私たちのコンプレックス

「だからおれのこと、わかったんだ」

「自分のやったことは認めるんだな」

「どうかな。おれって記憶力悪いんだよね」

 橘先輩が距離を詰め、来栖先輩のシャツをつかんだ。

「おまえには罪悪感というものがないのか。人ひとり死んでるんだぞ」

「悲しいとでもいえばいいの? それで納得してくれるわけ?それならいってもいいけど」

「ふざけるなよ。手紙を持って警察に行ったら自分がどうなるか、理解してないのか」

「そんなものが証拠になるの?文字だけで警察が動くとでも思ってるの?他にも事件はいくらでもある。そんなに警察ってのは暇じゃないんだよね」

 来栖先輩は橘先輩の腕を振り払い、乱れたシャツの襟部分を元に戻した。

「それにさ、うちの父さんは外科医なんだよね。結構名の知れた。誰でも病気にはなるから、警察や政治家との繋がりだってあるんだよ。この街にとっても父さんのような有能な医者がいなくなったら困るし、そう易々とその息子を逮捕するなんてできないんだよ」

「人の命を奪っておいて、よくそんなことがいえるな」

「だから、自殺なんだよね。おれが殺したみたいな言い方、やめてくれる?」

 来栖先輩は橘先輩の手を見下ろして、少し後ずさった。

「おっと、暴力はだめだよ、橘くん。そんなことをしたら、捕まるのはきみのほうなんだからね」

「知るか、そんなこと」

 橘先輩は素早い動作で前に進み、再び来栖先輩の服をつかんだ。

「おまえが警察に逃げ込むのなら、ちょうどいい。こっちも洗いざらい話してやるよ」

「ちょ、ちょっと、待った。きみがよくても、弟くんは困るんじゃないかな?」

 弟?そういえば、橘先輩は弟がいると以前にいってたけど。

「きみの弟は名門校でサッカーをやってるんだろ。お兄さんが暴力事件なんかを起こしたら、彼は困るんじゃないかな」

 いまにも殴りそうだった橘先輩の動きが止まった。

「そうだろ。弟くんの通っている高校におれの知り合いがいるんだ。なかなか有望な選手だっていうじゃないか。きみのせいでプロ入りできなかったら、大変なことになるよね」
「おまえ、知らないのか」

「え?」

「そんなこと、あいつは中学時代、何度も経験してるんだよ!」

 橘先輩の拳が来栖先輩の頬にめり込んだ。殴られた勢いで来栖先輩の体は埃のように飛んで、地面に転がるようにして倒れた。

「おれはな、あいつには何度も迷惑をかけてるんだよ。いまさら気にすると思うなよ」

 来栖先輩は地面に腰を降ろしたまま、虚ろな目でどこかを見ていた。
 やがて、その口元に歪んだ笑みが刻まれた。

「ふ、ふふ」

 立ち上がりながら、ズボンのポケットに手を伸ばす。そこから取り出したのは小型のナイフだった。

「前にヤバそうなやつにからまれたからさ、自分の身を守るために持ってたんだけど」

「……来栖」

「これって正当防衛ってやつだよね。橘くんから殴ってきたんだもんね。おれには身を守る権利がある。それにさ、前から思ってたんだよ。将来、医者になるためには、人の血くらい見ておかないといけないかなって」

 来栖先輩は正気を失っていた。
 橘先輩を見る目は人のそれとはだいぶ違っていた。

「やめるんだ、来栖。もうこれ以上、犯罪を重ねるんじゃない」

「はあ?なにいってんの?そっちだろ、ぼくを殺そうとしたのはそっちじゃないか!」

 ナイフを両手に握りしめて、突進する来栖先輩。

 橘先輩はとっさに逃げようとしたけど、あまりにも突然の行動だったので間に合わなかった。

 来栖先輩を正面から抱き止める形で、橘先輩の動きが止まった。

 やがて、来栖先輩が体を離した。その手に持っているナイフの先端は赤く染まっていた。

「し、知らない。こんなのおれ、知らないんだよ」
 ナイフを投げ捨て、一目散にその場を逃げ出していった。

「た、橘先輩!」

 その場に崩れるようにして、橘先輩は倒れた。地面に手をついて、四つん這いのまま、荒い呼吸を繰り返している。

「大丈夫ですか!血が出てますよ」

 橘先輩はお腹の辺りを手でおさえていた。指の間を抜けるようにして血が滴っていた。

 救急車を呼ばないといけない。
 でも、寝起きですぐに家を出たわたしはスマホを持っていなかった。

「すいません、スマホ、借りますね」

 わたしが膨らんだズボンのポケットに手を伸ばそうとすると、橘先輩は振り払うようにした。

「救急車なんて、呼ばなくていい」

 そう喘ぐようにいって、橘先輩は体を動かした。道路の端のほうに向かい、近くの塀に寄りかかるようにした。

「な、なにいってるんですか。刃物で刺されたんですよ。それで血が出てるんですよ!」

「これくらい、平気だよ。中学のときなんかは、殴り合いの喧嘩なんかもよくしたから」

「喧嘩とは違います。これは犯罪ですよ!」

「篠崎さんは大袈裟だよ。絆創膏でも張っておけば、これくらいはすぐに治るんだよ」

 力なく笑う橘先輩。
 顔色は明らかに悪い。

 早く救急車を呼ばないと取り返しのつかないことになる。でも、無理矢理スマホを奪うわけにもいかない。
 そんなことで無駄な体力を使わせるわけにもいかない。

「わかりました。ちょっと待っていてください。近くの家で電話を借りてきますから」

「いいって、いってる」

 立ち上がろうとするわたしの腕をつかんで、橘先輩はいった。

「少し休めば、これくらいの血は止まるよ。そんな焦らなくていい」

 わからない。橘先輩がなにを考えているのか。出血量は確かにそれほどじゃない。

 赤い染みはそれほど広がっていない。だからいまはもう、血は止まっているのかも。

 それでも、楽観視できる状態では全然ない。バイ菌が体の中に入ってたら、大きな病気に繋がる可能性だってある。

 橘先輩はさっきからずっとお腹をおさえている。

 その手の位置を見て、わたしは少しおかしいなと感じた。ほんのわずかに、傷口からずれているように見えたから。
 普通だったら傷口のところに手のひらを当てるはず。
 でも服が切れているところが、わたしには確認できる。服が切られたところというのは当然、ナイフが入ったところ。つまり傷口になる。

 そこが見えてる?
 橘先輩は傷口をおさえてはいない?
 じゃあ、いったいなにを。

 そこまで考えて、わたしはハッとした。

「……橘先輩、もしかしてそこに、やけどの跡があるんじゃないですか」

 橘先輩は無言だった。わざとらしいくらいに反応を示さなかった。

「やけどの跡を見られるのが嫌なんですね。だから救急車を呼びたくないんですね」

 橘先輩はわたしなんかは想像できないくらいに苦悩してきたはず。
 中学生のころはやけどの跡をバカにされて、一時は不良の道へと走ったほど。

 わたしにはすべての責任がある。
 だからといって、自分を責めるだけで解決する問題じゃない。

 橘先輩のためにできること、それがなにかを真剣に考えないといけない。

「……わかりました。とりあえず、救急車を呼ぶことはやめにします。その代わり、わたしにお腹を見せてください」

 橘先輩は不可解そうな表情でわたしを見た。
 まぶたがだんだんと落ちてきて、辛そうに見えた。傷は思った以上に深いのかもしれない。お腹をおさえていた手も下の方へと移動していた。

「怖いですか?昔の同級生みたいな反応をされることが。でもですね、橘先輩、わたしは違います。そういう人たちとは全く違うんです。どこが違うかというと、あの事故の当事者だからです」

「……」

「橘先輩をからかってきた人は、みんな関係のない人たちですよね。わたしはそうじゃない。あの事故を経験しています。だから決して適当な気持ちで言ってるわけではないんです。それに梨子ちゃんの手紙を見るとき、先輩は言いましたよね。苦しみも二人で分かち合えば怖くないって。今度はわたしです。橘先輩が背負ってきたもの、わたしも背負います。だからわたしのこと、信じてください」
 そういい終えたころには、橘先輩の腕はだらりと地面に下がっていた。意識はまだあって、かすかな呼吸が続いている。
 わたしは腕を伸ばした。シャツの裾をつかみ、傷口には触れないようにゆっくりと上げていく。

 露になったお腹には、確かに肌の色とは違うシミがあった。
 ナイフでついた傷口下の部分に、鳥が羽を広げたような形で広がっていた。

 色は薄い赤色で、大きさは手のひらくらい。
 やけどという言葉からただれたものを想像していたけど、それほどひどくはなくて、むしろ。

「キレイですね」

 そんな場違いな発言をしたことを、わたしはすぐに後悔した。

「ごめんなさい。変なことをいって」

「……あのときも、そういってくれたよね」

 橘先輩はうっすらと目を開けて、絞り出すような声を出した。

「え?」

「病院にいたとき。きみは覚えていないようだけど、あの事故のあと、ぼくたちは同じ病院に運ばれたんだ」

「そうだったんですか」

 同じ場所での事故なら、それも当然かもしれない。

「ぼくは病院で絶望に包まれていた。事故のショックはもちろんだけど、ぼくのやけどの跡を確認したとき、母親が顔をしかめたのをの見て、とても心が傷ついたからだ。それ以来ぼくはなるべく病室を空にするようになった。母親になるべく会いたくなかったからだ」

 そんな橘先輩がよく足を運んだのが、病院内にある主に児童向けに整備された図書室だったという。

「ぼくはそこできみと出会ったんだ。声をかけた来たのはきみの方だった。その当時のきみは両親が亡くなったことはまだ知らされていなかったようだけど、記憶はまだあったから普通に会話をすることもできたんだ」

 記憶があった?
 そういえばおじさんとおばさんもそんなことを言っていた。
 あれは事実だったんだ。でも、わたしには病院で橘先輩と会ったなんて記憶、全くない。
「きみは比較的、元気だった。頭を打った程度で、とくに怪我なんかはしていなかった。事故についても覚えていた。両親とはしばらくしたら会える、そんなふうに教えられていたみたいだから、とくに落ち込んでもいないようだった」

「でも」

「篠崎さん、きみが記憶を失ったのはぼくの母親のせいなんだ」

 橘先輩のお母さんはわたしを憎んでいた。
 だから、病院の図書室で息子と遊んでいるのがバスにぶつかった車を運転していた人の娘だとわかったとき、激怒した。幼いわたしに詰め寄り、きつい言葉で責任を追求した。

 両親がすでに亡くなっていることもそのときに告げたという。
 わたしの記憶がなくなったのは、その出来事がきっかけだったと、橘先輩は言った。

「それ以降ぼくはきみと会うことはなかったけど、それでもぼくはきみのことが忘れることができなかった。会話を積み重ねるうちに、自然な形で、ぼくはやけどの跡をきみに見せることになった。そのとき、きみはいまと同じようにキレイだよ、そう言ってくれたんだ」

 橘先輩の口元がかすかに緩んだ。

「あのときの言葉がなければ、ぼくは絶望から抜け出すことはできなかったかもしれない。自宅に帰ったあとも、母親はぼくと距離を置き、必要以上に弟を可愛がるようになった。完璧主義者的なところがあったから、ぼくの体には不満があったのかもしれないけど、そんなときはいつもきみとのやりとりを思い出していたんだ」

 橘先輩はわたしに感謝をしている?
 憎んでいるんじゃなくて?

「きみがぼくと同じ高校に入学していると知ったとき、ぼくは運命を感じた。あの日の感謝を伝えたくて、またきみと同じようにいろんな話がしたくて、それで告白をしたんだ」

「でもそれなら、あのときのことはどうなるんですか?二度目の屋上で、橘先輩、言いましたよね。わたしのことを恨んでいるって。あれはどういうことなんですか?」

「それはぼくも不思議だった。本当はあんなことをいうつもりじゃなかったんだけど」
 うっ、と橘先輩が顔を歪めた。
 そうだ、こんな長話をしている暇なんてないんだった。

 わたしは橘先輩のポケットに再び手を伸ばした。今度は遮られることはなかった。

 救急車への電話を終えると、橘先輩は「そうか。そういうことだったのか」と呟くように言った。

「わかったよ。ぼくがあんなことを言った理由。それはきっと、篠崎さんのコンプレックスプランが影響してたんだ」

 わたしはコンプレックスプランで視力を一時的に失った。その結果、橘先輩にとってはわたしの失明は元々という前提が生まれてしまった。

 そうなると、あのとき、病院で起こったこともなくなってしまう。わたしの目が見えなければ、橘先輩のやけどの跡を確認することはできなくなるから。

「ぼくのなかにはもうひとりの自分がいた。あの事故さえなければ、こんな辛い人生を送ることもなかったという憎しみに満ちた自分が。あの車さえバスに突っ込んでこなければ、もっと幸せな人生を遅れたはずだという悔しさを抱えたままの自分が。それがふとしたきっかけで目覚めてしまったんだと思う」

 救急車のサイレンが耳に届く。
 早く来て、とわたしは心のなかで何度も呟く。

「ぼくは弱い人間だ。例えコンプレックスプランが邪魔をしたとしても、篠崎さん相手にあんなこと、口が裂けても言ってはいけなかった。ほんと、情けないよ」

「そんなことありませんよ。人はいろいろな側面があるから意味があるんです。橘先輩のなかにはわたしへの怒りが残っていたんですよね。それでいいんです。自分のなかにある悪い部分をちゃんと自覚できる人こそが成長するんですから」

「篠崎さんは、大人だね……」

 橘先輩の体がぐらりと傾く。
 わたしはとっさに腕を伸ばして、体の傾きをおさえる。

「あのときのお礼、ずっと言おうと思っていたんだ。それだけが心残りだった」 

「先輩、もうしゃべらないでください!」

 ありがとう、そう口を動かして、先輩は目を閉じた。
 来栖先輩はまもなく逮捕された。
 道路には指紋と橘先輩の血がついたナイフが投げ捨てられたいたので、言い逃れすることも不可能だった。
 医者のお父さんの権力も通用しなかったみたいだった。

 梨子ちゃんの遺書は、家族に断った上で警察に提出した。こちらはまだ捜査が続いているので、どうなるかはわからない。

 橘先輩は幸い、命に別状はなかった。
 内臓なんかも傷ついていなかったので、比較的すぐに退院できるそう。

 とはいっても、軽傷というわけでもないので、夏休みはすべて病院で過ごすことになりそうだけど。

 医者の先生から自由に歩くことが許された日、わたしと橘先輩は病室を出て外を散策することにした。

 夏らしい暑い日が続いていた。連日気温は三十度を超え、今日もまぶしい太陽の光が降り注いでいた。

「暑くないですか?」

「いまのぼくにはこれくらいがちょうどいい感じだよ」

 駐車場から離れた病院の裏庭は静かだった。わたしたちはそこのベンチに腰を降ろした。

「やっぱり外の空気はいいよね。生きてるなって実感があるよ」

「もう傷口は痛くないですか?」

「そうだね。傷は完全に塞がってるし、他に悪いところもないみたいだから、予想以上に退院は早いかもね」

 あの事件からすでに二週間が経っていた。入院当初はやつれていた橘先輩も、たいぶ肌艶が戻ってきている。

「あまり焦らないほうがいいと思います。お母さんも心配すると思いますから」

 わたしは頻繁に橘先輩のお見舞いに来ていた。そこで橘先輩のお母さんとは一度だけバッタリ会ったことがある。

 病院や通学路で怒鳴られたことのある人だけど、向こうはわたしのことを覚えてはいないようだった。
 橘先輩も名前を告げてはいないらしく、初めましてと頭を下げられた。
 冷たい人なのだろうと想像していたけど、実際にはそんなふうには思えなかった。
 橘先輩に対する態度も普通の親のそれだった。
 息子が死ぬかもしれない、そんな恐怖が彼女を変えたのかもしれない。

「……そばかすが原因だっていってたよ」

「そばかす?」

「うちの母さんのこと。子供の頃、母さんはそばかすがひどくて、学校でいじめられたんだって。ぼくのやけどの跡を見たとき、母さんはそのときのことを思い出したっていってた。二度とあんな思いは味わいたくないから、母さんは肌の手入れには人一倍気を使っていたんだ。だから、シミのように見えたぼくのやけどの跡に過剰な反応をしたらしいんだ」

「そうだったんですか」

 そばかす。これもコンプレックスかな。

「篠崎さんのほうは大丈夫?まだ友達のことで苦しんでるんじゃない?」

 わたしは梨子ちゃんの死を完全に受け入れられているわけではなかった。
 夜中にふと梨子ちゃんのことを思い出して、涙を抑えられなくなることもある。

「いまも後悔が消えないんです。どうして梨子ちゃんの気持ちに気づいてあげられなかったんだろうって」

「仕方がない、と割り切るよりはよっぽどいいと思うよ。その悔しさが友達に対する想いでもあるわけだから」

 一生この後悔は消えないのかもしれない。
 それもいいのかもしれない。
 梨子ちゃんのことをずっと忘れないということでもあるから。

 それからも夏の日差しのもと、わたしたちは会話を続けた。
 子供の頃の病院での出来事や、なんでもないような世間話まで。
 事故に遭ったときのことも聞くことができた。

 わたしはまだ、あの事故のことを思い出してはいなかった。
 橘先輩と本気で向き合うには、過去を取り戻す必要がある。