世界には二つの大陸しかないと思われていた時代があった。北大陸エセルラント、そして南大陸のアゼルラント。海は二つの大陸の間に横たわる内海メディナと二つの大陸を囲む大洋パセティナ。港を有する国々は、船に人と荷物を載せて二つの大陸を渡り、貿易で大きな富を挙げていた。
 しかし、今から五十年前、すべての常識が覆った。世界にはもう一つの大陸があったのだ。
 新大陸・『オルサゴ』発見。
 アゼルラントにある小国バスティアの船が嵐によって漂流し、流れ着いた先は、大洋に浮かぶ島ではなく、自分たちがまったく知らない大陸だったのだ。
 その大陸では、自分たちと同じように国があり、人が暮らしていた。ただ違っていたのは、漁に使う小舟はあっても、大陸を渡るような帆船を持っていなかったこと。
 エセルラントとアゼルラントの間には海があった。そのため、輸送は海運が主流であり、自然と帆船の技術が発達していた。
 しかし、オルサゴ大陸にはまわりに大きな島もなく、漁以外で船を使う理由がなかった。そのため、彼ら自身も大海の向うに同じように人が暮らす大陸があることを知らなかったのだ。
 バスティアの漂流船は、オルサゴで船を修理し無事帰還した。オルサゴ大陸でしか手に入らないものを満載しての帰還だった。この帰還は二つの大陸に言葉にならない衝撃を与えた。
 船を持つすべての国が新大陸を目指した。しかし、新大陸にたどりつくためには大洋パセティナを渡らねばならない。漂流で偶然たどり着ける幸運が常に待っているわけではない。
 このことは造船技術と操船技術の進歩を促した。一旦、大洋パセティナに漕ぎ出すと、途中に人の住む島はほとんどない。操船に必要な人員と、彼らのための水と食料を積み、長距離を航行できる船を造らねばならない。また、嵐の多いパセティナを渡りきるだけの操船技術も必要であった。
 そして、新大陸が発見されて七年後、再びオルサゴへの上陸を果たしたのは、北大陸エセルラントで海洋の覇をとなえるエセルディアだった。
 エセルディアはオルサゴへの航路を開拓した。夜空の星や海流を頼りに、確実にオルサゴ大陸へ渡る航路を見つけたのだ。この後、エセルディアは大陸との交易をほしいままにし、莫大な富を得た。その交易品の中でも新大陸でしか手に入らないものがあった。
 それが香辛料だった。
 香辛料の存在は、二つの大陸の生活を根底から変えてしまった。食料の保存が劇的に変化したのだ。そのため、香辛料はあっというまに各地に広がり、なくてはならないものになった。しかし、どうしても新大陸以外での栽培はかなわず、輸入に頼るしかなかった。そのため、高値で取引され、一時は同じ重さの金と交換されるまでに高騰したのだった。
 エセルディアが航路を発見してから数年遅れて、各国もそれぞれにオルサゴへの航路を見つけ、交易を始めた。そうなると今度は新大陸からの富を狙って、凄まじい争奪戦が始まった。
 そして海賊の時代の幕が上がったのである。

「ねぇ、次の航海の予定は決まってないの?」
 不機嫌そうな声の主は、アル・アンジュだった。
「まだマドゥスに帰還して十日だよ。それにもうじき冬だ。今年の航海はこの間ので最後だよ」
 そう答えたのは航海長でもあり、アル・アンジュの叔父でもあるフェランだった。
「家族や恋人とゆっくり過ごす時間も必要なんだよ。しかも今回の実入りは相当なものだったから、水夫たちも十分な分け前にありつけたからね」
「でも、まだ秋が始まったばかりよ。叔父さま」
「航海長って呼ぶんじゃなかったのかい?」
「船を降りたら、叔父さまでいいの」
 アル・アンジュにも乗組員の休息が必要なのはわかっている。秋の始まりというのも嘘だ。もう風が冷たくなってきていて、冬が近くまで来ているはわかっている。それでも次の航海が待ち遠しくてならないのだ。
 エセルディアの輸送船を襲撃した後、アル・セイラ号は母港であるマドゥスに帰還していた。積荷のほとんどは香辛料で、これを売り払うと相当な額になる。アル・セイラ号は気前のよいことでも有名な船である。決まった給金だけを水夫たちに払って利益を船長が独り占めする船も多いなか、アル・セイラ号では、航海に必要な経費と出資者への配当金と国に治める税を差し引いた残りを、働きに合わせて乗組員たちに分け与えてしまう。
 気前のいいアル・セイラ号のことは、水夫たちにも噂になり、腕の良い水夫が集まる。そして腕の良い水夫が力を存分に出せば、また良い航海ができる。
 そうやって、アル・セイラ号はこのマドゥスの港だけでなく、バスティア国でも名高い海賊船として知れ渡っていた。
 バスティアは南大陸アゼルラントの西海岸に位置する。バスティア湾そのものがバスティアとしてひとつの国を形成していて、国としてはごく小さな領土しかもたない。三方を急峻な山脈に囲まれているため、バスティア湾による船の交易のみが人々の暮らしの支えである。
 そのため、造船技術は二つの大陸の中でも随一を誇る。バスティアの一の港であるマドゥスには、巨大な船渠が三つもある。これは北方の雄エセルディアでもかなわないものであった。
 いま航海を終えたアル・セイラ号は、この船渠のひとつに修繕に入ったばかりだった。大きな被害はなかったものの、今季の就航はもうないというフェランの判断で、総点検をするためである。
「そういうことって、船長が決めると思っていたんだけど」
「あぁ、すまなかったね。アル・アンジュが忘れているんじゃないかと思ったから、指示しておいただけだよ」
「わたしは、今年のうちにもう一回くらい航海に出たかったの」
「でも、もうこちらに帰還する船はないと思うよ」
 冬のパセティナは航海には向かない。下手をすると嵐に巻き込まれる恐れがあるため、長距離の航海は避けるのが普通だ。
「内海メディナでも良かったのに」
「アル・セイラ号は、内海向きじゃないよ。わかってて言ってるだろう。アル・アンジュ、そういうのをわがままというんだよ」
「わかってるけど、つまらないのよ」
 アル・アンジュは手持ち無沙汰に、黒い巻き毛を指にからませながらぼやいていた。こうした仕草は確かに十五歳の娘だった。
 乗組員たちは、マドゥスに帰還すると同時に休みに入った。他の船なら帰港と同時に船を降りるものも出てくるが、アル・セイラ号に限ってそれはない。皆、次の航海での再会を約束して家族の元へ帰った。
 アル・アンジュには帰る家がない。
 母が幼い頃に亡くなったとき、船乗りだった父は自分の家を手放した。帰港したときには、マドゥスの宿屋に泊ることにしていた。人の住まない家は荒れるものだし、自分たちの家はアル・セイラ号だというのが父の持論だったからだ。
 昨年父が亡くなり船長を継いだ後、アル・アンジュは父と同じように帰港したときには宿屋に泊るようになった。それは母の歳の離れた弟であるフェランも同じである。
 船長である父が亡くなったあと、父の右腕として航海長を務めていたフェランが船長になると思われていた。その頃、アル・アンジュはフェランについて航海士の仕事を手伝っていたに過ぎない。しかし、フェランは船長になることを固辞し、アル・アンジュを船長に推した。驚いたことに、乗組員の誰一人として、その意見に反対しなかったのである。
 その理由は、アル・アンジュの船長としての初航海でバスティア中に、いや大洋パセティナ中に知れ渡った。
 たった一隻のアル・セイラ号が、三隻のエセルディアの護衛船を沈め、輸送船を拿捕したからだった。
 アル・アンジュ自身は、それは幸運だったからだとうそぶいていた。しかし、アル・セイラ号の乗組員は確信していた。
 風を読むこと、海流を読むことにかけては天与の才があることを。
 船を自分の手足のように動かし、常に相手の先に回り優位に立つ。アル・アンジュにはそれが可能だったのだ。
 船に乗ること。それはアル・アンジュにはあまりにも自然で、それが彼女の人生そのものだったのだ。
「陸(おか)にもいいことはあるよ」
 帰港するたびに定宿にしている宿屋の女将は、アル・アンジュに良い匂いのする煮込みを差し出した。
「こんな手の込んだ料理は船の上じゃありつけないでしょ」
「確かにそうね。ジェナおばさんの煮込みは、陸の味だわ」
「こいつはね、三日もかけて煮込むんだから」
「船の上だと火の入った料理はちょっとね」
「わたしゃ、火の入ってない料理をひと月も食べられないっていうんじゃ、船に乗るのはごめんだよ」
「生の魚もおいしいけど。ああでも、確かにこの煮込みには負けるかも」
 アル・アンジュとフェランは久々の陸の味に舌鼓を打ちながら、今後の航海についての話を続けていた。
「ねぇ、来年こそは新大陸へ行きたいの」
「オルサゴへ?」
「うん。叔父さまは行ったことがあるのよね?」
「随分前のことだけどね。あの後、義兄さんは二度と新大陸へは行かなかったから」
「どうしてかしら。前の航海のときは、まだ私は生まれていなかったし」
「さあ。ただ、新大陸で直接交易をするより、今のように海賊家業をするほうがよほど効率的ではあるけどね」
「そんなに危険てこと?」
「もちろん航海も危険だけれど、何よりもオルサゴの人間との交易が大変だからね。首尾よく香辛料が手に入るとは限らない」
「エセルディアはどうやって手に入れてるの」
「あれは交易とは呼べないね。ほとんど略奪だ。確かにに見ていて気分のいいものじゃない。義兄さんはあれが嫌だったのかもしれない」
 新大陸の現状は、遠すぎて情報が少ない。アル・アンジュが知っていることは、あまりにも限られていた。
「憧れだけで行ける場所ではないよ」
「憧れってわけじゃないけど。船に乗っている限り、一度は行ってみたいじゃない?」
「そういうのを憧れっていうんだよ。覚えておくといい」
「なんか、今日の叔父さまっていじわるよね」
「そうかい。いつもと同じくらいのいじわるだと思うけど」
 フェランはアル・アンジュには甘すぎるくらい甘いが、航海のことについては一歩も譲ることはない。アル・アンジュの船長としての判断には従うが、航海そのものについては、航海長であるフェランは船長に意見する権利がある。
 アル・アンジュが何と言おうとも、アル・セイラ号が船渠に入っている以上、今季の航海はないだろう。このまましっかり油を塗りこんで、冬を越すことになる。例年よりは少し早いが、確かに外の風は随分冷たくなっていた。

「嬢ちゃん! じゃなかった船長はいるかい?」
 宿屋の扉を威勢よく開いたのは檣楼手のカルロだ。耳慣れただみ声が一階の酒場中に響く。
「いるわよ。ちょっと、船の上じゃないんだから、そんなに声を張り上げなくても聞こえるって」
「いけねぇ。ついついマストの上の癖が抜けなくってよ」
 少し声を押さえたつもりだろうが、十分大きな声で、するりするりとテーブルの間をかきわけてアル・アンジュたちの元に近づいてきた。普段、メインマストの檣楼に上って敵を見つけているだけあって、身の軽さと目の良さだけは一級品の男だ。ひょろりとした痩せた男で、声は潮風にあたっているせいか、がらがらのだみ声だ。
「航海長も一緒とは都合がいい。船長、ちょっといいですかい?」
「いいかどうかって、もう座りこんでるじゃない」
 フェランがふたりのやりとりの間にカルロの分の酒を注文すると、カルロが軽くフェランに頭を下げた。酒を受け取り、ぐびりと一杯やった後、今度は本気で声を潜めたカルロが、アル・アンジュとフェランに顔を寄せて話をつづけた。
「この後、もう一度、海に出るって話があるんですがね」
「アル・セイラ号は、もう船渠で冬眠中だ」
 フェランがすかさず釘を刺したが、なおもカルロは話をつづけた。
「新大陸航路じゃねぇんです。北っかわへちょっと小舟で散歩って感じなんですが」
「アル・セイラ号じゃなくてってこと」
「そおっす」
 カルロの話によると、バスティアから北大陸へ渡りたい人間がいるそうだが、船がなくて困っているとの話だった。バスティアは貿易の要所であるため各地への定期航路も充実している。わざわざ船を仕立ててというのは、何か裏が感じられた。ただ、カルロはアル・セイラ号の乗組員の中でも古株で、アル・アンジュの父親に拾われてから、フェランの弟分として実績を積み重ねてきた信頼できる男だ。話だけなら聞く価値はある。
「それでどこへ行くっていうの?」
「エセルディアっす」
 アル・アンジュとフェランが一瞬固くなった。エセルディアは現在バスティアと敵対関係にある。いくらバスティアからの定期航路が充実しているとはいえ、確かにエセルディアへの便はない。
「直行便はなくても、ガリシアでも、クーレでも経由して乗り換えればいいじゃない」
 ガリシアは北大陸の先端にある岬であり、クーレは南大陸の内海に面した穏やかな港町だ。どちらもバスティアほどではないが、交易の要所で乗り換えの船も多い。遠回りにはなるが、北大陸へ渡るにはその方法をとることのほうが多いだろう。
「そうなんですが。ちょっと急ぎらしくてですね。それにもう秋も深くなってきて」
 この二つの大陸の西岸は、秋の終わりから冬にかけて嵐の時期に入る。新大陸航路は言うに及ばず、近海を航海するのにも危険と隣あわせになるため、定期航路も欠航になることが多い。ガリシアやクーレを経由するとなると、下手をすればそこで春まで足止めということもありうる。
「わたしは反対だよ」
 アル・アンジュの返答を待たずにフェランが答えをだした。
「航海長、そんなすぐに答えを出さずに話を最後まで聞いてくだせぇ」
「この話には裏がありそうだからね。カルロのことだ、報酬に目が眩んだってわけではないだろう」
 カルロは金に目ざとい男だが、実は金だけでは動かない男でもある。フェランはそのことをよく知っていた。
「ご名答! 実はこの航海では、エセルディアのエリー・エゼルに帰港するんす!」
「エリー・エゼル?」
 アル・アンジュとフェランが声を揃えて聞き返した。
「しぃー! ふたりとも声が大きい」
 普段一番声が大きいカルロにたしなめられて、ふたりとも小さくなった。
 エリー・エゼル港は、エセルディア最大の軍事港だ。巨大な船渠を持ち、次々と最新式の護衛船を造り出していることで有名である。先日やりあった護衛船に搭載されていたエリー砲もその成果のひとつである。それらの秘密を守るため商船の出入りは最小限に制限されている。もし、エリー・エゼル港に潜入できるとすれば、そこで得られる情報の価値は計り知れない。
「叔父さま、やってみましょうよ!」
「いや、ますます怪しい。そもそも、そのエセルディアに行きたいという人間は何者なんだい。まさかエセルディア人がバスティアに潜入していたというわけじゃないだろう」
 エセルディア人の間諜をバスティアの人間である自分たちが手助けするわけにはいかない。
「そのまさかっす」
「はっきりしないわね。誰なのよ」
「おれも良くは知らねぇんです。ただしこの仕事はバスティア大公からの依頼なんす。確かに裏から回ってきやしたが、それは間違いないっす」
 カルロは目がいいだけではなく、耳も早い。港町に入るとどこの誰よりも情報を早くつかんでくる。バスティア大公の家臣が何やら秘密裡に船を探そうとしているのを嗅ぎ付けこの話をアル・アンジュのもとに持ってきたというわけだった。
 冬が近いこの時期に船を出せる人間には限りがある。また確実に秘密を守れる人間でなければならない。それを兼ね備えている船乗りを探すのは難しい。まさにアル・アンジュたちはうってつけというわけだ。
「でも、エセルディアにすれば、誰よりも港にいれたくない人間のはずよ。アル・セイラ号の船長なんてね」
「もちろん、アル・セイラ号のことは、一言も口にはしてねぇっす」
「バスティア大公からの、しかも裏からの依頼ということは…」
「密使」
「ということだろうね」
「しかもエリー・エゼルに入港するということは、軍人ということよね?」
 フェランが顔を少ししかめて頷いた。このバスティアの船もエセルディア海軍には何度も痛い目にあわされている。もちろん、アル・セイラ号も何度も戦ってきたが、いまのところは互角以上の戦果を挙げてきている。
 エセルディアの軍人にバスティアの内情を知られるわけにはいかないため、急遽、商船をでっちあげ、その船でエセルディアまで航海しようというのだ。
「なら、今回だけはわたしが船長というわけか」
 フェランがアル・アンジュに目くばせをした。十五歳の少女が船長となれば、エセルディア人に『黒い嵐』だと言っているようなものだからだ。
「仕方ないわよね。じゃ、今回だけは航海士見習いに戻ることにする」
「良かった! 引き受けてくれるんすね!」
「まあ、仕方ないだろう。エリー・エゼル港に入れるとなればね」
 渋々というふりをしながらフェランがうなづくと、カルロはほっと胸をなでおろした。
「実は船を手配しちまったんですよ。前金ももらっちまったし」
「ちょっと、やっぱり報酬が目当てなんじゃないでしょうね!」
「やるからには、もらえるもんもらったほうがいいでしょ」
 カルロはそううそぶくと、来たとき同様にするするとテーブルの間をすり抜け、宿屋を後にした。あの様子だと主だった仲間たちに声を掛けにいったに違いない。
「カルロは檣楼手よりも会計係のほうが向いているかもしれないね」
 フェランがやれやれといった様子でカルロを見送ると、軽く溜息をついた。
「せっかく、ゆっくりできると思っていたのにね」
「冬眠している場合じゃなくなりそうよ。叔父さま」
「船長だろ、航海士見習いくん」
「それは、船に乗ってからね」