「それじゃあ、また明日」
階段を上り終えたところで図書室に向かう夏恵に手を振り、図書室とは反対側に位置する音楽室へと向かう。
音楽室から溢れた、金管楽器の心地よい音色が響き渡る廊下を歩いていく。新入部員勧誘に向けて意気込んでいるのか、その音色は普段よりも生き生きとしていた。
金管楽器に重なるように他楽器の音色も加わっていき、やがて一つにまとまった合奏を耳にしながら、音楽室の前を通り過ぎる。
東校舎四階の一番端。音楽室の隣にぽつねんと存在する部室の、立てつけの悪い引き戸を開く。教室の広さの半分にも満たないこの小部屋は、かつて音楽室に収まりきらない楽器を保管するための予備室として使われていたらしい。その名残からか、ここが正式に文芸部の部室となった今でも、部屋の隅には楽器の入ったケースが所狭しと置かれていた。
ただでさえ狭い室内の半分を占めるのは、真ん中に堂々と置かれた横長の会議用テーブル。そのテーブルにかぶりつきになりながら、こちらに背を向けてパイプ椅子に座っていた倉吉先輩が、くるりと振り返った。
さらさらと黒い前髪が揺れ、アーモンド型の瞳が引き戸を開けた私を捉える。たったそれだけのことなのに、私の胸はトクンと大きな音を立て、脳裏には手鏡に映った自分の姿が蘇る。大丈夫。髪ははねていないか、制服の襟はちゃんとしているかなど、部室の前で何度も確認した。
そう思いながらギュッとスカートの裾を握ると、倉吉先輩は静かに唇の端を持ち上げ、午前午後を問わない文芸部共通の挨拶を口にする。
「おはよ、ミャオ」
ミャオというのは、部内で呼ばれている私のあだ名だ。美夜という名前が猫の鳴き声に似ているから、ミャオ。可愛いらしい響きのそのあだ名は、自分でも結構気に入っている。
「おはようございます」
私は挨拶を返してテーブルの奥に回り、倉吉先輩の斜め前にあたる席に腰を下ろした。
鞄から原稿用紙の入ったファイルを取り出していると、テーブルに頬杖をついてその様子を眺めていた倉吉先輩が口を開く。
「一応仮入部期間だから、もし一年生が来たら適当に見学させとけって、部長からの指示」
「上村先輩は今日も塾ですか?」
「そう。アイツ、国立狙ってるらしいから」
倉吉先輩が下を向いてシャーペンを握り直し、そこで会話が途切れる。真剣な表情で机上のルーズリーフと向き合う彼に声をかける勇気もなく、私も取り出した原稿用紙にシャーペンを走らせ始めた。
この文芸部は部長の上村先輩を含め、部員は八人。
活動内容は、月に一度俳句や短歌、小説などジャンルは問わずに何か一つ創作物を作って提出し、翌週部員同士でそれを見せ合って講評し合うというものだ。講評会の日は、この狭い部室に部員達が全員集合する。逆に言えばそれ以外の日は基本自由で、部員達の多くは主に家で創作活動に励んでいる。わざわざ放課後に部室に足を運ぶようなもの好きは、倉吉先輩と私くらいだった。
ペンの先を顎に当てて考える素振りをしながら、ちらりと倉吉先輩の横顔を盗み見る。彼は依然と集中した様子で、一心不乱にシャーペンを走らせていた。
細められた切れ長の瞳は凛とした雰囲気を漂わせており、長いまつ毛が静かに瞬きを繰り返す。倉吉先輩がペンを握って僅かに動くたびに、窓から射し込む西日に明るく照らされた髪がさらりと揺れた。
こうして倉吉先輩と同じ空間で同じ時間を過ごせるのも、至近距離から整った顔を見つめられるのも、文芸部員の特権の一つだ。その特権を利用せずに幽霊部員と化したり、放課後は迷わず帰宅を選ぶ他の部員達は、本当に損していると思う。
まぁ実際のところ、彼らのおかげで倉吉先輩と二人きりの時間を過ごせているわけではあるが。
ふいに倉吉先輩が顔を上げ、視線をそらす間もなくばちりと目が合う。「あっ」と声を漏らすと、彼は先程まで凛としていた瞳を和らげて首を傾げた。
「どうした、もう集中力切れたか」
「はい。少し……」
渡りに船とばかりに大きく頷く。すると倉吉先輩は、年相応の無邪気な笑顔を浮かべた。
「倉吉先輩は来月も詩を提出するんですか?」
「まぁ、俺は詩しか作れないし。……もしかして飽きられてる?」
「そんなことないです!」
無意識にそう叫んでいて、その声量に自分でも驚く。倉吉先輩は一瞬目を丸くした後、苦笑交じりに言った。
「ははっ、必死すぎ。って、お前ならそう言うに決まってるよな。ミャオは俺のファンなわけだし」
倉吉先輩にからかうような声で言われ、カアァと顔が熱を帯びていくのを感じる。恥ずかしくなって俯くと、「沈黙は肯定って言うけど、まんまその通りだな」と追い打ちをかけられた。
私が倉吉先輩のファンであることは、文芸部全員が周知の事実だった。
あれは二年前。当時中学三年生の受験生だった私は、その頃仲が良かった友人の穂乃花と共にこの私立稲河原高等学校の文化祭に訪れた。
帰りの電車の中で、興味本位で購入した文芸部の部誌を開き、息を呑んだ。あの時の衝撃と感動は、今でも強く記憶に残っている。
適当に開いた片面のページには、一つの詩が書かれていた。それは恋愛をテーマにしたありがちなものではあったが、赤色について淡々と綴られるその表現力は、自分より数個年上の高校生が書いたとは思えないほど素晴らしいものだった。
今まで私の世界を侵食し、ずっと疎ましく思っていた赤色。それが初めて、宝石のような輝きを放ったような気がした。
その詩を読んだ瞬間から、私の視界に映る赤色が、一際美しく、尊いもののように思えて。私はこの詩のような世界が見えている、そんな優越感さえ抱いた。
なんて素敵な詩を書く人なんだろう。この人の目は、きっと他の人達とは異なる特別なものに違いない。本気でそう思った。
鳥肌が立った腕を擦りながら、詩のタイトル下に書かれた名前を見る。
言祝一矢。
それが本名ではなく、ペンネームだということはすぐにわかった。初めて見たはずのその名前はすんなりと脳に刻まれ、そして猛烈に「この人に会ってみたい」という衝動に駆られた。
この人の目には、一体どんな素晴らしい景色が見えているのだろうか。
もしこの人が私と同じ目を持っていたら、この赤色の世界を見て何を感じるのだろう。
この人と同じ景色を、私もこの目で見ることができるのだろうか。
この人の世界を記した詩の行く末を、一番側で見届けたい。
そう思った私は急遽進路を変更し、志望していた高校よりも偏差値が九つ高い稲河原高校への受験を決意した。全ては〝言祝一矢〟という、あの詩の作者に会うために。
そして去年の春。この文芸部に入部した私は、すぐにその人物を見つけた。
倉吉一矢先輩。
漢字で表記された名前と、主に詩を創作しているという自己紹介で確信した。それは想像通りの澄んだ瞳の持ち主で、いつも柔らかく微笑んでいる穏やかな先輩だった。
両手で口を覆ってその場で硬直した私は、上村先輩に指摘されてようやく自分が涙を流していることに気がついた。
そのことが原因となり、私は入部早々「倉吉先輩の熱烈なファン」というレッテルが貼られることになったのだ。
いつまでも肩を震わせて笑っている倉吉先輩に少しだけ腹が立って、私は言祝一矢が去年作成した最も新しい詩の一節を暗唱する。
「時には情熱的に燃え上がる炎のように、時には可憐に散りゆく花びらのように。それは人が人を想い、愛す、魅惑の恋の色で――」
「ちょ、バカ、やめろって!」
途端に焦った顔に変わった倉吉先輩は、頬を赤らめて私に制止の声を上げる。私はそんな彼に向けて、満面の笑みを浮かべてみせた。
「倉吉先輩の言う通り、私は言祝一矢のファンですからね。彼の詩なら一言一句間違えずに暗記してますよ」
胸を張ってそう言った後。すぐに先輩に対して出過ぎた、少々気持ち悪い発言ではないかと後悔する。不安に駆られながら倉吉先輩の方を窺うと、彼は両腕をテーブルの上に組んで、その中に隠れるようにして顔を伏せていた。
黒髪から飛び出した赤い耳を見つめていると、倉吉先輩はその体勢のまま大きなため息をつく。
再び顔を上げた倉吉先輩の頬は、まだ若干赤くなっていた。彼はその赤色を誤魔化すように額に右手の平を当てて、くしゃりと笑う。
「……参ったよ。ほんと、面白いなミャオは」
倉吉先輩につられて、私も口元に手を寄せてクスクスと笑う。
壁越しに聞こえてくる吹奏楽部の合奏に、二人分の笑い声が重なった。
あぁ、やっぱり好きだな。
放課後に、荷物でごちゃごちゃとした狭い部室で過ごす、倉吉先輩との時間。
憧れのアイドルのような存在と同じ空間にいられるだけで、既にお腹がいっぱいになるくらい幸せなのに。
口元に寄せていた手を下ろし、朗らかな笑顔を浮かべた倉吉先輩を見据える。彼の首元では、この時期には既にクローゼットの奥にしまい込まれているであろう厚手のマフラーが揺れていた。紺色のブレザーにその赤色はとても映えていて、否が応でも私の目を惹きつける。
去年の秋の終わり頃に突然現れたそのマフラーを見て、胸の鼓動が激しくなった。
私が大嫌いだった赤色。
恋愛なんて興味ない。もう二度と関わりたくない。……そう思っていたのに。
ねぇ、倉吉先輩。
私はどうして、こんなにも嬉しくなるのでしょうか。
がたんと、音を立ててテーブルが揺れる。
顔を上げると、斜め向かいに座る倉吉先輩はシャーペンをテーブルの上に放り、ぐいっと体を伸ばしていた。恐らく、先程の音は彼の足がテーブルの足に当たった音だろう。
倉吉先輩はそのままパイプ椅子の背もたれに体を預け、室内の壁時計を一瞥する。
「もう一時間も過ぎてたのか。そりゃあ集中力も切れるわけだ」
そう言ってもう一度両腕を上げて体を伸ばすと、テーブルに手を乗せて立ち上がった。途端に倉吉先輩を見上げる形となり、改めて百七十センチはあるであろう彼と自分の身長差を実感する。
「息抜きに自販機行ってくる。ミャオは?」
「あ、私も行きたいです」
急いで鞄を手繰り寄せ、その中に腕を突っ込む。「急がなくていいぞ」と倉吉先輩の気遣う声が後ろから聞こえてきたが、先輩を待たせるわけにはいかない。鞄の底に沈んでいた財布をふんだくるように掴み取り、引き戸を開けた先で待っている倉吉先輩に駆け寄った。
昼間とは異なり、茜色の廊下には趣のある雰囲気が漂っていた。さすがに倉吉先輩の隣に並ぶ勇気は出せず、私は数歩分の間を空けた後ろを歩く。一定の距離間がそれ以上開いていかないのは、倉吉先輩が歩く速度を落としてくれているからだとわかった。
目の前で赤いマフラーの両端が猫の尻尾のように揺れ、私は頬の緩みを感じながら倉吉先輩の背中を追いかける。
東校舎一階の渡り廊下にある自動販売機に着き、その脇で烏龍茶のペットボトルを空けて少量口に含む。その横で缶コーヒーを飲んでいた倉吉先輩は、何気ない口調で話を切り出した。
「執筆は順調か?」
「まぁ……ぼちぼちって感じですかね」
「ははっ、ぼちぼちか。書けるうちに書いておけよ。スランプに入ると結構辛いから」
倉吉先輩にもそんな経験があるのだろうか。彼は遠くの群青色に染まりつつある空を見つめながら缶コーヒーに口をつけて、ごくりと喉仏を揺らす。
「童話がモチーフの話だっけ?」
「はい。人魚姫を題材に、悲哀で終わるラストを二人が幸せに結ばれるハッピーエンドに変えられないかなって」
「ふーん」
倉吉先輩の相槌は素っ気ないものではあったが、その表情は詩を書いている時と同じ凛々しいものだった。
真剣に話を聞いてくれているのが伝わってきたからだろうか。
私は冷たいコンクリートの壁に寄り掛かりながら、気がつけば誰にも言っていない創作の悩みを打ち明けていた。
「小説を書くのって、難しいんですね。主人公の感情をどこまで描写していいのかがわからなくて。王子様に再会できて〝嬉しい〟、けど王子様は自分が助けたことに気がついていなくて〝悲しい〟。そういうのを細かく書き過ぎると、読者にくどいって思われそうで……」
「あ、わかる。あえて真相を伏せて書くのも一つの手だけど、でもそれって、読者がちゃんと正しく受け取ってくれてるか不安になるんだよな」
「倉吉先輩もそうなんですか?」
うんうんと頷く倉吉先輩に、私は首を傾げて問いかける。すると、彼は吹き出すように笑った。
「そりゃああるだろ。人間こうやって顔を合わして会話してても、相手の気持ちを百パー理解するなんてできないし。俺らはその読み取り合いを紙面の文字だけでやろうとしてんだ。曖昧でとーぜん」
「じゃあ……曖昧のまま書き進めてもいいんでしょうか」
「寧ろ、自分の解釈を一方的に他者に押し付ける方が横暴かもな。文学の答えは一つじゃない。俺らは文字で大衆に訴えかけて、その内の誰か一人くらいは自分と同じ解釈をしてくれたらいいなーって希望的観測でいればいいんだよ」
ふと、倉吉先輩の詩が脳裏を過ぎった。
澄んだ湖のように透明で、綺麗な言葉の羅列。
(倉吉先輩は、あの詩にどんな思いを込めて、どんな解釈を期待していたんだろう)
答えは一つじゃない。何処かで聞いたような言葉だけれど、人の数だけ解釈も複数あるはず。
だけど、もし倉吉先輩が込めた思いと、私の解釈が違っていたら。
(それって……なんだか少し、寂しいかも)
両手でペットボトルを包み込むように握って俯いていると、突然見慣れた赤色が視界いっぱいに映り込んだ。
「悪い。逆に追い詰めたか?」
バツが悪そうな倉吉先輩の顔を至近距離で捉える。その瞬間、ドクンと心臓が一際大きな音を立てた。勢いよく顔を離すと、鈍い音と共に後頭部に痛みが走る。
「い……っ‼」
「ぶっ、凄い音したな。今」
ペットボトルを持っていない方の手でズキズキと痛む後頭部を擦りながら、ケラケラと笑う倉吉先輩を睨みつける。
「悪かったって。あー、やっぱダメだな俺。こーいうの、部長ならもっと上手くできるんだろうけど」
「こういうの、って?」
倉吉先輩はひとしきり笑い終えると、酷く穏やかな瞳をこちらに向けた。
「今日、あんまりペン動いてなかっただろ。悩みごとがあるなら相談に乗ろうと思ったんだけど、なんか逆に悩ませたっぽい」
「え……」
「ごめんな。頼りにならない先輩でさ」
倉吉先輩は眉を下げて苦笑し、照れくさそうに首裏に手を伸ばす。
私は何度か目を瞬かせてから、ようやくその言葉の意味を理解した。
詩を書いている間はいつも一心不乱で、周りのことは見えていないのだと思っていたけれど。
(私の不調に気づいて、心配してくれてたんだ……)
胸の奥に、陽光が射したような温もりが広がっていく。
思わず舞い上がってしまいそうな、今すぐ叫び出したいような喜びをぐっと抑えて、私は重たい唇を開いた。
「そんなこと、ないです……っ」
前にも同じことを言ったなとデジャヴを感じながら、自然な微笑みを浮かべて続ける。
「少しだけ、楽になりました。倉吉先輩のおかげで、また書き出せそうな気がします」
倉吉先輩は目を丸くしながら私の言葉を聞くと、安心したように笑う。
「そうか。役に立てたなら、よかった」
校庭から聞こえてくる快活な掛け声や声援に背を向けて、私達は四階の狭い部室を目指して歩き出した。
「美夜ちゃん、今日はなんだかご機嫌だね。何かいいことでもあった?」
机を合わせ、向かいの席で手作りのお弁当箱を開いていた夏恵が、唐突にそんなことを口にする。私が昨日の夜から創作意欲が湧いてきていることを話そうとすると、それよりも早く夏恵は含みのある笑みを浮かべて言った。
「それとも、これから何かあるのかな? 彼氏とデートとか」
全く予測していなかった発言が飛んできて、今しがた飲んだコンソメスープを吹き出しそうになる。ごくりと熱いスープを飲み込み、喉を火傷しそうになりながら、否定の声を上げる。
「違うよ! そもそも、そんな相手いないし……!」
訳もなく、まだ半分ほど中身が残っているスープジャーの蓋を固く締める。
夏恵には倉吉先輩のことも、赤いマフラーのことも話していない。
これまでの夏恵との会話で、恋愛絡みの話題が上がったことは一度もなかった。心拍数が非常に速くなっているのは、そんな夏恵の口から突然恋愛に関する単語が飛び出したから。そう自分の中で理由付けしていると、夏恵はふっと微笑んだ。
「だよね。美夜ちゃんは毎日文芸部に通ってる真面目な子だもん」
「そ、そういう夏恵こそ、西園くんとどうなの?」
こちらに向いている話題の矢印の向きを変えようと、口早にそう指摘する。すると夏恵は鳩が豆鉄砲を食らったような顔で言った。
「どうして、そこで西園くんの名前が出てくるの?」
至極不思議そうな声色。赤いマフラーが見えずとも、その声と表情だけで夏恵が西園くんに対してどう思っているのかが読み取れる。
何故だか、西園くんのことをとても応援したい気持ちになった。
「いや、ほら……この前階段ですれ違った時、仲良さげだったからさ」
「そうかな? 確かに最近よく話しかけられるけど――」
そのまま話題は西園くんのことに移り、夏恵がいかに西園くんを異性として見ていないかをひしひしと感じた。徐々に西園くんを憐れむ思いが膨らんでいき、苦笑を続ける頬が引きつり始めた頃。
「あれ。美夜ちゃん、スマホ光ってるよ」
夏恵にそう言われて下を向くと、机の隅に寄せていたスマホの横のライトが点滅していた。自然な流れでスマホを手に取って電源を入れると、ロック画面の上部によく使っているSNSの通知を示すマークがあった。それをタップすると見覚えのある名前が表示され、私は小さく声を漏らす。
「美夜ちゃん?」
画面を見たまま固まる私を不審に思ったのか、夏恵は机に身を乗り出して私のスマホを覗き込む。
「〝穂乃花〟って、美夜ちゃんの友達?」
「うん。小中が一緒の学校で、家もわりと近くて、仲が良かった子なんだけど……」
夏恵は最後の方の言葉を濁す私を訝しげに見つめ、少し躊躇う素振りを見せた後、ゆっくりと口を開いた。
「何か、あったんだね」
それは問いかけというよりも、確信に近いものだった。
私は下唇を噛んで、小さく頷く。
「うん……。喧嘩別れして、そのまま疎遠になっちゃったんだ」
彼女の名前の横に表示されているのは、『久しぶり』の四文字。何気ないその四文字の挨拶は私の心にとても重くのしかかってきて、頭の片隅に追いやっていた苦い記憶を引きずり出す。
* * *
あれは私達が互いに受験の山場を乗り越え、ようやく一息をついていた時。
事の八端は、穂乃花が当時同じ生徒会に属していた男子生徒への恋心を自覚したことだった。
それを機に穂乃花は身だしなみや流行にこれまで以上に敏感になり、どんどんオシャレに、可愛くなっていった。
鮮やかな赤いマフラーを巻きつけて頬を染める穂乃花は、まさに恋する乙女といった容貌で。登下校中の会話のほとんどが穂乃花の惚れ話となったが、彼女の陰ながらの努力を知っていた私は、素直に彼女の恋を応援していた。
穂乃花は私の〝人の好意を目視できる〟という秘密を知る唯一の友人で、その力で自分の恋路を手伝ってほしいと頼み込んだ。
「彼の首に私への好意を示すマフラーが現れたら、教えて。きっとその時が、告白する絶好の機会だから」
いつか穂乃花の努力が実を結んで、生徒会の彼と両想いになれたらいいな。
そう願っていた私は、二つ返事で彼女に協力すると決めた。
真面目な性格の穂乃花は、私の力を悪用したり、それに甘えたりすることなく、必死に彼へのアプローチを続けた。
――しかし期待に反して、穂乃花がいくらアプローチを続けても、彼の首に赤いマフラーが現れることはなかった。
「今日もマフラー、見えなかった?」
「うん……」
「……そっか」
次第に穂乃花はため息を溢すことが多くなり、私の返答を聞くたびに表情を曇らせるようになっていった。
穂乃花が俯く原因の根本的な部分には、私の〝人の好意を目視できる〟という力も深く絡んでいる。
彼女は普通ならば知りえない、好きな人が自分に向ける好意を気にして落ち込んでいるのだ。協力の約束を交わしたとはいえ、私は少なからずそのことに対しての責任を感じていた。
唇を噛み締めて涙を堪えるその姿は、嬉しそうに好きな人を報告してきた彼女とは別人のようで。彼を想う赤いマフラーは消えてこそはいなかったが、その色は以前のような鮮やかさが欠けている気がした。
これ以上、穂乃花の悲しそうな、辛そうな顔は見たくない。
そう思った私は、必死に彼女の力になろうと考えて――これまで数々の赤いマフラーを見て来た経験から、一つの賭けに出た。
人の好意は、告白の段階で必ずしも双方に向いているとは限らない。告白をきっかけに相手を意識し始め、結果的に赤いマフラーを巻きつける人は過去にも多く見届けてきた。
私は尻込みする穂乃花の背中を押すために、初めて彼女に嘘をついた。
「彼の首に赤いマフラーが見える」
その言葉を聞いた穂乃花は、失っていた瞳の輝きを取り戻し、花が満開に咲き誇るような笑顔を浮かべる。久方ぶりに見たその笑顔に安心しながら、さっそく彼に呼び出しの約束を取り付ける彼女をそっと見守っていた。
穂乃花が告白の場に選んだのは、二人が長い時間を共にしていた生徒会室前の階段の踊り場だった。
マフラーと同じくらい赤面した穂乃花は、それでも顔を背けずに、彼の目を見てはっきりと自分の気持ちを伝える。
しかし彼は、思い悩む素振り一つ見せずに、穂乃花に謝罪の言葉を告げた。
後で知ったことだが、当時彼には他校に通う彼女がいたらしい。
彼がその場を去り、穂乃花の首から赤いマフラーが消えていく。穂乃花はしばらく呆然と立ち尽くした後、その場で崩れ落ち、大粒の涙を流した。
告白の始終を見届けた私は穂乃花に駆け寄り、詳細には覚えていないが励ましの言葉を投げかけた。そして彼女を慰めようと小さく震える肩に手を伸ばす。
けれどその腕は、穂乃花の手によってはたき落とされた。ぱんっと乾いた音が、冷たい階段に響き渡る。私は、彼女に拒絶され、二人の間に境界線が引かれたことを瞬時に悟った。
穂乃花は涙を溜めた瞳で憎々しげに私を睨み、強い語気で叫ぶ。
「美夜の、嘘つきっ」
違う、違うんだよ。穂乃花の恋を台無しにするつもりじゃなかったの。
私はただ、穂乃花の苦しそうな顔を見たくなくて――。
穂乃花は私の必死な弁解に耳を傾けることなく、翌日から私を避けるようになった。
一方的で返答の無い言葉の投げかけは、想像以上に苦痛なもので。
次第に私は穂乃花との関係を修復することを諦め、私達はお互いを避け続けて、そのまま中学校を卒業した。
* * *
四百字詰め原稿用紙の一マスを埋めようとシャーペンの先が近づき、そのまま何も書き出せずに離れる。
室内に文芸部を見学に来た一年生の姿はなく、倉吉先輩との放課後の時間がただ黙々と流れていく。
普段よりも部室に漂う空気が重たく感じるのは、きっと午後から降り出した雨のせいだろう。今日は吹奏楽部の活動がないようで、静かな部室には雨が窓を打ちつける音が絶えず鳴り続けていた。
私は動く気配のないシャーペンを見下ろしながら、小さく息を吐く。
すっかり創作意欲を失くした脳内は、小説のこの先の展開ではなく、穂乃花から送られてきたメッセージのことで埋め尽くされていた。
『久しぶり』
昼休みに送られてきた一言だけの挨拶。そして少し時間が空き、六限目の授業が終わった後、
『話したいことがあるの。暇な時でいいから、電話ほしい』
新たにそんなメッセージが送られてきていた。
スタンプも感嘆符も何もないシンプルな言葉の羅列からでは、送り主の感情を全く読み取れない。そのせいか、私は穂乃花からのメッセージに異様な不安を感じていた。
何を今更。そんな怒りが一切ないわけではない。けれど、長らく連絡を取っていなかった彼女からの連絡に喜んでいる自分もいる。
どう対応するべきか悩んだ末、私はそれらのメッセージに既読をつけることができず、スマホの電源を切った。そんなうやむやな選択を選んだせいか、待ち望んでいた部活の時間になっても執筆に集中できず、今に至る。
シャーペンを握ったまま何度目かわからないため息をついていると、突然顔を上げた倉吉先輩が「あ」と声を発した。
「そういやこれ、この前ミャオが読みたがってた小説。所々童話っぽい要素もあるから、参考になればいいんだが」
倉吉先輩は鞄から取り出した文庫本を、テーブル越しにこちらへ差し出してくる。
「ありがとうございます。……あっ」
倉吉先輩が手を放すタイミングと噛み合わず、二人の手の間から文庫本が滑り落ちる。慌てて、軽い音を立ててテーブルに落下したそれを拾い上げ、表紙や帯が折れていないか確認した。
「すみませ――」
「まーた悩み事か?」
雨音しか聞こえない静かな部屋には、倉吉先輩のたった一度きりのため息がよく響いた。
「……すみません。ため息ばかりで、迷惑でしたよね」
部室に来てからずっと倉吉先輩の集中力をかき乱していたことに気がつき、頭を下げる。
ギシッとパイプ椅子が軋む音が聞こえて、顔を上げる。倉吉先輩はパイプ椅子の向きを斜めにして座り直し、身体を真っ直ぐこちらに向けて頬杖をついた。
「倉吉先生によるカウンセリング教室~。今なら言祝先生でも可」
彼はおちゃらけた声でそう言い、唇の端を吊り上げる。
「え……」