地上世界を壊滅させた大爆発、エデン・ロストを生き延びた人類は、世界人口のたった数パーセントにすぎなかった。
 残った人類たちは、滅びた世界で生きてゆくために、戦を捨て、国を捨て、民族を捨てた。
 国家や人種、民族といった概念が取り払われたこの年を、世界暦元年という。

 植物学の研究所を出た私たちは、隣接した地上被験地への連絡通路へと立ち入った。すっかり慣れた場所を最奥まで進んで行く。そのまま地上に出ると思いきや、ジルは認証機の左側の壁にある扉の前で立ち止まった。
 そこに部屋があることは知っていたが、連絡通路の整備とかそういったことに使われる部屋なのだろうと、深く考えたことはない。その扉は、格段に厳重なロックが掛かっていたようで、ジルは生体認証を複数回重ねて解除を行った。
「やはり、ここへ訪れると心身が引き締まる。我々、ノアの研究員にとっては特別な場所。宗教に熱心であったかつての人類ならば、神域や聖域とでも呼んだのではないかな」
 紺色のジャケットの上に白衣を着たトーヤが呟く。
 そこは、想像していたよりもずっと広い部屋だった。扉から見て左右の端はコンピューターが並び、正面の壁面には多数のモニターが配置され、絶えず何かしらの演算やデータを映し出している。
 そして、大きく開けた中心部には、直径数メートルはゆうにある大型の望遠鏡が鎮座していた。
「西暦時代の望遠鏡は、これよりもっと巨大だったんだけどね。科学の発展の結果、全世界で最高峰の観察技術を持った光学赤外線望遠鏡が、この大きさで実現したんだよ」
 ジルは私に説明をしつつも手を止めることはなく、恐ろしいほどの速さで複数のコンピューターを操作している。
「医学で著名なあなたの研究が天文学だとは、思ってもみなかったわ」
「僕自身、自分の専門が何なのか、時々わからなくなるんだよねぇ。多分、トーヤや他の研究員の認識としては、惑星科学とか、それに近いものなんじゃないかな?」
 作業が終わったのか、今度は私たちを横切り、入口近くの壁面に取り付けられた、一見照明関係のそれに似たスイッチの一つを押す。
 大きな音と振動が身体に響く中、私はジルの言葉を聞き逃さないよう必死だった。
「医学は僕が一番最初に従事した学問で、その次は、保全生物学だった。あの有名なコールドスリープだね。それからは、君のように横に逸れて、語学、文学、音楽、美術。後は、ありとあらゆる学問を一通り齧った」
「……それだけの学問を修めているあなたは、一体いくつなの? 見た目と年齢がかけ離れているようにしか考えられない」
 天井が円形に割れてゆく。その轟音と振動。そして、あまりに現実離れした内容から口にするのを躊躇して、自問自答するかのようになった言葉は、届いていないと思っていたのに。
「僕には使命がある。それを完遂するまでは、身体的にも知能的にも、最善の状態であるこの姿であるように、肉体の時間を止めてある」
 しん、と再び辺りに静寂が満ちた。
「肉体の時間を、止める? それはつまり、不老不死……」
「そう。自身に課した、永遠の苦しみだよ」
 時間はあまり気にしていなかったのだが、まさに日没の時間だったらしい。ここは地上と地下を繋ぐ通路の、地上への出入り口の真横に作られた部屋だ。天井が開けば作り物ではない本物の太陽が、西に紅く輝いていた。
 赤い光に照らされながら呟くジルに、私は何も返すことができなかった。
「僕の身体は、医学と保全生物学の被験者として、自分を犠牲にした結果なんだよ。そのお陰で現在の医学があるんだから、みんな黙認するしかないよね。だからまぁ、君たちからすれば僕はおじいちゃんみたいな年齢かな。いや、もっとずっと年上か」
 何もかもが壊れたこの世界では、そんなことも許されてしまうのか。
 ぎゅっと奥歯を噛み締める。隣に立つトーヤを見ても、黙って赤い空を見上げるだけ。きっと、ジルに近い人々のでは、彼の身体のことは、暗黙の了解なのだろう。
 何とも言えない思いを抱きながらも、私は黙って赤い空を見上げることしかできなかった。

 しばらく三人で、黙って空を見上げていた。
思ったよりも、地球が自転するスピードは速い。眩しさに目を細めて空を見ていると、あっという間に赤から橙、紫、そして薄暗い藍に染まってゆく。
 沈黙を破ったのはトーヤだった。
「被験地の上空にはシールドが張られているとはいえ、この光は少し恐ろしいな」
 トーヤは目を細め、軽く身を震わせる。
 エデン・ロストで飛散した汚染物質は遥か上空まで到達し、大気圏全体を浸食した。それ以前から既にある程度の損傷を受けていた成層圏のオゾン層は消滅し、太陽から降り注ぐ紫外線を遮るものはない。地表付近の空気は、大半が水素と二酸化炭素で構成されるようになり、生物は地上で生存することが不可能となった。これが地上世界の滅亡と言われるものだ。
 地上被験地は透明なシールドをドーム状に被せた、小さな空間に過ぎない。シールドがもしも存在していなければ、今この日差しを浴びている私たちは数分と経たずに息絶えることだろう。
「こんなに綺麗な夕焼けが怖いだなんて、寂しい世界だ。だから僕は、この世界が大嫌いなんだよ」
 望遠鏡を撫でるジルが、苦い顔をしていた。目が合うと寂しげに微笑み、手招きをされる。
「照準は合わせてある。覗いてごらん?」
 それを覗いてしまえば、本当に後戻りはできなくなる。
 振り返ると、トーヤにそっと背中を押された。
「君なら受け入れられるはずだ。だから彼は君を、ここへ何の説明もなしに、半ば無理矢理連れてきたのだろうからね」
 一歩足を踏み出す。そのまま吸い寄せられるかのように、大きな望遠鏡を覗き込んだ。
 辺りは、宇宙の闇。その真ん中に、鮮やかに浮かんでいる一つの青い星があった。
「……地球からの距離は?」
 望遠鏡が映し出す青い惑星は、かつて海が干上がる前の地球と酷似している。
 それを見た瞬間に、彼らの成そうとしていることの予想がつく。冷静な性格だと自負しているにも関わらず、今日は何度も驚き取り乱してしまったのだが、今回に限っては微塵も動揺することはない。
「かなり、遠いね。なんせ今まで発見されていなかったんだから」
 人類の宇宙科学は、光速の壁を超えた、というところまでしか私は知らない。でも、それだけ遠いということは、最新の技術で造られた宇宙船をもってしても、かなりの年数がかかるということは聞かずともわかる。
「ゆうに百年はかかる計算になる。その間、みんなには眠ってもらうよ。なんせ十万人近い人数を乗せるんだ。起きたまま生活する空間なんて設けられない。まさに文字通り、すし詰め状態だ」
「十万人って」
 それは現在の地球に生きる、全人類の数だった。彼の計画を悟ったと思い込んだ私は甘かった。私はてっきり、訓練されたクルーによって他惑星に植民地を作るのだと思っていたのだが。
「僕が願っているのは唯一つ。この世界の人々全てが等しく幸福に生きてゆくこと。それが僕に課された使命。そして祈り」
 星間移民。
 ジル。彼は、この星を捨てるつもりなのだ。
 望遠鏡を離れたジルがコンピューターを操作すると、正面のモニターが作動する。そこには地球によく似た星の映像が大きく映し出されていた。
「水と酸素に満ちた惑星。僕たちはこの星をチャイルドと呼んでいる。綺麗だろう?」
 綺麗かと問われると、頷くしかない。青い星は、本当に美しかった。
 この星で、明るい地上の世界で生きていけるなら。それはジルの言う通り、本当に幸せなこと。
「第一から第八区では、既に実行に向けての準備が進んでいる。第九区が最後の場所。だから僕は、ここへ来た」
「もう、理想論や夢物語ではない段階にまで進んでいるんだよ。君にとっては、突然の出来事かもしれないけれど」
 この計画に携わるために、難題をクリアしてまでジルの元へ来たトーヤ。彼のように私は大きく胸を揺さぶられることはなかった。ただ、それを受け入れるだけ。

 水に満ちた青い惑星。
 私たちの第二の故郷となる星、チャイルド。

 もう、引き返すことはできない。