僕が湿度で満たされる時

「在りし日の姿へと」

 突然、母は僕を連れて外へと出かける。

僕は誘われるがままに母について行った。

夕暮れも差し迫る頃合いなのに、どうしてこんな時間にと不思議に思いもしたが、母と遊ぶ時間が好きな僕はほとんどを楽しみだという感情に支配されていた。

外は夏、雨上がりの湿度に満たされている。

道路に張り付いた水たまりが真っ赤な夕焼けを反射して燃えている。

少し歩いて公園にたどり着く。

「少し、ここで時間を潰しましょうか。」

母はそう呟くとベンチに腰かけた。

どうしてだろう、そんなことを思いながらも母の前で走ってみたりブランコに乗って揺れてみたりと僕はその時間を楽しむ。

母のその笑顔が僕の笑顔へと繋がっていく。

不意に、鉄棒に白い蛾が止まっていることに気が付いた。

何の柄もない、ただ真っ白な蛾。

「こんな所にいたら潰されるぞ。」

僕はそんな蛾をゆっくりと指に乗せると公園の隅へと走る。

ここなら、誰にもばれずに隠れていられるだろう。

そう考え、小さな花壇に咲く一輪の花に真っ白な蛾を乗せた。

ピンク色の小さな花がその重みに少し項垂れる。

その光景は真っ赤に染まる世界の中でとても美しく描き出された。

しばらく、それを見つめる。

突然、公園のどこかから泣き声が聞こえ始めた。

何かあったのだろうか。

「じゃあね。」

蛾に告げると、好奇心に駆られた僕は声の元へと走り出した。

先ほどまで遊んでいた滑り台の下で小さな女の子が一人、数人の子供達に囲まれて泣いている。

子供たちの卑怯な笑い声を聞くに、きっとじめのようなものだろうと察した。

「やめなよ。」

振り絞った叫び声を上げる。

怖くないわけではなかった。

ただ、それを黙ってみていることは僕にはできなかった。

二人の子供が僕に歩み寄り、文句を言う。

体格は変わらないとはいえ、男の子を前に体が小刻みに震えてしまう。

泣かないようにと必死に堪えた。

「どうしたの?」

男の子が僕に手をあげようとした時、背後から母の声が聞こえ、男の子達は走って逃げて行った。

心配そうに覗き込む母に微笑んで、一人残された少女の元へと近寄る。

「ありがとう、ございます。」

母に持たされたハンカチで涙を拭いてやると彼女はそう言って頭を下げた。

照れくさくて僕ははにかむ様に笑う。

そんな時、母の携帯が鳴り響く。

電話越しに母は笑顔で返事をしている。

「そろそろ帰ろっか。」

母はそう言うと僕の手を取った。

「またね。」

小さな女の子にそう言って手を振ると僕は母と共に公園を出た。

もう夕日もほとんど沈みかけている。

一番深い赤の時間に僕は帰路についた。

家に着くと、母は急かすように中に入ろうと背中を押す。

靴を脱ぎ散らかして、居間へと駆けるとパァンとクラッカーの音が鳴る。

「お誕生日おめでとう。」

父と母は僕に口々にそう言った。

机の上に置かれたケーキには七本の蝋燭が立っている。

今日は、僕の七歳の誕生日だった。

祝砲の音に驚いたままの僕はそれを実感するまでにとても長い時間がかかった。

誕生日プレゼントのおもちゃが手渡され、蝋燭を吹き消してと母にせがまれる。

言われるがままに息を吸い込み、吐き出すと蝋の溶けかかった小さな色とりどりの蝋燭から火が消えた。

呆気にとられるままに始まった僕の誕生日会は時間が経つにつれて実感が湧き、高揚する。

明日が来なければいいのにとさえ思う。

外では、雨が降り出したのだろうか地面を叩く音が響き始めた。

今日という日が嬉しくて、何度も父と母の顔を見ては笑う。

小さな僕の、とても大切な、小さな記憶としてずっと残るだろう思い出。

今日という日が誕生日に染められていく、そんな思い出。

僕は今日、七歳になったんだ。

 「小さな粒が弾けて」

 雨が降り続く夏の始まり、梅雨は毎年必ずやってきた。

気が遠くなるほど雨音を響かせて、じっとりとした湿度を纏わせながら。

タイマーが切れたクーラーが仕事を放棄すると、湿度が僕が頬をなぞる。

辛うじて雲の切れ間から差し込んだ朝日が部屋を蒸して、雨音がアラームを鳴らす。

そんな朝が始まった。

僕の大好きな梅雨の季節が始まった。

一年に一回だけの梅雨の季節が始まった。

寝ぼけ眼を数回こすると、大きなあくびをしてたくさんの湿気を吸った、立ち上がって洗面所に向かう途中で寝巻がじっとりと巻き付いてきた。

不思議と不快感はなくて、なんだか包まれているような安心感を覚える。

洗面所で顔を叩くと、水道水が顔の湿気を流して、すぐに湿気が覆いかぶさった。

そして、母の用意した朝食を食べる。

冷えた麦茶が体に入り込む感覚が寝起きで乾いた僕にはしっかりと感じ取れた。

朝食を食べ終えると、部屋に戻って制服に着替える。

スカートを履くとリボンを結んだ。

その姿を鏡で確認すると、窓の外の雨を視界の端に小さく微笑んだ。

高校二年の梅雨が始まろうとしている。

傘をさして歩く通学路はいつもと違って空が見えない。

溜まった水を踏みつけて水飛沫が足にかかった。

隣に走る車は絶えず水飛沫を上げている。

空が傘で見えないときは、その下の様々なものが目に入る。

色々に咲いた紫陽花がこちらを眺めていて、葉の上ではかたつむりが踊っている。

僕は楽しくなって、少し遠回りをすることにした。

人気の少ない、古くなった道を歩く。

気分は見知らぬ街を旅する冒険者のようでいて、かつての見知った懐かしい小道を歩く老人になったような気もする。

色々な情景に自分を当てはめながら雨の中を謳歌した。

ひび割れたアスファルトに雨が滲んでいく。

その先に、地蔵でも祭っているのだろうか、祠のようなものがあった。

普段歩かないから全然気づかなかったな。

そんなことを呟いてみた。

中を覗き込むとやはり地蔵があった。

僕は、手を合わせて拝んでみる。

別に熱心な宗教家でもなかったが、嫌いではなかった。

そして、祠の隣を見ると大きな紫陽花が連なって咲いていてそれは高く大きくなっていた。

誰もこの道を使わなくなって、手入れをする人間もいなくなるとこうも自然は大きく育つのかと感心をする。

そうこうしている内に始業の時刻が迫っていることに気が付いた。

急がなければ、そう思うと雨の中を駆け出す。

学校に着くころには駆け上げた雨水がスカートの裾を濡らしている。

教室の中には湿ったたくさんの人間が集まって、湿度は高く、皆制服を体に張り付けていた。

僕は濡れたスカートを掴むと指に着いた水滴を見つめた。

窓の外では雨が強く降り続いている。

その雨は、僕の心を満たしていくかのように教室の外で世界を雨水で満たしていた。

「おはよう。」

気怠そうな声がして振り向くと友人が濡れ鼠で立っていた。

「憂、おはよう。」

僕がその姿を笑うと憂は怒ったような表情で僕を睨んだ。

「那木は楽しそうだね。」

実際、僕は楽しかった。

憂は僕が梅雨が好きだということを知っている。

憂とはそれなりに長い付き合いだし、仲もほどほどに良い方だった。

そんな彼女は梅雨の時期、そもそも湿気が嫌いだった。

彼女はとても癖毛で湿気が多くなると髪がおもしろいようにうねったからだ。

「憂は楽しくないの?」

僕はそれを知っていて彼女をからかう。

そんなことをして二人で喋っていると教師がやってきて学校での一日が始まる。

退屈な一日だろう。

憂はその言動や態度とは裏腹に勉学にはとても真摯で、僕なんかとはまるで比べ物にならないほど、頭の良い友人だった。

そんな彼女がいい成績で評価されるたびに僕は比べられているわけでもないのに嫌な気分になる。

とても汚い嫉妬だと思う。

そんな彼女が梅雨を嫌うことが、僕が梅雨を好きになるきっかけになったのかもしれないと思うと、少しだけつらくもなる。

けれど、僕は梅雨が好きだった。

このじわりと滲む教室も、さほど頭のよくない僕を慰めるために泣いているかのようで、じっとりと湿気が僕を撫でるたびに優しい気分に浸ることができた。

そんなことを考えていると自分は勤勉が嫌いなのかとも思う。

しかし、実際そんなことはなく勤勉を嫌いだと思ったことは一度もない。

落ち着いて考えれば、評価されることを恐れているといった方が正解に近いのだろう。

そんな僕の中の憂鬱な考えがとても嫌いだった。

他人頼りの変化を期待している自分が確かに存在していた。

適当に黒板を見つめる僕の視界の片隅で何かが羽ばたいたように感じたのはそんな気分の表れかもしれない。

そうしているうちに気怠い一日は幕を閉じる。

「那木、帰ろう。」

憂がそう言うと僕は鞄を持った。

外は鬱蒼とした空の下で雨水が地面に反射している。

僕は、それが楽しそうですぐに外に出た。

雨はじきに僕の体を濡らし、潤いを与える。

「傘も差さないで、馬鹿なの?」

憂はそんなことを言っているが、僕は濡れるのが好きだ。

いつからと言われるとわからないが、いつの間にか濡れることが好きになっていた。

幼いころに何かあったのか、母に尋ねたこともあったが、特に何もないと言われ、ただ純粋に好きなのだと思う。

空を覆う厚い雲は太陽を隠してしまって、夕暮れかどうかもわからない今が、好きだった。

「じゃ、私はこっちだから。」

憂とはいつも途中で別れることになる。

「さよなら。」

僕はそう言うと、空を見上げた。

一年中ずっと、梅雨だったらいいのに。

そんなことを思いながら。

そうやって歩いていると、朝の紫陽花を思い出す。

気になって僕は進路を変えた。

あの紫陽花の咲いている祠に向かって。

いつの間にか雲のせいもあってか、辺りはより一層薄暗くなっている。

祠のある道に差し掛かると、朝とは違う光景に驚きを隠せなかった。

あの道の両側に月見草が咲き乱れている。

「昼間は咲いていなかったのに。」

そんなことを呟きながらその真ん中を歩いた。

花たちは雨に打たれて小刻みに震え、夏の万緑を隠すほどの花びらは目いっぱい、見えない月に向かって咲いているかのようだった。

そんな雰囲気に浸りながら歩き着いた祠にはやはり紫陽花が隠れている。

大きく、高くなったあの紫陽花だった。

ただ、ひとつだけ不思議なことに気が付いた。

下の方にある葉が不思議にがさがさと揺れているように思える。

「なんだろう。」

僕が覗き込むと、真っ白な天使がそこにうずくまって雨をしのいでいた。

髪も、体も、羽も真っ白な天使が僕を見上げる。

その瞳だけは黒く僕を真っすぐに捕らえていた。

衣服を一つも身に着けていないおそらく彼女は静かに僕を見ている。

「大丈夫?」

僕は思はず声をかけていた。

天使が返事をすることはなく、ただ見つめている。

そんな時、雨が止んだ。

それは緩やかにではなく、ぴったりと前触れもなく、突然に、止んだ。

その時、天使は紫陽花から抜け出して立ち上がるとその羽を目いっぱい広げて空へと飛び去って行った。

それはどんよりと灰色に濁った空に美しく映え、僕の瞳に恐ろしいほどに焼き付く。

僕の後ろで、青色の紫陽花がぽとりと落ちた。

雨の張った、僕の立つ、この地面に。

僕はしばらく動けないでいた。

空想だと思っていた天使がいたからでもなく、突然に雨が止んだからでもなく、僕は天使に、恋をしていたのかもしれない。

同性で、相手は天使で、そんな感情と共にどうしてか、きっと大丈夫、そんな言葉が浮かび上がってくる。

何が大丈夫なのか、そんなことはどうでもよくて、ただ、この余韻に浸っていた。

しばらくして、僕はとぼとぼと帰路につく。

帰り道、あの月見草達は誰もが月を見ていなかった。

折角、雲が消えて三日月がこちらを覗いているのに。

花々は誰も、月を見上げてはいなかった。

 「新緑を齧る」

 そろそろ起きなさいと母が叫ぶ声がして起き上がる。

休日の朝は普段よりも微睡が心地よく、何度でも眠れそうになる。

ベッドから降りると、洗面台へ向かう。

相も変わらず、外では雨が降り続けていた。

顔を拭うと、すぐに湿度が張り付く。

今日は何をしようかな。

そんなことを考えながら時計を見ると午前十一時を示している。

とりあえず、昼食を食べてしまおう。

僕は、キッチンに向かうと冷蔵庫から適当にパンを出してきていくつか食べた。

食の細い僕を気遣い、母はパンやおにぎりなんかをいつも用意しておいてくれている。

外を眺めていると不意に雨の中を歩きたくなった。

「少し、濡れよう。」

そう決めると部屋に戻って濡れても問題ないような服に着替える。

傘も持たないで外に出ると、先ほどよりも雨は強まっていた。

灰色の雲が覆う空の下がじっとりと僕を包み込む。

黒髪を雨が濡らす。

僕はまるで空に帰った鳥のようにその中を歩いた。

雨が降ることでいつもの景色はまるで違うもののようになる。

家の近くにある神社の近くへと向かう。

さほど大きな神社ではないがこの辺りでは祭りや、子供たちの遊び場としてそれなりに賑わう時もある神社だった。

それが今では雨水以外誰もおらず、虫も飛べずにいる。

長い階段を一段ずつ上がると少し雲に近づけた気がした。

心地よいその心境は既にずぶ濡れになった僕を示すように思いで溢れている。

境内の石畳は雨が弾けて冷たく並んでいる。

僕はその石畳をぴょんぴょんと蛙のように跳ねた。

空を見上げても何も見えず、私の顔に雨が当たる。

「冷たい。」

そう呟いていた。

折角神社に来たということもあってお参りでもしようと賽銭箱を目指す。

賽銭箱も近くなると屋根が張られていて、雨が僕から遠のいた。

そして、僕はまた天使と出会うことになった。

賽銭箱に寄りかかってあの真っ白な天使が雨宿りをしている。

僕は今度こそ話がしたい、そう思って声をかけた。

天使からの返事はなかったがこちらに視線を向けてくれる。

不思議と恐怖という感情はなく、むしろ好奇心か、恋心のような感情を抱いていた。

触れてみたい、そうも思った。

僕は天使との距離を次第に近づける。

その頬に触れようと手を伸ばした。

それはとても冷たく、無機質な質感を感じる。

僕はそのまま彼女を見つめる。

天使は頬に伸びる僕の手にその手を重ねると微笑んだ。

時が止まったかのような刹那の錯覚を覚える。

この美しい生物を前に、僕はどうしてこんなにも平静を保っていられるのだろうか。

天使に触れられたこの僕は、どんな表情をしているのだろうか。

様々な思考が交錯するが、その出来事は時間にすればほんの一瞬に過ぎなかったと思う。

天使の手がゆっくりと僕の皮膚に擦れると寂しさを生みながら離れていく。

そして、空へと飛んで行ってしまった。

不思議とまた雨は止んでいる。

「冷たかった。」

僕はそう呟きながらその羽の見えなくなるまでを見つめていた。

それが見えなくなると僕はいつもの目線に高さを降ろす。

鳥居の下に誰かが傘をさして立っていた。

「憂?」

癖のある黒く短い髪と何度も見たその顔は憂のものだった。

「どうしたの?」

「雨、止んでるよ?」

僕は彼女に話しかける。

憂は暗く澱んだ瞳と少し震える体で僕を見つめたまま動かない。

「ねぇ。」

僕は返事が欲しくて言葉を続けようとした。

次の言葉を放とうとしたその時、憂は僕に向かって駆けだすと僕を抱きしめた。

彼女は泣いていた。

声を上げて泣いていた。

僕は突然のことにどうすればいいのかわからなくなった。

そうやって驚いていると、彼女は咽びながらも声を振り絞る。

「どうしよう。」

憂はようやく言葉を紡いだ。

「何かあったの?」

僕はどうにかそれに返事をする。

駆けだした時に落とした傘が風に流されてころりと転がった。

赤く色づけされたその傘はまるで鬼灯のように見える。

「来て。」

憂は僕を一層強く抱きしめた。

そんな言葉を断れるはずもなく、僕は憂についていくことにする。

道中、二人に会話はなかった。

憂はただ下を向いていたし、僕はなんと言葉をかけていいのかわからなかった。

しばらくして憂の家へと辿り着く。

そして、憂の部屋へと案内される。

僕は部屋に入る前に少し、躊躇した。

「僕、今濡れてるから。」

そう言ったが、憂はかまわないと言うと中へ招いた。

僕はその時、意外にも冷静でこの部屋に鏡がひとつもないことや、女の子らしいかわいい部屋で、ピンク色と水色をメインに綺麗にまとめられてるなとか、そんなことを考えていた。

机の上には花びらが何枚か転がっていて、憂にも少女趣味のようなものがあったのかと驚く。

しかし、その中に異様なものがひとつ落ちていることに気が付いた。

頭の潰された、子犬の死骸が無残にも転がっている。

その両の目には撫子の花が溢れるほどに突き刺され、口の中に舌はなかった。

窓から投げ入れられたのか、それは窓辺のあたりにある。

「これは。」

僕は絶句していた。

そして、憂は一枚の紙きれを僕に手渡す。

「今朝、ポストに入っていたの。」

筆跡を隠すためだろうか、定規を使って書かれたような字でこう書いてあった。

 憂ちゃんへ

君をずっと見つめている。

好きなんだ。君のためならなんだってできる。

死んだってかまわない。

夜の暗闇も瞳を刺す朝日だって

何も僕の視界から君を消すことはできない。

虐待されてた僕を救ってくれありがとう。

愛してる。

 薄気味悪い内容の手紙と、窓から投げ込まれたであろう子犬の死骸はストーカーがやったのではないかと簡単に推理させた。

憂は恐怖に耐えられないのか僕の手をずっと握っている。

「心あたりはないの?」

「誰かを助けたこととか。」

手紙の内容から、僕は当たり障りのない質問を投げかける。

「ない。」

憂は涙で声を歪ませながら即答する。

憂はまた僕を抱きしめた、震える体が僕を包み込む。

湿った衣服が皮膚に食い込んで擦れた。

僕もまた、憂を抱き締める。

憂の体は冷たく、肩を震わせていた。

「あれは僕がなんとかするから警察に電話しておいて。」

僕はそう言って子犬の死骸をなんとかしようとした。

「警察なんかあてにならないよ。」

「ほんとは少し前から手紙とか誰かにつけられたりとかしてたんだ。」

「でも警察は何もしてくれなかったよ。」

憂は僕を救いを求めるような目で見つめる。

「那木は見捨てないで。」

憂は振り絞るように続けた。

「大丈夫。」

「そんなことしないよ。」

僕は笑顔を作って見せた。

憂はようやく落ち着いたような顔になる。

そして、小さく瞳を落とす。

「ありがとう。」

そう言うと少しだけ笑った。

「その子埋めてあげよう。」

憂の提案するように僕たちはこの子を庭に埋めることにした。

袋に入れて外へと運ぶ、玄関を出て裏手に回ると少し広い庭があった。

途中、彼女は涙を二、三滴落とすと袋を見つめる。

「かわいそう。」

憂はそう言って、子犬を袋の上から撫でる。

僕はそんな彼女を心底優しい子だと思った。

「見て。」

憂は庭の端を指さす。

そこには、赤い屋根の犬小屋があった。

「昔、犬を飼ってたんだ。」

「だから、こんなの許せないよ。」

憂の顔は怒りに震えていた。

「これからどうしようか。」

そんなことを話しながら子犬を埋めた。

「那木、また会いに来てくれる?」

「私、不安で。」

帰り際、憂はそんなことを言った。

「大丈夫、僕がついてるよ。」

そう言って、僕は憂を励ます。

僕の大切な友達を助けてあげたい。

そんな気持ちが溢れ出た。

そうやって、僕は憂の家を出た。

帰路、今日のことを考えながら歩く。

どうしても虐待されていた僕を救ったという文面が気にかかった。

憂とはそれなりの付き合いだが、そんな話を聞いたことはないし。何より憂がそんなことをするタイプだとは思えない。

むしろ、僕自身の過去と重なる部分があって不思議な気持ちになる。

昔、小さな頃、近所の公園でいじめられていた女の子を助けたことがあったのだ。

助けたと言ってもその場しのぎかもしれないが、そんなことを思い出して自分が、実はお人好しなのかもしれないと思って少し嬉しくなった。

あの子は今、元気にしているだろうか。

そうしていると、件の公園の近くを歩いていることに気が付いた。

少し、寄り道しようと考え、公園へと進路を変える。

それなりに昔からある公園で、遊具は寂れたり、危険だとかで撤去されたりもして寂しげな公園になっていた。

幼いころに遊んだ時とは変わってしまったな。

そんなことを思いながら公園を見渡していると、滑り台の上にあの真っ白な天使が座っているのを見つけた。

そして、その後ろの高い街灯の上にも天使がとまっていた。

僕は、また目が離せなくなる。

「一人じゃなかったんだ。」

そんなことを呟く。

天使たちは目が合うと、飛び去って行った。

クチナシの花が公園の花壇で揺れている。

雨上がりの香りと共にその甘い香りを漂わせながら。

僕は、それを一輪ちぎって家へと帰った。

家に着くと散歩にしては遅い帰宅に両親に怒られてしまう。

「心配したんだから。」

そんな言葉が優しく僕に刺さった。

クチナシの花を玄関の花瓶に差し込むとシャワーを浴びる。

服はもう乾いていたが、両親にそう言われてしまっては、そうするほかなかった。

暖かく濡れるのも悪くない。

そんな風に感じながら。

夕食は少しだけ冷えていたが、暖かかった。

部屋に戻るとベッドに横になる。

ふと気になって携帯を開くと、憂から何通かのメッセージが届いていた。

今日はありがとうとかそんな内容だった。

僕は、気にしないでとか気を付けてねとかそんな返信を続ける。

今夜は珍しく星が見えて、乾いた雨がじわりと漂った。

そんな湿り気も嫌じゃない。

そう思った。

 「殻の中で溶ける」

 朝、空は晴れ渡っていた。

あんなにも雨でじめじめとしていた世界は暑く、項垂れる世界になっていた。

「雨、降らないのか。」

僕はそんなことを呟くと学校への支度を始める。

慣れた朝をこなすと家を出た。

「暑いな。」

思はず呟く。

学校に着くと、憂が珍しく僕より先に来ていた。

「おはよう、珍しいね。」

そう声をかけると、笑顔を見せた。

ついこの前、あんなことがあったのに憂は強いな。

そんなことを思いながら僕の席に着く。

「宿題見せて。」

憂はそう言うと僕に手を合わせた。

いつもより早く学校に着いていた意味がわかった気がした。

僕がノートを渡すと憂はとても喜んでいるように見える。

がんばって元気なふりをしているだけなのかな。

そう思うと、憂を心配する気持ちがとても強くなった。

「憂、ストーカーは最近変なことしてこない?」

僕は必死にノートを写す憂に投げかける。

憂は手を止めると、少し悩んでいるようで、どこかをじっと見つめて黙っていた。

「ごめん。」

つい、謝罪の言葉を紡いでしまう。

「謝らないで、那木のおかげで平気になれたから。」

「最近は大丈夫、だと思う。」

やはり、憂は元気を取り繕ったような態度をとる。

僕は心配で、何か言葉をかけなくてはと必死になった。

「憂、ほんとに大丈夫?」

ありきたりな言葉でしか声を紡げなかった。

憂はそれでも僕を見つめてくれる。

少しの間、そんな時間が続いて憂は口を開いた。

「視線を感じるんだ。」

「時々だけど、一人でいる時とか。」

不安そうな瞳は自らを鈍感だと理解している僕でもわかった。

「今日から絶対に一緒に帰ろう。」

憂と僕の家は途中からは逆方向になる。

それでも、彼女がどうにかなってしまうことを考えれば一緒にいたいという気持ちが勝った。

「いいの?」

「憂が心配だから、いいよ。」

憂は喜んでいる、今度は本当に喜んでいるようだった。

僕はそれを見て、心の底から安堵する。

「早く写さないともうすぐ始業だよ。」

僕は悪戯に憂を急かす。

彼女が慌ててペンを動かすと僕の顔を一筋の風が撫でた。

窓は閉まっているはずなのに。

僕は不思議思って窓を見る。

窓から見える空にはあの天使が三人飛んでいた。

物憂げな表情でどこかを見つめながら、窓際に飾られた花瓶のクチナシが羽に合わせて揺らめいている。

僕は窓を開けて、顔を出した。
すると、どこからかまた一人天使が飛んできて辺りを飛んでいる。
何度か繰り返して、八人になった。
始業の鐘が鳴り響くまで、僕はずっとそれを見つめていた。
その音を合図にするように天使たちはどこかへ飛び去って行った。

綺麗な羽を散らしながら。

担任が教室に入ってきて、僕は現実を取り戻す。

席に着いて、退屈が始まった。

学校に通って、勉強して、社会に出て、そんなことが一体何にになるのか、どういう意味を持っているのか、僕にはまだわからない。

それでも、退屈だ退屈だと言いながらも真面目に勉強をするのは僕が平穏を望んでいるからなんだと薄っすらと理解していた。

平穏で退屈で同じような日々が繰り返されることが尊いことだと心の底で思っているからだと考知っている。

僕は、雨の日と湿度が好きなだけの少し変わった普通の女の子だと信じていた。

あの日、天使を見た日から、少ない友人の一人がストーカー被害に合い始めてから、僕は意外と稀有な人生を歩むのかもしれない。

そんなことを思い始めている自分もいた。

僕はどうしたら、憂を助けてあげられるのだろう。

思いの外、あの天使は僕たちを助けるために現れたのだろうか。

そんなことに思いを馳せていた。

何気に教室の外、廊下を眺める。
天使が不安げに胸に手を当てて、校舎の中を歩いていた。
僕は、どうしてかあの天使が気になってしまった。
苦し気な顔を作って挙手をする。

「先生、保健室に行ってもいいですか?」

僕は生まれて初めて授業を抜け出した。

先生は誰かに付き添いを頼もうとしていたが、僕は一人で大丈夫だとそれを断った。

廊下に出ると、天使の歩いて行った方向へと足を向ける。

都合よく保健室も同じ方向にあって少し安堵した。

仮病がバレないようにゆっくりと天使を追った。

不思議なことに天使は保健室の方へと歩みを進める。

そして、保健室の中へと入っていった。

僕はなんだか誘われているような気がして、後を追って保健室へと吸い込まれて行く。

中に、保険医の姿はなく天使が椅子に腰かけてようとしていた。

「あの。」

僕は天使に声をかける。

天使は不安な瞳からあの物憂げな瞳に変えて僕を見る。

「僕の友達が不幸になっていて、それで。」

「助けてくれませんか?」

天使は表情を変えずに僕を見つめ続ける。

天使の後ろで朝顔が揺らめく、それは天使が羽を広げると風に乗って花瓶から落ちた。

天使は僕から目を離すと、窓から飛び去ってしまう。

外のグラウンドでは、体育の授業だろうか生徒が走り回っているが誰も気には留めていなかった。

誰にも見えていないのだと思う。

そして、その後ろ姿はいままでのそれとは少し違うように感じた。

たった一人の天使はいつもより遅い速度で僕の視界から消えた。

「わかってくれたのかな。」

僕は天使の座っていた椅子に近寄ると、羽が一枚落ちているのに気が付いた。

朝顔に寄り添うように落ちているそれを僕は拾って握りしめる。

そして、朝顔を拾うと花瓶に戻す。

触って気が付いたのは、造花だったということだった。

羽を太陽に透かして見る。

真っ白なその羽が少し眩しそうに震えた気がした。

しばらくぼぅと立っていると、誰かが保健室に入ってくる気配がする。

「大丈夫?」

その声は、憂だった。

「憂?」

僕はとても間抜けな声を出したと思う。

「寝てないとだめだよ。」

憂は心配になって僕を追いかけてきてくれたようだった。

「ありがとう。」

僕はそう言うと仮病なのにベッドに横になる。

「ほんとは仮病だけどね。」

悪戯にそう言いながら。

憂は安堵の表情を浮かべるとベッド脇の椅子へと腰かけた。

あの天使が座っていた椅子だった。

「那木がさぼりなんて珍しいね。」

憂は念のためか僕のおでこに手を添えて自分の温度と比べていた。

憂も心配性なんだ。

そう思った。

「那木、今週末何してる?」

憂は突然に問いかけてくる。

「特に何もしてないけど、どうして?」

「海、行かない?」

「今週末は晴れなんだって。」

僕たちの住むこの町から数駅移動すれば、確かに海があった。

「いいよ。」

僕はそう言って微笑む。

憂の嬉しそうな笑顔とは裏腹に、晴れという言葉が頭に少しだけつっかえた。

梅雨の季節は、本当に短い。

少しだけ儚い気持ちになりながら、憂の笑顔がそれを照らしながら。

 「羽化」

 日曜日、本当に空は晴れ渡っていた。

梅雨が終わったのかもしれない。

そう思うと切ない気持ちが溢れ出る。

憂とは最寄りの駅で待ち合わせだった。

憂を見つければこんな気持ちにはならずに済むのかなと思ったりもする。

灼熱の太陽が僕を照らす中、憂の待つ駅へと足を運んだ。

雨を失った紫陽花がどこか気だるげに咲いていて、アスファルトは熱を帯びてより一層黒くなっていて、毒々しいほどに青い空が広がっている。

そんな景色の中が僕を歩かせて熱を帯びる。

駅に着くと、待ち合わせのモニュメントの前で憂が携帯を触っていた。

「おまたせ。」

小走りで近づく。

「待ってないよ、今きたとこ。」

そんなことを言う憂の肌は汗がじわりと滲んで、雫がつたっていた。

どのくらい待たせてしまったのだろうか。

不安な気持ちが僕の中に小さく芽生える。

ともかく、暑さに身を焦がす憂を心配する気持ちが早く冷えた電車内にでも行かなければと僕を急かす。

切符を買って電車を待った。

「折角、梅雨も終わりそうなのに湿気はまだまだあるんだもんなぁ。」

憂はうねうねと絡まる髪を触りながら愚痴っている。

「湿気ってめんどくさいもんね。」

僕は嘘をついた。

憂を悲しませたくないとかそんな気持ちではなく、どうしてか嘘をついた。

「嘘つき。」

憂はいたずらに笑うと僕を小突く。

「那木は湿気好きの変わり者だもんね。」

憂には嘘がすぐにバレてしまった。

そんな友人がいることがこの上なく幸せに感じる。

電車の中は空調が効いていて涼しい。

「早く、着かないかな。」

憂は期待に満ち溢れた目をしている。

電車の外を眺めていると天使とすれ違った。

僕にしか見えない、不思議な真っ白い天使と。

見守ってくれているのかな、などと考える。

駅に着くと、海風が僕たちを靡かせる。

夏の暑さと塩の香りで、くらりとした。

「行こ。」

憂は僕の手を握ると少し急いで走り出す。

有名なスポットがある方向とは真逆の方向へと歩みを進める。

「逆じゃない?」

「隠れた良いところがあるんだ。」

憂はこの辺りに詳しいようだった。

少しして、海の家というのだろうか、こじんまりとした佇まいの商店が現れる。

僕たちはそこでアイスを買うと口に咥えて防波堤を歩いた。

「この奥だよ。」

憂はそう言うと、海に向かってせり出した道を指さす。

船着き場だろうか。

それにしては船の形跡は少しもなく、ただセメントが海に向かって伸びているだけだった。

本当に誰も知らない場所のようで、僕たち以外には誰もいない。

一番先まで歩くと、残ったアイス、最後の一口を飲み込んだ。

暑さに蒸された体の中に冷たい塊が流れ込んでくる。

氷結が灼熱の僕に溶けて混ざり始めた。

見据える海は遥か遠くで空とひとつになって交じり合っている。

入道雲がどこまでも高く伸びていて、僕たちを見下ろす。

海の青と空の青が混ざり合うその場所は境目などなく、ひとつの青になる。

冷たい塊は体の暑さで暖かくなり、最早、僕と同じになった。

憂と握った手は僕の手と繋がって、二人の汗が混じり合い、一つになろうとしている。

空には天使が数人で僕たちを中心にするように輪になって飛んでいる。

「綺麗。」

思はず、呟いてしまう。

大雨の中でここを見てみたい、そう思った。

「私、那木になりたいんだ。」

憂が不思議なことを言った。

「何言ってるの?」

僕は笑いながら憂に目を移す。

憂はとても真剣な、恍惚とした目で僕を見ている。

その表情は蕩けた果実のように融解を始めているように見えた。

「憂?」

どうすればいいのかわからなくなって、問いかけてしまう。

握る憂の手の感覚がグロテスクにどろりと手首を這ったのがわかって、離そうとするが離れない。

僕の手に憂の体が溶けて浸み込んでいるように見えた。

声にならずに、憂を見つめなおす。

「一つになろう?」

憂はそう言うと僕を覆うように倒れ込んだ。

勢いがついて熱されたセメントに背中が焼かれるように打った。

僕を覗き込む憂の顔は最早、溶けたアイスのようにどろりとしている。

溶けた憂が雫になって僕の頬に落ちた。

憂の足が手が僕の中に入ってくる。

溶けだしたそれが僕の体に浸み込んで離れなくなる。

「嫌。」

僕は、声を出して拒絶した。

憂を通して見る空には何百の天使が輪になって飛んでいるのが見える。

数はどんどん増えていき、空を覆いつくすほどに天使が蠢いている。

規則性を持って、輪になって、蠢いている。

唯一天使のいない、輪の中心からは太陽が光を放って僕たちを見下ろす。

天使たちは僕たちを中心に空を飛んでいるのだろう。

「那木。」

僕の名前を呼ぶと、憂は僕の唇にその唇で触れようとした。

「やめて、嫌だよ。」

顔を振ってそれを拒む。

天使さん、助けて。

僕は強く願った。

そんな思いも届かずに、憂と僕はキスをする。

どろどろに溶けた唇は気味の悪い感触を伴って僕の中に流れ込む。

息ができなくて憂に溺れそうになった。

苦しくて憂を飲み込む。

ごくりごくりと音を立てて、友人だったものを飲み込んだ。

ぽつりぽつりと憂でない雫が僕たちに降り注ぎ始める。

空で、無数になった天使たちが泣いているのがわかった。

その涙は勢いを増し、まるで大雨になって僕たちを濡らし始める。

溶けた憂に天使の涙が勢いを与えて僕の中に入り込んでくる。

中に憂が浸透していくのが、何百もの天使の涙が入り込んでくるのがわかった。

どのくらいの時間がたったのだろうか。

そんなこともわからなくなるほどに僕に憂が溶け込んでいた。

空の天使たちは涙の雨を降らせながらまばらになって、規則を失って飛び始めている。

力を失ったのか、ふらふらとするものは後続の天使に当たって海に降り注いだ。

太陽はいつの間にか、海と空の間に割って入り、夕日となって僕たちを照らしだす。

こんなにも天使は泣いているのに、こんなにも僕の心はざわついているのに、海は静寂で穏やかに揺れていてる。

憂の姿は既になかった。

完全に僕の中に浸透して僕になっていた。

汗なのか、憂なのか、天使の涙なのか、それすらもわからない水滴が僕の体に這っている。

一つだけわかったのは、頬を伝うこの液体は僕の涙であるということだった。

大の字になって、涙を一身に浴びながら、夕焼けに焼かれながら、僕は泣いていた。

自分のものかもわからない、腕で涙を拭うと立ち上がって夕日を睨んだ。

天使たちの真ん中で、涙の雨に打たれながら、僕は夕焼けを睨みつける。

憂という湿度で僕が満たされた。

「湿気なんて大嫌いだ。」