錆ついたネジを巻く、空虚な音が好きだった。
その時計はどれだけネジを巻いても動き出すことはない。
百と三十七年前のあの日、あの時刻を指したまま、針は止まっている。
この懐中時計と同じように、この星も、あの時から時を刻むのをやめてしまったのではないか、なんて。
私は、私が生まれるずっと前のことに想いを馳せる。
考えたって意味のないことを、取り留めもなく考える。
私は、そんな時間が好きだった。
ベッドサイドのモニターに表示された時計が午前八時を示した丁度そのとき、部屋のチャイムが鳴る。セーブモードになっていたコンピュータが自動で稼働を始め、側に浮かび上がったディスプレイに外の様子が映し出される。
幼馴染であり同級生でもあるアサヒが、ブルーのシャツの上に長い白衣を羽織った姿で、そこに立っていた。同級生だが、彼の顔を見るのは久しい。
私はそっと懐中時計の蓋を閉めると、椅子の背に掛けてあった白衣に袖を通し、扉へと向かった。
「ここに来るのは、去年の講義以来だな」
落ち着かない様子で後ろに立つアサヒを余所に、薄暗い通路の自動床は私たちを奥へ奥へと運んでいた。ベルトコンベアーの小さな機械音が閉ざされた空間に響く。
「カレッジの生徒はいつでも自由に立ち入って構わないのに。本当、勿体無いわね」
行き着いた最奥の壁に設置されているのは、仄白く光を放つ認証機だった。右手を伸ばしてかざすと即座に私の生体を認証し、軽快な解除音が鳴る。と同時にシェルターの屋根が開き、足元の床がせり上がった。
眩しい朝の日差しに視界を焼かれる。少し強い風が吹いて、白衣の裾が舞い上がる。
そして、甘くて、ほんの少しだけ酸味のある香りに包まれた。
「本当に、良い香り」
白い花が咲き誇る木を見上げると、自然と笑みが零れる。ちらりと後ろを振り返ると、アサヒは風で赤茶色の髪が乱れるのも厭わず、半分呆けたような顔をしていた。
木々の濃い緑色は、ここでしか見ることができない。ここに来ると、命の息吹を感じることができる、なんて、少し大げさかもしれないけれど。
陽光に煌めく噴水の飛沫の音も、鼻腔をくすぐる花の香りも、その全てが、生を実感させてくれる。
――世界が滅んだという事実を、忘れてしまいそうになる――
「これが、花、か。こうして咲いている姿を見れるなんて、思ってもみなかっ、」
彼の言葉は無視。私は無造作にその花弁を掴もうとしていた手を叩き落とした。
「何十年もかかってやっと咲いたのよ。無闇に触らないで」
大袈裟に膝を抱えてうずくまる背中に鋭い言葉を投げた。
私たちは、花を知らない。
もちろん生物学では植物の生態について徹底的に教え込まれたし、研究所で人工的に培養された花を見学したこともある。
でも、どれだけ鮮やかに咲いていても、細胞の一つ一つまで人の手で造られたそれを、生命と言うべきではないと、私は思う。
だから、私はそれを、花とは呼ばない。
「これがどれだけ尊いものか、あなたも理解できるでしょう?」
立ち上がると私より頭半分高いアサヒが、手の甲をさすりながら、普段より低い声を出した。
「配慮が足りなかったことは認める。だが、いきなり叩くことないだろう? それも思い切り」
「思い切り? 力なんてほとんど込めてないけれど?」
そう言い捨てると、くるりと背を向けて歩き出した。
言ってしまえば、この花も造り物に他ならない。でも造られた土壌に自ら根を張って、自らの意志で開いた花は、培養装置の中で強制的に開かれた花とは本質が違うと思う。
だから、私はこれを、花と呼ぶ。
遥か昔に存在した、庭園や公園と呼ばれていたという営造物を忠実に再現したこの場所は、第九居住区の地上被験地という。はるか昔、日本という島国が存在していた場所に作られた地上の実験地だ。
世界暦百三十七年、初夏。
もう、この地球のどこを探しても、季節なんてものは存在しない。しかし、かつてこの地にあった国、日本では今頃の時期を夏の初めと呼んでいたらしい。
この被験地も、日本の初夏のように木々は青々と茂っていた。少し汗ばむ大気も、強い日差しも、遠い昔を模したものだ。
暑くなって、白衣を脱ぐ。下に着ているブルーのシャツは、制服としてカレッジから支給されたものだった。私は、ブレインを養成するために作られた、世界に九つある教育機関の一つ、カレッジ・ナインの第八学年に属する。
そしてあと数カ月後。かつてこの地が秋と呼ばれていた季節にカレッジを卒業し、その後は一生涯、ブレインとしてこの星で人類が生き延びる術を探す研究に明け暮れるのだ。
ブレイン。それは、特権階級と呼ばれる科学者たちの呼称である。この世界の身分階級はブレインと、一般人の二つしかない。私は別に、その身分を振りかざすこともなければ、誇らしく思うこともなかった。
「おい、マユ。待てよ!」
振り返ると、幼馴染兼同級生が息を上げながら近づいてくる。待てと言われても、息を切らすような早足で歩いていたわけではないし、置き去りにしたつもりもない。ただ私の身体が、知らず知らずのうちに、他人より逞しくなってしまっただけ。
互いの距離がゼロになったかと思えば、腕を掴まれた。
「何なの?」
「そろそろ時間だ。次の講義には顔を出したい」
人類が皆、耳に埋め込むようにして常に身につけている小型の端末に触れる。目の前に浮かび上がるディスプレイによると、時刻はまだ九時半を過ぎたところだ。
「ああ、そうだったわね」
とあからさまに嫌な声が無意識に唇から漏れる。この同級生が、朝わざわざ部屋まで迎えに来たのは、午後の講義に共に出席しないかという誘いのためだった。
人々が科学者に求めているのは、優れた科学技術の開発。変わり果てたこの星で生き抜くために必要な科学の発展、ただそれだけなのは周知の事実で、私もそれに異論はない。でも。
「俺には、教授の言葉が無視できない。頼む」
日夜研究に明け暮れる科学者たちは、目の前の問題で手一杯なのか、ここに来るものはほとんどいない。何十年もかけてやっと、自らの意志で咲いた花なのに、誰からも観てもらえないなんて。そんな悲しいことはない。だから、私は彼をここへ連れてきたのだ。
「……これで少しは、あなたたちも報われたかしらね。アサヒ、無理に付き合わせて悪かったわね」
赤毛の頭を見上げて言うと、彼は首を横に振って答える。
「いや。お前に誘われることがなければ、俺はここには来られなかった。だから、感謝している」
「来られなかった?」
彼の言葉が引っかかって眉をひそめると、彼ははぐらかすように、笑った。
「俺たちアベルは、ここにはむやみに出入りしないよう言われている。それに、天才と謳われるお前と違って、劣等生の俺には時間がないのも事実だ」
「天才、かぁ」
両親が共に、この星の最前線で研究を進めるブレインで、その遺伝子を受け継いでいる私も、昔から知能指数が人より飛び抜けていたらしい。
もうすぐ十八歳になる私は本来第六学年であるはずなのだが、二学年飛び級をしたことで、現在最高学年である第八学年に籍を置いていた。
ブレインになるための最終関門である卒業論文も、もうとっくに、かなりの高評価でクリアしていた。そんな私に、講義に出席する必要などはない。
「それに。世界中にあらゆる分野の研究室を傘下に持つ、あの有名な研究所の代表が直接生徒を引き抜きに来るなんて、面白いじゃないか」
そして、自身を劣等生と揶揄するアサヒも、私と同じで、天才と呼ばれる人種だった。ほとんど努力を要することなく、難しい理論を理解してしまう。二学年飛び級している私と同い年で同級生ということは、言わずもがな、彼もまた同じだけ飛び級しているということだ。
彼の中には、この星の運命を握っているような、優秀で有力なブレインの遺伝子が受け継がれている。日系人が多い第九区は特に目立つ、珍しい髪色や瞳の色が、紛れもないその証だった。しかし彼は、幼少の頃から自身を卑下する悪癖がある。
「あまり興味ないわ。もちろん必要もないし」
「こういうとき、俺が担いででも連れていけたらよかったんだがな」
てんでやる気のない私を見て、アサヒが苦笑する。そんなとき、不意に先刻から腕を掴まれたままだったことに気が付く。
「どうせなら、試してみる? 引き摺っても、抱えても、背負ってもいいわよ」
無理に決まっているだろう。という呟きが聞こえて、腕が少しだけ引かれる感覚がした。
アサヒは男で、勿論自分よりずっと体格もいい。でも、私がほんのちょっとだけ踏ん張れば、彼の力では私を引っ張ることは不可能だった。
進み過ぎた科学技術により、人々は次第に自らの肉体を使わなくなった。カレッジで勉強や研究ばかりしていると尚更だ。
「この時勢に、ガラクタをひっくり返して漁っているからか? 本当に、凄い力だな」
「あなたにはガラクタにしか見えないかもしれないけれど、私にとったら宝の山なのよ」
腕に力を込めて振り払えば、その手はあっさりと自由になる。
「いい加減にしておかないと、本当に二限に遅れるわね。さすがの私も、そこまであなたを拘束するつもりはないのよ」
「では俺は、地下に戻るとする。午後からの授業、来てくれると信じてるからな」
そう言うと、柔らかな笑顔でひらひらと手を振り、彼は来た道を引き返してゆく。重厚なシェルターに飲み込まれる、白衣の背中。
「頑張って咲いたあなたたちを見せることができてよかった。私のわがままを聞いてもらったんだから、私もアサヒの要求には応えないとね」
白い花弁にそっと語りかける。
辺りはまた、風の音に支配された。
一人になった私は、白い花を眺めながら歩き、庭園の丁度真ん中に建てられた白煉瓦の東屋へと辿り着く。その中のベンチに腰を下ろすと、ほうっと息を吐いた。
白衣のポケットは、普通の衣服のものより大きく丈夫に作られている。今や廃棄物扱いされている紙で出来た本を取り出して、大理石のテーブルの上に置いた。
これは、しばらく前から考えていたこと。この庭園で、温かな日差しに包まれながらのんびりと読書をしたら、どんなに心地良いだろう。小さめの本の表紙を広げると、びっしりと踊る文字に心も踊る。
私の意識は、すぐに本の世界へ吸い込まれていった。
それから数十分が経った頃だろうか。風と噴水の音しかしない庭園に、土を踏み締める小さな音が響いた。ベンチに腰を下ろし、本を開いてからというもの、一切姿勢を変えていないほど集中していた私の耳にも、僅かに届く。
近付く者の気配に、ふっと顔を上げた。真っ直ぐに伸びた黒髪が靡いて視界を遮ろうとするのを、右手でかき上げる。
「随分と、真剣だね」
思ったより、ずっと近かった。いつの間にかテーブルを挟んで向かい側にいた人物が話し掛けてくる。
「あれ? 気付いてた? 思っていたより随分と落ち着いてみえるけど」
その人物を、頭のてっぺんからつま先まで二、三往復見てから、
「これでも十分に驚いているわ。だって、家族以外から日本語で話しかけられることなんて、初めてなんだから」
世界が一つに統合されて、百三十六年と半年。統合される前と比べ、今の世界の人口はその一パーセントを下回る。何千とあった言語も唯一の共通言語を残して廃れてしまったのが今の世界だ。
「黒くて癖のない髪、小作りながらも丸い目は、日系の特徴。それにここは元々日本国の在りし場所、第九番目の被験地だからねぇ」
日系の血を引いていても、今の世界で日本語を自在に使える者にはほとんど出会わない。私が、私の家族が特別なのは誰もが認める事実。
「それにしても、君は綺麗な日本語を話すね。ここまで流暢に話せる人がいるなんて、思ってもみなかったよ。ずっと、聞いていたくなる」
いつの間にか、当たり前のように隣に腰掛けている青年は、ゆったりとしたグレーのパーカーの袖口を口元に当てて、嬉しそうに笑う。
「私も、日本語をこんなに話せる人がいるなんて。それもあなたみたいな外見の人が話せるなんて、思ってもみなかったわ。……その姿、西欧系よね」
親世代がまだ何となく日本語が使える日系の子孫は確かに存在する。だが、彼は完全に違っていた。
金髪は、自分のそれと同じぐらい癖がなく、時折吹く風に揺れている。
柔らかい微笑みの中で碧い眼が探るように煌めくのを、私が見落とすはずがない。
「西欧の中でも、北欧系だよ。ここでは珍しいようで、珍しくもない」
「そう。ここは元日本国のあった場所に造られているから、住人の多くは日系。でも、ここはアベルの愛し子たちが生まれた地だから。あなたみたいな容姿にも慣れている」
うんうん、と、彼は頬笑みを絶やさずに私の二の句を待つ。
「でも、問題はそこじゃないわ。いきなり現れて流暢な日本語で話しかけてきて。白衣も制服も着てなくて。パーカー? 今どき、一般人でも着てないんじゃない? それを、この地上被験地で身に纏っているなんて」
自分で思っていたよりも、私は動揺していたようだ。ここまで息もつかずに一気に日本語で話すのを見てか、目の前の青年はふと笑みを溢した後、あっさりと共通言語で答えた。
「ああ、僕、白衣って嫌いなんだよね」
言語が違うだけで、印象も随分異なるものだ。
共通言語になった途端、気さくな雰囲気になった青年は、テーブルの上に広げてあった本を覗き込む。
「Le Rouge et le Noir。仏国の作家、スタンダールの作品だね。でも君、どうやってこの本を手に入れたんだい?」
仏語の完璧な発音もそうだが、開いていたページを一瞬覗き見ただけで言い当てられたことに、私は目を丸くした。そのせいか、本当は口外すべきでないことを、思わず素直に口にしてしまう。
「廃棄物置き場で見つけたの」
言った後で、ばつの悪い顔つきになったであろう私を見た彼は、一瞬目を見開きし、そして苦い笑いを浮かべた。
「随分と危ないことをするんだね。あそこは汚染物質も多いのに」
地下に増設された第九居住区、その最端に作られた廃棄物置き場は、本来ブレインの専門機関の者しか立ち入ることはできない場所だった。だが、その管理は非常に甘い。今を生きることに必死な人類は、過去の遺物に無関心であるが故なのだろう。数年前にそれを知った私は、かねてより時折そこに忍び込んでは目ぼしい物を拝借していた。
「大丈夫。この本はきちんと除染したし、立ち入るときは防護服も着ているから」
禁じられた行為をしていることに変わりはないのだけど、こうなったらもう開き直るしかない。
制服に白衣を重ねたこの格好を見れば、私がカレッジの生徒だとすぐにわかるはず。一般人ではなくカレッジの生徒ならば、当然汚染された廃棄物の取り扱いも心得ている。それを知っているからか、青年はそれ以上何も言わなかった。
金の髪の間から覗く遠くを見つめる目が、やがて長い睫毛に縁取られた瞼によって隠される。
「――昔の人は、今じゃ到底考えもつかないようなことに、悩み、苦しみ、そして幸福を感じている」
どこか、憂いを帯びた声色で、詩のように紡ぎだされる言葉たち。歴史から取り残されたようなこの場所、陽の光を浴びて眩しく輝く金の髪のせいで、現実を忘れそうになった。
精巧に作られた西洋人形のようなその人に見入っていると、不意に瞼が開き、青が煌めく。
「君は、どうして? どうして、人々が捨てた、過去の地球を追い求めるんだい?」
真っ直ぐに向けられた、この星のような色をした瞳から、目が逸らせなかった。
過去の地球を追い求めるなんて、私はそんな大層なことをしてはいない。
「同じ人間なのに、昔の人たちの方が、ずっといきいきとしてる気がする。生きているって感じられる。そんな生き方をしていた昔の人たちが、私は羨ましい。ただ、それだけよ」
そう、それだけのことに、堪らなく惹かれていた。そんな時代に生まれた人々が、羨ましかった。
生き延びた全人類から、どれだけ忌み嫌われていても、私はそんな、かつての世界が好きだった。
エデン・ロストを引き起こした、愚かな世界が。
「君の名前を聞いてもいいかな?」
私の答えに満足したのか、真剣だった彼の顔にはいつしか笑みが浮かんでいた。胸ポケットから名札を引っ張り出すとその眼前にかざして答える。
「マユ。マユ・ハヤミよ」
「……マユ。ケチュア語で大河を意味する言葉だったかな」
それは確か、どこかの古代文明で使われていた言語だったと記憶している。知能テストで選ばれた特権階級の中において、これでも一応トップクラスの成績を修めている身。今や殆んど見向きもされない過去の文化に、いつの日からか魅せられて以来、積極的に知識を取り入れている。
そんな私より、学識がある人がいたなんて。それも、学の高さは段違いだ。
「あなた、何者なの? ここにいるということは、カイン側の人間?」
湧き上がった感情は、知識に対する畏敬と、それを超える期待なのだと思う。
「ごめん、変なことばかり言って。僕は、過去に固執しているだけだよ。原始の人間の生活とかね。そういうのに、すごく興味がある。だから、その分野に長けてるだけ」
軽い口調でそう言う顔が、少し寂しげに見えた。興味なら、私もある。興味だけで、これだけの知識を得るのに、一体どれほどの時間を要したのだろう。
「あなたは、ブレイン? 私とさほど年が離れているようには見えないけれど」
返事の代わりに返ってきたのは、にっこり、そんな擬音が目に見えそうなぐらいの頬笑み。それだけを残して、青年は踵を返す。
「そろそろ午後の講義の時間じゃない? 行かなくていいの?」
背を向けたままそう言い、一度も振り返ることなく歩き去る。
「……何だったの?」
思わず呟いてから、左耳に手を伸ばす。彼は、アサヒとの会話を聞いていたのだろうか。約束の、午後の講義の時間が迫っていた。
行かなければと思うのに、なかなか身体が動かなかった。それほどまでに、その出会いは衝撃が大きくて。
私などでは到底考えの及ばない、高尚な知識を持った人。私の知りたいこと、求めていることを知っている人。
本を白衣のポケットに突っ込み、深呼吸をした。胸が高鳴っているのは、興奮しているから。昔の本に頻繁に登場する、恋という感情は、これとよく似ているのかもしれない。
端末が小さく振動した。この場所を離れるのはいつも名残惜しいが、今日は一層、足取りが重い。
でも、戻らなければ。私たち、残された人類が生きる場所。
ーー地下の世界へ。
人類が地上を支配し始めてから、幾万の歴史の果て。
どれだけ歴史を刻んでも、人々は戦争という無益な争いを止めることはなかった。
戦の発端は、民族間紛争であったり、宗教の過激派テロであったりと、どれも些細なものだった。しかし、それらは次第に国を巻き込み、まるで国家間の科学技術を誇示するかのように、最新の化学兵器を用いた大規模で凄惨な世界戦争へと発展していった。
そして、今から百三十七年前。
とある国が秘密裏に開発していたバイオ兵器の誤爆により、地上世界が壊滅するという、人類にとって大きな転機を迎えることとなる。
地上へと繋がる通路を下って居住区へと戻った私は、真っ直ぐカレッジへと向かう自動通路に乗った。この地下世界を照らす人工太陽もそれなりに明るく、薄暗い通路から出て暫くは目を細めてしまう。
まだ人々が地上で生活していた頃から、地下の開発は進んでいた。世界で九ヶ所。特に人口の多い地域で大規模な開拓が行われており、いよいよ居住が可能になったちょうどその頃に、地上世界は壊滅したのだ。
まさに急死に一生。生き残ったごく僅かな人々は、出来上がったばかりの地下都市へと逃げ、そして生活圏を整えた。そしてその九ヶ所のそれぞれが地上に実験地を持ち、地下に居住のための各施設と一つのカレッジを有している。
居住区の最北に集められた研究施設群。ブレインたちは基本的に住居を持たず、研究室内の個人部屋に寝泊まりしていた。カレッジは研究施設群の中にあり、生徒は親元を離れて学生寮で生活する。都市の南側に設けられた一般人の生活区とは完全に隔離されていた。
「あっ、マユ! 久しぶり〜」
正門で出くわしたのは同い年のシオリだった。飛び級や留年をすることなく順当に進級してきた彼女は、自分より二つ下の学年であるのだが、入学時は勿論同じ学年である。
私は二年生飛ばして三年生になったため、実質彼女と共に過ごした時間は一年間だったが、カレッジにおいて女子生徒は圧倒的に少ないこともあって、いまだに友人関係は続いていた。
「あんたが来ないから、八年の教室、見てるだけでむさっくるしいたらありゃしなかったわぁ」
正門から講義棟へ向かう幅広の自動通路の上、脆弱な筋力で抱きついてきた彼女の身体をしっかりと抱き止めた。
昔から、女性の頭脳回路と理数系の学問は相入れないのだという。迷信にも近いと思っていたのだが、事実、頭脳テストをパスする女子は、世界的に数えても、毎年十数人ほどしかいないらしい。
生き残った全人類が、満十二歳になる秋の頃、その試験は執り行われる。
潜在的な知能指数の他、数学、化学、物理学などの知識を問うその試験によって、その人間の一生は決まるのだ。
パスした僅かな人間だけが最高峰の教育を受ける権利を得、やがてこの星の運命を担うブレインとなる。その他大多数は、ブレインの完璧で安全で公平な管理の下、かつて日本の憲法が謳っていた、健康で文化的な最低限度の生活を保障されながら、平凡で退屈な人生を過ごすのである。
「八年の女子は私だけだからね。でも確か、シオリのところもそうだったでしょ?」
「そうよ! 折角女子が五人もパスしたのに、トモエとツムギは一つ、マユは二つスキップして。ヒナノなんて、もう卒業しちゃった。まるで取り残されたあたしが、出来損ないみたいで嫌なの」
カレッジでは留年なんてよくあることで、最悪の場合ブレインになる資格を剥奪されることだって珍しくない中、順当に進級し続けているだけでも本来は十分なのだが。
「私だって、許されるならずっと学生でいたいよ」
そう、小さく漏らして、シオリのふわふわの茶髪をぐりぐりと撫で回した。
私たちの世代は、統一試験を受験する前から、世界中の注目を浴びていた。そして迎えた統一試験。第九区はこの制度が始まって以来最も多数の合格者を輩出する。そして後に、その合格者たちの大半は、他の居住区の合格者と比べても非常に優秀であることも判明した。
ブレインによって結成されたときの政府による実験は、無事に成功を収めたのである。
「そんなにブレインになりたくないわけ?」
「ブレインが嫌なんじゃない。学生みたいに自由がなくなるのが嫌なだけ」
自分で口にしながら、何とも酷い我儘だと思った。シオリも勿論そう感じたのだろう、堪え切れないとばかりに笑い出す。
「マユ、これだけ我儘を繰り返したのに、まだ足りないの? これ以上は、贅沢言っちゃだめだよ。あたしたちは、自分の一番したい研究に一生携わって生きていける。そんな自由とやり甲斐を、この頭で掴み取ったんだから」
そうでしょ、と小首を傾げてから、お返しと言わんばかりに頭を捏ね回された。
「大丈夫。ちゃんと、わかってるから」
でも、自分の学びたい分野が、この世界で無駄と見なされて、排除されているとしたら?
知識を得ることを許されない世界。そんな世界で、私は研究者をしていく意味があるの?
それも全部、幼稚な我儘に過ぎないのだけど。思い切り撫でられた反動で俯いた頭をそのままに、誰にも気取られないように、唇を噛み締めた。
シオリと別れ、八学年の講義室の扉を潜ると、自席に座る。窓際の一番後ろは随分と前から私の指定席になっていた。
そんな特等席に座るのも、もう何週間ぶりだろうか。前の方の座席から視線を感じて顔を上げると、私が講義に出ることがわかり、心底安堵したような顔のアサヒと目が合った。他にも、男子生徒たちからの視線を感じる。
どうせ何も知らない生徒からは、こんなときだけ顔を出す狡い奴だと思われているのだろう。
アサヒに懇願されたから来たのだ、などと、逐一説明をする気も起らない。他人にどう思われていても構わない。
彼らのことは気にも留めず、机上にモニターを幾つか浮かべた。その中の一つのモニターに表示されたのは、今日のトップニュース。
第九区の隣に位置する第八区。そこの筆頭ブレインが交代するらしい。後任は近々発表される予定とのことだが、最有力候補は。
そこまで読んだところで、カレッジの中でも権力のある教授が講義室に訪れた。部屋は静まり返り、生徒たちは居住まいを正す。
「よし、全員揃っているな? もう配属先が決まっている者もいるだろうが、滅多にない機会だからな。よく話を聞くように」
教授はそう言うと、扉の外に向かって頷いた。そしてゆっくりと講義室へと姿を見せる、鮮やかな金色の髪。
その可能性は否定できなかった。でも、予想をしていたわけでもなくて。
私は顔を上げたまま固まった。
「みなさん、はじめまして」
綺麗な発音。だけど私や母のようなネイティブには少し劣る。
何を考えているのか、眩しい金髪の青年は教卓の前に立つと、日本語で話し始めた。講義室がざわつく。部屋の外で控えていた何人もの教授たちが顔を見合わせている様子が目に入った。
いくらここが選ばれた者だけが通うカレッジであっても。いや、科学者を養成するカレッジだからこそ、この場に日本語を話せる者はいない。
ここにはブレインに不必要な学問は切り捨てる者しか存在しない。
目立ちたくはなかったけれど、仕方なく立ち上がる。すると、金髪の青年はゆるりと笑みを浮かべる。
「先生。共通言語でお願いします。みんな、戸惑っていますから。それにここには、日本語が話せる者はいませんよ」
敢えて、日本語で言うと、言葉の内容を雰囲気で察したのか、周囲からよく言ったと言わんばかりの視線を注がれた。
「目で見て確かめないと信じられない主義なんだ。申し訳ない」
私にしか理解できない言葉で皆に謝罪をすると、彼は共通言語に切り替える。
「改めて。僕の名前はジルといいます」
白衣の代わりにオーバーサイズの灰色のパーカーを纏ったジルは、どう見ても私たちと同世代の青年で、名高いブレインには見えない。だけど私は知っていた。彼の頭の中に詰まった、天才と謳われる私でさえ想像も及ばない、膨大で莫大なる知識を。
「さて。綺麗事を並べるのは好きじゃないから、単刀直入に言おう。僕は、君たちの中から有望な人材を見つけて引き抜くために、研究室の代表として、ここに訪れた」
これまで同じような動機でカレッジを訪れたブレインたちは、ある程度自分の研究内容について講義をした後で、質疑応答や自己アピールの時間を設けていた。今までにない切り口で進めるジルに、生徒たちの顔に不安の色が滲んでゆく。
「僕の研究室、それから各居住区にある関連施設が行っている研究については、みんな、嫌と言うほど知っているね? 一番有名なのは、この地球が誇る最先端医学。僕たち以外で、その技術を持つ場所はない。その他にも、特に優秀な研究者たちが大勢集っている」
彼の言う通り、その研究を知らない者はいない。それだけ著名な研究室だ、この学年でも彼の研究室に所属を望む者は多く、直属ではないものの傘下の研究室に既に配属が決まっている者もいた。
「しかし今日選ぶのは、研究所の中枢。この星の、人類の運命を握っている主力メンバーだ」
途端、教室がざわついた。そして誰もが思っただろう。
どうしてそんな重要な人選を行うのが、自分たちとさほど年の変わらない青年なのだろうか、と。しかしそれを聞く時間も、雰囲気もない。
「僕はね、君たちがここを卒業してブレインになったら、何をしたいか。それを教えてほしいんだよね。……じゃあ、そっちの端から順にいこうか」
一番遠い席からでも、唐突に指された男子生徒の両肩が跳ね上がるのが目に入る。
「僕の研究室に興味がないなら、素直に自分のやりたいことを言ってくれればそれでいいから。気楽にいこう」
そうして、生徒たちは順に、己が掲げるブレインとしての在り方や信念を話し始めた。
私の番は最後か。頬杖をついて眺めていると、並んだ黒い頭の中にちらほらと数人、鮮やかな毛色がやけに目立って見えた。
約半分の生徒が話し終える。中には彼、ジルの研究室に入りたいと熱く語る者もいたが、ジルは人形のように表情一つ変えることはなかった。
「はい。じゃあ、次の人」
いつになく緊張した面持ちで立ち上がったのは、アサヒだった。ジルが僅かに表情を崩したのは多分、稀有なヤマトの外見に驚いたからではなく、私と共に地上にいたのを見ていたからだろう。
「俺は、大気化学の研究に邁進していきます。きっと……、きっといつか、我々人類は地上の世界を取り戻す」
よく通る声だった。
「いくら壊れて、滅んでしまっていても、俺はこの星を捨てることを許さない」
その凛とした言葉を聞いて、幼い頃からずっと、彼はこの夢を語っていたことを思い出す。この星の大気は生命が芽吹くことが不可能な程に汚染されていて。地上被験地に出向くたびに、自分の夢がどれだけ難しいものかを思い知らされると項垂れていたのはカレッジに入学して間も無くの頃だっただろうか。
今まで生徒の発言内容には一度も言及することのなかったジルが、僅かに低い声色で問いかけた。
「……そう。君は、壊れた地球が何よりも大切だと。そう、言うんだね? 極右派のアベル」
その声に、怒りや他の負の感情は感じなかったのだけど、何故か背筋が粟立つ。
「はい。人類の、生物たちの進化の軌跡が詰まったこの惑星を、俺は絶対に見捨てられません」
はっきりと、そう言い放ったアサヒの顔を見ることは叶わなかったけれど、きっと彼は目を逸らすことなくジルを見つめていたのだろう。
暫くの沈黙を破ったのは、柔らかなジルの声だった。
「わかった、ありがとう。座っていいよ。じゃあ次の人ね」
何事もなかったかのように微笑む顔からは、何の感情も読み取ることができない。アサヒは黙って一礼すると、静かに席に着いた。
それからは、アサヒのときのようなやり取りもなく、生徒たちの回答が繰り返されていった。もうすぐ全ての生徒が答え終わり、順番は私に回ってくる。
どこの研究室の配属になるか。そんなものは、試験をパスしたときから決めているし、決まっていた私にとって、こんなものは無駄でしかない。
「はい、じゃあ次。彼女で最後だね」
青い目に見つめられて立ち上がると、自嘲気味に答える。
「私は植物学です。第八区にある植物学の研究所。そこの所長が私の父親で、副所長が母親ですから」
生まれながらにして決まっていた将来を、憂いたことはない。私自身、植物が好きだから、いつも花を見に行っている。
「それは君が希望していること?」
「ええ。親のコネとはいえ、あんなに大きな研究室に入れるなんて、恵まれていると思います」
ふぅん、と、ジルは納得いかないような顔をする。
「じゃあ君は、さっきの赤毛の彼のように、この壊れた地球が大切で。それを守りたいと。枯れた大地に緑の木々を芽吹かせたいと願う?」
「……まさか」
なるほど。質問の意図をやっと理解した。私は、カインともアベルとも違う。
「私はエデン・ロストを許さない」
「それは史実か、或いは旧約聖書の楽園喪失か。ここは敢えて聞かないでおくとするよ」
必要のない知識を得ることが許されない世界を、私は許さない。
知識を得たがために楽園を追われたアダムとイブ。
知識を得すぎたがために地上から追われた人類。
エデン・ロスト。この世界の人々は、百三十七年前に起きた地上世界の崩壊を、そう呼んでいる。
腐敗した石を磨り潰して作ったインクにペン先を浸す。透明だった硝子ペンは、勢いよく昇ってきた黒に染まっていった。
ペン、という筆記具が使われなくなって、もうどれだけの時間が過ぎたのだろう。
人類が、筆記という動作を捨てたのは、つい最近。西暦という暦が終わって幾許も経っていなかった頃だったと、僕は主治医から聞いていた。
科学の発達は、人からあらゆるものを奪った。
僕は、そう、認識している。
手術は無事に成功し、僕は自由に動けるようになったけれど。西暦時代、失われた世界への未練は、感情の大半を失っても捨て切れる物ではなかった。
廃棄物置き場と呼ばれる、地上に残ったゴミの中でも我々に有益な情報をもたらしてくれる可能性がある物を、まとめて残してある場所。本当にゴミの山と化しているその場所に、僕は足繁く通った。
少しでも昔の状態を保っているものを見つけてきては、一人、それを眺めていた。
そうして時間は流れ、僕は一人の気の合う友人と出会う。彼と二人で、僕らはとっておきの部屋を作り上げた。
針の折れた蓄音器、壊れたオルガン、刃こぼれしたペーパーナイフ、色褪せた地球儀。
木製の机の上にはぼろぼろのノートと筆記具が置かれていて、その横には少し破れて綿の飛び出したうさぎのぬいぐるみが転がる。
壁面にぶら下がった振子時計は、時を刻んでいる。
その部屋の中は、あの日で止まることなく、絶えず時間を刻み続けている。
私がまた、あの流暢な日本語を聞いたのは、講義が終わった直後だった。
「早瀬真由さん。この後、応接室まで来るように」
仕方がない。自業自得。わかっていて、私はあんな答え方をした。誘導尋問に近かった気もするけれど。
私が抱く、この世界に対する不満を、彼は理解してくれると思ったから。
そして、そんな刹那の浅はかな感情が後で面倒な事態を引き起こすであろうことを、ある程度の予想と覚悟はしていたつもりだ。それに見合うほど、あの地上での出会いは衝撃だった。
「最初の日本語での挨拶。あれ、私とあなた以外に通じる者がどれだけいるかを試したんですよね?」
応接室のソファーに深く腰を沈めたジルが目を細める。
「うん。あまり聞かれたくない会話をどれだけ堂々とできるか知りたかったんだ」
テーブルから伸びるアームが動き、ミネラルウォーターの注がれたグラスをジルの口元に運んだ。彼はその様子を一瞬毛嫌いするような目で見てから、グラスから伸びるストローを咥える。
この子と二人で話がしたいから、黙っているように、と、学長とその他数名の教授を部屋の隅に追いやった彼にも。そしてそれに当然と言った顔で応じた学長たちにも驚いた。
私は彼が、どれだけ功績と力のあるブレインなのかを知らない。だが、どう見ても、私とジルはあまり年が離れているとは思えないのだ。
「……それで、私が呼ばれた理由は?」
「聞かなくともわかってるだろう? 君には、僕の研究所に来てもらうよ」
これは決定事項だ。オーバーサイズのパーカーで隠れた手先を口元に当てながらジルは言う。それにはさすがの教授たちも驚いたようで、咄嗟に口を出した。
「ドクター・ジル、彼女はドクター・ハヤセのご息女で、」
黙っていてと指示したはずの教授たちが口を挟んだことが気に障ったのか、ジルは鋭い目で彼らを睨んだ。
確かに彼の持つ知識や思考には非常に惹かれる。もっと話してみたい、近付きたいと思う。でも。それと彼の研究室に入ることは全く違うこと。
私は彼が仕事として行っている医学の研究には興味がなく、その研究に一生を費やすつもりも毛頭ない。あのような答えを返したからには、こうして研究室に勧誘されることも想定の範囲内だった。そして私には、その勧誘を断れる自信があったから、敢えてその答えを選んだのだ。
「教授の言う通り、私を引き抜こうと思うのなら、まずは両親に許可をとってください」
絶対的な自信を持って言い放つ私に、彼は顔色一つ変えることはなかった。
「それならとっくに、ミナトとハルナには許可を貰っているけれど?」
「――パパと、ママが……?」
どうせブレインにならねばならないのなら、花を咲かせる研究がしたい。と思ったのは私がまだ幼い頃だった。ジルの問いに対しての最初の答え、ブレインになったら植物学の研究をする、というとは本当のことだったのだ。
植物学の権威である両親は、カレッジを卒業したら自らの研究所に私を入れることを約束してくれた。両親は誰よりも私のことを理解してくれていると思っていた。幾ら有名なブレインに引き抜かれそうになっても、絶対に自身の研究所から私を手放そうとはしなかったのに。
「君にも連絡が入っていると思ったんだけどなぁ。……ああ、そうか。ミナトも今はそれどころじゃなかったのかもしれないな。ほら、娘をよろしく、だってさ」
私の目の前に浮かび上がったモニターには、確かに父、ミナト・ハヤセからのメッセージが届いていた。
「そんな……嘘よ、パパが、どうして」
「マユ。大丈夫だから」
言葉を失い俯いた私を案ずるかのように、ジルが優しい声色で語り掛けるのだが、それは全く耳に入って来ない。
両親は二人共、世界が認める優秀な研究者で、それこそ激務続きの毎日だった。それでも昔は、僅かな休み時間を縫って、私や私の幼馴染の勉強を見てくれた。科学だけではない幅広い知識を教えてくれた。本当に、優しくて、自慢の両親だった。私がカレッジの寮に入った直後、第八区に転勤してからは、会うことこそ少なかったが、いつも私を気に掛け、頻繁に連絡を取っていた。
そんな両親に、見放されてしまったのではないかという不安に襲われた。私が講義を休んでまで過去の書物を読み漁っていることを、二人は知っている。最初に廃棄物置き場から本を取って来てくれたのは他でもない、父だ。
つい数日前も、今しかできないことを、精一杯しておきなさいというメッセージが届いたばかりなのに。
今更になって、どうして。
全く事態が飲み込めなくて、私の頭は珍しく、本当にこんなことは今までで初めてというぐらいに、フリーズした。
私が固まっていると、目の前に伸びてくる灰色の腕。
「大丈夫。何も案ずることはないから、ついておいで」
柔らかい物腰だが、反射的に身を引いてしまう。
「っ、嫌! それでも連れて行こうとするなら」
「力ずくで連れて行ったら、どう? さっき地上で、アベルの愛し子にも言っていたよね」
アベルの愛し子。第九区に生まれながら、様々な毛色を持つ特定の者を指す言葉だ。アサヒとの会話を聞かれていたことは、何の問題もない。
私は、そこらの男に負けるような身体をしてはいない。
「そんなに身構えないでよ。僕の部屋を見れば、何故ミナトとハルナが快諾してくれたか、すぐにわかるから」
身体を強張らせ、両足を踏ん張る。腕を掴まれると思いきや、膝を折ったジルの金髪が胸のあたりを掠めた。何をするのかと考える前に、足の裏が金属製の床から離れる。
「えっ……、えええええっ?」
両親のことで動揺していたとはいえ、我ながら酷い取り乱しようだったと思う。起こり得るわけがない事象に、大きな声を上げてしまった。
必死でジルの首元にしがみつく。黄金色の柔らかい髪が頬に当たって擽ったい、なんて、考えている場合ではない。
「こら。暴れたら落ちるよ。しっかり掴まって」
まるでこの状況を楽しむように言うジルの顔は見れなかったけれど、代わりに教授たちの間抜けな顔が見えた。今の私は、物語なんかで読んだことがある、抱きかかえられているという状態なのだろう。
新生児用のベッドなどには赤子を抱き上げるためのアームやら何やらが完備されており、母親がわが子を抱くことすら起こり得なくなったこの世界で。
「身長百六十センチメートル、体重四十七キログラム。やや痩せ形だけど、十七歳女子としては標準の範囲内だね」
抱き上げて、まるで計測器のように私のスペックをすらすらと口上する。混乱している私を見下ろすジルは、無理をしているようには見えない。無理どころか、その顔は至極涼しい。
「では僕はこれで失礼するよ。ダメ元で来たけれど、やはりアベルの膝下、第九区。収穫はこの子だけだね。それも予定調和だけど」
固まる教授たちにそう言って、歩き出す。揺れに驚いて、さらに強くその身体に抱き付いた。特に筋肉質というわけではない、むしろ細身である。そんな身体のどこにこれだけの力があるのだろうか。
無理をしているようには見えないが、落とされては敵わない。大人しくしているに限るのだろう。私では、この人に敵わない。
知識でも、力でも。
移動式の通路が広く普及し、歩くという動作を行う機会が激減したとは言っても、未だ部屋として仕切られた空間の中は自力で移動する必要があった。扉に向かって歩くジルの足取りは安定していて、酷く動揺していた私も落ち着きを取り戻しつつある。
自動扉の前に辿り着き、私たちがセンサーに感知されると扉は音もなく開いた。
「マユ!」
私を講義に連れて来るよう教授に頼まれたアサヒがそこにいるのは、何となく予想ができていた。
開いた扉の向こう側では、第八学年の主任教授とアサヒが、私たちを見て声を失っている。
「ドクター・ジル。こいつを連れて、一体どこへ?」
「どこって、研究所に帰るだけだけだよ。彼女は今日から僕の研究所の配属になったからね」
そう言って私を抱えたジルは、瞠目するアサヒの横をすり抜けた。
「マユが、ドクター・ジルの研究所に? お前、父さんたちのところはどうするんだよ!」
「アサヒくん。君が心配するまでもないよ。彼女の両親にはきちんと許可を得ているからね」
アサヒと、そして一緒にいた初老の教授が怪訝な顔をしたのも無理はない。私だって、どうして両親がそんなことをしたのか、わかっていないんだから。
「ミナトさんたちが? ……いや、それでも、こいつの許可は取ったんですか? どう見ても、無理矢理連れて行こうとしていますよね?」
アサヒは口調こそぶっきらぼうだが、世話焼きな性格で、頼んでもいないのに私のことを案ずる癖がある。今にも食ってかかりそうな勢いで問い詰めるのは、紛れもなく私のためだ。
「ドクター。俺もそいつと一緒に研究所に行っていいですか? 俺も、あなたの研究には興味があります。構わないでしょう、教授?」
いろいろな言葉を押し込んだ、努めて冷静な声。そして突然話を振られた主任教授は慌てて答える。
「そ、そうだな。ドクター・ジル。アサヒは彼女にも劣らぬ我が校の優秀な人材。ぜひ彼にもあなたの研究を見せてあげてください」
耳元に微かな吐息を感じて振り仰ぐと、目の前に人形のような無表情があった。
「アサヒくん。僕たちの志は決して交わらない。だから君を僕の研究所に連れて行くことはできないよ」
「志?」
一歩、私を抱いたジルが歩を進めるアサヒと似た体躯、こうして並ぶと背の高さはまるで同じだ。
「――僕の使命は、君たちの一番大切なものを壊すことだ。そんな僕らを、君たちはカインと名付けた。まるで悪役のようにね」
すれ違いざまに、アサヒの耳元で囁く声が凍りつくように冷たくて、思わず両腕に力を込める。
「じゃあ、行こうか。マユ」
私を見つめてそう言う声は、アサヒに向けたものとは打って変わって、酷く優しいものだった。
移動通路に乗ったジルは、傍らに私をそっと降ろす。きっと、もう何も言わず大人しくついて行くとわかっているのだろう。その通り。父や母の意図はわからないけれど、二人が認めたならば、私は彼の研究所に行く他に選択肢はない。
振り返ると、扉の横で立ちつくすアサヒの赤い頭がゆっくりと遠ざかっていくところだった。
かつて日本国があった場所の地下に建造された、第九居住区。その北側半分に集約された研究所の間を走る何本もの移動通路を乗り換えて、私たちは一つの大きな建物の前へと辿り着いた。
「さあ、ここが第九区での僕の研究拠点だよ」
入るよう促すジル、彼の専攻は医学のはずだ。しかし、この建物は医学の研究所ではない。
「ここ、植物学の研究所でしょう? お父さんたちが第九区にいた頃の配属先だから、何度も来たことがあるわ」
「僕の研究所は、君が思っているよりも遥かに大きいから。あらゆる分野の研究所が、僕の傘下にあるんだよ」
そう言って立ち止まった私の腕を引き、建物内へと続く移動通路に乗る。植物学を扱う研究所は地上被験地に赴く機会が多い。この建物は立ち並ぶ研究所の中でも一番外れ、地上へ続く連絡通路に近い建物だった。
移動通路に運ばれるまま、かなり奥の方まで進んだ。両親がかつて勤めていた研究所で、幼い頃は頻繁に出入りしていたとはいえ、こんなに奥の方まで入ったことは数えるほどしかない。
突き当たりまであと少し、というところで、ジルは通路から降りた。
「この部屋は、僕の私室として使ってるんだ。少し散らかってるけど、気に入ってもらえると思う」
さあ、どうぞ。と扉が開かれる。その部屋は照明を落としてあり、橙色の小さな照明が部屋の隅にあるだけだった。ジルの後ろに続いて部屋に入ると、ぼやけた視界の中、嗅覚が捉えた匂いに驚く。
「――紙の匂い?」
「少し黴臭かったらごめんよ」
ジルがそう言うと同時に、温かな光が部屋を照らした。
視界に満ちたのは、知識でしか知らないものたち。
無意識に、息を飲む。目を奪われる。呼吸さえも、ままならない。
「この部屋は、西暦時代を再現したものなんだ」
壊れたオルガンにジルの白い指が滑ると、調律の狂った不協和音が響いた。
オルガンの隣には木製の本棚があり、紙媒体の本が並んでいる。棚に入りきらない本たちが、机の上や床に所狭しと積み上がっていた。
「どうせ壊れているものばかりだし、好きに触って構わないよ」
部屋の真ん中に、二、三人は座れる長いソファー二つ、真ん中にテーブルを挟んで配置されていた。入口に近い方のソファーに身体を埋めたジルは、面白いものを見るような目で私を追う。
「すごい。壊れていても、まだこんなに残ってたんだ」
「修理したものや、僕が再現して作ったものもあるけどね」
一通り部屋を見回した。はじめて見るものばかりだったが、名前と用途は何となくわかる。部屋の端に置かれた机の上には一台のコンピューターがあり、その傍らには飴色のガラスペンとインクの入った瓶が置かれていて、そして何冊ものノートが散らばっていた。
「もしかして、記録は筆記でしているの?」
まさか、と思いながらも訪ねてしまう。そんな私を見て、彼は笑ったまま立ち上がった。その顔は、私の反応を楽しんでいるようにしか見えない。
とても悔しいけれど、この空間で気分がたかぶってしまうことは避けられなくて。見栄も何もかも捨てて、好奇心に満ちた子供のように、答えを求める。
机の前に立ったジルは、適当なノートの空白のページを開いた。ペン先をインクに浸し、そこに書かれたのは私の名前。
「こうして実際に書くのは、結構難しいんだよね」
モニターの中、もしくは紙に印字された文字しか見たことのない私から見れば、それは確かに少し歪だった。それでも、人の手が文字を記す場面をこの目で見ることができ、たまらなく感動してしまう。
「実際の演算やシュミレーションはもちろんコンピューターを使うけど。思い付いた理論やアイディア、イメージはノートに書いてるんだ」
君も書いてみる? とペンを差し出されたが、ガラスで出来た細いペン先は、力の加減を少し誤っただけで折れてしまいそうで、私は少しだけ迷ったけれど、すぐに断った。
「そう。まぁ、いずれ筆記の勉強はしてもらうことになるから。それまでに君用の筆記具を用意しておくよ」
「筆記の勉強?」
「この研究室ではみんな、西暦時代の道具を使えるよう、訓練を行うんだ。嫌かい?」
反射的に頭を左右に振ると、ジルはそれ以上何も言わず、再びソファーに深く腰掛けた。
かつての人類が使っていた道具を、再び使う。それに何の意味があるのだろうか。
今の世界で使われている道具たちは、人間からあらゆる動作を奪ったとはいえ、それに勝る利便性と効率性を持ち合わせている。そうでなければ、人はみすみす自らの運動能力を退化させるような真似はしない。
柔らかなソファーに埋もれ、クッションを抱きながら小型の端末を弄っている青年は、その行為の意図を話すつもりはなさそうだ。多分、私が正式にここに配属になった際に、全ては知らされるのだろう。もう私に拒否権などないのだから、勿体ぶらなくてもいいものを。
そんなことを考えながら胸に満ちるのは、両親は私を見捨てたのではなく、私のためを想い自らの研究所から手放したのだという安堵感だった。
改めて、今一度部屋の中を見回す。本当に、よくこれだけのものを集めたものだ。初めて目にするものの名前と用途を頭の中で合致させていく作業が思いの外楽しくて、いつの間にか没頭していった。
最後にただ一つ。机の傍に立て掛けてあった縦長の黒い箱だけ、その中身が何なのかわからず、ジルに一言断りを入れる。
「ドクター・ジル。これ、開けてもいい?」
「ジル、でいいよ。開けてもいいけど、扱いは丁重にね」
初めて、扱いを注意された。部屋の中のものは好きに触って構わないと言われていたのだから、これはきっと特別なものなんだろう。
そっと、黒い箱に取り付けられた金色の金具を外すと、箱は間二つに分かれて開いた。あらゆるものが無造作に置かれた部屋の中、ただ一つ箱に納められていたものだ。さぞ貴重なものなのだろうと、想像を膨らませていた私の目に飛び込んできたのは。これは、多分、バイオリンだと思う。
「この弦、何か変。それに弓も、調弦のネジも」
見た目は本で見たバイオリンそのままなのだが、私がそうだと断定できなかったのは、それが知識として知っているものとは異なった特徴をしていたからだった。
「弦は、変圧器からばらした銅線。弓に張ってあるのはグラスファイバー。残りはボルトとナットを使ってなんとか組み上げたから、見栄えは悪いよねぇ」
感じた違和感は、古ぼけた本体のあちらこちらに新しい素材が散らばっているせいだった。同じ楽器であるオルガンも、他の道具たちも、皆壊れたまま置かれてあるのに。このバイオリンだけが無理やり修繕されている。
「これ、もしかして、弾けるの?」
確信した私の問いにジルが声を殺して笑ったとき、扉をノックする音が響いた。
「失礼するよ」
部屋の主の返答を待たず開け放たれる扉。白色灯に照らされた明るい廊下の方向は逆光となっており、その姿を捉えることはできない。でも、その少し冷やかに感じる程自信に満ちた声の人物を、私はよく知っていた。
「紅茶を持ってきた。お客人も陶器のカップで構わないと聞いたが、本当によかったのかな?」
私と同じ艶やかな黒髪の青年は、白い陶器でできたティーセットを、銀色のトレイに乗せていた。テーブルの上にソーサー、カップの順で重ねると、少し高い位置から褐色の液体を注ぐ。
「うん、いい香り。お茶を入れるのもずいぶんと上達したね。トーヤ」
その仕草はかなり手慣れたもので、白いシャツに濃紺のジャケットという、ブレインのシンボルでもある白衣を身に付けていない青年の格好に違和感を覚えて見入っていると、彼は不意に、少し離れた壁際に立つ私の方を見た。
「お客人。あなたもこちらに、っ」
黒い瞳同士が重なって、やっと、私が誰だか気が付いたようだ。
「一年振りね」
「まぁ……君ならいずれここへ来るとは思っていた。特に驚きはしないな」
久しぶりの再会だというのに、トーヤは相変わらず、顔に笑みの一つも浮かべはしなかった。
テーブルまで歩み寄り、ジルの隣に腰を下ろす。
「それで? ここへ来たということは、やっと卒業する気になったのかな?」
「うん。さすがに諦めたわ」
自動アームではなく、手渡しで、トーヤから温かいカップを受け取る。私でなければ、普通の人間ならば、この重さは手で持つことができずに落としてしまうこともあるようなものだった。
トーヤが何の躊躇いもなく直接手渡したのは、私のことをよく知っているが故の行動だ。
「二人とも、知り合い? だよね。それも、かなり深い仲と見える」
それまで私たちのやり取りを静観していたジルに尋ねられ、私たちは同時に、
「うん、幼馴染」
「元同級生だよ」
と、バラバラの答えを返す。両方間違ってはいない。
「ジル、よく聞いてほしい。彼女は、今年で三回目の第八学年だ」
「ちょっと、何勝手に」
「四年飛び級し、二年留年している。俺と彼女が同級生だったのは、彼女にとって二度目の八学年の年だった」
まぁ、知られても別に困ることでもないのだけれど。知られないに越したことはない、この事実。
「へえ、僕はてっきり二年飛び級しただけかと思ってた。それでもかなり優秀なのに、本当は四年も飛ばしていたなんて」
厭味なほど事細かな説明と、ジルの驚いたような声を聞きながら、手渡されたカップを見つめた。赤褐色の液体が揺れている。数回息を吹きかけてから少し口に含むと、鮮やかな香りが広がる。
「俺より二歳年下、つまり二年も遅く入学したにも関わらず、マユは俺より先に最高学年になった。そしてそのまま、あの著名な父親の研究所へと配属されると思っていたのだが」
「ブレインになれば、自由な時間がなくなる。それが嫌だったんだね。でもまさか、それで二年も留年するのは驚きだな」
ジルはそっとカップをソーサーに置いた。出会ったばかりの人に言い当てられるほど、私の行動原理は単純で幼稚だ。十分、自覚はしている。
講義を受けず、卒業研究に取り組まず、レポートは白紙で提出して。そうして留年を繰り返してきたのは、私の我儘に他ならない。
「家族に恵まれ、遺伝子に恵まれ、才能に恵まれ。本当に君は、どこまでも甘えた人間だね」
切れ長の目が、私を睨む。トーヤは昔から、自分にも周りにも厳しい人間だったが、再会して早々にこんなことを言われるとは思ってもみなかった。
「珍しいなぁ。君がこんなに厳しく当たるなんて」
「そうだね。俺は、俺に足りないものを全て、初めから持っている彼女が、昔から羨ましくて仕方がないんだよ。悔しいことにね」
自嘲混じりの声でそう言ったトーヤは、テーブルの上に置いてあったポットを手に取る。
「おかわりはどうする? マユ」
陶器でできたティーポットの中には、まだ温かなお茶が残っているのだろう。その重量が果たしてどれぐらいあるのかはわからなかったが、きっと小さめの本の数冊分はあると思う。
それを、トーヤが、その手で持ち上げていることに、今更ながら驚いた。
「うん、頂きます。……でもその前に、それ。持ってみても、いい?」
「駄目だ」
即答だった。私の手からカップを奪うと、黙ってお茶を注ぎ足す。
「これは陶器でできている。保温性はそれほど高くはないが、それでもまだ残った茶は熱い。そんなものを持って、もし落として割ってしまったらどうするんだ。君の身体に傷がついてからでは遅いんだよ?」
カップを手渡されながら、早口でまくし立てられた。
「俺がトレーニングを積んで持ち上げられるようになったポットを、君が今持ち上げられたところで、別に羨ましくも悔しくもない。それだけは君の日頃の努力や習慣によるものだと認めているからね。くれぐれも勘違いはするなよ」
「本当に珍しいな。トーヤが、ポットの心配ではなく相手の心配をしているなんて」
面白いおもちゃを見つけた子どものような顔というのは、こういう顔を言うのだと思う。ジルは嬉々として、トーヤの黒い両目を覗き込む。
「冷たく言っておきながらも、トーヤはマユのことが大事なんだね。まさかトーヤのこんな表情が見れるなんて、思ってもみなかったなぁ。やっぱり君を僕の研究室に入れたのは、間違いじゃなかった」
トーヤは一瞬面喰らったような顔をして、少し長い髪を片方だけ耳に掛けた。その癖は幼い頃から変わっていない。
「トーヤは、ここの研究室の配属だから、こんなものを持ち上げられたり、お茶を淹れられたりするの?」
「そうだよ。もっとも、このようなことは俺がここの配属になるために受けた課題と比べると取るに足りない簡単なことだ。君も、すぐにできるようになる」
「配属になるために受けた、課題?」
一年前、トーヤは確か、地質学の研究所に配属になったと記憶している。ジルの専攻する医学とは、全くの畑違いだ。その彼が、ここにいること自体、初めから疑問に思っていたのだが。
「カインの傘下に入るのは簡単だけど、その中枢には、僕自身が認めた者しか辿り着くことはできない」
「カレッジに在学中から彼の存在を知り、所在を探していたが見つからず。仕方なく他の研究室に入ったんだ。それでも諦めず探し続け、やっと見つけることができたんだ」
ジルの存在。カインの中枢。
トーヤの言葉に、段々と自分の中にあった疑念が確信に変わる。
見た目は私たちと同じぐらいの年齢にしか見えないが、ジルはかなりの権力がある。カレッジの教授たちの態度、私の両親との関わり方などを見る限り、彼は研究室の代表やそれに近い立場にあるのだろう。
でも、どうやって? どのようにしてこんなに年若い青年が、そんな地位につくことができたのか、私の中でどんどんジルに対する疑問が膨らんでいった。
「でも、まさか研究室に入るために、こんな課題を出されるなんて、思いもしなかった」
難しい顔をした私の横を、トーヤが通り過ぎる窓際で軽く膝を折ると、私が先程まで見ていた、修理されたバイオリンを手に取った。
「人類にとって、音楽は非常に重要な位置にあると、僕は思う」
淡々としたジルの声。左肩にバイオリンを乗せたトーヤは、弓を右手に構える。
「文学、美術、音楽。一括りに芸術と言えるそれらは、人々に精神的、感覚的な刺激を与えるものだ。そうした働きは、人類の生活を豊かにする」
弓に張ったグラスファイバーが、銅線の弦の上を滑った。
「僕たちの目指す楽園に、これは欠かせないもの」
橙色の暖かい照明に照らされた室内に、高い音が響く。弦を押さえる左手のポジショニングも、右手のボウイングも。どちらもとても難しい動作だと、いつか本で読んだことがあるけれど。その音程やピッチがずれることは一度もない。
「この音色、トーヤの性格が表れてる」
「彼は完璧主義だからね。この世界には珍しい、努力を惜しまない秀才だ」
トーヤの奏でた曲の名前はわからなかったが、一曲弾き終えたとき、私は自然と両手を叩いていた。
「これが俺の、血の滲むような努力の結果だよ。彼からこの課題を与えられたときは、さすがの俺も頭を抱えたものだ」
バイオリンを元通り黒い箱に片付けながら、トーヤは満足げに口角を上げた。再開して初めて見た笑顔は、幼い頃の面影を残している。
「すごい。それ、独学よね?」
「当たり前だろう? 今のこの世界に、楽器を嗜む者なんて存在しているわけがない。恐らく俺だけだろうね。だからこそ、彼は俺に、この課題を課したんだ」
多分、最初は持ち上げるところから。持ち上げるだけの筋力が身に付けば、次は教本を見ながら音を出す。そして、一つ一つの音を繋ぎ合わせて楽曲にする。教本だって、どのようなものがどのような状態で現存しているのかわからない。それを探し、読み解くところからして、途方もなく難しい課題だ。
彼はそれらに、一体どれだけの努力を要したのだろう。考えただけで気が遠くなりそうになる。
一度入った研究室を辞め、無理難題をこなしてまで、この研究室の配属になりたいという理由が、私にはわからなかった。トーヤとはそれなりに関わってきた私だが、医学に興味があるという話は一度も聞いたことがない。
「しかし今となっては、この課題を課されて心から良かったと思えるね。チャイルドの地に立ったとき、俺は音楽という方面で、人類を導き、また癒すことができる」
「チャイルドの、地?」
聴き慣れない言葉に首を傾げると、それまで薄い笑みを浮かべていたトーヤの顔が怪訝なものに変わった。冷やかな瞳が金色の頭を睨む。
「彼女には、まだ何も言ってないんだよね。半分無理矢理連れてきたようなものだからさ」
「無理矢理とは? どういうことか、俺がわかるよう説明してもらおうか」
鋭い視線から逃げるように立ちあがったジルは、部屋の端の椅子に無造作に掛かっていた白衣を手に取る。
「そんなに怖い顔しないでよ。先にこの部屋を見せてから説明した方が、彼女の心も穏やかだろうと判断した結果だからさ」
今までとは一転、白衣に両腕を通して襟を正した姿があまりに馴染んでいて、おかしな言動や行動を繰り返しているジルも、やっぱり本物のブレインなんだと思い知る。
そんな姿を眺めていると、彼は再びこちらへ歩み寄り、白い腕を差し伸べた。
「行こうか、マユ。僕の研究室、ノアの本当の研究を教えてあげる」
ああ、やっぱり。
「医学は、フェイク?」
「さあ? どうでしょう」
疑心は確信に。この一風変わったブレインの青年も、トーヤの行動の正体も、きっとこれから知らされる内容で、納得できるのだろう。
「ここから先を聞いてしまえば、君はもう、ここから逃れることはできないよ」
脅しのような、甘い誘いのような言葉に、無意識に唾を飲み込む。
「勿論、逃してあげる気持ちはさらさらないけどね」
三日月のようにつり上がる唇に魅せられるように、私はその手を取った。
地上世界を壊滅させた大爆発、エデン・ロストを生き延びた人類は、世界人口のたった数パーセントにすぎなかった。
残った人類たちは、滅びた世界で生きてゆくために、戦を捨て、国を捨て、民族を捨てた。
国家や人種、民族といった概念が取り払われたこの年を、世界暦元年という。
植物学の研究所を出た私たちは、隣接した地上被験地への連絡通路へと立ち入った。すっかり慣れた場所を最奥まで進んで行く。そのまま地上に出ると思いきや、ジルは認証機の左側の壁にある扉の前で立ち止まった。
そこに部屋があることは知っていたが、連絡通路の整備とかそういったことに使われる部屋なのだろうと、深く考えたことはない。その扉は、格段に厳重なロックが掛かっていたようで、ジルは生体認証を複数回重ねて解除を行った。
「やはり、ここへ訪れると心身が引き締まる。我々、ノアの研究員にとっては特別な場所。宗教に熱心であったかつての人類ならば、神域や聖域とでも呼んだのではないかな」
紺色のジャケットの上に白衣を着たトーヤが呟く。
そこは、想像していたよりもずっと広い部屋だった。扉から見て左右の端はコンピューターが並び、正面の壁面には多数のモニターが配置され、絶えず何かしらの演算やデータを映し出している。
そして、大きく開けた中心部には、直径数メートルはゆうにある大型の望遠鏡が鎮座していた。
「西暦時代の望遠鏡は、これよりもっと巨大だったんだけどね。科学の発展の結果、全世界で最高峰の観察技術を持った光学赤外線望遠鏡が、この大きさで実現したんだよ」
ジルは私に説明をしつつも手を止めることはなく、恐ろしいほどの速さで複数のコンピューターを操作している。
「医学で著名なあなたの研究が天文学だとは、思ってもみなかったわ」
「僕自身、自分の専門が何なのか、時々わからなくなるんだよねぇ。多分、トーヤや他の研究員の認識としては、惑星科学とか、それに近いものなんじゃないかな?」
作業が終わったのか、今度は私たちを横切り、入口近くの壁面に取り付けられた、一見照明関係のそれに似たスイッチの一つを押す。
大きな音と振動が身体に響く中、私はジルの言葉を聞き逃さないよう必死だった。
「医学は僕が一番最初に従事した学問で、その次は、保全生物学だった。あの有名なコールドスリープだね。それからは、君のように横に逸れて、語学、文学、音楽、美術。後は、ありとあらゆる学問を一通り齧った」
「……それだけの学問を修めているあなたは、一体いくつなの? 見た目と年齢がかけ離れているようにしか考えられない」
天井が円形に割れてゆく。その轟音と振動。そして、あまりに現実離れした内容から口にするのを躊躇して、自問自答するかのようになった言葉は、届いていないと思っていたのに。
「僕には使命がある。それを完遂するまでは、身体的にも知能的にも、最善の状態であるこの姿であるように、肉体の時間を止めてある」
しん、と再び辺りに静寂が満ちた。
「肉体の時間を、止める? それはつまり、不老不死……」
「そう。自身に課した、永遠の苦しみだよ」
時間はあまり気にしていなかったのだが、まさに日没の時間だったらしい。ここは地上と地下を繋ぐ通路の、地上への出入り口の真横に作られた部屋だ。天井が開けば作り物ではない本物の太陽が、西に紅く輝いていた。
赤い光に照らされながら呟くジルに、私は何も返すことができなかった。
「僕の身体は、医学と保全生物学の被験者として、自分を犠牲にした結果なんだよ。そのお陰で現在の医学があるんだから、みんな黙認するしかないよね。だからまぁ、君たちからすれば僕はおじいちゃんみたいな年齢かな。いや、もっとずっと年上か」
何もかもが壊れたこの世界では、そんなことも許されてしまうのか。
ぎゅっと奥歯を噛み締める。隣に立つトーヤを見ても、黙って赤い空を見上げるだけ。きっと、ジルに近い人々のでは、彼の身体のことは、暗黙の了解なのだろう。
何とも言えない思いを抱きながらも、私は黙って赤い空を見上げることしかできなかった。
しばらく三人で、黙って空を見上げていた。
思ったよりも、地球が自転するスピードは速い。眩しさに目を細めて空を見ていると、あっという間に赤から橙、紫、そして薄暗い藍に染まってゆく。
沈黙を破ったのはトーヤだった。
「被験地の上空にはシールドが張られているとはいえ、この光は少し恐ろしいな」
トーヤは目を細め、軽く身を震わせる。
エデン・ロストで飛散した汚染物質は遥か上空まで到達し、大気圏全体を浸食した。それ以前から既にある程度の損傷を受けていた成層圏のオゾン層は消滅し、太陽から降り注ぐ紫外線を遮るものはない。地表付近の空気は、大半が水素と二酸化炭素で構成されるようになり、生物は地上で生存することが不可能となった。これが地上世界の滅亡と言われるものだ。
地上被験地は透明なシールドをドーム状に被せた、小さな空間に過ぎない。シールドがもしも存在していなければ、今この日差しを浴びている私たちは数分と経たずに息絶えることだろう。
「こんなに綺麗な夕焼けが怖いだなんて、寂しい世界だ。だから僕は、この世界が大嫌いなんだよ」
望遠鏡を撫でるジルが、苦い顔をしていた。目が合うと寂しげに微笑み、手招きをされる。
「照準は合わせてある。覗いてごらん?」
それを覗いてしまえば、本当に後戻りはできなくなる。
振り返ると、トーヤにそっと背中を押された。
「君なら受け入れられるはずだ。だから彼は君を、ここへ何の説明もなしに、半ば無理矢理連れてきたのだろうからね」
一歩足を踏み出す。そのまま吸い寄せられるかのように、大きな望遠鏡を覗き込んだ。
辺りは、宇宙の闇。その真ん中に、鮮やかに浮かんでいる一つの青い星があった。
「……地球からの距離は?」
望遠鏡が映し出す青い惑星は、かつて海が干上がる前の地球と酷似している。
それを見た瞬間に、彼らの成そうとしていることの予想がつく。冷静な性格だと自負しているにも関わらず、今日は何度も驚き取り乱してしまったのだが、今回に限っては微塵も動揺することはない。
「かなり、遠いね。なんせ今まで発見されていなかったんだから」
人類の宇宙科学は、光速の壁を超えた、というところまでしか私は知らない。でも、それだけ遠いということは、最新の技術で造られた宇宙船をもってしても、かなりの年数がかかるということは聞かずともわかる。
「ゆうに百年はかかる計算になる。その間、みんなには眠ってもらうよ。なんせ十万人近い人数を乗せるんだ。起きたまま生活する空間なんて設けられない。まさに文字通り、すし詰め状態だ」
「十万人って」
それは現在の地球に生きる、全人類の数だった。彼の計画を悟ったと思い込んだ私は甘かった。私はてっきり、訓練されたクルーによって他惑星に植民地を作るのだと思っていたのだが。
「僕が願っているのは唯一つ。この世界の人々全てが等しく幸福に生きてゆくこと。それが僕に課された使命。そして祈り」
星間移民。
ジル。彼は、この星を捨てるつもりなのだ。
望遠鏡を離れたジルがコンピューターを操作すると、正面のモニターが作動する。そこには地球によく似た星の映像が大きく映し出されていた。
「水と酸素に満ちた惑星。僕たちはこの星をチャイルドと呼んでいる。綺麗だろう?」
綺麗かと問われると、頷くしかない。青い星は、本当に美しかった。
この星で、明るい地上の世界で生きていけるなら。それはジルの言う通り、本当に幸せなこと。
「第一から第八区では、既に実行に向けての準備が進んでいる。第九区が最後の場所。だから僕は、ここへ来た」
「もう、理想論や夢物語ではない段階にまで進んでいるんだよ。君にとっては、突然の出来事かもしれないけれど」
この計画に携わるために、難題をクリアしてまでジルの元へ来たトーヤ。彼のように私は大きく胸を揺さぶられることはなかった。ただ、それを受け入れるだけ。
水に満ちた青い惑星。
私たちの第二の故郷となる星、チャイルド。
もう、引き返すことはできない。
さて、そろそろ切り上げようか。と、研究所を後にしようとしたとき、友人が息を切らせて部屋に飛び込んできた。
移動通路が普及していて、歩く必要もないこの時代に、ここまで慌ててやってきたということは。
「今し方、産まれたんだ!」
彼は肩で息をしながら、目を真っ赤にしている。その報告は、メッセージや音声通話でも良さそうなものなのに。彼は医療センターから、きっと休むことなく走り続けてきたのだろう。
「おめでとう。君もついに、父親か」
涙でぐちゃぐちゃになっている顔を、僕は乱暴に袖口で拭う。涙だけかと思えば、鼻水やよだれまで垂らしていて、自分の取った行動を後悔したのは内緒の話。
「どっちに似てた?」
「妻にそっくりだった! 将来美人になること間違いなしだ!」
「君は親バカになること間違いなしだね」
今からこんな調子でいたら、将来娘が大きくなって、恋人でもできたときが恐ろしい。と思ったのだが、その頃には恋愛や結婚という行為が失われている可能性が高いことを思い出す。
「君たちの娘ならきっと、とても聡明な子に育つだろう。大きくなったときに会うのが、今から楽しみで仕方がないよ」
僕がそう言うと、彼は顔を思い切り拭い、真面目な顔で問う。
「本当に、第二居住区に行くのかい?」
「うん。もう、ここで学ぶことはなくなったからね。九区へ来て、君たちと出会えて本当に良かった」
真面目な顔をしていたのも一瞬で、再び彼の緩い涙腺から涙が溢れる。
「戻ってきたとき、娘を見て惚れるんじゃないぞ! 僕たちから産まれて、僕たちが育てる娘だ。君にとっては、他の誰よりも魅力的な子になるに決まっているからね」
「凄い自信だけど、君たちなら実現してしまいそうだな。その日を楽しみに待っているよ」
そして僕は、僕よりも、少し年上に見える友人を医療センターに戻るよう促がす。出産に痛みが伴わなくなったとはいえ、母体が大きな負担を負うことには変わりない。今は妻に寄り添っているべきだ。
小さな居住区のため、数年しか留まることのなかった九区。しかし、ここで得たものは大きかったと、在りし日々に想いを馳せる。
次に戻ってくるのは、今日産声を上げた赤子が、僕の外見と同じぐらいの年齢になった頃になるだろうか。
私の朝は、遅い。母親譲りの低血圧と、父親譲りの夜更かし好きという悪条件が重なって、とにかく朝は苦手だった。
それに、毎日変わり映えのない退屈な日々を送っていた身には、昨日一日で、何年分にも匹敵する大イベントがいくつも起きた。興奮して目は冴え渡り、やっと眠りについたのは空が白み始める頃だったのだ。次に目が覚めたとき、時刻は正午をとっくに過ぎていても、それは仕方がないというものである。
そう、自分の中で割り切って、今日の予定を考えることにした。
「まずはカレッジに報告に行くべき、よね。昨日あんな形で出て行ったのだから、教授たちも気にしているだろうし」
ぶつぶつと独り言を言いながら、シャツに袖を通す。カレッジに行こうが行くまいが関係なく、私が身に付けているのは常に制服だった。これさえ着ておけば、どこに行っても誰からもお咎めを受けることはない。それだけ、統一試験をパスした者、ブレインたちは優遇されている。
「あまり目立つのも嫌だから、三限の授業中に終わらせてしまおう。その後は、また昨日の部屋ね」
着替えを済ませ、長く伸びた髪を二つに分けて左右で括り、白衣を羽織って部屋を出る。
どうか誰にも会いませんように。
そう祈りながら、カレッジへと繋がる移動通路に乗った。
時刻は午後二時を過ぎたところで、こんな時間に登下校する生徒は見当たらない。裏口から入ると、そのまま講義のない教授たちが過ごす部屋へと進む。
「失礼します」
自動扉は特有の音を立てて開くため、私がいくら小さな声で挨拶をしようが、中の教授たちには来訪者が来たことが知られてしまう。私を見た八学年の主任教授が、慌ててこちらに駆け寄った。
「ミス・ハヤセ! 昨日はあの後どうなったのか、皆で心配していたところだったんだよ」
中を見回してみると、半分ほどの教授が私の方を見ていて、残りの半分は素知らぬ顔をして机に向かっていた。
「ご心配をお掛けしました。ドクター・ジルと両親で、先に話し合っていたらしく。私はこのまま第九居住区に留まり、彼の研究所の配属になります」
私が事の顛末を説明すると、主任教授の顔が少し引き攣ったように見えた。
「ドクター・ハヤセ夫妻と、彼が……」
「どうかしましたか?」
何かを考えるかのように、彼は難しい顔で呟く。主任教授と私の両親の交流は、ほとんどないと記憶している。彼の専門は医学。特に高度生殖補助医療について、教職の傍ら研究を進めているブレインである。植物学の研究所に勤める両親とは、何の関わりもない。
「あ、いや、何でもないよ。君もご両親も納得しているのならば、我々は何も言えないからね」
「そう、ですか……」
改めて部屋の中をぐるりと見渡すと、もう誰も、私たちの方を見てはいなかった。
「では、私はこれで。卒業式には出席するつもりなので、よろしくお願いします」
まだ卒業式は数ヶ月先だが、私はもうここに来る必要はない。それ以前に、卒業式の頃にはもう既に、この地球には誰もいないかもしれない。
一応、挨拶としてそう言い残し、私はカレッジを後にした。
この世界の主食は、健康に生きていく上で必要な栄養素が全てバランス良く詰まった、ブロック型のビスケットだった。私はこれが幼い頃からあまり好きではなく、食べるという行為そのものを好まなくなってしまっていた。
西暦時代の物語の中には、あらゆる食べ物がたくさん出てくるが、それほど興味を惹かれるものもない。今日まではそう思っていた。
「マユ。紹介しよう。九区にいる数少ない僕直属の研究員、ハオとシェンだよ。二人は双子の兄妹なんだ」
カレッジで報告を済ませた後、私は植物学の研究所だった場所へと向かう。現在はジルをトップとしたノアという組織が、おそらくは秘密裏に使用している建物だ。
昨日案内してもらったとっておきの部屋に入ると、デスクにはジルがいて、温かく出迎えてくれる。そしてちょうど時刻は午後三時を回ったところだったため、お茶の時間にしようと提案されたのだった。
「うわぁ! これは確か、アフタヌーンティーというもの、よね?」
頭に詰まった知識の中から、目の前の光景と一致するものを引っ張り出す。三段になったケーキスタンド、色とりどりのジャムに、紅茶のポット。これは昔、イギリスの貴族の間で流行した間食のスタイルだ。
「本来の形式ですと、下段はサンドイッチなどの軽い食事。中段は温料理で、上段がスイーツなのですが。今日はおやつどきということで、全てスイーツを準備させていただきました」
シェンと呼ばれた女性が丁寧に説明してくれる。黒髪で、私より少し年上、二十代半ばぐらいに見える彼女の隣には、ハオと呼ばれた同じぐらいの年齢の男性がいる。
「兄のハオが調理器具や食料の研究を、妹のシェンが調理方法を研究しているんだ。この世界の食事はあまりにも酷すぎるからね」
食べること自体好まなくなってしまった私でも、目の前のケーキスタンドから漂う香ばしくて甘い香りに食欲が湧いてくる。
「ハオ、シェン。彼女が、昨日からノアのメンバーとなった、マユだよ」
「マユです。マユ・ハヤセ。まだカレッジの八学年だけど、単位も卒業論文も終わっているから、ここに顔を出すことも多いと思います」
改めて私が簡単な自己紹介をすると、ハオと呼ばれた兄の方が目を丸くして問いかけてくる。
「ハヤセ、ということは?」
「ああ、ミナトとハルナの娘だよ。一目見ただけでこれをアフタヌーンティーだと即座に答えられるような子だ。まさに、あの二人の子だろう?」
ジルの言葉に、ハオもシェンも深く頷く。二人とも、両親を知っているらしい。
「私たちは第八居住区出身で、中華系の血を引いております。同じ東アジア圏ですと、見た目では日系と区別がつきませんよね」
「ミナト・ハヤセとハルナ・ハヤセ。彼らは八区でもよく知られている、とても優秀な人材だ。そしてミナトからは、会うたびに娘の自慢話を聞かされていた」
父は、そういう人だった。一人娘の私に多くのことを教えてくれた、私の良き理解者であると同時に、そんな私が大好きで、誇りで。一言で言えば、親バカである。
「故に、さぞ優秀なのだろうと、会える日を期待していたのだが」
優しく丁寧な口調のシェンとは真逆で、ハオの口調は冷たさを感じる。トーヤの高慢な雰囲気とはまた違った、こちらの緊張を煽るような話し方だ。
「マユ。これは何だ?」
「ケーキスタンド、ですよね? 乗っているのは、下段がスコーンと、多分クランペット。中段は、パウンドケーキとタルト、かな? 上段は、マカロンとクッキー……この茶色いのはショコラ? もちろん全て実際に見るのは初めてだから、この程度しかわからないわ」
食にそもそも魅力を感じない私にとって、それはとても難しい質問だった。しかし、ハオは私の答えに驚くほど感心したようで、
「俺は、ケーキスタンドという単語が出てくるだけでも、ミナトの自慢は嘘ではないと思えたのだが。まさかそれぞれの菓子の名まで出てくるとは。……ジル。これは大物を捕まえたな」
「いやー、僕もびっくりしたね。一体あの二人はどんな教育をしたんだろうか。彼女、カレッジの八学年と言っても飛び級しているから、まだ年は十七なんだよ?」
ジルの補足に、ハオとシェンの二人は更に感嘆していた。良かった。どうやら私の知識は、ジルだけではなく他のメンバーにも認められるものだったらしい。
「試すような真似をして悪かった、マユ。我々も改めて、君を歓迎したいと思う。さぁ、妹の作った菓子はこの世界の何よりも美味いから、是非食してくれ」
「ふふ。そうですね、お茶が冷めないうちに頂きましょう。トーヤさんに紅茶の入れ方を教えたのも、私なんですよ」
筆頭のジルではなく、彼らに促されるようにして、お茶会は始まった。
紅茶を一口飲んだだけで、昨日のものとは全くの別物だとわかる。菓子と共に味わうために、香りは良いが後味がさっぱりとしていた。トーヤが入れてくれたものは、後味に苦味が残っていた気がする。
「マユは、お菓子を食べた経験なんて、ないよね?」
「栄養ブロックとゼリー以外、口にした記憶はないわね。だから実は、食べることは苦手なの」
そう答える私を、心底哀れなものを見るかのような二人の視線が痛かった。
「あの栄養ブロックがあまり好みでないのなら、上段の方にあるものを召し上がってみてはいかがかしら。下段のスコーンなどは含水率が低く、ブロックと食感が似ているところもありますから」
シェンに促され、一番最初から気になっていた、丸くて鮮やかな桃色のマカロンを手に取った。一口齧ると、口の中に華やかな薔薇の香りが広がる。外側はサクサクとしているが、中はフワフワの食感で、真ん中に挟まっているのは甘い薔薇のジャムだった。あっという間に口の中で溶けて無くなってしまう。
「何これ……美味しい……」
「薔薇の香りが素晴らしいでしょう? 紅茶と交互に頂くと、両方の香りが一層際立ちますわ」
口の中の余韻が残っているうちに、慌てて紅茶を一口啜る。甘みと苦味が絡み合って、最後はすっきりと口の中がリセットされた。
こんなに美味しいものがこの世界にあったなんて。知識では知っていても、味は経験しないとわからないものだ。食べることが苦手と言っておきながら、私はまた一口頬張った。
「菓子には様々な花や果実が使われている。これらは皆、ハルナから分けて貰ったものだ。この世界からは既に絶滅している植物を再現し、培養して育てる。彼女の技術は本当に素晴らしい」
この薔薇は、母が育てたものだったのか。タルトに乗っている果物も、どのようにして調達したのかと考えていたが、彼らが両親と繋がっているならば答えは簡単だ。
「ママが咲かせた花は、綺麗で良い香りがする、っていう認識しかなかったけど。まさかこうして調理され、美味しく食べられる日が来るなんて」
嬉しくて、美味しくて、手が止まらない。ハオもシェンも、これはどうだ、次はこちらを、と、どんどん勧めてくるものだから、私はそこにあった菓子をほぼ全種類平らげることになる。
「残念なことに、お菓子は美味しいんだけど、栄養価がとんでもなく偏っているんだよねぇ」
満腹になったお腹をさすりながら、もう明日の夜ぐらいまでは何も食べなくていいや、と思っていたところに、ジルが容赦ない言葉を投げた。彼は一つも手を付けず、私が夢中になって食べているのを見ていただけだ。
「そんな意地の悪いことを言わずとも。彼女はまだ若くて痩せ型ですから、今日一日ぐらいは構わないでしょう」
「しかし、本当に今日だけだな。いくら若くとも、菓子のみ摂取していれば、身体に不調が出るのは時間の問題だ。明日からはいつもの味気ないアレを食すしかない。この星にいる限りは」
やっと、食べるという行為に楽しみを見出せそうになったのだが、そう上手くはいかないらしい。そもそもこの材料自体、この世界の中から調達するのは用意ではないだろうから、仕方のないことだ。
「今日は君の歓迎会、といったところかな。九区にいる僕直属の研究員は、本当に少なくてね。そして皆が各々忙しくしているから、なかなか一同に顔合わせということができそうにない」
「それは仕方がないことよ。今日こんなに豪華なティーセットを用意してもらえただけで、感動したわ」
昨日はトーヤのバイオリン、今日はハオとシェンのアフタヌーンティー。
この世界で失われてしまい、知識でしか知ることのできなかった物を、直接感じることができた。本当に貴重な体験ができていることに、感謝しなければならない。
「私たちも、材料の調達などで、ほとんどここに居ることはないと思うの。今日、偶然会うことができてよかったわ」
「本当に、君のような膨大な知識の持ち主と出会えて感動している。これからも宜しく頼む」
昨日はこの建物に、トーヤしかいなかった。本当に今日彼らに会えたのは、ラッキーだったらしい。
「今日は本当にありがとう。また、美味しいマカロンが食べられる日を楽しみにしているわ」
自分の持っている知識を。皆に無駄だと、馬鹿らしいと言われてきた知識を、何人もの人に認められてゆくのが嬉しい。
私も、この研究所の、ノアのメンバーなのだと改めて実感して、その日の夜も、なかなか寝付けなかった。
移動通路に身体を預け、よろよろと力なくその部屋に入る。時刻は昨日と同じ、午後三時すぎ。今日はどうやら、この建物に他の研究員はいないようだ。建物自体がしんと静まり返っている。
「ねぇジル。あなたの代表的な専攻は、医学よね。ということは、あなたは医師なのよね?」
そうだけど? と振り返ったジルは、入り口の扉にもたれかかる私の顔を見るや慌てて駆け寄ってきた。
「今日は来ないのかと思ったら、そんな真っ青な顔をして。何があったんだい?」
彼は軽々と私を抱き上げると、ソファーに仰向けになるように降ろす。デスクの引き出しから聴診器を取り出して首から掛ける仕草は慣れたもので、医師の経験があることが窺えた。
「どんな症状が、いつから出ている?」
「昨日、部屋に帰って暫く経ってから。お腹が気持ち悪いというか、鳩尾の辺りが重たい感じがずっと続いていて、朝まで眠れなかったの」
「あー……」
私に医学の知識はない。カレッジでは選択科目として学ぶこともできたが、興味もなかったため一切触れてこなかった。それに、母が言うには、私の身体は幼い頃から特別丈夫だったらしい。体調不良というものは本当に無縁だった。
「診察するまでもないけど、一応しておく? 今、この建物には僕と君しかいなくて、診察の為にはやっぱり心音を聞いたりするわけで。それでも構わないなら……の話だけど」
「診察に何か問題があるの? ああ、邪魔なら脱ぐわよ」
横になっていると余計に苦しく、喉が焼けるように熱くなる感覚がして、私はゆっくり起き上がる。着ている白衣に手を掛けたが、それはジルの手によって静止された。何やら、頭を抱えてぶつぶつと呟いている。
「そうか、こういう風に育ってしまうのか。あの政策の弊害……、いざ目の当たりにするとこれはなかなか……」
「ジル?」
「ああ、薬を取ってこよう。ある程度の薬は常備してあるからね。少し待っていて」
重く苦しい臓器は、場所で考えるなら胃か、その背中側にある肝臓か。昨日何か変わったことをしたとすれば、ここでとても美味しいお菓子を食べた、それぐらいしか心当たりはない。
何度も生唾を飲み込みながら、気休めに腹部を押さえて背中を丸める。
「まさか、昨日のお菓子が……?」
「その通りだよ」
戻ってきたジルは、目の前のテーブルに白い薬包と水の入ったグラスを置いた。
「お菓子って、食べたらこんな風に苦しくなるものなの?」
「量とタイミングによるね。君はただの消化不良を起こしているだけだよ」
「消化不良?」
苦い粉薬を水で流し込む。飲んでも飲んでも、喉に苦味が張りついて取れない。
「菓子には油脂や糖類が多量に含まれているからね。食べ慣れないそれを、君は一度に沢山摂取した。つまり君は、消化不良、胃酸過多による胃もたれや胸焼けと呼ばれる症状に苦しんでいるというわけだ」
やっぱり私は食べることが苦手だと、この身を持って思い知った。美味しくて貴重な経験だったけれど、後々こんなに苦しむことがわかっているのなら、もう何も食べなくて構わない。
「驚くほど頭が良いのか、驚くほどポンコツなのか。僕は君のことをまだまだ知らなければならないな」
ポンコツって。
間抜けだとかそういう類のことを言われるのは、もちろん人生で初めてだった。本当に上の方に位置するブレインからすれば、私なんかただの学生に過ぎないのはわかる。それほどまでに、私は期待を裏切るような人材なのだろうか。
「ねえ。私って、そんなにだめなの? ノアに引き入れたこと、後悔しているの?」
ハオもシェンも、そしてジルも。私の知識を褒め、歓迎してくれたように見えた。だから私は今まで通り、好奇心の赴くままに、できる限りの知識を蓄えたいと思っていたのに。
「君の知識は誰もが認める素晴らしいものだと、何度も言っているだろう? ポンコツというのは、勉強以外のことは抜けていることが多いからそう表現しただけ。別にそれも悪い意味じゃないよ。むしろ可愛らしく好ましいこと」
「勉強以外のこと、なんて。この世界では求められていないから、考えたこともなかったわ。……可愛いらしいとか、好ましいというのも、よくわからない」
幼い子どもを見て可愛いと感じることはできるし、ジルのような整った顔立ちを美しいと感じることもできる。でも、どこか足りない部分を可愛いと感じることは、理解できなかった。
「きっとこれは、君が生まれた時代と、環境のせいだから、気にすることはないよ。ここ十五年程の間に、ますますこの世界は酷いものになってじったからねぇ。
「十五年前に起こった世界的に大きな出来事といえば……、婚姻と妊娠出産が撤廃されたこと?」
「よくわかったね」
十五年前に決まったこの制度は、当時反対意見も多く、揉めに揉めた上での成立、施行だったらしい。その制度が、ますますこの世界を酷くしたとジルは考えているようだった。
「私は十七年前に生まれたアベルの愛し子たちと同世代だから、その制度がどれだけ優れたものなのかをよく知ってるつもり。だから、酷いものとは思えないんだけど……」
「そうか。君はこの制度に賛成しているんだね」
物心ついたときには既に決定されていた、世界共通の常識だった。そしてそれは、確かに理にかなっていると、私は認識している。
妊娠及び出産は、女性の身体に大きな負担を掛ける。これは紛れもない事実だ。それを機械に託すことができれば、女性の科学者が活躍する機会は明らかに増大するだろう。実際、研究を優先するために子を作らないブレインも多く、生き残った人類の数は年々減る一方だった。
「ジルは、あの政策の反対派だったの?」
「僕が、というより、ノア全体が反対派だね。チャイルドでは、エデン・ロストが起こる前の、人間の本来あるべき姿での生活を行うことになるんだから」
人間の、本来あるべき姿での生活。
今の世界は、機械文明によって人間の行動の多くが奪われてしまった。それについては、私も良しとはしていない。私もずっと、人間の本来の生活様式を求めていたはずなのに、この政策に関しては不思議と何の疑問も抱いたことはなかった。
「やっぱり私はまだまだ子どもなんだろうな。結婚や妊娠なんて、自分とは関係のないものだと思っていたから、きっと何も感じなかったんだわ。本当に都合が良いところしか見えていなかったのね」
「同級生が優秀な子ばかりという、アベルの功績をずっと身近で見てきたんだ。良いところに目が行くのは当然のことだよ」
黙って、頷く。
私は、ノアの計画が無事に成功したならば、私は誰かと恋をして、子どもをもうけることになる……かもしれない。必ずというわけではないが、ある程度の人間が子を残さなければ、せっかく新しい世界に辿り着いても人口は減る一方で、いずれは絶滅してしまう。
「でも、今更、恋なんて」
西暦時代の物語では頻繁にテーマとして出てくるが、どれだけ読んでもそれがどんな感覚なのかわからない。知らず知らずのうちに、不必要なものと見做し、理解しようとしていなかったのかもしれない。
「でもまぁ。最悪、恋なんてしなくとも、子どもぐらい、」
「口を慎むんだ。それ以上は、ポンコツを通り越して、ただの馬鹿だ」
初めて聞く、厳しい口調だった。私の、半分冗談の混じった発言に対して怒っているのがわかる。
ジルは立ち上がると、私が座っているソファーへと歩み寄って来る。
「今みたいな発言は、いくら冗談でも言ってはならない。ミナトとハルナは、本当に勉強しか教えてくれなかったのかい?」
両腕を掴まれて、そのままソファーに押し倒される。対抗しようと少し力を込めてみたけれど、拘束された手はびくともしなかった。
「ううん。もちろん、たくさんのことを教えてくれたわ。だけど私は、パパがママを愛してるという気持ちがわからない。私だって、パパとママが大好きだけど、その感情とは違うんでしょう? でも、何が違うのか考えても考えても、わからないのよ」
ジルは特に何かをするわけでもなく、そのまま私のことを見下ろしていた。私の言葉を聞いて暫く経ってから、力が抜けたように首を垂らした。細い金色の髪が耳や首に当たって擽ったい。でも笑い転げるわけにはいかないと思い、その感触から逃げるために身を捩る。
「僕が怖いの?」
抵抗ととられたのか、ジルが顔を上げることによって私は擽ったさから解放された。
「怖がられてしまったら……困るな。僕は君に、恋愛感情とは何か、教える必要があるのに」
先程の厳しい口調と、突然押し倒されたことには驚いたが、怖いとは感じなかった。ジルが厳しい口調だったのは一度きりで、後はいつも通りの柔らかい言葉だ。
「ううん、大丈夫。髪が耳とか首に触れて、くすぐったかっただけ」
「……成程。触覚は正常」
「それより、本当に私に恋愛を教えてくれるの? あなたみたいな優秀なブレインに教えてもらえたら、何だか理解できそうな気がするわ」
ずっと、関係ない、知らない、わからないと思っていたことを、理解できるのは嬉しい。
純粋に知識が増えることに喜んで思わず笑顔になると、どうしてか、ジルはまた項垂れた。
「や、擽ったいって言ったばかりっ」
そのとき部屋の扉が開く音と、一瞬遅れて、何か軽い物が床に転がる音がした。入ってきた人物が誰なのかは、押し倒されている私からは確認することができない。そして、その人物も黙ったままだ。
金髪をかき上げて、ジルは身体を起こすと、床に転がったものを見る。
「へぇ。それ、探すの大変だっただろう?」
「……君たちは、ここをどこだと思っているのかな?」
全く噛み合っていない会話。部屋に入ってきたのはトーヤだと声でわかり、心なしかその声は少し震えているように聞こえる。
「何の事情があるのかは知らないが、今すぐ離れるんだ。ここは皆が使用している研究所だよ!」
気怠そうにジルが私から離れてゆく。トーヤを見ると、幼い頃によく見た、最高に機嫌が悪いときの顔をしている。床に転がっていた細い棒状の物を拾い上げ、破損の有無を確認すると、仏頂面のままそれを私に差し出した。
「探すのに二日かかった、君用の万年筆だ。安価なプラスチック製ではないから、落としたぐらいでは壊れないはずだよ」
黒に、深い青色がマーブル模様を描いている、軸が太いペンだった。
よく見るとトーヤは、彼が好んで着ているシャツとスラックスではなく、薄汚れた作業着を着ていた。この上に防護服を着て、汚染された西暦時代の物が放置されている廃棄物置き場から、この万年筆を探してきたのだろう。
「へぇ。そんな上等なもの、よく見つけてきたね。素材はエボナイトか。高級品だよ」
何もかもが一緒くたになって積まれている塵の山からこれを探し、素手で触れられるよう洗浄をして、更に実際に使用できるよう状態を整えてから、ここへ届けてくれた。着替えをしていないのも、きっと少しでも早く手渡すため。
「ありがとうトーヤ。大事にする」
「大事にするのではなく、毎日それを使って筆記の練習に励んでもらいたいね」
「あ、そうよね……」
使うのが勿体無い気持ちと、壊してしまうのが怖いという気持ちが合わさって、胃がさらに重くなった。
「しかし、先程から具合が良くないようだけど、大丈夫なのかい?」
「ジルに診てもらったら、ただの消化不良だって。聴診器を持つ姿が思っていた以上に様になっていて、びっくりしちゃった」
薬を飲んだからか、ここに来たときと比べると随分と楽になった。今日は、医学を専攻していたジルに縋るような気持ちでここはやってきたのだ。
「ジルに、診てもらっただって? 今日、この研究所には君たち二人しかいなかったはず……」
「同年代でも、トーヤはまだマトモか。やっぱり彼女が特別ポンコツなんだろうね」
そう言ってジルは、薬包を二つ、テーブルに置く。
「わかりやすい原因と症状だったから、診察はしていないよ。しかしトーヤ。彼女は昔からこうなのかい? 何か決定的なものが欠けている気がしてならないんだけど」
「いわゆる天才で、更に自分の知りたいことに関しての努力は惜しまない。逆に、興味のないことに関しては徹底的に無関心。その興味のない事柄に、自分自身が入っているのではないかと俺は分析しているよ」
ジルからは何度も酷いことを言われている気がした。彼は私のことを、豊富な知識を持っている褒めつつも、出来損ないの部分があると貶めている。
でも今、トーヤの言葉を聞いて、私はやっと納得できた。興味がないことは知りたいと思わない。だからその分野に関しては無知なんだ。無関心という表現がしっくりくる。
「うん。だから食事にも無関心なんだわ」
「開き直って言うんじゃないよ。君の主治医として、今日の晩と明日の朝に飲む薬を処方する。必ず食後に飲むこと」
「え」
こんなに気持ち悪いのだから、固形物を入れると更に悪化しそうだ。食欲は全くなく、しばらくは何も食べずにいようとしたのだが、医師としてそれは許せないものらしい。
「元々食が細く、その割には身体の丈夫な君が消化不良なんて。珍しいこともあるものだね」
「お菓子の食べ過ぎだって」
ああ、とトーヤは納得して苦笑する。
「昨日、俺抜きで開催したと噂のお茶会か。君も、この世界の食物が苦手なだけで、きちんと調理されたものなら好んで食べることができたんだね」
それはチャイルドに行ってから大切なことだから、安心したよ。と付け足される。
私は一度壊れたこの世界が、改めて新しい構造で機能し始めてそれなりに時間が経ってから生まれている。それもかなり恵まれた環境で。それ故に、知らず知らずのうちにこの世界の枠に嵌っていたのかもしれない。
壊れた世界が嫌いだと言いつつ、抗いつつも、私の感性はこの世界を標準にしてできている。
ジルの話を聞く限り、そんな気がした。そしてそれは、今後矯正する必要がある。
「きっと昔みたいに色々な料理があれば、私だって食事が好きになるはず。自分のことに無関心なのは……これから意識して直していくわ。そして筆記の勉強もちゃんとする」
薬を白衣のポケットにしまい、万年筆は大切に両手で握りしめる。そんな私を、二人は驚いたような目で見ていたが、次第に頬を緩める。
「良い心掛けだね。そんな君に、僕からも贈り物を渡そう。君ならもう読んだだろうけど、改めて」
本が一冊と、ノートが一冊。どちらも変色してしまっているが、十分読めるし、筆記にも問題はない。その本は、見る前から何となく想像のついていた通りのもの。
「……やっぱり、ノアという名前は、方舟神話から取っているのね」
「エデン・ロストという言葉自体、なぜかその本から取っているからね。そしてアベルとカインも。それなら、我らもそれに乗っかってやろうじゃないか」
地上世界に悪しき考えを持った人間が増えすぎたため、神は地上の文明を滅ぼそうと考えた。
神は正しい人間、ノアに方舟を造らせることを命じ、ノアとその家族たちは船に乗り込む。
そうすることで、限られた者たちは神が引き起こした大洪水を耐え抜き、生き残ることができた。
方舟は宇宙船。残された人類は小さな望みを信じて、その舟の中で新たな世界に到着するのを待つのだ。