地下鉄の窓に映る僕の表情には緊張感が張り付いていた。ワックスで整えた髪、慣れないオフィスカジュアルな服装。電車を三回乗り継いで、辿り着いたのは見上げるほどの高層ビルが乱立する街だった。

あれから僕は、あのメールをくれた人と連絡を取り合うようになって、そして今日、会う約束をしていた。三十分も早く着いてしまって、僕は待ち合わせ場所でそわそわと時が過ぎるのを待った。


「林春吾郎さん...ですよね?」


弾かれたように顔を上げた先に、スーツを着た若い男性が立っていた。林春吾郎、それは僕のペンネームだ。




僕が書いたあの物語を小説として出版しないか?それがあの日のメールの要件だった。思ってもみない話だった。ただ自分がハルのことを忘れたくなくて書き留めていただけの物語。誰に読まれるわけでなくともいいと思って書いた物だった。だから最初は、どう返事をしようか迷った。
 

けれど、考えてみたのだ。ハルはいつか、人として生まれ変わる。この世界に再び、形を変え記憶を失い、生まれ落ちる。
もしもそんな彼女が、偶然にでもあの物語に出会うようなことがあったら。何かの拍子に手に取って、そして何か思うところがあったりしたら...そうしたら、もう一度彼女に会えたりするかもしれない。そんな淡い期待が浮かんで、それで僕はこの話を受けることにしたのだ。




百瀬出版が間借りしているというオフィスに、僕は通された。白を基調とした会議室、最後の晩餐のような長机に椅子が何脚も並んでいた。


「はじめまして。私、百瀬出版社の伊丹と申します」


そう言って丁寧に差し出された名刺。担当者は感じの良さそうな、僕と同い年くらいの好青年だった。改稿作業中メッセージのやり取りで感じていた誠実そうなイメージは間違っていなかったようだ。
本格的な出版時期について、装丁について話す中で、僕には一つ彼にダメ元で頼みたいことがあった。話がひと段落したところを見計らって、僕は持参したキャンバストートから一枚の絵を取り出した。それはあの日の絵だ。キャンバスの中で、花冠を頭に乗せて緑を背景にこちらへと手を伸ばした彼女が微笑んでいる。


「もしも可能であれば、なんですが、無理なことを言っているのは承知の上なんですが、本の表紙をこの絵にしていただくことなんてできないでしょうか?」


この話を受けることにしたその時から、そうすることができたのなら、どれだけ素敵だろうと思っていた。僕と彼女の物語の上で、彼女が笑ってくれたのなら。


「この絵を...表紙に」

「無理そう、でしょうか?」


一刻逡巡した彼だったけれど、すぐに顔を上げて口を開いた。


「これ、物語の中に出てきた絵ですよね。とっても素敵な案だと思います。持ち帰って、上に確認させていただいてもよろしいですか?」





それからあの物語は本当に僕の絵を表紙絵にして出版された。春の日差しの中、青々とした桜の木の下、花冠の彼女が笑顔でこちらを振り返る、そんな絵を表紙に。背表紙は若草色。「春の精」やわらかなフォントのタイトルが、空に滲むようなデザイン。
彼女がいなくなって六年。僕と彼女の物語が、書店に並ぶことになった。





「春の精」をきっかけに、僕は少しずつ小説の表紙絵を描く仕事をもらえるようになった。誰かの手に取ってもらえるように、たくさんの物語達の手助けができているようで、それが嬉しかった。そしてそこから徐々に別の絵の仕事も。僕はやがて広告代理店を辞めて、絵一本で生きていけるようになった。
あの六畳一間は解約せずに、桜が綺麗に咲く場所にもう一つの家を建てた。気まぐれに、泊まりたい方の家に泊まって、絵を描いて、そんな風に生きた。


僕の願いは叶ったと言えるだろう。彼女以外にも、僕の絵で喜んでくれる人ができたのだ。だからどうか、彼女も。僕のために積んだ天使としての徳が認められて、どこかで幸せに生きていればと願う。そしてひょっとしたらいつか、僕の小説を読んだり、絵を見た彼女が何かを感じて、僕に連絡してくることがあったりするんじゃないか。そんな期待を抱いて僕は命の限り描き続けた。


けれど結局、僕が生きている間に彼女から連絡が来ることはなかった。





享年九十二歳。大往生だった。