伴奏者も決まり、合唱祭に向けて練習が始まった。伴奏者のオーディションでは、かなり揉めたと僕は聞いているが、林先生が公平に審査し、それぞれが納得して決まったとのことだ。

 選ばれたのは、東堂春香(とうどうはるか)という女の子で、選ばれなかった二人は、女子のパートのリーダーになった。

 練習は、光輝と葉月を中心に行われ、最初の方は、パートごとに教室を借り練習をする。パート別と言っても、「ソプラノ」や「アルト」などの本格的なものではなく、基本的には女子と男子で分けられる。男子のパートを歌う時、低くて声が出ないという男の子は、女の子の練習に参加する。僕のクラスにも今年は三人だけそういう子がいた。

 僕は指揮者だったので、両方のパートを交互に行き来し、練習に参加した。伴奏者と息を合わせるためにも、春香と二人で行動し、時には放課後に残って練習をする日もあった。その間、石神は口を出すことはなく、練習中も教室にはほとんどいなかった。合唱祭に向けて、僕らは順調に練習してきたのだが、一週間が経った時、クラスで問題が起こった。

 伴奏者に立候補した二人の女の子が、喧嘩をしたのだ。その時僕は、男子に混ざって練習していて気づかなかったのだが、葉月が、男子が練習している教室に駆け込んできた。

 喧嘩の発端は、女子のパート練習のため、練習用の伴奏者を決める事になり、そこで起こってしまったと葉月が言っていた。
 春香は僕とセットで行動していたので、その時は男子の方で練習に参加していたのだ。

 この一週間、主に練習ではカセットテープが使われていた。最初に曲を練習するとき、いきなりピアノと合わせるのは難しい。カセットテープのお手本を聞きながら、自分達の音程を徐々に合わせていく。その段階の練習が終わり、今日からピアノを使って合わせるということになっていたのだが、オーディションに落ちてしまった女の子二人が、練習のための伴奏者を取り合ってしまったのだ。しっかりと最初から、練習の時の伴奏者を決めていなかった僕らの責任だ。

 葉月に連れられ、僕と光輝は、女子が練習している教室に向かった。教室に入ると、伴奏者に落ちてしまった。遠藤里帆(えんどうりほ)久保葵(くぼあおい)が口喧嘩をしていた。

「春香ちゃんいない時は私が弾くって言ったよね」
 里帆は葵に向かって怒っている。
「でも、私も練習したい」
 葵は負けじと言い返していた。

 普段、葵はおっとりとしていて、喧嘩をするような子ではない。今でも石神に怯えている生徒の一人で、我が強い子では決してなかった。しかし、ここではなかなか譲らず、言い合いになってしまっている。逆に里帆は気の強い性格で、いつも明るい子だ。友達も多く、周りが里穂の方へと賛同してしまっている。

 僕はその言い合いに仲裁に入り、交互にやるようにと進めた。最近石神に歯向かい、黙らせたことで、クラスのみんなに一目置かれてしまっていた。それが功を奏し、僕のいうことを素直に聞いてくれた。

 今日のところは、僕は葵にやってもらう事を頼んだ。葵に味方した生徒はいなかったし、彼女がこんなにも本気になっている姿を僕は初めて見たからだ。里帆も「まなとがいうなら」と今日は引いてくれた。

 合唱祭などのイベントでは、生徒たちがぶつかることもある。それを乗り越えて成長できるからこそ、学校側はこういったイベントを用意している。
 石神は、授業以外何もしていない。職員室での出来事以来、僕は石神と話していない。他の生徒も、授業の時以外は全く関わっていないように見える。それでも、授業中は全員が席に座り、真面目に授業を受けていた。今の僕らのクラスには、先生がいないと言っても過言ではないだろう。そのため、喧嘩や揉め事は、自分たちで解決していかなければならなかった。

 今日の練習は丸くおさまり、一日の練習が終わった。放課後の練習は時間が決まっていて、その時間がきたら、生徒達は帰らなくてはならない。二組の生徒は解散し、僕は拓哉と一緒に下校した。

「今日の喧嘩すごかったね、まさか葵があんなに意地張るなんて」
「見てたのかよ」
 拓哉は廊下から覗いていたらしい。
「ちょっとね。けどさ、俺らのクラスって、今まで喧嘩したこととかあんまりなかったからびっくりしたよ」

 確かにそれは僕も感じていた。石神が教室を支配しているとき、僕らのクラスに喧嘩や言い合いはほとんどなかった。どちらかというと、そういったことをしている場合ではないという方が正しい。

『矢印は消せない』

 職員室で石神は確かにそう言っていた。
 石神はこうなることを最初からわかっていたような口ぶりだった。だとすると根本的に全てが間違っている可能性が出てきてしまう。

「まあ、でも生徒が自主的に行動してる今の方が、クラスっぽくて僕は好きだけどね」
「確かに。みんな笑ってるし、解決したから大丈夫か」
 拓哉は嬉しそうに笑っている。僕もそれに合わせて笑ったが、複雑な心境だった。

 この時僕は、自分が行ったことを正当化した。