それ以来、尊は丸くて赤いものや『マンハッタン』という言葉に敏感になってしまった。それがカクテルではなく、たとえニューヨークのマンハッタンでもだ。
 バイトの帰り、毎日のように『琥珀亭へ行ってみようか』と迷う。けれど、相変わらず何を飲めばいいか浮かばない。

 ある日、本屋に行った彼は今までまったく興味のなかった実用書コーナーをうろついていた。吸い寄せられるように手に取ったのは、カクテルの本だった。カクテルの名前、レシピ、アルコール度数やその酒にまつわるエピソードなどが載っているもので、厚かった。
 目次を見て、ぱらぱらとページをめくると、自然とマンハッタンを探していた。あの赤いチェリーがもう懐かしい。
 なにより、また彼女に会いたかった。尊は惚れっぽい質ではなかったが、単に彼女と他愛もない会話をしてみたかった。自分が感じたことを、彼女はどう感じるんだろうかと、興味がわいたのだ。
 しかし、同時に怖くもあった。
 あのとき、彼女は『今は何のお仕事を?』ときかなかった。そこまでたいして興味もないのか、これ以上触れてはいけない話題だと察したかはわからない。
 だが、もし次に会ってその質問をされたとき、胸を張って「この仕事で頑張ってます!」と言いたかったのだ。それが男の見栄だとしても。
 尊はマンハッタンの写真をしげしげと見つめたあと、更にページをめくる。色とりどりのカクテルの写真が並んでいるが、どんな味がするのか想像もつかなかった。ただ、アルコール度数が高いものが多いことがわかり、腰が引けた。知ったかぶりしてカクテルの名前を口にしているだけの奴だと思われるのも嫌だった。
 尊はそっと本を閉じ、棚に戻した。結局、レジに持って行ったのは新しい履歴書と漫画だけだった。

 だが、それ以来、どうしてもあの店にまた行ってみたくて仕方なかった。
 相変わらず求人も少なく、面接に行っても落とされ、バイトだけの毎日が続いていたが、何故か、あの店に行ったらほんの少し、何かが変わるような気がしていた。
 あの飛行機を見たときの気分とは少し違い、願うだけではなく熱のようなものが胸の奥でくすぶるのだ。
 琥珀亭でもっといろんなことを知りたかった。いろんな話をして、自分に何かを取り込みたい。
 そんな気持ちに取り憑かれた尊が琥珀亭の扉を開けたのは、次の給料日の夜だった。財布に増えた一万円札に、勇気をもらったのだ。
 琥珀亭の扉を押すと、呼び鈴の乾いた音が鳴る。

「いらっしゃいませ」

 女性バーテンダーの声はそわそわしていた尊に安堵をもたらした。目映い笑顔に視線を奪われながら、照れくさそうに呟く。

「また来ちゃいました」

 そのとき、カウンターの端に座る背中が見えた。
 この前居合わせた初老の女性客が、また飲んでいる。違うのは服装だけで、あの日とまったく同じようにウイスキーのロックを一人で楽しんでいるようだった。
 なかなか彼女と二人きりにはなれないな。
 そうがっかりしていると、バーテンダーは先客の二つ隣の席を「どうぞ」と勧めてくれた。
 前回のように、端と端ではないことに驚きつつ、言われるまま腰を下ろした。
 おしぼりを差し出した彼女はにこやかに「何になさいますか?」と問う。尊は前もって用意してあった答えをおずおずと口にした。

「竹鶴を」

 それは賢太郎が千歳に戻ると必ず飲むと言っていたウイスキーだった。賢太郎はあのあと、なんとか会社を立て直して頑張っている。
 尊は、心のどこかで彼を恨めしく思った時期もあった。だが、何も苦労せずに甘えた自分には、彼を責める資格はないと、いつも自分を戒めるのだった。
 あの空港に迎えに行ったときから、心のどこかで賢太郎に憧れていたのを彼は自覚していた。
 賢太郎は必死に働き、自分の足でしっかり歩いてる。そうなりたいと思う一方で、いつか彼以上に頼もしくなってやるという気概もあった。
 この日、尊はそんな彼にあやかりたくて、竹鶴を飲もうと決めてきたのだった。
 あの夜からやり直して、今度は自分の足で歩いて行こうという、仕切り直しでもあった。
 賢太郎にはなれないが、彼のやり方を見よう見まねでもつれながらも足を踏み出さなきゃならない。
 だが、そうわかっていても、何かに背中を押して欲しいのだ。
 そんな尊に、彼女はにこやかに問いかける。

「本日は12年と17年がございますが、どちらになさいます?」

「えっ?」

 何を言っているのかわからず、目が点になっている尊に、彼女は申し訳なさそうに言った。

「すみません、21年は昨日切らせてしまって」

 尊の頭が真っ白になる。
 ウイスキーというのは、年数で何か変わるのだろうか。やはり年数が多いほうが美味いんだろうか。その分、値段も高いのか。
 そんな疑問符がぐるぐると頭をまわったが、たいして味がわからないのだから安いので充分だと踏んで、彼は即座に「12年で」と決めた。。

「飲み方はロックで?」

「あ、えっと……」

 『ロック』とは、つまり隣の女性客が飲んでいるようなものだろうか。そうあたふたと先客を見ると、視線がかち合った。
 初老の女性は手にしていた煙草を灰皿に押しつけ、話しかけてきた。

「あんた、ウイスキーはあまり飲まないのかい?」

「え? あ、はい。今日が初めてです」

 正直に言うと、女性はいたずらっ子のように口の端をつり上げた。

「いいねぇ。若者にウイスキー好きが増えてくれたら嬉しいもんだ。ちょいと、真輝」

「はい」

 『真輝』というのが、美人バーテンダーの名前らしい。どんな漢字を書くのだろうと呑気に考えていると、先客は棚を指さした。

「17年を彼に。私からのおごりだ。本当は21年どころじゃなく、25年と言いたいところだけどね」

「えっ、それは申し訳ないです!」

 見ず知らずの人からの突然の好意に驚いていると、彼女がくくっと笑う。

「いや、あんた面白そうだからいいよ。それに、せっかくなんだから、最初に美味しいやつを飲んでおくといい」

「面白いって、俺が? そうですか?」

 きょとんとしていると、先客はバーテンダーに「飲み方はハーフロックでいいと思う。チェイサーもつけてやんな」とだけ言い、尊に向かって微笑んだ。

「あたしはウイスキー好きには優しいんだ。あんたがウイスキー好きになってくれれば、嬉しいね。いいバー仲間が増えるじゃないか」

「あ、じゃ遠慮なくいただきます。すみません」

 恐縮して頭を下げると、笑い皺を浮かべて笑われた。

「初々しいね。うちの孫みたいだよ」

 そう言いながら唇をウイスキーで湿らせる姿は、しっくり板についていてかっこよく見えた。
 真輝はロックグラスを取り出すと、氷を一つそっと入れた。家庭の冷凍庫で作る氷とは違い、女性の握り拳くらいの大きさはある。そして白い部分が一切なく、透明だった。
 次いで、メジャーカップで量った琥珀色のウイスキーが注がれ、そこに少し水を足している。
 ハーフロックとはロックに水を足す飲み方らしい。アルコールに弱い自分でも飲めそうだとほっと胸を撫で下ろしていると、コースターと共にグラスが差し出された。

「あの、いただきます」

 尊は手に取ったグラスを先客の女性に向けた。彼女は右眉を上げ、グラスを寄せる。

「いいウイスキー仲間になってくれるといいがね。あたしゃ、三木凛々子。お凛さんってみんな呼ぶよ」

「松中尊です。よろしくお願いします」

 乾杯が終わると、恐る恐る一口舐めるように飲んでみた。

「おおう」

 アルコールは強いが、それでも癖になりそうなほど美味かった。水が入っているためか口当たりは強すぎることもなく、鼻の奥に立ちこめる香りがとても気持ちよかった。

「美味いですね。一杯でノックダウンされそうだけど」

 お凜さんがにこやかな顔で尊を見ていた。

「いい酒だろ? ダウンしたらタクシーを呼んでやるから、安心しな」

「はい」

 苦笑しながらも、素直に頷く。

「ウイスキーがこんなに美味いものだなんて驚きです。俺がもっと酒が強かったら、沢山飲めたんでしょうけどね」

 情けない顔をしている尊に、お凜さんは苦笑した。

「それは関係ないさ。どんなに強くたって、ただがぶ飲みするような奴はいつまでたってもウイスキーのよさに気づきはしない。弱くたって、いい酒との付き合い方を知れば楽しめるもんだ」

 彼女はそう言って、自分のグラスに残っていたウイスキーを飲み干した。グラスを置くと、真輝が目の前にあったボトルから酒をつぎ足す。何も言わずとも注がれる酒を見つめるお凜さんの目は優しく細められていた。
 不思議な人だと、尊は酔いでぼんやりする頭で考えていた。一見すると気が強そうで怖いものの、話してみると『すがっていいよ』と言われているような包容力を感じる。