歩く。
 俺はなんとなく気を遣って、燈子先輩の名前を出すのを憚ったが…
「うん! 燈子先輩の声も聴けるしね。楽しみだなぁ~!」
 そんな俺の気遣いを2秒で無に帰す翔太。
 なんとなく悔しいので、そのまま燈子先輩の話題に移らせてもらうことにした。
「…なあ、燈子先輩って声キレイだよな。歌うまいんだろ?」
 ところが、想い人の記憶を宿してほぅ…とした表情になった翔太の口からは、俺が思っていたのと少し違う回答が返ってきた。
「そうだよ…! 燈子先輩の綺麗で透明感のある、だけど力強いソプラノ! 今年ほとんど聴けないのが残念だよねぇ~」
「は? 今年、ほとんど聴けない…?」
 俺が面食らって歩みを止めると、翔太もきょとんとした顔で歩みを止める。
「えっ、うん…あれ、もしかして達樹、知らなかった?」
 梅雨入り目前の強めの温風が、立ち止まった俺たちを斜めに追い抜いて行った。風向きの力で川の音が僅かに遠ざかる。
「燈子先輩、今年は指揮者だから」

 帰るなり、俺は部屋のベッドに倒れこんだ。
 生温い風の温度と、翔太の言葉が何度も頭の中にフラッシュバックする。

──燈子先輩、今年は指揮者だから。

 先輩…歌わないのか…。
 俺は無意識に、スマホで「指揮者」と検索をかけていた。俺の勝手なイメージ通り、燕尾服や蝶ネクタイを身にまとった、壮年の男性たちの肖像がずらりと並ぶ。
(そうだよな…指揮者っておじさんの職業だと思ってた。ってか、部活だと顧問の先生とかじゃないのか?)
 検索結果に誘われるまま、いくつかの動画を眺める。どれも、壮年の男性が難しい顔をして指揮棒を振り、大勢の合唱団や管弦楽団を率いているものばかりだ。
燈子先輩が…これを? あんな小さい体で…。
 何度検索しても、俺のイメージを覆し想像力を補うような情報は出てこなくて、ただただ“燈子先輩の歌声が聴けないらしい”というずしっとした失意だけが残った。

 翌日は雨だった。しばらく続くという。いずれ、梅雨入りの報が入るだろう。
 昨日の失意を引きずったまま、俺は半信半疑で放課後を迎えた。本当に、あの真ん中に燈子先輩が立つんだろうか…。
 信じたくないのももちろんあったが、まず、ただひたすらに想像がつかない。これまでに俺の人生で認識してきた「指揮者」の像──そうたくさんは無かったが、少なくとも昨日それは強化された──に、身長150センチにも満たない女子生徒の姿が絶望的に合致しないのだ。
「達樹、こっち」
 ストレッチ、筋トレ、発声練習。一通りの開始ルーチンをパートでこなした後、いつものテナー練習と違い、翔太に音楽室へいざなわれた。
 音楽室の中央に指揮台と、黒くて細い譜面台がある。昨日までのパート練習の時には無かった装備だ。周囲にはいつものテナーの面々、ベースパートの男子生徒、それから男子の倍はいそうな女子生徒たち。これでも全員ではないのだろうが、20人弱ほどが指揮台の前に雑然と立つ。
 リーダーが後列に、1年は前に…とざわざわしている中、燈子先輩が現れた。そして当たり前のように、真ん中に置かれた指揮台の横に並ぶ。
 練習の開始を汲み取った音楽室が静まり返る。
「はーい、おつかれさんでーす。んでは今日から、自由曲のほうの合わせに入っていきますので、宜しくお願いしまーす」
 いつものよく通る、しかし抑揚のない燈子先輩の声。おねがいしまーす! と部員たち。俺はやっぱりどこか現実味がなくて、出遅れた。
 昨日までのパート練習の二億倍は気合が入っていそうな翔太の視線が、左から刺さる…。
 ひょいと軽やかに指揮台の中央に立ち、後ろ見えるー? と燈子先輩。両端の、ソプラノとベースのパートリーダーが手を軽く振って呼応する。頷いた燈子先輩は指揮棒を取り出し、メトロノームよろしく目の前の譜面台にカツーン…カツーン…と打ちつけた。

 俺は思わず、えっ、と声に出してしまったように思う。
 左から翔太が「達樹どうした」という感じで視線を送ってきたような気がしたが、悪いけど俺は燈子先輩にくぎ付けだった。
 綺麗に重力を踏襲した、振り子のような手の動き。余計な力を抜いてスラっと立っていながら、微動だにしない重心。そして…機械仕掛けのように、寸分の狂いもなく刻まれ続ける拍音。
「テンポ、これぐらいでいいー?」
 譜面台を叩きながら、燈子先輩があの声で語りかける。もちろん、その間も速さにブレは一切無い。ソプラノのリーダーから、最後に音が細かくなる部分があるからもう少しゆっくり…という趣旨の返答があり、燈子先輩は目盛りでも合わせるかのように少しだけテンポを落とした。
 アイコンタクトを交わしあう、燈子先輩とソプラノのリーダー。
 その一連の所作と、狂いなく聞こえてくるリズム…指揮どころかただ拍を刻んでいるだけの燈子先輩に、俺は早くも圧倒されていた。
「んじゃ、これぐらいでー。まずは全体でどんな感じか聞いてみよっか」
 右手で拍を打ちながら、左手をスッと前に構える。
 最低限の筋力で燈子先輩の腹前に置かれた左手は、少しだけ外側に動いた後…ふわっ、と、羽のように軽やかに、真っすぐ上に昇った。
 ふわっ。
 誇張ではなく、俺には、本当にそう聞こえた。
 燈子先輩の手の動きと…それに追従するように、俺の全身に自然に取り込まれた空気の音が。
 そこで初めて俺は、燈子先輩の左手が外側に動いたときに、無意識に息を全て吐かされていたことに気づく。

 カツーン。

 右手が一拍目を打ち付けると同時に、燈子先輩の左手も振り下ろされる。それは先輩の腰のあたりを通過し、俺たちの声を誘うように左へ広がった。
(ぉわ…あっ…?!)
 翼。いや、土、水。風…なんだろう。ほとんど力の入ってない、完全に重力を踏襲した動きなのに、とにかく心強くて。
 俺の体内の空気は、その左手に首根っこを捕まれ、腕の広がりに沿うように歌になって体の外へ引きずり出された。
 同瞬、隣の翔太からも、今までのパート練習とは比較にならない圧力の第一音が奏でられる。翔太のそれは俺の第一音と重なり、そして他の部員たちから吐き出された第一音とも混ざって、燈子先輩の左手を通過し、音楽室の壁を揺さぶった。
 20人分の空気圧が作り出すそれが、俺が初めて聴く「和音」だった。

「はい、いっかい止めよー」
 燈子先輩が拍を刻むのをやめ、両手を空中でヒラヒラと漂わせる。
 糸の切れた操り人形がフッと意識を失うように訪れる、先輩の指揮からの解放。いわゆる最初のサビ(合唱では何て言うんだろう)を歌っただけで、俺の膝は僅かに震えていた。先輩の左手に文字通り掌握され、縦横無尽に蹂躙されていた呼吸は急にその主を失い、自分の体なのにふらふらとコントロールが効かない。
(…なんだこれ…合唱って…こんなに…。)
 最初に聞いた燈子先輩の右手の拍だけでも圧倒されたのに、そのあとの左手だ。
 拍を刻み続ける右手を尻目に、上下左右に飛び回る左手。そのたびに、肺だけでなく俺の体内のあちこちに引っかかっていた微細な空気も根こそぎ外に引きずり出され、新しい空気をドスンと腹の底まで吸わされ、また次のフレーズで全てを絞り出される。ひたすら、そんなゼロオールの繰り返しだった。
 息を整えながらチラッと左を見ると、呼吸一つ乱れていない様子の翔太。もはや燈子先輩しか視界に入っていないのが丸わかりだ。だがそれは俺の「釘付け」などという陳腐な様相ではなく、先輩の指揮から振り落とされてなるものか、という強い意志を感じる目だった。
 俺はようやく、パート練習が何だったのかを知る。
 単に体を慣らしたり、歌詞や音を覚えておくためじゃない。この全体練習で、燈子先輩の左手から振り落とされないように、そして他パートの音に惑わされないように、体の動きと自パートの動きを徹底的に染み込ませて、無意識に燈子先輩の指揮に身を任せるため…。
 実際は違うのかもしれないが、合唱に関してド素人の俺はそう解釈した。

「いい感じだったねー」
 テキパキと改善点を述べ、二回目。またも俺の体内の空気が、全て絞り出されては入れ替わる。
 再び歌を止め、よくなったねぇ、と先輩。いくつかの改善点と…
「ソプラノさん…三回繰り返すとこの最後、『♪風~の中か~ら』だけ音が変わるからね、伴奏が入るまではわかりづらいかもしれないけど、『か』特に注意してね」
(!!!!)
 燈子先輩が、初めて歌った。
 それはたった数音で。説明の合間の、単なる例え歌。
 だけど俺にとっては、待ち望んでいた、燈子先輩の歌声。それは俺の想像通り、いやその想像をはるかに超えて、ただただ澄んで、美しかった。
 翔太の「綺麗で透明感のある、だけど力強いソプラノ」という言葉が蘇る。
「それじゃ、続きねー」
 待って。
 燈子先輩、お願い。もっと歌って。声を聴かせて…。
 俺は懇願するように、心の中で呼びかけるが…数瞬遅れて、すぐさま燈子先輩の左手がゆらっと動く。
 催眠術のように目を奪われた俺はまた、無抵抗に全ての酸素を吐き出させられ、吸わされた。
 歌が、始まる。

 何度かの繰り返しを経ながら、曲の最後までたどり着いたのは、練習終了五分前。
 その間俺は、燈子先輩の左手に全ての空気をコントロールされ、途中幾度か待ち焦がれた燈子先輩の歌声を吸い、また左手に翻弄され、もはやヘロヘロだった。
「よーし。じゃあ最後に一回、頭から通してみるよ」
 おもむろに譜面台と指揮棒を脇へ除ける燈子先輩。よっしゃ、通すか…とばかり、背中を伸ばしたり、軽くジャンプして体をほぐす部員たち。何か、今までの繰り返し練習とは違うものが始まる気配が全員から漂っていた。激しさのあまり既に曲の序盤を忘れ始めていた俺、永島達樹ただ一人を除いて…。
 慌てて楽譜を最初のページまで巻き戻す。翔太が心配そうに一瞥をくれ、すぐ正面に向き直った気配を感じた。
 翔太の視線の先には、まるで試合前の武道家みたいに不要な力を全て抜き去った燈子先輩が立っていた。さっきまでの左手と同じ高さに、今度は右手も構えられる。
(指揮棒…使わないんだ…?)
 燈子先輩の両手が左右にゆっくり押し広げられるのに合わせて、俺はもう何度目か、全ての息を吐き切る。
 弾かれるように、燈子先輩の左手がふわっと舞い上がり…そして右手は、右下へと放り送られた。燈子先輩の両腕の中に広がる、大きな空間。その空間を抱くように、俺たちの中にもさっきまでと比べて体感百倍ぐらいの空気が取り込まれる。

 瞬間。
 燈子先輩が。
 魔法を使うかのように、目を見開いた。

(うっ?)

 今まで一度も動いたことのなかった左眉がヒクっと上がり、口が端まで開く。初めて見る、燈子先輩の歯。

 燈子先輩は笑っていた。

 振り下ろされる左手。譜面台を叩いてた時とは明らかに違う、燈子先輩の様子と、俺の中に取り込まれた酸素量。その酸素が燈子先輩の左手に導かれ、今までとは比べ物にならない物量の「歌」になって、俺の胴体から放出されようとした。
 えっ…危ない!!
 俺はうろたえる。