大学近くのぼろアパート。六畳一間、家賃は月五万円。ここで僕は数日前から一人暮らしを始めた。隣の部屋は学生達の溜まり場になっているみたいで、日夜馬鹿笑いや話し声が漏れ聞こえて来る。普通の人ならイライラするのかもしれないけれど、こちらも物音に気を遣わなくていいところが気楽で僕はなかなかにこの部屋を気に入っている。
シャワーを浴びて、昼ご飯とも夕ご飯ともつかない作り置きのカレーを胃に流し込む。リュックにパンパンだった教科書を全て本棚に仕舞って、僕は息をついた。小さなちゃぶ台の上、さっき玄関で拾った不在票が目に入って、再配達を頼まなくてはと僕はそれを手に取った。
『画材、送っておいたからね』
数日前の母からの連絡を思い出す。
僕が法学部に合格したと伝えた時、父はこれで将来安泰だと喜んだ。その隣で同じように「おめでとう」と言ってくれた母。けれど母にだけは全て見透かされてしまっていたように思う。法学部が僕が本当に進みたかった進路ではないこと、まだ僕が絵の道を諦めきれていないことも。
「勉強をしながら夢を追ったっていいじゃない」届く段ボールはきっと、母からのそんなメッセージなのだろう。けれど。狭いこの部屋、届く段ボールの行き先はきっと、押し入れの一番奥だ。
考えることに疲れてしまって、僕はベッドに体を投げ出した。天井をぼーっと見上げていれば、自然と思い浮かぶのは昼間の彼女のことだった。絵に描いた人の顔は忘れないタチだ。栗色でふわふわの髪、白く透き通った肌、眩しそうに細められた優しげな目。暖かな日差しに透き通るように、消えてしまいそうに眩しかった彼女。「上手ですね!」キラキラと輝いた瞳、「ください!」と差し出された小さな手。僕の絵を大切そうに抱えて、そして弾けるように笑った。白い天井にもう一度その姿を描くように彼女のことを思い出していると、手の中のスマホが震えた。画面を確認してみればそれは、彼女からのメッセージだった。
『今度、美術館おごらせてください!』
真っ白なアイコン。その隣にはA.Hとあって、白く飛び出した吹き出し。こんなことってあるんだなぁと半ば他人事のように思う。あんな可愛らしい子にいきなり話しかけられて、連絡先まで交換して、そしてこれは二人で出かける誘い、ってことだよな?戸惑いながらも、僕は彼女への返信の文面を考え始めた。
「美術館奢らせてください...か」
『美術館、いいですね』
...そっけないかな。
『いえいえ、僕が奢ります』
なんて、変かな。
『いつにしましょう』
いや、早まるな。
十数分悩みあぐねた末、結局僕は『どこの美術館が好きですか?』なんていう月並みな返信をした。
疑問系で返すと話が続きやすいと、どこかのネット記事で読んだのを思い出したのだ。
絵を描いてばかりで青春とは程遠かったこの人生。僕はまだデートというものを一度もしたことがない。それどころか、女の子とこうしてスマホで連絡を取り合うことさえ、これが初めてなのだ。そんな僕にとっては、信憑性のないネット記事に縋ってでも、文末に「?」を打ち込むことが精一杯だった。
返信は数分と待たずに返ってきた。
『私、桜野美術館が好きです!』
桜野美術館。それは偶然にも、僕が小さな頃よく親に連れて行ってもらっていた美術館だった。
『僕も好きです、桜野美術館』
思わずそう打ち込み送信した画面の上に、すぐさま既読の文字が浮かぶ。
『じゃあそこにしましょう!いつ空いてますか?』
あぁ、本当に行くんだ...本当に?動揺する心のまま、僕はカレンダーアプリを開いてスケジュールを確認した。最近始めたバイトと履修登録したばかりの授業が、土曜までの五日間を綺麗に埋め尽くしていた。
『今度の日曜とか都合どうですか?』
『丸一日空いてます!』
『じゃあ日曜に』
『集合は、どこにしましょう?』
『桜野駅とかでどうですか?』
『いいですね!そうしましょう』
あれよあれよとはこのこと。いつの間にか、僕はどうやらこの子と、本当に二人で出かけることになったらしい。予定が決まってしまえば他に何を送ればいいかわからなくなってしまって僕が二の足を踏んでいると、彼女から話題が飛んできた。
『そういえば、ぶらぶらミッドナイトって知ってますか?』
『あぁ、夜中にやってる番組ですよね?』
『そうそう、それにこの前桜野駅が出てて』
『あぁ、それ僕も見ましたよ!...っていうか、ぶらナイ、僕以外で見てる人初めて会いました』
『その回、百夜草がゲストで出てたから。私、大ファンで』
『え...僕もです』
『途中で出てきたタイ料理屋さん』
『あぁパッタイ!』
『そうそう!食べてみたくて』
『僕も、行ってみたかったんです』
『本当に?じゃあそこも行きましょう!』
『はい、是非!』
活字に合わせて、昼間のあの表情が嬉しそうに綻ぶのが目に浮かぶようだった。きっと「!」と同時に、彼女の表情はぱぁっと弾ける。
『あー、嬉しい!桜野、一度でいいから行ってみたかったんです』
彼女から届いたメッセージ。感じた違和感に、僕はふと手を止め、眉を顰めた。行って...みたかった?
『桜野、初めてですか?』
例に漏れず、間髪入れずに灯った既読。けれどリズム良く続いていた返信は、そこで途絶えてしまった。
「え...どうしよう」
彼女は桜野美術館が好きだと言ったんだ。桜野に行ったことがないわけがないじゃないか。変なことを言ってしまったかもしれない。返ってこない返事にいよいよ不安になってきた頃、やっと画面に彼女の吹き出しが浮かんだ。
『あ、いや、また行きたいってことです!打ち間違えました!それでそれで、待ち合わせは何時にしましょう?』
話していてわかったのは、彼女とは驚くほどに趣味が合うということだった。好きな音楽、食べ物、本、テレビに映画。一時間にも満たないやりとりの中で何度『僕もです』と返信したことか。
これまで信じてこなかった運命なんてものにぐらっときそうになった自分を、僕の中のもう一人の自分が制する。落ち着け。だってお前まだ彼女の名前さえ知らないじゃないか。
『あ、そういえばお名前を聞いてもいいですか?』
『あ!そっか、まだ名乗ってなかったなんて、すみません。ハルノです』
ハルノ。それは、彼女のあの弾むような声で僕の脳内に響くと、そのままストンと僕の心に落ちていった。とてもしっくりくると思った。
『僕は拓っていいます』
『拓さん!よろしくお願いします!』
ハルノさん。画面の向こう側、「!」と同時にきっと弾けるように笑った彼女。僕はその人と、五日後デートすることになった。
授業にバイトに、一人暮らしの家事。始まった新生活は想像していたよりも慌ただしく過ぎて行った。はじめての長時間シフトから体を引きずるように帰宅して、息をついた時にはもう、土曜の十七時を回った所だった。
「美術館...明日か」
独りごちた先、部屋の隅に数日前に再配達で届いた段ボールが封をされたままぽつんとあった。
「そうだ...」
疲れきった体をどうにか起き上がらせる。すっかり忘れかけていたそれを、僕はちゃぶ台へと持ち上げた。
必要以上にガムテープでしっかりと封をしてあるのがなんとも母らしい。まだハサミもない中、どうにかこうにか段ボールをこじ開ければ、そこには色々なものが入っていた。手紙にパックご飯に缶詰に野菜ジュース。一つ一つ取り出していくと、懐かしい絵の具やパレットが奥から顔を覗かせて心を揺さぶる。食糧は棚に、画材は箱ごとそのまま押入れに押し込んだ。
昨日の残りの白米を届いた缶詰をおかずに口に運びながら、母に『届いたよ』とだけメッセージを送った。そのすぐ下には彼女とのトークルーム。あれからも時々彼女からメッセージが来て、僕達はこの数日間、毎日のようにやり取りをしていた。
『バイト終わりました』
昼から途切れたままだったやり取りに返信をして、僕は画面をスクロールして彼女との会話を読み返した。
『今日は何限から授業ですか?』
『僕は三限から。ハルノさんは?』
『えーっと、二限からです!』
『え!?じゃあ今授業中?』
彼女が同じ大学の学生なのか、同学年なのか、わざわざ聞いたわけではなかったけれど、なんとなくそうなのだろうと思っていた。出会ったのはキャンパスでだし、彼女は僕よりも若く見えるくらいだったから。だとしたら、彼女も彼女とて新生活に慣れようと相当大変なはずだ。彼女の毎日はどんな風に過ぎているのだろう。
『お疲れ様です!ついに明日ですね!今日は早めに寝て明日に備えます!おやすみなさい』
開いたままにしていたトークルームにいつの間にか新たにメッセージが届いていたことに気がつく。
『うん、おやすみ』
慌てて返信を打ち込んで、送信ボタンを押した。
画面越しに会話することには、かなり慣れてきた。気を抜けばうっかり敬語が取れてしまうこともあるほど。けれど直接、しかも二人きりで会うことを想像してみると、それはまた話が全然違った。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
迎えたデート当日。緊張しすぎた僕は待ち合わせ場所に三十分も早く着いてしまった。桜野駅天使の像の前で僕はそわそわと彼女を待った。
彼女は時間通りに改札から出てきた。白に淡いピンクが散りばめられたワンピースに、空色のバックを肩から掛けて。まるで春をそのまま身にまとっているようなそのファッションは、彼女にとてもよく似合っていた。眩しいくらいに。
「また待たせちゃった、すみません」
そう言って彼女はスカートの裾を翻しながらこちらへと駆け寄って来た。
「いや、全然」
どこかのネット記事に「まずは相手の服装を誉めるべし」なんて書いてあった気がするけれど、そんなのまだ僕にはハードルが高かった。彼女の顔を真っ直ぐに見ることもできない僕は、正直緊張でまともに歩けるかも怪しいところなのに。
「行き、ましょうか」
「天気の話題は避けること」「車道側を歩くこと」「相手と歩くスピードを合わせること」予習してきたネット記事の受け売りを頭の中で繰り返しながら、僕はぎこちなく歩き始めた。
駅から美術館へと続く広い通りを二人並んで歩いた。桜野駅という名にもある様に、ここは桜の名所だ。通りの両脇には桜の木が等間隔に植えられ、美術館のある国立公園までずっと続いている。もうほとんど散ってしまった花びらが、僕らの足元を絨毯のように埋め尽くしていた。
彼女の隣を歩く僕は、ちゃんと彼女と釣り合えているのだろうか。華やかな装いの彼女と比べて、随分と暗い色の服を着て来てしまった。もう少し明るい色を着てくればよかったかもしれない、なんて今更に思う。
ふと隣を見ると彼女と目が合った。少しぎこちなく微笑む彼女に、自分が無言のまま歩いていたことに気づいて、何か話さなければと焦る。
「...あ、あの、えっと...ハルノさんの名前って、漢字でどう書くんですか?」
あぁ。こういう時に限って気の利いた話題の一つも浮かばない。そんな自分に思わず、頭を抱えたくなる。これなら天気の話をした方がマシなくらいだ。
「え?あ、春夏秋冬の春に、野原の野でハルノです」
僕の下手くそな話題提供にも、彼女は笑顔で返事をしてくれた。春の野。僕が思い描いていた通りの答えが返ってきて、少し嬉しくなった。
「春...野?」
彼女の名前を漢字で宙に指で書いてみせる。すると、彼女は嬉しそうに勢いよく頷いた。
「はい!」
それなら、とても似合うよなと思った。響きも、漢字も、そこに込められたのであろう意味も。
「やっぱり」
思ったまま口をついた言葉に、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「何がやっぱりなんですか?」
「いや、なんかこう。春の野って、そのまんまそんな感じだから、ハルノさん」
「何ですかそれ!」
五日ぶりのあの笑顔が、隣で小さく弾けた。その背景にはやっぱり桜がとてもよく似合っていた。吹く風に舞っているだけの花びらも、まるで彼女が操りまとっているかのように見えるほど。その全てに見惚れてしまっていた、その時だった。
「けどシュンさんも!...」
眩しい笑顔でそう言ったかと思うと、次の瞬間彼女はハッと息を呑んだ。突然途切れてしまった会話。しまったというように手で口元を押さえた彼女。
「...ハルノ、さん?」
「あ...シュン、さん...じゃなくて、タクさん...ですよね」
二人の間、ぎこちなく沈黙が満ちた。元カレの名前か何かだろうか、シュン。なんとなく気まずい雰囲気に、何かこの空気を紛らわせる台詞はないかと頭を巡らせる。
けれど僕が何か思いつく前に、彼女の方が先に口を開いた。
「あの、そう!タクさんのこと、シュンさんって呼んでいいですか?」
「え?」
「あだ名みたいな感じで!だってほら、さん付けで呼ぶと "沢山" で変な感じするので。だから...えっと、春だし、春夏秋冬の春って書いて、シュン。ほら似合う!!」
身振り手振り、慌てた様子で捲し立てた彼女。その勢いに圧倒されながらも、シュンが仮に元カレの名前だったとして、それも仕方がないよなぁと思う。
なんてったって僕はまだ、彼女の名前を漢字でどう書くのかさえ知らなかったような男だ。それくらいの仲の僕らなんだ。名前を言い間違えてしまうことくらいあるだろう。だから僕は「気にしなくて良いよ」の意味を込めて、大袈裟に笑ってみせた。
「じゃあ僕、季節ごとに名前が変わるんですか!?」
「あー、えっと...そういうことに、なる...かもしれません!」
「そんな理不尽な!」
「む、無断で私の絵を描いた仕返しです」
「でも出演料払いましたし!喜んでくれたじゃないですか」
「あ、そっか、その節はどうも!えーっと、お礼に今度映画館奢らせてください、シュンさん!」
本当に可笑しな子だ。いつの間にか緊張も忘れて二人してひとしきり話して笑うと、美術館に着く頃にはなんだかもう何年も前からの知り合いのように思えていた。そう思っているのは僕だけ、かもしれないけれど。
それになぜだろう、彼女が僕を呼ぶシュンという響きも嫌じゃなかった。それどころか、むしろしっくりきた。まるで彼女の前では僕がシュンであることが当然であるかのように、当たり前のことであるかのようにしっくりきたのだ。
こうして僕はハルノさんと初めてのデートをした。僕の人生で初めてのデート。美術館に入ると、彼女は一層ワクワクと足先を弾ませた。美術館デートなんて、僕はいいけれど彼女の方は退屈なんじゃないだろうかなんて思っていたけれど、どうやらそんなのは杞憂だったようだ。
彼女はひとつひとつの絵画の前で立ち止まっては、目を輝かせほぅっと深く息をついた。そして僕を振り返っては囁く。
「見てくださいシュンさん」
「シュンさん、こっちも」
「これも綺麗ですね」
キラキラとした目で絵から絵へと行ったり来たりした彼女。ころころと変わるその表情に、僕はどうしようもなく目を奪われた。
「どうしてこのシーンを描こうと思ったんでしょうね?」
「表情じゃないかな?」
「この女の子の?」
「うん。とか言って、全然違うかもしれないけど」
「ふふふ、あまりにお腹が空いてて、彼女が持ってるパイが印象に残っただけ、かもしれませんしね」
「なんかこの男の人、シュンさんに雰囲気似てませんか?」
「そうですか?」
「うんうん。もしかしたら生まれ変わりとかかも」
「え...僕、前世はオランダ人だったんですか?」
「うーん、前々世くらいなら、有り得そうです。いいな、こんな美味しそうなパンを毎日食べてたんですか?」
「この色、好きです」
「ハルノさんっぽい色ですね」
「え?そうですか?」
「うん。ハルノさんはなんか、淡いピンクとか黄色って感じがします」
「シュンさんはそうだな...こんな感じの色使いなイメージです。この梨とりんごの絵みたいな」
「ハルノさん、お腹空きました?」
淡く照明に照らされた絵画を前に、僕達は歩いては立ち止まり、そうして他愛のない会話をした。朝はあんなに緊張していたのに、実際に顔を合わせて言葉を交わしてみれば、メッセージでやり取りするのと変わらないくらい自然に話したいことが溢れた。
美術館を出ると僕たちは予定通り、あのタイ料理屋さんに向かった。僕はパッタイを、彼女はカオマンガイを注文した。ぶらぶらミッドナイトで見たのと全く同じものが出てきて、僕達は顔を見合わせた。
「ふふふ...シュンさんと、たったの数日でこんな風にパッタイを分け合う仲になるだなんて、思ってもみなかった」
僕が小皿にパッタイを取り分けていると、彼女が楽しそうに言った。
「それは僕の台詞だよ。こんな風に女の子に誘われたのも、初めてだしさ」
「そうなんですか?」
「うん、最初は怪しい壺でも売りつけられるんじゃないかって思ってた」
すると彼女は飲んでいた水を吹き出しそうにむせながら笑った。
「ふふふ...いや、私大学に知り合いもいなくて。友達がほしいなって思ってたんです」
だからって。こんなに可愛い子が僕なんかに出会ったその日に連絡を聞いてくるなんて、僕はいまだに不思議で仕方がなかった。
「あぁ、そういえば、ハルノさんって何学部なの?」
「え!?」
彼女の手の中で揺れたコップ、中の氷がカランと音を立てた。
「あぁいや、あそこで出会ったから勝手に同じ大学だと思ってたんだけど、違った?」
「あ、えっと...うん。私も、一年生」
「だよね。いや、あれから見かけないけど、何学部なのかなと思って」
「あー、えっと...美術、学部?」
そう答えた彼女の目は、僕の手元辺りを動揺するように泳いでいた。さっき、僕の名前をシュンと呼び間違えた時と同じように。
「え?うちは美術学部なんてないじゃない」
彼女が冗談でそんなことを言ったのか、それともまだ出会ったばかりの僕にただ個人情報を教えたくないだけだったのか、結局僕にはわからなかった。店はエスニック店らしい薄暗い照明で満たされていて、彼女が俯いてしまえばその表情はほとんどわからなかった。彼女は次の瞬間には小皿を手元に引き寄せ、カオマンガイを取り分け始めていた。
「シュンさんも、カオマンガイ食べますよね!」
「え?あぁ、ちょっともらおうかな」
「じゃあ、カオマンの部分、多めで」
「カオマンの部分?何それ?」
「だってほら、パッタイのパッの部分たくさんもらってしまったので」
「具の部分ってこと?」
「そうそう、大体そんな感じです」
彼女はやっぱりちょっと不思議で、それでいてよく笑った。ころころと変わる表情は、いつも決まって最後には眩しいほどの笑顔に帰着した。彼女の言う通り、出会ってたったの数日で、こんなに近くで彼女の笑顔を見ていることが何だか信じられなかった。
タイ料理屋さんを後にする頃には、もう夕暮れにさしかかっていた。天真爛漫でどちらかといえば幼く見えていた彼女の横顔が、どこか儚げで大人びて見えたのは、彼女を照らした夕日のせいだろうか。長いまつ毛の影が朱色に染まった頬の上を踊っていた。
「シュンさん、今日は、楽しかったですか?」
「うん、楽しかったよ」
僕がそう言うと、彼女は安心したようにはにかんで俯いた。
「じゃあシュンさんは、絵...好き、なんですよね?」
「...うん」
「じゃあ絵、描くのも好き!ですよね?」
そう言いながら彼女は通せん坊をするように、僕の前に躍り出た。
「...好き、だ、けど?」
「じゃあ今度、映画もいいけど。私見たい、シュンさんが絵を描いてるところ!」
たくさんの絵を行ったり来たりしていたあのキラキラとした目が、今はまっすぐ僕だけに向けられていた。その瞳から溢れる光が、まるで僕の心の影を刺してくるかのようでなんだか痛かった。
ただ絵を描くのを見たいと言われているだけだ。それにこの前なんて描いた絵をあげたじゃないか。それなのに。そんな目で改まって言われると、僕の心はひどくざわついた。一度諦めて奥底に埋めた夢を掘り返されているみたいで。
「...うん、いつかね」
気のない返事になってしまったと思う。僕が乗り気じゃないことは、伝わってしまっただろう。僕の返事を聞くと、彼女の眉は残念そうに下がった。
「...はい、いつか」
消え入りそうに溢れた声、伏せたまつ毛。刹那、彼女が泣き出してしまいそうな、そんな予感がした。どうして?という疑問よりも前に、焦りで頭が真っ白になってしまう。
「え...ぁ...」
目の前で女の子が泣いてしまいそうな時にかける気の利いた言葉なんて、恋愛初心者の僕が持ち合わせているはずがない。僕が何も言えずにおろおろしていると、彼女は唇を噛み締めて顔を伏せた。
夕焼けが彼女の柔らかな髪を栗色に温めていた。その一本一本が、伏せたまつ毛が、悲しそうに揺れる瞳が、彼女の体を縁取る輪郭が、その全てがこのまま春の夕暮れに溶けて消えてしまいそうで。その美しさに言葉を失ってしまった僕は、彼女を笑顔にするにふさわしい言葉を必死で探してみるのに、やっぱり何も見つけられなくて。
けれど次の瞬間、彼女は弾かれたように顔を上げた。その時には、彼女はまたあの眩しいほどの笑顔に戻っていた。
「じゃあ、今日はここで!ありがとうございました、すーっごく楽しかったです!」
「えっ」
ものすごい勢いで言い終えるや否や、出会ったあの日と同じように止める間も無く、踵を返して走り出した彼女。
一歩、一歩。彼女が駆けるその足元で、花びらが小さく舞い上がった。その日僕は、オレンジに染まった桜のカーペットの先に彼女が見えなくなるのを、いつまでも見送っていた。
家に帰ってからも、彼女のあの表情が頭から離れなかった。泣き出してしまいそうに見えたあの一瞬。多分、いやきっと、気のせいではなかったと思う。一通り寝支度を終えてする事がなくなるといよいよ居た堪れなくなってきて、僕はスマホを手に取った。
僕は小さな頃から絵を描くのが好きだった。家族の絵を描くと家の中が笑顔でいっぱいになった。それが全ての始まりだったように思う。小学校の頃には当時流行っていたキャラクターをノートに描くと、たちまちクラスのヒーローになれた。中学生になる頃には頼まれて似顔絵を描けば「写真みたい!」と、教室中大盛り上がりになったものだった。
だから事あるごとに書かされたアルバムやら宿題の「将来の夢」の欄には、少しずつ形を変えながらも意訳すれば全て同じものがあった。「えをかくひと」僕は小さな頃から、絵描きになりたかった。
色々なコンテストに応募したりもした。小学生の頃には表彰されることなんかもあった。大きくなるにつれて、自分としては少しずつ上手くなっていっているつもりでいた。それなのに。中学高校と進級するたびに、僕の絵が賞に引っかかる機会はどんどん減っていった。そして高校最後に挑んだコンテストではついに、僕の絵は大賞どころか佳作にさえ引っかからずに終わった。代わりに受賞作品達を見て思い知ったんだ。この世には凡人の僕なんかが努力したところで到底敵わないような天才が、たくさんいるのだと。
僕の絵はただ平面に広がるばかりで、見る人に迫り訴えかけるような魅力がない。けれど、立派な額縁に入れられ飾られた受賞作品達は違った。見ているこっちの心を作品の中からむんずと掴んでくるような、そんな魅力があった。僕の絵には、それが、ない。
それがどうしてなのか、僕にはずっとわからなかった。
ならばどうすればいいのか、それも、僕にはついにわからないままだ。
さっき彼女に絵を描くのを見せてほしいと言われた時、僕は怖かったんだと思う。僕の絵を一度はあんなに嬉しそうに胸に抱えてくれた彼女。そんな彼女の前でまた絵を描いて、今度は失望させてしまったら。そんなことを考えてしまった。
けれど考えてみれば僕はもう別に、プロになろうってわけじゃない。素人の落書きにガッカリするも何もないだろう。それに彼女にあんな悲しい顔をさせてしまうのなら、絵の一枚や二枚描いてあげたって良いじゃないか。そう、思ったから。
『明日十三時頃から、あのカフェのテラスで絵を描こうと思います』
彼女とのトークルームにそう打ち込んで、勢いのまま僕は送信ボタンを押した。ホーム画面に戻ると、時計はちょうど二十時を灯していた。
これまでは数分と間を空けずすぐに返信が来たのに、今日は既読すらつかなかった。もしかして嫌われてしまっただろうか。今日のデートは楽しくなかっただろうか。ベッドから見上げた天井、真っ白なキャンパスに彼女の悲しそうな顔が浮かんでしまって、僕は固く目を瞑った。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
『行きまーす!おはようございまーす!』
目覚めて一番に確認したスマホに、彼女からのメッセージが届いていた。
「なんだ、よかった」
嫌われてなんていなかったのだと胸を撫で下ろす。昨日はたくさん歩いたから彼女も疲れていたに違いない。眠ってしまっていただけだったんだろう。『おはよう』の返信をして、僕は準備に取り掛かった。
カフェには思いの外早く着いた。桜は昨日ですっかり散ってしまったようだ。あの日のあの席に座って、手始めに足元でパンくずを啄んでいるスズメ達を描いてみることにする。
動物を描くことは、人を描くことの次に好きだったし、得意だとも思う。対象に命や感情がある方が、僕でも魅力的に描ける気がして。仕上げにとスズメの目に光を描いていると、春風に乗ってあの声が聞こえてきた。
「シュンさーん!」
顔を上げると、今日は淡い黄色のスカートに白いブラウスを着た彼女がヒョコヒョコと走ってきて僕の向かいの席に座った。
「何描いてるんですか?」
テーブルに乗り出すように僕の手元を覗き込んでくる彼女は、何故か今日も花びらを一枚頭に乗せている。
「今しがた君にびっくりして飛んでっちゃったスズメだよ」
冗談ぽくそんなことを言うと、彼女は大げさに肩を縮ませた。
「スズメ?...え!ごめんなさい!私のせいでいなくなっちゃいましたか?」
申し訳なさそうにハの字になる眉、への字に曲がる唇。相変わらずころころと変わる表情に、思わず頬が緩む。
「いいんだよ。鳥はよく描いてたから見なくても描ける。それにほら、もうほぼ完成」
そう言ってスケッチブックを彼女の方に向けると、さっきまでの表情が一変、彼女はぱぁっと顔を輝かせて感嘆の声をあげた。
「すごい!可愛い!やっぱシュンさん...絵上手ですね!」
昨日美術館に並んでいた絵に向けられていたのと同じくらいキラキラした視線が今、僕が描いた絵に注がれていた。その表情に、単純な僕は思わず勘違いしてしまいそうになる。僕の絵ももしかしたら、捨てたもんじゃないんじゃないか、なんて。けれどそんな心を抑えて僕は、必死に平静を装う。
「ありがとう」
僕がそう言うと、彼女は嬉しそうに笑って再びスケッチブックを覗き込んだ。僕の絵はこれくらいが良いんだ。目の前にいる誰かを笑顔にできるくらいの絵。それくらいで、ちょうど良い。彼女が喜んでくれるのなら、今日のところは描いていよう、そう思った。
「それで、今日は何を描こうか」
せっかくだからリクエストに応えようと思ってそう尋ねると、彼女は途端に仰々しく考え込み始めた。そうしてしばらくうんうん唸ったかと思うと、何か思いついたようにピンと人差し指を立てる。
「あ!桜!桜を描いてるのを見てみたいです!」
「桜?けれど...」
テラス席から見える桜並木は、寂しいほどにほとんど裸になってしまっている。昨日のうちに踏みしめられたのであろう地面の花びらも、薄汚く色を変えてしまっている。
「桜はもう、昨日でほとんど散っちゃったよ」
「それが、いいんです」
「へ?」
「それがいいんです!散っちゃった桜を、シュンさんに描いて欲しいんです」
そう言って八割方散ってしまった桜を映す彼女の瞳は、数日前に桜並木を見ていた時と変わらず輝いていた。彼女の言うことは時々不思議で。けれど彼女がそれで喜んでくれるのなら、別にそれでよかった。僕達は軽くランチを済ませると、大学の広場に移動することにした。
図書館と研究講義塔の間に芝生が敷かれた広々とした空間がある。そしてその中央には一本、とても立派な桜の木が植えられている。周囲には地べたに何やら敷いて談笑している学生や、円になって譜面のようなものを覗き込む学生達。この広場は空きコマや休み時間に学生達が集まって、思い思いにくつろぐ憩いの場になっている。
カフェから見える並木道の桜より、この広場の桜の方が少し多く花びらが残っていたから。僕達は二人、広場に並ぶベンチの一つに腰掛けた。僕がスケッチブックを開いて下書きを始めると、彼女は隣でタンポポやシロツメクサを摘んで編みながら、時々僕の手元を覗き込んだ。
久々の人前で描くという行為に最初は緊張していた僕だったけれど、それぞれが自由に過ごしているこの空間は、思いの外心地がよかった。僕達は他愛もない話をしながら、各々手を動かした。
「桜って、あっという間に散っちゃいますよね」
「うーん、今年はまだ雨が降らなかっただけ長持ちしたんじゃないかな」
「けど、一週間くらいしかもたないんですね」
「そうだねー」
穏やかな日差しの中、風がさらさらと春を運んだ。僕の足元、誰にも踏まれず生き残った桜の花びらが、戯れに風を掴んでいる。時折どこか遠くで湧き上がる学生達の笑い声が賑やかしい。
「何を描くのが一番好きですか?」
「一番は人かな?次に動物」
「確かに!さっきのスズメもすごく上手でした」
「動物描くのが好きなのは多分、小さい頃にポンを描きまくったところから来てるんだよね。あぁ、ポンっていうのは...」
「ふふ、私に似てるあのワンちゃんですよね」
彼女が隣でくつくつと楽しげに笑った。その手の中の草花が、それに合わせてふるふると震えた。
「え」
そう。彼女の言った通り、ポンはうちの実家で飼ってる犬だ。初めて会った日に彼女が着ていた茶色いセーターとよく似た色のプードル。あの日の僕が咄嗟に「似ていたから」なんて苦し紛れな言い訳をした、あの犬がポンだ。けれど。
「...名前まで教えてなかったよね?どうしてわかったの?」
僕の言葉に、花を編む彼女の手はビクリと止まった。
「え?...あ!えっと、なんか...なんとなく、そうかなって思ったんです!」
そう言った彼女が、僕を初めてシュンと呼んだ時と同じように動揺しているのが手に取るようにわかった。彼女が慌てた時の癖なのか、その手が口元で大袈裟に動く。
「い、いやぁけど、今日は晴れて本当に良かったですよね!すごいスケッチ日和!」
早口でそう捲し立てると、彼女はわざとらしいほどに大きく伸びをした。そして助けを求めるように、足元に視線を走らせる。
「あ!あれ、四葉かしら!?」
言うが早いか勢いよく立ち上がり、地面にしゃがみ込んだ彼女。
「あぁ、違いました!三つ葉でした!」
そう言ってそそくさと戻ってきて彼女は再び隣に座った。そして俯いたまま再び花を編み始める。
別にポンなんてペットらしい名前だし、それでなんとなくわかったのかな、なんて思っただけだった。けれどそんな風に慌てられてしまうと、何かあるのかと余計に気になる。
僕は彼女の慌てように呆気に取られて、彼女はといえば依然気まずそうに手を動かして、そうして数瞬の沈黙が流れた。僕が口を開こうとしたその瞬間、校内放送が僕達の間の静けさをかき消した。
――経済学部三年の高田秀史くん、至急教務課までお越しください。経済学部三年の...
「そ、そういえば!シュンさんは何学部なんですか?」
これだ!とでもいうように顔を上げて、彼女がそんなことを聞いて来た。彼女が話題を変えたがっていることがわかって、僕はとりあえず投げかけられた質問に答えることにした。
「あぁ、法学部だよ」
「じゃあ将来は、弁護士さん...とか?」
「うーん、いや。普通に就活して、普通に就職するんじゃないかな」
「そっか...」
再び途切れてしまった会話。本当のことを言えば、将来の話はしたくなかった。今度は僕の方が気まずくて、彼女と目を合わせずにすむように、忙しく描く手を動かした。スケッチブックの視界の隅。彼女がこちらを伺うように、そっと顔を上げたのが見えた。
「本当は...絵の道に進みたかった?」
おずおずとどこか申し訳なさそうに零れた声が、僕の手を止めた。
「え...」
本当に、何なんだ。さっきのポンのことにしろ、誰にも話したことのない将来の夢の話にしろ。彼女は何でもわかってしまう超能力者か何かなのだろうか?僕が何も言えずに彼女を見つめ返していると、彼女は僕の顔を覗き込んで、その眉を悲しそうに下げた。今の僕はそんなにも、痛々しく映っているのだろうか。
「シュンさん、絵描いてる時すごく楽しそうですもん。わかりますよ」
「そう、かな」
「私はシュンさんの絵、好きですよ?」
「...ありが、とう」
「私...シュンさんならなれると思うんです、素敵な絵描きさんに!」
身を乗り出しそんなことを言う彼女の顔は、訳がわからないほどに必死だった。僕の心の葛藤を全部知っているんじゃないかと思ってしまうほどに、真剣そのものだった。
その言葉に、表情に、嘘がないことくらいはわかる。彼女はきっと、本当にそう思って言ってくれているのだろう。けれど。
「...この世界にはさ、僕の手の届かないような天才がたくさんいるんだよ」
「そう、なんでしょうか...」
消え入りそうに絞り出されたその声。彼女はひどく悲しそうな目をしていた。どうして君がそんな顔をするんだよ。さっきまであんなに楽しそうに話したり慌てたりしてたじゃないか。
彼女にまたあの笑顔で笑って欲しくて、僕は咄嗟に明るい声色をつくった。
「例えば僕さ、動物や人はまだしも風景画が苦手なんだ。昔よく河原で練習したんだけど、いまだに苦手」
「そう、なんですか?」
「うん、ほんと、青春投げ捨てて河原に通ってたんだよ?学校終わりに毎日のように。放課後デートなんて無縁の中高時代だった」
そう言って笑ってみせると、彼女も小さく笑顔を見せてくれた。
「ふふふ...女の子に誘われたことないって言ってましたもんね」
「うんうん。本当にそうなんだよ」
「けれどシュンさん結局、風景じゃなくて犬を散歩してるお姉さんとか、囲碁してるお爺さんとか、人ばっかり描いてたじゃないですか」
「...え?」
「え?...あ!」
確かにそうだ。そうなのだ。僕はあの頃、河原に行くたびに苦手な風景画を練習しようと思うのに、気づけば人ばかり描いていた。けれどどうして、どうしてそれを彼女が知ってるっていうんだ。
「どういうこと?どうしてそんなこと、ハルノさんが知ってるの?」
「いや、あの...そう!私も昔よく河原行ってたので!えっと、石投げて水切りの練習してたんです!」
「...ねぇ」
じっと彼女を見つめると、彼女は僕から逃げるように目を逸らした。
けれど。ここまで来るといよいよおかしい。気づかないふりも限界だ。ポンのこと、将来の夢のこと、河原の絵のこと。どう考えてもここで出会う前から彼女が、僕のことを知っていたとしか思えなかった。
「ハルノさん、僕達前にどこかで会ったことある?」
「...ない、ですよ」
「じゃあどうして?ポンのことも、河原の絵のことも、どうして知ってるの?」
「それは...」
本当に、何なんだ。いよいよ泣き出してしまいそうな彼女の手は、ふるふると震えていた。
「ねぇハルノさん。君一体、何者なの?」
噛み締められた唇、返事はない。いつも通りのキャンパス。学生達で賑わうこの場所で、僕達の間にだけ重い沈黙が続いた。
どれだけ待っただろう、やがて決心するように深く息を吸った彼女がついに口を開いた。
「ごめんなさい。騙そうとしたわけじゃないんです」
こちらを見つめる彼女の目は潤んでいて、それだけで僕はとても悪いことをした気分になってしまうんだから本当にズルい。
「...やっぱ私、嘘下手だなぁ...ごめんなさい」
そう言ってこっちが泣きそうになるくらい切ない顔で彼女は笑った。そんな彼女を見ているだけで胸の奥が痛いほどに締め付けられるのは一体何故なんだろう。
彼女は編み終えた小さな花冠を震える手で頭に乗せた。そして僕に向き直ると、困ったようにこう言った。
「私ね...天使、なんです」
潤んだ薄茶色の目が僕を映す。
「...天使?」
白いブラウスに春のうららかな日差し。透き通る肌は眩しいほどで。春風にそよぐ柔らかな髪に花の冠を乗せた。その姿は天使だと言われれば、確かにと納得してしまいそうなほどに美しかった。けれど。
「なにそれ」
また誤魔化されているのかと思った。けれど僕を見つめ返してくる目は、あまりに真っ直ぐで、それでいてひどく悲しげだった。
「本当なんです...本当。ちゃんと説明するので、今日このまま日が沈むまで一緒にいてくれませんか?そしたら、証明できますから」
天使は光の化身だから、日が沈むとすっと体が消えるのだと彼女は言った。それで日が登ると同時に目覚めるように、毎日同じ場所で意識を取り戻すのだと。
それから彼女は日が沈むまで、天使についての色々なことを教えてくれた。
人は何度も生まれ変わること。
その度に魂は人、天使、人、天使と輪廻を繰り返すのだということ。
天使の生は誰かの願いを叶えるための手助けをすることで、来世への徳を積む期間なのだということ。
天使から人に生まれ変わる時には記憶をリセットされること。
逆に人から天使になる時には前世の記憶はそのまま、それに加えて願いを叶える対象の人物の記憶を与えられること。
天使の寿命が一か月であること。
そして、僕の覚えていない前世で僕と彼女は知った仲であったこと。
消え入りそうな声で話す彼女の横顔を、ゆっくりと沈む夕陽が照らし始めていた。目を伏せた彼女はあの日のデート終わりと同じように儚げに映った。「私は人から生まれ変わった天使です」だなんて有り得ないことを言われているはずなのに、目の前の彼女は本当に、日没とともにするりと消えてしまいそうで。彼女が言っていることは全部本当なんじゃないかと、心のどこかで思い始めている僕がいた。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
「母様、行って参ります」
「あぁ春野、気をつけて行ってらっしゃいね」
番傘を叩く雨音の中、私は女学校への道を足速に歩いた。五年生になったばかりの私の胸元には、鮮やかなえんじ色がたなびいている。お父様に買っていただいたばかりの新しいリボン。けれどこの色が、私の心を憂鬱にした。
「うわっ!えんじだ!えんじ!」
「ほんとうだ、えんじだー!」
「女が勉学だなんて、ズウズウシイよな!」
「そうだよな、女のくせにー」
男の子が二人ばしゃばしゃと、傘もささずに私の脇を駆けてゆく。跳ねた泥がおろしたての足袋を汚す。それで私はまた一層深く、番傘を被りなおすのだった。
女が漢字の名前を持っているというだけで、鼻につくと言われるような時代だ。女が高等学校に通っていることは、まだまだ珍しいことだった。その中でも私は、四年制ではなく五年制の学校に通っている。えんじ色のリボンといえば五年生の色と、ここらの人間で知らぬ者はいないだろう。この制服を着て歩いているだけで、後ろ指をさされることも早五年。もう慣れたつもりでいたのだけれど、やはり胸元にえんじというのは余程目立つらしい。先のように野次られることも、この春から一段と増えたように思う。
番傘は良い。低く持てば、顔も胸元の色も隠してくれる。頭上を叩く雨音が心を落ち着けてくれた。
酒屋さんが通りの向こうに見えてきた。そこは母様がお父様のお酒を買うのに懇意にしている酒屋だった。店の主はもういい歳のお爺さんで、私が通りかかるのに気がつくと、声をかけてくださる気さくな方だ。家事の類は全て女中さんに任せている母様だったけれど、お爺さんとお話をするのが楽しいからと、お酒だけは自ら買いに出られる。店主のお爺さんは、それほど明るく気の良い方なのだ。だからその日も、お爺さんがいらっしゃらないかと私は少しだけ番傘から顔を出してみたのだった。
がたいの良い男の人が一人、店から出てくるのが見えた。その人はいつもお爺さんが付けているものと同じ前掛けをしていた。店の前には木箱をたくさん積んだ荷車。彼はその木箱の中の一つをよいと持ち上げ、そのまま店の中へと消えて行った。見覚えのない人だった。最近新しく雇われた人だろうか?確かに力仕事はお爺さん一人では大変だろうと、先日お父様と母様がお話ししてらしたところだった。
私が足を進める間にも、彼は店から出てきては、よいっと箱を持ち上げ店の中へと運ぶことを繰り返した。雨の中傘もささぬ彼の背中は、どんどんと濡ってゆく。その姿に私はつい、番傘を被り直すことも忘れてしまっていた。
酒屋まであと一間となる頃にはもう、荷車はすっかり空っぽになっていた。さきの彼も最後の箱とともに店の中へと飲み込まれたきり。今日はお爺さんはいらっしゃらないのかしら?と仄暗い入り口を覗き込んでみようとして、私は軒下の隅に何やら白い塊があることに気がついた。
「あら...?」
雨粒の向こう側へと目を凝らすと、それはどうやら仔犬のようだった。その子は小さくうずくまり、雨の中ふるふると震えていた。雪のように白かったであろうその毛も、所々土色に汚れてしまっている。
「まぁ...可哀想に」
助けてあげたかった。けれど外にいる生き物に無闇に触ってはいけないと、普段からお父様と母様に口酸っぱく言われていた。お父様の弟は幼い頃に犬に噛まれて病気になって死んでしまったから、お前も気をつけなくてはならないよと。それでもびしょ濡れで震えているその子があまりに不憫で、私は気付けば店の前ですっかり足を止めてしまっていた。すると入り口の暖簾がめくれて、さきの彼が店から出てきた。その手には手拭いと缶詰があった。
背中を丸めて及び腰に、大きな体で恐る恐るというように小さな仔犬に近づいてゆく彼。一歩、また一歩。へっぴり腰になりながらも彼はその犬へと足を進めた。そうして大きく深呼吸をひとつ。彼は仔犬に向かって手拭いをふわりと投げかけた。白いそれははらりはらりと舞い落ちて、仔犬の臀部に上手に着地した。小さく息を呑んだ私の存在に、彼は一切気づいていない様子だった。そのまま彼は緊張の面持ちでそろりそろりと缶詰を地面に置くと、すぐさま大袈裟なほどに後ずさり、ふぅと大きく息をついた。大きな体には似合わないその行動の一部始終に、私は思わずくすりと笑ってしまった。
雨の中、私達はそれぞれ仔犬を見守った。息も殺して見守った。しばらく手拭いの中で震えていた仔犬は、やがておずおずと缶詰に近づくと、そっと口をつけた。
「あぁ」
無意識に声が口からこぼれてしまった。もうすっかり彼と一緒になって仔犬を介抱しているつもりになっていた。けれど思えば今の私は、彼の行動をこっそり盗み見していたようなもの。しまったと顔を上げたその瞬間、彼とはたと目が合った。
怪訝な目をされるかと身構えた私をよそに、彼は驚いたように目を見開いた後、少し照れたようにはにかんで会釈をくれた。雨の中、私達は無言の挨拶を交わした。
通学路は好きではなかった。この制服を着て、胸元にえんじをたなびかせ歩かねばならない時間。後ろ指を刺され続けた四年間。けれどそんなことを人に相談できるはずがなかった。我儘だと言われるに決まっていたから。
ここ一帯の土地を管理する裕福な家に生まれ、十五になる今まで何不自由なく育ててもらった。それなのに、どうしてだろう。ずっと、どこか満たされないような気持ちを抱えて生きてきた。高価な装飾品でも、山盛りのご馳走でも、満たせない何かがずっと足りないように思えていた。まるで何かを探しているような、そんな感覚。けれどそんな事を人に言うには、自分があまりに恵まれた環境にいることもわかっていて。だから毎朝心を押し殺すように歩いていた。何かを探しながら。それが何なのかもわからないまま。けれど、今日は。
優しい瞳。仔犬を見守る彼の姿が、私の目に、耳に...心に、不思議なほどに焼きついた。
番傘を叩く雨音とともに、心の中、ぽっかりと空いたままだった隙間が、少しずつ満たされていくような、何故かそんな心地がした。
しばらく雨が続いていた空に久方ぶりの晴れ間が見えた、そんな日のことだった。通りの向こう、今日もまたあの酒屋さんが見えてくる。水溜りを覗き込んで、手櫛で髪を整えた。口角を上げて、背筋はしゃんと伸ばして。
母様に尋ねてみた所、やはり彼は新しくあの店で働き始めた方なのだそうだ。お爺さんのお孫さんだそうで、最近こちらに越して来て、店の手伝いをしているらしい。
あの日から私は、この道を通ることが楽しみになっていた。運良く彼とまた目が合うなんてことがあれば...そんな期待に胸を踊らせながら酒屋を視界に捉えると、私は今日もわざとゆっくり歩みを進めた。
ずっと、ご学友達が男性の先生方に黄色い声をあげる理由がいまいちわからないでいた。あの先生が男前だ、いやあちらの先生の方が二枚目だと、休み時間になれば教室はそんな話で持ちきりだった。
けれど私はといえば「春野さんは如何ですの?」などと訊ねられても、先生は先生だとしか思えなかった。あの先生は教えるのがお上手で、あちらの先生はお話が面白い、そんな感想しか出てこないのだ。
けれど今ならわかった。彼女達が各々お気に入りの先生が教室に入ってくる前に、いそいそと身だしなみを整える気持ちが。その人の目に映るかもしれないと思うと、どうしようもなく心が弾んでしまう、その気持ちが、今なら。
道を渡れば、酒屋まであと数間ほど。胸に手を当て、深く息を吸って気持ちを落ち着ける。
「ありがとうございました」
低く優しい声が耳に届いて、私は弾かれたように顔を上げた。風呂敷を手にしたお客さんに向かって、彼が深くお辞儀をしていた。
「また来るよ」
ひらひらと手を振ったお客さんが、私が来た道を帰ってゆく。
ゆっくりと顔を上げた彼。あの日のように、目が合った。
気づけば私は酒屋の数間先で立ち止まってしまっていた。彼を見つめたまま。
どうしよう...そう思った瞬間、彼がにこりとはにかんだ。
「こんにちは」
そう言って小さく会釈してくれた彼。
「あ...」
私も慌てて会釈を返す。顔を上げた先には優しい笑顔。ぎこちない沈黙。
「ご、ごきげんよう...!」
どうして良いのかわからなくなってしまって、私はそれだけ言ってがばりとお辞儀をすると逃げるように駆け出した。春の日差しの中、私は風を切るように走った。
水溜りへと力強く踏み込めば、泥水が私の足袋へスカートへと跳ね返る。けれどそんなこと、今はどうだってよかった。心臓がうるさくて仕方がなかった。これまで感じたことのないほどの熱が、体中を駆け巡っているようだった。
また、目があった!
話しかけてもらえた...!
熱い頬、緩む口元、心臓は痛いほど。
長いスカートに足が取られる。
風呂敷に包んだ教科書がずれ落ちてしまいそう。
また明日、また明日...
明日また会えたら、今度は何と声をかけよう。
酒屋を過ぎて曲がり角を曲がるまで、私は立ち止まることなく走り抜けた。まだ店先で彼がこちらを見ているかもしれない。本当は振り返って確認したかった。
けれどそんな事、とてもできそうになかった。
きっと私の頬は今、遠くからでもわかってしまうほど鮮やかな色をしているだろうから。
「学校のない日でも、彼に会いに行く口実...なんてものはないかしら」
その日の空はさんさんと晴れていて、出かけずにいるのが勿体無いくらいの天気の良さだった。隣の部屋では乳母様が弟のお世話を、母様は庭先で近所のおばさま達とおしゃべりをしていた。居間には畳に寝転がって居眠りをしているお父様。
「毎日通りかかるお店ですもの、中がどうなっているか少し気になって...というのはどうかしら」
ぐうぐうと呑気にいびきをかいているお父様も、大枚を叩いて女学校に入れた娘が、勉学ではなく登校する道すがらを一番の楽しみにしているだなんて知ったら、卒倒してしまうかもしれない。
女中さん達の目を盗んで、私は箪笥からできるだけ大人びたスカートを引っ張り出した。母様のいぬ間にと化粧台を漁って紅も拝借した。
菜の花色のスカートに、白いシャツ、赤い紅...よし。
「ご学友のお家に呼ばれて参ります」
誰にともなくそう伝え残すと、私はこっそりと家を抜け出した。
休日ということもあって、酒屋はかなり賑わっていた。しばらく遠くから様子を眺めていても、出入りしているのは大人か、子どもであっても大人に連れられた者ばかり。私のような年頃の娘が一人でいる様子はなかった。彼に会う以前に、そのような場に一人で入ってゆくこと自体がまず、私にとっては敷居が高いように思えた。
「覗くだけ。ちょっと覗きに寄っただけよ...」
母様の化粧台で整えた髪を、もう一度手櫛で解かす。憎いほどの晴天、姿見代わりの水溜まりも今日は影もなかった。
「あぁ、近頃お会いできていないお爺さまがどうなさっているのか気になって...というのも良いかもしれない」
紅はよれてしまっていないだろうか?格好はおかしくないだろうか?
「大丈夫、大丈夫...」
大人の中に紛れてもおかしくないように、目一杯のおめかしをしてきたつもりだ。よもや学生だなんて気づかれもしないかもしれない。制服姿でないのだから、お爺さんだって私だとわからないかもしれない。
「そう、きっと大丈夫よ」
深呼吸をひとつ、私は震える足で酒屋へと近づくと、ついにその暖簾をくぐった。
店内は独特な匂いで満ちていた。天井までの大きな棚が店の奥まで何列も続いていて、見たこともないほどの種類のお酒が棚の端から端まで所狭しと並んでいた。お父様くらいの年の男の人達が、こちらでは談笑しながら、あちらでは難しいお顔で酒を物色している。
ぐるりと店内を見回してみるけれども、彼の姿は見当たらなかった。大きな棚で見えないだけで、店の奥の方にいらっしゃるのかもしれない。私はおじ様方の間を縫いながら、奥へ奥へと足を踏み進めた。
棚を三つほど通り過ぎた所、勘定場が見えてきた。そこに見つけた、彼の姿を。
「あ...」
私は急いで棚に身を隠した。彼の顔は隠れてしまったけれど、棚の酒瓶と酒瓶の隙間から、逞しい腕が見えた。大きな手が丁寧に酒瓶を包む。その所作の一つ一つを私は息を呑むようにひっそりと見つめた。大きくゴツゴツとした手が、新聞紙に包んだ酒瓶を...
「ちょいとごめんよ」
「あっ」
黒い着物のおじ様が、身を縮こめ私の後ろを通り抜けて行かれた。棚と棚の間隔は大人二人が身を捩ってすれ違うのがやっとなくらいの広さしかない。
ただ棚の裏に隠れているだけでも何度も「ごめんよ」と押しのけられているうちに、私はいつの間にか店の角へと追いやられてしまった。
棚に隠れて彼の姿はもう見えない。ふと見下ろした先、そこに小さな脚立を見つける。棚の一番上の酒を取る時に使うのだろうか?ふと思い立ってそれに登ってみれば、一尺は高くなった視界。彼は依然見えなかったけれども、代わりに店の棚をぐるりと見渡すことができた。
お酒というのはそれだけで、こんなにも種類があるものなのだ。暖簾を一枚くぐっただけで、ここはすっかり私の知らない世界だった。埃っぽく薄暗い店内、ずらりと難しい漢字が書かれて並ぶ酒瓶。十五やそこらの女学生はどう考えても完全に場違いだった。
ついさっき棚の隙間からちらりと覗いた彼。これまでで一番近かった彼。いくつなのかはわからないけれど、私より随分と大人なように見えた。
「お嬢ちゃん、ちょいとそれ、良いかね」
「あっ、ごめんあそばせっ...」
先の黒い着物のおじ様が私が乗っている脚立を指差していた。私は慌てて飛び降りると、それを譲った。
「お嬢ちゃん」と言われてしまった。やはりどれだけ背伸びをしてめかし込んでみても、私はちんちくりんのお子様にしか見えないのかもしれない。勢いで来てしまったけれども、どうせ彼に話しかける勇気もなかった。休日の酒屋さんがこんなにも賑わうものなのだということも知らなかった。混み合った店内で、冷やかすだけの私がいては迷惑になってしまう。
一目見られただけでもよかった。また平日になれば私はこの店の前を通る。運が良ければまた彼の姿が見られるかもしれない。ひょっとすれば目が合うこともあるかもしれない、会釈だってしてもらえるかもしれない。それだけでも良いじゃないか。
「もう帰りましょう」
「すみません」と何度も呟きながら、私は狭い棚とお客さん達の間を通り抜けた。出口の方へ向かって何度も体を捻り、ようやっとあともう一歩。店へ差し込んでいた春の日差しが、磨いたばかりの私の靴のつま先を照らした...その時だった。
「こんにちは」
背中から降ってきた声に、思わず体が硬直する。低くて優しい、あの、声だった。恐る恐る後ろへ振り向けば、頭の上に彼の笑顔があった。
「お使い、ですか?」
急いで目を伏せれば、逞しい胸板が目の前に。突然のことに彼の言葉の意味を理解するのに寸刻かかってしまった。
「あ、はい。あの...そう、なんです」
咄嗟のことに思わず、嘘が口をついて出た。罪悪感に恐る恐る彼の顔色を伺う。けれど彼はすっかり信じた様子で、くいとその眉を上げ首を傾けた。
「どんなお酒かな?」
「あー、えっと...」
お酒のことなんて、てんでわからなかった。それにお金も持ち合わせていない。そもそもお酒がいくらくらいするものなのか、それさえ私は知らないのだ。
「お酒の種類はわかるかい?」
「あの...瓶、の...」
「瓶?うーん、焼酎だろうか?」
「ショウチュウ...あの、あ、忘れてしまったので、その...もう一度聞いて参ります!ごめんあそばせ!」
大慌てでそう捲し立てた私に、彼は優しい目を弓なりに細めて笑った。
「そうですか。じゃあまた、待っていますね」
「あ、はい...ま、また!」
小さくお辞儀をすると私は急いで店を飛び出した。
薄暗く埃っぽかった店内から、日の光の下へと躍り出る。
くらりと眩暈がするほどの眩い春の中を私は夢中で駆けた。
三件先の角をまがって、物陰に身を隠す。
「はぁっ、はぁ...」
胸の前で握りしめた両の手がふるふると震えた。暖かな空気が肺を満たしては逃げていく。
「あぁ...」
口元を押さえれば、手のひらに鮮やかに紅がついた。
頑張って背伸びをした甲斐があった。彼とあんなにも近くで話せた。またと、言ってもらえた。
店の中が薄暗くて本当によかった。今の私はきっと、この紅と同じくらい真っ赤だろうから。
そわそわと浮き立つ心を、気持ちの良い日差しがどこまでも暖めた。その日私は、彼との短い会話を何度も反芻しながら、ゆっくりと家路をたどった。
学校帰り、その日の私はまっすぐに酒屋へと向かっていた。手には母様にいただいた、お酒の銘柄が書かれた紙切れを握りしめて。鞄には預かった大切なお金。
今朝母様が酒屋に行くとおっしゃっていたものだから、ならば私がとおつかいを買って出たのだ。
今日は本当に一瞬で授業が終わってしまった。帰りに酒屋さんに寄るんだ、彼に会いに行くんだ。今日は嘘じゃない、本当にお使いに行くんだ...そんなことを頭の中で繰り返し唱えていたら、一日があっという間だった。
また彼に会える。嬉しいけれど、それと同じくらいとても緊張していた。何と声をかけよう。
いつもなら弾む酒屋への足取りも、騒がしい心臓のせいで、一歩踏み出すだけでぐらりと地面が揺れるようだった。
それでも歩いていれば自ずと辿り着いてしまう。通りを渡った所、酒屋さんまであと数間。毎朝通る場所なのに、この後彼と話すのだとわかっていると一歩踏み出すだけのことにも心の準備が必要だった。もう一度頭の中で、彼に話しかけるために練習した言葉を反芻する。
「すみません、お使いを頼まれて参ったのですが...お使いを、頼まれて参ったのですが」
紙切れを開いて見返す。
「月明蔵。緑色の瓶...濃紺の字のラベル...」
深く息を吸っては吐きだす。何度もそれを繰り返す。
「大丈夫。だいじょ...」
「やぁ」
私の独り言を遮るように聞こえてきた声。はっと顔を上げると、そこには暖簾に手を掛けこちらを覗く彼がいた。どうしよう、いつから見られていたのだろうか。
「ご、ごきげんよう!...あ、えっと...」
突然の出来事に頭が真っ白になってしまった。あんなに練習してきた言葉は、喉の奥につかえてしまって一向に出てこない。私がぐずぐずしている間も、彼が優しい表情でこちらを見ているのがわかった。
前掛けからすっと伸びる長い脚、黒い半袖を捲った逞しい腕。全てにドキドキしてしまって、私は金魚のように口を開けては閉じ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
「今日こそお使い、かな?」
「あ...お使いっ...そう、なのです!」
助け舟を出してもらってやっと、金縛りが解けたかのように体が言うことを聞いてくれた。どうにか彼に駆け寄ったはいいけれど結局台詞は浮かばぬまま、私は震える手で紙切れを手渡した。汗でくしゃくしゃになってしまったそれを開いて確認すると、彼は私に手招きをして、暖簾を捲ってくれた。
あの紙にはお酒の銘柄しか書かれていない。棚にずらりと並べられた数多の酒瓶の中のたった一つ。そんなもの、名前だけでは見つけられるわけがないと、そう思っていた。だから彼に聞かれたら答えられるように、瓶の色やラベルの特徴まできちんと覚えてきた。
それなのに、彼はといえば棚と棚の間を迷いなく進んでゆくのだった。そうして彼が立ち止まった棚。その一番上の段には見事に、家でよく見るお父様お気に入りのお酒があった。何度も練習した「緑色の瓶」も「濃紺の字のラベル」も、どうやら必要なかったようだ。
「よいせっと」
彼が棚の上へと手を伸ばす。一番高い段にあの脚立にも登ることなく手が届いてしまった。
「これで間違いないかい?」
「はいっ、それです」
「一本でいいのかい?」
「あ、はい。一本で...」
「それに包めば良いかな?」
「お、お願いします」
言われるがまま風呂敷を差し出すと、彼はそれを受け取って爽やかに笑った。そのまま広い背中が勘定場へと向かう。私は慌ててその後を追った。
あの日棚の隙間からひっそり見つめた彼が、今日は目の前にいる。大事に持っていたお金を差し出すと、指先が彼の手にちょんと触れる。それだけで口から心臓が飛び出してしまいそうな心地がした。
ゴツゴツと骨張った手が、新聞紙で丁寧に酒瓶を包んでいく。無言の時間。本当はもっと何か話したかったけれど、緊張で言葉が出てこなかった。
手際の良い手が風呂敷を広げた。あぁ、もう終わってしまう。今日一日中ずっと楽しみにしていた。それなのに、あまりに一瞬だった。風呂敷の持ち手を彼がぎゅっと結ぶ。「ありがとうございました」と頭を下げようとしたその時、勘定場奥の暖簾がめくれて、そこから誰かが顔を出した。
「おやおや、お嬢ちゃんじゃあないか」
私に向けられたしわがれた声。それは久々のお爺さんのものだった。
「あっ!お、お久しぶりです!」
「やぁやぁ、お使いかい?」
「はいっ」
「そうかそうか、偉いねぇ」
私達が会話しているのを、彼は手を止め不思議そうに見ていた。
「爺ちゃん、この子と知り合いなのかい?」
「知り合いも何も、この子はお得意様の娘さんだよ」
「あぁ、そうだったんだねえ」
すると彼は私に向き直り、一層親しみを込めた笑みを向けてくれた。それだけで顔がみるみる火照ってゆくのを感じる。
「そうだ春吾郎、今日は店のことはもう良いから、ハルノちゃんを家まで送って行ってやりなさい」
そんなことを言って、よいせと勘定場へ出てくるお爺さん。その親切心に心臓が飛び上がりそうになる。
「あぁ、もちろん」
そう言って笑うと、彼は包み終わった風呂敷をよいっと持ち上げた。
それからお爺さんと春吾郎と呼ばれた彼は、しばらく何やら話をしていた。けれど私はといえば心臓の音がうるさくて、二人の会話なんてまるで耳に入ってこなかった。
ただそこに突っ立って、ぶぁぁぁっと全身を血が駆け巡るのに身を任せていた。体の熱という熱が、色々な感情を掻っ攫って顔に集まるような感覚。驚き、喜び、照れ、気恥ずかしさ...体の中心がぐらっと揺れるような、そんな感覚。
「じゃあ、ハルノちゃん。毎度ありがとうね」
名前を呼ばれてハッと我に返る。いつの間にか彼が私の隣に立っていた。
「えっ、あ、ありがとうございますっ」
「お母さんによろしく伝えておいてくれね」
「はい!」
「では春吾郎、ハルノちゃんを頼んだよ」
「うん。それじゃあ、行こうか」
そうして私はいつもの道を彼と並んで帰ることになった。前掛けを取った彼の姿を見るのは初めてだった。
本当に迷惑ではなかっただろうか、お酒は重くないだろうか、歩くのが遅すぎやしないだろうか。いろいろなことが気になって、頭の中が忙しい。
「君は、あそこの女学校に通っているんだよね?」
「あ!えぇ、星川女学校です」
「やっぱりそうだよね、その制服」
「あ、はい」
「あの雨の日、僕が犬と格闘するのを見ていたの、あれ...君だよね?」
「そ、そうです!はい!」
「そうかそうか。いやぁ恥ずかしいところを見られてしまった」
そう言って彼ははにかみ俯いた。その一挙手一投足が心臓に痛いほどだった。
「春吾郎さんはその...犬がお嫌い、なんですか?」
「え?」
一瞬ぽかんとしたかと思うと、彼は声を出して笑った。
「ははは...いやぁ、犬ね。可愛いとは思うんだよ?けれどね、小さな頃に一度噛まれてしまったことがあって。こう、太もものところを思い切り」
「太ももを?」
「爺ちゃんが飼ってた犬がいたんだよ。ゴンという黒茶色の大きな犬でね。それが軒先で寝ていたんだ。軒先の床とゴンは本当に、全くと言って良いほど同じ色をしていてね?」
「えぇ?」
「それはそれは見事に床のような色をした犬だったんだよ。それで僕はある日、ゴンに気づかずに思い切り尻尾の上に座ってしまったんだ」
「あぁ、それで」
「そう、それで、がぶりと。あれ以来、犬は見ている分には良いのだけれど、近づくのはどうにも怖くなってしまってね」
「だからあんなに...」
あの時の彼を思い出して、思わず頬が緩んでしまった。すると彼が隣から恨めしげにこちらを見下ろす。
「あんなに...なんだい?」
「あっ、えっと、あんなに...その...慎重でいらしたんだなあと」
どうにか取り繕ったつもりだったのに、彼は吹き出すように笑った。彼は笑うと目尻に深く皺が寄るのだった。
「さすが星川女学校、えんじの五年生だね。勉学に励んでいるだけある。言葉がするすると出てくるね」
彼のその言葉に、私は思わず身がすくむのを感じた。「えんじ色」と指さし笑う声が咄嗟に脳裏に蘇ってしまって。
「ん?...どうしたんだい?」
「え、あぁ」
こちらを覗き込んでくるその表情からするに、彼に悪気があったわけではないことは明らかだった。けれど私がすっかり動揺してしまったせいで、会話の調子はすでに狂ってしまっていた。彼が心配そうな目をしている。せっかく楽しく話をできていたというのに、私ときたら。
「どうしたんだい?何か...おかしなことを言ってしまったかな?」
「あ、いや...」
なんでもない、と誤魔化してしまおうと思った。けれど彼の瞳にはまるで不思議な引力があるかのようだった。その深い色の目で見つめられれば、聞かれるままペラペラと言葉を吐いてしまいたくなるような、そんな不思議な力が。
だから私は気づけばぽろりぽろりと色々なことを彼に話してしまっていた。家族にもしたことのないような話を、えんじのリボンをどうも好きになれないことも。
「どうしてだい?えんじ色のリボン、とても可愛らしいじゃないか」
「けれど、このえんじ色のせいで、外ではいろいろ言われることもあって」
「...そういう輩もいるんだね」
「通わせてくださっているお父様には、とても感謝しているんです。けれど自分でも時々、この制服を嫌だと思ってしまうことがあって」
「そうなんだね...」
私が話す間ずっと、彼は真剣な顔で頷いてくださった。ただそれだけのことで、不思議なことにもう既に、心が楽になっているのを私は感じていた。
「けれど僕はね、その制服、とても格好良いと思うよ?」
「格好良い...ですか?」
「あぁ、とてもね。それに勉強することは素晴らしいことだよ。どうして負い目を感じなければいけないのか。むしろ胸を張っていいことだと僕は思うよ」
彼はそう言うと、あの優しい笑顔でこちらを覗き込んだ。
女が勉学をする。そのことを良しとしない人も世の間にはたくさんいる。それは確かなことだ。だからといって、せっかくお父様に買っていただいた制服なのに、それを着て外を歩くたび肩身が狭く感じてしまう自分がずっと嫌だった。けれど。彼に一言「胸を張っていい」と言ってもらえた、それだけでなんだか、これまでの悩みなんて全てとてもちっぽけなことのように思えてしまった。私のこれまでの努力それごと、報われたような気さえした。なんだか涙が出てきてしまいそうなほどに。
「ありがとう、ございます」
「いやいや。それにしても学校かあ、懐かしいなあ」
その目が昔を懐かしむように細められる。私のことを話してばかりだったけれど、私も知りたかった。彼のことを、できるだけたくさん。
「春吾郎さんはどちらの学校に通ってらしたんですか?」
「横瀬の方の学校にね。それもまぁ高小だから、君みたいにすごい学校ではないのだけれど」
「高小と言うと...」
「小学の後の二年制だから、僕は君の歳の頃にはもう横瀬の工場で働いていたことになるね」
「横瀬の方からこちらへは、どうしていらしたのですか?」
「あぁ、しばらくは、あちらで働いていたのだけれどね。去年の終わり頃に、爺ちゃんが腰を悪くしてしまったと聞いて」
「なるほど、それで」
「あぁ、それに実家は元々こっちにあったからね。爺ちゃんが店を頑張っているのは小さな頃から見ていたんだ。子どもの頃の遊び場だったあの店が潰れてしまうと思ったら、どうにも居た堪れなくてね」
「そう、なんですね...」
「それにやってみたら、酒屋の仕事というのはなかなか性に合っていてね」
深く話すのはこれが初めてなのに、彼は私が聞けばなんでも気さくに答えてくださった。私が話せば微笑みながら優しく相槌を打ってくださるのが心地よかった。私達はその日家に着くまで、本当にいろいろな話をした。
彼の名前は林春吾郎。今年で二十になる酒屋の孫で、物静かな雰囲気に対して本当によく笑う人だった。
あれから度々買って出るものだから、酒屋へのお使いは段々と私の仕事になっていった。
「血は争えないわね。春野までこんなにもお爺さんに懐いてしまうだなんて」
お酒代を私に手渡しながら母様がおっしゃる言葉に、私はただ曖昧に頷くことしかできなかった。
私が店に顔を出す度に、春吾郎さんは私を家の近くまで送ってくださった。
「そろそろ桜が咲きそうですね」
季節はちょうど春の始まり。桜が蕾を膨らませる頃になっていた。
「そうか、もうそんな季節か...」
まだ少し寒そうな桜の木を見上げる春吾郎さんの目が、緩やかに弧を描いた。
「そういえばね、店の近くに美味い団子屋があるんだ。春には桜餅が出ると店主が言っていた。桜が咲いたら、それを買って一緒に花見をしないかい?」
それはつまり、彼が仕事以外で私に会ってくれるということだった。
「よろしいのですか!?」
「ははは、僕の方が誘ったんだよ?」
「ぜひ!桜餅!ぜひ!」
「ハルノがそんなに桜餅を好きだったなんてね」
冗談ぽく笑った横顔。私の心臓はトクトクと弾み始めて姦しいほどだった。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
桜はそれから程なくして蕾を綻ばせた。酒屋の前で待ち合わせて、私達は約束通り二人で団子屋さんへ行った。笹に包まれた桜餅を買って、近くの柳川へと向かう。川岸には桜の木が連なるように咲き乱れ、花びらをはらりはらりと落としていた。人々は立ち止まり花を見上げたり、水面の花びらを掬い上げたり、袂で宴を開いてみたりと、それぞれの形で桜を愛で楽しんでいる。私達は二人、並んで地面に腰を下ろした。
「桜がこんなに綺麗なんですもの。立ち止まらずにはいられませんよね」
「そうだねぇ。けれどこれでは...」
隣で眩しげに桜を見上げていた彼の顔が、すっと伏せられた。
「桜ばかりちやほやされてずるいと、草花達が嫉妬してしまうね」
彼の視線に誘われるように足元へと目をやれば、そこには黄色や白の小さな花達が可愛らしく花開いていた。
おもむろに、彼がその中のいくつかをひょいと摘んだ。そして膝の上にそれらを寝かせては、端から編み始める。
大きな手の中でみるみるうちに花が編み上がっていった。出来上がったそれは花冠だった。控えめながらも、とても可愛らしい花冠。
「よっと」
彼の大きな手が、私の頭にその花冠を乗せた。頭の上、くすぐったいような感覚。小さく首をすくめた私を見て、彼がくしゃっと笑った。
「天使みたいだ」
染まった頬の赤さで彼への気持ちに勘付かれてしまいそうで、私は何も言えぬまま俯いた。
春吾郎さんはその大きな体に似合わず、手先が器用な人だった。彼が編む花冠も、地面に木の枝で描く絵も、まるで芸術家のそれのように上手なのだ。
その一方で私はといえば、そういった類のものはてんで駄目だった。見様見真似で編もうとする花冠は端からほろほろとほどけていくばかりだったし、彼の絵の隣に何か描こうとしてみても丸!線!丸!曲線!とまるで赤子の落書きだ。
「私も春吾郎さんみたいに器用だったらよかったのに」
私が口を尖らせそう溢すと、彼は爽やかに笑った。そして膝を抱えた腕に頬を乗せ、私の顔を覗き込むのだ。
「それなら絵も花冠も僕が教えてあげよう。また二人でここに来よう」
彼にしてみれば何ということなく言ったのであろうそんな言葉にも、私の心臓はたちまち早鐘を打ち始めるのだった。次また二人で出かけるための口実を彼が口にしてくれたことが、私はどうしようもなく嬉しかった。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
それから私達は、度々柳川に足を運ぶようになった。桜が咲くのはあまりに一瞬で、いつだって名残惜しいものだ。私達は春が過ぎてしまってからも、二人で桜の木を見上げていた。
花は散っても目に眩しいほどの緑の隙間に、空の青がちらつくのもまた美しい。満開の頃には皆一様に足を止め桜を愛でるのに、季節が過ぎれば誰も気に留めなくなる。だから桜が散ったこの木の下はもう、私達だけの空間になっていた。
「いつも構ってくださって、ありがとうございます。春吾郎さん、お忙しいのに」
ある爽やかな初夏のことだった。私がそんなことを言うと、彼が私の目を見て言った。
「ハルノ、手を出してみて?」
言われた通りに手を差し出すと、彼の指が私の手に触れた。じんわりと指先から伝わる温もり。それは名残惜しいほどに一瞬で離れていった。
見れば私の指には白詰草と四葉で編んだ可愛らしい指輪。とても嬉しくて、私はお礼を言おうと顔を上げた。そこにはいつも通り、彼の笑顔があるものだと思っていた。けれど彼は、その時の彼は、見たことのないような真剣な顔をしていた。
「春吾郎さん?」
「ハルノ」
「はい」
「僕はどうやら...君のことを、好きになってしまったみたいだ」
真っ直ぐな深い色の目に、私が映っているのが見えた。彼の声は心なしか震えていた。
「最初は花を見に君を誘っていたはずなのに、君を知ることに夢中になっているうちに桜も散ってしまって。それでもここで君と話す時間がとても大切で、もう眺める桜もないのに君を誘ってしまって」
木漏れ日がちらちらと私達を照らしていた。二人きりの世界。優しい風が悪戯に私達をくすぐっては去っていく。彼の黒く焼けた肌が珍しく赤く染まっているのが、なんだかとてもいじらしかった。
「桜がなくったって...私は春吾郎さんに誘っていただけて、嬉しいです。花見じゃなくたって、何だって、春吾郎さんが誘ってくださるなら」
目も見れずに俯いたまま一気に捲し立てると、彼が息を呑む音が聞こえた。
「なぁ、ハルノ。僕と、一緒になってくれないかな?」
まるで熱に浮かされたような心地がした。思ってもみないことだった。耳に入ってきた言葉が全て夢みたいで。けれどこれが現実なのだとしたら、頭に浮かぶ返事なんて、私が口にすべき言葉なんて、ただの一つしかなかった。
「はい」
消え入りそうな声でそう囁けば、彼は安心したように深く息を吐いた。そして私の手を、彼の手がそっと包み込んだ。温かくて大きなその手。初めて手を取られたのに、彼の手には何故か懐かしさがあった。いつまでも包まれていたいと欲をかいてしまうような、そんな懐かしさが。
「ありがとう」
「こちらこそ、です」
初夏を迎えた桜の木の下、私はそうして、彼だけのものになった。