あの嵐を抜けた後、ヴァイダの本領が発揮されることとなった。なんとか雷の直撃は免れたものの、あちこちの痛みが激しい。船大工の棟梁として水夫たちに次々と指示を出し、的確に修理を進めていく。
「ゆっくりするために船に乗ったって言ってたけど」
 修理に駆り出されたアル・アンジュが修理用の帆綱を担いでぼやいていると、同じく金槌と釘を手にしたエリザが相槌をうった。
「船の修理となると生き生きしてるよね」
「そこのふたり! くっちゃべってんじゃねぇ! 手を動かしやがれ! 日が暮れちまうぞ!」
 手を少し止めただけでヴァイダの檄が飛ぶ。確かに少しでも早く修理をするかどうかで船の痛み方がかわってくるのだ。特にマストやヤードの損傷は船足にも大きく影響する。
 船長であるフェランの判断で寄港はせず、航海しつつの修理となったため、まずは帆の修理が優先だった。ヴァイダの指揮は的確で二日足らずでほぼ元の状態にまで修理を終えてしまった。
 この修理の速さは実は海賊家業が生み出したものだ。一度の航海で何度も襲撃を繰り返す海賊船は、修理の素早さに次の獲物を狙えるかどうかがかかっている。アル・アンジュの父は、航海速度や攻撃力だけでなく、この修理の技術についても徹底的に水夫に叩きこんだ。海賊船アル・セイラ号の強さはこのような隠れた技術にも支えられていたのだ。

 マドゥスの港を出航してから七日後、ようやくエセルディアが見えた。ここからは、誰も航路を知らない。
 エドアルド以外の誰もという意味だ。
「まだ、北に進路をとったままにしてくれ」
 陸地には、エセルディアの首都エセル・クランの王宮の塔が見えていた。多くの商船はエセル・クランに入港するために進路を右に取る中、それを横目に見ながら海上を通り過ぎる。どうやらエリー・エゼル港は、エセル・クランの近郊というわけではないようだ。
 半日ほど進むと、岬がのこぎりの歯のように入り組んだ地形が現れた。エドアルドは、その歯の一つに進路を取るように指示をだした。どの岬も同じような形をしていて見分けがつきにくい。これでは、水先案内人がいなくては、航行は難しい。
「悪いがこの旗を挙げて貰えないか」
 そう言って渡されたのは、エセルディアの国旗に金の海鷲の紋章を合わせた図案の旗だった。
「これがないと大砲で撃たれるということですか?」
 フェランがエドアルドに問いかけると、軽くうなづき返した。
 小さな湾だと思っていたが、狭い岬と岬の間をすり抜けて湾内に入ると、外からは想像もできないほど、大きな港が広がっていた。
 それが、エリー・エゼルだった。
 港にも岬にも大砲がずらりと海を向いて並んでいる。これでは敵船が入ってきたとしても一斉射撃で沈没させられるだろう。背面は裸の岩山が海の近くまで迫っている。出入り口は先ほどの岬の間だけということだ。軍港としては申し分ない地形だ。
 アル・フェリア号が、港に入ると一斉に空砲が撃たれた。アル・フェリア号の乗組員は敵と間違われて狙われたかと肝を冷やしたが、エドアルドが心配はいらないと説明をしてくれた。
 
 港に錨をおろし桟橋を見下ろすと、ずらりと軍服をきた軍人が並んでいるのが見えた。いつもの海賊装束よりは幾分マシな格好とはいえ、アル・フェリア号の乗組員たちとは明らかに違う姿だ。
 甲板にいたエドアルドがフェランに声を掛けた。
「残念ながらこの港では、自由行動は許可できない。明日、出航してもらいたい。今回の報酬と、帰りの物資は十分に準備させてもらおう」
「まあ、こちらもそれなりの覚悟で引き受けた仕事ですからね。仕方がありません。新鮮な水と食料だけは保証していただきましょうか」
「もちろんだ。世話になったな。フェラン船長」
「また、ご縁がありましたら」
「ところで、姪御のセイラをわたしに預ける気はないか。航海士として育ててみたい」
 フェランは突然の申し出に驚きを隠せない様子だった。それを後ろから見ていたアル・アンジュも同じだった。
「いえ、あの、セイラはまだまだ未熟者で。わたしの下で経験を積ませようと」
「何を言う。この間の嵐での差配、十分に力量はあると感じたが」
「いえ、あの」
「叔父として可愛い姪を手放したくないという気持ちはわかるが、様々な船に乗ることも経験ではないか」
 やりとりを聞いていた、アル・アンジュがたまらず割って入った。
「ごめんなさい。私やっぱりこの船が好きなんです。別の船に乗るなんて考えられないんです」
「セイラはこの小さなアル・フェリア号におさまる器ではないと思うがな」
「いえ、アル・フェリア号が好きなんです」
 それはアル・フェリア号ではなく、実のところはアル・セイラ号なのだが。
「そうか。そこまで言うのなら仕方がないな。またその気になったらいつでもエセルディアを訪ねてくればいい」
 そういうと桟橋に架けられた渡し板を足早に降りて行った。そのエドアルドの後をずらりと軍人たちがついていく。
「なあ、あの兄ちゃん、もしかするとエセルディアの大物か?」
 ヴァイダがすっかり伸びた無精ひげをさすりながらフェランに話かけた。
「もしかしなくてもそうでしょう。軍服を着ていなくてもあの雰囲気にいつも押され気味でしたよ」
「何をしに来たんだろうな。バスティアくんだりまで。しかもこんなに急いで帰国つうのは、なんか臭いよな」
「臭いっす。ぷんぷん臭うっす」
 檣楼からするすると降りてきた、カルロまで話に乗っかってくると、すぐに甲板上で作戦会議が開かれることになった。
「このエリー・エゼルにいられるのは明日の朝までね」
「思ったより、短いっすね。二日は繋留できると思ったんすが」
「ということで、まず、カルロは留守番」
「えっ! なんでなんすか!」
「あのね、カルロ。あなたの仕事は何?」
「檣楼手っす」
「そうよね。高いところから、いろんなものを見つけるのが仕事よね」
「そうっす! 目の良さだけは誰にも負けない自信があるっす」
「じゃあ、さっさと檣楼に戻って湾の様子を確認してね。あと船の種類とか数とかもね。陽が落ちるまでにやることは山ほどあるのよ。よろしくね」
「いや、まだ作戦会議中なんじゃ…」
「つべこべ言わずにちゃっちゃとマストに登んなさい!」
「了解!」
 カルロは、不満足そうな顔をしながらもメインマストの檣楼に登るために席をはずした。檣楼から遠眼鏡で覗くだけで得られる情報も多い。
「それから、叔父さま。これから補給物資がこの船にくるでしょ。船長が船を離れるわけにはいかないから叔父さまも留守番決定ね」
「おやおや、わたしもかい?」
 フェランは自分が船を離れられないことをわかっていたようで、わざとつまらないような顔をして見せただけで、留守居役を引き受けた。
 問題はどうやって上陸する理由を見つけるかだった。みなで額を突き合わせて、いろいろと考えていたとき、船室に籠っていた船医のマリゼが顔を出した。
「フェラン、補給物資の件なんですけどね。できたら消毒に使う蒸留酒を頼んでもらえないかしら。あの嵐で瓶が割れちゃって…」
「それよ!」
 アル・アンジュが手を打ってそう答えると、マリゼが驚いた顔をした。
「マリゼ、もっとややこしい薬が欲しいって言うのよ! マリゼが直接薬屋にいかないとわからないようなやつをね」
「そんなことして上陸しても、どうせ監視つきになるわよ」
「いいのよ。わたしに考えがある。任せといて!」

 補給については、エドアルドが保証したように頼んだものはすべて明朝の出立までにそろえてくれることになった。しかし、マリゼが欲しいと申し出た薬は、取次に来た者ではわからないという話になった。もちろん、わざとわかりにくい薬が必要だと並べ立てたのだ。
 結局、監視役が薬屋までついてくるということになった。そして、荷物持ちにもう一人水夫を連れていくとことを了承させた。もちろん、アル・アンジュである。
「マリゼ、トランクリスアルタって本当にある薬なの? 舌を噛みそうな名前だけど」
「あるわよ。この船にはないけどね」
「なんの薬」
「船酔いの薬」
 確かに、アル・フェリア号の乗組員で必要とする人間はいなさそうだ。
「量を調節すると手術のときに麻酔として使えるから、あるのなら欲しいのよ。でも相当高価だし、貴重なものだから小さな港町じゃ手に入らない。もし、このエリー・エゼルにあるのなら手に入れておいて損はないでしょ。しかもエドアルドが支払ってくれるっていうんならなおさらだわ」
 普段から薬代のやりくりに苦心しているマリゼらしい意見だ。マリゼは陸にあがると、マドゥスの港の町医者として、貧しい病人の世話もしている。そういうときに薬が手に入らず悔しい思いをしていることも多いのだ。
 ふたりが監視役つきでエリー・エゼルに降りたつと、甲板からフェランが見送ってくれた。本当はアル・アンジュに危ない橋を渡らせたくないと思っているのだが、言うことを素直にきくような娘でないこともわかってくれている。
 エリー・エゼルは、他の港町とは随分と様相が違っていた。港町というのは、もっと活気があって、あちこちに市が立ち、賑やかなものだ。どこかの酒場で喧嘩のひとつでも始まっているというのが普通なのだ。しかし、この町はどこか整然としている。人通りもほとんどなく、時折軍服姿の人間を見かけるくらいだ。港の大きさやそこに繋留されていた船の数を考えると、どうみても人が少なすぎる。
「軍港ってことなのかな。やっぱり」
「そうね。秘密を守るために限られた人間しか入れないように徹底しているんじゃないかしら」
 マリゼもあまりの町の静けさに不審を覚えたようだった。それでも町に薬屋はあるようで、監視役の男が案内してくれた。
 薬の種類は驚くほど豊富で、マリゼはトランクリスアルタだけではなく、見たこともない薬をどんどん注文している。自分の懐が痛まないとなるとなかなか大胆なところがある医者だった。
「うぅっ!」
 注文の品を包んでもらっている最中に、アル・アンジュが腹を抱えてうずくまった。
「どうしたの?」
「おなかが急に…」
 わざとか細い声で答えると、さらに意識が朦朧としているふりをつづけた。
「すみませんが、奥に横になれる場所はありませんか」
「ありますが…」
 こういった薬屋は施療院を兼ねていることが多い。この薬屋も二階が施療院になっていた。監視役の男がアル・アンジュを抱きかかえて部屋に運んでくれた。
 ベッドにアル・アンジュを寝かせると、手際よく服を脱がせ始めて、ふと振り返った。
「診察の間、席をはずしてくださらない」
「いや、しかし…」
「水夫稼業とはいえ、嫁入り前の娘ですからね。男の人の前で服を脱がせるわけにはいかないでしょう」
 そう言われるとどうしようもない。男は部屋を出ると戸口に立っているようだった。
「はい、いいわよ」
「ありがとう。マリゼって芝居がうまいね」
「あなたもね。ちゃんと出航までに帰ってくるのよ」
 アル・アンジュは枕に黒髪の鬘をかぶせて毛布をかけた。こんもりと誰かが寝ているようにみせかけると、自分は窓から身を躍らせた。マストから海面に飛び込むことを思うと、二階の窓から飛び降りることなど造作もないことだ。
 そしてマリゼは平然と監視役の男に言った。
「悪いんですけど、もう一人、水夫を呼んできてくださらない。この娘、歩いて帰れそうになくて」

 一方、薬屋を抜け出したアル・アンジュは、この町の最奥にある建物を目指した。それは高い塔のある屋敷で、おそらくこの港の心臓部だろう。
 屋敷の庭に高い木を見つけると、するするとのぼりはじめた。揺れる船の上でマストに登ることができるアル・アンジュにとっては造作もないことだ。枝から開いている窓めがけて身を躍らすと屋敷のなかへ飛び込んだ。
 屋敷の中は、いくつもの靴音が響いている。静まり返った町の中とは違って、かなりの人間がいるのだろう。
「エドアルド様がお帰りになったそうだ」
 通りかかったひとりの軍人の言葉に、身を潜めていたアル・アンジュが思わず聞き耳をたてた。
「あの海賊どものねぐらからか」
「そういうな、あそこは南大陸でも重要な拠点だ。手の内にできれば一気にエセルディアの優勢が決まる」
「甘いぞ。あいつらにこれまで、どれだけ大陸からの輸送船を襲われたと思っている!」
「わかっているさ。まあ、エドアルド様の見解を伺おうじゃないか」
 そう言うと、同僚の肩を叩きながら、階上の部屋に入っていった。そこでエドアルドを交えた軍議が行われるのだろう。扉の前には二人の警備兵が立ち、部屋に入る人間を確認している。姿を見られずに部屋の中に入るのは難しそうだ。
 そのとき、目に入ったのは窓だった。中の警備は厳しいだろうが、まさか窓の外に人がいるとは考えないだろう。しかもここは五階だ。アル・アンジュはするりと窓から抜け出すと、外壁を回り込むように、軍議が行われている部屋の窓の横までたどり着いた。足がかりにできるのは、指二本ほどの幅のでっぱりしかない。それでも、身軽なアル・アンジュには十分だった。
 窓から姿が見えないように気をつけて耳を寄せると、はっきりとではないが、声を聞きとることができた。
 エドアルドの声だった。
「バスティアとは、話をつけることができた」
「バスティア自身が海賊を討伐するということですか」
「そうだ。来年の春、航海の季節がくるまでにな」
 アル・アンジュは息をのんだ。まさか、自分たちがバスティアの大公に売られたとは思ってもみなかったのだ。
「約束が守られる保証はあるのですか?」
「クラリシア公女をわたしにくれるそうだ」
「エドアルド様とバスティアの公女では釣合が取れないでしょう」
 公女を嫁にだすというのであれば、エドアルドは一介の船長であるはずがない。ただ、釣合が取れないというのが、エドアルドの身分が高くて釣合が取れないのか、クラリシア公女の身分が高くて釣合が取れないのかまではわからない。
「婚約を発表するとしても、バスティアの出方を待ってからだ。婚儀となるとさらに先だな」
「それにしてもバスティアも金の卵を産むめんどりをこうも簡単に手放すとは」
「簡単ではないさ」
「やはり、我が身がかわいいということですかな」
「バスティアは海の要所だ。欲さえださなければ、海賊家業に頼らずとも交易で十分身を立てることができる」
「確かに、総攻撃を受けてすべて失うよりは、ということですか」
「エセルディア艦隊、二十隻とちらつかせたところで、話がまとまった」
 バスティア大公自身が海賊を取り締まることができれば、大公の座を保証し、これまで通り交易自体の制限はしない。しかし、海賊を放置するのであれば、エセルディアの正規軍でバスティアを一斉攻撃すると脅したのだ。もし、バスティアが落ちれば、大公はその座を追われ、おそらくエセルディアの植民港とされるだろう。
 二十隻もの艦隊と聞き、自前の海軍を持たないバスティア大公は、アル・アンジュたちを敵方にあっさり売り渡したというわけだ。
「しかも、バスティア大公のお身内はクラリシア公女おひとりでしたな」
 軍議に出席していた年嵩の軍人があごひげを触りながらニヤリと笑った。
「クラリシア公女がエセルディアに嫁がれたあとに、大公が亡くなられたら」
「リグリー侯爵、それは言わずもがなですよ」
 後から若い貴族風の男が続ける。
「エセルディアに住まうクラリシア公女が大公になる。どちらにしろ、バスティアはエセルディアの手の内ということですね」
 その場にいた軍人たちが、声をあげて笑みをかわしている。長年宿敵と思っていたバスティアが、大した労もなく手に落ちてきたのだから、笑いもとまらないのだろう。
 その笑いをエドアルドが制した。
「問題は、あの海賊どもが、おとなしくバスティア公に退治されるかだ」
「されるわけないじゃない」
 アル・アンジュは窓の外で声を殺してそう返した。