大学近くのぼろアパート。六畳一間、家賃は月五万円。ここで僕は数日前から一人暮らしを始めた。隣の部屋は学生達の溜まり場になっているみたいで、日夜馬鹿笑いや話し声が漏れ聞こえて来る。普通の人ならイライラするのかもしれないけれど、こちらも物音に気を遣わなくていいところが気楽で僕はなかなかにこの部屋を気に入っている。
シャワーを浴びて、昼ご飯とも夕ご飯ともつかない作り置きのカレーを胃に流し込む。リュックにパンパンだった教科書を全て本棚に仕舞って、僕は息をついた。小さなちゃぶ台の上、さっき玄関で拾った不在票が目に入って、再配達を頼まなくてはと僕はそれを手に取った。
 

『画材、送っておいたからね』


数日前の母からの連絡を思い出す。


僕が法学部に合格したと伝えた時、父はこれで将来安泰だと喜んだ。その隣で同じように「おめでとう」と言ってくれた母。けれど母にだけは全て見透かされてしまっていたように思う。法学部が僕が本当に進みたかった進路ではないこと、まだ僕が絵の道を諦めきれていないことも。
「勉強をしながら夢を追ったっていいじゃない」届く段ボールはきっと、母からのそんなメッセージなのだろう。けれど。狭いこの部屋、届く段ボールの行き先はきっと、押し入れの一番奥だ。

考えることに疲れてしまって、僕はベッドに体を投げ出した。天井をぼーっと見上げていれば、自然と思い浮かぶのは昼間の彼女のことだった。絵に描いた人の顔は忘れないタチだ。栗色でふわふわの髪、白く透き通った肌、眩しそうに細められた優しげな目。暖かな日差しに透き通るように、消えてしまいそうに眩しかった彼女。「上手ですね!」キラキラと輝いた瞳、「ください!」と差し出された小さな手。僕の絵を大切そうに抱えて、そして弾けるように笑った。白い天井にもう一度その姿を描くように彼女のことを思い出していると、手の中のスマホが震えた。画面を確認してみればそれは、彼女からのメッセージだった。


『今度、美術館おごらせてください!』


真っ白なアイコン。その隣にはA.Hとあって、白く飛び出した吹き出し。こんなことってあるんだなぁと半ば他人事のように思う。あんな可愛らしい子にいきなり話しかけられて、連絡先まで交換して、そしてこれは二人で出かける誘い、ってことだよな?戸惑いながらも、僕は彼女への返信の文面を考え始めた。


「美術館奢らせてください...か」


『美術館、いいですね』
...そっけないかな。
 

『いえいえ、僕が奢ります』
なんて、変かな。
 
 
『いつにしましょう』
いや、早まるな。





十数分悩みあぐねた末、結局僕は『どこの美術館が好きですか?』なんていう月並みな返信をした。
疑問系で返すと話が続きやすいと、どこかのネット記事で読んだのを思い出したのだ。


絵を描いてばかりで青春とは程遠かったこの人生。僕はまだデートというものを一度もしたことがない。それどころか、女の子とこうしてスマホで連絡を取り合うことさえ、これが初めてなのだ。そんな僕にとっては、信憑性のないネット記事に縋ってでも、文末に「?」を打ち込むことが精一杯だった。





返信は数分と待たずに返ってきた。


『私、桜野美術館が好きです!』


桜野美術館。それは偶然にも、僕が小さな頃よく親に連れて行ってもらっていた美術館だった。


『僕も好きです、桜野美術館』


思わずそう打ち込み送信した画面の上に、すぐさま既読の文字が浮かぶ。
 

『じゃあそこにしましょう!いつ空いてますか?』


あぁ、本当に行くんだ...本当に?動揺する心のまま、僕はカレンダーアプリを開いてスケジュールを確認した。最近始めたバイトと履修登録したばかりの授業が、土曜までの五日間を綺麗に埋め尽くしていた。


『今度の日曜とか都合どうですか?』

『丸一日空いてます!』

『じゃあ日曜に』

『集合は、どこにしましょう?』

『桜野駅とかでどうですか?』

『いいですね!そうしましょう』


あれよあれよとはこのこと。いつの間にか、僕はどうやらこの子と、本当に二人で出かけることになったらしい。予定が決まってしまえば他に何を送ればいいかわからなくなってしまって僕が二の足を踏んでいると、彼女から話題が飛んできた。


『そういえば、ぶらぶらミッドナイトって知ってますか?』

『あぁ、夜中にやってる番組ですよね?』

『そうそう、それにこの前桜野駅が出てて』

『あぁ、それ僕も見ましたよ!...っていうか、ぶらナイ、僕以外で見てる人初めて会いました』

『その回、百夜草がゲストで出てたから。私、大ファンで』

『え...僕もです』

『途中で出てきたタイ料理屋さん』

『あぁパッタイ!』

『そうそう!食べてみたくて』

『僕も、行ってみたかったんです』

『本当に?じゃあそこも行きましょう!』

『はい、是非!』


活字に合わせて、昼間のあの表情が嬉しそうに綻ぶのが目に浮かぶようだった。きっと「!」と同時に、彼女の表情はぱぁっと弾ける。


『あー、嬉しい!桜野、一度でいいから行ってみたかったんです』


彼女から届いたメッセージ。感じた違和感に、僕はふと手を止め、眉を顰めた。行って...みたかった?


『桜野、初めてですか?』


例に漏れず、間髪入れずに灯った既読。けれどリズム良く続いていた返信は、そこで途絶えてしまった。


「え...どうしよう」


彼女は桜野美術館が好きだと言ったんだ。桜野に行ったことがないわけがないじゃないか。変なことを言ってしまったかもしれない。返ってこない返事にいよいよ不安になってきた頃、やっと画面に彼女の吹き出しが浮かんだ。


『あ、いや、また行きたいってことです!打ち間違えました!それでそれで、待ち合わせは何時にしましょう?』



話していてわかったのは、彼女とは驚くほどに趣味が合うということだった。好きな音楽、食べ物、本、テレビに映画。一時間にも満たないやりとりの中で何度『僕もです』と返信したことか。 


これまで信じてこなかった運命なんてものにぐらっときそうになった自分を、僕の中のもう一人の自分が制する。落ち着け。だってお前まだ彼女の名前さえ知らないじゃないか。


『あ、そういえばお名前を聞いてもいいですか?』

『あ!そっか、まだ名乗ってなかったなんて、すみません。ハルノです』


ハルノ。それは、彼女のあの弾むような声で僕の脳内に響くと、そのままストンと僕の心に落ちていった。とてもしっくりくると思った。


『僕は拓っていいます』

『拓さん!よろしくお願いします!』

 
ハルノさん。画面の向こう側、「!」と同時にきっと弾けるように笑った彼女。僕はその人と、五日後デートすることになった。