私たちのコンプレックス

「その名前と同じ女子が新入生として入学してきたと知ったときは、ぼくは興奮したよ。これで復讐が果たせるとね」

 復讐。その言葉はわたしの胸に突き刺さるように響いた。

「きみに近づいた理由がこれなんだよ。ぼくは長年、きみを許すことができなかった。あんな事故を起こした子供がいまもなんの不自由もなく生活していることがどうしても納得できなかった」

 わたしの頭は真っ白で、本当の意味での橘先輩の言葉が浸透していくのには時間がかかった。

「だから、ぼくはきみに告白をした。好きだといって近づいて、ある程度関係が深まったときに真実を伝えて、きみを絶望の底に叩き落とすためにね」

 だめだ。声が出ない。

「もちろん、わかっているよ。きみの両親も被害者だってことは。後ろから追突されたことで、ハンドル操作を誤ってしまった。本来であれば同情されるべきだということも。でも、ぼくの立場としてはそれで納得できるわけじゃない。ぼくはあの事故のせいで長年、苦しみ続けたんだ」

 苦しみ続けた?
 それ、どういうことだろう。
 突然、わたしの頭は冷静に回り始めた。

 わたしの頭にはひとつの疑問が浮かび上がっている。
 どうして橘先輩のお母さんはわたしのところにやって来たの、ということ。

 わたしはてっきり、子供を事故で亡くした母親の怒りだと思っていた。

 でも、橘先輩はこうして生きている。
 事故に遭ったとしても子供が無事だったのなら、それで納得して、探偵を雇うなんてことはしないはず。

 橘先輩だってそう。
 大きな事故なんだから、その記憶で苦しんでいてもおかしくはない。

 でも、復讐を考えるほど? 命が助かってもわたしを追い詰めないと気が済まないの?
「あ、あの、橘先輩があの事故に遭って、辛い思いをしたのはわかりました。でも、橘先輩は生きています。わたしをそこまで憎む理由はないはずです」

「確かに、あのバスには他にもたくさんの子供が乗っていた。そのなかのぼくだけがここまで恨みを抱くというのは不思議に感じるのかもしれない。でも、ぼくにとってあの事故は決して過去のものではないんだ。体に刻まれた事故の記憶が、いつまでも消えることはないからだ」

「……体に刻まれた事故の記憶?」

「きみも和久井から聞いただろう。ぼくは中学生のころ、悪魔と呼ばれていた。それがなぜかわかるかい?」

「いえ」

「さすがに、そこまでユマもしゃべらなかったんだ。なら、ぼくから直接教えてあげるよ。ぼくの体にはあの事故で負ったやけどの跡がいまも残っているんだ。そして、それが悪魔のような姿に見えるんだよ」

 やけどの跡が悪魔……。

「このやけどの跡は消えない、と医者の先生からはいわれたよ。ぼくはショックだったけど、小学生のときはまだよかった。あの事故の悲惨さを周りが知っていたから、ぼくを気遣う人のほうが圧倒的に多かった。
 でも、中学校にはいろいろなところから集まる生徒がいて、ぼくの過去に遠慮をする必要がなかった。やけどの跡をバカにされることが珍しくなくなった。彼らには悪意はなかったのかもしれないけど、ぼくはひどく傷ついた。そして気づけば、悪い連中とつるむようになっていたんだ」

 橘先輩の声には、苦々しさが混ざっていた。

「あの事故さえなければ、とぼくは何度も思った。このやけどは永遠に消えることはない。高校生になってまともな道に戻っても、その気持ちは変わらなかった。そんなときにきみと出会った。これは、なにかの運命に違いないとぼくは思った。ここで行動を起こさなければ一生後悔する、そんな焦りに突き動かされるようにして、ぼくはきみに告白をした」

 わたしが、橘先輩の人生を狂わせた。

 わたしが、動物園になんか行ったから、あの事故は発生して、橘先輩はやけどを負うことになった。
「ご、ごめんなさい」

 謝ってどうにかなる問題ではなかった。

 ただ、それ以外にわたしのできることなんてなかった。

 これまでの橘先輩の半生を思い浮かべると、わたしの胸は締め付けられるようだった。

 わたしのように事故の恐怖を忘れることができず、やけどの跡で周囲からからかわれる。過去から逃れて続けたきたわたしとは正反対の人生だった。

 橘先輩は誰とも付き合ったことがない。それもきっと、やけどの跡が残っているからだ。そのコンプレックスが恋愛に向かうことを臆病にさせている。

「本当に、ごめんなさい。わたしのせい、ですよね。わたしがあの日、外出さえしなければ橘先輩がそんな目にあうこともなかった」

 涙が溢れだしても、視界はほとんど変わらなかった。暗闇に包まれていた。

 橘先輩がいまどんな目でわたしを見ているのかもわからなかった。それがとても悔しかった。

「許せませんよね、わたしのことなんか。当然だと思います。橘先輩の苦しみを考えれば、謝ってすむ問題でないことはわかっています。でも、でも、わたしには他にできることがないんです」

 告白も、購買部や図書室や通学路、そして街に行ったときの出来事もすべてが嘘だった。

 橘先輩はずっと怒りをこらえて、わたしに復讐するタイミングを見計らっていた。わたしだけがなにも知らずに浮かれていた。

「う、また……」

 橘先輩のうめくような声を聞いて、わたしの涙は唐突に止まった。

「橘先輩? 大丈夫ですか?」

 わたしが恐る恐る訊ねたとき、屋上のドアが開いた。

「おいおい、橘くん、こんなところで女の子泣かしちゃダメじゃないか」

 そんな男性の声とともに、靴音がこちらへと近づいてくる。

「……来栖?」

 という橘先輩の声。知り合いの男子らしい。
「放課後の屋上といったら、告白が定番だよね。この構図を見るときみが振ったという感じだよね。彼女、嬉し涙流してるわけではないもんね」

「おまえ、盗み聞きしてたのか」

「いや、気分転換のつもりで屋上に来たら、女の子が泣いている声が聞こえたから慌てて駆けつけたんだけど、え、さっきの当たってたの?」

「……」

「無視?なんか気まずそうな顔をしてるけど、橘くんってモテるんじゃないの?なら、女子の一人や二人、平気で振れるでしょ」

 その人がわたしに近づいてくる。ふわっと甘い香りが漂ってくる。香水?

「ほら、もう泣いちゃだめだよ。かわいい顔が台無しだ」

 ハンカチの感触を顔に感じる。来栖と呼ばれた人が涙を拭いてくれてるみたいだった。

 来栖?そういえばどこかで聞いた名前。

「おや、橘くん、もう帰っちゃうの?」

「もう話は終わったよ」

「正直なところ、どんな事情があったのか、おれには全然わかんないんだけどさ、一応、謝ったほうがいいんじゃないの? 女子を泣かせたわけだから」

「おまえには関係のないことだろ」

「泣いてる女の子を見捨てておくわけにもいかないでしょうが」

 橘先輩はなにも答えず、静かにドアの開放音だけが響いた。

「ほんとひどい男だよね。泣いてる女子を放置するなんて」

「いいんです。悪いのはわたしですから」

「なにがあったのか、聞いてもいいのかな?」

 わたしは唇を噛み締めた。
 一人で抱えるには重すぎて、でも、誰かに簡単には話すことなんてできない。

「もちろん無理には聞かないよ。ただ、一つだけ教えてもらいたいことがあるんだけど」

「なんですか?」

「さっきの橘くんとは付き合ってるの?」

「……いえ」

「だよね。橘くんの顔、やけに険しかったんだよね。もしかしたらこれは色恋沙汰じゃないかもって、心の隅で思ったんだよね」
 その言葉に続いて、目の前が真っ暗になった。来栖という人がわたしの目の前に顔を近づけているのがわかった。

「えっと、もしかして目が見えないの?」

「はい」

「そっか。まあ、そういうこともあるよね」

 目が見えなくなった理由なんかを、この人は詳しく聞いてくることはなかった。

 コンプレックスプランとはそういうもの。周りが自然とその状況を受け入れていく。

「名前とか教えてくれる? あ、ちなみにおれは来栖涼。きみは?」

「篠崎遥です」

 そのとき、わたしの脳裏に高木くんの言葉が浮かんだ。

 この高校には遊び人の先輩がいて、その人が来栖だったような。結構珍しい名字だから、この人で間違いないと思うけど。

「遥ちゃんね。このあとは予定とかあるの?」

「え、予定ですか?」

「うん。もっとお話ししたいなって思ったんだけれど」

「すいません。待ち合わせがあるので」

「そっか。残念だな」

 さっそく誘われてしまった。
 高木くんのいってたことは事実みたい。

 危ない人には感じられなかったけれど、わたしは人見知りだからなにも知らない相手と長く話すのは難しい。

 とりあえずここは嘘をついて、わたしはそそくさとその場をあとにした。
「あ、こっちこっち」

 来栖先輩と別れて校舎を出ると、倉田先輩に呼び止められた。わたしのことを待っていてくれたらしかった。

「話、どうだった? 上手くいった?」

「……」

「さっきさ、慎のやつが学校から出てきたんだけど、なんか妙に複雑な顔をしてたんだよね。わたしが声をかけてもほとんど無視されてさ、なにがあったのかわかんないから、あんたのことを待ってたんだけど」

 倉田先輩にはおおまかなことは伝えていた。橘先輩のことを理解するために、わたしの過去を話すということを。

 屋上でのやりとりも伝えるべきかもしれない。
 自分一人では受け止めきれないし、橘先輩の過去を知っているであろう倉田先輩なら、ありのままに言っても大丈夫かもしれない。

「聞いてもらいたいことがあるんですけど」

「なに?あんたもだいふ深刻そうな顔をしてるけど。ま、ここまで来たんなら、最後まで付き合ってあげるわよ」

 わたしはさきほどの会話を、包み隠さずに倉田先輩へと伝えた。

「……復讐?」

「そういってました」

「え、付き合うことが復讐って、いったいどういうこと?」

「わたしを幸せの絶頂から叩き落とすことで、これまでの怒りを発散するつもりだったんです」

「いやいや、それはおかしいよ。あいつはそういうやつじゃない。なんていうか、もっと単純な男だよ。長い付き合いだからわたしにはわかる。少なくとも、そんな陰湿なことをするやつじゃないってことくらいは」

「でも……」

「あんたの言うことが嘘だとは思わないよ。その表情を見ればわかる。ただ、慎の言葉を額面通りには受け止められないよね。そんなことを言ってたとしても、わたしにはそれが本音だとはとても思えない。なにかさ、特別な理由があったんじゃないかな?」

「特別な理由ってなんですか?」

「それはわかんないけど、憎しみを持った相手に、例え罠だったとしても告白なんてするかなって疑問にも思うのよ。そういう相手って本来は顔も見たくないわけでしょ。でも、あいつはデートまでしてるわけで」
 橘先輩の怒りは本物だった。顔をはっきりと見なくてもわかる。
 長年の恨みを晴らすためには、それだけの計画が必要だったのかもしれない。

 ただ、デートのときのことを冷静に思い返してみると、二人で過ごした時間のすべてが嘘だったようには思えない。
 あのときの橘先輩の優しさも否定することはできない。

「そんなに深刻に悩まなくてもいいんじゃないの?時間が経てばまた元に戻るかもよ」

「そうは思えませんけど」

「わたしからもいっとくよ。いつまでも過去にこだわっていても仕方がないって」

 倉田先輩の親切は、わたしの心を少し軽くしてくれた。
 このまま一人で家に帰っていたら、もっと精神的なダメージを受けていたのかもしれない。

「それにしても、あんたがあの事故の関係者だったとはね。そこから慎があんたに興味をもったことは間違いなさそうだね」

「倉田先輩もあの事故のことは知ってるんですか?」

「直接は知らないよ。わたしが帰国したのはあの事故の後だったから。引っ越し先の近くでこういう事故があったというのは両親から聞いてはいたけどね」

 倉田先輩はどう思ったんだろう。
 橘先輩のやけどの話を聞かされたとき、どう対応したんだろう。

「慎がわたしに親切にしてくれたのも、そういう理由だったわけよ。言葉のコンプレックスに悩むわたしを、やけどの跡がある慎は見捨てておくことができなかったんだよ」

 橘先輩が優しい人だというのはわかった。
 でも、だからといってわたしに対する憎しみまでもが消えるわけじゃない。

「橘先輩がやけどのことで悩んでいたのは事実なんですよね」

「そうだね。慎はもともと大人しいタイプだったから、やっかいな連中にからまれても反論できなかったらしいわね」
 中学生時代、橘先輩はクラスメートから言葉の暴力を受ける日が続いていて、そこから逃げ出すために自分に好意を抱いていた同級生の女子に頼ったという。

 その女子のお兄さんがいわゆる近所でも有名な不良だった。

 やがて橘先輩をからかう同級生はいなくなったけど、悪い噂も同時に広まってしまって、橘先輩の立場はどんどん不安定になっていったという。

「わたしと慎は教室が離れていたし、中学に入ってからは自分を変えようと思って部活を始めたから慎の変化には気づかなくて、やけに学校を休むなとか最初は軽く考えていた。柄の悪い連中と付き合ってると知ったときはすごいショックで、自分のことを責めたことをよく覚えているよ」

 自分を助けてくれたのに、慎が辛いときにはなにもしてやれなかった、倉田先輩はそう呟くように言った。

「そんなに、 いじめはひどかったんですか?」

「そうだと思う。ただ、いじめだけで非行に走ったとは、実際のところいえないのかもしれない。家族の問題も関わっていたのかもしれないからね」

「家族の問題、ですか」

「そんなに詳しくは聞いたことないんだけど、あいつの母親、あんまり慎のことを愛していないらしいからさ」

「そうなんですか?」

「昔は溺愛してたらしいけど、やけどができてからはそのことばっかいわれるようになったらしいね。あいつには弟もいるし、そっちに愛情が流れたのかもしれない」

 信じられない。そういうことがあったからこそ、親の愛情が必要になるのに。

「ま、高校に入る頃までにはなんとか、軌道修正してたけどね。わたしを含めた友達が何度も話し合いを重ねたから」

「それでも、すべてが納得できたわけではないんですよね。わたしに対する復讐心は確実に残っていた」

「またそうやって自分を責める。良くないよ、そういうの。あんたがいくら罪悪感を感じても、慎との関係は進まないんだからね」

 倉田先輩はわかってない。

 もう、わたしと橘先輩との関係はなにもないということを。
「もしかして、もう慎とは終わったとか思ってる?」

 わたしの表情を察して、倉田先輩が言った。

「それはわたしとしても困るな。だって、わたしも知りたいから。慎がなぜあんたにそんなことを言ったのかってことを。わたしが聞いてもどうせ教えてはくれないだろうし」

「わたしには、橘先輩に関わるような権利はないんです」

「あんたの気持ちはどうなの?」

「え、わたしの気持ち、ですか」

「そう。いまのあんたは慎のことをどう思ってるのよ」

 いまの気持ち。
 全然わからない。
 まだショックが尾を引いていて、自分に向き合えるにはまだ時間がかかりそうだった。

「あんたは自分が過去を直視することで、あいつの深い部分まで知ろうとした。それってかなりの愛情だよね。浮わついた気持ちじゃできない。なら、簡単に嫌いにもなれないはずだよね」

「橘先輩には申し訳ない気持ちが一杯で……」

「それはあんたが自分に対して思ってるやつ。わたしが聞きたいのは慎のこと。あいつへの感情。このまま別れても平気なの?」

 そんなの考える余裕なんてない。

「ごめん。いまのあんたにはそこまで求めるのは酷だったわね。慎の言葉、消化しきれてないもんね」

「はい」

「まあ、落ち着いて考えてみてよ。わたしでよかったらこれからも相談に乗るから。それがきっと、慎のためでもあると思ってるし」

「ありがとうございます」

「同級生の友達とかにも話したほうがいいよ。あんたにも友達の一人くらいいるでしょ」

 同級生の友達。そんなのいない。