四月のキャンパスは華やいだ空気で満ちている。桜の木はちらちらと花びらを降らせ、新入生達を歓迎する。
僕だって、その新入生の中の一人のはずなのだ。それなのに、カフェテリアでパラソルの影にぽつんと座った僕は、なんだか取り残されたような気分でいた。まるで真っ暗な部屋で一人、テレビ画面にうつる煌びやかな世界を虚しく見つめているような、そんな心地だった。





 
それで僕は、リュックからノートと筆箱を取り出した。夢に踏ん切りをつけるために。今度こそキッパリと夢と決別して、前を向いて新生活を歩むために。




 

軽くアタリをつけながら構図を取って、そこに少しずつ春を描き足していく。木漏れ日の遊歩道、淡く連なる桜並木。こんもりと実った色が優しく揺れて、はらはらと散る花びらに日の光が躍っている。情景それごと閉じ込めるように、僕は手を動かす。けれど書き進める手はだんだんと重くなっていく。自分に嫌気がさしてくる。目の前の春はこんなにもきらめいて魅力的なのに、ノートに閉じ込められた春にはそれがない。僕の絵には魅力がない。けれど自分の絵のどこがいけないのか、僕はついぞわからないままなのだ。「ほら見ろ。お前には才能がないんだよ。そんな夢、諦めちまえ」心の奥で、僕が僕のことを嘲笑う。あと一息だった。絵描きになる夢なんて諦めて、まともな大学生に擬態するんだ。そう決心しかけたその矢先、顔を上げた先に見えた情景に、そんな考えは一瞬で吹き飛んでしまった。

僕から少し離れた席に、女の子が一人座っていた。肩口で緩くカーブを描く柔らかそうな髪、桜のような淡い唇。日の光にどこまでも透き通るような肌、カラメル色の瞳。その子はいつの間にか音もなく現れて座っていた。きらきらとした春の中にいてもなお、彼女は眩いほどだった。このまま春に溶けて消えてしまっても不思議じゃないような儚さをまとって。彼女はテラスの外の桜並木を、眩しそうに眺めていた。
 
『春の精』
 
今僕が見ているこの情景を絵に描いたのだとしたらきっと、タイトルはこうだ。
 

あぁ...何故だろう、どうしようもなく。
描きたいが、頭を、もたげてしまった。


それで僕はバレないように彼女を盗み見ながら、再びノートに鉛筆を走らせ始めた。背景なんてそっちのけ、画角の中心に彼女を。遠慮がちに座る姿、なめらかな首のライン。風に軽やかなその髪、きゅっと上がった口元。彼女の瞳に映る世界、そこに広がる春。いつしか僕は、ノートに覆い被さるように絵の中の彼女と睨めっこをしていた。
だから気づかなかったんだ、あまりに夢中で。突然、僕の耳元で弾むような声がして、僕は飛び上がった。


「それ、私ですか?」


弾かれたように顔を上げると、そこには絵に描いていた彼女が、いた。心臓がまるで締め付けられるみたいにきゅっと鳴った。


「私、ですよね?」


僕が突然のことに声も出せずにいると、彼女は小さな両手を胸の前で合わせて更に僕のノートを覗き込んだ。


「すごい、上手ですね!」


長い髪の影になってなお、その瞳はキラキラと輝いて見えた。僕の絵が誰かの目にそんな風に映してもらえるのなんて、久しぶりのことだった。


「...ぁ、ありがとうございます」


どうにか絞り出した声は、変にうわずってしまった。みるみる顔が赤くなっていくのを感じる。それなのに、僕が挙動不審なことなんて一切気にしていない様子の彼女は、やたら可愛らしい笑顔を傾けて今度は僕の顔を覗き込んできた。


「でも、どうして私を?」

「えっ...?」

「どうして私を、描いてくれたんですか?」

「えっ、と」


絵の中の何倍もイキイキと、何十倍も可愛らしい笑顔が眩しいほど。なんだか目が眩んでしまって、彼女の顔を直視できなかった。彼女が着ているセーターが目に入って、それで僕はついちょっとおかしなことを口走ってしまった。


「あ、いや、あの...ウチの犬にすごく似てて、それで...」

「犬?」

「いや、君が犬みたいってことじゃなくて!なんかその服が、ふわふわしてて、うちの犬に色も似てて、それで...」

「ぷっ、くはははは!」


弾けた。
そう、思った。弾けるように笑うのだ、彼女は。


どうして良いかわからずオロオロするばかりの僕を置き去りに、彼女はひとしきり笑った。彼女が「ふふふ」と音を立てるたび、少し苦しそうに息継ぎをするたび、まるで透明な花が彼女の周りを彩るかのようだった。やがて目元に浮かんだ涙を拭うと、彼女は僕に向き直ってこう言った。


「それ、ください!」

「へ?」


目の前に差し出された小さな手。
我ながらマヌケな顔をしていたと思う。


「ください!出演料!」

「えっ、あっ...はいっ」


言われるがまま、僕は急いでノートからページを切り離し差し出した。すると彼女は嬉しそうにそれを受け取り、そしてそのキラキラとした目を忙しく僕の絵に這わせるのだ。「わぁ」と静かに漏れた吐息が、心にくすぐったかった。
暖かな木漏れ日がスポットライトのように、彼女を照らしていた。それだけでなんだか一枚の絵画のようで、僕は彼女から目が離せなかった。


「本当に、素敵...ありがとうございます」


感動したようにそう囁くと、彼女は僕が描いた絵を心底大切そうに胸に抱えた。そして、やっぱり弾けるように笑うのだ。





本当に、久々だった。コンテストに出すために、賞に選ばれるために描いたわけじゃない絵。ただ描きたいと思ったから描いた絵。そんな絵に誰かがこんなにも喜んでくれたこと。
そうだった。最初はただこんな風に僕の絵で、誰かを笑顔にできればと夢見ていたんだった。だから僕は絵描きになりたいと、そう思うようになったんだ。


けれど現実は厳しくて、何度も心折れるうちに大切なものはどんどん見えなくなっていって。突きつけられた現実、自分の才能のなさにどうしようもなく苦しくなってしまって。だから僕は逃げるようにこの夢を諦めることにした。
それなのに。そんな顔をされちゃまた踏ん切りがつかなくなるじゃないか。


「お礼に、これ!」


そんな僕にはお構いなしに、彼女は何かを差し出してきた。その手の中にはスマホ。画面には彼女の連絡先のQRコードが表示されていた。


「今日はこの後用事があるんで時間ないんですけど、今度お礼させてください」
 

女の子に連絡先を聞かれる。人生で初めてのそんな経験に僕はすっかり気が動転してしまった。
 

「え?いや、お礼なんて。僕が勝手に描いただけですし」

 
僕が挙動不審にそんなことを口走れば、彼女の悲しそうな目が僕を見上げた。


「それって、連絡先交換してくれないってことですか?」

「あっ、いや...」


それで気圧されるように僕は、気づけば彼女と連絡先を交換することになっていた。自分から言い出しておきながら、恥ずかしそうに俯いたままスマホを操作する彼女は、何故か耳まで真っ赤にしていた。
こうして僕のスマホに、大学に入って初めて新たな連絡先が追加された。彼女に名前を尋ねようと口を開いたその時。


「じゃあ!」


突然そう言って小さく手を上げると、止める間も無く踵を返し、彼女はカフェを出て行った。


「えっ、あ...じゃあ...」


柔い花のような香りだけがその場に残された。小走りに遠ざかってゆく彼女。暖かな風に舞った淡い色の花びらが、そのセーターに髪にといくつも留まっていた。本当に妖精か何かなんじゃないかと思いながら、駆けていく彼女に僕は小さく手を振った。








 

大学近くのぼろアパート。六畳一間、家賃は月五万円。ここで僕は数日前から一人暮らしを始めた。隣の部屋は学生達の溜まり場になっているみたいで、日夜馬鹿笑いや話し声が漏れ聞こえて来る。普通の人ならイライラするのかもしれないけれど、こちらも物音に気を遣わなくていいところが気楽で僕はなかなかにこの部屋を気に入っている。
シャワーを浴びて、昼ご飯とも夕ご飯ともつかない作り置きのカレーを胃に流し込む。リュックにパンパンだった教科書を全て本棚に仕舞って、僕は息をついた。小さなちゃぶ台の上、さっき玄関で拾った不在票が目に入って、再配達を頼まなくてはと僕はそれを手に取った。
 

『画材、送っておいたからね』


数日前の母からの連絡を思い出す。


僕が法学部に合格したと伝えた時、父はこれで将来安泰だと喜んだ。その隣で同じように「おめでとう」と言ってくれた母。けれど母にだけは全て見透かされてしまっていたように思う。法学部が僕が本当に進みたかった進路ではないこと、まだ僕が絵の道を諦めきれていないことも。
「勉強をしながら夢を追ったっていいじゃない」届く段ボールはきっと、母からのそんなメッセージなのだろう。けれど。狭いこの部屋、届く段ボールの行き先はきっと、押し入れの一番奥だ。

考えることに疲れてしまって、僕はベッドに体を投げ出した。天井をぼーっと見上げていれば、自然と思い浮かぶのは昼間の彼女のことだった。絵に描いた人の顔は忘れないタチだ。栗色でふわふわの髪、白く透き通った肌、眩しそうに細められた優しげな目。暖かな日差しに透き通るように、消えてしまいそうに眩しかった彼女。「上手ですね!」キラキラと輝いた瞳、「ください!」と差し出された小さな手。僕の絵を大切そうに抱えて、そして弾けるように笑った。白い天井にもう一度その姿を描くように彼女のことを思い出していると、手の中のスマホが震えた。画面を確認してみればそれは、彼女からのメッセージだった。


『今度、美術館おごらせてください!』


真っ白なアイコン。その隣にはA.Hとあって、白く飛び出した吹き出し。こんなことってあるんだなぁと半ば他人事のように思う。あんな可愛らしい子にいきなり話しかけられて、連絡先まで交換して、そしてこれは二人で出かける誘い、ってことだよな?戸惑いながらも、僕は彼女への返信の文面を考え始めた。


「美術館奢らせてください...か」


『美術館、いいですね』
...そっけないかな。
 

『いえいえ、僕が奢ります』
なんて、変かな。
 
 
『いつにしましょう』
いや、早まるな。





十数分悩みあぐねた末、結局僕は『どこの美術館が好きですか?』なんていう月並みな返信をした。
疑問系で返すと話が続きやすいと、どこかのネット記事で読んだのを思い出したのだ。


絵を描いてばかりで青春とは程遠かったこの人生。僕はまだデートというものを一度もしたことがない。それどころか、女の子とこうしてスマホで連絡を取り合うことさえ、これが初めてなのだ。そんな僕にとっては、信憑性のないネット記事に縋ってでも、文末に「?」を打ち込むことが精一杯だった。





返信は数分と待たずに返ってきた。


『私、桜野美術館が好きです!』


桜野美術館。それは偶然にも、僕が小さな頃よく親に連れて行ってもらっていた美術館だった。


『僕も好きです、桜野美術館』


思わずそう打ち込み送信した画面の上に、すぐさま既読の文字が浮かぶ。
 

『じゃあそこにしましょう!いつ空いてますか?』


あぁ、本当に行くんだ...本当に?動揺する心のまま、僕はカレンダーアプリを開いてスケジュールを確認した。最近始めたバイトと履修登録したばかりの授業が、土曜までの五日間を綺麗に埋め尽くしていた。


『今度の日曜とか都合どうですか?』

『丸一日空いてます!』

『じゃあ日曜に』

『集合は、どこにしましょう?』

『桜野駅とかでどうですか?』

『いいですね!そうしましょう』


あれよあれよとはこのこと。いつの間にか、僕はどうやらこの子と、本当に二人で出かけることになったらしい。予定が決まってしまえば他に何を送ればいいかわからなくなってしまって僕が二の足を踏んでいると、彼女から話題が飛んできた。


『そういえば、ぶらぶらミッドナイトって知ってますか?』

『あぁ、夜中にやってる番組ですよね?』

『そうそう、それにこの前桜野駅が出てて』

『あぁ、それ僕も見ましたよ!...っていうか、ぶらナイ、僕以外で見てる人初めて会いました』

『その回、百夜草がゲストで出てたから。私、大ファンで』

『え...僕もです』

『途中で出てきたタイ料理屋さん』

『あぁパッタイ!』

『そうそう!食べてみたくて』

『僕も、行ってみたかったんです』

『本当に?じゃあそこも行きましょう!』

『はい、是非!』


活字に合わせて、昼間のあの表情が嬉しそうに綻ぶのが目に浮かぶようだった。きっと「!」と同時に、彼女の表情はぱぁっと弾ける。


『あー、嬉しい!桜野、一度でいいから行ってみたかったんです』


彼女から届いたメッセージ。感じた違和感に、僕はふと手を止め、眉を顰めた。行って...みたかった?


『桜野、初めてですか?』


例に漏れず、間髪入れずに灯った既読。けれどリズム良く続いていた返信は、そこで途絶えてしまった。


「え...どうしよう」


彼女は桜野美術館が好きだと言ったんだ。桜野に行ったことがないわけがないじゃないか。変なことを言ってしまったかもしれない。返ってこない返事にいよいよ不安になってきた頃、やっと画面に彼女の吹き出しが浮かんだ。


『あ、いや、また行きたいってことです!打ち間違えました!それでそれで、待ち合わせは何時にしましょう?』



話していてわかったのは、彼女とは驚くほどに趣味が合うということだった。好きな音楽、食べ物、本、テレビに映画。一時間にも満たないやりとりの中で何度『僕もです』と返信したことか。 


これまで信じてこなかった運命なんてものにぐらっときそうになった自分を、僕の中のもう一人の自分が制する。落ち着け。だってお前まだ彼女の名前さえ知らないじゃないか。


『あ、そういえばお名前を聞いてもいいですか?』

『あ!そっか、まだ名乗ってなかったなんて、すみません。ハルノです』


ハルノ。それは、彼女のあの弾むような声で僕の脳内に響くと、そのままストンと僕の心に落ちていった。とてもしっくりくると思った。


『僕は拓っていいます』

『拓さん!よろしくお願いします!』

 
ハルノさん。画面の向こう側、「!」と同時にきっと弾けるように笑った彼女。僕はその人と、五日後デートすることになった。









 

授業にバイトに、一人暮らしの家事。始まった新生活は想像していたよりも慌ただしく過ぎて行った。はじめての長時間シフトから体を引きずるように帰宅して、息をついた時にはもう、土曜の十七時を回った所だった。


「美術館...明日か」

 
独りごちた先、部屋の隅に数日前に再配達で届いた段ボールが封をされたままぽつんとあった。


「そうだ...」
 

疲れきった体をどうにか起き上がらせる。すっかり忘れかけていたそれを、僕はちゃぶ台へと持ち上げた。


必要以上にガムテープでしっかりと封をしてあるのがなんとも母らしい。まだハサミもない中、どうにかこうにか段ボールをこじ開ければ、そこには色々なものが入っていた。手紙にパックご飯に缶詰に野菜ジュース。一つ一つ取り出していくと、懐かしい絵の具やパレットが奥から顔を覗かせて心を揺さぶる。食糧は棚に、画材は箱ごとそのまま押入れに押し込んだ。
昨日の残りの白米を届いた缶詰をおかずに口に運びながら、母に『届いたよ』とだけメッセージを送った。そのすぐ下には彼女とのトークルーム。あれからも時々彼女からメッセージが来て、僕達はこの数日間、毎日のようにやり取りをしていた。


『バイト終わりました』


昼から途切れたままだったやり取りに返信をして、僕は画面をスクロールして彼女との会話を読み返した。





『今日は何限から授業ですか?』

『僕は三限から。ハルノさんは?』

『えーっと、二限からです!』

『え!?じゃあ今授業中?』





彼女が同じ大学の学生なのか、同学年なのか、わざわざ聞いたわけではなかったけれど、なんとなくそうなのだろうと思っていた。出会ったのはキャンパスでだし、彼女は僕よりも若く見えるくらいだったから。だとしたら、彼女も彼女とて新生活に慣れようと相当大変なはずだ。彼女の毎日はどんな風に過ぎているのだろう。


『お疲れ様です!ついに明日ですね!今日は早めに寝て明日に備えます!おやすみなさい』


開いたままにしていたトークルームにいつの間にか新たにメッセージが届いていたことに気がつく。


『うん、おやすみ』


慌てて返信を打ち込んで、送信ボタンを押した。
画面越しに会話することには、かなり慣れてきた。気を抜けばうっかり敬語が取れてしまうこともあるほど。けれど直接、しかも二人きりで会うことを想像してみると、それはまた話が全然違った。





✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎




迎えたデート当日。緊張しすぎた僕は待ち合わせ場所に三十分も早く着いてしまった。桜野駅天使の像の前で僕はそわそわと彼女を待った。
彼女は時間通りに改札から出てきた。白に淡いピンクが散りばめられたワンピースに、空色のバックを肩から掛けて。まるで春をそのまま身にまとっているようなそのファッションは、彼女にとてもよく似合っていた。眩しいくらいに。


「また待たせちゃった、すみません」


そう言って彼女はスカートの裾を翻しながらこちらへと駆け寄って来た。 


「いや、全然」


どこかのネット記事に「まずは相手の服装を誉めるべし」なんて書いてあった気がするけれど、そんなのまだ僕にはハードルが高かった。彼女の顔を真っ直ぐに見ることもできない僕は、正直緊張でまともに歩けるかも怪しいところなのに。


「行き、ましょうか」


「天気の話題は避けること」「車道側を歩くこと」「相手と歩くスピードを合わせること」予習してきたネット記事の受け売りを頭の中で繰り返しながら、僕はぎこちなく歩き始めた。





駅から美術館へと続く広い通りを二人並んで歩いた。桜野駅という名にもある様に、ここは桜の名所だ。通りの両脇には桜の木が等間隔に植えられ、美術館のある国立公園までずっと続いている。もうほとんど散ってしまった花びらが、僕らの足元を絨毯のように埋め尽くしていた。


彼女の隣を歩く僕は、ちゃんと彼女と釣り合えているのだろうか。華やかな装いの彼女と比べて、随分と暗い色の服を着て来てしまった。もう少し明るい色を着てくればよかったかもしれない、なんて今更に思う。
ふと隣を見ると彼女と目が合った。少しぎこちなく微笑む彼女に、自分が無言のまま歩いていたことに気づいて、何か話さなければと焦る。


「...あ、あの、えっと...ハルノさんの名前って、漢字でどう書くんですか?」


あぁ。こういう時に限って気の利いた話題の一つも浮かばない。そんな自分に思わず、頭を抱えたくなる。これなら天気の話をした方がマシなくらいだ。


「え?あ、春夏秋冬の春に、野原の野でハルノです」


僕の下手くそな話題提供にも、彼女は笑顔で返事をしてくれた。春の野。僕が思い描いていた通りの答えが返ってきて、少し嬉しくなった。


「春...野?」


彼女の名前を漢字で宙に指で書いてみせる。すると、彼女は嬉しそうに勢いよく頷いた。


「はい!」


それなら、とても似合うよなと思った。響きも、漢字も、そこに込められたのであろう意味も。


「やっぱり」


思ったまま口をついた言葉に、彼女は不思議そうに首を傾げた。


「何がやっぱりなんですか?」

「いや、なんかこう。春の野って、そのまんまそんな感じだから、ハルノさん」

「何ですかそれ!」


五日ぶりのあの笑顔が、隣で小さく弾けた。その背景にはやっぱり桜がとてもよく似合っていた。吹く風に舞っているだけの花びらも、まるで彼女が操りまとっているかのように見えるほど。その全てに見惚れてしまっていた、その時だった。


「けどシュンさんも!...」


眩しい笑顔でそう言ったかと思うと、次の瞬間彼女はハッと息を呑んだ。突然途切れてしまった会話。しまったというように手で口元を押さえた彼女。


「...ハルノ、さん?」

「あ...シュン、さん...じゃなくて、タクさん...ですよね」


二人の間、ぎこちなく沈黙が満ちた。元カレの名前か何かだろうか、シュン。なんとなく気まずい雰囲気に、何かこの空気を紛らわせる台詞はないかと頭を巡らせる。
けれど僕が何か思いつく前に、彼女の方が先に口を開いた。


「あの、そう!タクさんのこと、シュンさんって呼んでいいですか?」

「え?」

「あだ名みたいな感じで!だってほら、さん付けで呼ぶと "沢山" で変な感じするので。だから...えっと、春だし、春夏秋冬の春って書いて、シュン。ほら似合う!!」


身振り手振り、慌てた様子で捲し立てた彼女。その勢いに圧倒されながらも、シュンが仮に元カレの名前だったとして、それも仕方がないよなぁと思う。
なんてったって僕はまだ、彼女の名前を漢字でどう書くのかさえ知らなかったような男だ。それくらいの仲の僕らなんだ。名前を言い間違えてしまうことくらいあるだろう。だから僕は「気にしなくて良いよ」の意味を込めて、大袈裟に笑ってみせた。


「じゃあ僕、季節ごとに名前が変わるんですか!?」

「あー、えっと...そういうことに、なる...かもしれません!」

「そんな理不尽な!」

「む、無断で私の絵を描いた仕返しです」

「でも出演料払いましたし!喜んでくれたじゃないですか」

「あ、そっか、その節はどうも!えーっと、お礼に今度映画館奢らせてください、シュンさん!」


本当に可笑しな子だ。いつの間にか緊張も忘れて二人してひとしきり話して笑うと、美術館に着く頃にはなんだかもう何年も前からの知り合いのように思えていた。そう思っているのは僕だけ、かもしれないけれど。
それになぜだろう、彼女が僕を呼ぶシュンという響きも嫌じゃなかった。それどころか、むしろしっくりきた。まるで彼女の前では僕がシュンであることが当然であるかのように、当たり前のことであるかのようにしっくりきたのだ。





こうして僕はハルノさんと初めてのデートをした。僕の人生で初めてのデート。美術館に入ると、彼女は一層ワクワクと足先を弾ませた。美術館デートなんて、僕はいいけれど彼女の方は退屈なんじゃないだろうかなんて思っていたけれど、どうやらそんなのは杞憂だったようだ。
彼女はひとつひとつの絵画の前で立ち止まっては、目を輝かせほぅっと深く息をついた。そして僕を振り返っては囁く。


「見てくださいシュンさん」

「シュンさん、こっちも」

「これも綺麗ですね」


キラキラとした目で絵から絵へと行ったり来たりした彼女。ころころと変わるその表情に、僕はどうしようもなく目を奪われた。
 
 
「どうしてこのシーンを描こうと思ったんでしょうね?」

「表情じゃないかな?」

「この女の子の?」

「うん。とか言って、全然違うかもしれないけど」

「ふふふ、あまりにお腹が空いてて、彼女が持ってるパイが印象に残っただけ、かもしれませんしね」


 
「なんかこの男の人、シュンさんに雰囲気似てませんか?」

「そうですか?」

「うんうん。もしかしたら生まれ変わりとかかも」

「え...僕、前世はオランダ人だったんですか?」

「うーん、前々世くらいなら、有り得そうです。いいな、こんな美味しそうなパンを毎日食べてたんですか?」


 
「この色、好きです」

「ハルノさんっぽい色ですね」

「え?そうですか?」

「うん。ハルノさんはなんか、淡いピンクとか黄色って感じがします」

「シュンさんはそうだな...こんな感じの色使いなイメージです。この梨とりんごの絵みたいな」

「ハルノさん、お腹空きました?」


淡く照明に照らされた絵画を前に、僕達は歩いては立ち止まり、そうして他愛のない会話をした。朝はあんなに緊張していたのに、実際に顔を合わせて言葉を交わしてみれば、メッセージでやり取りするのと変わらないくらい自然に話したいことが溢れた。





美術館を出ると僕たちは予定通り、あのタイ料理屋さんに向かった。僕はパッタイを、彼女はカオマンガイを注文した。ぶらぶらミッドナイトで見たのと全く同じものが出てきて、僕達は顔を見合わせた。

 
「ふふふ...シュンさんと、たったの数日でこんな風にパッタイを分け合う仲になるだなんて、思ってもみなかった」


僕が小皿にパッタイを取り分けていると、彼女が楽しそうに言った。
 

「それは僕の台詞だよ。こんな風に女の子に誘われたのも、初めてだしさ」

「そうなんですか?」

「うん、最初は怪しい壺でも売りつけられるんじゃないかって思ってた」


すると彼女は飲んでいた水を吹き出しそうにむせながら笑った。
 

「ふふふ...いや、私大学に知り合いもいなくて。友達がほしいなって思ってたんです」


だからって。こんなに可愛い子が僕なんかに出会ったその日に連絡を聞いてくるなんて、僕はいまだに不思議で仕方がなかった。
 

「あぁ、そういえば、ハルノさんって何学部なの?」

「え!?」


彼女の手の中で揺れたコップ、中の氷がカランと音を立てた。


「あぁいや、あそこで出会ったから勝手に同じ大学だと思ってたんだけど、違った?」

「あ、えっと...うん。私も、一年生」

「だよね。いや、あれから見かけないけど、何学部なのかなと思って」

「あー、えっと...美術、学部?」


そう答えた彼女の目は、僕の手元辺りを動揺するように泳いでいた。さっき、僕の名前をシュンと呼び間違えた時と同じように。
 

「え?うちは美術学部なんてないじゃない」


彼女が冗談でそんなことを言ったのか、それともまだ出会ったばかりの僕にただ個人情報を教えたくないだけだったのか、結局僕にはわからなかった。店はエスニック店らしい薄暗い照明で満たされていて、彼女が俯いてしまえばその表情はほとんどわからなかった。彼女は次の瞬間には小皿を手元に引き寄せ、カオマンガイを取り分け始めていた。
 
 
「シュンさんも、カオマンガイ食べますよね!」

「え?あぁ、ちょっともらおうかな」

「じゃあ、カオマンの部分、多めで」

「カオマンの部分?何それ?」

「だってほら、パッタイのパッの部分たくさんもらってしまったので」

「具の部分ってこと?」

「そうそう、大体そんな感じです」


彼女はやっぱりちょっと不思議で、それでいてよく笑った。ころころと変わる表情は、いつも決まって最後には眩しいほどの笑顔に帰着した。彼女の言う通り、出会ってたったの数日で、こんなに近くで彼女の笑顔を見ていることが何だか信じられなかった。














 

タイ料理屋さんを後にする頃には、もう夕暮れにさしかかっていた。天真爛漫でどちらかといえば幼く見えていた彼女の横顔が、どこか儚げで大人びて見えたのは、彼女を照らした夕日のせいだろうか。長いまつ毛の影が朱色に染まった頬の上を踊っていた。


「シュンさん、今日は、楽しかったですか?」

「うん、楽しかったよ」


僕がそう言うと、彼女は安心したようにはにかんで俯いた。


「じゃあシュンさんは、絵...好き、なんですよね?」

「...うん」

「じゃあ絵、描くのも好き!ですよね?」


そう言いながら彼女は通せん坊をするように、僕の前に躍り出た。


「...好き、だ、けど?」

「じゃあ今度、映画もいいけど。私見たい、シュンさんが絵を描いてるところ!」


たくさんの絵を行ったり来たりしていたあのキラキラとした目が、今はまっすぐ僕だけに向けられていた。その瞳から溢れる光が、まるで僕の心の影を刺してくるかのようでなんだか痛かった。
ただ絵を描くのを見たいと言われているだけだ。それにこの前なんて描いた絵をあげたじゃないか。それなのに。そんな目で改まって言われると、僕の心はひどくざわついた。一度諦めて奥底に埋めた夢を掘り返されているみたいで。


「...うん、いつかね」


気のない返事になってしまったと思う。僕が乗り気じゃないことは、伝わってしまっただろう。僕の返事を聞くと、彼女の眉は残念そうに下がった。


「...はい、いつか」


消え入りそうに溢れた声、伏せたまつ毛。刹那、彼女が泣き出してしまいそうな、そんな予感がした。どうして?という疑問よりも前に、焦りで頭が真っ白になってしまう。


「え...ぁ...」


目の前で女の子が泣いてしまいそうな時にかける気の利いた言葉なんて、恋愛初心者の僕が持ち合わせているはずがない。僕が何も言えずにおろおろしていると、彼女は唇を噛み締めて顔を伏せた。


夕焼けが彼女の柔らかな髪を栗色に温めていた。その一本一本が、伏せたまつ毛が、悲しそうに揺れる瞳が、彼女の体を縁取る輪郭が、その全てがこのまま春の夕暮れに溶けて消えてしまいそうで。その美しさに言葉を失ってしまった僕は、彼女を笑顔にするにふさわしい言葉を必死で探してみるのに、やっぱり何も見つけられなくて。


けれど次の瞬間、彼女は弾かれたように顔を上げた。その時には、彼女はまたあの眩しいほどの笑顔に戻っていた。


「じゃあ、今日はここで!ありがとうございました、すーっごく楽しかったです!」

「えっ」


ものすごい勢いで言い終えるや否や、出会ったあの日と同じように止める間も無く、踵を返して走り出した彼女。






一歩、一歩。彼女が駆けるその足元で、花びらが小さく舞い上がった。その日僕は、オレンジに染まった桜のカーペットの先に彼女が見えなくなるのを、いつまでも見送っていた。








 

家に帰ってからも、彼女のあの表情が頭から離れなかった。泣き出してしまいそうに見えたあの一瞬。多分、いやきっと、気のせいではなかったと思う。一通り寝支度を終えてする事がなくなるといよいよ居た堪れなくなってきて、僕はスマホを手に取った。





僕は小さな頃から絵を描くのが好きだった。家族の絵を描くと家の中が笑顔でいっぱいになった。それが全ての始まりだったように思う。小学校の頃には当時流行っていたキャラクターをノートに描くと、たちまちクラスのヒーローになれた。中学生になる頃には頼まれて似顔絵を描けば「写真みたい!」と、教室中大盛り上がりになったものだった。


だから事あるごとに書かされたアルバムやら宿題の「将来の夢」の欄には、少しずつ形を変えながらも意訳すれば全て同じものがあった。「えをかくひと」僕は小さな頃から、絵描きになりたかった。


色々なコンテストに応募したりもした。小学生の頃には表彰されることなんかもあった。大きくなるにつれて、自分としては少しずつ上手くなっていっているつもりでいた。それなのに。中学高校と進級するたびに、僕の絵が賞に引っかかる機会はどんどん減っていった。そして高校最後に挑んだコンテストではついに、僕の絵は大賞どころか佳作にさえ引っかからずに終わった。代わりに受賞作品達を見て思い知ったんだ。この世には凡人の僕なんかが努力したところで到底敵わないような天才が、たくさんいるのだと。

 
僕の絵はただ平面に広がるばかりで、見る人に迫り訴えかけるような魅力がない。けれど、立派な額縁に入れられ飾られた受賞作品達は違った。見ているこっちの心を作品の中からむんずと掴んでくるような、そんな魅力があった。僕の絵には、それが、ない。


それがどうしてなのか、僕にはずっとわからなかった。


ならばどうすればいいのか、それも、僕にはついにわからないままだ。





さっき彼女に絵を描くのを見せてほしいと言われた時、僕は怖かったんだと思う。僕の絵を一度はあんなに嬉しそうに胸に抱えてくれた彼女。そんな彼女の前でまた絵を描いて、今度は失望させてしまったら。そんなことを考えてしまった。


けれど考えてみれば僕はもう別に、プロになろうってわけじゃない。素人の落書きにガッカリするも何もないだろう。それに彼女にあんな悲しい顔をさせてしまうのなら、絵の一枚や二枚描いてあげたって良いじゃないか。そう、思ったから。


『明日十三時頃から、あのカフェのテラスで絵を描こうと思います』


彼女とのトークルームにそう打ち込んで、勢いのまま僕は送信ボタンを押した。ホーム画面に戻ると、時計はちょうど二十時を灯していた。





これまでは数分と間を空けずすぐに返信が来たのに、今日は既読すらつかなかった。もしかして嫌われてしまっただろうか。今日のデートは楽しくなかっただろうか。ベッドから見上げた天井、真っ白なキャンパスに彼女の悲しそうな顔が浮かんでしまって、僕は固く目を瞑った。
 


✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎



『行きまーす!おはようございまーす!』


目覚めて一番に確認したスマホに、彼女からのメッセージが届いていた。


「なんだ、よかった」


嫌われてなんていなかったのだと胸を撫で下ろす。昨日はたくさん歩いたから彼女も疲れていたに違いない。眠ってしまっていただけだったんだろう。『おはよう』の返信をして、僕は準備に取り掛かった。


カフェには思いの外早く着いた。桜は昨日ですっかり散ってしまったようだ。あの日のあの席に座って、手始めに足元でパンくずを啄んでいるスズメ達を描いてみることにする。


動物を描くことは、人を描くことの次に好きだったし、得意だとも思う。対象に命や感情がある方が、僕でも魅力的に描ける気がして。仕上げにとスズメの目に光を描いていると、春風に乗ってあの声が聞こえてきた。


「シュンさーん!」


顔を上げると、今日は淡い黄色のスカートに白いブラウスを着た彼女がヒョコヒョコと走ってきて僕の向かいの席に座った。


「何描いてるんですか?」


テーブルに乗り出すように僕の手元を覗き込んでくる彼女は、何故か今日も花びらを一枚頭に乗せている。


「今しがた君にびっくりして飛んでっちゃったスズメだよ」


冗談ぽくそんなことを言うと、彼女は大げさに肩を縮ませた。


「スズメ?...え!ごめんなさい!私のせいでいなくなっちゃいましたか?」


申し訳なさそうにハの字になる眉、への字に曲がる唇。相変わらずころころと変わる表情に、思わず頬が緩む。


「いいんだよ。鳥はよく描いてたから見なくても描ける。それにほら、もうほぼ完成」


そう言ってスケッチブックを彼女の方に向けると、さっきまでの表情が一変、彼女はぱぁっと顔を輝かせて感嘆の声をあげた。


「すごい!可愛い!やっぱシュンさん...絵上手ですね!」


昨日美術館に並んでいた絵に向けられていたのと同じくらいキラキラした視線が今、僕が描いた絵に注がれていた。その表情に、単純な僕は思わず勘違いしてしまいそうになる。僕の絵ももしかしたら、捨てたもんじゃないんじゃないか、なんて。けれどそんな心を抑えて僕は、必死に平静を装う。


「ありがとう」


僕がそう言うと、彼女は嬉しそうに笑って再びスケッチブックを覗き込んだ。僕の絵はこれくらいが良いんだ。目の前にいる誰かを笑顔にできるくらいの絵。それくらいで、ちょうど良い。彼女が喜んでくれるのなら、今日のところは描いていよう、そう思った。


「それで、今日は何を描こうか」


せっかくだからリクエストに応えようと思ってそう尋ねると、彼女は途端に仰々しく考え込み始めた。そうしてしばらくうんうん唸ったかと思うと、何か思いついたようにピンと人差し指を立てる。


「あ!桜!桜を描いてるのを見てみたいです!」

「桜?けれど...」


テラス席から見える桜並木は、寂しいほどにほとんど裸になってしまっている。昨日のうちに踏みしめられたのであろう地面の花びらも、薄汚く色を変えてしまっている。


「桜はもう、昨日でほとんど散っちゃったよ」

「それが、いいんです」

「へ?」

「それがいいんです!散っちゃった桜を、シュンさんに描いて欲しいんです」


そう言って八割方散ってしまった桜を映す彼女の瞳は、数日前に桜並木を見ていた時と変わらず輝いていた。彼女の言うことは時々不思議で。けれど彼女がそれで喜んでくれるのなら、別にそれでよかった。僕達は軽くランチを済ませると、大学の広場に移動することにした。





図書館と研究講義塔の間に芝生が敷かれた広々とした空間がある。そしてその中央には一本、とても立派な桜の木が植えられている。周囲には地べたに何やら敷いて談笑している学生や、円になって譜面のようなものを覗き込む学生達。この広場は空きコマや休み時間に学生達が集まって、思い思いにくつろぐ憩いの場になっている。
カフェから見える並木道の桜より、この広場の桜の方が少し多く花びらが残っていたから。僕達は二人、広場に並ぶベンチの一つに腰掛けた。僕がスケッチブックを開いて下書きを始めると、彼女は隣でタンポポやシロツメクサを摘んで編みながら、時々僕の手元を覗き込んだ。
久々の人前で描くという行為に最初は緊張していた僕だったけれど、それぞれが自由に過ごしているこの空間は、思いの外心地がよかった。僕達は他愛もない話をしながら、各々手を動かした。


「桜って、あっという間に散っちゃいますよね」

「うーん、今年はまだ雨が降らなかっただけ長持ちしたんじゃないかな」

「けど、一週間くらいしかもたないんですね」

「そうだねー」


穏やかな日差しの中、風がさらさらと春を運んだ。僕の足元、誰にも踏まれず生き残った桜の花びらが、戯れに風を掴んでいる。時折どこか遠くで湧き上がる学生達の笑い声が賑やかしい。


「何を描くのが一番好きですか?」

「一番は人かな?次に動物」

「確かに!さっきのスズメもすごく上手でした」

「動物描くのが好きなのは多分、小さい頃にポンを描きまくったところから来てるんだよね。あぁ、ポンっていうのは...」

「ふふ、私に似てるあのワンちゃんですよね」


彼女が隣でくつくつと楽しげに笑った。その手の中の草花が、それに合わせてふるふると震えた。


「え」


そう。彼女の言った通り、ポンはうちの実家で飼ってる犬だ。初めて会った日に彼女が着ていた茶色いセーターとよく似た色のプードル。あの日の僕が咄嗟に「似ていたから」なんて苦し紛れな言い訳をした、あの犬がポンだ。けれど。


「...名前まで教えてなかったよね?どうしてわかったの?」


僕の言葉に、花を編む彼女の手はビクリと止まった。


「え?...あ!えっと、なんか...なんとなく、そうかなって思ったんです!」


そう言った彼女が、僕を初めてシュンと呼んだ時と同じように動揺しているのが手に取るようにわかった。彼女が慌てた時の癖なのか、その手が口元で大袈裟に動く。


「い、いやぁけど、今日は晴れて本当に良かったですよね!すごいスケッチ日和!」


早口でそう捲し立てると、彼女はわざとらしいほどに大きく伸びをした。そして助けを求めるように、足元に視線を走らせる。


「あ!あれ、四葉かしら!?」


言うが早いか勢いよく立ち上がり、地面にしゃがみ込んだ彼女。


「あぁ、違いました!三つ葉でした!」


そう言ってそそくさと戻ってきて彼女は再び隣に座った。そして俯いたまま再び花を編み始める。
別にポンなんてペットらしい名前だし、それでなんとなくわかったのかな、なんて思っただけだった。けれどそんな風に慌てられてしまうと、何かあるのかと余計に気になる。
僕は彼女の慌てように呆気に取られて、彼女はといえば依然気まずそうに手を動かして、そうして数瞬の沈黙が流れた。僕が口を開こうとしたその瞬間、校内放送が僕達の間の静けさをかき消した。


――経済学部三年の高田秀史くん、至急教務課までお越しください。経済学部三年の...


「そ、そういえば!シュンさんは何学部なんですか?」


これだ!とでもいうように顔を上げて、彼女がそんなことを聞いて来た。彼女が話題を変えたがっていることがわかって、僕はとりあえず投げかけられた質問に答えることにした。
 

「あぁ、法学部だよ」

「じゃあ将来は、弁護士さん...とか?」

「うーん、いや。普通に就活して、普通に就職するんじゃないかな」

「そっか...」


再び途切れてしまった会話。本当のことを言えば、将来の話はしたくなかった。今度は僕の方が気まずくて、彼女と目を合わせずにすむように、忙しく描く手を動かした。スケッチブックの視界の隅。彼女がこちらを伺うように、そっと顔を上げたのが見えた。


「本当は...絵の道に進みたかった?」


おずおずとどこか申し訳なさそうに零れた声が、僕の手を止めた。


「え...」


本当に、何なんだ。さっきのポンのことにしろ、誰にも話したことのない将来の夢の話にしろ。彼女は何でもわかってしまう超能力者か何かなのだろうか?僕が何も言えずに彼女を見つめ返していると、彼女は僕の顔を覗き込んで、その眉を悲しそうに下げた。今の僕はそんなにも、痛々しく映っているのだろうか。


「シュンさん、絵描いてる時すごく楽しそうですもん。わかりますよ」

「そう、かな」

「私はシュンさんの絵、好きですよ?」

「...ありが、とう」

「私...シュンさんならなれると思うんです、素敵な絵描きさんに!」


身を乗り出しそんなことを言う彼女の顔は、訳がわからないほどに必死だった。僕の心の葛藤を全部知っているんじゃないかと思ってしまうほどに、真剣そのものだった。
その言葉に、表情に、嘘がないことくらいはわかる。彼女はきっと、本当にそう思って言ってくれているのだろう。けれど。


「...この世界にはさ、僕の手の届かないような天才がたくさんいるんだよ」

「そう、なんでしょうか...」


消え入りそうに絞り出されたその声。彼女はひどく悲しそうな目をしていた。どうして君がそんな顔をするんだよ。さっきまであんなに楽しそうに話したり慌てたりしてたじゃないか。
彼女にまたあの笑顔で笑って欲しくて、僕は咄嗟に明るい声色をつくった。


「例えば僕さ、動物や人はまだしも風景画が苦手なんだ。昔よく河原で練習したんだけど、いまだに苦手」

「そう、なんですか?」

「うん、ほんと、青春投げ捨てて河原に通ってたんだよ?学校終わりに毎日のように。放課後デートなんて無縁の中高時代だった」


そう言って笑ってみせると、彼女も小さく笑顔を見せてくれた。


「ふふふ...女の子に誘われたことないって言ってましたもんね」

「うんうん。本当にそうなんだよ」

「けれどシュンさん結局、風景じゃなくて犬を散歩してるお姉さんとか、囲碁してるお爺さんとか、人ばっかり描いてたじゃないですか」

「...え?」

「え?...あ!」


確かにそうだ。そうなのだ。僕はあの頃、河原に行くたびに苦手な風景画を練習しようと思うのに、気づけば人ばかり描いていた。けれどどうして、どうしてそれを彼女が知ってるっていうんだ。


「どういうこと?どうしてそんなこと、ハルノさんが知ってるの?」

「いや、あの...そう!私も昔よく河原行ってたので!えっと、石投げて水切りの練習してたんです!」

「...ねぇ」


じっと彼女を見つめると、彼女は僕から逃げるように目を逸らした。
けれど。ここまで来るといよいよおかしい。気づかないふりも限界だ。ポンのこと、将来の夢のこと、河原の絵のこと。どう考えてもここで出会う前から彼女が、僕のことを知っていたとしか思えなかった。


「ハルノさん、僕達前にどこかで会ったことある?」

「...ない、ですよ」

「じゃあどうして?ポンのことも、河原の絵のことも、どうして知ってるの?」

「それは...」


本当に、何なんだ。いよいよ泣き出してしまいそうな彼女の手は、ふるふると震えていた。


「ねぇハルノさん。君一体、何者なの?」


噛み締められた唇、返事はない。いつも通りのキャンパス。学生達で賑わうこの場所で、僕達の間にだけ重い沈黙が続いた。





どれだけ待っただろう、やがて決心するように深く息を吸った彼女がついに口を開いた。


「ごめんなさい。騙そうとしたわけじゃないんです」


こちらを見つめる彼女の目は潤んでいて、それだけで僕はとても悪いことをした気分になってしまうんだから本当にズルい。


「...やっぱ私、嘘下手だなぁ...ごめんなさい」


そう言ってこっちが泣きそうになるくらい切ない顔で彼女は笑った。そんな彼女を見ているだけで胸の奥が痛いほどに締め付けられるのは一体何故なんだろう。


彼女は編み終えた小さな花冠を震える手で頭に乗せた。そして僕に向き直ると、困ったようにこう言った。


「私ね...天使、なんです」


潤んだ薄茶色の目が僕を映す。


「...天使?」


白いブラウスに春のうららかな日差し。透き通る肌は眩しいほどで。春風にそよぐ柔らかな髪に花の冠を乗せた。その姿は天使だと言われれば、確かにと納得してしまいそうなほどに美しかった。けれど。


「なにそれ」


また誤魔化されているのかと思った。けれど僕を見つめ返してくる目は、あまりに真っ直ぐで、それでいてひどく悲しげだった。


「本当なんです...本当。ちゃんと説明するので、今日このまま日が沈むまで一緒にいてくれませんか?そしたら、証明できますから」


天使は光の化身だから、日が沈むとすっと体が消えるのだと彼女は言った。それで日が登ると同時に目覚めるように、毎日同じ場所で意識を取り戻すのだと。
それから彼女は日が沈むまで、天使についての色々なことを教えてくれた。

 
人は何度も生まれ変わること。
その度に魂は人、天使、人、天使と輪廻を繰り返すのだということ。
天使の生は誰かの願いを叶えるための手助けをすることで、来世への徳を積む期間なのだということ。
天使から人に生まれ変わる時には記憶をリセットされること。
逆に人から天使になる時には前世の記憶はそのまま、それに加えて願いを叶える対象の人物の記憶を与えられること。
天使の寿命が一か月であること。
そして、僕の覚えていない前世で僕と彼女は知った仲であったこと。


消え入りそうな声で話す彼女の横顔を、ゆっくりと沈む夕陽が照らし始めていた。目を伏せた彼女はあの日のデート終わりと同じように儚げに映った。「私は人から生まれ変わった天使です」だなんて有り得ないことを言われているはずなのに、目の前の彼女は本当に、日没とともにするりと消えてしまいそうで。彼女が言っていることは全部本当なんじゃないかと、心のどこかで思い始めている僕がいた。
 


 






 
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎



「母様、行って参ります」

「あぁ春野、気をつけて行ってらっしゃいね」





番傘を叩く雨音の中、私は女学校への道を足速に歩いた。五年生になったばかりの私の胸元には、鮮やかなえんじ色がたなびいている。お父様に買っていただいたばかりの新しいリボン。けれどこの色が、私の心を憂鬱にした。


「うわっ!えんじだ!えんじ!」

「ほんとうだ、えんじだー!」

「女が勉学だなんて、ズウズウシイよな!」

「そうだよな、女のくせにー」


男の子が二人ばしゃばしゃと、傘もささずに私の脇を駆けてゆく。跳ねた泥がおろしたての足袋を汚す。それで私はまた一層深く、番傘を被りなおすのだった。


女が漢字の名前を持っているというだけで、鼻につくと言われるような時代だ。女が高等学校に通っていることは、まだまだ珍しいことだった。その中でも私は、四年制ではなく五年制の学校に通っている。えんじ色のリボンといえば五年生の色と、ここらの人間で知らぬ者はいないだろう。この制服を着て歩いているだけで、後ろ指をさされることも早五年。もう慣れたつもりでいたのだけれど、やはり胸元にえんじというのは余程目立つらしい。先のように野次られることも、この春から一段と増えたように思う。 


番傘は良い。低く持てば、顔も胸元の色も隠してくれる。頭上を叩く雨音が心を落ち着けてくれた。





酒屋さんが通りの向こうに見えてきた。そこは母様がお父様のお酒を買うのに懇意にしている酒屋だった。店の主はもういい歳のお爺さんで、私が通りかかるのに気がつくと、声をかけてくださる気さくな方だ。家事の類は全て女中さんに任せている母様だったけれど、お爺さんとお話をするのが楽しいからと、お酒だけは自ら買いに出られる。店主のお爺さんは、それほど明るく気の良い方なのだ。だからその日も、お爺さんがいらっしゃらないかと私は少しだけ番傘から顔を出してみたのだった。


がたいの良い男の人が一人、店から出てくるのが見えた。その人はいつもお爺さんが付けているものと同じ前掛けをしていた。店の前には木箱をたくさん積んだ荷車。彼はその木箱の中の一つをよいと持ち上げ、そのまま店の中へと消えて行った。見覚えのない人だった。最近新しく雇われた人だろうか?確かに力仕事はお爺さん一人では大変だろうと、先日お父様と母様がお話ししてらしたところだった。


私が足を進める間にも、彼は店から出てきては、よいっと箱を持ち上げ店の中へと運ぶことを繰り返した。雨の中傘もささぬ彼の背中は、どんどんと濡ってゆく。その姿に私はつい、番傘を被り直すことも忘れてしまっていた。





酒屋まであと一間となる頃にはもう、荷車はすっかり空っぽになっていた。さきの彼も最後の箱とともに店の中へと飲み込まれたきり。今日はお爺さんはいらっしゃらないのかしら?と仄暗い入り口を覗き込んでみようとして、私は軒下の隅に何やら白い塊があることに気がついた。


「あら...?」


雨粒の向こう側へと目を凝らすと、それはどうやら仔犬のようだった。その子は小さくうずくまり、雨の中ふるふると震えていた。雪のように白かったであろうその毛も、所々土色に汚れてしまっている。


「まぁ...可哀想に」


助けてあげたかった。けれど外にいる生き物に無闇に触ってはいけないと、普段からお父様と母様に口酸っぱく言われていた。お父様の弟は幼い頃に犬に噛まれて病気になって死んでしまったから、お前も気をつけなくてはならないよと。それでもびしょ濡れで震えているその子があまりに不憫で、私は気付けば店の前ですっかり足を止めてしまっていた。すると入り口の暖簾がめくれて、さきの彼が店から出てきた。その手には手拭いと缶詰があった。


背中を丸めて及び腰に、大きな体で恐る恐るというように小さな仔犬に近づいてゆく彼。一歩、また一歩。へっぴり腰になりながらも彼はその犬へと足を進めた。そうして大きく深呼吸をひとつ。彼は仔犬に向かって手拭いをふわりと投げかけた。白いそれははらりはらりと舞い落ちて、仔犬の臀部に上手に着地した。小さく息を呑んだ私の存在に、彼は一切気づいていない様子だった。そのまま彼は緊張の面持ちでそろりそろりと缶詰を地面に置くと、すぐさま大袈裟なほどに後ずさり、ふぅと大きく息をついた。大きな体には似合わないその行動の一部始終に、私は思わずくすりと笑ってしまった。





雨の中、私達はそれぞれ仔犬を見守った。息も殺して見守った。しばらく手拭いの中で震えていた仔犬は、やがておずおずと缶詰に近づくと、そっと口をつけた。
 

「あぁ」


無意識に声が口からこぼれてしまった。もうすっかり彼と一緒になって仔犬を介抱しているつもりになっていた。けれど思えば今の私は、彼の行動をこっそり盗み見していたようなもの。しまったと顔を上げたその瞬間、彼とはたと目が合った。
怪訝な目をされるかと身構えた私をよそに、彼は驚いたように目を見開いた後、少し照れたようにはにかんで会釈をくれた。雨の中、私達は無言の挨拶を交わした。


通学路は好きではなかった。この制服を着て、胸元にえんじをたなびかせ歩かねばならない時間。後ろ指を刺され続けた四年間。けれどそんなことを人に相談できるはずがなかった。我儘だと言われるに決まっていたから。
ここ一帯の土地を管理する裕福な家に生まれ、十五になる今まで何不自由なく育ててもらった。それなのに、どうしてだろう。ずっと、どこか満たされないような気持ちを抱えて生きてきた。高価な装飾品でも、山盛りのご馳走でも、満たせない何かがずっと足りないように思えていた。まるで何かを探しているような、そんな感覚。けれどそんな事を人に言うには、自分があまりに恵まれた環境にいることもわかっていて。だから毎朝心を押し殺すように歩いていた。何かを探しながら。それが何なのかもわからないまま。けれど、今日は。


優しい瞳。仔犬を見守る彼の姿が、私の目に、耳に...心に、不思議なほどに焼きついた。
番傘を叩く雨音とともに、心の中、ぽっかりと空いたままだった隙間が、少しずつ満たされていくような、何故かそんな心地がした。







 

しばらく雨が続いていた空に久方ぶりの晴れ間が見えた、そんな日のことだった。通りの向こう、今日もまたあの酒屋さんが見えてくる。水溜りを覗き込んで、手櫛で髪を整えた。口角を上げて、背筋はしゃんと伸ばして。


母様に尋ねてみた所、やはり彼は新しくあの店で働き始めた方なのだそうだ。お爺さんのお孫さんだそうで、最近こちらに越して来て、店の手伝いをしているらしい。


あの日から私は、この道を通ることが楽しみになっていた。運良く彼とまた目が合うなんてことがあれば...そんな期待に胸を踊らせながら酒屋を視界に捉えると、私は今日もわざとゆっくり歩みを進めた。





ずっと、ご学友達が男性の先生方に黄色い声をあげる理由がいまいちわからないでいた。あの先生が男前だ、いやあちらの先生の方が二枚目だと、休み時間になれば教室はそんな話で持ちきりだった。
けれど私はといえば「春野さんは如何ですの?」などと訊ねられても、先生は先生だとしか思えなかった。あの先生は教えるのがお上手で、あちらの先生はお話が面白い、そんな感想しか出てこないのだ。
けれど今ならわかった。彼女達が各々お気に入りの先生が教室に入ってくる前に、いそいそと身だしなみを整える気持ちが。その人の目に映るかもしれないと思うと、どうしようもなく心が弾んでしまう、その気持ちが、今なら。





道を渡れば、酒屋まであと数間ほど。胸に手を当て、深く息を吸って気持ちを落ち着ける。


「ありがとうございました」


低く優しい声が耳に届いて、私は弾かれたように顔を上げた。風呂敷を手にしたお客さんに向かって、彼が深くお辞儀をしていた。


「また来るよ」


ひらひらと手を振ったお客さんが、私が来た道を帰ってゆく。
ゆっくりと顔を上げた彼。あの日のように、目が合った。
気づけば私は酒屋の数間先で立ち止まってしまっていた。彼を見つめたまま。
どうしよう...そう思った瞬間、彼がにこりとはにかんだ。


「こんにちは」


そう言って小さく会釈してくれた彼。


「あ...」


私も慌てて会釈を返す。顔を上げた先には優しい笑顔。ぎこちない沈黙。


「ご、ごきげんよう...!」


どうして良いのかわからなくなってしまって、私はそれだけ言ってがばりとお辞儀をすると逃げるように駆け出した。春の日差しの中、私は風を切るように走った。


水溜りへと力強く踏み込めば、泥水が私の足袋へスカートへと跳ね返る。けれどそんなこと、今はどうだってよかった。心臓がうるさくて仕方がなかった。これまで感じたことのないほどの熱が、体中を駆け巡っているようだった。





また、目があった!
話しかけてもらえた...!

熱い頬、緩む口元、心臓は痛いほど。

長いスカートに足が取られる。
風呂敷に包んだ教科書がずれ落ちてしまいそう。

また明日、また明日...
明日また会えたら、今度は何と声をかけよう。


酒屋を過ぎて曲がり角を曲がるまで、私は立ち止まることなく走り抜けた。まだ店先で彼がこちらを見ているかもしれない。本当は振り返って確認したかった。


けれどそんな事、とてもできそうになかった。
きっと私の頬は今、遠くからでもわかってしまうほど鮮やかな色をしているだろうから。