そんな世界を走っていく

「拓巳さん。引っ越しましょう」
 夕飯を終えた後、はるかは切羽詰まった様子でこう言った。
 拓巳は苦笑した。
「俺もそれは考えてる。ここはもうあと五年持つか持たないかだろうしな」
 拓巳は開け放った窓の外に目をやった。遠くに静かな大洗の海が見える。
 彼岸も終わり秋の気配が濃くなってきている。風はひんやりと冷たかった。
 拓巳は視線をはるかに戻した。
「どうせ引っ越すなら、また引っ越さなくてもいいように遠くへ行きたいよな。となると今の会社にはいられない。五年経つと俺も三十過ぎるてるし、転職を考えると今から引っ越しのことを考えておいたほうが……」
「今。今引っ越しましょう」
 はるかは繰り返した。拓巳は眉を寄せた。
「今ってお前」
 はるかは立ち上がった。
「引っ越し。引っ越しの準備しないと……」
「おい、待て」
 拓巳は立ち上がってはるかの腕を取った。
「今って言っても急にじゃ行くアテがないだろ?」
 はるかはこちらを見上げて半泣きになった。
「でも、今じゃないと。今じゃないとダメなの」
「お前ちょっと落ち着け」
 拓巳ははるかを落ち着かせようと軽く額を指で叩いた。
 ここ最近はるかの様子がおかしかった。
 どこかそわそわとしている。窓の外を苦しそうな目をして見ている。まるでここから逃げ出したいかのように網戸を爪でかりかりと掻いていたこともあった。
 まあ、情緒不安定にもなるか。
 拓巳の暮らすアパートは海沿いに建っている。確か引っ越してきたときは海など窓から見えないくらい遠かったはずだが。
 近年地球の温暖化で海面がどんどん上がってきている。今まで陸地だった場所が徐々に海水に浸食されていった。それがここ数年顕著だった。
 さらに日本の地震の多さがそれに輪をかけた。地震が起きるたびに、地殻変動で地面が海底の方に引っ張られていき大規模な土砂崩れが起きる。そこに海水が一気に入り込んでくる。一年前に起きた地震で、お台場は海に沈んだ。
 二百年後には関東平野の半分は海の底に沈むと言われている。首都移転構想で政界は大わらわだそうだ。
 しかし、海沿いの街以外はそんなことは他人事のように日常は過ぎているらしい。
 拓巳はぽんぽんとはるかの頭を軽く叩いた。
「わかったから。すぐに引っ越しを考える」
 そう言ってやると、はるかはゆっくりと顔を上げた。
「じゃあ、明日。明日ね。引っ越しするんです。約束ですよ」
 真っ直ぐにこちらを射抜いてくる。その茶色い瞳が、宝石のようで。
「……わかった」
 拓巳はそう答えていた。
 はるかの言うことはきいたほうがいいと、そう長くもない付き合いの中で培った本能が言っていた。 
 はるかの言い分と現実を考えて、明日は笠間まで行くことにした。観光地だ。ホテルの予約ができた。うちからは車で四十分ほど。職場に通うこともできる。
 はるかは引っ越し準備中もそわそわとしていた。
 そして、今。彼女は布団の中で手足をちぢこませて丸まって眠っていた。何かに怯えるように。
「うう……」
 うなされているような声がはるかの口から漏れる。
 拓巳は隣の布団からそっとはるかの肩くらいの長さのふわふわした髪に手を伸ばす。ゆっくりと頭を撫でてやった。
「ん……」
 髪を撫でてやっていると、徐々にはるかの寝息は穏やかなものになっていった。
 その寝顔を眺めているうちに眠気が襲ってきた拓巳は、ひとつあくびをすると寝る態勢に入った。

「あら、佐々木さん、こんな早い時間からお出かけ?」
 朝の七時。車に荷物を載せていると、ゴミ捨てに出てきたご近所さんに声をかけられた。
 どう説明しようか。そう一瞬悩んだところに、澄んだ声がかかった。
「おはようございます!」
 部屋の中からボストンバッグを抱えたはるかが出てきた。引っ越し準備が整ったからか、昨日よりは顔色がよい。
「あら、奥さんも一緒なのね。大荷物ね。キャンプかしら。仲が良くていいわねー」
 拓巳は再びあいまいな笑顔を見せた。
 はるかは奥さんではない。
 では、同棲している彼女かと言えば、それも違う。二人の間にはそういう類いの関係はなかった。
 そもそも、出会いがいつだったのか覚えていない。いつの間にか拓巳の家に居着いていた気がする。
 覚えているのは「しばらくここに置いてください」という言葉くらい。
 そして知っているのは「はるか」という名前と家族がいないらしいということだ。年は二十六の自分より少し下、二十歳くらいだろう。
 何故彼女はここにいるのか。彼女は自分にとってなんなのか。考えたこともあるが、いつも考えているうちに脳に靄がかかったようになってしまう。だから答えは出なかった。
 拓巳が仕事に出掛けて、はるかは家事をする。一時代前のよくある夫婦のような関係。だから世間には「夫婦」と勘違いしていてもらってかまわなかった。
 拓巳はアパートを見上げた。
「拓巳さん、忘れ物ないですか?」
 玄関の鍵を掛けながらはるかが声を掛けてきた。
「多分」
 忘れ物があったら取りに帰ってくるだろうか。いや、もうこの目でここを見ることはないだろう。
「多分ってなんですかー。不安になっちゃう」
 はるかが子供っぽく頬を膨らませた。普段使いのバッグを肩にかけながらこちらに歩いてくる。
 その頬を笑いながら指先でつつく。
「まあ、お前を忘れていかなければあとはどうとでもなる」
「あたし、物ですかっ」
 さらに膨らんだ頬は、両手で潰してやった。

「笠間、楽しみです」
 走り出して五分ほどすると、はるかはすっかり元の元気に戻った。
「あたし、大洗から出るの初めてです」
「そうなのか?」
 拓巳は首を傾げた。あんな小さな街の外に出たことがない?
「じゃあ生まれも育ちも大洗か」
 当たり前ことを尋ねる。するとはるかは真顔になった。
「そうですね?」
「なんで疑問形だよ」
「そうです、そうです」
 とってつけたようにはるかは頷いた。
 それからしばらくはるかは楽しそうにおしゃべりをしていたが、十分ほどしたあたりから、うつらうつらし始めた。そしてすぐに、ぽかぽか陽気が気持ちいいのかすやすやと気持ちよさそうに眠ってしまった。
 信号待ちの隙に、拓巳は隣に目をやる。
「気が抜けたか」
 昨夜のはるかは見ていて痛々しかった。拓巳はほっとして再び前を向いた。

 水戸を過ぎたあたりだった。
「おわっ!?」
 突然ハンドルを取られた。
 地震だ。
 拓巳はゆっくりと道路の左端に車を寄せる。
 大地震というほどではないが、大きい。震度5くらいだろうか。ぐらぐらと地面はまだ揺れていた。
 ふうと息を吐いてハンドルに突っ伏す。
 ーー轢かなくて良かった。
 ふと胸に浮かんだ台詞に首を傾げる。
 轢く? 何を。
 拓巳は眉を寄せた。何かを、思い出しそうな気がする。
「ふえ?」
 隣のはるかが目覚めたようだ。
「たくみさん。じしん?」
「ああ」
 拓巳はカーラジオのスイッチを入れた。
「……先程、茨城県沖を震源とする地震がありました。震源の深さは……」
 水戸は震度5弱だった。
「余震くるかもしれませんね。気をつけて運転してくださいね」
「そうだな。続報あるか?」
 拓巳はスマホを開いた。そして、息を飲んだ。
「拓巳さん?」
 はるかが小首を傾げてこちらを覗き込んでくるが、拓巳の目はスマホに釘付けだった。
「ライブ映像が流れてる」
 それだけ言い、スマホをはるかのほうに傾ける。
「あ……」
 そこは、地面が海に向かって崩れ落ちていくのが映し出されていた。
 場所は、大洗の海沿い。
 しばらくその映像を眺めていると、ゆっくりと建物が押し流されてきた。アパートだ。先程まで自分が住んでいたアパート。しばらくすると、職場のある町が海水に浸かっている映像が流れた。
 震えそうになるのをなんとか堪えていると、隣のはるかが大きく息を吐いた。
「危なかったですね」
 拓巳は顔を上げてはるかを見つめる。
 あとほんの三十分出るのが遅ければ、自分もあの土砂崩れに巻き込まれていたことだろう。
 最後に会ったご近所さんの顔が思い出された。しかし、敢えて考えないようにした。
 これが日常。ここ数年の日常。
「またお前に助けられたな」
 拓巳は呟く。前にもあったのだ。今までは生死に関わるようなことではなかったが。晴れた日、天気予報でも晴れと言っているのに「傘を持って行ってください」。穏やかな日なのに「夕方から風が強くなるので気を付けて」。
 この女は霊感でもあるのだろうか。こいつは何者なのか。
 そう頭で考えようとはするが「なんにせよ助かった」それしか今は考えたくなかった。

「着いたぞ」
 笠間のとある公園に着いたのは八時を少し過ぎたところだった。ひとまずこの公園で今日の計画を立てようと考えていた。予約したホテルは夕方からのチェックインだ。
 ひとつの街が海に沈んだ朝でも、公園内はのどかだった。
 拓巳はハンドルに突っ伏した。
 仕事場を失った。これで笠間にしばらくとどまる必要はなくなった。それならば、今一気にもっと遠くに引っ越したほうがいい。
 親戚のいる宇都宮はどうだ? 
 あそこなら標高が高いから、拓巳が生きている間はもつだろう。急に海水面が上昇するかもしれないからあくまでも多分、だが。県庁所在地だし仕事も見つけやすそうだ。
 拓巳は秋晴れの朝の空を見つめた。
 死にたくないから生きているが、どうしても生き残りたいのかと言えばそうでもない気がする。
「運転疲れたんですね。ゆっくりしてください」 
 はるかが優しい声で呟いた。拓巳はゆっくり顔を上げた。
「いいとこですね、ここ」
 はるかは目を細めて窓の外を見つめる。
「それなんだが。明日は宇都宮に行こうと思っている」
 そう告げると、はるかはきょとんとした。
 その瞳に動揺した。
 勝手に決めてしまったが、はるかの意向を聞いていない。そもそも、はるかを大洗から連れてきてしまったが、良かったのか。いや、引っ越そうと言い出したのははるかだ。けれど、この先も絶対一緒にいなければならないということはない。そもそも自分とはるかは他人だ。
 はるかは最初に言ったはずだ。「しばらく置いてください」と。
 そのことに気づいて激しく動揺する。そして自分が動揺していることに気づいてさらに動揺する。
 ーー離したくない。
 拓巳はハンドルに頭を打ち付けた。
「た、拓巳さん?」
 驚いたようにはるかが頭に手を乗せてくる。それでも拓巳は顔を上げられなかった。
 ーー待て。
 拓巳は顔が熱くなった。
 ーー好きなのか? 俺はこの女を。
 気づいてしまうと、なぜ今まで気づかなかったのかが不思議なくらいその感情はすとんと心に落ちた。
「拓巳さん、疲れたんですか? 今日朝早かったしちょっと寝たらどうですか。明日は宇都宮に行くんでしょ。それなら余計ですよ」
「……宇都宮までついてきてくれるのか?」
 のそりと顔を上げて尋ねると、はるかは再びきょとんとした。
「ついて行っちゃダメなんですか?」
「いや。今宇都宮行くっつったら変な顔してたから」
 はるかはほっとしたように笑顔を見せた。
「急だなって思っただけです。しばらく笠間に留まるかと思っていたから」
「……そうか」
 拓巳はほうっと息をつく。
「少し寝る」
 そう宣言して、拓巳はシートに身を埋め目を閉じた。

 何かが、揺れている。
 拓巳は感じていた。
 これは夢なのか、現実で起こっていることなのか。
 目の前に、海が見える。徐々に海水が流れ込んできている街が。
 あれは、お台場?
 ーーあなたのせいですよ。
 頭に声が響いた。
 ぎくりとして拓巳は目を開けた。目が焦点を結ぶと、目の前には心配そうなはるかの顔があった。
「大丈夫ですか?」
 はるかが小首を傾げる。
「何がだ」
 尋ねるとはるかはさらに首を傾げた。
「ちょっとうなされてたみたいです」
「ああ……」
 拓巳は頭を振った。何か夢を見ていた気がする。
 隣のはるかが拓巳が買ってやったスマホを見た。
「そろそろお昼ですよ。どこか食べに行きましょ。どんなとこあるかなー」
 いそいそとはるかはスマホを操り始めた。拓巳はそれをぼんやりと眺めた。
 何かを思い出しそうな気がしていた。

「美味しかったですね」
 真新しい定食屋を出て車に再び乗り込む。拓巳は軽く頷いてスマホを開いた。
 ニュースは今朝の続報を伝えている。その関係で1年前同じように海に沈んでしまったお台場の今の姿も映し出されていた。今の姿と言っても、そこには海が広がっているだけなのだが。
 しかし次に流れたお台場があった場所の近くに見える建物の映像に、拓巳はどこか懐かしいものを覚えた。
 なんで懐かしいんだ?
 その答えが出ないまま、気づくとエンジンをかけていた。はるかはあたふたとシートベルトをした。
 何か、思い出せる気がする。
 しばらく走ると、はるかは不審そうな様子を見せた。
「さっきの公園に行くんじゃないんですか?」
 窓の外の流れる景色を見てからはるかが口を開く。
「ああ」
「ホテルこっちなんですか?」
「いや」
 そう告げたまま一言も発しないでいると、はるかもつまらなそうに口を噤んだ。
 しかし、車が笠間駅に到着するとさすがにはるかは再び口を開いた。
「どこ行くんですか?」
 拓巳は少し迷ってから告げた。
「電車でお台場方面に行こうかと」
「お台場?」
 その地名を聞くと、はるかはみるまに機嫌が悪くなった。
「余震が来るかもしれないです。海沿いはしばらく近づかないほうがいいです」
 そこまで言って、上目遣いでこちらを睨んだ。
「でも、なんでお台場なんかに行きたいんですか?」
 笑われるだろうか、そう思ったが思い切って拓巳は口を開いた。
「何か、忘れ物をしている気がするんだ、お台場に」
 はるかは眉をつり上げる。
「あたし、家を出る前に『忘れ物ないですか』って聞きましたよね」
「すまない」
 拓巳は駅の駐車場に車を止める。シートベルトを外しながらはるかのほうに顔を向ける。
「なんならお前はここで待っていてくれてかまわない」
「嫌です」
 それはそうだろう。こんな駐車場で何時間も暇を潰していろというのは酷だ。ホテルにはるかを下ろしてから……
「ーー余震が来ます」
 はるかは静かに告げた。拓巳は困惑した。
「いやそれは、来るかもしれないが」
「今日の夕方から夜にかけて、正確には本震が来ます」
 拓巳は背筋がぞくりとした。はるかが来るというのなら、多分来るのだ。
 でも、何か思い出しそうな気がするのだ。お台場に行けばそれがわかる気がして。
 拓巳が躊躇っていると、はるかの目から大粒の涙が零れ始めた。
「お、おい!?」
 拓巳ははるかの肩を掴んだ。その拍子に涙が頬から膝の上に落ちた。はるかが口を開く。
「いや……嫌です。たくみさんが死んじゃう。海に近づいちゃいや……」
「わかった、わかったから」
 拓巳ははるかの涙を親指で拭う。
 拓巳がなだめるように何度も頭を撫でてやっていると、のろのろとはるかは顔を上げた。
「行かないでくれますか」
「行かない、約束する」
 断言してやるとはるかはほっとしたように息をついた。両手で涙をごしごしと擦る。
「さっきの公園戻ろう」
 そう言ってやると、はるかは微笑んだ。
 が、急に顔を手で覆った。
「はるか?」
「なんで……」
 声が小さくてよく聞こえない。
「なんで死んじゃやなの……」
 呟きは、拓巳の耳に届かなかった。

 午後四時半。地震が起きた。
 お台場近くも震度5強の揺れを観測したが、建物や人的被害はなさそうだ。ただ土砂崩れや潮位の変化による海水面の上昇の可能性が否定できないので、海沿い、川沿いは広範囲に立ち入り禁止になっているらしい。
 スマホで動画を見ながら、拓巳は肩を落とした。
「けど、本当に何もなくなってるな、お台場。地震のちょっと前は仕事の関係でよく……」
 拓巳はそこで言葉を切った。
 そうだ。
 よく行っていたのだ。お台場には。電車だったり車だったりしたが。
 なんで今まで忘れていた?
 たいしたことではない。そう言われればそうなのだが、何かが引っ掛かった。

 チェックインの前に外で夕飯を食べた。
 まだ夕方の六時過ぎだが、外は薄暗かった。秋風が心地よい季節になっている。
「宇都宮も楽しみです」
 店から駐車場までの間、街灯の下を歩きながらはるかが弾んだ声を上げた。
「それは良かったな」
 拓巳も新生活に向けて心が浮かれ始めていた。
 今朝まで住んでいた場所のことや、お台場が気になることはとりあえず忘れよう。過ぎたことを気にしていたら今のご時世精神がもたない。
 しばらく隣で無言で歩いていたはるかがぽそりと呟いた。
「あたしも、宇都宮行ったら住む場所みつけなきゃー」
「ん?」
 拓巳は聞きとがめた。その言葉に違和感を覚えた。
 まるで、拓巳とは一緒にいないような。
 拓巳は首を傾げながらも続けた。
「そうだな。一緒にどんな場所がいいか探そう」
 すると、はるかはこちらを振り向いて寂しそうに笑った。
「ーー宇都宮に着いたら、さよならです」
 息が止まりそうになった。

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