彼が白血病であることを伝えると、お父様と母様は尚更私達の関係に反対された。それでも私は、彼の元へお見舞いに行くことを決してやめなかった。休日も家の人の目を盗んでは玄関を飛び出し、彼に会いに行った。
そんな毎日が続いてしばらくが経った頃、その日も見舞いへ向かう支度をしていると、「お父様からお話が」と母様に呼び止められた。言われるまま向かった食卓には、お父様が神妙な面持ちで座っていらした。その隣に母様がおかけになる。私も後に続いて二人の対面に座った。
「春野」
「はい、お父様」
「春野は、そんなにも...」
苦虫を噛み潰したような、まさにそんな表情をされていた。こんなお父様を見るのは初めてのことで、ひとりでに心臓の音が速まるのがわかった。何を言われるのだろうと身構える私の手には、汗が滲んでいた。
「そんなにもその男がいいのか?春吾郎という、その男でなくてはならないのか?」
どんな顔をされたとしても、何度聞かれようとも、その問いに対する答えは決まっている。
「はい。私がお慕い申し上げるのは、彼ただ一人です」
「春野。白血病がどのような病かわかっているのか?」
「はい、承知しております」
「医学も万能ではない。そんなにもお前が慕うその人がこの先、お前と同じように歳をとり、ともに老いることは叶わぬかもしれない。それでも...」
「お医者様にはもうあと一年ももたぬかもしれぬと言われています。それを承知の上で私は、それでも彼といたいのです。彼のおそばにいたいのです」
まっすぐと、お父様の目を見て申し上げれば、その瞳の奥がぐらりと揺れるのがわかった。痛々しく細められた目。お父様が彼とのことを反対していらっしゃるのはもう、彼の家柄だとかそんなことは問題ではないのだと、その時私は悟った。お父様は私のことを思って、このままゆけば私が傷つくのではと心配なさってそんなことをおっしゃるっているのだ。それはお父様が私を愛してくださっているから、隣で目に涙を浮かべている母様も同じ。そのことがひしひしと伝わってきた。そんな風に二人が教えてくださった愛を、私が命をかけて注ぎたい相手はもう、とうに決まっていた。
「私は、彼の最期の最後まで、看取り添い遂げる心の準備ができております」
私がはきとした声で言い切ると、お父様は深く息を吐かれた。そうしてすっくと立ち上がったかと思うと、無言のまま部屋を出て行かれた。戻ってきたお父様の手には大きな西瓜が抱えられていた。それを食卓に乗せ、丸ごとこちらへ押しやりながら、お父様は低くおっしゃった。
「果物なら喉が腫れても食べやすいだろう...持って行っておやりなさい」
その隣で母様は、ひとまわり小降りな西瓜を机にとんと置いた。
「西瓜の切り方、わかるかい?春野は本当に不器用なのだから...こんなに好いておいて西瓜も切れないのかと幻滅されてはいけない。これで練習してお行きなさい」
それから彼の病室で私達の家族と彼の家族が顔を合わせることもついに叶った。私達が共に生きることを、私の家族も、そしてもちろん彼のご家族も、許してくださった。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
季節ごとに色を変える庭を縁取る窓は、さながら一枚の絵画の様だった。なかなか外に出られない彼の病室が、そんな素敵な場所にあてがわれたことは、本当に幸運なことだったと思う。私達はたくさん話をしながら、窓枠の中で季節が移ろいゆくのを二人で眺めた。
「今日は、日差しがすごいですね」
「いつも西瓜をありがとうね。僕も少し、夏を味わうことができたような、そんな気分になれる」
「ふふふ、お父様ったら張り切ってしまって、うんと上等なのを準備なさるから」
「うちの庭の紅葉の葉が、一段と色づいて参りました」
「おぉ、押し葉かい。見事な赤だ。綺麗だねえ」
「シュンさん本を読まれるでしょう?どうぞ栞にお使いになって?」
「初雪ですね」
「あぁ、綺麗だ」
「けれど少し、桜が寒そうに見えますね」
「シュンさん、もうすぐ春ですよ」
「あぁ」
「桜の蕾が膨らんで参りました。見えますか?」
彼は日に日にやつれていった。段々と立ち上がる体力もなくなって、お風呂に入れなくなってしまった代わりに、私が毎日彼の体を濡れた手拭いで拭くようになっていた。広かった背中もすっかり痩せこけてしまって、見ているだけで辛いほどだった。
食べ物が受け付けなくなってきた彼でも口にできそうなものを探しては、病室に持っていくのが私の日課になっていった。
「いつか...ハルと、一緒に、あの酒屋を...継げたなら、どんなにか...」
ある日彼が窓の外を眺めながらそんなことを言った。彼の言う「いつか」は日を経るごとに弱々しく霞んでいった。けれど彼がそう言うのなら。
「えぇ、しましょう。きっとそうしましょう」
私は何度だってそう答えるのだ。彼がそう言うなら、そうする。なんだってする。だって握りしめた彼の手は変わらず大きくて温かかった。だから大丈夫、きっと大丈夫だ。
彼が外に出られないのならばと、外での出来事を私は毎日のように彼に話した。一言の返事でさえ、段々と力がなくなっていることに本当は気づいてしまっていた。けれど彼の前で弱気になることなどないように、彼といる時は笑顔で楽しい話だけをした。
「本当にもうすぐ桜が咲きそうですよ。団子屋の店主に伺いました。もう桜餅の準備はしてあるって」
「そう、かい」
「そうしたら私、たんまりと買って参りますから。けれどシュンさんは桜餅よりもわらび餅の方が食べやすいでしょうか?...どっちも買ってきましょうね」
「あぁ」
「また柳川で花見をしましょうね。賑やかな春も良いですが、季節が過ぎてしまっても河原に腰を下ろして」
「そう、だね...いつか」
いつまでも彼の温かな手を握って、優しいその目に映っていられると、何度も自分に言い聞かせた。そうしていないと、今にも泣き崩れてしまいそうだった。握り返してくる手の力の弱さに、何かを悟ってしまいそうで。
お医者様がおっしゃったという「長くて一年」が目前に迫っていた。彼が起きていられる時間は、日ごと短くなっていた。
病院への道すがら、あの団子屋に立ち寄った。店先には今年初めての桜餅が鮮やかに並んでいた。柳川の方から聞こえてくる花を愛でる人々の声が、今日は一段と賑やかだ。
「おじさん、桜餅を一つくださいな」
「おぉ!それ、今日の分最後の一つだよ!お嬢ちゃんついてるね」
「ありがとうございます」
「こちらこそ、毎度あり!」
近頃のシュンさんはめっきり食が細くなってしまって、桜餅を買って行っても食べられないかもしれないと、そんな考えも頭をよぎった。
けれども春一番の知らせに、二人の思い出の桜色に、どうしても買わずにはいられなかったのだ。匂いだけだって、目で楽しむことだってできる。笹の葉に包まれた桜餅を胸に、私は病院へ向かう汽車に乗った。
けれど。
駅からすぐの病院、待合室を抜けて、病室棟へ続く廊下。
その先から聞こえてきた声に、ただならぬ雰囲気を感じた。
背中を冷や汗がつたった。
不安に手を震わせながら廊下を小走りに進んでいくと、その声は果たしてシュンさんの病室から聞こえていた。
桜餅が、それを包んだ笹の葉が...私の手の中から滑り落ちた。
私を押しのけ慌ただしく病室に入ってゆく看護師様達。
その中のどなたかの足が、桜餅をぐしゃりと踏みつけた。
彼の周りを取り囲むように看護師様達が集まっていた。
何事かと彼の元へと近づこうにも「下がっていてください」と押し戻されてしまう。治療の邪魔をしてはいけない。私は何が何やらわからぬまま、不安を持て余しその場に立ち尽くしていることしかできなかった。すると部屋の奥にいたお義母様が私を見つけて、すぐさま駆け寄って来てくださった。
「つい先程突然、呼吸が弱くなってしまって...手は尽くしてくださっているのだけれど」
そう教えてくださる声が、弱々しく震えていた。お医者様が何やら慌ただしく指示をされる、その声がやけに遠く聞こえた。
やがて、慌ただしく動き回っていた看護師様方の動きが止まった。
飛び交っていた声も止んだ。
そして。
すっと、彼へと道が開けた。
看護師様方は揃って申し訳なさそうに、目を伏せてらした。
お医者様はもうできることはないとでも言うように、お義父様に向かって深くお辞儀をされた。
世界から音が消えたかのようだった。
自分の心臓の音だけがうるさいほどに響いて体を揺さぶった。
お義父様とお義母様が彼へと駆け寄った。続いて私も震える脚で彼の枕元へと近づく。彼にはまだ意識があって、その胸はほんの微かに上下を繰り返していた。
うるさいほどのこの心臓。これがどうして彼のものではないのか、自分の身が憎くなるほどに、彼の呼吸は弱々しかった。もう彼には幾ばくも時が残されていないのだということは、医者でも看護師でもない私にも、なんとなくわかってしまった。
「春吾郎...」
「あぁ、春吾郎...」
ご両親が彼の名前を呼ぶ。私はと言えば、どうにも上手く声が出なくて、縋るように彼の手を握った。大きくて温かな手だった。いつまでも包まれていたいと欲を掻いてしまうような、そんなどこか懐かしい手。
「父さん...母さん...ありがとう。ハル...愛しているよ」
お義父様、お義母様、そして私。それぞれの顔をしっかりとその目に映して小さく呟いた彼は、やがて静かに目を閉じた。それから彼が再び言葉を発することはなかった。
「...ご臨終です」
やがて静かに響いたお医者様のその声に、彼のご両親が泣き崩れた。
看護師様もお医者様も、静かに部屋を出ていかれた。お二人の泣き声だけが、部屋に響いていた。
彼が、死んだのだそうだ。けれど私は何が何だかよくわからなかった。彼の手を握ったまま、私は眠っているだけに見える彼の顔をただ、見つめていた。
それから惚けたように彼のそばに座ったままでいた私に、ご両親が何か声を掛けて出て行かれた。おそらく気を遣ってくださったのだと思う。部屋には私と彼だけが残った。
これまでと同じように、私はぽつりぽつりと彼に色々な話をした。
「今朝の汽車は一段と混んでいました」
「素敵なご婦人が乗っていらしてね、とても可愛らしいスカートを履いてらしたんです。あのリボンのような、鮮やかなえんじ色のスカートでした。とっても綺麗だったんですよ?」
「あぁ、思えばシュンさんがいてくださらなければ、私はえんじ色を嫌いになっていたかもしれませんよね」
「そうそう。車窓から見える桜がとっても綺麗でした。柳川のほとりを通り過ぎる時には、皆がこぞって右側の窓に張り付きましてね...それはもう、汽車が傾くんじゃないかってハラハラするほどだったのですよ?」
「あぁ、そう。桜餅がもうあの店に並んでいて。今日一緒に食べられたらと思って...買って来たんです。最後の一つだったと店のおじ様がおっしゃっていました」
「けれど、あぁ。さっきつい取り落としてしまって...また、買ってきますから。また買ってきますから、一緒に食べましょうね」
目の前に横たわったままの彼は今にも起き出して、あの優しい声で相槌を打ってくれそうで。返事はなくとももしかしたら耳は聞こえているかもしれないと、私はたくさん話しかけた。
「シュンさん、寒くないですか?」
「シュンさん、鳥達の声が聞こえますね」
「シュンさん、春が来たそうですよ」
握った温かな手が、私の手を握り返すことはなかった。
それでも私は何度も彼に話しかけ、話すことがいよいよなくなると、今度は愛を伝えることにした。私の人生の中で、彼に出会えたことがどれだけ大きなことだったか、嬉しかったか、幸せだったか...言いたいことは全部言ってしまおうと思った。
けれど足りない、足りなかった。彼に愛を伝えるには、どれだけ言葉を尽くしても全く足りないのだ。どんなふうに言えば伝えられるのか、私にはもう、わからなかった。私にとってシュンさんが初恋で、初めての人で...
「シュンさん、愛していますよ」
「愛しています」
「愛してる...」
彼が死んだそうだ。
そうだろうか?本当に?よく、わからなかった。だってまだ握りしめたこの手は温かいから。大丈夫、きっと大丈夫。
気づけば窓枠の中、高く上がっていた太陽が傾き始めていた。夕焼けが部屋ごと彼を朱色に染める。すっかり痩せこけてしまった彼の顔が、血の気を取り戻したかのように見えた。それで私は吸い込まれるように彼へと手を伸ばしたのだった。
彼の、頬へと触れる。
彼は、氷のように冷たくなっていた。
それでやっと、気がついた。
握っていたこの手の中の温もりは、彼のものではなく...私自身のものだったのだと。
彼は、本当に死んでしまったのだ。
今更涙が溢れてきて、視界がぐらりと歪んだ。
「あぁ...ああぁ...」
部屋で一人。私は狂ったように泣き叫んだ。どれだけ彼の体を揺さぶっても、もう彼が目を覚ますことはなかった。
「シュンさん!...シュンさんっ」
彼が私にあの笑顔を見せてくれることも、大きな手で私の頬を包んでくれることも、私の話に優しく相槌を打ってくれることも、もうないのだ。
「シュンさんっ...そんな...シュンさん...」
発病から一年だった。窓枠の中、季節がちょうど一周するのを見届けて、シュンさんは逝ってしまった。まだ二十五歳だった。
窓の外、彼が愛した桜の花が美しく咲き乱れていた。
しばらくすると病室に看護師様が入っていらした。
そろそろご遺体を清める「湯灌」をしなくてはならないと言われて、それで私は体を引きずるように部屋を出た。
次に彼の姿を見たのは、棺の中だった。四角い箱の中で彼は、ぴくりとも動かずに横たわっていた。
葬儀は彼と私の家族の間だけで、ひっそりと取り行われた。全てまるで夢のようで、ぼぅっと目前で起こることを眺めていれば、あれよあれよと事は進んでいった。私は母様に支えられるように、棺の中の彼と別れの挨拶をした。それから間も無く葬儀師様が彼を、棺を炎の中へと運ぼうと彼の入った棺を持ち上げた。
彼がいなくなってしまう。そのことだけがわかって、私はいよいよ立っていられずにその場に崩れ落ちた。私達の目の前で、彼の身は業火に焼かれた。
彼が死んでしまった。葬儀は滞りなく執り行われた。その中のいつ、どの時を、どの瞬間を悲しめば良いのかわからなくて、気が狂ってしまいそうだった。
愛する人を、失った瞬間。
彼が最後に目を閉じた瞬間、彼の呼吸が止まった瞬間、お医者様が「ご臨終」だとおっしゃった時、看護師様が「ご遺体」を清めなくてはならないとおっしゃった時、彼が棺に入れられた時。
そのどの瞬間にもまだ、彼は確かに私の目の前にいた。数刻前までは彼であったはずのそれが、いつどの瞬間に彼でなくなってしまったのか、私にはわからなかった。
物も言わず横たわる彼も、私にとっては彼に変わりないように思えた。もう起き上がれなくても良い、話せなくても良い、微笑みかけてくれなくても良い。それでもいいから、その隣にいたかった。もう動くことのない彼も、私にとっては彼に違いなかったから。
愛する人を、失うということ。
棺の中に横たわっていたあの彼が、魂の抜け殻だったとして、私は確かにそれごと彼を愛していたはずなのに。それだって私が愛した彼の一部なのに。それはもう彼ではないと、死んでしまったのだと言われても、よく、わからなかった。
私は確かに彼の大きな手も、薄い唇も、黒々とした髪も全て、それごと愛していたのに。それなのに、私の目の前で、その「彼だった」ものは焼かれて消えてしまった。
その間私は、何度も何度も彼が殺されるかのような心地がした。気が、振れてしまいそうだった。その全てのいつどこを悲しめば良いのかわからなくて、だから私はその全てに涙を流した。心を締め付けられ、魂が流れ出すように、そんな風に泣いた。
葬儀の工程が全て終わった後、お義母様が彼が残したものだという一通の手紙を手渡してくださった。
茶色い封筒には、小さく「ハルへ」と書いてあった。
私はそれを携えて、気づけばふらふらと柳川へと向かっていた。何度も彼と花見をした、あの場所へ。病室へ通うばかりの毎日で、思えば河原へ向かうのは本当に久しぶりのことだった。
満開の桜の下はやはり、人で賑わっていた。思い思いに食べ笑い飲む人達の中で、喪服の私は一人、いつものあの場所へと腰を下ろした。
桜が綺麗に咲いていた。目には見えない風に合わせて、はらりはらりと淡い欠けらが落ちてくる。
「桜ばかりちやほやされてしまって、これでは草花が嫉妬してしまうね」
ふと聞こえた気がした彼の声に、足元へと視線が落ちる。私の周りには、黄色や白の小さな花達が咲いていた。お義母様にいただいた手紙に涙がぽつりと落ちる。皆が桜を見上げる中、私だけが、俯いて涙を流していた。一緒になって草花を愛でてくれる人は、もうどこにもいなかった。
気づけば握りしめた封筒はくしゃくしゃになってしまっていた。彼が書いた字が消えてしまってはいけない。それで私はようやっと震える手で、封筒から便箋を取り出すことができた。
そこには数枚にもわたって彼らしい美しい字が連なっていた。私へと残した言葉が、連なっていた。
思い出したかのように溢れて来ては視界を滲ませる涙を何度も何度も拭いながら、私は彼の手紙を読み始めた。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
ハル。
君に手紙を残すと決めたは良いものの、何を書けば良いだろうか。そんな風に頭を巡らせて、もう何日にもなる。
君に残したい言葉はあまりにたくさんで、こんな紙切れ一枚におさまりようもないのだから。
それでも、いつかの君の支えにほんの少しでもなることができれば。そう思うに至って僕は、今ようやっと筆を取っている。
あの日雨の中で佇んでいた君が、今でも鮮明に浮かぶ。あの時は格好をつけた僕だったけれど、内心は雷に打たれたような気分だったのだよ。この人だ、そう思ったんだ。
今だから言うのだけれど。君が初めて酒屋に来てくれたあの日、君が別にお使いで来たわけではないこと、本当はわかっていたんだ。
それなのに「お使いかい?」なんて意地悪なことを聞いたのはね、そのまま君を帰したくなかったから。少しでもいいから君と話がしたかった。ずるい僕を許しておくれね。
ハル。僕は生まれてからあの日まで、ずっと何か、自分の片割れのようなものを探しながら生きているような気がしていた。けれどもそれが何なのか、どうしてもわからずにいた。
あの時、あの瞬間、この子だと思った。僕はずっと君を探して生きていたのだと、君に出会ったあの瞬間悟ったんだ。
可笑しなことだね。それは一目惚れなどという言葉では片付けられないほどの感情だったんだ。
けれどそれを文字に起こすには、僕の言葉はあまりに足りない。君みたいにきちんと勉強をしておけば良かった、なんてこんな手紙を書く時になって思う。
けれど、こうして君を見つけられただけでも、愛し愛してもらえただけでも、僕はこの人生を生きた意味があった。それだけは確かなことだ。本当にありがとう。
ハル。可愛い君を残して逝くことを、申し訳なく思う。本当にすまない。君の泣く顔なんて見たくないのに、本当に不甲斐ない。
僕には君と見たい未来があった。僕が未来を想像すれば、そこには必ず君がいるんだよ。君は知っていたかな。僕は本当に幸せ者だったと思う。
君とまた桜の木の下で花見がしたかった。あの店を一緒に切り盛りして...けれど、贅沢は言わない。ただ平凡な毎日を君とおくることができればと思っていた。君と家族になりたかった。それさえ叶わなかったね。本当に、本当に申し訳ない。
ハル。君は本当に素敵な人だ。ゆっくりでいい、いつか僕のことを忘れても良いから。君との未来は僕が描いたまま持っていく。だから君は君の未来を生きて欲しい。今は無理だと思うかもしれないけれど、ゆっくり君らしく前を見て進んで。どうか幸せになって。
けれど本当にどうしようもなくなってしまった時、疲れ果てて一歩も進めなくなってしまうような時、誰かの言葉に傷ついてしまった時には、少しだけ、振り返ってみてほしい。
僕はいつまでも、必ず此処にいる。他の誰が何と言おうと、あのえんじ色を誰かが指差したように誰かが君を笑ったとしても、僕だけは変わらず此処にいて、ずっと君を愛している。それだけは確かなことだ。君は確かに誰かの特別だった、心の隅に留めておいて。
ハル。何度でも言おう、君はとても素敵な人だよ。
あぁ、随分と長い手紙になってしまった。君はきっとこの手紙を何度も読み返すのだろうから、あまり長くしてしまってはいけないね。
きっと君はひどく悲しむだろう。けれどね、これだけは約束しておくれ。僕のせいで君にもしものことがあったりしたらそれこそ、僕は耐えられないから。
だから約束だ、ハル。
僕の分まで生きて。
わかったね、絶対だよ。
ハル、心から愛してる。
林 春吾郎
何度繰り返し読んだことか、手紙から顔を上げる頃には、空は夕暮れを映していた。それでも私の周りではまだちらほらと、宴が続いているようだった。
ここから川を少し下った所、一際大きな桜の木の下に小さな橋がある。星川橋。本当は今日、そこから身でも投げて死んでしまおうかと思っていた。
それなのに彼が「僕の分まで生きてくれ」だなんて書き残すものだから、これでは後を追おうにも追えない。
それに、よりによって彼が桜の綺麗な時に逝ってしまうものだから、たとえ川に飛び込んでいたとしても花見客に見つかって、私は生きながらえてしまっていただろう。私は力の入らぬ手に彼の手紙を携えて、とぼりとぼりと帰路へ着いた。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
しばらくは抜け殻のように生きた。何度も彼の手紙を読み直しては死ぬことを思い止まり、ただ息をするだけの毎日を生きた。事務員の仕事も辞めてしまった。何をする気力も湧かなかった。
毎日のように柳川のほとりを訪れ、惚けたように一日を食い潰す。それだけの毎日を繰り返すうちに、気づけば再び、頭上には桜が花開き、辺りに人が集まるような季節になっていた。
「いつか...一緒に、あの酒屋を...継げたなら、どんなにか...」
桜咲く窓辺を見上げながら呟いた彼の言葉が、ふと耳元に聞こえた気がした。その彼の横顔が浮かんだ。彼がそう言うのならば、私はするのだ。そうだった、そうだった。
「どうしても閉められなかった」とお爺さんがお義母さんとお義父さんの助けも借りながら細々と続けていらした酒屋さん。私もその手伝いをするようになって、そしてやがては私が店を継ぐことになった。
酒屋の女主人、誰とも一緒にならない私のことを、周囲は不思議がったが、それもどうだって良いことだった。振り返れば、彼がいる。私を無条件に愛してくれた彼が、確かにそこにいるのだから。
春が来れば一人で花見をし、季節が過ぎても二人見上げた景色を眺め、彼が愛した店で時を食み、季節ごとの花冠を編んで、そうして生きた。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
そうやって食い潰すように生きた私の人生にも、彼と同じように終わりが来た。六十の誕生日を迎えて数日のことだった。
私はついに一人きりで人生に幕を閉じることになった。いつか店じまいをして、私の住処となっていた酒屋の奥の部屋に一人横たわる私を看取る者は誰もいなかった。けれどそれでよかった。それが、よかったのだ。
最期の瞬間、思い浮かべたのはやはりシュンさんのことだった。私の最期の最後の言葉も彼へのものだと決めていた。
「シュンさん...愛していますよ」
桜の花びらがひらりと一枚、窓の隙間から踊り入って、私の手の上にとまった。それが彼からの返事のように感じられて、その瞬間もう本当に思い残すことは何一つないと思えた。
彼を想いながらゆっくりと、私は目を閉じた。
気づけば私は、真っ白な空間にいた。
辺り一面眩しいほどに白い世界、そこに私は立っていた。目が眩むようなまばゆさがどこまでも続くかのように思える空間の中、私は瞬きを繰り返した。目が慣れてくると、数間先に美しく輝く玉があることに気がついた。それはそれは美しい光の玉だった。
ふらふらと吸い寄せられるように歩みを進め、手を伸ばしたその時だった。どこからともなく、機械的な声が聞こえてくる。
――ようこそ、天界へ。
驚き周囲を見回しても、そこには私以外には誰もいない。ただどこまでも、白い空間が広がっているだけ。
――貴方は今、人としての生を終えました。
どうやらその声は、目の前の光の玉から聞こえているようだった。あまりに現実離れした出来事。けれど確かに声が言うように、私は死んだのだろう。私が静かに耳を傾けていると、声は淡々と話を続けた。
――魂は輪廻転生を繰り返します。
――人から天使へ、天使から人へと魂は巡るのです。
――貴方にはこれから天使になるための研修を受けていただきます。
――天使としての職務、それは人の願いを叶える手助けをすることです。
――そうすることで積んだ徳が、貴方の人としての来世を決めます。
――またこれは、貴方の魂が正常に別の体に宿ることを確認するための試験期間でもあります。
――説明は以上です。
――健闘を祈ります。
それだけ言い残すと光の玉は一層光を増して、そしてふっと消えた。あまりの眩しさに目を瞑って開いた次の瞬間には、周りにたくさんの人がいた。
「え...」
きょろきょろと辺りを見回す私に、周囲の視線が集まる。皆が皆、白い服を着て、思い思いに談笑をしていたらしかった。その最中に私が突然現れたのだろう。近くにいた感じの良さそうな女の人が一人、私に声をかけてくれた。
「あら、こんにちは」
さっきの光の玉が言ったように、もしもここが天国だとかいう場所だというのなら、彼女はここに来るにはまだ随分と若すぎるように思えた。
「えぇと、なんだかよく...わからないのですけれど」
「大丈夫、安心して。私がここのこと説明してあげる。時間だけはいくらでもあるからね」
彼女がそう言うと、周りにいた数人が穏やかに笑った。その様子に、どうやら彼らが歓迎してくれているのだということだけはわかった。
「私の名前は豊川キヨ。あなたは?」
「結川春野といいます」
聞けばここにいる人達は皆私と同じように、死を実感した直後気づけばといった風にこの場所にいたのだそうだ。
ここにはこうして私のように、定期的に新しい人がどこからともなく現れるらしい。その度に近くにいた人がこの場所について教えてあげる、なんとなくそんな暗黙の了解があるのだそうだ。
私はどうやら本当に結川春野としての生涯を終えたらしい。そして次は、来世への徳を積むため、誰かの願いを叶える天使として生まれ変わるのだそうだ。
「それで私...どうすれば良いのかしら」
「そうね。研修というのがあるのよ。そこでいろいろ教えてもらえるから安心して」
「研修?」
「そう。そこで天使としてやってはいけないこと、できること。その他諸々、全部教えてもらえるわ」
「それが終わったら、天使になるの?」
「そうね。見ていた感じ、ある日突然『呼び出し』がかかるのよ。そこでまたあの光の玉から、誰のどんな願い事を叶えれば良いか、そういったことを聞かされるそうよ。それからしばらくするとみんな身の回りの準備をして、やがて下に降りていく」
研修は人間界で言う学校に通っているような感覚だった。学校と違うところといえば、若い見た目の天使もいればお年寄りに見える天使もいるということ。
この姿は生前自分が一番幸せだった時の姿なのだという。見れば私の手はシュンさんと過ごした頃の、若い手をしていた。キヨさんも今の見た目はとても若かったけれど、亡くなったのは私と同じ歳の頃のことだったそうだ。
研修の期間は人それぞれだそうで、すぐに人間界に降りていく天使もいれば、私より随分と前から天界にいる天使もいた。
それならばどこかに彼がいたりするんじゃないかと思って探したけれど、誰に聞いても彼のことを知る者はいなかった。四十年も前に死んでしまったのだ。もうとっくに天使になって、人として生まれ変わってしまったのかもしれない。
「ここに来てまで探すだなんて、その人のことを本当に愛していたのね」
「死んで仕舞えば、また会うことができると思っていたのに」
「そうね。けれどそうやって人探しをして、実際に会えた天使もいるそうだから...諦めずにもう少し、頑張ってみましょう」
キヨさんは本当によくしてくださった。彼女がいてくれたおかげで、右も左もわからなかった私もすぐに天界に慣れることができた。けれどやっぱりいつまで経っても、シュンさんを見つけることはできなかった。
「ねぇねぇ、キヨさん」
「どうしたのハルちゃん」
「なんだかね...気のせいなのかもしれないけれど」
「えぇ、なぁに?」
「なんだか最近、記憶が...生きていた頃の記憶がね、遠ざかっていっているように感じるの。まるで他人事みたいに」
「あぁ、ハルちゃんもなのね」
「え?」
「それはね...そういうもの、なのよ」
「そういう、もの?」
「ほら、私達天使は、願いを叶える相手の記憶も抱えなくてはならないでしょう?」
「えぇ」
「それっていうのはね?願いを叶える相手の記憶を、まるで自分のもののように脳に刻まれるようだと『呼び出し』された天使から聞いたわ」
「自分の、もののように...」
「きっと全く違った時代に降りることになっても困らないように、そういう風になっているのね」
「あぁ」
「だからね、そのために天使は脳みその中に隙間を空けなくちゃならないのよ、きっと。噂ではそうやって前世の記憶が遠ざかることも、天使になって人間界に降りるための指標の一つだと言われているわ」
「そうなのね...じゃあ、キヨさんも感じる?記憶が薄れていっているの」
「そうね。忘れるように欠けるように記憶を失っている...というよりは、本当にハルちゃんの言うように、遠ざかってる感じがするわよね。記憶ごとまるでまんべんなく薄まっていくような」
「そう。そうなのよ。それがなんだか恐ろしくて」
「大丈夫、大丈夫よ。おかしなことではないから。きっとそれが、生まれ変わるということなのだから」
それならば。他の記憶はどうでも良い。けれどシュンさんとの記憶だけは絶対に忘れることのないように、自分のものであるように、大切にしっかり繋ぎ止めていようと思った。
どうせ天使になって人間界に降りれば、それから一か月でこの記憶は消されてしまうのだ。それならいっそ、最後の最期まで彼を愛していたかった。
天界での時の流れは曖昧で、もうどれだけそこにいたのかなんてわからなくなってしまっていた。
そんなある日、私にもついに『呼び出し』がかかった。
指定された部屋に入ると、そこには初めてここに来た時に見たのと同じ光の玉があった。ゆっくりと近づいてゆくと、あの声が聞こえて来る。
――研修期間、お疲れ様でした。
――貴方はこれで立派な天使です。
相変わらずの機械的な声が白いだけの部屋に響いた。
――貴方の担当は斉藤拓、齢十八歳、男性です。
こちらの感情なんて関係なしに、あれよあれよと話が進んでゆくこの感じ。初めてこの玉を見たあの日のことを思い出す。まだ右も左もわからなかったあの日。あれから私は研修を経てこれから天使になる。
担当というと、これから私が天使としての一生をかけて、願いを叶える手助けをする対象のことだ。どんな人だろう?一体どんな願い事を叶えることになるのだろう?けれど緊張に浸る間も無く、光の玉はぽうっと宙に映像を投影した。徐々に形作られてゆく影に、私は目を凝らした。
そこに映ったのは、一人の若い青年だった。
瞬間、体中に走った衝撃と感情はこれまでの人生を持ってしても、到底言語化できそうにないようなものだった。
シュンさん、彼だった。顔も姿も変わっている。けれど今の私には魂が見える。彼がまとう魂に、前世の彼の面影が覗いた。
彼だ、彼だ、彼だ...
涙が溢れる、手の震えが止まらない、息が苦しい。
そんな私にはお構いなしに、光の玉は林春吾郎、もとい斉藤拓のこれまでの人生についての情報を見せてきた。それはまるで直接頭の中に流れ込んでくるかのように、鮮明に私の脳に焼きついた。
こちらを覗き込んでくる、彼の母親の笑顔。
近い地面を一生懸命によちよちと歩く赤い靴。
クレヨンをむんずと掴む手、白い紙に青が広がれば「すごいぞー」と嬉しそうに笑った彼の父親の声。
ランドセルから取り出した真新しい筆箱。授業前、彼の机の周りに群がる同級生達。
ゴツゴツと男らしさを帯びてくる手、授業中のシャーペンでの落書き。教科書の偉人の模写。
初めて向き合ったキャンバス、買ってもらったパレットに絵の具を搾る指がわくわくと震えた。
何枚も何枚も描いてはコンテストに応募した。最初はドキドキと結果を待っていた心も、段々と希望を失っていく。
進路希望調査票を前に、握る拳がふるふると震えた。
筆を、折った。
なんとなく選んだ法学部を受験して合格した。
ちっとも、嬉しくなんて、なかった。
そこで斉藤拓の記憶は止まった。呆然とする私に光の玉が語りかけてきた。
――貴方は彼を知っていますね?
――前世で貴方はあまりに一途に彼を想い続けました。
――私はそれを、全て見ていました。
――けれど彼はもう貴方のことを覚えていないでしょう。
――貴方が生まれ落ちる姿も、生前の貴方のものではありません。
――だからこれは優しさに見せかけた、ただのエゴなのかもしれません。
――愛しい我が子よ、どうか貴方が天使としての職務を全うせんことを。
それまで機械的だったその声に、微かに感情がこもったように思えた。次の瞬間には光の玉は消え、気づけば私は部屋の外にいた。
「ハルちゃん!...ハルちゃん!?」
彼を失った時と同じような痛みが襲う胸を押さえながら、私は力なくその場に座り込んだ。
「キヨさん...キヨさん、私...」
「何があったの!ハルちゃん」
人間界に降りるまでには、少しの準備期間を与えられていた。私はその間に、何度も心の整理をした。キヨさんに何度も励まされ、私はどうにか正気でいることができた。
一か月。数十年越しに訪れた彼との再会の期限はたったの一か月なのだ。
私は彼の願いを叶えたい。
そう思ったのはもしかすると、直接脳に流し込まれた彼の記憶や感情のせいなのかもしれない。けれど私は、天使としても結川春野としても、心から彼の願いを叶えたいと思っていた。体の中心から沸き立つように、強くそう思っていた。
「ハルちゃん。また、どこかで」
「キヨさん。きっと、どこかで」
キヨさんと別れの挨拶を交わし、私は目の前に現れた階段を一歩また一歩と下っていった。
目覚めるとそこは小さな緑の丘だった。朝日眩い景色の中に私はいた。ひらひらと花びらが何枚も降ってきて、見上げて初めて、そこが桜の木の下なのだと気づく。
丘の下には私の前世にはなかったような建物や機械が彼の記憶と重なって溶け込む風景が広がっていた。等間隔にならぶ街路樹と、ガラス張りの建物と。
彼の記憶と重ね合わせるように周囲を散策する。私が目覚めた丘の裏側には、彼の大学があった。
「あぁ。これが今の彼が生きている時代なのね...」
そう呟いてから、ハッとする。そうだ。私はこれから何も知らない現世の彼と出会う。きっと私から話しかけ、どうにか仲良くなって、そして彼の願いを叶える手助けをしなければならない。怪しまれてしまわないように、話し方だって今の時代に合わせなくては。
「ここが、今の彼が、生きてる、時代なんだ...」
建物のガラスに映る私の姿は、前世とは違う見目の、彼と同じ年頃の女の子になっていた。私はもう、結川春野ではないのだ。
天使は願いを叶える対象人物の魂の色が、遠くからでも見えるようになっている。大学から通りひとつ向こうのアパート。その一室に、彼の魂が光っているのが見えた。
大学が始まる時間になると、彼の魂の色が動き出した。アパートから離れたそれは少しずつこちらへ近づいてきて、やがて講義棟へと吸い込まれていった。その光を追って、私も大学の敷地内へと足を踏み入れた。生徒でもない私が勝手に入ってしまって大丈夫なのだろうかと不安だったけれど、大学とは存外誰でも自由に出入りできる場所なようだ。
「自然に話しかけるには...きっと、ここの大学に通ってる学生ってことにするのが良いわよね...いい、よね?」
誰に止められることもなく、私は無事講義棟に侵入することに成功した。大学の101教室、その中に彼の魂の色が光るのが見えた。
「この中に、彼が」
トクトクと忙しく跳ねる心臓を抑えて、私はその重厚な扉を押し開けた。私一人が紛れても誰も気づかないだろうほどに広い教室。私が開いた扉はどうやら、教室後方のものだったらしい。そっと忍び込めば、はるか前方に黒板があって、十数列もの長机が階段状に連なっていた。そろりそろりと私はその一番後ろの席に腰掛けた。
彼の魂の色は、前から三列目の席に灯っていた。
カーキ色のジャンパー、黒髪のつむじ。
光の玉に見せてもらったままの姿。
間違いなく、彼だった。
実際に彼を前にすると、心臓が否応なしに早鐘を打った。数十年ぶりの彼が、確かにすぐそこにいるのだ。前世ではどんなに会いたくても会えなかった彼が、歩いてゆけば届く距離にいる。彼が、いる。それだけでもう、呼吸の仕方もわからなくなってしまいそうだった。
気づいた時にはもう、目から涙が溢れていた。抑えた口から漏れる嗚咽。隣の席に座っていた女の人が、怪訝そうにこちらを見たのがわかった。咄嗟に顔を隠すように俯いても涙はとめどなく溢れて、授業前の静まり返った教室に私のすすり泣く音が響いてしまいそうで...
いたたまれなくなって立ち上がると、私は音を立てた椅子にも構っていられずにそのまま教室を抜け出した。
その日は結局、私は彼に話しかけることができなかった。彼を遠目に見つめる、それだけで涙が溢れて仕方がなかった。
講義が全て終わると再びアパートへ吸い込まれていった彼の魂の色。夕暮れの中、わたしは桜の木の下で、輝くその色をじっと見つめていた。一か月しかない。焦るばかりの心をどうすることもできずに抱きしめたまま、その日、私は日没とともに眠りにつくように姿を消した。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
次の日、彼は二コマ講義を受けると大学のカフェに入って行った。
心の準備も作戦会議も朝から何度もしたはずなのに、いざ彼を目の前にするとやはり心がすくむのだった。
けれど私には時間がない。もうこれ以上、二の足を踏んでいるわけにはいかなかった。
カフェの外のベンチからこっそり彼の方を覗き込みタイミングを測っていると、彼が鞄からノートと鉛筆を取り出すのが見えた。
やがてチラチラと桜並木を目に収めては、忙しく手を動かし始めた彼。その姿に彼がスケッチをとっているのだとすぐにわかった。
彼の夢、絵の道に進むこと、それが彼の諦めた夢、私が叶えたい願い。彼が絵を描いているのだ。彼の天使として、ここで行かないわけにはいかなかった。何度も深呼吸をして、今度こそはと心を引き締めると、私は意を決してカフェへと足を踏み入れた。
「お好きな席にどうぞ」
そんな声かけに私は彼の視界に入るであろう位置に座った。平常心、平常心。心の中でどれだけそう繰り返しても、心臓は姦しくて仕方がなかった。
「えっと...何か頼まないと、いけないわよね」
メニュー表には、私が生きていた時代には無かったような飲み物がずらりと並んでいた。思わず背筋が伸びてしまう。五百円、四百五十円、五百五十円...この円というのがお金の単位だということは、彼の記憶で知っていた。大丈夫。お金でも物でも必要経費であれば願うだけで手元に現れるようになっている。神様が天使に与えてくれる特別な力のひとつとして研修で教わっていた。
「四百五十円」
試しに小さく口の中でそう念じれば、本当に百円玉が四枚と五十円玉が一枚、手の中にちゃりんと現れた。よかった、本当に出てきた。これで無銭飲食はせずに済みそうだ。私が顔を上げると、目があった店員さんがすかさず近づいてきてくれた。
「ご注文はいかがなさいますか?」
「あ、こ、紅茶をお願いします」
「アイスとホットがございますが」
「えっと、ホットで、お願いします」
「かしこまりました。少々お待ちください」
「はい」
感じよく会釈して店員さんが去っていく。現世での初めての会話が上手くいったことに胸を撫で下ろす目の端にも、彼が映って気が気ではない。けれどかといって、まっすぐに彼を見つめるだけの度胸なんてなかった。遊歩道を眺めるように身を固めながら、私は視線だけをチラチラと彼の方に泳がせた。どうやら彼はこちらにある何かを描いているようだった。手を止めては顔を上げる。そんな彼の視界の中に今、私も映っているのだ。
桜を眺めるふりをしながら、急いで考えを巡らせた。何と話しかけよう、どうやって。早く話しかけないと。今日を逃してしまったら、また機会が減ってしまう。やっとここまで彼に近づけたのだから。
再びちらりと彼を見やると、今度は手元のノートに覆いかぶさるように絵に集中していた。一心不乱にノートに向かう彼が顔を上げる様子はなかった。今だ、今しかない、近づいていって、そして話しかけるんだ。そう決心し私はついに立ち上がった。
ゆっくりと近づいて行っても、彼は余程集中しているらしく私に気づく様子は全くなかった。
そっと、後ろへ回り込み、私は彼の手元を覗き込んだ。
そこに描かれていたのは...私だった。
彼は私を描いていたのだ。
建物のガラスに映って、こちらを見つめ返していたあの少女...確かに私に違いなかった。
溢れ出してしまいそうになる感情。揺れる黒い髪、ゴツゴツとした手がシュンさんそのままだった。気を抜けばまた涙がほろりとこぼれ落ちてしまいそうだけれど堪えなくては。今度こそ、今生でこそ、私は彼の願いを叶えたい。私は強く唇を噛み締め大きく息を吸い込むと、ついに、彼に声をかけた。
「...それ、私ですか?」
肩を震わせ顔を上げる彼と、バチリと目が合った。
「私、ですよね?」
今生の彼が目の前にいた。優しそうな瞳。せっかく堪えた涙が再び込み上げてこようとする。
「すごい、上手ですね!」
ノートを覗き込んで誤魔化したけれど、勘付かれてやしないだろうか。目を強く瞬いて、どうにか涙を堪える。
「...ぁ、ありがとうございます」
その声の端の震えに、彼が驚いているのがわかった。それはそうだ、どこの誰とも知らぬ女が突然話しかけてきたのだから。前髪の隙間から覗き見た彼の顔は、ほんのり赤らんでいた。
「でも、どうして私を?」
「えっ...?」
「どうして私を、描いてくれたんですか?」
「えっ、と」
もしかして、私を見て何か感じてくれたりしたんじゃないだろうか。ひょっとして、前世のことを思い出したりだとか。そんな淡い期待を抱いてしまった。
しばらく言葉を探すように視線を巡らせていた彼が、ハッと何かを思いついたように口を開いた。
「あ、いや、あの...ウチの犬にすごく似てて、それで...」
「犬?」
もう一度彼の目を見れば、吸い寄せられるように目が離せない。深い色をした目が、本当に変わっていなかった。
「いや、君が犬みたいってことじゃなくて!なんかその服が、ふわふわしてて、うちの犬に色も似てて、それで...」
私は、シュンさんに初めて出会った、あの日のことを思い出していた。
雨の中、酒屋の店先で震えていた仔犬に、及び腰になりながら手ぬぐいをそっと投げた彼。缶詰を地面に置くと、すぐにおおげさに後ずさった大きな体。雨のカーテン越し、目が合って、彼は恥ずかしそうにはにかんだ。
今生も変わっていない優しい目が嬉しくて。あんなにも怖がっていたくせに、輪廻を超えた彼は犬を飼っている。幼い頃両親にせがんでやっと買ってもらった犬を彼が溺愛していることを私は知っていた。そんな彼がなんだか可笑しくて。
「ぷっ、くはははは!」
やはり、彼は私のことをちっとも覚えていないのだ。けれどそれでもよかった。今日ここで話せたことがこんなにも嬉しかった。本当に嬉しかった。
色々な感情とともに目元に滲んでしまった涙を慌てて拭うと、戸惑った様子の彼へ私は精一杯の笑顔を向けた。
「それ、ください!」
「へ?」
「ください!出演料!」
「えっ、あっ...はいっ」
差し出した手は彼まで三寸の距離。本当にまた彼と会えた。その記念に何か欲しかった。それが彼の描いた絵だったなら、どんなにか素敵なことだろうと思った。
彼はおぼつかない手つきでノートのページを一枚破ると、私に手渡してくれた。
そこには眩しそうに目を細める少女が描かれていた。それは確かに私だったけれど、私の知らない少女の姿をしていた。もう彼の目に映る私は、あの頃の私ではないのだ。けれど夢を諦めたはずの彼の絵が、こんなにも美しく心動かすものであることが、私は嬉しかった。
「本当に、素敵...ありがとうございます」
絵を大切に抱え顔を上げれば、彼が真っ直ぐな目でこちらを見ていた。数十年の時を経て、私たちは今やっと、見つめ合った。
あぁいけない、このままだといよいよ泣いてしまう。私は慌てて顔を伏せると、後ろ手に急いでスマートフォンを念じた。それを今まさにポケットから取り出したような素振りで構えると、私は彼の記憶を頼りにトークアプリを起動した。
「今日はこの後用事があるんで時間ないんですけど、今度お礼させてください」
これさえあれば、そばにいなくても文字でやりとりができるのだと、彼の記憶から知っていた。
「え?いや、お礼なんて。僕が勝手に描いただけですし」
彼が恐縮するように体の前で小さく手を振った。けれどここで諦めるわけにはいかない。こんなこと、初めてだった。前世では私から声をかけることさえできなかった。彼が話しかけてくれても、逃げるように酒屋から駆け出してしまったことを思い出す。まっすぐ彼へ突き出した手はどうしようもなく震えてしまっていた。変な子だと思われてしまったら、避けられてしまったらどうしよう。
「それって、連絡先交換してくれないってことですか?」
これで断られてしまったら、私はそれ以上どうして良いかわからない。唇を噛み締め祈っていると、彼は戸惑いながらも自分のスマートフォンを取り出してくれた。彼がQRコードを読み取ってくれている間も、押し寄せてくる感情で心が忙しかった。それらが全て今にも涙に変わってしまいそうで、私は必死で唇を噛み締めた。
「あ、これですかね?...A.Hさん?」
優しく尋ねてくれた声にどうにかコクコクと頷いた時には、もういよいよ限界だった。
「じゃあ!」
どうにかそれだけ言い残すと、私はやっぱり逃げるように彼に背を向けた。
急いでお会計を済ませる時にはきっと、私の顔は涙でぐちゃぐちゃだったと思う。店員さんに心配されたけど、上手く返事もできないまま、私は店を駆け出した。
桜が降る木漏れ日の中を私は走り抜けた。喜び悲しみ恋しさ愛おしさ...色々な感情が一気に押し寄せる私の心臓は、ドクンドクンと音を立てて痛いほどに脈打っていた。
誰もいない場所へと思いながら走っていたら、いつの間にかあの丘に辿り着いていた。毎朝私が目覚める、桜の木の下。
「はぁっ、はぁ...」
息が苦しい。私は崩れ落ちるように木の根本に座り込んだ。
ついに彼に話しかけることができた。連絡先も交換できたのは本当に上出来だと思う。けれどまだまだこれからだ。
彼からすれば私は今日初めて会ったばかりでいきなり連絡先を聞いてきた赤の他人なのだ。そんな私がたったの一か月で、彼と夢の話ができるほどの距離に近づくなんてきっと容易なことではないだろう。しかもその夢を叶えるだなんて。
少しずつ木の影が長くなっていくのを眺めながら、私は時が経つのを待った。そしてそろそろ架空の「用事」も終わる頃合いに、私は彼とのトークルームを開いた。また直接会ってもらえるにはどうすれば良いだろう。そう考えて、彼と絵の話ができる可能性が少しでもある場所に誘おうと思い至った。
『今度、美術館おごらせてください!』
さすがにいきなりすぎるかとも思ったけれど、私には時間がないのだ。返信を待っている間にもほら、空はみるみる橙色を帯びてゆく。
『どこの美術館が好きですか?』
やっと返ってきた返事。私は彼の記憶の中から一番素敵な美術館を選び出して答えた。
『私、桜野美術館が好きです!』
『僕も好きです、桜野美術館』
その返信に思わず頬が緩む。なんだか少しズルをしている気分だった。
『じゃあそこにしましょう!いつ空いてますか?』
『今度の日曜とか都合どうですか?』
今日が火曜日だから...日曜日といえば五日後ということになる。三十日しかないうちの五日は大きい。
けれど彼がバイトに授業に課題にと日々忙しいことも、私は知っていたから。
『丸一日空いてます!』
『じゃあ日曜に』
『集合は、どこにしましょう?』
『桜野駅とかでどうですか?』
『いいですね!そうしましょう』
今日会ったばかりの彼とまた会う約束をできた。それだけでも十分よくやったと言えるだろう。私は何度も自分にそう言い聞かせた。
それでもまだ、陽が沈んでしまうまでまだ少し彼と話していたかった。それから私達は好きな本や音楽、食べ物の話をした。彼が何度も驚いたように『僕もです!』と返事をくれたけれど、そんなの当たり前だ。
だって最近の本や音楽、テレビも、私は彼の知っているものしかわからないのだから。私が本当に好きなものを言ってしまえば、完全に時代錯誤、不審がられてしまいそうで。だから私は全てを彼の記憶の中から探し出してきては打ち込み送信した。深い話になっても答えられるように、彼がよく知っているものを。
『あ、そういえばお名前を聞いてもいいですか?』
数十分やりとりした末の彼のメッセージに、今更と少し笑ってしまう。天使に名前なんてないから...
『あ!そっか、まだ名乗ってなかったなんて、すみません。ハルノです』
私は前世の名を名乗った。
『僕は拓っていいます』
知ってる。斉藤拓さん。
『拓さん!よろしくお願いします!』
あぁ、もう日が沈んでしまう。
『そろそろバイトの時間!今日はおやすみなさい』
そう送信して、私はスマートフォンをさっき出した鞄にしまった。そこには彼が描いてくれた私の絵がある。そっと取り出して、それを夕暮れの空に掲げる。
これが私。あの頃彼が見つめてくれた私はもういないのだ。願わくばせめて、あの時の姿で彼の前に現れたかった。けれどそれは望みすぎなのだろうから。また会えただけで感謝しなくてはならないのだから。
彼が描いてくれた絵を胸に抱き締めながら、私はそっと目を閉じた。涙が一筋流れたその瞬間、ふっと自分の体が消えるのを感じた。
それからの五日間は、遠目に彼を見守りながら、時々私からメッセージを送る日々を過ごした。日曜に会うまでにできるだけ距離を縮めておきたかった。
『今日は何限から授業ですか?』
考えに考えた文面を打ち込んで読み直してやっとのことで送信ボタンを押すと、私は丘の上から彼のアパートに浮かぶ魂の色を眺めて返信を待った。
『三限から。ハルノさんは?』
メッセージが届くとスマートフォンに飛びつくように返信を読んだ。これでは現代で言うところのストーカーと呼ばれてしまっても仕方がないかもしれない。
『えーっと、二限からです!』
『え!?じゃあ今授業中!?』
いつもの桜の下、がばりと体を起こす。そうだ、二限といったらもう、とうに始まってしまっている時間なのだ。あぁどうしよう。授業中にメッセージを送るような、不真面目な子だと思われてしまったかもしれない。
五日の間、メッセージだけでもすでに何度かボロを出してしまっていた。必ずや正体を隠し通して、彼の人生でふっと通りすがって少し夢を叶える後押しをしてくれた、ただの通行人Aに徹しなくてはならないのに。だって私は彼の願いを叶えるためにここに来たのだから。そうはわかっていても、彼とやり取りをしていると、ついいつの間にかヒロインを夢見てしまう私がいた。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
待ちに待った日曜日は快晴だった。時間通り待ち合わせ場所に着いた時には、彼はもうすでに天使の像の前にいた。
思えばいつだってそうだった。シュンさんは決まって私より先に着いて、待っているような人だった。
「また待たせちゃった、すみません」
そう口に出してから、しまったと口を噤む。またやってしまった。タクさんと待ち合わせをしたのは今日が初めてなのに「また」だなんて。けれど緊張している様子の彼は、私の失言になんか全く気づいていないようだった。
「いや、全然。行こっか」
俯きがちにもごもごそう言うと、彼はそのまま歩き出した。
不思議な感覚がした。桜野駅は確かに初めて来る場所なのに。彼としての記憶の中に、この場所は何度も登場して、美術館での素敵な思い出とともに色褪せずに残っていた。彼の記憶を通して見た数々の絵を、これからこの目で見られるのだと思うと胸が躍った。
微妙な距離を保って歩く私達の間を、春風が吹き抜けてゆく。足元で桜の花びらが楽しげに踊っていた。
ふと隣を見れば、長い前髪から彼の綺麗な目が覗いた。それだけでドキドキしてしまうのだから、本当にどうしようもない。
「...あ、あの、えっと...ハルノさんの名前って、漢字でどう書くんですか?」
形のいい唇から声が溢れて初めて、自分が無言のまま歩いていたのだということに気づいた。
そうだ、二人でいるのだから、何か話をしないと。
「え?あ、春夏秋冬の春に、野原の野でハルノです」
「春の...野?」
彼の長い指が、私の名前を宙でなぞる。
「はい!」
「やっぱり」
そう呟いてはにかんだ彼の横顔に、シュンさんの面影を見た。
やっぱり。そんなことを言われると、また期待してしまう自分がいた。私の名前に聞き覚えがあるんじゃないか、なんて。
「何がやっぱりなんですか?」
一抹の期待に心を震わせながらも平静を装って尋ねると、彼は一瞬私の目を見て再び照れたように俯いた。
「いや、なんかこう、そのまんまそんな感じだから、ハルノさん」
「...何ですかそれ!」
本当は、わかっていた。彼の記憶を持っている私が一番よくわかっている。彼は前世のことを一切覚えちゃいない。
勝手に期待した私が悪い。駄目だ、ちゃんと笑っていないと。そんなことに、気を取られてしまって、それがいけなかった。
「けどシュンさんも!...あっ」
勝手に舞い上がって、勝手に落ち込んで、それで思わず口を滑らせてしまった。シュンさんじゃなくてタクさん、これも何度だって練習したのに。
不自然に満ちる沈黙、今度こそは私の失言に気づいてしまった様子の彼が、こちらを覗き込んでいる。
「ハルノさん?」
「あ...シュン、さん...じゃなくて、タクさん...ですよね」
口を押さえても吐いてしまった言葉は戻らない。誤魔化さなくては、どうにか。
「あの、そう!タクさんのこと、シュンさんって呼んでいいですか?」
「え?」
「あだ名みたいな感じで!だってほら、さん付けで呼ぶと "沢山" で変な感じするので。だから...えっと、春だし、春夏春夏秋冬の春って書いて、シュン。ほら似合う!!」
流石に無理のあることを言っている自覚はあった。けれどこうでも言っておかなければ私のことだ、またうっかり彼のことを「シュンさん」と呼んでしまいそうで。
一瞬の静寂、背中に冷や汗が流れるのを感じた。もう駄目かと思った。けれど次の瞬間、凍りついた空気を彼の呆れたような声と笑顔が和ませてくれた。
「じゃあ僕、季節ごとに名前が変わるんですか!?」
「あー、えっと...そういうことに、なる...かもしれません!」
「そんな理不尽な!」
初めて、笑ってくれた。彼の笑顔が見られた。
安心するのと同時に場違いに高鳴ってしまう心に、自分の単純さを呪う。
「む、無断で私の絵を描いた仕返しです」
「でも出演料払いましたし!喜んでくれたじゃないですか」
「あ、そっか!その節はどうも!お礼に今度映画館奢らせてください、シュンさん!」
二人で話すのはとっても楽しかった。姿形が変われども、彼はやっぱり彼なのだ。私達は昔桜の木の下でしたように、たくさんおしゃべりをした。楽しい。そう思っているのが、私だけでなければいいなと思う。
桜野美術館は、彼の記憶で見たそのまま荘厳に佇んでいた。押し問答の末、結局彼が払ってくれてしまったチケットを入口でもぎってもらう。こんなことになるならば、「もらった」なんていうていでチケットを前もって出しておくんだった。そんな後悔も、一歩絵画エリアに足を踏み入れればあっけなく消し飛んでしまった。
かつての彼が、数年前までの彼が何度も通って心動かされた絵画達が、そこに並んでいた。前世の私よりも古い絵から、私より若い絵まで、ずらりと並んだ額縁が淡くライトに照らされている。
「どうしてこのシーンを描こうと思ったんでしょうね?」
「表情じゃないかな?」
「この女の子の?」
「うん。多分それを描きたかったんじゃないかな。とか言って、全然違うかもしれないけど」
「ふふふ、あまりにお腹が空いてて、彼女が持ってるパンが印象に残っただけ、かもしれませんしね」
絵を描きたい、そのきっかけに私がなれたなら、どんなにか良いだろうと思う。
「なんかこの男の人、シュンさんに雰囲気似てませんか?」
「そうですか?」
「うんうん。もしかしたら生まれ変わりとかかも」
「え...僕、前世はオランダ人だったんですか?」
「うーん、前々世くらいなら、有り得そうです」
私達に前世があるのだから、きっとその前だってあるはずだった。彼の前世のまた前世がオランダ人だったとして、私はその頃一体どこにいたのだろう。この額縁の中、同じ画角に収まることができていたのなら素敵なのに。
「この色、好きです」
「ハルノさんっぽい色ですね」
「え?そうですか?」
「うん。ハルノさんはなんか、淡いピンクとか黄色って感じがします」
「シュンさんはそうだな...こんな感じの色使いなイメージです。この梨とりんごの絵みたいな」
実際、シュンさんの魂の色はこんな色をしている。暖かく、芯には力強いものがあって、それでいて優しい。
「ハルノさん、お腹空きました?」
彼のそんな冗談に言い返そうと思ったのに、タイミング悪く鳴ったお腹の音に何も言えなくなってしまう。時刻は昼をとうに過ぎていた。
美術館を出ると、私達は約束通りにあのタイ料理屋さんへと向かった。
「シュンさんと、たったの数日でこんな風にパッタイを分け合う仲になるだなんて、思ってもみなかった」
タイ料理屋さんの淡くあたたかな照明に照らされながら、私達は向かい合って今同じものを口にしようとしている。それだけで、なんだか感慨深かった。
「それは僕の台詞だよ。こんな風に女の子に誘われたのも、初めてだしさ」
「そうなんですか?」
しらじらしくそんなことを言っておきながら、本当は知っている。彼の過去の全てを、私は知ってしまっている。なんだか少し悪いことをしている気になる。
「うん、最初は怪しい壺でも売りつけられるんじゃないかって思ってた」
「ふふふ...いや、私大学に知り合いもいなくて。友達がほしいなって思ってたんです」
「あぁ、そういえば、ハルノさんって何学部なの?」
「え!?」
思ってもみなかった質問に、つい素っ頓狂な声が出てしまった。できるならば嘘なんてつきたくはないけれど、天使でいるということは本当を吐いていては隣にいられないということだから。
「あぁいや、あそこで出会ったから勝手に同じ大学だと思ってたんだけど、違った?」
「あ、えっと...うん。私も、一年生」
「だよね。いや、あれから見かけないけど、何学部なのかなと思って」
「あー、えっと...美術、学部?」
「え?うちは美術学部なんてないじゃない」
ほら、やってしまった。自分が嘘が下手だということは、嫌というほどにわかっていた。私は小皿を引き寄せて、トレーの中からスプーンを取り出して握った。彼がパッタイを取り分けてくれたから、私もカオマンガイを取り分けるついでに話題を変えてしまおうと思って。
「シュンさんも、カオマンガイ食べますよね!」
「え?あぁ、ちょっともらおうかな」
「じゃあ、カオマンの部分、多めで」
「カオマンの部分?何それ!」
「だってほら、パッタイのパッの部分たくさんもらっちゃったので」
「具の部分ってこと?」
「そうそう、大体そんな感じです」
こうして私はシュンさんと数十年ぶりのデートをした。二人向かい合い話すうちに、私は一時自分が天使だということも忘れて心から彼との時間を楽しんだ。
店を出る頃にはもう、夕刻にさしかかっていた。
日が落ちれば私の体は消えてしまう。その前にお別れを言わなくてはならない。彼の目の前で忽然と姿を消すわけにはいかないから。けれど、わかっていてもどうしても名残惜しくて、もっと話していたいと思ってしまう自分がいた。
「シュンさん、今日は、楽しかったですか?」
「うん、楽しかったよ」
あぁ、よかった。ほら、それが聞けただけで十分じゃないか。心の中で自分に言い聞かせる。私は今日、少しでも、一歩でも、彼の夢に近づけただろうか?
「シュンさんは...絵、好き、ですよね?」
「うん」
「じゃあ絵、描くのも好き!ですよね?」
「...好き、だけど」
最後にしっかりと顔を見たくて、彼の前に躍り出た。私を見つめ返す目がオレンジ色の光を宿して揺れている。その瞳に、なんだか吸い込まれてしまいそうだった。
「じゃあ今度、映画もいいけど。私見たい、シュンさんが絵を描くところ!」
どうしても、次の約束を取り付けてからさよならがしたかった。だってもう、あと二十三日しかないのだから。
「...うん、いつかね」
彼の声色が重たく沈んだ。やはりまだ彼にとって絵を描くということは、抉れたまま無理に覆い隠しただけの大きな傷口なのだ。わかっていた。わたしには彼の記憶があるのだから。
それでも私には彼の言ういつかを待つような時間はない。けれどそんなこと、彼の気持ちが痛いほどにわかってしまう私に言えるはずがなかった。
「...はい、いつか」
思わず震えてしまった声の端。彼が心配そうな顔でこちらを見ているのがわかった。
いけない、元気にお別れを言わないと。せっかく楽しい一日を過ごせたのだから。日が沈む前にさよならを言って、彼の前からいなくならないと。
私は急いで笑顔をつくると、最後に彼の表情をこの目に焼きつけた。
「じゃあ、今日はここで!ありがとうございました、すーっごく楽しかったです!」
一方的にそう捲し立てると、私は踵を返して駆け出した。大丈夫、ちゃんと笑えていたと思う。
三十日という期間は始まってしまえばあまりにあっという間で。今日のさよならを言うのにも泣いてしまいそうな私が、最後の日に笑顔で彼と別れられる自信がなかった。
そして何より、こんなに短い期間で私が彼のためにできることがあるのだろうか。願いを叶えてあげること、その手助けが本当にできるのだろうか。
薄手のワンピースでは肌寒くなってきた夕暮れの街を、私は消えるための場所を探して走った。