家に帰ってからも、彼女のあの表情が頭から離れなかった。泣き出してしまいそうに見えたあの一瞬。多分、いやきっと、気のせいではなかったと思う。一通り寝支度を終えてする事がなくなるといよいよ居た堪れなくなってきて、僕はスマホを手に取った。





僕は小さな頃から絵を描くのが好きだった。家族の絵を描くと家の中が笑顔でいっぱいになった。それが全ての始まりだったように思う。小学校の頃には当時流行っていたキャラクターをノートに描くと、たちまちクラスのヒーローになれた。中学生になる頃には頼まれて似顔絵を描けば「写真みたい!」と、教室中大盛り上がりになったものだった。


だから事あるごとに書かされたアルバムやら宿題の「将来の夢」の欄には、少しずつ形を変えながらも意訳すれば全て同じものがあった。「えをかくひと」僕は小さな頃から、絵描きになりたかった。


色々なコンテストに応募したりもした。小学生の頃には表彰されることなんかもあった。大きくなるにつれて、自分としては少しずつ上手くなっていっているつもりでいた。それなのに。中学高校と進級するたびに、僕の絵が賞に引っかかる機会はどんどん減っていった。そして高校最後に挑んだコンテストではついに、僕の絵は大賞どころか佳作にさえ引っかからずに終わった。代わりに受賞作品達を見て思い知ったんだ。この世には凡人の僕なんかが努力したところで到底敵わないような天才が、たくさんいるのだと。

 
僕の絵はただ平面に広がるばかりで、見る人に迫り訴えかけるような魅力がない。けれど、立派な額縁に入れられ飾られた受賞作品達は違った。見ているこっちの心を作品の中からむんずと掴んでくるような、そんな魅力があった。僕の絵には、それが、ない。


それがどうしてなのか、僕にはずっとわからなかった。


ならばどうすればいいのか、それも、僕にはついにわからないままだ。





さっき彼女に絵を描くのを見せてほしいと言われた時、僕は怖かったんだと思う。僕の絵を一度はあんなに嬉しそうに胸に抱えてくれた彼女。そんな彼女の前でまた絵を描いて、今度は失望させてしまったら。そんなことを考えてしまった。


けれど考えてみれば僕はもう別に、プロになろうってわけじゃない。素人の落書きにガッカリするも何もないだろう。それに彼女にあんな悲しい顔をさせてしまうのなら、絵の一枚や二枚描いてあげたって良いじゃないか。そう、思ったから。


『明日十三時頃から、あのカフェのテラスで絵を描こうと思います』


彼女とのトークルームにそう打ち込んで、勢いのまま僕は送信ボタンを押した。ホーム画面に戻ると、時計はちょうど二十時を灯していた。





これまでは数分と間を空けずすぐに返信が来たのに、今日は既読すらつかなかった。もしかして嫌われてしまっただろうか。今日のデートは楽しくなかっただろうか。ベッドから見上げた天井、真っ白なキャンパスに彼女の悲しそうな顔が浮かんでしまって、僕は固く目を瞑った。
 


✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎



『行きまーす!おはようございまーす!』


目覚めて一番に確認したスマホに、彼女からのメッセージが届いていた。


「なんだ、よかった」


嫌われてなんていなかったのだと胸を撫で下ろす。昨日はたくさん歩いたから彼女も疲れていたに違いない。眠ってしまっていただけだったんだろう。『おはよう』の返信をして、僕は準備に取り掛かった。


カフェには思いの外早く着いた。桜は昨日ですっかり散ってしまったようだ。あの日のあの席に座って、手始めに足元でパンくずを啄んでいるスズメ達を描いてみることにする。


動物を描くことは、人を描くことの次に好きだったし、得意だとも思う。対象に命や感情がある方が、僕でも魅力的に描ける気がして。仕上げにとスズメの目に光を描いていると、春風に乗ってあの声が聞こえてきた。


「シュンさーん!」


顔を上げると、今日は淡い黄色のスカートに白いブラウスを着た彼女がヒョコヒョコと走ってきて僕の向かいの席に座った。


「何描いてるんですか?」


テーブルに乗り出すように僕の手元を覗き込んでくる彼女は、何故か今日も花びらを一枚頭に乗せている。


「今しがた君にびっくりして飛んでっちゃったスズメだよ」


冗談ぽくそんなことを言うと、彼女は大げさに肩を縮ませた。


「スズメ?...え!ごめんなさい!私のせいでいなくなっちゃいましたか?」


申し訳なさそうにハの字になる眉、への字に曲がる唇。相変わらずころころと変わる表情に、思わず頬が緩む。


「いいんだよ。鳥はよく描いてたから見なくても描ける。それにほら、もうほぼ完成」


そう言ってスケッチブックを彼女の方に向けると、さっきまでの表情が一変、彼女はぱぁっと顔を輝かせて感嘆の声をあげた。


「すごい!可愛い!やっぱシュンさん...絵上手ですね!」


昨日美術館に並んでいた絵に向けられていたのと同じくらいキラキラした視線が今、僕が描いた絵に注がれていた。その表情に、単純な僕は思わず勘違いしてしまいそうになる。僕の絵ももしかしたら、捨てたもんじゃないんじゃないか、なんて。けれどそんな心を抑えて僕は、必死に平静を装う。


「ありがとう」


僕がそう言うと、彼女は嬉しそうに笑って再びスケッチブックを覗き込んだ。僕の絵はこれくらいが良いんだ。目の前にいる誰かを笑顔にできるくらいの絵。それくらいで、ちょうど良い。彼女が喜んでくれるのなら、今日のところは描いていよう、そう思った。


「それで、今日は何を描こうか」


せっかくだからリクエストに応えようと思ってそう尋ねると、彼女は途端に仰々しく考え込み始めた。そうしてしばらくうんうん唸ったかと思うと、何か思いついたようにピンと人差し指を立てる。


「あ!桜!桜を描いてるのを見てみたいです!」

「桜?けれど...」


テラス席から見える桜並木は、寂しいほどにほとんど裸になってしまっている。昨日のうちに踏みしめられたのであろう地面の花びらも、薄汚く色を変えてしまっている。


「桜はもう、昨日でほとんど散っちゃったよ」

「それが、いいんです」

「へ?」

「それがいいんです!散っちゃった桜を、シュンさんに描いて欲しいんです」


そう言って八割方散ってしまった桜を映す彼女の瞳は、数日前に桜並木を見ていた時と変わらず輝いていた。彼女の言うことは時々不思議で。けれど彼女がそれで喜んでくれるのなら、別にそれでよかった。僕達は軽くランチを済ませると、大学の広場に移動することにした。





図書館と研究講義塔の間に芝生が敷かれた広々とした空間がある。そしてその中央には一本、とても立派な桜の木が植えられている。周囲には地べたに何やら敷いて談笑している学生や、円になって譜面のようなものを覗き込む学生達。この広場は空きコマや休み時間に学生達が集まって、思い思いにくつろぐ憩いの場になっている。
カフェから見える並木道の桜より、この広場の桜の方が少し多く花びらが残っていたから。僕達は二人、広場に並ぶベンチの一つに腰掛けた。僕がスケッチブックを開いて下書きを始めると、彼女は隣でタンポポやシロツメクサを摘んで編みながら、時々僕の手元を覗き込んだ。
久々の人前で描くという行為に最初は緊張していた僕だったけれど、それぞれが自由に過ごしているこの空間は、思いの外心地がよかった。僕達は他愛もない話をしながら、各々手を動かした。


「桜って、あっという間に散っちゃいますよね」

「うーん、今年はまだ雨が降らなかっただけ長持ちしたんじゃないかな」

「けど、一週間くらいしかもたないんですね」

「そうだねー」


穏やかな日差しの中、風がさらさらと春を運んだ。僕の足元、誰にも踏まれず生き残った桜の花びらが、戯れに風を掴んでいる。時折どこか遠くで湧き上がる学生達の笑い声が賑やかしい。


「何を描くのが一番好きですか?」

「一番は人かな?次に動物」

「確かに!さっきのスズメもすごく上手でした」

「動物描くのが好きなのは多分、小さい頃にポンを描きまくったところから来てるんだよね。あぁ、ポンっていうのは...」

「ふふ、私に似てるあのワンちゃんですよね」


彼女が隣でくつくつと楽しげに笑った。その手の中の草花が、それに合わせてふるふると震えた。


「え」


そう。彼女の言った通り、ポンはうちの実家で飼ってる犬だ。初めて会った日に彼女が着ていた茶色いセーターとよく似た色のプードル。あの日の僕が咄嗟に「似ていたから」なんて苦し紛れな言い訳をした、あの犬がポンだ。けれど。


「...名前まで教えてなかったよね?どうしてわかったの?」


僕の言葉に、花を編む彼女の手はビクリと止まった。


「え?...あ!えっと、なんか...なんとなく、そうかなって思ったんです!」


そう言った彼女が、僕を初めてシュンと呼んだ時と同じように動揺しているのが手に取るようにわかった。彼女が慌てた時の癖なのか、その手が口元で大袈裟に動く。


「い、いやぁけど、今日は晴れて本当に良かったですよね!すごいスケッチ日和!」


早口でそう捲し立てると、彼女はわざとらしいほどに大きく伸びをした。そして助けを求めるように、足元に視線を走らせる。


「あ!あれ、四葉かしら!?」


言うが早いか勢いよく立ち上がり、地面にしゃがみ込んだ彼女。


「あぁ、違いました!三つ葉でした!」


そう言ってそそくさと戻ってきて彼女は再び隣に座った。そして俯いたまま再び花を編み始める。
別にポンなんてペットらしい名前だし、それでなんとなくわかったのかな、なんて思っただけだった。けれどそんな風に慌てられてしまうと、何かあるのかと余計に気になる。
僕は彼女の慌てように呆気に取られて、彼女はといえば依然気まずそうに手を動かして、そうして数瞬の沈黙が流れた。僕が口を開こうとしたその瞬間、校内放送が僕達の間の静けさをかき消した。


――経済学部三年の高田秀史くん、至急教務課までお越しください。経済学部三年の...


「そ、そういえば!シュンさんは何学部なんですか?」


これだ!とでもいうように顔を上げて、彼女がそんなことを聞いて来た。彼女が話題を変えたがっていることがわかって、僕はとりあえず投げかけられた質問に答えることにした。
 

「あぁ、法学部だよ」

「じゃあ将来は、弁護士さん...とか?」

「うーん、いや。普通に就活して、普通に就職するんじゃないかな」

「そっか...」


再び途切れてしまった会話。本当のことを言えば、将来の話はしたくなかった。今度は僕の方が気まずくて、彼女と目を合わせずにすむように、忙しく描く手を動かした。スケッチブックの視界の隅。彼女がこちらを伺うように、そっと顔を上げたのが見えた。


「本当は...絵の道に進みたかった?」


おずおずとどこか申し訳なさそうに零れた声が、僕の手を止めた。


「え...」


本当に、何なんだ。さっきのポンのことにしろ、誰にも話したことのない将来の夢の話にしろ。彼女は何でもわかってしまう超能力者か何かなのだろうか?僕が何も言えずに彼女を見つめ返していると、彼女は僕の顔を覗き込んで、その眉を悲しそうに下げた。今の僕はそんなにも、痛々しく映っているのだろうか。


「シュンさん、絵描いてる時すごく楽しそうですもん。わかりますよ」

「そう、かな」

「私はシュンさんの絵、好きですよ?」

「...ありが、とう」

「私...シュンさんならなれると思うんです、素敵な絵描きさんに!」


身を乗り出しそんなことを言う彼女の顔は、訳がわからないほどに必死だった。僕の心の葛藤を全部知っているんじゃないかと思ってしまうほどに、真剣そのものだった。
その言葉に、表情に、嘘がないことくらいはわかる。彼女はきっと、本当にそう思って言ってくれているのだろう。けれど。


「...この世界にはさ、僕の手の届かないような天才がたくさんいるんだよ」

「そう、なんでしょうか...」


消え入りそうに絞り出されたその声。彼女はひどく悲しそうな目をしていた。どうして君がそんな顔をするんだよ。さっきまであんなに楽しそうに話したり慌てたりしてたじゃないか。
彼女にまたあの笑顔で笑って欲しくて、僕は咄嗟に明るい声色をつくった。


「例えば僕さ、動物や人はまだしも風景画が苦手なんだ。昔よく河原で練習したんだけど、いまだに苦手」

「そう、なんですか?」

「うん、ほんと、青春投げ捨てて河原に通ってたんだよ?学校終わりに毎日のように。放課後デートなんて無縁の中高時代だった」


そう言って笑ってみせると、彼女も小さく笑顔を見せてくれた。


「ふふふ...女の子に誘われたことないって言ってましたもんね」

「うんうん。本当にそうなんだよ」

「けれどシュンさん結局、風景じゃなくて犬を散歩してるお姉さんとか、囲碁してるお爺さんとか、人ばっかり描いてたじゃないですか」

「...え?」

「え?...あ!」


確かにそうだ。そうなのだ。僕はあの頃、河原に行くたびに苦手な風景画を練習しようと思うのに、気づけば人ばかり描いていた。けれどどうして、どうしてそれを彼女が知ってるっていうんだ。


「どういうこと?どうしてそんなこと、ハルノさんが知ってるの?」

「いや、あの...そう!私も昔よく河原行ってたので!えっと、石投げて水切りの練習してたんです!」

「...ねぇ」


じっと彼女を見つめると、彼女は僕から逃げるように目を逸らした。
けれど。ここまで来るといよいよおかしい。気づかないふりも限界だ。ポンのこと、将来の夢のこと、河原の絵のこと。どう考えてもここで出会う前から彼女が、僕のことを知っていたとしか思えなかった。


「ハルノさん、僕達前にどこかで会ったことある?」

「...ない、ですよ」

「じゃあどうして?ポンのことも、河原の絵のことも、どうして知ってるの?」

「それは...」


本当に、何なんだ。いよいよ泣き出してしまいそうな彼女の手は、ふるふると震えていた。


「ねぇハルノさん。君一体、何者なの?」


噛み締められた唇、返事はない。いつも通りのキャンパス。学生達で賑わうこの場所で、僕達の間にだけ重い沈黙が続いた。





どれだけ待っただろう、やがて決心するように深く息を吸った彼女がついに口を開いた。


「ごめんなさい。騙そうとしたわけじゃないんです」


こちらを見つめる彼女の目は潤んでいて、それだけで僕はとても悪いことをした気分になってしまうんだから本当にズルい。


「...やっぱ私、嘘下手だなぁ...ごめんなさい」


そう言ってこっちが泣きそうになるくらい切ない顔で彼女は笑った。そんな彼女を見ているだけで胸の奥が痛いほどに締め付けられるのは一体何故なんだろう。


彼女は編み終えた小さな花冠を震える手で頭に乗せた。そして僕に向き直ると、困ったようにこう言った。


「私ね...天使、なんです」


潤んだ薄茶色の目が僕を映す。


「...天使?」


白いブラウスに春のうららかな日差し。透き通る肌は眩しいほどで。春風にそよぐ柔らかな髪に花の冠を乗せた。その姿は天使だと言われれば、確かにと納得してしまいそうなほどに美しかった。けれど。


「なにそれ」


また誤魔化されているのかと思った。けれど僕を見つめ返してくる目は、あまりに真っ直ぐで、それでいてひどく悲しげだった。


「本当なんです...本当。ちゃんと説明するので、今日このまま日が沈むまで一緒にいてくれませんか?そしたら、証明できますから」


天使は光の化身だから、日が沈むとすっと体が消えるのだと彼女は言った。それで日が登ると同時に目覚めるように、毎日同じ場所で意識を取り戻すのだと。
それから彼女は日が沈むまで、天使についての色々なことを教えてくれた。

 
人は何度も生まれ変わること。
その度に魂は人、天使、人、天使と輪廻を繰り返すのだということ。
天使の生は誰かの願いを叶えるための手助けをすることで、来世への徳を積む期間なのだということ。
天使から人に生まれ変わる時には記憶をリセットされること。
逆に人から天使になる時には前世の記憶はそのまま、それに加えて願いを叶える対象の人物の記憶を与えられること。
天使の寿命が一か月であること。
そして、僕の覚えていない前世で僕と彼女は知った仲であったこと。


消え入りそうな声で話す彼女の横顔を、ゆっくりと沈む夕陽が照らし始めていた。目を伏せた彼女はあの日のデート終わりと同じように儚げに映った。「私は人から生まれ変わった天使です」だなんて有り得ないことを言われているはずなのに、目の前の彼女は本当に、日没とともにするりと消えてしまいそうで。彼女が言っていることは全部本当なんじゃないかと、心のどこかで思い始めている僕がいた。