あっという間に夏も終わり、僕らは「合唱祭」に向けて準備が始まった。合唱祭は、十一月の最初の週に開催され、各クラスが歌いたいものを選択し、選んだ曲を歌う。二ヶ月弱の間、生徒達は自発的に練習し、クラスが一丸となって取り組んでいく。学校側の意図としては、団結力の向上や、数々の引き起こる障害や壁を、クラス全体で乗り越えてもらうことである。指揮者や伴奏者、パート分けなど、音楽の先生と相談しながら自分達で行っていく。生徒達にもやりがいのある、楽しいイベントだ。勤めていた学校でも、似たようなイベントがあったが、教師の立場からも、それはすごく感動的なものになっていた。
僕はこの年の合唱祭を、ほとんど覚えていない。
「さぼったら怒られる」という気持ちだけが、僕らを突き動かしていたのだと思う。
だが、今回は良いものになりそうな予感がする。石神の恐怖が軽減され、生徒達が自発的にこの合唱祭に向けて行動するようになった。伴奏者にも立候補する生徒が三人もいて、何を歌うかの話し合いも弾んだ。
歌う曲は、実行委員がくじ引きで公平に決める。その前にクラスでの意見をまとめなくてはならない。小学生なら、多数決で決まると思ったが、意外にも全会一致で一つの曲に絞られた。
『平和の鐘』
毎年、六年生が選び、優勝している曲だった。この学校では、六年生が「平和の鐘」を歌い、合唱祭を盛り上げるという暗黙の了解があった。そのため、他の学年の生徒は、六年生が歌うものだと思い、毎年遠慮している。だが、おそらく一組も「平和の鐘」を選ぶため、くじ引きで外れた方は、違う曲を選ばなくてはならない。
幸運にも、僕らのクラスの実行委員が、くじ引きで「平和の鐘」を勝ち取り、優勝候補となった。皮肉にも今のクラスに、とても合っている選曲だと思ってしまった。
この曲は、戦争や争いを無くすという願いが込められた歌だった。どうしても、石神の支配から脱却した僕らのための歌に思えてしまう。
楽曲も決まり、伴奏者と指揮者を決める。伴奏者は早い段階で立候補を集め、この頃には毎日のように練習をしていた。僕のクラスは、ピアノを習っている子が三人もいた。逆に隣のクラスでは、伴奏者の立候補はなく、今は先生がやるか議論しているらしい。
実行委員の中村葉月と加藤光輝が、教卓の前に立ち合唱祭のためのクラス会議を進行していく。黒板には、『曲』、『指揮者』、『伴奏者』と書かれており、指揮者と伴奏者の下は空欄だった。
「伴奏者どうするの?」
「明日、林先生がオーディションで決めるって」
林先生は音楽の先生で、伴奏者や指揮者にアドバイスをする。当日は、自分が審査員にもなるのだが、学校全体を平等に指導してくれる。
この時間、石神はいつものように、俺には関係ないといった態度で、椅子にもたれている。
今では教師というよりは、監視カメラのような存在になってしまっていた。
「今日は指揮者を決めよう。立候補いますか?」
葉月がクラスに呼びかける。すると、拓哉が天井に向かって一直線に手を挙げる。
「はい!まなとがいいと思います」
一瞬固まってしまったが、拓哉に反論する。
「ふざけんな、拓也がやれよ!」
教室中が笑いに包まれた。
「私もまなとくんがいいと思います」
学級委員の真美が立ち上がると、それに吊られて、他の生徒も次々に僕を指名した。当然断れる雰囲気でもなく、クラスのみんなに承諾することになった。
実は前回の六年生の時も、指揮は僕がやった。そのときは、ジャンケンで負けたとかだった気がするが、よく覚えていない。合唱祭での指揮の経験は二度目になるので、なんとなくだが、指揮のノウハウは覚えている。
この日は指揮者だけが決定し、明日の伴奏者が決まり次第、練習を開始することになった。
指揮者の役割としては、当日よりもむしろ、練習段階で重要になる。実行委員と協力して、クラスをまとめていく。今のクラスの団結力なら、問題はないだろう。
こうして会議が終わり、僕は今年も指揮者をやることになった。
その日の帰りの会で、久しぶりに石神に名前を呼ばれた。
「上田。指揮やるなら、林先生に申請してきて。あと、これからは全部林先生に聞いて」
「はーい」
本当に石神は変わった。生徒たちを怒鳴っていた教師が、今では地蔵のような態度で生徒と接している。たまに生徒に声をかけると思うと、それは事務的な内容がほとんどだった。
放課後、石神に言われた通り、職員室へ向かった。林先生は自分の席に座り、合唱祭に向けて、忙しそうに仕事をしている。
「すみません、六年二組の上田愛斗です。指揮者の申請できました」
「あ、上田くんがやるの?わかった。じゃ、頑張ってちょうだいね」
林先生は、二十代の女性の先生だ。高学年の男子の中には、林先生を崇拝している人も存在する。もちろん理樹もその一人だった。
退出する時に職員室全体を見渡した。一番端の隅っこに石神の姿がある。他の先生達を寄せ付けず、一人で座り、コーヒーを飲んでいた。
僕も教員時代、どちらかというと孤立していた方だけど、周りからはあんなふうに見られていたのかと思うとゾッとした。
石神を遠目から見ていると、僕が見ていることに気づき、ゆっくりと近づいて来た。その場から急いで立ち去ろうとしたが、石神の目が動くなと訴えかけてくる。その場で静止し、近づいてくる石神を待った。
そのまま石神は僕の横を通り過ぎる。一瞬何だったのかわからなかったが、耳元で石神が一言だけ呟いて行った。
「矢印は消せない」
耳打ちで確かにそう言った。
少し考えたが、その場で答えは出せなかった。
その後、僕も職員室を出て、自分のクラスに戻った。そこには、どういうわけか美来が一人で座っている。
「なんで残ってるの?」
「愛斗くん、待ってた」
なぜ待っていてくれたのかはわからなかったが、一緒に帰ることになった。美来の家は学校の目の前にある。一緒に帰ると言っても、校門を出てすぐお別れだ。
ランドセルを背負い帰宅する。その時も、職員室で石神が言ったことに意識を持ってかれていた。そのせいで、美来のことを気に留めることもなく、気づいたら美来の家の前まで来てしまっていた。
美来の家に着くと、少し待つように言われた。言われた通り、美来の家の前で待っていると、美来はすぐに家から出てきて、「帰ろ」と言ってきた。
「美来の家ここだよね」
「うん。でも愛斗くん、帰ってないでしょ」
美来はよくわからないことを言ったが、美来の手には財布が握られていた。
「あ、買い物行くの?」
「そう。愛斗くんの家とスーパー近いでしょ」
「じゃ、一回僕の家に帰って、自転車で行こうよ。荷物乗せられるし」
「いいの?」
そう言って僕らは帰宅することになった。今日の美来は、いつもより懐っこく感じた。
「ねーね、愛斗くん」
さっきから美来は何かを僕に言いたがっているが、どうしてか美来は少し躊躇っているようだった。
「美来、なんで待っていてくれたの」
「それは…」
美来は言いづらいのか、緊張しているようだった。
「愛斗くん、あの、私達って友達?」
美来は、少し恥ずかしそうに言った。
「当たり前だよ。それを聞くために残ってたの?」
「うん…」
職員室から六年二組の教室に戻った時、帰りの会からは三十分ほどが経過していた。それを確認するためだけに待っていたと思うと、何だか健気に思えてしまう。
「美来は、大人びてて、他の友達よりも話しやすいと思ってるよ。一緒にいると疲れなくて楽なんだよ」
本当にそう思っていた。小学六年生と話すのは、友達でも疲れてしまう。言葉を選んで話しているつもりだが、それでも伝わらないことも多々ある。その点美来は、同級生の中で最も話しやすい友達だと思っていた。
「ほんと?」
「ほんと」
そのあと、美来は僕の顔を見て不安そうな顔をした。まだ信じてくれていないのかもしれない。
「じゃ、僕の家に着いたら、ちょっと待っててよ」
家に着き、優香に誕生日にもらったスケッチブックを持ち出した。そうして美来に、最後のページに描かれている、僕と優香と美来の三人の絵を見せた。
「優香が誕生日にくれたんだよ。美来が僕を笑顔にしてくれた人だって」
照れ臭かったが、優香に言われたように言った。
「優香ちゃんは優しいね」
美来はその絵を見て微笑んでいた。
「それでなんだけど、十一月一日、優香の誕生日なんだ。もしよかったら絵を描いてもらえないか?」
合唱祭の前日に優香の誕生日があった。僕も優香にもらったように、絵をプレゼントしたかったのだが、絵心が全くなかった。春のスケッチの授業で、美来の絵が素晴らしかった事を思い出し、絵のプレゼントをお願いしようとずっと考えていた。
「もちろん。私でよければ」
美来の不安そうな表情は無くなっていた。
「よし、決まり。僕は何をあげようかな」
その日も以前のように買い物に付き合い解散した。
美来は優香の誕生日前日までに渡すって言ってくれたけど、当日予定がないなら一緒に渡してほしいとお願いした。その方が優香もきっと喜んでくれる。
伴奏者も決まり、合唱祭に向けて練習が始まった。伴奏者のオーディションでは、かなり揉めたと僕は聞いているが、林先生が公平に審査し、それぞれが納得して決まったとのことだ。
選ばれたのは、東堂春香という女の子で、選ばれなかった二人は、女子のパートのリーダーになった。
練習は、光輝と葉月を中心に行われ、最初の方は、パートごとに教室を借り練習をする。パート別と言っても、「ソプラノ」や「アルト」などの本格的なものではなく、基本的には女子と男子で分けられる。男子のパートを歌う時、低くて声が出ないという男の子は、女の子の練習に参加する。僕のクラスにも今年は三人だけそういう子がいた。
僕は指揮者だったので、両方のパートを交互に行き来し、練習に参加した。伴奏者と息を合わせるためにも、春香と二人で行動し、時には放課後に残って練習をする日もあった。その間、石神は口を出すことはなく、練習中も教室にはほとんどいなかった。合唱祭に向けて、僕らは順調に練習してきたのだが、一週間が経った時、クラスで問題が起こった。
伴奏者に立候補した二人の女の子が、喧嘩をしたのだ。その時僕は、男子に混ざって練習していて気づかなかったのだが、葉月が、男子が練習している教室に駆け込んできた。
喧嘩の発端は、女子のパート練習のため、練習用の伴奏者を決める事になり、そこで起こってしまったと葉月が言っていた。
春香は僕とセットで行動していたので、その時は男子の方で練習に参加していたのだ。
この一週間、主に練習ではカセットテープが使われていた。最初に曲を練習するとき、いきなりピアノと合わせるのは難しい。カセットテープのお手本を聞きながら、自分達の音程を徐々に合わせていく。その段階の練習が終わり、今日からピアノを使って合わせるということになっていたのだが、オーディションに落ちてしまった女の子二人が、練習のための伴奏者を取り合ってしまったのだ。しっかりと最初から、練習の時の伴奏者を決めていなかった僕らの責任だ。
葉月に連れられ、僕と光輝は、女子が練習している教室に向かった。教室に入ると、伴奏者に落ちてしまった。遠藤里帆と久保葵が口喧嘩をしていた。
「春香ちゃんいない時は私が弾くって言ったよね」
里帆は葵に向かって怒っている。
「でも、私も練習したい」
葵は負けじと言い返していた。
普段、葵はおっとりとしていて、喧嘩をするような子ではない。今でも石神に怯えている生徒の一人で、我が強い子では決してなかった。しかし、ここではなかなか譲らず、言い合いになってしまっている。逆に里帆は気の強い性格で、いつも明るい子だ。友達も多く、周りが里穂の方へと賛同してしまっている。
僕はその言い合いに仲裁に入り、交互にやるようにと進めた。最近石神に歯向かい、黙らせたことで、クラスのみんなに一目置かれてしまっていた。それが功を奏し、僕のいうことを素直に聞いてくれた。
今日のところは、僕は葵にやってもらう事を頼んだ。葵に味方した生徒はいなかったし、彼女がこんなにも本気になっている姿を僕は初めて見たからだ。里帆も「まなとがいうなら」と今日は引いてくれた。
合唱祭などのイベントでは、生徒たちがぶつかることもある。それを乗り越えて成長できるからこそ、学校側はこういったイベントを用意している。
石神は、授業以外何もしていない。職員室での出来事以来、僕は石神と話していない。他の生徒も、授業の時以外は全く関わっていないように見える。それでも、授業中は全員が席に座り、真面目に授業を受けていた。今の僕らのクラスには、先生がいないと言っても過言ではないだろう。そのため、喧嘩や揉め事は、自分たちで解決していかなければならなかった。
今日の練習は丸くおさまり、一日の練習が終わった。放課後の練習は時間が決まっていて、その時間がきたら、生徒達は帰らなくてはならない。二組の生徒は解散し、僕は拓哉と一緒に下校した。
「今日の喧嘩すごかったね、まさか葵があんなに意地張るなんて」
「見てたのかよ」
拓哉は廊下から覗いていたらしい。
「ちょっとね。けどさ、俺らのクラスって、今まで喧嘩したこととかあんまりなかったからびっくりしたよ」
確かにそれは僕も感じていた。石神が教室を支配しているとき、僕らのクラスに喧嘩や言い合いはほとんどなかった。どちらかというと、そういったことをしている場合ではないという方が正しい。
『矢印は消せない』
職員室で石神は確かにそう言っていた。
石神はこうなることを最初からわかっていたような口ぶりだった。だとすると根本的に全てが間違っている可能性が出てきてしまう。
「まあ、でも生徒が自主的に行動してる今の方が、クラスっぽくて僕は好きだけどね」
「確かに。みんな笑ってるし、解決したから大丈夫か」
拓哉は嬉しそうに笑っている。僕もそれに合わせて笑ったが、複雑な心境だった。
この時僕は、自分が行ったことを正当化した。
その後は何事もなく練習は続いた。里帆も葵も伴奏を交互にやってくれている。僕が女子の方で練習するときも、喧嘩をしているようには見えない。合唱祭まで、僕らは一ヶ月を切っていた。
「そろそろパート別じゃなくて、男女で合わせてみようよ」
光輝が提案した。僕らは今日、放課後の練習を休みにした。最近では毎日のように残り、習い事や用事がある子を除いて、全員が練習に参加してくれていた。今日は、僕と伴奏者の春香、実行委員の光輝と葉月で、これからの打ち合わせをすることになった。
「いいと思う。男子はみんな、ほぼ完璧だと思うよ」
僕がいうと、葉月が対抗する。
「女子だってみんなすごく上手だよ、指揮者も伴奏者も男子の方ばっか行くのに!」
ピアノを弾ける生徒が、男の子の中にはいなった。そのため本格的なパート練習に移行してから、春香と僕は男子の練習に参加する事が多くなっていた。
「ごめんごめん、男子伴奏者いないからさ」
「指揮者は関係ないよね」
葉月は笑いながら言っていた。
「それで、葵さんと里帆さんは大丈夫なの?」
春香が心配そうに葉月に聞いた。
「喧嘩とか、この間みたいな言い合いはしてないけど、少し空気が悪いかも」
葉月は不安そうに言った。
「葵がピアノを弾いてくれてる時、少し間違ったり、ミスをすることがあったんだけど、その時にくすくす笑ったり、ヤジが飛んだりしてて…」
あんまりそういうのは良くない。僕が見ている限りでは、そう言ったことはないように見えたが、女子だけになるとそういうこともあるのだろう。
「わかった、これからは一緒に練習して、そういうことがないようにやっていこう。里帆もそれだけピアノをやりたいと思っているだけだと思うから」
明日から僕らは男女合同で練習することになった。
音楽室を使える日は限られている。朝、昼休み、放課後、三つの時間が学校で分割される。この学校では音楽室が二つあったので、学校全体の十二クラスが使うとなると、二日に一回の練習が目安だった。それと、毎週金曜日の音楽の授業で練習することができる。
僕らは明日の放課後に音楽室を使うことになっていた。
次の日の放課後、音楽室に生徒が集まった。
伴奏は当然だが春香が行った。今日が最初の合わせにもかかわらず、ものすごい完成度のものになった。歌い終わった後、クラス中が顔を合わせて感動していた。男子も女子も細かい修正は必要なものの、二組の練習に参加していた林先生も絶賛するものとなった。
その日の練習で、僕は指揮者として全体を見ていたが、葵と里帆が悪い空気になってしまうということはなかった。これからは、男女合同の練習が増えていくので、少しだけ安心した。
こうして僕らは、三週間後に迫った合唱祭に向けて毎日のように練習していたが、この頃から航を含めた男子六人が練習をサボるようになっていた。
理樹や孝彦は問題児だが、こういうイベントには熱い男だった。だけど、航は理樹のような熱があるようなタイプではない。全ての物事に対して、身が入っていないような性格だった。
実行委員の光輝が、放課後に航達が帰ろうとした時に一度声をかけた。その時も、みんな用事があると帰ってしまった。その日の僕らの練習が終わり、一人のクラスメイトが下校中、学校の近くのサッカー場で、用事があると言っていた六人全員が遊んでいるのを発見した。そこで彼らが練習をサボっているということが発覚したのだ。
今まで「怒られないように」という感情に生徒達は突き動かされ、結果として練習をサボったり、授業を休んだりすることはなかった。今でも石神が見張っている授業では、生徒達は私語をせず、真面目に取り組んでいる。だが、合唱祭の練習に石神は全く関わっていない。そのため、生徒達のサボりや弛みが目立ってきている。
だが、この合唱祭のイベントは当然強制ではない。高学年の生徒だけが、放課後残って練習することが許可されている。そのため音楽室を使える日は、朝と昼休みが下級生に割り振られ、僕らは放課後に限定されてしまっている。そうなると彼らが帰って遊びたい気持ちはわからなくはない。だからこそクラスメイトとして自主的に参加してもらいたかった。
僕は光輝と葉月に相談し、今日の放課後の練習を休む事を伝えた。
「航、今日どっかで遊ばない?」
「指揮者がサボるのかよ」
「たまにはいいだろ」
僕は敵意がないように言った。
「いいぜ」
そう言って航たちと遊ぶ約束をした。練習がない日に遊んでもよかったが、一緒に練習を休むことで、航達との距離を縮めようという作戦だった。
その事を昼休みに拓哉にも相談した。正直航とはあまり仲良くない。拓哉なら航の性格を詳しく知っているだろう。
「拓哉、航を練習に来させるにはどうしたらいいと思う?」
「やっぱ航、放課後サボってんだ」
「そうなんだよ。なんとか参加してもらえないか放課後交渉しにいくんだけど…」
すると拓哉は眉間に皺を寄せ、航のことを語ってくれた。
「航は難しいと思うよ。イーグルで一緒だけど、俺もあんまり仲良くはないんだ。試合に負けた時も、機嫌悪くなるし、団体で何かをする事に向いてないんだよ」
はっきりと拓哉はそう言った。
夏休み明け、五人で石神に怒られに行った。最初航のことは、拓哉が誘ったのかと思ったのだが、拓哉が計画を航に話した時に自分から立候補したとのことだった。それだけ航は石神を嫌っていたのだろう。
「いやでも、もう三週間後だよ。少しなら協力してくれると思うけど」
「じゃ、俺も行くよ」
こうして拓哉も放課後練習を一日だけサボった。クラスから人気のある拓哉の株を下げるのは申し訳なく思ったが、正直一緒に来てもらいたいと思っていたため安心した。
「おーい、航」
「お、拓哉もきたの?」
僕らは航たちの家の近くにある、サッカー場に集合した。このグラウンドは、土日にイーグルが使用している場所で、自由に使っても大丈夫だと拓哉も航も言っていた。
「今日は何するの?」
「もちろんサッカー!」
航以外の練習をサボっている子達も、そのグラウンドにやってきた。練習に来ていない六人と、僕と拓哉で今日は八人が集まった。
「今日は二人もキーパーいるじゃん。まなとキーパーでいいでしょ?」
航が勝手にチームを決めているが、僕はそれを了承した。
「晃、お前もキーパーな」
毎回放課後の練習をサボるのは六人だ。その中には、学級委員の晃の姿もあった。航が遊んでいると報告が入った時に、六人全員の名前も聞いていた。だが、今日ここに来るまで、晃が航達とサボっているのを信じてはいなかった。
僕らは二つのチームに分かれて試合をした。最近では、合唱祭の練習で運動はあまりしていなかったので、目的を忘れ、正直すごく楽しんでしまっていた。球技は大人の僕でもそれなりに楽しかった。確かに放課後こうやって遊んでいたい航の気持ちはすごくわかる。
一時間ほどぶっ続けでサッカーをし、隅にあるベンチで休憩をとった。
「晃、キーパー上手だね」
「そんなことないよ」
晃は謙遜しているが、今の試合で失点をしていなかった。
「イーグル誘ってるのに晃、入らねんだよ」
航がそういうと、晃も飲んでいたペットボトルをベンチに置き、航に返答した。
「だってもう僕たち卒業だよ。今からじゃ間に合わないよ」
「中学はみんな一緒だから、晃もサッカー部な」
航はそう言って、晃の肩にのし掛かる。だが晃は返事をしなかった。
拓哉と目を合わせ、僕は本題に入る。
「みんな、放課後は合唱祭の練習出る気ないの?」
航と一緒にいる子は、痛いところをつかれたと、目を逸らした。
晃が何かを口にしようとした時、それを遮って航が口を開いた。
「うーん、練習そんなに必要?石神も見張ってねーし、サッカーの方が楽しいじゃん」
確かにそう思う気持ちはわかる。
「それに、もう優勝したでしょあれなら。最初に合わせた時も完璧だったし、林先生もほめてたじゃん」
教師の僕が見ても、完成度は高かった。だけど、練習云々というよりも、彼らが来ないことによって、毎回クラスの雰囲気が良くないことの方が問題だった。
『なんで彼らは休んでいるんだ。私たちは頑張っているのに』ということを内心思っている子もいるかもしれない。
「お前ら、クラスで文句言われてるぞ」
すると、拓哉が横から言った。
「え、まじ?それは嫌だな。まあ、なるべく出るようにするよ」
意外とあっさり引き受けた。
その後僕らはもう一度サッカーをした。晃はまたキーパーをやっていて、何度もシュートを止めていた。僕も拓哉に褒められることはあったが、晃を見て愕然とした。長身の体格を活かして柔軟に動いている。才能とはこのことを言うんだと思ってしまう。
ただ、なんとなくだけど、そこには変な感じがあった。違和感というか、なんというか。
日が落ち、ボールが見えなくなった頃に、僕らは解散した。
「意外と聞き分けあるじゃん」
「いや、あいつは適当だから、わかんないよ」
僕もそう思った。言ってしまっては悪いが、空返事でこの場をやり過ごそうとしている様子だった。他の生徒も、そんな航の態度に賛同している。
「あのさ、もしかしてなんだけど…」
拓哉は言いかけた。
「いや、なんでもない。明日は放課後練習あるし、航たちが帰らないように見張ってよーぜ」
その時の拓哉は、新学期の始まる前のホームセンターで別れた時と同じ顔をしていた。
合唱祭まで一週間と一日に迫っていた。優香の誕生日が丁度一週間後にあり、合唱祭はその翌日だ。
航達は、僕らの予想を覆し、サッカ―をした次の日から練習に参加するようになった。ただ参加したところまでは良かったものの、練習中にふざけたり戯れあったりしていて、クラスからは邪魔者扱いされてしまっている。
「航、邪魔するなら、帰ってよ!」
「うるせーな、お前らが来いっていたんだろ」
「練習しに来いって言ったの」
真美と航が口喧嘩をしている。
「ていうか、晃、学級委員なのになんでサボってるのよ」
「いや、もう僕達、上手だから練習しなくても大丈夫かなって…」
「いくらやっても足りないわよ。そんなんじゃ優勝一組に持ってかれちゃうよ」
学級委員同士で言い合っている。すると航が横から口を出した。
「晃には俺が来てもらうように言ったんだよ。こいつキーパー上手いからさ」。
「あー、サボってサッカーしてるじゃない。習い事だーとか言ってたクセに」
「やばっ」
新学期に比べてクラスは見違えるほど明るくなっている。
相変わらず石神は合唱際には全く口を出さず、全て林先生が担当してくれていた。
練習では、僕らは本当に完璧だった。少し問題を抱えてはいるが、クラスの雰囲気もいいし、それぞれがそれなりに頑張っている。
葵と里帆が喧嘩し、航達も練習をサボっていた。だけど、その全てが間違っていると僕は思えない。この合唱祭はそれを証明するチャンスだった。
練習をギリギリまで行っていると、あっという間に下校の時刻になっていた。優香の誕生日も一週間後に迫っていたので、僕は美来に誕生日プレゼントの絵のことを確認しに行った。
「美来、絵はどう?」
「うん。もうできてるよ」
美来は帰りの支度をしていたので、一緒に帰ろうと誘った。
「今日も買い物行くの?一緒に帰ろうよ」
「ごめんなさい。今日は急いで帰らないといけなくて。また明日ね」
そう言って断られてしまった。
なんだか今日の美来は、いつもよりも険しい顔をしていた。
航たちが来るようになってから、全員揃って毎日のように練習していたが、気づけば合唱祭前日を迎えていた。今日は本番前のリハーサルを行う。
各クラスは演奏の前に、代表がスピーチを行うことになっていた。二組では里帆が抜擢された。
実行委員は当日、学校の運営側に回るので忙しい。それでクラスをパートリーダーとしてまとめてくれた、葵か里帆にやってもらうことを決めていた。
今回は、葵も里帆も衝突することはなく、里帆がスピーチをすることになった。
「里帆ちゃん、練習の時はごめんね。私、話すのは苦手だから、里帆ちゃんにやってもらいたいの」
「ううん。私こそ意地悪だった。わかった、私頑張るね!」
その会話は、ホームルームでクラスのみんなが聞いていた。まだ合唱祭まで期間があったけど、全員がしみじみとなってしまっていた。合唱祭にはこういう不思議な力がある。
改めてこのクラスは良いクラスだと思った。
最後の通し練習を終え、全員で明日の意気込みを言って解散した。
そうして今日は十一月のもう一つのイベントである優香の誕生日だった。急いで支度し、まず一緒に美来の家へ向かった。
美来の家に着くと、以前と同じように美来の家の前で待っていた。十分も経たない内に、美来が絵を額縁に入れた状態で僕のところに持ってきた。その場で美来に絵を見せてもらったのだが、そこには一枚の写真と見間違えるほどの物が額縁に収まっていた。一度しか優香に会っていないはずなのに、再現されたこの優香の表情はすごくリアルだった。
「すごいよ、美来、一度しか会ってないのにそっくりだよ」
「優香ちゃんとは何回か会ってるよ」
美来は笑ってそう言った。
「そーなの?」
「優香ちゃんにも友達になってもらったの」
「そうか。優香と遊んでくれてありがとう」
優香と美来が二人で会っていたことは知らなかった。美来に優香のことを伝えた時に、興味を持っていたことを思い出した。案外美来と優香は気が合うのだろう。二人で遊んでいる姿を想像すると、無邪気な妹と冷静な姉のような関係性を目に浮かぶ。
美来が再び家に戻り、水玉模様の描かれたカラフルな箱を家から持ち出してきた。美来の手に絵はなかったので、その箱に梱包したのだろう。
「お兄ちゃんは何をあげるの?」
不意に美来は僕に向かってそう言った。
「色鉛筆とカラーペンだよ。優香も絵を描くのが好きになったみたいなんだ。今使っているのは学校で使っているやつだから、家で描く時は一々持ち帰らないといけないし、色の数も少ないからさ…」
美来に揶揄われて、少し口数が多くなってしまった。美来は僕が焦っているのを見て笑っている。最近では美来が心を開いてくれていると思うこともたくさんあった。
どうしてこんなにも美来と話している時は楽なんだろう。それは毎回話す時に思うことだった。美来と話していると、小学生の自分が削除され、元の姿で会話しているような気になれる。それは一度大人を経験している僕にとって何よりも癒しになった。
この時もどうしようもないけど、可能性がゼロではない妄想をしてしまっていた。
僕の家に着くと、家には誰も帰ってきていなかった。おそらく母は、優香の誕生会の料理の買い出しをしに行っているのだろう。優香もまだ家には帰ってきていない。
今度は僕が美来に待っていてもらい、急いで部屋に行った。勉強机と一緒に買った収納箪笥の上から三番目の引き出しを開く。優香へプレゼントするために、ここに隠しておいたのだ。色鉛筆とカラーペンがラッピングされている袋を取り、僕は再び玄関の方へ向かった。
玄関で靴を履いていると、外から優香の歓声が聞こえた。
玄関を開けると、先ほど美来に見せてもらった絵を両手で空に掲げて大喜びする優香の姿があった。
「すごい。美来ちゃん。優香そっくりだね」
美来は先に優香へプレゼントを渡したみたいだ。その絵を持ってその場で嬉しそうにクルクルと回っている。そうしてすぐに玄関の前にいる僕に気づき、こちらに絵を持った優香が近づいてくる。
「お兄ちゃん見て、美来ちゃんがくれたの。優香の誕生日、お兄ちゃんが教えてくれたの?」
「優香に絵のプレゼントしたくて、美来が書きたいって言ってくれたんだよ。だからお願いしたんだ。それとこれ、誕生日おめでとう」
優香に包装されたプレゼントを渡す。過去に戻ってから、今までで優香は一番の笑顔を見せた。
「お兄ちゃんもくれるの。ありがとう!中見てもいい?」
優香が中身を確認し、一層目を輝かせた。
「ありがとう、お兄ちゃん。大切にするね」
そうして無事に、優香の誕生日を祝う事ができた。美来も優香も以前より仲睦まじい関係になっていた。優香のことを見ていてくれる人ができたのも嬉しいが、クラスであまり馴染めていない美来が、他の人と会話をして楽しそうにしている姿もなんだか嬉しかった。
今でも、美来がクラスの女の子と話したり、遊んだりするところを見たことはない。だから優香と一緒に笑っている美来は、貴重な光景だった。
しばらく三人で話した後、僕は美来を家まで送っていく事になった。美来の家まで、僕らはゆっくりと歩き、たわいもない話をする。ゆっくりと歩いていたつもりだったが、気がつくとすぐに美来の家の前に来てしまっていた。
「今日は本当にありがとう。優香すごい喜んでたよ」
「ううん。こちらこそ」
まさか過去に戻って、美来と仲良くなるとは思わなかった。一度目の僕は彼女の性格も、彼女の笑顔も、彼女の優しさにも触れることは決してなかった。きっかけは石神への叛逆だったけれど、それでも今ではこうして隣を歩いている。それは本当に貴重なことで、信じられないようなことだった。
「ねー、愛斗君」
「うん?」
「私、今年はすごく楽しかった。愛斗君と優香ちゃんと友達になれたし、いいことがいっぱいあったの」
美来は僕にそう言って笑っている。改めて言われると照れてしまう。相手は小学六年生、僕の中身は社会人だ。普通に考えればやっぱりそれはおかしいことだと思う。でも、それを感じさせない何かを美来は持っているような気がした。
「合唱祭もすごくいい雰囲気だよね。私、本当に楽しかった」
美来はこちらを見て、優しく笑った。僕はやっぱり照れてしまい、美来から目を逸らした。
「本番は明日だよ。まだ終わってないし、それに…」
「愛斗君」
もう一度名前を呼ばれ、僕は美来を見た。先ほどと変わらない表情で僕を見つめている。そんな美来が玄関の前でぽつりと呟いた。
「友達でいてね」
美来は前にも、友達かどうかを聞いてきた事があった。
「あたりまえだよ」
これからも、この先もずっと友達だ。そんな当たり前のことをどうして…
「うん、じゃあ、また明日」
「うん…」
不思議に思ったが、美来は小さく手を振り、家の中に入ってしまった。
美来の家の前で一人になった僕の横を、初冬の冷たい風が通り抜けていった。
合唱祭当日、最悪な事態が発生した。伴奏者の春香が学校を欠席したのだ。
朝の会が始まる前、春香以外の生徒は席に座っていた。春香がなかなか学校に登校してこないので、クラス中が騒つき、教室のドアが開いた時には、全生徒が春香の登校を期待した。
しかし、教室に入ってきたのは石神で、そのまま春香の欠席が伝えられた。
「東堂が三十九度の熱を出したとのことで欠席の連絡が入りました。それじゃ、合唱祭頑張ってください」
事務的な連絡が朝の会で発表される。
朝の会が終わり、すぐに生徒達が再び騒つき始めた。
「やばくね?」
「春香、インフルだって」
「まじかよ」
すると、実行委員の二人が教卓の前に立ち、生徒達を宥める。
「みんな落ち着いて。とにかく林先生に連絡して弾いてもらえるか頼もうよ」
「わかった、僕言ってくるよ」
葉月の提案に、いち早く光輝が教室から出て、林先生の元へ向かった。
「ねー、葵か里帆できないの?」
直後に真美が呟いた。
「そうじゃん。パート別の練習で二人とも弾けてたし、いけるよ!」
明美がそういうと、嫌そうな顔で里帆が答えた。
「え、でも、ほとんどぶっつけ本番だし…」
いつものような明るさはなく、拒んでいるようだった。
「里帆なら大丈夫だよ」
普段、里帆と一緒にいる子がそういう。
「うーん…」
すると突然、葵が立ち上がった。
「私、やってもいいですか」
教室中が驚いている。普段おとなしい葵の、ピアノへの熱意が伝わってくる。
「葵さん、いきなりだけど大丈夫?」
葉月が声を掛ける。
「うん。ずっと練習してきたから」
「私も葵ならできると思う」
里帆が安心した表情でそう言う。
「正直、私にはこんな大役できない。すごく怖いの…、だから葵はすごいと思う。今度は私が応援してもいい?」
里帆が葵の手を掴んでぎゅっと握った。
そのタイミングで勢いよく教室のドアが開く。
「みんな、林先生大丈夫だって。とりあえずなんとか…」
全員が光輝に冷たい視線を送る。
「うわ、空気ぶち壊したぞ、光輝。」
「え?」
クラス中が笑いに包まれた。
結局、春香に代わって葵が伴奏を引き受けることになり、僕らは合唱祭に臨んだ。葵とは始まる前に何度か練習をした後、本番前最後のリハーサルを行った。僕が思っている以上に葵は上手に弾けていた。オーディションに落ちた後も、練習を積み重ねていることは容易に想像できた。