君がそのマフラーを外せるように


 帰りのHRを終えた生徒達が続々と教室から出てきて、それまで閑散としていた廊下が途端に賑やかになる。

 体育着や部活Tシャツに着替えた体格のいい運動部の波に逆らい、昇降口とは反対の渡り廊下を目指す。ふと横を見ると、本を胸に抱いた夏恵(なつえ)が随分後ろに流されていた。

「夏恵!」

 他の生徒に腕や肩をぶつけながら夏恵の元へ向かう。夏恵は戻ってくる私の姿を捉えると、黒縁のメガネの奥で強張っていた瞳を幾分か和らげた。

「大丈夫?」

「ありがとう、美夜(みや)ちゃん。やっぱり、都内の学校は凄いね……」

「普段はもう少し教室でゆっくりしてる人が多いんだけど、今は仮入部期間だからね。どの部活も気合入ってるからさ」

 周りの喧騒にかき消されぬよう、やや大きめの声でそう説明しながら夏恵の手を取る。

「渡り廊下まで行けばもう少しマシになるから、あとちょっと辛抱して」

 夏恵が頷くのを確認してから、再び流れに逆らって歩き出す。

 夏恵は先月私のクラスに来た転校生だ。前は地方の田舎町に住んでいたようで、全校生徒の数や校舎の設備、最寄り駅周辺の高層ビルを見るたびに「都会だ」と目を丸くしている様は新鮮で可愛らしい。

 読書好きという共通点で、私はすぐに夏恵と打ち解けた。今では、夏恵は学校で一番の親友と言っても過言ではない。

 渡り廊下付近まで来ると人の数もまだらとなり、夏恵は大きく息を吐いて脱力する。

「びっくりしたぁ……」

「仮入部期間が終わる来週の金曜日まで、当分はこんな感じが続くだろうね」

 苦笑いを浮かべながら夏恵の手を離し、二人で東校舎へと続く渡り廊下を歩く。開いた窓から吹き込む春風は、ここ最近になってようやく暖かくなってきたように感じる。

「美夜ちゃんは今日も部活?」

 東校舎の中に入り、図書室や音楽室がある四階を目指して階段を上がっていく。その道中で夏恵にそう聞かれ、私は小さく頷いて答えた。

「うん。来月の締め切りまでに、俳句なりなんなり、何か一つ作って提出しなきゃいけなくて」

「へぇ~。それで、美夜ちゃんは何を創作してるの?」

「……一応、小説」

「小説!」

 夏恵は目をキラキラと輝かせて私の顔を覗き込んでくる。その顔には「読みたい」の四文字が大きく書かれているようで、私は小さく両手を横に振った。

「そんた大したものじゃないよ。まだ書き始めたばっかだし、小説なんて初めてだから、きっと全然面白くないだろうし……」

「そんなことないよ! この前話してくれたシンデレラモチーフのお話もすっごく面白かったし、想像力は美夜ちゃんの取り柄でしょ?」

 お世辞だとわかっていても、そこまで絶賛されると胸の内がくすぐったくなってくる。

 無意識に上がっていく口角を必死に抑えていると、「今度のはどんなお話なの?」と夏恵に問われた。

「また童話のアレンジなんだけど――」

「あれ、日向(ひなた)さん?」

 突然、後ろから夏恵の名字を呼ぶ声が聞こえてくる。振り返ると、見覚えのない癖毛の青年が踊り場からこちらを見上げていた。
西園(にしぞの)くん」

 夏恵に西園と呼ばれた青年は、右手に持つ鍵をジャラジャラと鳴らしながら、やや早歩きで階段を上がってくる。その様子を見ながら、夏恵は小声で私に耳打ちした。

「同じ二年の西園くん。図書委員の人なの」

「へぇ」

 相槌を打ちながらもう一度西園くんの方を見やると、彼の首回りに赤色の霞のようなものが纏わりついていることに気がつく。

(あ……)

 それは西園くんが階段を一段上がるたびに輪郭が濃くなり、鮮明になっていく。西園くんが私達の数段下まで上ってくる頃には、彼の首には赤い毛糸で編まれた立派なマフラーが巻きついていた。

「ちょうどよかった。この前入荷リクエストしてたシュガー探偵シリーズの新刊、今日から貸出できるよ」

「本当? あの続き、楽しみにしてたんだよね」

「だと思って、実はこっそり取り置きしてあるんだ。あ、他の人には内緒ね」

 西園くんは人差し指を自分の唇に当てて、悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「先に行って鍵開けてくるよ。また後で」

 そう言って、西園くんは軽い足取りで私達の横を駆け上がっていく。繊細に編まれたマフラーの二本の端が、彼の動きに合わせて大きく揺れた。

(あぁ、なるほど。彼、夏恵のことが好きなんだ)

 会話だけでもなんとなくは察したが、彼のマフラーを捉えて確信する。

 私は物心ついた時から、人の好意を視認することができた。

 それはいわゆる運命の赤い糸のようなもので、友人同士の親愛や家族愛ではなく、人が人を恋愛的に愛する思いが形となったものだと、自分の中ではそう解釈している。

 好きな相手に近づいた時、その人物の首元に赤い毛糸のマフラーは現れる。それは好きな相手に近づく程はっきりと鮮明になっていき、逆に離れれば透明になって消えていく。

 私はそのマフラーの有無を見て、誰が、誰に好意を持っているのかを見極めることができるのだ。

 さり気なく、横目で夏恵の首元を確認する。夏恵は西園くんの後ろ姿を見上げて微笑んでいたが、その首に例の赤いマフラーはなかった。

(現時点では、西園くんの片思いって感じかな)

 人の恋路に口を出すつもりはない。中学の時のあの一件から、軽率な発言は控えるように心がけている。

 そうでなければ、きっと恋心だけでなく、大切な友人まで失くしてしまうから。

「美夜ちゃん? なんか暗い顔してるけど、どうかしたの?」

 いつの間にか、心配そうに眉尻を下げた夏恵が私の顔を覗き込んでいた。私は首を横に振って「なんでもないよ」と返し、再び階段を上り始める。


「それじゃあ、また明日」

 階段を上り終えたところで図書室に向かう夏恵に手を振り、図書室とは反対側に位置する音楽室へと向かう。

 音楽室から溢れた、金管楽器の心地よい音色が響き渡る廊下を歩いていく。新入部員勧誘に向けて意気込んでいるのか、その音色は普段よりも生き生きとしていた。

 金管楽器に重なるように他楽器の音色も加わっていき、やがて一つにまとまった合奏を耳にしながら、音楽室の前を通り過ぎる。

 東校舎四階の一番端。音楽室の隣にぽつねんと存在する部室の、立てつけの悪い引き戸を開く。教室の広さの半分にも満たないこの小部屋は、かつて音楽室に収まりきらない楽器を保管するための予備室として使われていたらしい。その名残からか、ここが正式に文芸部の部室となった今でも、部屋の隅には楽器の入ったケースが所狭しと置かれていた。

 ただでさえ狭い室内の半分を占めるのは、真ん中に堂々と置かれた横長の会議用テーブル。そのテーブルにかぶりつきになりながら、こちらに背を向けてパイプ椅子に座っていた倉吉(くらよし)先輩が、くるりと振り返った。

 さらさらと黒い前髪が揺れ、アーモンド型の瞳が引き戸を開けた私を捉える。たったそれだけのことなのに、私の胸はトクンと大きな音を立て、脳裏には手鏡に映った自分の姿が蘇る。大丈夫。髪ははねていないか、制服の襟はちゃんとしているかなど、部室の前で何度も確認した。

 そう思いながらギュッとスカートの裾を握ると、倉吉先輩は静かに唇の端を持ち上げ、午前午後を問わない文芸部共通の挨拶を口にする。

「おはよ、ミャオ」

 ミャオというのは、部内で呼ばれている私のあだ名だ。美夜という名前が猫の鳴き声に似ているから、ミャオ。可愛いらしい響きのそのあだ名は、自分でも結構気に入っている。

「おはようございます」

 私は挨拶を返してテーブルの奥に回り、倉吉先輩の斜め前にあたる席に腰を下ろした。

 鞄から原稿用紙の入ったファイルを取り出していると、テーブルに頬杖をついてその様子を眺めていた倉吉先輩が口を開く。

「一応仮入部期間だから、もし一年生が来たら適当に見学させとけって、部長からの指示」

「上村先輩は今日も塾ですか?」

「そう。アイツ、国立狙ってるらしいから」

 倉吉先輩が下を向いてシャーペンを握り直し、そこで会話が途切れる。真剣な表情で机上のルーズリーフと向き合う彼に声をかける勇気もなく、私も取り出した原稿用紙にシャーペンを走らせ始めた。
 この文芸部は部長の上村先輩を含め、部員は八人。

 活動内容は、月に一度俳句や短歌、小説などジャンルは問わずに何か一つ創作物を作って提出し、翌週部員同士でそれを見せ合って講評し合うというものだ。講評会の日は、この狭い部室に部員達が全員集合する。逆に言えばそれ以外の日は基本自由で、部員達の多くは主に家で創作活動に励んでいる。わざわざ放課後に部室に足を運ぶようなもの好きは、倉吉先輩と私くらいだった。

 ペンの先を顎に当てて考える素振りをしながら、ちらりと倉吉先輩の横顔を盗み見る。彼は依然と集中した様子で、一心不乱にシャーペンを走らせていた。

 細められた切れ長の瞳は凛とした雰囲気を漂わせており、長いまつ毛が静かに瞬きを繰り返す。倉吉先輩がペンを握って僅かに動くたびに、窓から射し込む西日に明るく照らされた髪がさらりと揺れた。

 こうして倉吉先輩と同じ空間で同じ時間を過ごせるのも、至近距離から整った顔を見つめられるのも、文芸部員の特権の一つだ。その特権を利用せずに幽霊部員と化したり、放課後は迷わず帰宅を選ぶ他の部員達は、本当に損していると思う。

 まぁ実際のところ、彼らのおかげで倉吉先輩と二人きりの時間を過ごせているわけではあるが。

 ふいに倉吉先輩が顔を上げ、視線をそらす間もなくばちりと目が合う。「あっ」と声を漏らすと、彼は先程まで凛としていた瞳を和らげて首を傾げた。

「どうした、もう集中力切れたか」

「はい。少し……」

 渡りに船とばかりに大きく頷く。すると倉吉先輩は、年相応の無邪気な笑顔を浮かべた。

「倉吉先輩は来月も詩を提出するんですか?」

「まぁ、俺は詩しか作れないし。……もしかして飽きられてる?」

「そんなことないです!」

 無意識にそう叫んでいて、その声量に自分でも驚く。倉吉先輩は一瞬目を丸くした後、苦笑交じりに言った。

「ははっ、必死すぎ。って、お前ならそう言うに決まってるよな。ミャオは俺のファンなわけだし」

 倉吉先輩にからかうような声で言われ、カアァと顔が熱を帯びていくのを感じる。恥ずかしくなって俯くと、「沈黙は肯定って言うけど、まんまその通りだな」と追い打ちをかけられた。

 私が倉吉先輩のファンであることは、文芸部全員が周知の事実だった。

 あれは二年前。当時中学三年生の受験生だった私は、その頃仲が良かった友人の穂乃花(ほのか)と共にこの私立稲河原(いながはら)高等学校の文化祭に訪れた。

 帰りの電車の中で、興味本位で購入した文芸部の部誌を開き、息を呑んだ。あの時の衝撃と感動は、今でも強く記憶に残っている。
 適当に開いた片面のページには、一つの詩が書かれていた。それは恋愛をテーマにしたありがちなものではあったが、赤色について淡々と綴られるその表現力は、自分より数個年上の高校生が書いたとは思えないほど素晴らしいものだった。

 今まで私の世界を侵食し、ずっと疎ましく思っていた赤色。それが初めて、宝石のような輝きを放ったような気がした。

 その詩を読んだ瞬間から、私の視界に映る赤色が、一際美しく、尊いもののように思えて。私はこの詩のような世界が見えている、そんな優越感さえ抱いた。

 なんて素敵な詩を書く人なんだろう。この人の目は、きっと他の人達とは異なる特別なものに違いない。本気でそう思った。

 鳥肌が立った腕を擦りながら、詩のタイトル下に書かれた名前を見る。

 言祝(ことほぎ)一矢(いっし)

 それが本名ではなく、ペンネームだということはすぐにわかった。初めて見たはずのその名前はすんなりと脳に刻まれ、そして猛烈に「この人に会ってみたい」という衝動に駆られた。

 この人の目には、一体どんな素晴らしい景色が見えているのだろうか。

 もしこの人が私と同じ目を持っていたら、この赤色の世界を見て何を感じるのだろう。

 この人と同じ景色を、私もこの目で見ることができるのだろうか。

 この人の世界を記した詩の行く末を、一番側で見届けたい。

 そう思った私は急遽進路を変更し、志望していた高校よりも偏差値が九つ高い稲河原高校への受験を決意した。全ては〝言祝一矢〟という、あの詩の作者に会うために。

 そして去年の春。この文芸部に入部した私は、すぐにその人物を見つけた。

 倉吉一矢(かずや)先輩。

 漢字で表記された名前と、主に詩を創作しているという自己紹介で確信した。それは想像通りの澄んだ瞳の持ち主で、いつも柔らかく微笑んでいる穏やかな先輩だった。

 両手で口を覆ってその場で硬直した私は、上村先輩に指摘されてようやく自分が涙を流していることに気がついた。

 そのことが原因となり、私は入部早々「倉吉先輩の熱烈なファン」というレッテルが貼られることになったのだ。
 いつまでも肩を震わせて笑っている倉吉先輩に少しだけ腹が立って、私は言祝一矢が去年作成した最も新しい詩の一節を暗唱する。

「時には情熱的に燃え上がる炎のように、時には可憐に散りゆく花びらのように。それは人が人を想い、愛す、魅惑の恋の色で――」

「ちょ、バカ、やめろって!」

 途端に焦った顔に変わった倉吉先輩は、頬を赤らめて私に制止の声を上げる。私はそんな彼に向けて、満面の笑みを浮かべてみせた。

「倉吉先輩の言う通り、私は言祝一矢のファンですからね。彼の詩なら一言一句間違えずに暗記してますよ」

 胸を張ってそう言った後。すぐに先輩に対して出過ぎた、少々気持ち悪い発言ではないかと後悔する。不安に駆られながら倉吉先輩の方を窺うと、彼は両腕をテーブルの上に組んで、その中に隠れるようにして顔を伏せていた。

 黒髪から飛び出した赤い耳を見つめていると、倉吉先輩はその体勢のまま大きなため息をつく。

 再び顔を上げた倉吉先輩の頬は、まだ若干赤くなっていた。彼はその赤色を誤魔化すように額に右手の平を当てて、くしゃりと笑う。

「……参ったよ。ほんと、面白いなミャオは」

 倉吉先輩につられて、私も口元に手を寄せてクスクスと笑う。

 壁越しに聞こえてくる吹奏楽部の合奏に、二人分の笑い声が重なった。

 あぁ、やっぱり好きだな。

 放課後に、荷物でごちゃごちゃとした狭い部室で過ごす、倉吉先輩との時間。

 憧れのアイドルのような存在と同じ空間にいられるだけで、既にお腹がいっぱいになるくらい幸せなのに。

 口元に寄せていた手を下ろし、朗らかな笑顔を浮かべた倉吉先輩を見据える。彼の首元では、この時期には既にクローゼットの奥にしまい込まれているであろう厚手のマフラーが揺れていた。紺色のブレザーにその赤色はとても映えていて、否が応でも私の目を惹きつける。

 去年の秋の終わり頃に突然現れたそのマフラーを見て、胸の鼓動が激しくなった。

 私が大嫌いだった赤色。

 恋愛なんて興味ない。もう二度と関わりたくない。……そう思っていたのに。


 ねぇ、倉吉先輩。

 私はどうして、こんなにも嬉しくなるのでしょうか。
 がたんと、音を立ててテーブルが揺れる。

 顔を上げると、斜め向かいに座る倉吉先輩はシャーペンをテーブルの上に放り、ぐいっと体を伸ばしていた。恐らく、先程の音は彼の足がテーブルの足に当たった音だろう。

 倉吉先輩はそのままパイプ椅子の背もたれに体を預け、室内の壁時計を一瞥する。

「もう一時間も過ぎてたのか。そりゃあ集中力も切れるわけだ」

 そう言ってもう一度両腕を上げて体を伸ばすと、テーブルに手を乗せて立ち上がった。途端に倉吉先輩を見上げる形となり、改めて百七十センチはあるであろう彼と自分の身長差を実感する。

「息抜きに自販機行ってくる。ミャオは?」

「あ、私も行きたいです」

 急いで鞄を手繰り寄せ、その中に腕を突っ込む。「急がなくていいぞ」と倉吉先輩の気遣う声が後ろから聞こえてきたが、先輩を待たせるわけにはいかない。鞄の底に沈んでいた財布をふんだくるように掴み取り、引き戸を開けた先で待っている倉吉先輩に駆け寄った。


 昼間とは異なり、茜色の廊下には趣のある雰囲気が漂っていた。さすがに倉吉先輩の隣に並ぶ勇気は出せず、私は数歩分の間を空けた後ろを歩く。一定の距離間がそれ以上開いていかないのは、倉吉先輩が歩く速度を落としてくれているからだとわかった。

 目の前で赤いマフラーの両端が猫の尻尾のように揺れ、私は頬の緩みを感じながら倉吉先輩の背中を追いかける。

 東校舎一階の渡り廊下にある自動販売機に着き、その脇で烏龍茶のペットボトルを空けて少量口に含む。その横で缶コーヒーを飲んでいた倉吉先輩は、何気ない口調で話を切り出した。

「執筆は順調か?」

「まぁ……ぼちぼちって感じですかね」

「ははっ、ぼちぼちか。書けるうちに書いておけよ。スランプに入ると結構辛いから」

 倉吉先輩にもそんな経験があるのだろうか。彼は遠くの群青色に染まりつつある空を見つめながら缶コーヒーに口をつけて、ごくりと喉仏を揺らす。

「童話がモチーフの話だっけ?」

「はい。人魚姫を題材に、悲哀で終わるラストを二人が幸せに結ばれるハッピーエンドに変えられないかなって」

「ふーん」

 倉吉先輩の相槌は素っ気ないものではあったが、その表情は詩を書いている時と同じ凛々しいものだった。

 真剣に話を聞いてくれているのが伝わってきたからだろうか。

 私は冷たいコンクリートの壁に寄り掛かりながら、気がつけば誰にも言っていない創作の悩みを打ち明けていた。

「小説を書くのって、難しいんですね。主人公の感情をどこまで描写していいのかがわからなくて。王子様に再会できて〝嬉しい〟、けど王子様は自分が助けたことに気がついていなくて〝悲しい〟。そういうのを細かく書き過ぎると、読者にくどいって思われそうで……」

「あ、わかる。あえて真相を伏せて書くのも一つの手だけど、でもそれって、読者がちゃんと正しく受け取ってくれてるか不安になるんだよな」

「倉吉先輩もそうなんですか?」

 うんうんと頷く倉吉先輩に、私は首を傾げて問いかける。すると、彼は吹き出すように笑った。
「そりゃああるだろ。人間こうやって顔を合わして会話してても、相手の気持ちを百パー理解するなんてできないし。俺らはその読み取り合いを紙面の文字だけでやろうとしてんだ。曖昧でとーぜん」

「じゃあ……曖昧のまま書き進めてもいいんでしょうか」

「寧ろ、自分の解釈を一方的に他者に押し付ける方が横暴かもな。文学の答えは一つじゃない。俺らは文字で大衆に訴えかけて、その内の誰か一人くらいは自分と同じ解釈をしてくれたらいいなーって希望的観測でいればいいんだよ」

 ふと、倉吉先輩の詩が脳裏を過ぎった。

 澄んだ湖のように透明で、綺麗な言葉の羅列。

(倉吉先輩は、あの詩にどんな思いを込めて、どんな解釈を期待していたんだろう)

 答えは一つじゃない。何処かで聞いたような言葉だけれど、人の数だけ解釈も複数あるはず。

 だけど、もし倉吉先輩が込めた思いと、私の解釈が違っていたら。

(それって……なんだか少し、寂しいかも)

 両手でペットボトルを包み込むように握って俯いていると、突然見慣れた赤色が視界いっぱいに映り込んだ。

「悪い。逆に追い詰めたか?」

 バツが悪そうな倉吉先輩の顔を至近距離で捉える。その瞬間、ドクンと心臓が一際大きな音を立てた。勢いよく顔を離すと、鈍い音と共に後頭部に痛みが走る。

「い……っ‼」

「ぶっ、凄い音したな。今」

 ペットボトルを持っていない方の手でズキズキと痛む後頭部を擦りながら、ケラケラと笑う倉吉先輩を睨みつける。

「悪かったって。あー、やっぱダメだな俺。こーいうの、部長ならもっと上手くできるんだろうけど」

「こういうの、って?」

 倉吉先輩はひとしきり笑い終えると、酷く穏やかな瞳をこちらに向けた。

「今日、あんまりペン動いてなかっただろ。悩みごとがあるなら相談に乗ろうと思ったんだけど、なんか逆に悩ませたっぽい」

「え……」

「ごめんな。頼りにならない先輩でさ」

 倉吉先輩は眉を下げて苦笑し、照れくさそうに首裏に手を伸ばす。

 私は何度か目を瞬かせてから、ようやくその言葉の意味を理解した。

 詩を書いている間はいつも一心不乱で、周りのことは見えていないのだと思っていたけれど。

(私の不調に気づいて、心配してくれてたんだ……)

 胸の奥に、陽光が射したような温もりが広がっていく。

 思わず舞い上がってしまいそうな、今すぐ叫び出したいような喜びをぐっと抑えて、私は重たい唇を開いた。

「そんなこと、ないです……っ」

 前にも同じことを言ったなとデジャヴを感じながら、自然な微笑みを浮かべて続ける。

「少しだけ、楽になりました。倉吉先輩のおかげで、また書き出せそうな気がします」

 倉吉先輩は目を丸くしながら私の言葉を聞くと、安心したように笑う。

「そうか。役に立てたなら、よかった」

 校庭から聞こえてくる快活な掛け声や声援に背を向けて、私達は四階の狭い部室を目指して歩き出した。


「美夜ちゃん、今日はなんだかご機嫌だね。何かいいことでもあった?」

  机を合わせ、向かいの席で手作りのお弁当箱を開いていた夏恵が、唐突にそんなことを口にする。私が昨日の夜から創作意欲が湧いてきていることを話そうとすると、それよりも早く夏恵は含みのある笑みを浮かべて言った。

「それとも、これから何かあるのかな? 彼氏とデートとか」

 全く予測していなかった発言が飛んできて、今しがた飲んだコンソメスープを吹き出しそうになる。ごくりと熱いスープを飲み込み、喉を火傷しそうになりながら、否定の声を上げる。

「違うよ! そもそも、そんな相手いないし……!」

 訳もなく、まだ半分ほど中身が残っているスープジャーの蓋を固く締める。

 夏恵には倉吉先輩のことも、赤いマフラーのことも話していない。

 これまでの夏恵との会話で、恋愛絡みの話題が上がったことは一度もなかった。心拍数が非常に速くなっているのは、そんな夏恵の口から突然恋愛に関する単語が飛び出したから。そう自分の中で理由付けしていると、夏恵はふっと微笑んだ。

「だよね。美夜ちゃんは毎日文芸部に通ってる真面目な子だもん」

「そ、そういう夏恵こそ、西園くんとどうなの?」

 こちらに向いている話題の矢印の向きを変えようと、口早にそう指摘する。すると夏恵は鳩が豆鉄砲を食らったような顔で言った。

「どうして、そこで西園くんの名前が出てくるの?」

 至極不思議そうな声色。赤いマフラーが見えずとも、その声と表情だけで夏恵が西園くんに対してどう思っているのかが読み取れる。

 何故だか、西園くんのことをとても応援したい気持ちになった。

「いや、ほら……この前階段ですれ違った時、仲良さげだったからさ」

「そうかな? 確かに最近よく話しかけられるけど――」

 そのまま話題は西園くんのことに移り、夏恵がいかに西園くんを異性として見ていないかをひしひしと感じた。徐々に西園くんを憐れむ思いが膨らんでいき、苦笑を続ける頬が引きつり始めた頃。

「あれ。美夜ちゃん、スマホ光ってるよ」

 夏恵にそう言われて下を向くと、机の隅に寄せていたスマホの横のライトが点滅していた。自然な流れでスマホを手に取って電源を入れると、ロック画面の上部によく使っているSNSの通知を示すマークがあった。それをタップすると見覚えのある名前が表示され、私は小さく声を漏らす。

「美夜ちゃん?」

 画面を見たまま固まる私を不審に思ったのか、夏恵は机に身を乗り出して私のスマホを覗き込む。

「〝穂乃花〟って、美夜ちゃんの友達?」

「うん。小中が一緒の学校で、家もわりと近くて、仲が良かった子なんだけど……」

 夏恵は最後の方の言葉を濁す私を訝しげに見つめ、少し躊躇う素振りを見せた後、ゆっくりと口を開いた。

「何か、あったんだね」

 それは問いかけというよりも、確信に近いものだった。

 私は下唇を噛んで、小さく頷く。

「うん……。喧嘩別れして、そのまま疎遠になっちゃったんだ」

 彼女の名前の横に表示されているのは、『久しぶり』の四文字。何気ないその四文字の挨拶は私の心にとても重くのしかかってきて、頭の片隅に追いやっていた苦い記憶を引きずり出す。