「とういうこと?」
とわたし。
「つまりね、たいていの絵は自然を写しているわけだから、光源は一つのはずなんだ。太陽が唯一の光源になっている。曇り空であれば、太陽光は雲の中の氷粒に乱反射して、分散するが。ところが、多くの絵は、どこかしらこの光源の扱い方を間違っているんだ。どんな絵でもそうだね。写真と絵画の相違は、ここにある。フェルメールのような室内画は別として、例えば、コローのような風景画。どんなに詳細に、自然に忠実に描こうとも、一瞬のうちに絵を完成させることはできない。睡蓮ばかりを描いたクロード・モネのように、毎日、同じ時刻に描く画家もいるけど、『羅生門』の黒澤明が言うように天候は毎日同じはずはない。うす曇りの時もあるだろうし、天気の日でも太陽に雲のかかる時もあるだろう。そしてまた、自然の方も風や雨で、たった一日の内にその相を変えてしまうこともあるだろう。だから多くの場合、光と影とは、画家の想像力に任せられるんだ。ところが、どれほど記憶力のいい画家でも、どれほど想像力逞しい画家でも、光と影を征服することはできない。肖像画を別として、どんな名画でも、この光と影の使用法を誤っている。僕は、この誤謬を見つけ出すのが楽しみなんだ。とくに、ルネサンスから印象派以前のフェルメールやレンブラントなどのバロック画家、レオナルド・ダ・ヴィンチのような宗教画の影響から逃れようとした天才画家のね。歴史に名を連ねている画家のね。写真が発明されて、印象派は写実をやめて光や色彩を感覚でとらえる手法に画家としての生きる道を求めた。新印象派として写真印刷の点描を真似たジョルジュ・スーラを超えて、ピカソは光源も視点も無視して絵画を写実から解放した。ゴッホは心象風景を絵画に写し取った。絵画は写実から解放された。絵画表現の百花繚乱は鑑賞を目だけではなく、目を通して心の底に浸透させた」
 他人のあら捜しは、彼にふさわしい。彼はそういう人。でも、彼の歯切れのいい辛辣な話は、時に、面白いこともある。今日、彼の話したキリスト教の功罪は圧巻だった。カール・マルクスの言う、
「宗教は人民のアヘンだ」
よりも面白かった。面白いと思うのは、わたしが一知半解だからかもしれない。