かつて日本国があった場所の地下に建造された、第九居住区。その北側半分に集約された研究所の間を走る何本もの移動通路を乗り換えて、私たちは一つの大きな建物の前へと辿り着いた。
「さあ、ここが第九区での僕の研究拠点だよ」
 入るよう促すジル、彼の専攻は医学のはずだ。しかし、この建物は医学の研究所ではない。
「ここ、植物学の研究所でしょう? お父さんたちが第九区にいた頃の配属先だから、何度も来たことがあるわ」
「僕の研究所は、君が思っているよりも遥かに大きいから。あらゆる分野の研究所が、僕の傘下にあるんだよ」
 そう言って立ち止まった私の腕を引き、建物内へと続く移動通路に乗る。植物学を扱う研究所は地上被験地に赴く機会が多い。この建物は立ち並ぶ研究所の中でも一番外れ、地上へ続く連絡通路に近い建物だった。
 移動通路に運ばれるまま、かなり奥の方まで進んだ。両親がかつて勤めていた研究所で、幼い頃は頻繁に出入りしていたとはいえ、こんなに奥の方まで入ったことは数えるほどしかない。
 突き当たりまであと少し、というところで、ジルは通路から降りた。
「この部屋は、僕の私室として使ってるんだ。少し散らかってるけど、気に入ってもらえると思う」
 さあ、どうぞ。と扉が開かれる。その部屋は照明を落としてあり、橙色の小さな照明が部屋の隅にあるだけだった。ジルの後ろに続いて部屋に入ると、ぼやけた視界の中、嗅覚が捉えた匂いに驚く。
「――紙の匂い?」
「少し黴臭かったらごめんよ」
 ジルがそう言うと同時に、温かな光が部屋を照らした。
 視界に満ちたのは、知識でしか知らないものたち。
 無意識に、息を飲む。目を奪われる。呼吸さえも、ままならない。
「この部屋は、西暦時代を再現したものなんだ」
 壊れたオルガンにジルの白い指が滑ると、調律の狂った不協和音が響いた。
 オルガンの隣には木製の本棚があり、紙媒体の本が並んでいる。棚に入りきらない本たちが、机の上や床に所狭しと積み上がっていた。
「どうせ壊れているものばかりだし、好きに触って構わないよ」
 部屋の真ん中に、二、三人は座れる長いソファー二つ、真ん中にテーブルを挟んで配置されていた。入口に近い方のソファーに身体を埋めたジルは、面白いものを見るような目で私を追う。
「すごい。壊れていても、まだこんなに残ってたんだ」
「修理したものや、僕が再現して作ったものもあるけどね」
 一通り部屋を見回した。はじめて見るものばかりだったが、名前と用途は何となくわかる。部屋の端に置かれた机の上には一台のコンピューターがあり、その傍らには飴色のガラスペンとインクの入った瓶が置かれていて、そして何冊ものノートが散らばっていた。
「もしかして、記録は筆記でしているの?」
 まさか、と思いながらも訪ねてしまう。そんな私を見て、彼は笑ったまま立ち上がった。その顔は、私の反応を楽しんでいるようにしか見えない。
 とても悔しいけれど、この空間で気分がたかぶってしまうことは避けられなくて。見栄も何もかも捨てて、好奇心に満ちた子供のように、答えを求める。
 机の前に立ったジルは、適当なノートの空白のページを開いた。ペン先をインクに浸し、そこに書かれたのは私の名前。
「こうして実際に書くのは、結構難しいんだよね」
 モニターの中、もしくは紙に印字された文字しか見たことのない私から見れば、それは確かに少し歪だった。それでも、人の手が文字を記す場面をこの目で見ることができ、たまらなく感動してしまう。
「実際の演算やシュミレーションはもちろんコンピューターを使うけど。思い付いた理論やアイディア、イメージはノートに書いてるんだ」
 君も書いてみる? とペンを差し出されたが、ガラスで出来た細いペン先は、力の加減を少し誤っただけで折れてしまいそうで、私は少しだけ迷ったけれど、すぐに断った。
「そう。まぁ、いずれ筆記の勉強はしてもらうことになるから。それまでに君用の筆記具を用意しておくよ」
「筆記の勉強?」
「この研究室ではみんな、西暦時代の道具を使えるよう、訓練を行うんだ。嫌かい?」
 反射的に頭を左右に振ると、ジルはそれ以上何も言わず、再びソファーに深く腰掛けた。
  かつての人類が使っていた道具を、再び使う。それに何の意味があるのだろうか。
 今の世界で使われている道具たちは、人間からあらゆる動作を奪ったとはいえ、それに勝る利便性と効率性を持ち合わせている。そうでなければ、人はみすみす自らの運動能力を退化させるような真似はしない。
 柔らかなソファーに埋もれ、クッションを抱きながら小型の端末を弄っている青年は、その行為の意図を話すつもりはなさそうだ。多分、私が正式にここに配属になった際に、全ては知らされるのだろう。もう私に拒否権などないのだから、勿体ぶらなくてもいいものを。
 そんなことを考えながら胸に満ちるのは、両親は私を見捨てたのではなく、私のためを想い自らの研究所から手放したのだという安堵感だった。
 改めて、今一度部屋の中を見回す。本当に、よくこれだけのものを集めたものだ。初めて目にするものの名前と用途を頭の中で合致させていく作業が思いの外楽しくて、いつの間にか没頭していった。
 最後にただ一つ。机の傍に立て掛けてあった縦長の黒い箱だけ、その中身が何なのかわからず、ジルに一言断りを入れる。
「ドクター・ジル。これ、開けてもいい?」
「ジル、でいいよ。開けてもいいけど、扱いは丁重にね」
 初めて、扱いを注意された。部屋の中のものは好きに触って構わないと言われていたのだから、これはきっと特別なものなんだろう。
 そっと、黒い箱に取り付けられた金色の金具を外すと、箱は間二つに分かれて開いた。あらゆるものが無造作に置かれた部屋の中、ただ一つ箱に納められていたものだ。さぞ貴重なものなのだろうと、想像を膨らませていた私の目に飛び込んできたのは。これは、多分、バイオリンだと思う。
「この弦、何か変。それに弓も、調弦のネジも」
 見た目は本で見たバイオリンそのままなのだが、私がそうだと断定できなかったのは、それが知識として知っているものとは異なった特徴をしていたからだった。
「弦は、変圧器からばらした銅線。弓に張ってあるのはグラスファイバー。残りはボルトとナットを使ってなんとか組み上げたから、見栄えは悪いよねぇ」
 感じた違和感は、古ぼけた本体のあちらこちらに新しい素材が散らばっているせいだった。同じ楽器であるオルガンも、他の道具たちも、皆壊れたまま置かれてあるのに。このバイオリンだけが無理やり修繕されている。
「これ、もしかして、弾けるの?」
 確信した私の問いにジルが声を殺して笑ったとき、扉をノックする音が響いた。
「失礼するよ」
 部屋の主の返答を待たず開け放たれる扉。白色灯に照らされた明るい廊下の方向は逆光となっており、その姿を捉えることはできない。でも、その少し冷やかに感じる程自信に満ちた声の人物を、私はよく知っていた。
「紅茶を持ってきた。お客人も陶器のカップで構わないと聞いたが、本当によかったのかな?」
 私と同じ艶やかな黒髪の青年は、白い陶器でできたティーセットを、銀色のトレイに乗せていた。テーブルの上にソーサー、カップの順で重ねると、少し高い位置から褐色の液体を注ぐ。
「うん、いい香り。お茶を入れるのもずいぶんと上達したね。トーヤ」
 その仕草はかなり手慣れたもので、白いシャツに濃紺のジャケットという、ブレインのシンボルでもある白衣を身に付けていない青年の格好に違和感を覚えて見入っていると、彼は不意に、少し離れた壁際に立つ私の方を見た。
「お客人。あなたもこちらに、っ」
 黒い瞳同士が重なって、やっと、私が誰だか気が付いたようだ。
「一年振りね」
「まぁ……君ならいずれここへ来るとは思っていた。特に驚きはしないな」
 久しぶりの再会だというのに、トーヤは相変わらず、顔に笑みの一つも浮かべはしなかった。
 テーブルまで歩み寄り、ジルの隣に腰を下ろす。
「それで? ここへ来たということは、やっと卒業する気になったのかな?」
「うん。さすがに諦めたわ」
 自動アームではなく、手渡しで、トーヤから温かいカップを受け取る。私でなければ、普通の人間ならば、この重さは手で持つことができずに落としてしまうこともあるようなものだった。
 トーヤが何の躊躇いもなく直接手渡したのは、私のことをよく知っているが故の行動だ。
「二人とも、知り合い? だよね。それも、かなり深い仲と見える」
 それまで私たちのやり取りを静観していたジルに尋ねられ、私たちは同時に、
「うん、幼馴染」
「元同級生だよ」
 と、バラバラの答えを返す。両方間違ってはいない。
「ジル、よく聞いてほしい。彼女は、今年で三回目の第八学年だ」
「ちょっと、何勝手に」
「四年飛び級し、二年留年している。俺と彼女が同級生だったのは、彼女にとって二度目の八学年の年だった」
 まぁ、知られても別に困ることでもないのだけれど。知られないに越したことはない、この事実。
「へえ、僕はてっきり二年飛び級しただけかと思ってた。それでもかなり優秀なのに、本当は四年も飛ばしていたなんて」
 厭味なほど事細かな説明と、ジルの驚いたような声を聞きながら、手渡されたカップを見つめた。赤褐色の液体が揺れている。数回息を吹きかけてから少し口に含むと、鮮やかな香りが広がる。
「俺より二歳年下、つまり二年も遅く入学したにも関わらず、マユは俺より先に最高学年になった。そしてそのまま、あの著名な父親の研究所へと配属されると思っていたのだが」
「ブレインになれば、自由な時間がなくなる。それが嫌だったんだね。でもまさか、それで二年も留年するのは驚きだな」
 ジルはそっとカップをソーサーに置いた。出会ったばかりの人に言い当てられるほど、私の行動原理は単純で幼稚だ。十分、自覚はしている。
 講義を受けず、卒業研究に取り組まず、レポートは白紙で提出して。そうして留年を繰り返してきたのは、私の我儘に他ならない。
「家族に恵まれ、遺伝子に恵まれ、才能に恵まれ。本当に君は、どこまでも甘えた人間だね」
 切れ長の目が、私を睨む。トーヤは昔から、自分にも周りにも厳しい人間だったが、再会して早々にこんなことを言われるとは思ってもみなかった。
「珍しいなぁ。君がこんなに厳しく当たるなんて」
「そうだね。俺は、俺に足りないものを全て、初めから持っている彼女が、昔から羨ましくて仕方がないんだよ。悔しいことにね」
 自嘲混じりの声でそう言ったトーヤは、テーブルの上に置いてあったポットを手に取る。
「おかわりはどうする? マユ」
 陶器でできたティーポットの中には、まだ温かなお茶が残っているのだろう。その重量が果たしてどれぐらいあるのかはわからなかったが、きっと小さめの本の数冊分はあると思う。
 それを、トーヤが、その手で持ち上げていることに、今更ながら驚いた。
「うん、頂きます。……でもその前に、それ。持ってみても、いい?」
「駄目だ」
 即答だった。私の手からカップを奪うと、黙ってお茶を注ぎ足す。
「これは陶器でできている。保温性はそれほど高くはないが、それでもまだ残った茶は熱い。そんなものを持って、もし落として割ってしまったらどうするんだ。君の身体に傷がついてからでは遅いんだよ?」
 カップを手渡されながら、早口でまくし立てられた。
「俺がトレーニングを積んで持ち上げられるようになったポットを、君が今持ち上げられたところで、別に羨ましくも悔しくもない。それだけは君の日頃の努力や習慣によるものだと認めているからね。くれぐれも勘違いはするなよ」
「本当に珍しいな。トーヤが、ポットの心配ではなく相手の心配をしているなんて」
 面白いおもちゃを見つけた子どものような顔というのは、こういう顔を言うのだと思う。ジルは嬉々として、トーヤの黒い両目を覗き込む。
「冷たく言っておきながらも、トーヤはマユのことが大事なんだね。まさかトーヤのこんな表情が見れるなんて、思ってもみなかったなぁ。やっぱり君を僕の研究室に入れたのは、間違いじゃなかった」
 トーヤは一瞬面喰らったような顔をして、少し長い髪を片方だけ耳に掛けた。その癖は幼い頃から変わっていない。
「トーヤは、ここの研究室の配属だから、こんなものを持ち上げられたり、お茶を淹れられたりするの?」
「そうだよ。もっとも、このようなことは俺がここの配属になるために受けた課題と比べると取るに足りない簡単なことだ。君も、すぐにできるようになる」
「配属になるために受けた、課題?」
 一年前、トーヤは確か、地質学の研究所に配属になったと記憶している。ジルの専攻する医学とは、全くの畑違いだ。その彼が、ここにいること自体、初めから疑問に思っていたのだが。
「カインの傘下に入るのは簡単だけど、その中枢には、僕自身が認めた者しか辿り着くことはできない」
「カレッジに在学中から彼の存在を知り、所在を探していたが見つからず。仕方なく他の研究室に入ったんだ。それでも諦めず探し続け、やっと見つけることができたんだ」
 ジルの存在。カインの中枢。
 トーヤの言葉に、段々と自分の中にあった疑念が確信に変わる。
 見た目は私たちと同じぐらいの年齢にしか見えないが、ジルはかなりの権力がある。カレッジの教授たちの態度、私の両親との関わり方などを見る限り、彼は研究室の代表やそれに近い立場にあるのだろう。
 でも、どうやって? どのようにしてこんなに年若い青年が、そんな地位につくことができたのか、私の中でどんどんジルに対する疑問が膨らんでいった。
「でも、まさか研究室に入るために、こんな課題を出されるなんて、思いもしなかった」
 難しい顔をした私の横を、トーヤが通り過ぎる窓際で軽く膝を折ると、私が先程まで見ていた、修理されたバイオリンを手に取った。
「人類にとって、音楽は非常に重要な位置にあると、僕は思う」
 淡々としたジルの声。左肩にバイオリンを乗せたトーヤは、弓を右手に構える。
「文学、美術、音楽。一括りに芸術と言えるそれらは、人々に精神的、感覚的な刺激を与えるものだ。そうした働きは、人類の生活を豊かにする」
 弓に張ったグラスファイバーが、銅線の弦の上を滑った。
「僕たちの目指す楽園に、これは欠かせないもの」
 橙色の暖かい照明に照らされた室内に、高い音が響く。弦を押さえる左手のポジショニングも、右手のボウイングも。どちらもとても難しい動作だと、いつか本で読んだことがあるけれど。その音程やピッチがずれることは一度もない。
「この音色、トーヤの性格が表れてる」
「彼は完璧主義だからね。この世界には珍しい、努力を惜しまない秀才だ」
 トーヤの奏でた曲の名前はわからなかったが、一曲弾き終えたとき、私は自然と両手を叩いていた。
「これが俺の、血の滲むような努力の結果だよ。彼からこの課題を与えられたときは、さすがの俺も頭を抱えたものだ」
 バイオリンを元通り黒い箱に片付けながら、トーヤは満足げに口角を上げた。再開して初めて見た笑顔は、幼い頃の面影を残している。
「すごい。それ、独学よね?」
「当たり前だろう? 今のこの世界に、楽器を嗜む者なんて存在しているわけがない。恐らく俺だけだろうね。だからこそ、彼は俺に、この課題を課したんだ」
 多分、最初は持ち上げるところから。持ち上げるだけの筋力が身に付けば、次は教本を見ながら音を出す。そして、一つ一つの音を繋ぎ合わせて楽曲にする。教本だって、どのようなものがどのような状態で現存しているのかわからない。それを探し、読み解くところからして、途方もなく難しい課題だ。
 彼はそれらに、一体どれだけの努力を要したのだろう。考えただけで気が遠くなりそうになる。
 一度入った研究室を辞め、無理難題をこなしてまで、この研究室の配属になりたいという理由が、私にはわからなかった。トーヤとはそれなりに関わってきた私だが、医学に興味があるという話は一度も聞いたことがない。
「しかし今となっては、この課題を課されて心から良かったと思えるね。チャイルドの地に立ったとき、俺は音楽という方面で、人類を導き、また癒すことができる」
「チャイルドの、地?」
 聴き慣れない言葉に首を傾げると、それまで薄い笑みを浮かべていたトーヤの顔が怪訝なものに変わった。冷やかな瞳が金色の頭を睨む。
「彼女には、まだ何も言ってないんだよね。半分無理矢理連れてきたようなものだからさ」
「無理矢理とは? どういうことか、俺がわかるよう説明してもらおうか」
 鋭い視線から逃げるように立ちあがったジルは、部屋の端の椅子に無造作に掛かっていた白衣を手に取る。
「そんなに怖い顔しないでよ。先にこの部屋を見せてから説明した方が、彼女の心も穏やかだろうと判断した結果だからさ」
 今までとは一転、白衣に両腕を通して襟を正した姿があまりに馴染んでいて、おかしな言動や行動を繰り返しているジルも、やっぱり本物のブレインなんだと思い知る。
 そんな姿を眺めていると、彼は再びこちらへ歩み寄り、白い腕を差し伸べた。
「行こうか、マユ。僕の研究室、ノアの本当の研究を教えてあげる」
 ああ、やっぱり。
「医学は、フェイク?」
「さあ? どうでしょう」
 疑心は確信に。この一風変わったブレインの青年も、トーヤの行動の正体も、きっとこれから知らされる内容で、納得できるのだろう。
「ここから先を聞いてしまえば、君はもう、ここから逃れることはできないよ」
 脅しのような、甘い誘いのような言葉に、無意識に唾を飲み込む。
「勿論、逃してあげる気持ちはさらさらないけどね」
 三日月のようにつり上がる唇に魅せられるように、私はその手を取った。