そして、「わたし」と「うみ」を交互に言い続ける。
 私が彼女のほほや髪の毛を触ると、「おかあさん」と言う。
 焦点のあっていない目を見ると、いつも心が痛んだ。
 それでも、自分を母と認識してくれることが嬉しくて堪らなかった。
 そして今、娘は安らかな顔で眠りについている。
 私は彼女の髪をなでる。髪の毛ですら硝子化は進んでいて、なでるたび、ぱきぱきと音が鳴る。
 さっき、彼女は「おはよう」でも「おかあさん」でもない言葉を発していた。
 何かを訴えるように声を発することはよくあったが、言葉ではなく、あくまでただの音だった。
 発せられた声を思い出す。
 はじめに「お」。
 次に「あ」。
 最期は「い」だったような気がする。
 「あ」と「い」の間に何か言おうとしていた気はするが、聞き取ることは出来なかった。
 たぶん四文字。
 「お」から始まる四文字の言葉を思い浮かべる。
 「おはよう」は違う。「おはよう」と言うとき、彼女は「あ」と「お」の二音しか発しない。
 「おにぎり」はもっと違う。
 「おやすみ」はどうだろう。
 強引かもしれないが、眠りにつく前に話す言葉と思えば筋が通っている。
 「おやすみ」私は娘のほほをなでながら言う。
 なんだか嫌な予感がした。
 最期の言葉が「おやすみ」だなんて、ドラマの中だけであると信じていたい。考えないでおこうと思っても、娘が目を覚まさないのではと疑ってしまう。
 怖い。
 ベッドの下に落ちていた紙を思い出す。
 ぐしゃぐしゃに握られていたが、不器用な文字で小さな夢がいくつか書かれていた。
 その小さな夢ですら、叶えさせることが出来なかった。
 娘の顔を見る。
 右のほほの一部以外は全て硝子になっていたが、表情はあまりに穏やかだった。
 少しだけ空いた口から息が漏れる音がする。
 いつのまにか、目に涙がたまっていた。
 終わりかけの春の光の溢れた部屋で、嗚咽が小さく響いた。
 
 
 「みんな、硝子病って知ってる?」
 教壇に立つ若い女性が、三十人ほどの子供に向かって言う。
 「しってる」と幼い声が教室のいたる所から返ってくる。
 「説明してくれる人」そう言って、女性は小さく手を上げる。
 すると、五、六人の子供が手上げた。
 「じゃあ、オイカワ君」
 名前を呼ばれた男の子は、大きな返事をして立ち上がる。