近寄れば近寄るほど、美人バーテンダーはあの日と変わっていないことがわかった。強いて言えば、あの頃も痩せていたが、更にほっそりしたように思えた。
 相変わらず綺麗な横顔がぼんやりと空を見上げていたが、何かを思い出したのか、突然我にかえったようだ。彼女は手にしていた立て看板をバーへと続く階段の入り口に置き、足早に建物に消えていった。
 尊はまるで尾行する刑事のようにそっと近寄ると、その立て看板を凝視した。そこには力強い達筆で、『琥珀亭の今夜のおすすめ』という見出しがある。

「マンハッタン?」

 見出しの下にある文字を、思わず口に出して読んだ。なんの酒なのか、彼にはさっぱり見当もつかない。バーだけにやはりカクテルなのかもしれないと、彼は階段を見上げる。狭くて急な階段は二階に続いていた。
 尊は、思い切って階段に足をかけた。一歩一歩と上がるたび、何故か胸が高鳴った。緊張するような、それでいてわくわくするような感覚に、さっきまでのむしゃくしゃした気分が嘘のように消し飛んでいる。
 普段なら、物怖じして行き慣れた居酒屋へ向かっただろう。だが、このとき彼を動かしたのは好奇心だった。その興味がマンハッタンか、それとも女性バーテンダーに向けたものなのかは、彼自身わからなかったが。

 階段を上がると、細い廊下に突き当たった。その一番奥に橙色のライトで照らされた真鍮の看板があり、『Bar琥珀亭』の文字が刻まれていた。賢太郎とここに来てから四年はたっているが、何も変わらない。
 重厚なドアの取っ手に手をかけたものの、躊躇してしまった。
 ここに来て何を飲めばいいのだろう。賢太郎と違い、ウイスキーもカクテルもわからないのに。そもそも、どうしてここに入ろうとしてるのかもわからないのに。
 そう考えたが、何故か看板を見るだけであんなに荒んでいた気持ちが凪いでいたことに気づき、ぐっとドアノブを下げた。
 あの女性バーテンダーと話したら、もっと落ち着けるような気がする。そんな期待を胸に、彼は扉を押した。

「いらっしゃいませ」

 真っ先に見えたのはずらりと酒が並ぶカウンターにたたずむバーテンダーだ。
 記憶にある通り、彼女はやはり綺麗だった。白い肌に、すっとした鼻と大きな目が印象的で、賢太郎と来たあの日と同じく、長い髪を結い上げていた。ほっそりした首をしていて、バーテンダーの服がよく似合っている。

「どうぞ、こちらへ」

 それを聞いて、『そうだ、彼女はこんな声をしていた』などと懐かしくさえ思う。小さく頭を下げ、手で示されたカウンターの席に歩み寄った。
 カウンターには一人の先客がいた。
 一番端の席に、一輪挿しの薔薇を見つめながら、ゆっくりとグラスを傾ける女性が座っていた。初老といってもいい年齢だが、パーマをかけた髪と風合いのいいジーンズが彼女を若々しく見せていた。手元には煙草と灰皿があり、紫煙が弧を描いて昇っていく。
 カウンターはL字型になっていて、尊が座った席からは先客の顔が斜めからよく見えた。意思の強そうな目と眉をしている。恐らく、若い頃は相当な美人だったと思われるが、その顔には皺がいくらか見えるようだ。
 尊の視線に気付いたのか、彼女は目を向けたが、すぐに何食わぬ顔でまた右手のウイスキーを口に運ぶ。
 女性バーテンダーがにこやかに尊に話しかけた。

「お久しぶりですね」

「えっ、覚えてるんですか?」

 四年も前の、しかもたった一度きりの客を覚えていることに驚くと、彼女はおしぼりを差し出しながら微笑んでいた。

「えぇ。小森様といらっしゃいましたよね」

 『小森』というのは、賢太郎の苗字だった。
 おしぼりを受け取りながら、尊の胸が高鳴った。もしかしたら彼女は先輩に気があるのか、それとも自分に好意を持っていたのだろうか……などとどぎまぎする。
 だが、女性バーテンダーは物静かに微笑んだ。

「一度お会いした方の顔は忘れないんです。職業病ですね」

 思わず『なんだ』と呟きそうになって、慌てて口元を引きしめる。
 つい、がっかりして丸まった背中に、女性バーテンダーが目を細めた。
 もしかして、顔に出たかもしれないと思うと恥ずかしいやら、その笑顔に照れるやらで顔が赤くなるのが自分でもわかった。

「何になさいますか?」

「えっと、あの……」

 おどおどと視線を泳がせていると、咄嗟に立て看板を思い出した。

「あの、マ......マンハッタンを」

「かしこまりました」

 自分がバーでカクテルを注文していることに驚きながら、店内をそわそわと見回す。
 琥珀亭は何も変わっていなかった。壁も床もカウンターも椅子も全部木目だ。太い梁が向きだしになっていて、吹き抜けの天井近くでシーリングファンファンが回っている。壁一面にパブミラーがかけられ、棚にはミニボトルが置かれていた。
 バーテンダーはカクテルグラスを置き、幾つかのボトルを取り出した。氷をガラスの容器に素早く入れる。その手つきは素早いけれど綺麗だった。そこに今度は酒を入れて、バー・スプーンで器用に混ぜている。
 尊はうっすら口を開けたまま、それをただただ見ていた。
 彼は素人だが、女性バーテンダーの手つきに迷いがなく、プロ意識の高い仕事をしていることは、なんとなく察していた。彼女の愛らしい目は今、真剣な光をまとい、いかに本気で仕事に向き合っているか語っていた。だがその口元には静かな笑みが浮かび、余裕すら感じるのだ。
 かっこいい。尊は素直にそう感じた。それが彼にとって、生まれて初めて誰かに心を奪われた瞬間だった。彼女は美人で、それでいて凛々しかった。

「お待たせいたしました」

 やがてコースターの上に出されたのは、夕焼けのような橙色を帯びた赤いカクテルだった。ピンにささった真っ赤なチェリーが沈められ、まるでそれが夕陽に見える。

「綺麗だなぁ」

 思わずぽろりと漏れた賛辞に、彼女は嬉しそうに言った。

「マンハッタンはカクテルの女王ですから」

 『あなたのほうが綺麗です』とも思ったが、ぐっと口に出すのを堪えた。おそらく、彼女は自分を褒められるより、カクテルを褒められたほうが嬉しいのだろう。そう思えるほど、彼女のバーテンダー姿は誇りに満ちていた。
 こぼれないようにそっとグラスを持ち、恐る恐る一口含む。

「うわぁ」

 思わず『きつい』と言いそうになって、口をつぐんだ。アルコール度数がどれくらいあるのか想像もつかないが、強烈だった。だが、不思議なことに美味いのだ。

「あの、すごく美味しいです、本当に」

 しどろもどろで言うと、彼女は笑って、すぐに水を出してくれた。

「もしかして、酒に弱いのまで覚えてました?」

 その上、アルコールの強さに驚いたことが顔に出たのだろうと、思わず苦笑する。

「えぇ。お仕事が決まったことも。もう慣れましたか?」

 すっと笑顔が消えて、身体の芯を冷えたものが走った。尊の表情が一変したことにバーテンダーは戸惑ったのか、目を丸くした。

「どうしたんですか?」

「実は、あの仕事の話、なくなっちゃって」

 惨めさに、自分の手元から視線を上げることが出来なかった。こんな自分を彼女はどんな目で見ているんだろう。そう思うと、怖かった。
 だが、彼にかけられたのは、「まぁ、そうだったんですか」という短い返事だけだった。
 尊はゆっくり顔を上げる。彼女は聞き流すのでもなく、淡々と話を受け止めた様子で、何度も頷いていた。
 それを見た途端、ふっとどこかが楽になった。
 この話をすると、大抵の友人や知人がまるで自分のことのように、やきもきしたり、落胆する。もちろん、心配してくれるのはありがたいことだった。だが、彼らは必ずといっていいほど、自分たちの価値観を物差しにして、哀れみの目を向けてくる。あの『可哀相に。これからどうするの。実家暮らしのバイト生活だなんて、甲斐性なしになっちゃうよ』と言葉なしに語る目は、彼を一層惨めにさせる。
 だが。このバーテンダーはただただ、話をすとんと受け止めてくれただけだった。その言葉には哀れみが一切ない。そのことが、驚くほど尊の胸につかえていたものを落としてくれたように感じた。まるで、水を取り替えてもらった金魚が酸欠から解放されたような生き返った心地だ。
 今まで、周囲の反応が嫌で俯くばかりだったが、この人の前では、ありのままでいいんだと咄嗟に感じて安堵していた。
 それきり黙りこくってしまった尊が水と交互にマンハッタンを口にしていると、彼女はすぐにお通しを出してくれた。

「はい、どうぞ」

 白いシンプルなプレートにカナッペや生ハム、そして十字に綺麗な切れ目を入れられた葡萄が並べられている。葡萄をそのまま出すだけではないことに感心しながら、尊は手を伸ばした。確かに切れ目が入っているほうが皮がするりと剥けやすい。
 彼女は向こう側の先客となにやら言葉を交わしてから、尊の傍に寄ってきた。
 何か話さなきゃ。そう焦ったせいか、尊の声がうわずる。

「あの、マンハッタンって綺麗なカクテルなんですね。俺、今日、初めて飲みました」

 彼女は静かに相槌を打った。

「お気に召していただけて嬉しいです」

 そして、ふと、こんな言葉を続ける。

「今夜のお月様、見ました?」

「え? あぁ……」

 『あの気持ち悪い色の……』と、言おうとした彼より先に、彼女はこう言った。

「綺麗な色でしたね。まるでこのマンハッタンのチェリーみたいだなって思って、今夜のおすすめはこのカクテルにしたんです」

 無邪気に頬を緩めながら微笑む彼女を、尊は間抜け面でぽかんと口を開けて見つめた。
 面白いものだと、彼は思わず頬を緩めた。
 自分が『気持ち悪い』と思った月を、彼女はあのとき『綺麗だ』と思って見上げていたとは。
 同じ物を見ていても感じることは違う。当たり前のことかもしれないが、見方をちょっと変えれば、世界は美しくなるんだと言われたようだった。
 そして、それは『もっと肩の力を抜いていろんな角度から世界を見渡してごらん』というアドバイスに思えた。
 大学を卒業し、就職活動の末に正社員になって、結婚して、子どもを育てて……。そのレールから外れたり遅れたりすることに、危機感を持っていた自分に気づいた気がした。
 けれど、彼女を見ていると、ちょっと遅れても、誰に何を言われても、焦らなくていいんじゃないかという気持ちになれたのだった。
 彼女は意味もなくただただ「赤い月が綺麗だ」と言っただけだろう。だが、尊にはそれが違う意味を持って聞こえた。
 人と話すということが面白いと、彼は初めて思った。もし、琥珀亭にふらりと来て月の話をしなければ、この発見はなかったはずだと思うと、無性に嬉しいのだった。

 尊がマンハッタンを飲み干す頃には、相当酔いが回っていた。
 これ以上飲んだら、また前と同じことになる。そう考えた尊は、勘定を済ませると、席を立った。
 どこかに飲みに行って、『名残惜しい』と思うのは初めてだった。
 女性バーテンダーはカウンターの中から出て、店の外まで見送ってくれた。

「ありがとうございます」

 そう言って頭を下げる彼女に、尊が笑みを漏らす。

「いえ、こちらこそありがとうございます」

 なんだか、あなたのお陰で頑張れそうです。そんな思いをこめた言葉だと知らない彼女は頭を上げ、満面の笑みを見せてくれた。

「またお越しくださいね」

「えぇ、是非」

 尊はふらふらしてるのを悟られないように歩き出した。数分して振り返ると、もう彼女は店に戻っていた。
「ようし、明日も頑張るか」
 尊はぐっと拳を握りしめ、叫びたい気分をこらえながら家路についた。

 実家に着くと、服を着たままベッドになだれ込む。見慣れた天井を見つめ、酒臭い呼気を感じながらぼうっとしていた。
 いつもは飲み過ぎて吐いたり気持ち悪くなっていることが多いというのに、この日の酒は本当に気持ちよかった。ふわふわと宙を漂うような、余韻に浸れる飲み方を初めてしたと思うと、大人の階段を一歩昇ったような気さえした。
 しかし、飲み過ぎたことには変わらない。目を閉じると文字通り世界がぐらりと回る気がして、暗い部屋でじっと目を見開いていた。
 目の前に浮かぶのは、あの木の匂いがする店内と、静かに流れるジャズ。そして、彼女の静かな微笑み。
 まるで秘密基地を見つけたような気持ちになった尊は、それからしばらく眠りにつくことができなかった。