カルロの行動は、アル・アンジュとフェランの想像を超えるほど素早かった。
 ふたりに相談をもちかけた二日後の早朝、マドゥスの港に乗組員たちの姿があった。
「嬢ちゃん! 待ってましたぜ!」
「もう、嬢ちゃんじゃなくて…」
 船長と呼べと続けようとして、この航海では船長ではないことを思い出して、言葉を飲み込んだ。エセルディアの人間がこの場にいないとは限らない。ここでアル・セイラ号の船長だとばれるのはまずい。
「見てくだせぇよ! なかなかいい船でしょ」
 アル・アンジュにとって、アル・セイラ号以上にいい船はないのだが、カルロがこの短期間で準備した船を目にして、少し驚いた。それは隣にいたフェランも同じようだった。
「おやおや、これは…」
「快速船ね」
 今回の条件は商船ということだった。そのためでっぷりとした輸送船を用意してくると思いきや、港で待っていたのは小型でかつ帆走が良さそうな快速船だった。艤装は商船らしく拵えてあるが、喫水の浅さや帆の形などから、船に詳しいものが見れば、船足の速さが伺える。また、外洋向きのアル・セイラ号などと違って、操船にかかる水夫の数も少なくてすむ。その反面、多くの貨物を積むには向いていない。つまり商船には向いていない帆船ということだ。
 カルロは得意気にふたりに向きなおって説明した。
「冬がくる前に、マドゥスに帰ってきたいっすからね」
「確かに、送り届けたはいいが、帰途にガリシアあたりで春まで足止めっていうのは勘弁してもらいたいところだね」
 フェランがカルロの意見に賛同する。
「船足だけは保証するぜ!」
 背後から、造船技師で船大工のヴァイダが顔を出した。彼はこのバスティアでは有名な造船技師で手掛けた船は数知れない。アル・セイラ号も彼が設計した船だった。忙しい男だが、アル・セイラ号が出航するときはすすんで船大工として乗り込んでくる。前船長だったアル・アンジュの父の親友でもあり、フェランもヴァイダには全幅の信頼を置いている。というよりも、頭があがらないところがある。
「ヴァイダ! この船、あなたが設計したの」
「ああ、そうさ。実のところ大公さんの秘蔵っ子だったんだがね」
「大公の?」
「御座船にでもするつもりだったんだろうさ。数年前に、とにかく足の速い船が欲しいと注文があった。だが、大公さんはあの通り寝たっきりになっちまってるからな。そのままお蔵入りさ」
 バスティア大公は、もうかなりの高齢だ。二年前、病を患って以来寝付いているという噂もある。現在では孫娘のクラリシア公女と宰相が補佐して何とか国を動かしているようなものだった。
「今回の話をカルロから聞いて、こいつの出番だと思ってな。大急ぎで艤装だけ変えておいた。フェラン、今回の航海はお前が船長だってな」
「ああ」
「こいつは処女航海だ。よろしく頼むぜ」
「わかった。それでこの船の名前は?」
 フェランの問いに、ヴァイダとカルロが顔を見合わせてにやりと笑った。
「アル・フェリア号だ!」
 その名前を聞くなり、フェランが大きく顔をしかめた。
「なんだ、その名前は! 大公殿下が注文された船なら、ちゃんとした名前がついているだろう」
「それが、注文しっぱなしで、船名も決まってなかったのさ。そこでお前さんが船長だって聞いてな。名前を使わせてもらうことにした」
 アル・フェリアというのは、フェランの女名だ。船には女性の名前を付けることが多いが、フェランの名前をそのまま女名にしたわけだ。
「なんだが、わたしが女装させられたみたいじゃないか!」
 フェランには珍しく声をあげて抗議をし始めた。
「フェランが女装したら、港の男が涎をたらして追いかけまわしそうだけどね」
 脇から茶々を入れたのは、砲撃手のユリザだ。確かにフェランは海の男とは思えないくらい綺麗な顔立ちをしている。髪の色はアル・アンジュと同じ漆黒だが、くせのないまっすぐの艶やかな髪を長く伸ばし背の中央でまとめている。切れ長の目元は涼しげで、やわらかな微笑みをたたえていることが多い。確かに女であれば極上の美人に違いない。ただし長身なため、女装には少し無理がありそうな気はする。
 フェランは少年の頃しょっちゅう女に間違われて、さんざん男たちに追いかけまわされた記憶があるらしく、女顔だとか、女装が似合いそうだと揶揄されることをことのほか嫌っている。それを承知でからかうことができるのは、このマドゥスでもヴァイダくらいのものだろう。普段は口にできなくても、ヴァイダの言葉に乗っかって悪ふざけをするのは、水夫たちの悪い癖だ。
「悪くないと思いますよ。アル・フェリア号。綺麗な響きじゃありませんか」
 そう言って、賛同してきたのは船医のマリゼ。ユリザの双子の妹だ。穏やかな微笑みを浮かべながら、不本意だと顔に書いているフェランの横を通り抜けて行く。乗組員たちが続々と集まって、荷を積み込み始めながら口々に船に向かってこういうのだ。
「よろしくな。アル・フェリア!」
 それは出航前の水夫が乗り込むときに口にする船に対しての挨拶で、特別のものではないが、その言葉を聞くたびにフェランの顔が朱く染まっていく。
「ちょっと待ってくれないか。まだ、アル・フェリア号に決まったわけじゃない」
 本来、船名をつける権利がるのは、船主か船長だ。大公が船主というのであれば、自分の名をつけるははばかられるという理由で、名前を変えさせたい。
「往生際が悪いぜ。フェラン」
「いや、仮にも大公殿下の御座船として建造された船だろう。勝手に命名するわけには…」
「いいって、いいって。大公さんも注文したこと忘れてるかもしれんしな。まあ、全額前金でもらってるから構わないんだが」
「叔父さま…」
「なんだ」
 不機嫌まるだしでフェランが答える。
「あの、言いにくいんだけど…。船尾を見て」
 そう言って指で示した先には、『アル・フェリア』とでかでかと優美な文字で名前が書かれていた。
「おう、昨日俺たちで書いといたぜ! なかなかうまく書けてるだろう」
 ヴァイダが胸をはって宣言すると、フェランはがっくりと肩を落とした。ここまでされた後では、船名を変えたいと言ってももう無理だ。
 ヴァイダはフェランの肩をばんばん叩いて笑い飛ばすと、船を見上げて大声で挨拶した。
「よろしくな。アル・フェリア!」
 大股で船に乗り込むヴァイダの後ろを慌ててアル・アンジュも追いかけた。
「よろしくね。アル・フェリア」
 さすがに小声で船に挨拶すると、フェランが恨みがましく睨みつけてきた。なるべく目を合わせないようにして小走りでアル・フェリア号に乗り込んだのだった。

 夜明けと同時に荷の積み込みを始めたアル・フェリア号は、昼前に出向の準備をすべて終えていた。マドゥスの港から出航するのは、潮の流れから午前中が望ましい。しかし、肝心の乗客が一向に姿を現さなかった。
 カルロは出航前にもかかわらず、檣楼に上がって約束の男が来るのを見逃すまいと待ちかまえていた。
「カルロ、あなたの情報、確かなんでしょうね」
「もちろんっす」
 アル・アンジュが少し苛立ちながら、カルロを問い詰めていると、ヴァイダが横から助け舟を出した。
「嬢ちゃん。カルロを責めるなよ。ほらよ、あれじゃないか」
 ヴァイダが視線で示した岸壁の上には、マントをまとった男の姿があった。カルロがほっとした表情で鏡を懐から取り出すと、光を反射させて合図を送った。男もその合図に気付いたようで、アル・フェリア号に近づいてきた。
 男は船上のカルロに向かって軽く礼をすると、桟橋から乗船してきた。それを確認したフェランは水夫に指示し、錨をあげさせた。
「挨拶は後だ。潮が変わる前に出向する!」
 フェランの一声で、アル・フェリア号は、マドゥスの港を後にした。帆を大きく膨らませ風を掴むと、滑るように海上を走り出す。ヴァイダの言葉通り、船足だけは文句なしの船のようだ。
 バスティア湾を出て、南大陸沿いの航路を北にとる。肉眼でぎりぎり陸が見える程度の距離をとることで、この季節特有の偏秋風と呼ばれる風を受け北上するのだ。航行が安定するのを見極めて、フェランは舵をヴァイダに任せた。ヴァイダは本来、造船技師かつ船大工だが、今回の航海に限って航海長として乗り込んでいる。これは、気楽な船大工が気に入っているヴァイダに対してのフェランの嫌がらせだった。
「さて、お客人。挨拶が遅くなってすまなかったね。わたしがこの船の船長のフェランです」
「こちらこそ、乗船が遅くなってすまなかった。エドアルドだ」
 そう名乗った男は、フェランと同じくらいの長身だった。どうみても商人には見えないが、貴族のお坊ちゃまにも見えない。どこか硬質の鋼のような雰囲気をまとった男だ。褐色の髪は染粉で染めたようで艶がない。南大陸のアゼルラントでは、ほとんどの者が黒髪か暗褐色なので明るい髪色で目立つのを嫌ったのだろう。目の色は、はっとするほど明るい氷のような青で、暗い髪の色とのアンバランスさが返って人目を引く。
「随分と小型船なのだな。港で商船を探していては見つからないはずだ」
「うちは、郵船ですのね」
 これはヴァイダが考えた言い訳だった。確かにアル・フェリア号を商船や輸送船と言い訳するには無理がある。そこで郵便物や小型貨物だけを扱う郵船ということにしたのだ。
「なんにせよ、足が速いのは助かる。どこを経由する?」
「どこにも寄港しません。直接エセルディアに向かいます」
 フェランの言葉に、エドアルドが怪訝そうな顔をした。エセルディアは、北大陸の中でももっとも北方に位置する国である。バスティアからの距離を考えると一度はどこかに寄港して補給をするというのが一般的な考えだろう。直行ができるのは、この船の足と操船技術の両方が揃っているからこその離れ業だ。
「お急ぎだと聞きましたのでね。それに今回のお客人はあなただけだ。他の港に寄り道する理由がありません。こちらに来られたときは、どの航路でいらしたのですか?」
「ガリシアまでは陸路で、そこからは定期船でバスティアへ入った」
「エセルディアからガリシアまで陸路? 余計な時間がかかったのでは」
「船に乗っていてはわからないことがいろいろ見られて、面白かった」
 エドアルドのその答えは、普段は船に乗っているということを意味している。浅黒い南大陸の人間とは違う白い肌をしているが、精悍な顔つきは海の男の匂いがする。もちろん海賊家業のアル・アンジュたちとは、どことなく品がありそうなところが大きく違ってはいる。
 アル・アンジュは船長ではなく、航海士見習いという扱いでアル・フェリア号に乗り込んだ。父親が生きていた頃に、航海長のフェランにくっついてやってきたことと同じなので慣れたものだ。ただし、この航海の航海長を務めるヴァイダの扱いには困っていた。船大工は船に損傷がない限り、基本的に仕事はない。人手が足りないときは甲板仕事を手伝うこともあるが、ほとんどは暇を持て余してのんびりしていることが多い。それに対して、航海長の仕事は激務である。出航の手続きから始まり、航路を維持するために風向きと潮流に常に気を配り、昼は海図と夜は星図と睨み合いになる。
 眉間に深いしわを寄せて海図を読んでいたヴァイダは、とうとうコンパスを放り出した。
「ああ、おれはもうダメだ。フェランの奴はいつもこんなことしてるのか」
「叔父さまは、いつも文句ひとつなくこなしてるわよ」
「おれは、設計机を離れてのんびりするために船に乗ってんだ。なのに、なんでこんな目にあわなきゃならないんだ!」
「ヴァイダが叔父さまに意地悪したからでしょ」
 アル・アンジュは、ヴァイダが投げ出したコンパスを拾い上げて、海図を見ながら距離を計算し記録をつけていく。こうしてこれまで船が進んできた距離と方向、そしてこれから進むべき航路を把握していくのだ。
「手慣れたもんだな」
「まあね。生まれたときから乗ってるし」
 と思わず答えたところで、問いかけた声の主に驚いて振り返った。声を掛けたエドアルドは、アル・アンジュの手元を興味深そうに覗き込んでいる。
「この海図は?」
「近海航路のものだけど」
「どこで手に入る?」
「南大陸の大きな港ならどこででも売ってるんじゃないかしら」
 それは嘘だ。その海図はアル・アンジュの父が航海を重ねながら造りあげたものでどこにも売ってはいない。海を行くものなら金を積み上げてでも欲しがる代物だ。
 エドアルドも嘘だと見抜いたのかも知れないが、それ以上の詮索はしなかった。
「バスティアの船には女性も乗っていると聞いてはいたが、本当なんだな」
「そうよ。エセルディアの船には乗っていないの?」
「ああ。船に乗るのは男と決まっている」
「つまらない決まりね」
 バスティアは小さい国のため船乗りを男と限ってしまうと人手が足りないのだ。優秀な船乗りならば男女を問うてはいられないというのが実情だ。とはいえ、まだまだ女の船乗りは多くはない。このアル・フェリア号には、アル・アンジュと砲撃手のユリザ、船医のマリゼの三人が乗り込んでいるだけだ。
「航海には危険がつきものだからな。そんな場所に女性を連れていくわけにはいかない」
「嵐にあうかもって?」
「それだけではないな。海賊にあうこともある」
「そうね」
「おまえは怖くないのか?」
「おまえ呼ばわりはやめてくれない。わたしは…」
 アル・アンジュは名乗ろうとして、答えに詰まった。ここで本名を知られるわけにはいかないが、咄嗟に偽名も思いつかない。
「セイラ、記録はつけたのかい?」
 その言葉に驚いて振り返ると、フェランが軽く片目を閉じてアル・アンジュに合図をした。セイラというのはアル・アンジュの母の名前だ。フェランも咄嗟に出てきたのがその名前だったのだろう。
「エドアルド殿、紹介しておきましょう。わたしの姪のセイラです。今は航海士見習いをさせている」
「セイラというのは、バスティアの古い言葉で海を意味するとか」
「そうです。海の女には良い名だと思いませんか」
「確かに。だが、船の名前となると、いささか厄介だが」
 セイラという名前自体は、どの港にでもひとりはいそうな平凡な名前だ。アル・アンジュの母の名をとってつけられたアル・セイラ号は、現在では数ある海賊船のなかでも五つの指に入るほどのものとなっている。
「セイラ、仕事の邪魔をして悪かった」
 そう言い残すとエドアルドは狭い船室に帰っていった。
「叔父さま、助かったわ」
「先に名前を決めておくべきだったね。姉さんの名前を借りることになってしまったが」
「なんか、変な感じだけど仕方ないわ。取りあえずこの航海の間だけなんだし」
「皆にも伝えておくよ。アル・アンジュなんて呼ばれたら、せっかくのエリー・エゼル入港がふいになる」
「そうね。お願い」
 アル・アンジュは軽く溜息をつくと、空を見上げた。ひんやりとした秋風が肌に触れる。暗い雲が西陽を隠すように覆い始めていた。