アル・アンジュ航海記

 世界には二つの大陸しかないと思われていた時代があった。北大陸エセルラント、そして南大陸のアゼルラント。海は二つの大陸の間に横たわる内海メディナと二つの大陸を囲む大洋パセティナ。港を有する国々は、船に人と荷物を載せて二つの大陸を渡り、貿易で大きな富を挙げていた。
 しかし、今から五十年前、すべての常識が覆った。世界にはもう一つの大陸があったのだ。
 新大陸・『オルサゴ』発見。
 アゼルラントにある小国バスティアの船が嵐によって漂流し、流れ着いた先は、大洋に浮かぶ島ではなく、自分たちがまったく知らない大陸だったのだ。
 その大陸では、自分たちと同じように国があり、人が暮らしていた。ただ違っていたのは、漁に使う小舟はあっても、大陸を渡るような帆船を持っていなかったこと。
 エセルラントとアゼルラントの間には海があった。そのため、輸送は海運が主流であり、自然と帆船の技術が発達していた。
 しかし、オルサゴ大陸にはまわりに大きな島もなく、漁以外で船を使う理由がなかった。そのため、彼ら自身も大海の向うに同じように人が暮らす大陸があることを知らなかったのだ。
 バスティアの漂流船は、オルサゴで船を修理し無事帰還した。オルサゴ大陸でしか手に入らないものを満載しての帰還だった。この帰還は二つの大陸に言葉にならない衝撃を与えた。
 船を持つすべての国が新大陸を目指した。しかし、新大陸にたどりつくためには大洋パセティナを渡らねばならない。漂流で偶然たどり着ける幸運が常に待っているわけではない。
 このことは造船技術と操船技術の進歩を促した。一旦、大洋パセティナに漕ぎ出すと、途中に人の住む島はほとんどない。操船に必要な人員と、彼らのための水と食料を積み、長距離を航行できる船を造らねばならない。また、嵐の多いパセティナを渡りきるだけの操船技術も必要であった。
 そして、新大陸が発見されて七年後、再びオルサゴへの上陸を果たしたのは、北大陸エセルラントで海洋の覇をとなえるエセルディアだった。
 エセルディアはオルサゴへの航路を開拓した。夜空の星や海流を頼りに、確実にオルサゴ大陸へ渡る航路を見つけたのだ。この後、エセルディアは大陸との交易をほしいままにし、莫大な富を得た。その交易品の中でも新大陸でしか手に入らないものがあった。
 それが香辛料だった。
 香辛料の存在は、二つの大陸の生活を根底から変えてしまった。食料の保存が劇的に変化したのだ。そのため、香辛料はあっというまに各地に広がり、なくてはならないものになった。しかし、どうしても新大陸以外での栽培はかなわず、輸入に頼るしかなかった。そのため、高値で取引され、一時は同じ重さの金と交換されるまでに高騰したのだった。
 エセルディアが航路を発見してから数年遅れて、各国もそれぞれにオルサゴへの航路を見つけ、交易を始めた。そうなると今度は新大陸からの富を狙って、凄まじい争奪戦が始まった。
 そして海賊の時代の幕が上がったのである。

「ねぇ、次の航海の予定は決まってないの?」
 不機嫌そうな声の主は、アル・アンジュだった。
「まだマドゥスに帰還して十日だよ。それにもうじき冬だ。今年の航海はこの間ので最後だよ」
 そう答えたのは航海長でもあり、アル・アンジュの叔父でもあるフェランだった。
「家族や恋人とゆっくり過ごす時間も必要なんだよ。しかも今回の実入りは相当なものだったから、水夫たちも十分な分け前にありつけたからね」
「でも、まだ秋が始まったばかりよ。叔父さま」
「航海長って呼ぶんじゃなかったのかい?」
「船を降りたら、叔父さまでいいの」
 アル・アンジュにも乗組員の休息が必要なのはわかっている。秋の始まりというのも嘘だ。もう風が冷たくなってきていて、冬が近くまで来ているはわかっている。それでも次の航海が待ち遠しくてならないのだ。
 エセルディアの輸送船を襲撃した後、アル・セイラ号は母港であるマドゥスに帰還していた。積荷のほとんどは香辛料で、これを売り払うと相当な額になる。アル・セイラ号は気前のよいことでも有名な船である。決まった給金だけを水夫たちに払って利益を船長が独り占めする船も多いなか、アル・セイラ号では、航海に必要な経費と出資者への配当金と国に治める税を差し引いた残りを、働きに合わせて乗組員たちに分け与えてしまう。
 気前のいいアル・セイラ号のことは、水夫たちにも噂になり、腕の良い水夫が集まる。そして腕の良い水夫が力を存分に出せば、また良い航海ができる。
 そうやって、アル・セイラ号はこのマドゥスの港だけでなく、バスティア国でも名高い海賊船として知れ渡っていた。
 バスティアは南大陸アゼルラントの西海岸に位置する。バスティア湾そのものがバスティアとしてひとつの国を形成していて、国としてはごく小さな領土しかもたない。三方を急峻な山脈に囲まれているため、バスティア湾による船の交易のみが人々の暮らしの支えである。
 そのため、造船技術は二つの大陸の中でも随一を誇る。バスティアの一の港であるマドゥスには、巨大な船渠が三つもある。これは北方の雄エセルディアでもかなわないものであった。
 いま航海を終えたアル・セイラ号は、この船渠のひとつに修繕に入ったばかりだった。大きな被害はなかったものの、今季の就航はもうないというフェランの判断で、総点検をするためである。
「そういうことって、船長が決めると思っていたんだけど」
「あぁ、すまなかったね。アル・アンジュが忘れているんじゃないかと思ったから、指示しておいただけだよ」
「わたしは、今年のうちにもう一回くらい航海に出たかったの」
「でも、もうこちらに帰還する船はないと思うよ」
 冬のパセティナは航海には向かない。下手をすると嵐に巻き込まれる恐れがあるため、長距離の航海は避けるのが普通だ。
「内海メディナでも良かったのに」
「アル・セイラ号は、内海向きじゃないよ。わかってて言ってるだろう。アル・アンジュ、そういうのをわがままというんだよ」
「わかってるけど、つまらないのよ」
 アル・アンジュは手持ち無沙汰に、黒い巻き毛を指にからませながらぼやいていた。こうした仕草は確かに十五歳の娘だった。
 乗組員たちは、マドゥスに帰還すると同時に休みに入った。他の船なら帰港と同時に船を降りるものも出てくるが、アル・セイラ号に限ってそれはない。皆、次の航海での再会を約束して家族の元へ帰った。
 アル・アンジュには帰る家がない。
 母が幼い頃に亡くなったとき、船乗りだった父は自分の家を手放した。帰港したときには、マドゥスの宿屋に泊ることにしていた。人の住まない家は荒れるものだし、自分たちの家はアル・セイラ号だというのが父の持論だったからだ。
 昨年父が亡くなり船長を継いだ後、アル・アンジュは父と同じように帰港したときには宿屋に泊るようになった。それは母の歳の離れた弟であるフェランも同じである。
 船長である父が亡くなったあと、父の右腕として航海長を務めていたフェランが船長になると思われていた。その頃、アル・アンジュはフェランについて航海士の仕事を手伝っていたに過ぎない。しかし、フェランは船長になることを固辞し、アル・アンジュを船長に推した。驚いたことに、乗組員の誰一人として、その意見に反対しなかったのである。
 その理由は、アル・アンジュの船長としての初航海でバスティア中に、いや大洋パセティナ中に知れ渡った。
 たった一隻のアル・セイラ号が、三隻のエセルディアの護衛船を沈め、輸送船を拿捕したからだった。
 アル・アンジュ自身は、それは幸運だったからだとうそぶいていた。しかし、アル・セイラ号の乗組員は確信していた。
 風を読むこと、海流を読むことにかけては天与の才があることを。
 船を自分の手足のように動かし、常に相手の先に回り優位に立つ。アル・アンジュにはそれが可能だったのだ。
 船に乗ること。それはアル・アンジュにはあまりにも自然で、それが彼女の人生そのものだったのだ。
「陸(おか)にもいいことはあるよ」
 帰港するたびに定宿にしている宿屋の女将は、アル・アンジュに良い匂いのする煮込みを差し出した。
「こんな手の込んだ料理は船の上じゃありつけないでしょ」
「確かにそうね。ジェナおばさんの煮込みは、陸の味だわ」
「こいつはね、三日もかけて煮込むんだから」
「船の上だと火の入った料理はちょっとね」
「わたしゃ、火の入ってない料理をひと月も食べられないっていうんじゃ、船に乗るのはごめんだよ」
「生の魚もおいしいけど。ああでも、確かにこの煮込みには負けるかも」
 アル・アンジュとフェランは久々の陸の味に舌鼓を打ちながら、今後の航海についての話を続けていた。
「ねぇ、来年こそは新大陸へ行きたいの」
「オルサゴへ?」
「うん。叔父さまは行ったことがあるのよね?」
「随分前のことだけどね。あの後、義兄さんは二度と新大陸へは行かなかったから」
「どうしてかしら。前の航海のときは、まだ私は生まれていなかったし」
「さあ。ただ、新大陸で直接交易をするより、今のように海賊家業をするほうがよほど効率的ではあるけどね」
「そんなに危険てこと?」
「もちろん航海も危険だけれど、何よりもオルサゴの人間との交易が大変だからね。首尾よく香辛料が手に入るとは限らない」
「エセルディアはどうやって手に入れてるの」
「あれは交易とは呼べないね。ほとんど略奪だ。確かにに見ていて気分のいいものじゃない。義兄さんはあれが嫌だったのかもしれない」
 新大陸の現状は、遠すぎて情報が少ない。アル・アンジュが知っていることは、あまりにも限られていた。
「憧れだけで行ける場所ではないよ」
「憧れってわけじゃないけど。船に乗っている限り、一度は行ってみたいじゃない?」
「そういうのを憧れっていうんだよ。覚えておくといい」
「なんか、今日の叔父さまっていじわるよね」
「そうかい。いつもと同じくらいのいじわるだと思うけど」
 フェランはアル・アンジュには甘すぎるくらい甘いが、航海のことについては一歩も譲ることはない。アル・アンジュの船長としての判断には従うが、航海そのものについては、航海長であるフェランは船長に意見する権利がある。
 アル・アンジュが何と言おうとも、アル・セイラ号が船渠に入っている以上、今季の航海はないだろう。このまましっかり油を塗りこんで、冬を越すことになる。例年よりは少し早いが、確かに外の風は随分冷たくなっていた。

「嬢ちゃん! じゃなかった船長はいるかい?」
 宿屋の扉を威勢よく開いたのは檣楼手のカルロだ。耳慣れただみ声が一階の酒場中に響く。
「いるわよ。ちょっと、船の上じゃないんだから、そんなに声を張り上げなくても聞こえるって」
「いけねぇ。ついついマストの上の癖が抜けなくってよ」
 少し声を押さえたつもりだろうが、十分大きな声で、するりするりとテーブルの間をかきわけてアル・アンジュたちの元に近づいてきた。普段、メインマストの檣楼に上って敵を見つけているだけあって、身の軽さと目の良さだけは一級品の男だ。ひょろりとした痩せた男で、声は潮風にあたっているせいか、がらがらのだみ声だ。
「航海長も一緒とは都合がいい。船長、ちょっといいですかい?」
「いいかどうかって、もう座りこんでるじゃない」
 フェランがふたりのやりとりの間にカルロの分の酒を注文すると、カルロが軽くフェランに頭を下げた。酒を受け取り、ぐびりと一杯やった後、今度は本気で声を潜めたカルロが、アル・アンジュとフェランに顔を寄せて話をつづけた。
「この後、もう一度、海に出るって話があるんですがね」
「アル・セイラ号は、もう船渠で冬眠中だ」
 フェランがすかさず釘を刺したが、なおもカルロは話をつづけた。
「新大陸航路じゃねぇんです。北っかわへちょっと小舟で散歩って感じなんですが」
「アル・セイラ号じゃなくてってこと」
「そおっす」
 カルロの話によると、バスティアから北大陸へ渡りたい人間がいるそうだが、船がなくて困っているとの話だった。バスティアは貿易の要所であるため各地への定期航路も充実している。わざわざ船を仕立ててというのは、何か裏が感じられた。ただ、カルロはアル・セイラ号の乗組員の中でも古株で、アル・アンジュの父親に拾われてから、フェランの弟分として実績を積み重ねてきた信頼できる男だ。話だけなら聞く価値はある。
「それでどこへ行くっていうの?」
「エセルディアっす」
 アル・アンジュとフェランが一瞬固くなった。エセルディアは現在バスティアと敵対関係にある。いくらバスティアからの定期航路が充実しているとはいえ、確かにエセルディアへの便はない。
「直行便はなくても、ガリシアでも、クーレでも経由して乗り換えればいいじゃない」
 ガリシアは北大陸の先端にある岬であり、クーレは南大陸の内海に面した穏やかな港町だ。どちらもバスティアほどではないが、交易の要所で乗り換えの船も多い。遠回りにはなるが、北大陸へ渡るにはその方法をとることのほうが多いだろう。
「そうなんですが。ちょっと急ぎらしくてですね。それにもう秋も深くなってきて」
 この二つの大陸の西岸は、秋の終わりから冬にかけて嵐の時期に入る。新大陸航路は言うに及ばず、近海を航海するのにも危険と隣あわせになるため、定期航路も欠航になることが多い。ガリシアやクーレを経由するとなると、下手をすればそこで春まで足止めということもありうる。
「わたしは反対だよ」
 アル・アンジュの返答を待たずにフェランが答えをだした。
「航海長、そんなすぐに答えを出さずに話を最後まで聞いてくだせぇ」
「この話には裏がありそうだからね。カルロのことだ、報酬に目が眩んだってわけではないだろう」
 カルロは金に目ざとい男だが、実は金だけでは動かない男でもある。フェランはそのことをよく知っていた。
「ご名答! 実はこの航海では、エセルディアのエリー・エゼルに帰港するんす!」
「エリー・エゼル?」
 アル・アンジュとフェランが声を揃えて聞き返した。
「しぃー! ふたりとも声が大きい」
 普段一番声が大きいカルロにたしなめられて、ふたりとも小さくなった。
 エリー・エゼル港は、エセルディア最大の軍事港だ。巨大な船渠を持ち、次々と最新式の護衛船を造り出していることで有名である。先日やりあった護衛船に搭載されていたエリー砲もその成果のひとつである。それらの秘密を守るため商船の出入りは最小限に制限されている。もし、エリー・エゼル港に潜入できるとすれば、そこで得られる情報の価値は計り知れない。
「叔父さま、やってみましょうよ!」
「いや、ますます怪しい。そもそも、そのエセルディアに行きたいという人間は何者なんだい。まさかエセルディア人がバスティアに潜入していたというわけじゃないだろう」
 エセルディア人の間諜をバスティアの人間である自分たちが手助けするわけにはいかない。
「そのまさかっす」
「はっきりしないわね。誰なのよ」
「おれも良くは知らねぇんです。ただしこの仕事はバスティア大公からの依頼なんす。確かに裏から回ってきやしたが、それは間違いないっす」
 カルロは目がいいだけではなく、耳も早い。港町に入るとどこの誰よりも情報を早くつかんでくる。バスティア大公の家臣が何やら秘密裡に船を探そうとしているのを嗅ぎ付けこの話をアル・アンジュのもとに持ってきたというわけだった。
 冬が近いこの時期に船を出せる人間には限りがある。また確実に秘密を守れる人間でなければならない。それを兼ね備えている船乗りを探すのは難しい。まさにアル・アンジュたちはうってつけというわけだ。
「でも、エセルディアにすれば、誰よりも港にいれたくない人間のはずよ。アル・セイラ号の船長なんてね」
「もちろん、アル・セイラ号のことは、一言も口にはしてねぇっす」
「バスティア大公からの、しかも裏からの依頼ということは…」
「密使」
「ということだろうね」
「しかもエリー・エゼルに入港するということは、軍人ということよね?」
 フェランが顔を少ししかめて頷いた。このバスティアの船もエセルディア海軍には何度も痛い目にあわされている。もちろん、アル・セイラ号も何度も戦ってきたが、いまのところは互角以上の戦果を挙げてきている。
 エセルディアの軍人にバスティアの内情を知られるわけにはいかないため、急遽、商船をでっちあげ、その船でエセルディアまで航海しようというのだ。
「なら、今回だけはわたしが船長というわけか」
 フェランがアル・アンジュに目くばせをした。十五歳の少女が船長となれば、エセルディア人に『黒い嵐』だと言っているようなものだからだ。
「仕方ないわよね。じゃ、今回だけは航海士見習いに戻ることにする」
「良かった! 引き受けてくれるんすね!」
「まあ、仕方ないだろう。エリー・エゼル港に入れるとなればね」
 渋々というふりをしながらフェランがうなづくと、カルロはほっと胸をなでおろした。
「実は船を手配しちまったんですよ。前金ももらっちまったし」
「ちょっと、やっぱり報酬が目当てなんじゃないでしょうね!」
「やるからには、もらえるもんもらったほうがいいでしょ」
 カルロはそううそぶくと、来たとき同様にするするとテーブルの間をすり抜け、宿屋を後にした。あの様子だと主だった仲間たちに声を掛けにいったに違いない。
「カルロは檣楼手よりも会計係のほうが向いているかもしれないね」
 フェランがやれやれといった様子でカルロを見送ると、軽く溜息をついた。
「せっかく、ゆっくりできると思っていたのにね」
「冬眠している場合じゃなくなりそうよ。叔父さま」
「船長だろ、航海士見習いくん」
「それは、船に乗ってからね」
カルロの行動は、アル・アンジュとフェランの想像を超えるほど素早かった。
 ふたりに相談をもちかけた二日後の早朝、マドゥスの港に乗組員たちの姿があった。
「嬢ちゃん! 待ってましたぜ!」
「もう、嬢ちゃんじゃなくて…」
 船長と呼べと続けようとして、この航海では船長ではないことを思い出して、言葉を飲み込んだ。エセルディアの人間がこの場にいないとは限らない。ここでアル・セイラ号の船長だとばれるのはまずい。
「見てくだせぇよ! なかなかいい船でしょ」
 アル・アンジュにとって、アル・セイラ号以上にいい船はないのだが、カルロがこの短期間で準備した船を目にして、少し驚いた。それは隣にいたフェランも同じようだった。
「おやおや、これは…」
「快速船ね」
 今回の条件は商船ということだった。そのためでっぷりとした輸送船を用意してくると思いきや、港で待っていたのは小型でかつ帆走が良さそうな快速船だった。艤装は商船らしく拵えてあるが、喫水の浅さや帆の形などから、船に詳しいものが見れば、船足の速さが伺える。また、外洋向きのアル・セイラ号などと違って、操船にかかる水夫の数も少なくてすむ。その反面、多くの貨物を積むには向いていない。つまり商船には向いていない帆船ということだ。
 カルロは得意気にふたりに向きなおって説明した。
「冬がくる前に、マドゥスに帰ってきたいっすからね」
「確かに、送り届けたはいいが、帰途にガリシアあたりで春まで足止めっていうのは勘弁してもらいたいところだね」
 フェランがカルロの意見に賛同する。
「船足だけは保証するぜ!」
 背後から、造船技師で船大工のヴァイダが顔を出した。彼はこのバスティアでは有名な造船技師で手掛けた船は数知れない。アル・セイラ号も彼が設計した船だった。忙しい男だが、アル・セイラ号が出航するときはすすんで船大工として乗り込んでくる。前船長だったアル・アンジュの父の親友でもあり、フェランもヴァイダには全幅の信頼を置いている。というよりも、頭があがらないところがある。
「ヴァイダ! この船、あなたが設計したの」
「ああ、そうさ。実のところ大公さんの秘蔵っ子だったんだがね」
「大公の?」
「御座船にでもするつもりだったんだろうさ。数年前に、とにかく足の速い船が欲しいと注文があった。だが、大公さんはあの通り寝たっきりになっちまってるからな。そのままお蔵入りさ」
 バスティア大公は、もうかなりの高齢だ。二年前、病を患って以来寝付いているという噂もある。現在では孫娘のクラリシア公女と宰相が補佐して何とか国を動かしているようなものだった。
「今回の話をカルロから聞いて、こいつの出番だと思ってな。大急ぎで艤装だけ変えておいた。フェラン、今回の航海はお前が船長だってな」
「ああ」
「こいつは処女航海だ。よろしく頼むぜ」
「わかった。それでこの船の名前は?」
 フェランの問いに、ヴァイダとカルロが顔を見合わせてにやりと笑った。
「アル・フェリア号だ!」
 その名前を聞くなり、フェランが大きく顔をしかめた。
「なんだ、その名前は! 大公殿下が注文された船なら、ちゃんとした名前がついているだろう」
「それが、注文しっぱなしで、船名も決まってなかったのさ。そこでお前さんが船長だって聞いてな。名前を使わせてもらうことにした」
 アル・フェリアというのは、フェランの女名だ。船には女性の名前を付けることが多いが、フェランの名前をそのまま女名にしたわけだ。
「なんだが、わたしが女装させられたみたいじゃないか!」
 フェランには珍しく声をあげて抗議をし始めた。
「フェランが女装したら、港の男が涎をたらして追いかけまわしそうだけどね」
 脇から茶々を入れたのは、砲撃手のユリザだ。確かにフェランは海の男とは思えないくらい綺麗な顔立ちをしている。髪の色はアル・アンジュと同じ漆黒だが、くせのないまっすぐの艶やかな髪を長く伸ばし背の中央でまとめている。切れ長の目元は涼しげで、やわらかな微笑みをたたえていることが多い。確かに女であれば極上の美人に違いない。ただし長身なため、女装には少し無理がありそうな気はする。
 フェランは少年の頃しょっちゅう女に間違われて、さんざん男たちに追いかけまわされた記憶があるらしく、女顔だとか、女装が似合いそうだと揶揄されることをことのほか嫌っている。それを承知でからかうことができるのは、このマドゥスでもヴァイダくらいのものだろう。普段は口にできなくても、ヴァイダの言葉に乗っかって悪ふざけをするのは、水夫たちの悪い癖だ。
「悪くないと思いますよ。アル・フェリア号。綺麗な響きじゃありませんか」
 そう言って、賛同してきたのは船医のマリゼ。ユリザの双子の妹だ。穏やかな微笑みを浮かべながら、不本意だと顔に書いているフェランの横を通り抜けて行く。乗組員たちが続々と集まって、荷を積み込み始めながら口々に船に向かってこういうのだ。
「よろしくな。アル・フェリア!」
 それは出航前の水夫が乗り込むときに口にする船に対しての挨拶で、特別のものではないが、その言葉を聞くたびにフェランの顔が朱く染まっていく。
「ちょっと待ってくれないか。まだ、アル・フェリア号に決まったわけじゃない」
 本来、船名をつける権利がるのは、船主か船長だ。大公が船主というのであれば、自分の名をつけるははばかられるという理由で、名前を変えさせたい。
「往生際が悪いぜ。フェラン」
「いや、仮にも大公殿下の御座船として建造された船だろう。勝手に命名するわけには…」
「いいって、いいって。大公さんも注文したこと忘れてるかもしれんしな。まあ、全額前金でもらってるから構わないんだが」
「叔父さま…」
「なんだ」
 不機嫌まるだしでフェランが答える。
「あの、言いにくいんだけど…。船尾を見て」
 そう言って指で示した先には、『アル・フェリア』とでかでかと優美な文字で名前が書かれていた。
「おう、昨日俺たちで書いといたぜ! なかなかうまく書けてるだろう」
 ヴァイダが胸をはって宣言すると、フェランはがっくりと肩を落とした。ここまでされた後では、船名を変えたいと言ってももう無理だ。
 ヴァイダはフェランの肩をばんばん叩いて笑い飛ばすと、船を見上げて大声で挨拶した。
「よろしくな。アル・フェリア!」
 大股で船に乗り込むヴァイダの後ろを慌ててアル・アンジュも追いかけた。
「よろしくね。アル・フェリア」
 さすがに小声で船に挨拶すると、フェランが恨みがましく睨みつけてきた。なるべく目を合わせないようにして小走りでアル・フェリア号に乗り込んだのだった。

 夜明けと同時に荷の積み込みを始めたアル・フェリア号は、昼前に出向の準備をすべて終えていた。マドゥスの港から出航するのは、潮の流れから午前中が望ましい。しかし、肝心の乗客が一向に姿を現さなかった。
 カルロは出航前にもかかわらず、檣楼に上がって約束の男が来るのを見逃すまいと待ちかまえていた。
「カルロ、あなたの情報、確かなんでしょうね」
「もちろんっす」
 アル・アンジュが少し苛立ちながら、カルロを問い詰めていると、ヴァイダが横から助け舟を出した。
「嬢ちゃん。カルロを責めるなよ。ほらよ、あれじゃないか」
 ヴァイダが視線で示した岸壁の上には、マントをまとった男の姿があった。カルロがほっとした表情で鏡を懐から取り出すと、光を反射させて合図を送った。男もその合図に気付いたようで、アル・フェリア号に近づいてきた。
 男は船上のカルロに向かって軽く礼をすると、桟橋から乗船してきた。それを確認したフェランは水夫に指示し、錨をあげさせた。
「挨拶は後だ。潮が変わる前に出向する!」
 フェランの一声で、アル・フェリア号は、マドゥスの港を後にした。帆を大きく膨らませ風を掴むと、滑るように海上を走り出す。ヴァイダの言葉通り、船足だけは文句なしの船のようだ。
 バスティア湾を出て、南大陸沿いの航路を北にとる。肉眼でぎりぎり陸が見える程度の距離をとることで、この季節特有の偏秋風と呼ばれる風を受け北上するのだ。航行が安定するのを見極めて、フェランは舵をヴァイダに任せた。ヴァイダは本来、造船技師かつ船大工だが、今回の航海に限って航海長として乗り込んでいる。これは、気楽な船大工が気に入っているヴァイダに対してのフェランの嫌がらせだった。
「さて、お客人。挨拶が遅くなってすまなかったね。わたしがこの船の船長のフェランです」
「こちらこそ、乗船が遅くなってすまなかった。エドアルドだ」
 そう名乗った男は、フェランと同じくらいの長身だった。どうみても商人には見えないが、貴族のお坊ちゃまにも見えない。どこか硬質の鋼のような雰囲気をまとった男だ。褐色の髪は染粉で染めたようで艶がない。南大陸のアゼルラントでは、ほとんどの者が黒髪か暗褐色なので明るい髪色で目立つのを嫌ったのだろう。目の色は、はっとするほど明るい氷のような青で、暗い髪の色とのアンバランスさが返って人目を引く。
「随分と小型船なのだな。港で商船を探していては見つからないはずだ」
「うちは、郵船ですのね」
 これはヴァイダが考えた言い訳だった。確かにアル・フェリア号を商船や輸送船と言い訳するには無理がある。そこで郵便物や小型貨物だけを扱う郵船ということにしたのだ。
「なんにせよ、足が速いのは助かる。どこを経由する?」
「どこにも寄港しません。直接エセルディアに向かいます」
 フェランの言葉に、エドアルドが怪訝そうな顔をした。エセルディアは、北大陸の中でももっとも北方に位置する国である。バスティアからの距離を考えると一度はどこかに寄港して補給をするというのが一般的な考えだろう。直行ができるのは、この船の足と操船技術の両方が揃っているからこその離れ業だ。
「お急ぎだと聞きましたのでね。それに今回のお客人はあなただけだ。他の港に寄り道する理由がありません。こちらに来られたときは、どの航路でいらしたのですか?」
「ガリシアまでは陸路で、そこからは定期船でバスティアへ入った」
「エセルディアからガリシアまで陸路? 余計な時間がかかったのでは」
「船に乗っていてはわからないことがいろいろ見られて、面白かった」
 エドアルドのその答えは、普段は船に乗っているということを意味している。浅黒い南大陸の人間とは違う白い肌をしているが、精悍な顔つきは海の男の匂いがする。もちろん海賊家業のアル・アンジュたちとは、どことなく品がありそうなところが大きく違ってはいる。
 アル・アンジュは船長ではなく、航海士見習いという扱いでアル・フェリア号に乗り込んだ。父親が生きていた頃に、航海長のフェランにくっついてやってきたことと同じなので慣れたものだ。ただし、この航海の航海長を務めるヴァイダの扱いには困っていた。船大工は船に損傷がない限り、基本的に仕事はない。人手が足りないときは甲板仕事を手伝うこともあるが、ほとんどは暇を持て余してのんびりしていることが多い。それに対して、航海長の仕事は激務である。出航の手続きから始まり、航路を維持するために風向きと潮流に常に気を配り、昼は海図と夜は星図と睨み合いになる。
 眉間に深いしわを寄せて海図を読んでいたヴァイダは、とうとうコンパスを放り出した。
「ああ、おれはもうダメだ。フェランの奴はいつもこんなことしてるのか」
「叔父さまは、いつも文句ひとつなくこなしてるわよ」
「おれは、設計机を離れてのんびりするために船に乗ってんだ。なのに、なんでこんな目にあわなきゃならないんだ!」
「ヴァイダが叔父さまに意地悪したからでしょ」
 アル・アンジュは、ヴァイダが投げ出したコンパスを拾い上げて、海図を見ながら距離を計算し記録をつけていく。こうしてこれまで船が進んできた距離と方向、そしてこれから進むべき航路を把握していくのだ。
「手慣れたもんだな」
「まあね。生まれたときから乗ってるし」
 と思わず答えたところで、問いかけた声の主に驚いて振り返った。声を掛けたエドアルドは、アル・アンジュの手元を興味深そうに覗き込んでいる。
「この海図は?」
「近海航路のものだけど」
「どこで手に入る?」
「南大陸の大きな港ならどこででも売ってるんじゃないかしら」
 それは嘘だ。その海図はアル・アンジュの父が航海を重ねながら造りあげたものでどこにも売ってはいない。海を行くものなら金を積み上げてでも欲しがる代物だ。
 エドアルドも嘘だと見抜いたのかも知れないが、それ以上の詮索はしなかった。
「バスティアの船には女性も乗っていると聞いてはいたが、本当なんだな」
「そうよ。エセルディアの船には乗っていないの?」
「ああ。船に乗るのは男と決まっている」
「つまらない決まりね」
 バスティアは小さい国のため船乗りを男と限ってしまうと人手が足りないのだ。優秀な船乗りならば男女を問うてはいられないというのが実情だ。とはいえ、まだまだ女の船乗りは多くはない。このアル・フェリア号には、アル・アンジュと砲撃手のユリザ、船医のマリゼの三人が乗り込んでいるだけだ。
「航海には危険がつきものだからな。そんな場所に女性を連れていくわけにはいかない」
「嵐にあうかもって?」
「それだけではないな。海賊にあうこともある」
「そうね」
「おまえは怖くないのか?」
「おまえ呼ばわりはやめてくれない。わたしは…」
 アル・アンジュは名乗ろうとして、答えに詰まった。ここで本名を知られるわけにはいかないが、咄嗟に偽名も思いつかない。
「セイラ、記録はつけたのかい?」
 その言葉に驚いて振り返ると、フェランが軽く片目を閉じてアル・アンジュに合図をした。セイラというのはアル・アンジュの母の名前だ。フェランも咄嗟に出てきたのがその名前だったのだろう。
「エドアルド殿、紹介しておきましょう。わたしの姪のセイラです。今は航海士見習いをさせている」
「セイラというのは、バスティアの古い言葉で海を意味するとか」
「そうです。海の女には良い名だと思いませんか」
「確かに。だが、船の名前となると、いささか厄介だが」
 セイラという名前自体は、どの港にでもひとりはいそうな平凡な名前だ。アル・アンジュの母の名をとってつけられたアル・セイラ号は、現在では数ある海賊船のなかでも五つの指に入るほどのものとなっている。
「セイラ、仕事の邪魔をして悪かった」
 そう言い残すとエドアルドは狭い船室に帰っていった。
「叔父さま、助かったわ」
「先に名前を決めておくべきだったね。姉さんの名前を借りることになってしまったが」
「なんか、変な感じだけど仕方ないわ。取りあえずこの航海の間だけなんだし」
「皆にも伝えておくよ。アル・アンジュなんて呼ばれたら、せっかくのエリー・エゼル入港がふいになる」
「そうね。お願い」
 アル・アンジュは軽く溜息をつくと、空を見上げた。ひんやりとした秋風が肌に触れる。暗い雲が西陽を隠すように覆い始めていた。
天気の変わり目は、西陽が落ちる前にやってきた。
 霧のように小さかった雨粒はあっという間に大粒の雨になり、叩きつけるような豪雨に変わっていった。
 アル・アンジュは、ほんの赤子の頃から船に乗っているため嵐には慣れたものだが、今回は少し勝手が違った。
 いつも乗っているアル・セイラ号と違いこのアル・フェリア号は小型船で喫水が浅い。そのため波の影響を受けやすいのだ。
 まともに横波を受けると転覆する恐れがある。波に対して常に船首を向けるよう舵を取らねばならないが、そうすれば下手をすると外洋に流される恐れがある。この嵐では厚い雲に遮られえて星を読むこともかなわないため、どれだけ流されたか把握するのは難しい。
 それでも、まず嵐を乗り切ることが先決だとフェランが舵をきった。この船には嵐で大騒ぎするような乗客がいないことが何よりの幸いだ。いや、ひとりだが乗客はいた。
 エドアルドだ。
「こんな嵐はよくあるのか」
「もう秋も終わりだからね。これくらいの嵐は珍しくないわよ」
 アル・アンジュも甲板を走り回ってはいたが、他の水夫たちよりは手が空いていると思われたのだろう。
「何か手伝うことはあるか?」
「ないわ。船室にいたほうがいいわよ。甲板にいると波に攫われても知らないから」
「船室にいてそのまま沈没するよりは、海に投げ出されたほうがマシだな」
「縁起でもないこと言わないで」
 帆柱に帆綱を固定するアル・アンジュの手元を見て、エドアルドが横から手伝った。その手つきは素人のものではなかった。
「あなたも船乗り?」
「商船ではないがな」
「海賊にも見えないけど」
「無駄口を叩いている暇はなさそうだ。雷が来るぞ」
 エドアルドの言葉通り、少し離れたところに稲光が見える。すぐにこちらに向かってくるだろう。海の上には落雷する場所がない。帆船のマストは格好の標的になってしまう。なんとしても雷雲の下にいかないよう操船する必要がある。
「船長!」
 エドアルドがフェランの姿を見つけて呼び止めた。
「このままでは、雷の餌食になるぞ!」
「波の餌食にならずに済めばね」
 お互いに風の音に負けないほどの大声を張り上げて応戦していたが、それを遮ったのはアル・アンジュの声だった。
「叔父さま、メインセイルを張りましょう」
 アル・アンジュの提案に、フェランもエドアルドも一瞬言葉を失った。
「風をもろにくらって転覆するぞ!」
 エドアルドが即座に否定したが、アル・アンジュも一歩も引かない。
「たぶん大丈夫よ。一番下のメインセイルだけを張れば安定性はそんなに悪くならないはず。波に乗っているだけでは、嵐の下からは抜け出せない。逆にこの風を利用して脱出することを考えたほうがいい」
 フェランの判断は素早かった。
「誰かヤードに上がれる者はいないか! メインセイルを張れ!」
 その声を聴いて一番にマストに手を掛けたのはユリザだ。こういう時は身の軽い女性のほうが上がりやすい。そうなると逆側のヤードに上がるのも体重の釣合が取れる人間になる。フェランの指示が飛ぶ前にアル・アンジュがマストに向かって走りだした。その背にエドアルドの声がかかる。
「セイラ! この風の中、大丈夫なのか?」
「わたしが言い出したんだから、わたしがやるわ!」
 そう言い残すと、マストに手をかけメインセイルのヤードまで登った。すでにユリザは帆の綱に手をかけている。アル・アンジュは素早く綱の結び目を解くと、ぐっと綱を握りしめた。帆を張る瞬間は両側で合わせないと船の均衡を崩す恐れがある。この風雨の中ではお互いの声は聞こえない。相手を信頼するしかないのだ。反対側にいるユリザが頷いたように見えた。実際には雨に霞んでお互いの姿がはっきり見えるわけではない。でも頷いたとアル・アンジュは思ったのだ。その瞬間ふたりは帆綱を離した。
 メインセイルが風をはらみ、船体が大きく揺れた。しかし、アル・アンジュがいったように船は安定性を何とか保ち、風の力で勢いよく走り出した。
 その様子を確かめて、反対側のユリザがマストを降りた。アル・アンジュもそれに続いて降りようとしたとき、風に煽られた綱がその足を打ち付けた。足元を掬われたアル・アンジュの体は空中に投げ出されたが、かろうじて帆下駄を掴んで腕一本で身を支えているような状態になった。
 フェランはすぐにその状況に気付いたが、舵から離れることはできなかった。一度マストから降りたユリザがもう一度助けに戻ろうとしたところをヴァイダが引き止めた。
「ばかやろう! 今の状態でふたりもヤードにあがったら、バランスが崩れる!」
「そんなこと言ったら、どうやってあの子を助けんのよ!」
 ユリザがヴァイダの耳元で怒鳴り返した。ヴァイダはヤードにぶら下がっているアル・アンジュに向かって、ユリザ以上の大声で怒鳴った。
「嬢ちゃん! 飛び降りろ!」
「この、馬鹿大工! こんだけ船が揺れてんのよ! 甲板じゃなくて海に落ちたら助かんないわよ」
「一か八かやるしかねぇだろ! ありったけの帆布をここに積むんだ! 早くしやがれ!」
「だめだ!」
 エドアルドがヴァイダの肩を掴んで止めた。
「足元をよく見ろ、綱が絡まっている。このまま飛び降りたら逆さづりになるぞ」
「くそっ! 八方塞がりかよ!」
「マスケット銃はあるか?」
「何に使うんだ」
「足に絡まっている綱を斬る」
「銃でか?」
「そうだ」
 ヴァイダはエドアルドの言葉に耳を疑ったが、どんなことでもやってみるよりほかはない。
「誰か船倉から銃をとってこい!」
 マスケット銃を受け取ったエドアルドは、慎重に狙いを定めて撃ち放った。その銃声は嵐をつんざくように響き渡り、銃弾は正確にアル・アンジュの足を絡めとっていた綱を切り裂いた。
「いまだ、嬢ちゃん、飛び降りるんだ!」
 アル・アンジュは感覚が消えそうになっていた腕から力を抜いた。風に煽られながら飛び降りた先は甲板に積み上げられた帆布の上だった。
 そのやわらかな感触に吸い込まれるようにアル・アンジュは意識を失った。

 骨ばった大きな手だった。船乗りは帆綱を扱うのでどうしてもごつごつとした節ばった指になるものだ。
 きっとそれは父さんの手だ。
 フェランの手はもう少しほっそりとしている。口にすると怒るだろうが、女の人のような細い指をしている。最近は水夫のように帆綱を扱うこともなく航海長の仕事に専念しているから、海の男らしく手のひらにあったマメもなくなってしまって、ますます女性のようなやわらかな手なのだ。
 アル・アンジュは自分の額に乗せられた手の大きさを感じながら、半分夢の中にいた。父親の顔が見たいと思って、ゆっくり瞼を開けた。
「熱は下がったな」
 だが、そこにいたのは、父ではなくエドアルドだった。しかし、その姿は嵐の前にみたときとまったく違っていた。暗褐色だった髪が淡い金髪になっていたからだ。声を聞かなければ、エドアルドとわからなかったかもしれない。
 アル・アンジュは目を開けたことを少し後悔した。もう少し父の夢を見ていたかったからだ。けれどエドアルドの声を聞いてすっかり目が覚めてしまった。
「嵐は?」
「とっくに抜けた」
「わたし、どのくらい眠っていたの?」
「丸一日」
「…」
 嵐の中、皆が必至で切り抜けようとしていたとき自分は熱を出して寝込んでいたのかと思うと、自アル・アンジュは分の未熟さに落ち込んでいた。
 大きな手が、うつむいて唇を噛んでいたアル・アンジュの頭をくしゃくしゃとかき回した。それは、アル・アンジュが小さな頃、父親が涙ぐむ自分にやってくれた仕草とよく似ていた。
「おまえは良くやったさ」
「…おまえって呼ばれるの好きじゃない」
「セイラは良くやった」
 アル・アンジュはうつむいていた顔をあげて、エドアルドの顔をみた。
「あの状況でメインセイルを張るという判断は難しい」
「判断したのは叔父さまよ」
「セイラは、メインマストを張っても船は転覆しないと見極めていたんだろう?」
「それは、この船の構造とメインマストの大きさから考えると大丈夫かなって…」
「それは熟練の船長でも難しいことだ。実際フェラン船長も思いついていなかったはずだ。わたしが船長でも、嵐の中で帆を張ると考えられたかどうか」
「わたしは、生まれたときから帆船に乗っているんだもの。なんていうか感覚でわかるというか」
「そうか。その感覚とやらは、何物にも代え難いということだな。その感覚でわたしたちは命拾いをしたんだからな」
 エドアルドの言葉にアル・アンジュは少し救われたような気持ちになった。そして、目を覚ましたときから気になっていたことを尋ねた。
「髪の色…」
「ああ、あの嵐ですっかり染粉が落ちてしまったな。しかし、南大陸をたった今では、染め直す必要もないだろう」
 エドアルドの髪は月光を集めたようなごく淡い金髪だった。染粉が落ちた髪はもとの艶やかさを取り戻し、こうしてみると氷のような薄い青の瞳とよくあっている。
「金色だったんだね。エセルディアの人はみんなこんな色?」
「いや、もう少し濃い金褐色の者が多い。わたしは船に乗るから、潮で灼けて色が落ちているんだ。おまえの、セイラの髪は潮に灼けてもそんなに黒いのか?」
「髪が潮で灼けたら薄くなるっていうのがわからない。肌でも髪でも灼けたら黒くなるものなんじゃないの?」
 アル・アンジュの肌は日に灼けた褐色で、船乗りたちは多少の濃淡はあっても、褐色の肌をしているのが普通だ。マリゼのような船医で船室に籠っているのならば別だろうが。
「そうか。南大陸の人間とは肌も髪の色も違うからな。わたしはいくら肌が灼けても多少赤くなるだけで、そんな褐色の肌にはならない」 
 そういったエドアルドの肌は確かに船乗りとは思えないような色白だった。
「おまえ、いやセイラは航海士見習いだったな」
「もう、言いにくかったおまえでもいいよ。そう、航海士見習いだけど」
 アル・アンジュの許しに、エドアルドは少し笑いを浮かべると、話を続けた。
「エセルディアに着いたら、うちの船にこないか。見習いではなく航海士として雇おう」
「え?」
 アル・アンジュは思いがけない言葉に思わず答えがでなかった。
「わたしは、おまえが気にいった。操船の技術も航海の知識も十分なようだからな」
「いや、でもエセルディアの船には女は乗ってないんじゃ」
「おまえは、普通の女ではないだろう。何といっても嵐のなかマストに上るような娘だからな。おまえのような航海士がいるのも悪くない。なにより大陸の近海には随分詳しいようだしな」
「あの、海図が狙いなの?」
「狙いではないと言ったら嘘になるだろうが、あの海図はすでにおまえの頭の中にあるんじゃないのか。それごと欲しい。その度胸もな」
「でも…」
「報酬か? ここの報酬の三倍出してもいい。船長にはわたしから話してもかまわない。叔父御が手放してくれるかどうかが心配だが、他の船に乗って経験を積むのも船乗りとして大切なことだと思わないか」
 エドアルドの言っていることは正しい。航海士はいろいろな船に乗って、様々な海域での経験を積むことが大切なのだ。フェランも父の船だけでなく、輸送船や定期航路の船に乗っていたこともある。
「ゆっくり考えれいい。エリー・エゼルに着くまでに返事をくれ」
 そういうとエドアルドは船室を出て行った。
「一緒に行けるわけないじゃない。わたし、船長なのよ」
あの嵐を抜けた後、ヴァイダの本領が発揮されることとなった。なんとか雷の直撃は免れたものの、あちこちの痛みが激しい。船大工の棟梁として水夫たちに次々と指示を出し、的確に修理を進めていく。
「ゆっくりするために船に乗ったって言ってたけど」
 修理に駆り出されたアル・アンジュが修理用の帆綱を担いでぼやいていると、同じく金槌と釘を手にしたエリザが相槌をうった。
「船の修理となると生き生きしてるよね」
「そこのふたり! くっちゃべってんじゃねぇ! 手を動かしやがれ! 日が暮れちまうぞ!」
 手を少し止めただけでヴァイダの檄が飛ぶ。確かに少しでも早く修理をするかどうかで船の痛み方がかわってくるのだ。特にマストやヤードの損傷は船足にも大きく影響する。
 船長であるフェランの判断で寄港はせず、航海しつつの修理となったため、まずは帆の修理が優先だった。ヴァイダの指揮は的確で二日足らずでほぼ元の状態にまで修理を終えてしまった。
 この修理の速さは実は海賊家業が生み出したものだ。一度の航海で何度も襲撃を繰り返す海賊船は、修理の素早さに次の獲物を狙えるかどうかがかかっている。アル・アンジュの父は、航海速度や攻撃力だけでなく、この修理の技術についても徹底的に水夫に叩きこんだ。海賊船アル・セイラ号の強さはこのような隠れた技術にも支えられていたのだ。

 マドゥスの港を出航してから七日後、ようやくエセルディアが見えた。ここからは、誰も航路を知らない。
 エドアルド以外の誰もという意味だ。
「まだ、北に進路をとったままにしてくれ」
 陸地には、エセルディアの首都エセル・クランの王宮の塔が見えていた。多くの商船はエセル・クランに入港するために進路を右に取る中、それを横目に見ながら海上を通り過ぎる。どうやらエリー・エゼル港は、エセル・クランの近郊というわけではないようだ。
 半日ほど進むと、岬がのこぎりの歯のように入り組んだ地形が現れた。エドアルドは、その歯の一つに進路を取るように指示をだした。どの岬も同じような形をしていて見分けがつきにくい。これでは、水先案内人がいなくては、航行は難しい。
「悪いがこの旗を挙げて貰えないか」
 そう言って渡されたのは、エセルディアの国旗に金の海鷲の紋章を合わせた図案の旗だった。
「これがないと大砲で撃たれるということですか?」
 フェランがエドアルドに問いかけると、軽くうなづき返した。
 小さな湾だと思っていたが、狭い岬と岬の間をすり抜けて湾内に入ると、外からは想像もできないほど、大きな港が広がっていた。
 それが、エリー・エゼルだった。
 港にも岬にも大砲がずらりと海を向いて並んでいる。これでは敵船が入ってきたとしても一斉射撃で沈没させられるだろう。背面は裸の岩山が海の近くまで迫っている。出入り口は先ほどの岬の間だけということだ。軍港としては申し分ない地形だ。
 アル・フェリア号が、港に入ると一斉に空砲が撃たれた。アル・フェリア号の乗組員は敵と間違われて狙われたかと肝を冷やしたが、エドアルドが心配はいらないと説明をしてくれた。
 
 港に錨をおろし桟橋を見下ろすと、ずらりと軍服をきた軍人が並んでいるのが見えた。いつもの海賊装束よりは幾分マシな格好とはいえ、アル・フェリア号の乗組員たちとは明らかに違う姿だ。
 甲板にいたエドアルドがフェランに声を掛けた。
「残念ながらこの港では、自由行動は許可できない。明日、出航してもらいたい。今回の報酬と、帰りの物資は十分に準備させてもらおう」
「まあ、こちらもそれなりの覚悟で引き受けた仕事ですからね。仕方がありません。新鮮な水と食料だけは保証していただきましょうか」
「もちろんだ。世話になったな。フェラン船長」
「また、ご縁がありましたら」
「ところで、姪御のセイラをわたしに預ける気はないか。航海士として育ててみたい」
 フェランは突然の申し出に驚きを隠せない様子だった。それを後ろから見ていたアル・アンジュも同じだった。
「いえ、あの、セイラはまだまだ未熟者で。わたしの下で経験を積ませようと」
「何を言う。この間の嵐での差配、十分に力量はあると感じたが」
「いえ、あの」
「叔父として可愛い姪を手放したくないという気持ちはわかるが、様々な船に乗ることも経験ではないか」
 やりとりを聞いていた、アル・アンジュがたまらず割って入った。
「ごめんなさい。私やっぱりこの船が好きなんです。別の船に乗るなんて考えられないんです」
「セイラはこの小さなアル・フェリア号におさまる器ではないと思うがな」
「いえ、アル・フェリア号が好きなんです」
 それはアル・フェリア号ではなく、実のところはアル・セイラ号なのだが。
「そうか。そこまで言うのなら仕方がないな。またその気になったらいつでもエセルディアを訪ねてくればいい」
 そういうと桟橋に架けられた渡し板を足早に降りて行った。そのエドアルドの後をずらりと軍人たちがついていく。
「なあ、あの兄ちゃん、もしかするとエセルディアの大物か?」
 ヴァイダがすっかり伸びた無精ひげをさすりながらフェランに話かけた。
「もしかしなくてもそうでしょう。軍服を着ていなくてもあの雰囲気にいつも押され気味でしたよ」
「何をしに来たんだろうな。バスティアくんだりまで。しかもこんなに急いで帰国つうのは、なんか臭いよな」
「臭いっす。ぷんぷん臭うっす」
 檣楼からするすると降りてきた、カルロまで話に乗っかってくると、すぐに甲板上で作戦会議が開かれることになった。
「このエリー・エゼルにいられるのは明日の朝までね」
「思ったより、短いっすね。二日は繋留できると思ったんすが」
「ということで、まず、カルロは留守番」
「えっ! なんでなんすか!」
「あのね、カルロ。あなたの仕事は何?」
「檣楼手っす」
「そうよね。高いところから、いろんなものを見つけるのが仕事よね」
「そうっす! 目の良さだけは誰にも負けない自信があるっす」
「じゃあ、さっさと檣楼に戻って湾の様子を確認してね。あと船の種類とか数とかもね。陽が落ちるまでにやることは山ほどあるのよ。よろしくね」
「いや、まだ作戦会議中なんじゃ…」
「つべこべ言わずにちゃっちゃとマストに登んなさい!」
「了解!」
 カルロは、不満足そうな顔をしながらもメインマストの檣楼に登るために席をはずした。檣楼から遠眼鏡で覗くだけで得られる情報も多い。
「それから、叔父さま。これから補給物資がこの船にくるでしょ。船長が船を離れるわけにはいかないから叔父さまも留守番決定ね」
「おやおや、わたしもかい?」
 フェランは自分が船を離れられないことをわかっていたようで、わざとつまらないような顔をして見せただけで、留守居役を引き受けた。
 問題はどうやって上陸する理由を見つけるかだった。みなで額を突き合わせて、いろいろと考えていたとき、船室に籠っていた船医のマリゼが顔を出した。
「フェラン、補給物資の件なんですけどね。できたら消毒に使う蒸留酒を頼んでもらえないかしら。あの嵐で瓶が割れちゃって…」
「それよ!」
 アル・アンジュが手を打ってそう答えると、マリゼが驚いた顔をした。
「マリゼ、もっとややこしい薬が欲しいって言うのよ! マリゼが直接薬屋にいかないとわからないようなやつをね」
「そんなことして上陸しても、どうせ監視つきになるわよ」
「いいのよ。わたしに考えがある。任せといて!」

 補給については、エドアルドが保証したように頼んだものはすべて明朝の出立までにそろえてくれることになった。しかし、マリゼが欲しいと申し出た薬は、取次に来た者ではわからないという話になった。もちろん、わざとわかりにくい薬が必要だと並べ立てたのだ。
 結局、監視役が薬屋までついてくるということになった。そして、荷物持ちにもう一人水夫を連れていくとことを了承させた。もちろん、アル・アンジュである。
「マリゼ、トランクリスアルタって本当にある薬なの? 舌を噛みそうな名前だけど」
「あるわよ。この船にはないけどね」
「なんの薬」
「船酔いの薬」
 確かに、アル・フェリア号の乗組員で必要とする人間はいなさそうだ。
「量を調節すると手術のときに麻酔として使えるから、あるのなら欲しいのよ。でも相当高価だし、貴重なものだから小さな港町じゃ手に入らない。もし、このエリー・エゼルにあるのなら手に入れておいて損はないでしょ。しかもエドアルドが支払ってくれるっていうんならなおさらだわ」
 普段から薬代のやりくりに苦心しているマリゼらしい意見だ。マリゼは陸にあがると、マドゥスの港の町医者として、貧しい病人の世話もしている。そういうときに薬が手に入らず悔しい思いをしていることも多いのだ。
 ふたりが監視役つきでエリー・エゼルに降りたつと、甲板からフェランが見送ってくれた。本当はアル・アンジュに危ない橋を渡らせたくないと思っているのだが、言うことを素直にきくような娘でないこともわかってくれている。
 エリー・エゼルは、他の港町とは随分と様相が違っていた。港町というのは、もっと活気があって、あちこちに市が立ち、賑やかなものだ。どこかの酒場で喧嘩のひとつでも始まっているというのが普通なのだ。しかし、この町はどこか整然としている。人通りもほとんどなく、時折軍服姿の人間を見かけるくらいだ。港の大きさやそこに繋留されていた船の数を考えると、どうみても人が少なすぎる。
「軍港ってことなのかな。やっぱり」
「そうね。秘密を守るために限られた人間しか入れないように徹底しているんじゃないかしら」
 マリゼもあまりの町の静けさに不審を覚えたようだった。それでも町に薬屋はあるようで、監視役の男が案内してくれた。
 薬の種類は驚くほど豊富で、マリゼはトランクリスアルタだけではなく、見たこともない薬をどんどん注文している。自分の懐が痛まないとなるとなかなか大胆なところがある医者だった。
「うぅっ!」
 注文の品を包んでもらっている最中に、アル・アンジュが腹を抱えてうずくまった。
「どうしたの?」
「おなかが急に…」
 わざとか細い声で答えると、さらに意識が朦朧としているふりをつづけた。
「すみませんが、奥に横になれる場所はありませんか」
「ありますが…」
 こういった薬屋は施療院を兼ねていることが多い。この薬屋も二階が施療院になっていた。監視役の男がアル・アンジュを抱きかかえて部屋に運んでくれた。
 ベッドにアル・アンジュを寝かせると、手際よく服を脱がせ始めて、ふと振り返った。
「診察の間、席をはずしてくださらない」
「いや、しかし…」
「水夫稼業とはいえ、嫁入り前の娘ですからね。男の人の前で服を脱がせるわけにはいかないでしょう」
 そう言われるとどうしようもない。男は部屋を出ると戸口に立っているようだった。
「はい、いいわよ」
「ありがとう。マリゼって芝居がうまいね」
「あなたもね。ちゃんと出航までに帰ってくるのよ」
 アル・アンジュは枕に黒髪の鬘をかぶせて毛布をかけた。こんもりと誰かが寝ているようにみせかけると、自分は窓から身を躍らせた。マストから海面に飛び込むことを思うと、二階の窓から飛び降りることなど造作もないことだ。
 そしてマリゼは平然と監視役の男に言った。
「悪いんですけど、もう一人、水夫を呼んできてくださらない。この娘、歩いて帰れそうになくて」

 一方、薬屋を抜け出したアル・アンジュは、この町の最奥にある建物を目指した。それは高い塔のある屋敷で、おそらくこの港の心臓部だろう。
 屋敷の庭に高い木を見つけると、するするとのぼりはじめた。揺れる船の上でマストに登ることができるアル・アンジュにとっては造作もないことだ。枝から開いている窓めがけて身を躍らすと屋敷のなかへ飛び込んだ。
 屋敷の中は、いくつもの靴音が響いている。静まり返った町の中とは違って、かなりの人間がいるのだろう。
「エドアルド様がお帰りになったそうだ」
 通りかかったひとりの軍人の言葉に、身を潜めていたアル・アンジュが思わず聞き耳をたてた。
「あの海賊どものねぐらからか」
「そういうな、あそこは南大陸でも重要な拠点だ。手の内にできれば一気にエセルディアの優勢が決まる」
「甘いぞ。あいつらにこれまで、どれだけ大陸からの輸送船を襲われたと思っている!」
「わかっているさ。まあ、エドアルド様の見解を伺おうじゃないか」
 そう言うと、同僚の肩を叩きながら、階上の部屋に入っていった。そこでエドアルドを交えた軍議が行われるのだろう。扉の前には二人の警備兵が立ち、部屋に入る人間を確認している。姿を見られずに部屋の中に入るのは難しそうだ。
 そのとき、目に入ったのは窓だった。中の警備は厳しいだろうが、まさか窓の外に人がいるとは考えないだろう。しかもここは五階だ。アル・アンジュはするりと窓から抜け出すと、外壁を回り込むように、軍議が行われている部屋の窓の横までたどり着いた。足がかりにできるのは、指二本ほどの幅のでっぱりしかない。それでも、身軽なアル・アンジュには十分だった。
 窓から姿が見えないように気をつけて耳を寄せると、はっきりとではないが、声を聞きとることができた。
 エドアルドの声だった。
「バスティアとは、話をつけることができた」
「バスティア自身が海賊を討伐するということですか」
「そうだ。来年の春、航海の季節がくるまでにな」
 アル・アンジュは息をのんだ。まさか、自分たちがバスティアの大公に売られたとは思ってもみなかったのだ。
「約束が守られる保証はあるのですか?」
「クラリシア公女をわたしにくれるそうだ」
「エドアルド様とバスティアの公女では釣合が取れないでしょう」
 公女を嫁にだすというのであれば、エドアルドは一介の船長であるはずがない。ただ、釣合が取れないというのが、エドアルドの身分が高くて釣合が取れないのか、クラリシア公女の身分が高くて釣合が取れないのかまではわからない。
「婚約を発表するとしても、バスティアの出方を待ってからだ。婚儀となるとさらに先だな」
「それにしてもバスティアも金の卵を産むめんどりをこうも簡単に手放すとは」
「簡単ではないさ」
「やはり、我が身がかわいいということですかな」
「バスティアは海の要所だ。欲さえださなければ、海賊家業に頼らずとも交易で十分身を立てることができる」
「確かに、総攻撃を受けてすべて失うよりは、ということですか」
「エセルディア艦隊、二十隻とちらつかせたところで、話がまとまった」
 バスティア大公自身が海賊を取り締まることができれば、大公の座を保証し、これまで通り交易自体の制限はしない。しかし、海賊を放置するのであれば、エセルディアの正規軍でバスティアを一斉攻撃すると脅したのだ。もし、バスティアが落ちれば、大公はその座を追われ、おそらくエセルディアの植民港とされるだろう。
 二十隻もの艦隊と聞き、自前の海軍を持たないバスティア大公は、アル・アンジュたちを敵方にあっさり売り渡したというわけだ。
「しかも、バスティア大公のお身内はクラリシア公女おひとりでしたな」
 軍議に出席していた年嵩の軍人があごひげを触りながらニヤリと笑った。
「クラリシア公女がエセルディアに嫁がれたあとに、大公が亡くなられたら」
「リグリー侯爵、それは言わずもがなですよ」
 後から若い貴族風の男が続ける。
「エセルディアに住まうクラリシア公女が大公になる。どちらにしろ、バスティアはエセルディアの手の内ということですね」
 その場にいた軍人たちが、声をあげて笑みをかわしている。長年宿敵と思っていたバスティアが、大した労もなく手に落ちてきたのだから、笑いもとまらないのだろう。
 その笑いをエドアルドが制した。
「問題は、あの海賊どもが、おとなしくバスティア公に退治されるかだ」
「されるわけないじゃない」
 アル・アンジュは窓の外で声を殺してそう返した。

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