私がまた、あの流暢な日本語を聞いたのは、講義が終わった直後だった。
「早瀬真由さん。この後、応接室まで来るように」
 仕方がない。自業自得。わかっていて、私はあんな答え方をした。誘導尋問に近かった気もするけれど。
 私が抱く、この世界に対する不満を、彼は理解してくれると思ったから。
 そして、そんな刹那の浅はかな感情が後で面倒な事態を引き起こすであろうことを、ある程度の予想と覚悟はしていたつもりだ。それに見合うほど、あの地上での出会いは衝撃だった。
「最初の日本語での挨拶。あれ、私とあなた以外に通じる者がどれだけいるかを試したんですよね?」
 応接室のソファーに深く腰を沈めたジルが目を細める。
「うん。あまり聞かれたくない会話をどれだけ堂々とできるか知りたかったんだ」
 テーブルから伸びるアームが動き、ミネラルウォーターの注がれたグラスをジルの口元に運んだ。彼はその様子を一瞬毛嫌いするような目で見てから、グラスから伸びるストローを咥える。
 この子と二人で話がしたいから、黙っているように、と、学長とその他数名の教授を部屋の隅に追いやった彼にも。そしてそれに当然と言った顔で応じた学長たちにも驚いた。
 私は彼が、どれだけ功績と力のあるブレインなのかを知らない。だが、どう見ても、私とジルはあまり年が離れているとは思えないのだ。
「……それで、私が呼ばれた理由は?」
「聞かなくともわかってるだろう? 君には、僕の研究所に来てもらうよ」
 これは決定事項だ。オーバーサイズのパーカーで隠れた手先を口元に当てながらジルは言う。それにはさすがの教授たちも驚いたようで、咄嗟に口を出した。
「ドクター・ジル、彼女はドクター・ハヤセのご息女で、」
 黙っていてと指示したはずの教授たちが口を挟んだことが気に障ったのか、ジルは鋭い目で彼らを睨んだ。
 確かに彼の持つ知識や思考には非常に惹かれる。もっと話してみたい、近付きたいと思う。でも。それと彼の研究室に入ることは全く違うこと。
 私は彼が仕事として行っている医学の研究には興味がなく、その研究に一生を費やすつもりも毛頭ない。あのような答えを返したからには、こうして研究室に勧誘されることも想定の範囲内だった。そして私には、その勧誘を断れる自信があったから、敢えてその答えを選んだのだ。
「教授の言う通り、私を引き抜こうと思うのなら、まずは両親に許可をとってください」
 絶対的な自信を持って言い放つ私に、彼は顔色一つ変えることはなかった。
「それならとっくに、ミナトとハルナには許可を貰っているけれど?」
「――パパと、ママが……?」
 どうせブレインにならねばならないのなら、花を咲かせる研究がしたい。と思ったのは私がまだ幼い頃だった。ジルの問いに対しての最初の答え、ブレインになったら植物学の研究をする、というとは本当のことだったのだ。
 植物学の権威である両親は、カレッジを卒業したら自らの研究所に私を入れることを約束してくれた。両親は誰よりも私のことを理解してくれていると思っていた。幾ら有名なブレインに引き抜かれそうになっても、絶対に自身の研究所から私を手放そうとはしなかったのに。
「君にも連絡が入っていると思ったんだけどなぁ。……ああ、そうか。ミナトも今はそれどころじゃなかったのかもしれないな。ほら、娘をよろしく、だってさ」
 私の目の前に浮かび上がったモニターには、確かに父、ミナト・ハヤセからのメッセージが届いていた。
「そんな……嘘よ、パパが、どうして」
「マユ。大丈夫だから」
 言葉を失い俯いた私を案ずるかのように、ジルが優しい声色で語り掛けるのだが、それは全く耳に入って来ない。
 両親は二人共、世界が認める優秀な研究者で、それこそ激務続きの毎日だった。それでも昔は、僅かな休み時間を縫って、私や私の幼馴染の勉強を見てくれた。科学だけではない幅広い知識を教えてくれた。本当に、優しくて、自慢の両親だった。私がカレッジの寮に入った直後、第八区に転勤してからは、会うことこそ少なかったが、いつも私を気に掛け、頻繁に連絡を取っていた。
 そんな両親に、見放されてしまったのではないかという不安に襲われた。私が講義を休んでまで過去の書物を読み漁っていることを、二人は知っている。最初に廃棄物置き場から本を取って来てくれたのは他でもない、父だ。
 つい数日前も、今しかできないことを、精一杯しておきなさいというメッセージが届いたばかりなのに。
 今更になって、どうして。
 全く事態が飲み込めなくて、私の頭は珍しく、本当にこんなことは今までで初めてというぐらいに、フリーズした。
 私が固まっていると、目の前に伸びてくる灰色の腕。
「大丈夫。何も案ずることはないから、ついておいで」
 柔らかい物腰だが、反射的に身を引いてしまう。
「っ、嫌! それでも連れて行こうとするなら」
「力ずくで連れて行ったら、どう? さっき地上で、アベルの愛し子にも言っていたよね」
 アベルの愛し子。第九区に生まれながら、様々な毛色を持つ特定の者を指す言葉だ。アサヒとの会話を聞かれていたことは、何の問題もない。
 私は、そこらの男に負けるような身体をしてはいない。
「そんなに身構えないでよ。僕の部屋を見れば、何故ミナトとハルナが快諾してくれたか、すぐにわかるから」
 身体を強張らせ、両足を踏ん張る。腕を掴まれると思いきや、膝を折ったジルの金髪が胸のあたりを掠めた。何をするのかと考える前に、足の裏が金属製の床から離れる。
「えっ……、えええええっ?」
 両親のことで動揺していたとはいえ、我ながら酷い取り乱しようだったと思う。起こり得るわけがない事象に、大きな声を上げてしまった。
 必死でジルの首元にしがみつく。黄金色の柔らかい髪が頬に当たって擽ったい、なんて、考えている場合ではない。
「こら。暴れたら落ちるよ。しっかり掴まって」
 まるでこの状況を楽しむように言うジルの顔は見れなかったけれど、代わりに教授たちの間抜けな顔が見えた。今の私は、物語なんかで読んだことがある、抱きかかえられているという状態なのだろう。
 新生児用のベッドなどには赤子を抱き上げるためのアームやら何やらが完備されており、母親がわが子を抱くことすら起こり得なくなったこの世界で。
「身長百六十センチメートル、体重四十七キログラム。やや痩せ形だけど、十七歳女子としては標準の範囲内だね」
 抱き上げて、まるで計測器のように私のスペックをすらすらと口上する。混乱している私を見下ろすジルは、無理をしているようには見えない。無理どころか、その顔は至極涼しい。
「では僕はこれで失礼するよ。ダメ元で来たけれど、やはりアベルの膝下、第九区。収穫はこの子だけだね。それも予定調和だけど」
 固まる教授たちにそう言って、歩き出す。揺れに驚いて、さらに強くその身体に抱き付いた。特に筋肉質というわけではない、むしろ細身である。そんな身体のどこにこれだけの力があるのだろうか。
 無理をしているようには見えないが、落とされては敵わない。大人しくしているに限るのだろう。私では、この人に敵わない。
 知識でも、力でも。


  移動式の通路が広く普及し、歩くという動作を行う機会が激減したとは言っても、未だ部屋として仕切られた空間の中は自力で移動する必要があった。扉に向かって歩くジルの足取りは安定していて、酷く動揺していた私も落ち着きを取り戻しつつある。
 自動扉の前に辿り着き、私たちがセンサーに感知されると扉は音もなく開いた。
「マユ!」
 私を講義に連れて来るよう教授に頼まれたアサヒがそこにいるのは、何となく予想ができていた。
 開いた扉の向こう側では、第八学年の主任教授とアサヒが、私たちを見て声を失っている。
「ドクター・ジル。こいつを連れて、一体どこへ?」
「どこって、研究所に帰るだけだけだよ。彼女は今日から僕の研究所の配属になったからね」
 そう言って私を抱えたジルは、瞠目するアサヒの横をすり抜けた。
「マユが、ドクター・ジルの研究所に? お前、父さんたちのところはどうするんだよ!」
「アサヒくん。君が心配するまでもないよ。彼女の両親にはきちんと許可を得ているからね」
 アサヒと、そして一緒にいた初老の教授が怪訝な顔をしたのも無理はない。私だって、どうして両親がそんなことをしたのか、わかっていないんだから。
「ミナトさんたちが? ……いや、それでも、こいつの許可は取ったんですか? どう見ても、無理矢理連れて行こうとしていますよね?」
 アサヒは口調こそぶっきらぼうだが、世話焼きな性格で、頼んでもいないのに私のことを案ずる癖がある。今にも食ってかかりそうな勢いで問い詰めるのは、紛れもなく私のためだ。
「ドクター。俺もそいつと一緒に研究所に行っていいですか? 俺も、あなたの研究には興味があります。構わないでしょう、教授?」
 いろいろな言葉を押し込んだ、努めて冷静な声。そして突然話を振られた主任教授は慌てて答える。
「そ、そうだな。ドクター・ジル。アサヒは彼女にも劣らぬ我が校の優秀な人材。ぜひ彼にもあなたの研究を見せてあげてください」
 耳元に微かな吐息を感じて振り仰ぐと、目の前に人形のような無表情があった。
「アサヒくん。僕たちの志は決して交わらない。だから君を僕の研究所に連れて行くことはできないよ」
「志?」
 一歩、私を抱いたジルが歩を進めるアサヒと似た体躯、こうして並ぶと背の高さはまるで同じだ。
「――僕の使命は、君たちの一番大切なものを壊すことだ。そんな僕らを、君たちはカインと名付けた。まるで悪役のようにね」
 すれ違いざまに、アサヒの耳元で囁く声が凍りつくように冷たくて、思わず両腕に力を込める。
「じゃあ、行こうか。マユ」
 私を見つめてそう言う声は、アサヒに向けたものとは打って変わって、酷く優しいものだった。
 移動通路に乗ったジルは、傍らに私をそっと降ろす。きっと、もう何も言わず大人しくついて行くとわかっているのだろう。その通り。父や母の意図はわからないけれど、二人が認めたならば、私は彼の研究所に行く他に選択肢はない。
 振り返ると、扉の横で立ちつくすアサヒの赤い頭がゆっくりと遠ざかっていくところだった。