リリィ・ローズの花言葉

 昼になっても、蒼葉は下りてこなかった。ぼくは神奈と一緒にサンドイッチを作って、寝ている蒼葉の枕元に置いておいた。それから久しぶりに水着に着替えて、浮き輪を片手に海へ入った。浮き輪の上に乗っかって、波に揺られながら空を仰ぐ。昨日の嵐が嘘のように、雲一つない晴天だ。空の青が目に染みる。ゆらゆら、ゆらゆら。体がたゆたう。太陽が亀より遅いスピードで動くのを、何時間も目で追った。

 一羽、また一羽。ぼくの気持ちなんて考える様子もなく、かもめがのんびりと空を横切る。ぼくもああやって空を飛べたら、悩みなんてなくなるんだろうな。自由で、楽しそうで、妬ましい。ぼくには翼がないから空は飛べない。綺麗なヒレもないから、海底までは泳げない。こうやって海に浮かんで空を見上げて、視界全てを青く染めて、自由を手に入れた気になっている。自分一人じゃ、どこにも行けないくせに。蒼葉がいなけりゃ、逃げることすらできないくせに。 

 ぼくは浮き輪から下りて海に潜った。腕を左右に動かして、クロールで泳ぐ。懸命に足を動かすけれど、すぐに疲れて立ち上がってしまった。息継ぎがうまくできなくて苦しい。また、大きく息を吸って泳ぎ始める。数メートル進んでは立ち上がって、また泳ぐ。何度やっても、蒼葉のようには泳げない。 

 泳ぐのと立ちどまるのを繰り返していると、いつの間に起きてきたのか、砂浜に蒼葉がいた。波打ち際にしゃがみこんで、ぼくを心配そうに見ている。おいで、と手招きされて近寄ると、水色のゴーグルを渡された。

「これ使え。目、少し腫れてる」 

 ぼくは慌ててゴーグルを掛けた。

「起きてたの?」
「さっき起きた」
「サンドイッチ食べた?」
「食べたよ。お前が作ったの?」
「神奈と一緒に作った」 

 そうか、と頷いて、蒼葉はぼくの頭を乱暴に撫でた。

「うまかった。見た目は悪かったけど。また作って」
「うん!」 

 ぼくはにっこり笑って、再びざぶざぶと海の中に入った。大きく息を吸い込んで、また海に潜る。ゴーグルのおかげで、目を開けたままでも痛くならない。透明な水の中、イルカになったふりをして、両腕を交互に動かした。

「右に重心が傾いてる。同じ力で足を動かすんだ。それじゃあ真っ直ぐ進まない」 

 蒼葉は砂浜に座り込んで、時折ぼくにアドバイスをくれた。

「今度は腕が曲がってる。焦らなくていいから、丁寧に動かせ」
「息継ぎの時に顔を上げすぎなんだ」 

 ぼくは蒼葉に言われた通り、真剣に手足を動かした。酸素を求めて顔を上げると、いつもそこに蒼葉がいた。どれだけ波が誘っても、蒼葉は決して海に入ろうとはしなかった。ただ恋焦がれるような眼差しで、ぼくの泳ぎを眺め続けているだけだ。

 蒼葉は海に入らない。……違う、入れない。この手を取って教えてほしい。蒼葉の泳ぎを、伝えてほしい。もう一度泳いでほしいのに、泳いでとは言えない。喉まで出かかった言葉を飲み込んで、ぼくは泳ぎ続けた。

「ねぇ、今のは?」 

 水面から顔を上げて、蒼葉の元へと駆け寄る。ゴーグルを外すと、蒼葉の笑顔がよく見えた。

「だいぶよくなった。九十点」
「やったぁ!」 

 ぼくは大きく飛び上がって喜んだ。

「飲み込みが早いな。お前、素質あるよ」
「ほんと?」 

 ああ、と頷いて、蒼葉はぼくの頭を撫でた。その大きな手のひらがくすぐったくて、ぼくは目を閉じながら身を捩った。先生やお母さんに褒められるより、ずっと嬉しい。体中があったかくなって、踊り出しそうになる。

「海で泳ぐのって、浮かぶのより気持ちいいね。プールで泳ぐのと全然違う」
「波があるから泳ぎにくいだろ」
「でも、蒼葉が教えてくれたからちゃんと泳げるよ」
「……そうか」 

 蒼葉はちょっと照れくさそうに目を細めた。だけどその笑みは、引いていく波のようにすぅっと消えていってしまった。

「……海、怖くないのか」
「え?」
「昨日溺れたばっかりだろ」
「怖くないよ」 

 ぼくは考えることもなく即答した。昨日の海は、確かにすごく怖かった。波が轟々と渦巻いて、海底に潜む魔物に呑み込まれそうになった。冷たくて、暗くて、死んでしまうと思ったら、体の震えがとまらなかった。だけど、またこうして太陽の光できらめいている海を見たら、そんな恐怖はどこかへ飛んでいってしまった。その理由は、すぐ目の前にある。

 蒼葉がいるから、ぼくは泳げる。

「だって蒼葉がいるもん。……蒼葉が、見ててくれるもん」
「昨日のはたまたまだ」
「嘘。いっつも見てるくせに」 

 蒼葉は反論したそうに口を開けたけど、結局何も言わなかった。

「……薬、ちゃんと飲んだの?」 

 逃げるようにぼくから目を逸らす。

「飲まないとよくならないんでしょ? だったら、ちゃんと飲まなきゃだめだよ」
「……お前まで、そんなこと言うのか」
「だって!」 

 ぼくは蒼葉の胸に飛び込んだ。

「蒼葉がまた倒れたら嫌だもん。溺れることより、そっちの方が怖いもん」
「……泳がなきゃ倒れない。言われなくたって、海には入らない。それでいいだろ」
「よくないよ」 

 強く抱き締めた体はとても細くて、骨の硬さがよく分かる。写真の蒼葉と全然違う。悲しくて、悔しくて、苦しい。

「だって、蒼葉は泳ぎたいんでしょ。だったら薬飲んで治さなきゃ、ずっとこのままだよ」
「飲んだって治るとは限らないだろ」
「そんなことない。神奈だって言ってたよ。ちゃんと薬を飲んで、病院に行けば……」
「お前を安心させるためにそう言ったんだ」
「でも」
「可能性なんてないんだよ」 

 咲きかけの花を摘むように、蒼葉はぴしゃりと言い放った。

「入院して二度と戻ってこられなかったら? 二度と海を見られなかったら? 狭い病室でたった一人死ぬしかないとしたら? 手術の成功率だって高くないんだ。……怖くて仕方ないんだよ、俺は」 

 感情的な言葉とは反対に、声は諦めたように投げやりで、静かだった。

「死ぬことも怖いけど、生きる努力だってしたくないんだ。お前みたいに、強くないんだ」 

 ぽんぽん、となだめるように頭を叩かれた。見上げた先にあったのは、魂が抜けたようにやつれた蒼葉の顔だった。生きることに疲れた男が、そこにはいた。 

 蒼葉はもう、昔のように笑わない。もう、昔のように泳がない。ぼくがどれだけ気持ちを伝えても、きっと蒼葉の胸には響かないんだ。

 ぼくが伝える思いは、かつて神奈が抱いた思いだ。めぐさんが訴えた言葉だ。烏丸先生の怒鳴った声だ。ちゃんと薬を飲んで。病院に行って。諦めないで。頑張って――なんて、安っぽい! 

 その一言一言が、蒼葉をどれだけ苦しめてきたのだろう。何気ない励ましの一つ一つが、細い蔦となって蒼葉の首を絞め上げてきたんだ。苦しくて、辛くて、でも誰にも理解してもらえなくて、生きることを強いられてる。こんな細い体に、ひとりぼっちの孤独を抱えて、生きてきたんだ。そう考えたら、知らず知らずのうちに涙が頬を伝っていた。

「……どうして、お前が泣く」
「分かんない」
「同情してるのか」

 ぼくはぶんぶん首を振った。違う。同情なんてしていない。

「違うもん……」

 そう答える声は小さくて、弱くて、無力だった。ぼくは強くなんかないよ。蒼葉は弱くなんかないよ。そう伝えたいのに言えなくて。口から出るのは嗚咽だけで。たとえ言葉にできたとしても、声に出した瞬間に意味を失ってしまいそうで怖かった。

「泣くなよ。俺が泣かせたみたいだろ」
「蒼葉のせいだ」
「お前が勝手に泣いたんだ」 

 蒼葉はあきれたように息を吐いて、長い指で涙を拭った。

「俺なんかのために泣くな。耐えられない、そういうの。……耐えられないんだ……」 

 ひとりごとのような呟きは、波の音に呑まれて消えていった。太陽を映した海は、自虐的に、悲しげに、いつまでも輝いていた。



 そのあとすぐに空が赤く染まって、あっという間に夜になった。めぐさんのライブがあるせいか、いつもよりお客さんが多かった。

 夜ご飯を食べたら、蒼葉は奥にあるソファの隅っこに丸まった。昼間あれだけ眠ったというのに、めぐさんのピアノを聞きながら、気持ちよさそうにすやすやと目を閉じていた。

 神奈は忙しなく料理を出したり、カウンターのお客さんとおしゃべりをしている。蒼葉と顔を合わせても、神奈は普段通りの会話をするだけで、昨夜については何も言わなかった。きっともう、随分前に、言いたいことは全て言い尽くしてしまったのだろう。だからもう、神奈は蒼葉に何も言わないんだ。「生きろ」という一言も、言わないことにしたんだ。 

 カランカラン……と鈴の音が響いて、お店の扉が開いた。入口を見たぼくは、ぴゃっと短く声を上げた。烏丸先生はぼくをぎろりと睨むと、ぼくから二つ離れた席に腰掛けた。

「ビール」 

 神奈は「はいはい」と肩をすくめて、生ビールを手渡した。ぼくはどきどきしながら蒼葉を見た。先生が来たことに気づいていないのか、蒼葉が目を開ける気配はない。もう一度先生を見る。烏丸先生はぐいっと生ビールを喉に流し込むと、目玉だけをぎょろりとぼくに向けた。

「ひっ」
「……そんな目で俺を見るな。取って食いやしない。蒼葉は?」

 神奈は黙ってソファの隅っこを指差した。

「人の気も知らねぇで、いい気なもんだ……」

 烏丸先生は恨みのこもった瞳で蒼葉を睨んで、「気に食わねぇ」と舌打ちした。

「まあまあ。とりあえず、大事にならなくてよかったじゃん。今は素直にそのことを喜ぼうよ」

「お前は蒼葉に甘いんだ。お前がそんなんだから、あいつは薬も飲まないんだぞ」
「僕が言ったって聞かないよ」

 神奈は困ったように息を吐いた。

「みんなが言うから意固地になってる部分もあると思うんだ。だったらあんまり言わない方が……」
「だからって諦めるのか。お前もあいつと同じだな」 

 烏丸先生の声が、ピアノの音色をかき消した。

「あいつの体は今この瞬間も壊れ続けてるんだ。今はピンピンしてるかもしれねぇが、いつまた倒れたっておかしくない状況なんだ。手遅れになった時、お前は責任取れんのか? 歩けなくなったあいつを見ても、お前は同じことが言えるのか」
「それは……」
「俺は医者だ。命を救うのが医者の仕事だ。嫌われてもいい。恨まれたってかまわねぇ。それでも蒼葉を助けなきゃ、あいつに顔向けが……」
「く、薬!」

 大きな声で叫んだら、二人が同時にぼくを見た。

「薬、そんなに苦いの?」
「はぁ?」
「ぼくも薬、苦手だよ。風邪ひいた時でも飲みたくなくて、いつもジュースに混ぜて飲んでた。それでも飲むのが嫌で、お母さんにいつも怒られてたよ。だから、えっと……その……」

 しどろもどろになってしゃべるうちに、自分でも何を言っているのか分からなくなった。神奈はぽかんと口を開けてぼくを見ていたけれど、やがておかしそうに笑い出した。

「そうだよね。誰だって、薬なんて飲みたくないよね」 

 烏丸先生もばつが悪そうにビールを喉に流し込む。ちょうどピアノ演奏が終わって、店内に大きな拍手が溢れた。

「先生も野ばらにかかっちゃ形無しだね」

 演奏を終えためぐさんが、ぼくと烏丸先生の間に腰掛けた。

「どうだった? あたしのピアノ」
「すっごくよかったよ。何て曲?」
「『スペイン』。野ばらには少し退屈だったかもね」
「そんなことない。素敵だった」

 めぐさんはにっこり笑って、長い髪をかき上げた。

 時計の針が進むたび、一人、また一人と、お客さんが帰っていった。夜が深まると、睡魔がぐっと襲ってくる。ぼくは蒼葉に寄りかかって目を閉じていた。  

 大人の話はよく分からない。ぼくの知らない長い時間や、たくさんの思い出がいっぱい詰まっていて、ぼくには決して理解できない。だからぼくは、こうして邪魔にならないところに座って、じっと息を潜める。

「俺は無力だ」

 静かなBGMの隙間に、烏丸先生がぽつりと言葉を漏らした。

「たった一人の意思すら変えられねぇ。どんな言葉を並べても、あいつの心には響かねぇんだ……」

「先生は頑張ってる。頑張ってるよ……」 

 労わるようにめぐさんが言う。お酒がまわってきたのか、烏丸先生のガラガラ声は、涙の色を含んでいた。

「俺はちいせぇ頃からあいつを見てきたんだ。助かってほしいと思うのは、普通のことだろう? それなのにどうしてあいつは諦めるんだ。どうして自分を大切に思っているやつらのことを考えない。あいつにとって俺らは、他人でしかないっていうのかよ……」
「無力なのはあたしも同じだよ……」 

 神奈の声は聞こえてこない。めぐさんの声は今まで聞いたこともないほど悲しみに濡れていた。

「ユリちゃんがいればな」

 ぽつりと神奈が呟いた。ぼくは思わず目を開けた。

「あの子だったら、きっとうまくやれるんだろうねぇ……」
「いないやつのことを嘆いても仕方ねぇよ。それに、言ってないんだろ? やつのこと」
「うん。連絡は取ってるんだけど、蒼葉に口止めされてるから……」 

 どうしようもないね、と神奈が寂しげに言う。ぼくは肩越しにこっそりと三人を見た。他にお客さんがいないため、ぼくらがいる側は真っ暗だ。まるで三人のいる空間だけが別世界のようだった。

「明日、俺のところに来い」 

 突然、烏丸先生の声が大きくなった。

「大病院に行って、もう一度精密検査を受ける。そんで俺より腕のいい医者を紹介してやる。入院の手続きも済ませる。ただし、来るか来ないかはお前が決めろ。助かる可能性を捨てるっていうなら、もう俺は何も言わん」 

 ぼくはそっと蒼葉の顔を覗き込んだ。
「聞こえているんだろ、蒼葉よ……」 

 縋るような低い声が、余韻を残して消えていく。蒼葉はうっすらと目を開けたけれど、その声に応えることはついになかった。



 烏丸先生とめぐさんが帰ってから、ぼくと蒼葉も部屋に戻った。

「もう白いワンピース着れるんだな」 

 電気を消して、同じ布団の上に横たわったら、蒼葉が思い出したように言った。

「生理が終わったら着ても大丈夫って、めぐさんが」
「天使みたいだって思ったよ。すごく似合ってる」
「本当に?」
「嘘言ってどうすんだ」 

 蒼葉は優しい微笑みを浮かべて、愛情たっぷりにぼくの髪を指で梳いた。毛先が頬に触れてくすぐったい。眠気を振り払うように、枕に顔をこすりつけた。

 日付はとっくの昔に変わっている。だけどまだ寝たくなかった。今の蒼葉はなんだかちょっと変だ。いつもの優しさとは少し違う。まるで最後の別れのような、寂しさが滲み出ている。烏丸先生の言葉を聞いていたはずなのに、ちっともそんな素振りを見せない。まるで、昨日の夜みたいだ。

「明日、ちゃんと行ってね」 

 重たい目蓋を持ち上げながら、ぼくは蒼葉を見上げた。

「烏丸先生、泣いてたもん。ちょっと怖いけど悪い人じゃないよ」
「……ああ」
「蒼葉のこと、みんな大切なんだよ。大切だから、大事にしてほしいんだよ……」  

 分かってる……と、消え入りそうな声が聞こえた。眠りたくないと思うのに、蒼葉の大きな手で頭を撫でられるのが心地よくて、閉じた目蓋はもう開けなくなってしまった。 

 静かに鼓膜を揺らすのは、遠くで響く波の音だけだ。深い闇に包まれた夜は、海の底のようで少し怖い。だけど、蒼葉の体温に包まれたら、そんな恐怖は夢より遠くに消えてしまった。

 蒼葉はぼくのことを「強い」と言ったけれど、ぼくは全然強くない。蒼葉がいるから、強くなれるんだよ。自分を受け入れて前に進むことを、蒼葉は教えてくれたから。 

 長い夜が明けると、カーテンの隙間から朝日が差し込んできた。眠たい目をこすって顔を上げると、隣に蒼葉の姿はなかった。





 抜け殻になった布団を触ると、とうの昔にぬくもりは冷めていた。ぼくはぼんやりと壁に掛かった時計を見上げた。十一時四十五分。寝た時間が遅かったせいか、いつもよりずっと遅く起きてしまった。珍しいことに、蒼葉はもう起きているようだ。一階に下りているのだろうか。そんなことを考えながら、白いワンピースに着替えて部屋を出た。

 強過ぎる日差しが目に染みた。海に反射した光も眩しくて、目を細めながら階段を下りる。「リリィ・ローズ」に入ったぼくは、あれ? と首を傾げた。いつも座っている席に蒼葉がいない。きょろきょろとお店の中を見渡していると、カウンターの奥から神奈が現れた。

「おはよう。今日はお寝坊さんだね」
「ねぇ、蒼葉は?」
「蒼葉? まだ寝てるんじゃないの?」
「いないの」
「え?」

 神奈は顎に手をあてて、うーんと唸った。

「散歩でもしてるんじゃないかな。あとは、コンビニとか」
「そう、かなぁ?」
「まぁ、烏丸先生のところに行ってくれてるのが一番いいんだけどね」
「……そう、だね」

 確かにそうかもしれない。昨日の烏丸先生の言葉を聞いて、蒼葉も考え直したのかもしれない。嫌な予感を押し殺すように、ぼくは無理やり自分を納得させた。不安げなぼくを見て、神奈が安心させるように微笑んだ。

「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。蒼葉はよくいなくなるんだ。野ばらちゃんを連れてきた時も、一週間くらい行方不明だったし」
「一週間も?」
「うん、だから大丈夫。あ、何かご飯作ろうか」?
「ううん……まだ平気」
「そう? じゃあ、ミックスジュース作るね」

 神奈は明るくそう言うと、鼻歌混じりにミキサーに果物を入れ始めた。

 ぼくはカウンターの椅子によじ上った。そして、蒼葉のことを考えた。眠る直前に見た優しい微笑みが頭に浮かぶ。穏やかな、だけど悲しい微笑み。初めて会った時も、蒼葉は同じ顔で笑った。その笑顔を見るたびに、心にすきま風が吹いたように寂しくなった。蒼葉が、どこかに行ってしまうような。そんな不安が胸をよぎった。

「……昨日、蒼葉が泳ぎを教えてくれたの」
「蒼葉が?」

 ミックスジュースをコップに注いでいた神奈の顔が強張った。

「まさか、泳いだの?」
「ううん。砂浜で見てただけだよ」
「そう……そうだよねぇ」

 神奈はほっとしたように息を吐いて、ぼくにジュースを差し出した。

「そしたらね、今までより楽に泳げるようになったんだ。ぼくのこと、素質あるって」
「へぇー。あいつが人のこと褒めるなんて、珍しいな。野ばらちゃん、よっぽど飲み込みが早かったんだよ」

 ぼくは嬉しくなって照れ笑いをした。ストローを口にくわえて、乾いた喉に流し込む。たくさんの果物と野菜が混じったミックスジュースは、甘酸っぱくてとてもおいしい。けれど、あまり喉を通らなかった。

「……だけどね、薬、飲みたくないんだって。手術するのも嫌だって」 

 神奈の表情が翳った。ぼくはぐるぐるとジュースをストローでかき混ぜた。

「死ぬのが怖いって。でも、海の傍を離れるのが嫌だから、入院もしたくないって」
「そうなんだ……」
「ぼく、蒼葉の気持ち、なんとなく分かる。ぼくも海が好きだから。もし入院して、それっきり海で泳げなくなったら嫌だから。でも、家族とか友だちのことを考えたら、それってわがままなのかな。やっぱり、元気になるためには、好きなことを我慢するのは仕方ないと思うし……」

 海が好きだから、海の傍を離れたくない。そんな、子供のようなわがままを、きっと大人は許してくれない。譲れないほど好きなことと、命。秤にかけても、きっとどちらにも傾かない。

「ね、神奈はどう思う?」

 答えを求めるように神奈を見上げた。蒼葉の一番の友だちである神奈なら、解決策を知っているかもしれない。

「野ばらちゃんは、賢い子だね。蒼葉の気持ちも、僕らの気持ちも理解して、ちゃんと考えてくれてる」

 でも、と神奈は続けた。

「僕は、このままでもいいと思うな」
「……えっ?」

 意外な言葉に、驚いた。神奈はおかしいほど落ち着いた笑みを浮かべていた。

「でも……そしたら蒼葉、死んじゃうんだよ?」
「そうだねぇ」
「そうだねって……神奈は、蒼葉に生きてほしくないの? 友だちなんでしょ?」
「友だちだから、蒼葉の好きなようにさせてあげたいんだよ。……野ばらちゃんなら分かるでしょ」

 ぼくはぐっと言葉に詰まった。神奈の言う通り、ぼくはなんとなく、神奈の気持ちに気づいていた。

 神奈は蒼葉の友だちだ。蒼葉を大切に思っている。そのことは痛いほど伝わってくるけれど、烏丸先生のように、蒼葉を「助けたい」とは思っていない。 

 昨日の夜、烏丸先生が、神奈のことを「諦めている」と言っていた。お前も、蒼葉と同じだと。先生の言う通りだ。今の神奈の笑顔は、蒼葉と同じだ。

「自分の生き方も死に方も、自分で決めさせてあげたいんだ。僕だってね、前は烏丸先生と同じことを蒼葉に言ってたよ。どうして治そうとしないんだ、どうして全部諦めるんだって。でもね、そうやってみんなが言うたびに、蒼葉はやつれていくんだ。笑わなくなっていくんだ。だから僕は、もう、いいんだ」

 いいんだよ……と呟く神奈の声は、空気に溶けて消えていった。

 クーラーの音が大きくなった、ような気がした。

 そんな悲しいこと言わないで。諦めないで。蒼葉が生きることを、素直に望んで。喉まで出かかった言葉は、何一つ声にはならなかった。神奈は、蒼葉を大切に思っている。だからこそ、何も言わない道を選んだんだ。

 だけどそれじゃあ、神奈の気持ちはどうなるんだろう。めぐさんや烏丸先生の気持ちは、大切にされないままなのかな。ぼくは唇を噛み締めて、ぐっと両手を握り締めた。

「……そんなの、やっぱりだめだよ」 

 俯いていた神奈が、「え?」と顔を上げた。ぼくは真っ直ぐに神奈を見つめた。

「だって神奈、悲しそうなんだもん。今のままじゃ、誰も幸せにならないもん。ぼくはこの間蒼葉と出会ったばかりだし、蒼葉のことなんて全然知らない。……でも、蒼葉はぼくのことを助けてくれたの。蒼葉だけじゃない。神奈もめぐさんも、ぼくの大切な人だから、ちゃんと笑ってほしいんだ。それに、神奈はぼくに言ったでしょ? 『ぼくが蒼葉を変えてくれるといいな』って。やっぱり、神奈だって本当は蒼葉に生きてほしいんだ」 

 神奈だけじゃない。めぐさんも、蒼葉が変わることを望んでいた。ぼくに望みを託してくれた。だからぼくは、みんなの気持ちに応えたい。みんなの気持ちを、大事にしたい。ぼくに何ができるのか、分からないけれど。

 神奈は目をまんまるにさせていたけど、やがて気が抜けたように「ああ……」と息を吐いて項垂れた。

「すごいなぁ、野ばらちゃんは」 
 その声は、ひどくかすれていた。

「君を見てると、ユリちゃんを思い出すよ。ユリちゃんも、君と同じことを言うんだろうなぁ……」 

 顔を上げた神奈は、涙を浮かべて情けなく笑った。ありがとう。涙に濡れたその言葉は、ぼくの心に強く響いた。



「野ばらはユリに似てるね」 

 昼過ぎ。お店に来ためぐさんが、ぼくを眺めて微笑んだ。

「真っ直ぐなところとか、蒼葉の気持ちを理解してるところとか。昔から勝手なやつだったけど、ユリに言われると弱いんだよ、蒼葉は」

「そうそう。お母さんと息子って感じ」
「神奈も相当怒られてたよね」
「そうなの?」 

 ぼくが尋ねると、神奈は気まずそうに目を逸らした。

「む、昔の話だよ。昔は相当やんちゃしてたし……」
「ユリさんが怒るところ、想像つかない」
「そう?」 

 ぼくはうん、と頷いた。

「いっつもすごく優しくて、みんなの人気者なんだ。ぼくの話を聞いてくれるし、たまにおまけしてくれるし……」
「そういうタイプに限って、怒らせると怖いんだよ」 

 神奈が両腕を体に巻きつけて、大げさに身震いしたので、ぼくとめぐさんは同時に笑った。 

 そのあとも、二人からユリさんのことをたくさん聞いた。ユリさんも、蒼葉と一緒にこの海で育ったこと。いたずらっ子だった神奈をよく叱っていたこと。めぐさんと一緒に花の世話をしていたこと。烏丸先生をお父さんのように慕っていたこと。今でもこまめに連絡をくれること。二人の会話の中には、ぼくの知らないユリさんがいた。

 今、ユリさんは病室のベッドで眠っている。そのことを考えたら、心に夜が来たようだった。ユリさんが目を覚まして、蒼葉を叱ってくれたらいいのに。そしたら、蒼葉は前向きになるのに。

「これも何かの縁なんだろうねぇ」 

 話が一段落ついた時、めぐさんがしみじみと呟いた。

「野ばらが来てから、周りがパッと明るくなったよ。あたしたちだけじゃない、蒼葉もどことなく楽しそうだし。それに、蒼葉は烏丸先生のところへ行ったんだろ?」
「うん……多分」
「だったら、それだけでも進歩だよ。あいつも少しは前向きになったってことだから……野ばらのおかげだね」 

 ぼくは恥ずかしくなって、何も言わずにお店の外に目をやった。透明な扉越しに、赤く染まった海が見える。 

 太陽が赤い。魂が燃えている色だって、蒼葉は言っていた。蒼葉は、烏丸先生のところに行った。まだ治す決意は固めていないのかもしれないけど、ちゃんと前に進んでいる。 

 ――本当に、そうなのかな? 

 おどろおどろしい夕焼けを眺めたら、ざわ……と心が不穏になった。本当に、蒼葉は烏丸先生のところに行ったのかな? そんな簡単に、前向きになれるものなのかな? 海から離れることを、あんなに怖がっていたのに。昨晩、蒼葉はちょっと変だった。吹っ切れたような、不自然な優しさがあった。 

 まだ検査は終わらないのだろうか。入院の手続きとかもしてるのかな。そう考えたらなんだか落ち着かなくなって、椅子から飛び下りようとした時。 

 運命の時を告げるように、お店の電話が鳴った。

「烏丸先生だ」 

 そう言って、神奈は「もしもし」と電話に出た。

「蒼葉? ううん、今日は見てないけど……え?」 

 烏丸先生と話す神奈の顔が、みるみるうちに青ざめていった。放心状態で頷いたあと、神奈は受話器を置いてぼくらを見た。

「蒼葉、烏丸先生のところに行ってないって」
「え?」 

 めぐさんの顔が険しくなった。

「行ってないって……どういうこと?」
「分かんない。僕も野ばらちゃんも、朝からあいつを見てないんだ」
「じゃあ、一体どこに……」
「……ぼく、探してくる!」 

 考えるより先に、体が動いた。

 勢いよく外に出ると、大きな太陽と目が合った。海全体を見渡してみるけれど、蒼葉の姿は見えない。ぼくは一目散にある場所へと走り出した。息が弾む。汗が吹き出る。少しずつしか前に進まない、小さな体がもどかしい。ぼくは大きく両手を振って走った。

 ああ、どうして気づかなかったのだろう。蒼葉が弱い大人だってこと、ちゃんと知っていたのに。すぐに強くなんかなれないって、分かっていたのに。

 柔らかい砂に足をとられて、勢いよく砂浜に倒れ込んだ。泣き出しそうになるのをぐっとこらえて、ぼくはすぐに立ち上がった。膝がすり剥けてヒリヒリと痛む。地面に打ちつけた胸が苦しい。ワンピースに着いた砂を軽く払って、もう一度、走り出す。立ちどまっている時間はない。足を動かせ。両腕を振れ。脳みその裏側でぼくが命令する。大切なものを失いたくないのなら、心臓が破れるくらい速く走れと。

 蒼葉、蒼葉。心の中で叫びながら、三度目の道を進んでいく。真っ赤な夕焼けがよく見える、二人だけの秘密の場所へ。

 緩やかな坂道を上り終えると、パッと視界が開けた。

 一人の男が、立っていた。潮風に揺れる髪。よれたTシャツ。広い背中。傘のように細い二本の足。

「あお、ば……」

 息を整えながら名前を呼んだ。蒼葉はゆっくりと振り返った。太陽の光が眩しすぎて、顔がよく見えない。赤い光に照らされた蒼葉は、怖いくらい儚くて、このまま光の中に溶けてなくなってしまいそうだった。

「ずっと、ここにいたの?」

 蒼葉は何も答えない。

「何、してるの?」

 知らず知らずのうちに、全身が震えていた。自分から尋ねたくせに、答えを聞くのが怖かった。

 蒼葉はゆっくりと正面を向いて、太陽を指差した。

「……あそこに行こうとしてた」

 それは遥か彼方にある、空と海の境界だった。魂の燃える場所。赤くて暗い、命の果て。つがいのかもめが、夕日に向かって翼をはためかせている。

 ぼくは蒼葉に近づこうとした。腕を掴んで、一刻も早くそこから引き戻したかった。だけど体はぴくりとも動かない。少しでも近づいたら、蒼葉が目の前から消えてしまうような――海の中に、飛び込んでしまうような気がした。

「……行かないで」

 かろうじて喉から絞り出した声は、情けないくらい小さかった。

「置いて、いかないで」
「……どうせなくなる命なら、少しでも海の近くにいたい」

 蒼葉は振り向かずに呟いた。ぼくと同じ、情けなくて、弱々しくて、小さな声だった。

「死ぬ時はベッドの上じゃなく、海の中で死にたい。……そう思って、チャンスをうかがってるんだ。濁流に呑まれる時を。魂が、燃やされるのを」

 ぼくはなんとか足を動かして、恐る恐る蒼葉の隣に立った。足元を覗き込むと、どこまでも続く海が広がっていた。波が渦を巻いて、ところどころ白くなっている。一歩でも足を踏み出したら、岩礁に体を打ちつけながら、海の底へと沈んでしまうだろう。

 そしたらきっと、二度と会えない。

「だけど、暗い海底に沈む自分を想像したら、一人で死ぬのが怖くなった。……だからあの時逃げた。海から、逃げた」
「……だから、ユリさんのところに行ったの?」

 ぼくはそっと蒼葉を見上げた。

「助けてもらおうと思ったの?」
「違う」

 蒼葉は険しい表情で即答して、ためらうように口をつぐんだ。ぼくはじっと蒼葉の言葉を待った。

「……殺そうと、思った」

 波の音に紛れて、震える声で、蒼葉が言った。

「ナイフを持って、あいつの体に、刺そうとした」
「……刺したの?」
「刺してない。俺が行った時には、もうあいつは倒れてた。誰かに殴られたみたいだった」

 蒼葉は感情のない声で続けた。まるで、知らない誰かのことを話しているみたいだった。

「でも俺は、救急車を呼ばなかった。このままあいつが死ねばいい。そう、思っていた。……俺はユリを道連れにしようとしたんだ」

 蒼葉はぼくと目を合わせると、自嘲的に笑った。

「軽蔑したか?」

 ぼくは何も言えなかった。ただ、力なく首を左右に振るのが限界だった。

「本当は帰ったら、海に飛び込むつもりだった。いつも海を見て、チャンスをうかがっていた。……でも、できなかった」
「……どうして?」

 蒼葉は沈黙を作るように、また海に視線を戻した。その目は、以前より少し穏やかだった。恨みも、憎しみもそこにはなかった。

 蒼葉はもう一度ぼくを見た。泣き出しそうな、おかしそうな、変な顔だった。

「海を見たら、お前がいた。楽しそうに、泳いでた。……お前を見てたら、また、泳ぎたくなった。不思議だな……」

 潮風が一層強く吹いた。波の音が、大きくなった。まるで、ぼくたちを誘っているみたいに。

「……蒼葉」

 ぼくは蒼葉の腕を掴んだ。

「一緒に泳ごう」

 蒼葉は驚いたように目を見開いた。

「泳がなくてもいい。入るだけでもいいの。海は怖くなんかないよ。海は優しいんだ。蒼葉のことも、ちゃんと受け入れてくれるよ」
「……俺は」

 ぼくは答えを聞く前に、強く蒼葉の腕を引っ張った。上ってきたばかりの坂道を駆け下りて、砂浜へと降り立つ。そのまま海に入ろうとしたら、蒼葉は怯えるように足をとめた。

「蒼葉」

 蒼葉は険しい顔をしたまま動こうとしない。赤く染まった海に沈む太陽は、怖いくらい大きく膨らんでいる。

 ぼくは蒼葉の腕を離して、ざぶざぶと海をかき分けていった。

「……おい、危ないぞ」

 蒼葉の忠告を無視して、ぼくは更に深いところへと進んでいく。胸の高さまで海に浸かった時、強い波がぼくの足をすくった。

 ぐらりと体が傾いたと同時に、ぼくはあっという間に海に沈んだ。あの嵐のの日ように、目の前が真っ暗になった。

 だけどすぐに、強い力がぼくを海中から引き戻した。水が鼻に入って苦しい。ゲホゲホと一通りむせ込んでから目を開けると、そこには蒼葉の顔があった。

 ぼくは上から下まで蒼葉を見渡した。蒼葉の体は半分くらい海に浸かっている。砂浜にはもう、蒼葉の姿はない。ぼくはほっとして、蒼葉に向かって微笑んだ。

「ほら、入れた」

 蒼葉は自分の状況がうまく飲み込めないようだった。ぼくを見て、砂浜を見て、もう一度ぼくを見た。それから泣き出しそうな顔で笑うと、

「……本当だ」

 情けない声で呟いた。



「珊瑚礁、見たことあるか」

 海面に浮かびながら、ぽつりと蒼葉が問いかけた。

「赤、青、緑……深い海の底なのに、信じられないくらい鮮やかなんだ。スズメダイ、チョウチョウウオ、ハリセンボンやオニヒトデ。たくさんの生き物が、そこで生きてる。何も恐れず、悠々と泳いでる」

 赤い空を見上げる蒼葉の目は、安心しきったように穏やかだった。海にたゆたう、ぼくと蒼葉の髪が絡み合う。ゆりかごのように揺れる海水が、ぼくらを抱く。

「海に咲く花畑みたいな、その景色が好きだった。……珊瑚礁だけじゃない。俺は、海の全てが好きだった。朝日に照らされて光る海も、夕焼けを映した真っ赤な海も。波の声。水のぬくもり。砂の感触。いつだって地上より近い場所にあった。離れることなんて、ないと、思ってた」

 顔を蒼葉の方に向けたら、体が沈みそうになった。海水が口に入ってしょっぱい。蒼葉がぼくを見て、あきれたように笑った。

「大丈夫か」
「大丈夫、平気」

 ぼくは両腕を広げてなんとか体勢を立て直した。波が絶えず体を揺らしてくるというのに、蒼葉は海面にぴったりくっついて、バランスを崩す様子はない。

「……蒼葉は、海に愛されてるね」
「何だ、それ」
「だって、全然体が沈まないの。お布団の上で寝るよりも、海に寝転がる方が気持ちよさそう。蒼葉が海を好きなように、海も蒼葉が好きなんだ」
「……そうだったら、こんな風にはなってないさ」

 蒼葉の笑い方が、また、諦めたようなものに変わった。ゆっくりと右手を海から離して、自分の胸にあてる。

「ここが、痛むんだ」

 苦しそうに、蒼葉が言った。

「もう『これ』は使い物にならない。俺が泳ぐのを邪魔してきやがる。俺を、棺桶に引きずり込もうとする。『これ』は、もう俺のものじゃなくなっちまった」

 夕日が海へと迫ってきた。顔にあたる赤い光が熱い。魂を、ぼくたちを、燃え尽くそうとしている。蒼葉、と名前を呼ぼうとしたけど、寸でのところでやめた。ぼくは、何も言えなかった。

「最初は薬を飲んでいたんだ。烏丸に言われた通り治療を受けて、安静にして……。でも、俺の体はよくならない。泳げないまま、時間だけが過ぎていった」
「……それで、どうしたの?」
「烏丸に文句を言ったんだ。『もうお前の言うことは信用できない、泳げないなら死んだ方がマシだ』って。……だけどいつものように泳いだら、『これ』が爆発しそうなくらい痛んだ。泳いだのは、それが最後だ」
「……」
「結局俺は、死ぬことにビビったんだ。ダサいだろ……」

 ううん、と首を振った。違う。蒼葉は弱虫なんかじゃないよ。そう否定したいのに、声が出ない自分がもどかしい。求めるように手を伸ばした。蒼葉はぼくの手を取らなかった。波に揺られながら、ぽつり、ぽつりと話し続けた。

「死ぬのが怖いくせに、泳げなくなるのも嫌だった。だから子供みたいに駄々をこねて、治療を拒んで……。今日だって、死のうと思ってあそこに行ったのに、結局何もできなかった。中途半端だな、俺は」
「……それで、いいよ」

 ぼくは海底に足を着いて立ち上がった。蒼葉がゆっくりとぼくを見た。

「死のうとなんて、しないで」

 蒼葉を海から遠ざける「それ」に手を伸ばした。とくん、とくん。微かな、でも確かな心音が手のひらに伝わる。左手で自分の胸に手をあてたら、同じ音が伝わってきた。

 このまま二つの鼓動が重なって、一つになればいいと思った。そうしたら、ぼくの命を蒼葉にあげることができる。蒼葉を、安心させることができると思った。

「蒼葉が死んだら、ぼくも死ぬから」
「……何だよ、それ」

 ぼくは意地悪く笑ってみせた。

「さっき決めたの。だから、ぼくを殺さないで」
「そんなの、脅迫だ」
「そう。キョウハク、してるの」

 蒼葉はびっくりしたように口を開けた。言葉を探すように唇が震えて、それからすぐにきつく閉じた。嬉しそうな、悲しそうな、笑いそうな、泣きそうな、よく分からない表情を浮かべて、蒼葉はぼくの手に手を重ねた。

「……ガキのくせに、よく言う」
「大人のくせに、弱虫だね」
「知ってる」

 蒼葉はふっと温かい息を漏らした。ぼくたちはお互いの指を強く絡めた。二人の命が繋がるように。心音を、共有できるように。

「あおば」

 力を込めて、名前を呼んだ。蒼葉は立ち上がって、水に濡れた瞳でぼくを見下ろした。

「また一緒に泳ごうよ」
「……ああ」
「ぼく、もっとうまく泳げるように練習するから」
「ああ」
「その時は、ぼくに珊瑚礁を見せて」
「……分かった」

 ぼくはにっと口の端を上げた。蒼葉もにっと笑い返した。あいている方の手が、ぼくの頬に優しく触れた。温かくて、大きな手。そのぬくもりが嬉しくて、犬のように頬をすり寄せた。

 一日の終わりを告げるように、かもめが寂しく鳴いている。夕焼けを映した赤い海が、ぼくらをどんどん呑み込んでいく。夕日が沈み終えるまで、ぼくらはぴたりと寄り添って離れなかった。



 翌日。朝ご飯を食べ終えた蒼葉は、烏丸先生の元へと車を走らせていった。

「じゃあ、行ってくる」

 車に乗り込む直前、蒼葉は安心させるように微笑んだ。膝を少し曲げて、ぼくと目の高さを合わせる。

「必ず戻ってきてね」

 ぼくはぎゅっと蒼葉の腕を掴んだ。

「もう、どこかに行こうとなんてしないでね」
「分かってる。……心配するな」

 穏やかな声で答えて、ぼくの頭をぽんぽんと叩いた。ぼくはうん、と頷いて、蒼葉の腕から手を離した。

 砂埃を舞い上がらせて、車がどんどん離れていく。蒼葉がいなくなったら、また、波の音が大きくなった。

「……大丈夫、だよね」
「大丈夫だよ」

 後ろに立っていた神奈が、力強く答えた。

「あいつだって、もう子供じゃないんだから。逃げるのは、もうおしまい」
「……そうだね」

 ぼくは笑って、なびく髪を手で押さえた。蒼葉はもう、海を恐れない。もう命を捨てようとはしない。長い逃避行は、終わったんだ。

「野ばらちゃんのおかげだね」

 ぼくは振り返った。神奈は嬉しそうな、でもちょっぴり悔しそうな顔で笑った。

「僕にできないことを、君はすぐにやってのける。うらやましいよ」

 蒼葉が帰ってくるのを待ちながら、ぼくは神奈と海に入った。蒼葉に言われたことを思い出しながら、イルカの真似をして泳ぐ。やっぱりまだまだ、蒼葉のようには泳げない。相変わらず息継ぎは苦手だし、足だってすぐに着いてしまう。「なんだか今日は熱心だね」そう言って驚く神奈に、「蒼葉と泳ぐ時のために、練習してるの」と答えた。そう、それが、ぼくが見つけた小さな夢。いつか来る、幸せな未来。

 太陽が海に近づいた時間。蒼葉はひょっこりと戻ってきた。ぼくらは言葉を交わすこともなく、自然と秘密の場所へと向かった。もう何度も見た赤い空を、ぼくと蒼葉は膝を抱えて眺めた。

 夕暮れ時になると、海は寂しさを増す。神奈も、めぐさんもいない、二人だけの時間。穏やかで、静かで、少し寂しい。

「五日後、入院することになった」
「そう」

 ぼくは短く答えて、ぴったりと蒼葉にくっついた。細い腕に腕を絡めて、慰めるように頬をすり寄せる。大丈夫だよ、というように、蒼葉はふっと目を細めた。

「……ユリに、会いにいこうと思う」

 ぼくは蒼葉の顔を覗き込んだ。

「全部、話す。体のことも、今までのことも」
「……そっか」
「お前は、どうする」

 真っ赤な太陽がみるみるうちに沈んでいく。生温かい潮風が、頬をするりと撫でていった。

「ぼくは、帰る」

 言葉にしたら、ちょっとだけ、心が揺らいだ。

「ほんとはまだ不安だけど……蒼葉が、ぼくを受け入れてくれたから。もう、大丈夫だと思う」
「……大人になったな」
「まだだよ。まだぼくは、おんなじゃないもん」

 ぼくは試すように口の端を上げた。

「蒼葉がおんなにしてくれるんでしょ?」
「……五年後。生きてたらな」
「生きてるよ。絶対」

 蒼葉は寂しそうに微笑んだ。

「五年後って、お前いくつ?」
「えーっと……十五歳。中学三年生」
「じゃあ、会うのは春だな」
「春?」
「卒業したあとってこと。義務教育の終わりが、大人の始まり」

 ふぅん、と呟いて、ぼくはもう一度夕焼けを眺めた。一日の終わり。長い長い、逃避行の終わり。別れの時が近づいている。胸が、きゅうっと苦しくなった。

「ここで夕焼けを見るのも、今日が最後かぁ……」

 海を染める綺麗な赤色も、その上を飛ぶかもめも、ぼくの町では見られない。しょんぼりしていると、突然体が宙に浮いた。蒼葉はぼくを軽々と抱き上げると、腕の中にすっぽりとおさめた。

「……五年後、また来ればいい」

 耳のすぐ近くで、蒼葉が低く囁いた。その声がくすぐったくて、ぼくはくすくす笑った。この時間をいつまでも覚えておけるように、蒼葉の痩せた頬に、何度も頬をすり寄せた。

「そうだね」
「そうだ」

 蒼葉は長い腕をぼくのおなかに回すと、ぎゅーっと強く抱き締めた。背中から、蒼葉の心音が伝わってくる。ちゃんと、生きている。蒼葉の体は、生きようとしている。そんなあたりまえのことが、涙が出るほど嬉しい。

 夕日が完全に沈み終えたあと、ぼくたちはお店に戻った。いつもと同じように神奈のご飯を食べて、めぐさんの歌を聞いて、いつもと同じようにおしゃべりをした。
 部屋に戻ったあとは、蒼葉と抱き合って眠った。蒼葉の体からは、やっぱり海のにおいがした。このにおいを、ぬくもりを、いつまでも覚えておきたかった。蒼葉の顔。蒼葉のにおい。蒼葉のぬくもり。蒼葉の声。蒼葉の全てを、ぼくの体の中に取り込みたかった。

 ――夢を見た。

 大きくなったぼくと蒼葉が、一緒に夕焼けを見る夢を。蒼葉は見違えるほど元気になって、ぼくを海へと連れていく。蒼葉の好きな、海底の世界を見る。鮮やかで、きらきらしているその場所には、たくさんの命が生きている。すごいね、蒼葉。ぼくは嬉しくなって、蒼葉に笑いかける。そうしたら、蒼葉は得意げに笑って、ぼくの手を取って泳ぎ出すのだ。その泳ぎは、まるでイルカのように美しかった。