抜け殻になった布団を触ると、とうの昔にぬくもりは冷めていた。ぼくはぼんやりと壁に掛かった時計を見上げた。十一時四十五分。寝た時間が遅かったせいか、いつもよりずっと遅く起きてしまった。珍しいことに、蒼葉はもう起きているようだ。一階に下りているのだろうか。そんなことを考えながら、白いワンピースに着替えて部屋を出た。

 強過ぎる日差しが目に染みた。海に反射した光も眩しくて、目を細めながら階段を下りる。「リリィ・ローズ」に入ったぼくは、あれ? と首を傾げた。いつも座っている席に蒼葉がいない。きょろきょろとお店の中を見渡していると、カウンターの奥から神奈が現れた。

「おはよう。今日はお寝坊さんだね」
「ねぇ、蒼葉は?」
「蒼葉? まだ寝てるんじゃないの?」
「いないの」
「え?」

 神奈は顎に手をあてて、うーんと唸った。

「散歩でもしてるんじゃないかな。あとは、コンビニとか」
「そう、かなぁ?」
「まぁ、烏丸先生のところに行ってくれてるのが一番いいんだけどね」
「……そう、だね」

 確かにそうかもしれない。昨日の烏丸先生の言葉を聞いて、蒼葉も考え直したのかもしれない。嫌な予感を押し殺すように、ぼくは無理やり自分を納得させた。不安げなぼくを見て、神奈が安心させるように微笑んだ。

「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。蒼葉はよくいなくなるんだ。野ばらちゃんを連れてきた時も、一週間くらい行方不明だったし」
「一週間も?」
「うん、だから大丈夫。あ、何かご飯作ろうか」?
「ううん……まだ平気」
「そう? じゃあ、ミックスジュース作るね」

 神奈は明るくそう言うと、鼻歌混じりにミキサーに果物を入れ始めた。

 ぼくはカウンターの椅子によじ上った。そして、蒼葉のことを考えた。眠る直前に見た優しい微笑みが頭に浮かぶ。穏やかな、だけど悲しい微笑み。初めて会った時も、蒼葉は同じ顔で笑った。その笑顔を見るたびに、心にすきま風が吹いたように寂しくなった。蒼葉が、どこかに行ってしまうような。そんな不安が胸をよぎった。

「……昨日、蒼葉が泳ぎを教えてくれたの」
「蒼葉が?」

 ミックスジュースをコップに注いでいた神奈の顔が強張った。

「まさか、泳いだの?」
「ううん。砂浜で見てただけだよ」
「そう……そうだよねぇ」

 神奈はほっとしたように息を吐いて、ぼくにジュースを差し出した。

「そしたらね、今までより楽に泳げるようになったんだ。ぼくのこと、素質あるって」
「へぇー。あいつが人のこと褒めるなんて、珍しいな。野ばらちゃん、よっぽど飲み込みが早かったんだよ」

 ぼくは嬉しくなって照れ笑いをした。ストローを口にくわえて、乾いた喉に流し込む。たくさんの果物と野菜が混じったミックスジュースは、甘酸っぱくてとてもおいしい。けれど、あまり喉を通らなかった。

「……だけどね、薬、飲みたくないんだって。手術するのも嫌だって」 

 神奈の表情が翳った。ぼくはぐるぐるとジュースをストローでかき混ぜた。

「死ぬのが怖いって。でも、海の傍を離れるのが嫌だから、入院もしたくないって」
「そうなんだ……」
「ぼく、蒼葉の気持ち、なんとなく分かる。ぼくも海が好きだから。もし入院して、それっきり海で泳げなくなったら嫌だから。でも、家族とか友だちのことを考えたら、それってわがままなのかな。やっぱり、元気になるためには、好きなことを我慢するのは仕方ないと思うし……」

 海が好きだから、海の傍を離れたくない。そんな、子供のようなわがままを、きっと大人は許してくれない。譲れないほど好きなことと、命。秤にかけても、きっとどちらにも傾かない。

「ね、神奈はどう思う?」

 答えを求めるように神奈を見上げた。蒼葉の一番の友だちである神奈なら、解決策を知っているかもしれない。

「野ばらちゃんは、賢い子だね。蒼葉の気持ちも、僕らの気持ちも理解して、ちゃんと考えてくれてる」

 でも、と神奈は続けた。

「僕は、このままでもいいと思うな」
「……えっ?」

 意外な言葉に、驚いた。神奈はおかしいほど落ち着いた笑みを浮かべていた。

「でも……そしたら蒼葉、死んじゃうんだよ?」
「そうだねぇ」
「そうだねって……神奈は、蒼葉に生きてほしくないの? 友だちなんでしょ?」
「友だちだから、蒼葉の好きなようにさせてあげたいんだよ。……野ばらちゃんなら分かるでしょ」

 ぼくはぐっと言葉に詰まった。神奈の言う通り、ぼくはなんとなく、神奈の気持ちに気づいていた。

 神奈は蒼葉の友だちだ。蒼葉を大切に思っている。そのことは痛いほど伝わってくるけれど、烏丸先生のように、蒼葉を「助けたい」とは思っていない。 

 昨日の夜、烏丸先生が、神奈のことを「諦めている」と言っていた。お前も、蒼葉と同じだと。先生の言う通りだ。今の神奈の笑顔は、蒼葉と同じだ。

「自分の生き方も死に方も、自分で決めさせてあげたいんだ。僕だってね、前は烏丸先生と同じことを蒼葉に言ってたよ。どうして治そうとしないんだ、どうして全部諦めるんだって。でもね、そうやってみんなが言うたびに、蒼葉はやつれていくんだ。笑わなくなっていくんだ。だから僕は、もう、いいんだ」

 いいんだよ……と呟く神奈の声は、空気に溶けて消えていった。

 クーラーの音が大きくなった、ような気がした。

 そんな悲しいこと言わないで。諦めないで。蒼葉が生きることを、素直に望んで。喉まで出かかった言葉は、何一つ声にはならなかった。神奈は、蒼葉を大切に思っている。だからこそ、何も言わない道を選んだんだ。

 だけどそれじゃあ、神奈の気持ちはどうなるんだろう。めぐさんや烏丸先生の気持ちは、大切にされないままなのかな。ぼくは唇を噛み締めて、ぐっと両手を握り締めた。

「……そんなの、やっぱりだめだよ」 

 俯いていた神奈が、「え?」と顔を上げた。ぼくは真っ直ぐに神奈を見つめた。

「だって神奈、悲しそうなんだもん。今のままじゃ、誰も幸せにならないもん。ぼくはこの間蒼葉と出会ったばかりだし、蒼葉のことなんて全然知らない。……でも、蒼葉はぼくのことを助けてくれたの。蒼葉だけじゃない。神奈もめぐさんも、ぼくの大切な人だから、ちゃんと笑ってほしいんだ。それに、神奈はぼくに言ったでしょ? 『ぼくが蒼葉を変えてくれるといいな』って。やっぱり、神奈だって本当は蒼葉に生きてほしいんだ」 

 神奈だけじゃない。めぐさんも、蒼葉が変わることを望んでいた。ぼくに望みを託してくれた。だからぼくは、みんなの気持ちに応えたい。みんなの気持ちを、大事にしたい。ぼくに何ができるのか、分からないけれど。

 神奈は目をまんまるにさせていたけど、やがて気が抜けたように「ああ……」と息を吐いて項垂れた。

「すごいなぁ、野ばらちゃんは」 
 その声は、ひどくかすれていた。

「君を見てると、ユリちゃんを思い出すよ。ユリちゃんも、君と同じことを言うんだろうなぁ……」 

 顔を上げた神奈は、涙を浮かべて情けなく笑った。ありがとう。涙に濡れたその言葉は、ぼくの心に強く響いた。