アサヒの手には拘束具も付けられていたはずだった。彼の非力な身体では、到底外すことのできないもの。後ろ手に拘束された彼が、ここから逃げ出すことはまずないだろう。
「多分、中の別の場所にいると思うわ」
「通路で入れ違ったか。全く、世話を焼かせてくれるね」
私たちは引き返す。どこにいるのかは皆目見当がつかないけれど、私の足は自然といつものあの部屋に向かっていた。
「マユ? 何か手掛かりでも見つけたのか?」
迷いもなく進む私に問いかけるトーヤの気持ちは痛いほどわかる。私はアサヒがここにいると思ったのではない。ここに辿り着いていてほしいと願ったのだ。
「アサヒ!」
扉を開けると同時に叫ぶ。驚いて見開かれた赤茶の瞳が、柔らかな間接照明を反射して輝いていた。
「マユ……。ここが、これが、西暦時代なんだろう? お前がいつも、俺に話していた世界そのものだ」
「適当に聞き流されていたと思っていたのに。きちんと聞いてくれていたのね」
そうしてアサヒは、その部屋の隅々までを、じっと見つめていた。後ろの方で、トーヤがジルを呼ぶ声が聞こえる。時間に少しでも猶予があるのなら、私はアサヒにたくさんの物を見せてあげたい。
「綺麗な細工だ。マユ、これは何な、」
べち。私は硝子ペンに顔を思い切り近づけて覗き込んでいた、その額を叩く。
「これがどれだけ貴重な物か、考えればわかるでしょう? 無闇に近づかないで」
そうとう痛かったのか、膝を抱えてうずくまる背中に鋭い言葉を投げた。
「……懐かしいな。マユ。すまなかった」
「きっと、あなたの意志ではないんでしょう? もういいわよ」
そうして、私たちは黙ってその部屋を眺めていた。眠りにつくまでに残された時間は、ほんの僅かしかない。
「アサヒくん。直接話をするのは、カレッジ出会ったとき以来かな」
部屋の入り口から聞こえたその声に、私とアサヒは同時に肩を跳ね上がらせる。恐る恐る振り返ると、ジルは怒るでも笑うでもなく、何の感情もない表情で、そこに立っていた。残りの三人も、後ろに連なっている。
「悪かったね。場所も告げずに置き去りにして。全てはトーヤが悪いんだ」
「は? 俺が?」
「なんてね。冗談だよ。せっかくだから、アサヒくん、お茶でもどうだい? さぁ、そこのソファーに座って」
てっきりジルは、すぐにアサヒも眠らせるものだと思っていたのに。彼を拘束していた金属を外して自由にすると、彼をソファーに座るよう促した。シェンとトーヤにお茶の用意をするように言いつけ、私にも座るよう命じる。
いつもの私の定位置にアサヒが、その向かいに私が、ジルはデスクと対になっている仕事用の椅子にそれぞれ腰を下ろす。ハオとキヨシは、折り畳み式の椅子を引っ張り出してきて、少し離れたところから見守っている。
「あの……ジル? どういうつもりなの?」
うーん、と、彼は少し考える仕草をしてから、
「トーヤがね。アサヒくんが倒れる前に、気になることを言っていたと言うものだから。それを確かめようと思って」
「気になること……?」
何か言っていただろうかと思い出しているところに、シェンたちが戻ってくる。二人が慣れた手つきで注ぐ香り高い紅茶は、アサヒの髪の色に似ているなぁと思いながらカップを受け取った。
私たち、ノアの研究員は陶器のカップ。アサヒだけは使い捨てプラスチックのコップで、注がれたお茶の量も少ない。
「この部屋には自動アームがないんだから、仕方がない。陶器は、この世界ではまず手に入らない貴重な品だから、割られると非常に困るからね」
「良い判断だ、トーヤ。俺の大切な食器は、君のお陰で守られた。感謝する」
ハオの視線の先で、アサヒは手渡されたプラスチックのコップを両手で持ちながら、ぎこちない動作で一口飲む。そして、すぐにそれをテーブルに置いた。
「コップの重さもそうだが、それを自分で口に運ぶという動作が難しいな。もちろん俺は非力な部類ではあるが」
「チャイルドに着いて真っ先に行うのは、道具を使う練習だね。他の子はある程度の大きさがある端末を持ったり、旧型の銃を持ったりしていたけれど、君は彼らと比べると特別筋力がないのかな?」
アサヒが自分でも認める通り、彼は極端に机上の学問に費やす時間が長かったため、現代人の中でも筋力が弱い。しかし、新たな地で生活をしていくうちに、必要な力は自然と取り戻してゆくだろう。それが神の創造した、本来の人間の形なのだから。
「……チャイルド。それが俺たちの次なる故郷か」
「そうだよ。さすがに君も、もう諦めがついているよね?」
アサヒは黙って頷いた。そして、ジルを真っ直ぐに見つめて問いかける。
「ドクター・ジル。率直に聞く。あんたは、ドクター・フジワラの記憶を消したな?」
考える余裕もなかったことを指摘する言葉に、私は思わず固まった。驚いたのは私だけで、トーヤを含めた他の四人は当然といった顔をしている。しかし、落ち着いて考えると当たり前のことだ。彼の記憶や思想は、新しい星には相応しくない。
「ドクター・フジワラから、俺たち、アベルの愛し子に関する記憶を抹消した。他の子どもたちは知らないが、俺にはそれがはっきりとわかる」
「その通りだよ。だから君の思想と身体はもう自由になったはずだ」
ドクター・フジワラは、アベルの愛し子たちの遺伝子を操作して、自分の言いなりになる駒として生み出した。だから、アベルの愛し子に関する記憶がなくなれば、アサヒは駒ではなくなるということ。
でも、アサヒが倒れる前に言っていた気になることというのがわからない。私は隣にいたトーヤの袖を引っ張った。ジルとアサヒの会話にトーヤが割って入る。
「俺が接触した何人かのアベルの子どもたちは、皆盲信的にドクター・フジワラに従っていた。しかしアサヒだけは、少し違うように見えたんだ。そして倒れる前に、俺を構成している遺伝子は、と、何か言いかけていた」
ジルは目を細め、アサヒを見つめながら問う。
「俺を構成している遺伝子は、〝ドクター・フジワラによって操られている〟と言いたかったんだよね? アサヒくん」
まさにジルの言う通りだったらしい。アサヒは苦い顔で頷いた。
「つまりアサヒくんは、自分が遺伝子レベルで操られていることに気が付いていた。では、他にもそのことに気付いていた者はいたのかい?」
「ヒナノも気付いていた。いや、知ってしまったと言った方が正しいな。あいつはドクター・フジワラの一番のお気に入りで、研究の手伝いもよくしていた。そのときに偶然資料を見てしまったらしい。それを俺に打ち明けたのは、俺だけが操られていることに気が付いていたから。……しかし、ヒナノは操られながらも、そんなものは不毛だとわかっていながらも、ドクター・フジワラを……愛していた」
アサヒの言葉に思わず目を見張る。
「え、仮にも自分の父親を?」
自分とは生まれ方が全く違うため、比べる事はできない。それでも、どう頭を捻って考えても、ヒナノの気持ちがわからなかった。
「俺がマユのことを好いている感情とはまた違っていて。ドクター・フジワラにとって一番の存在でありたいと願うような気持ちだろうか」
「愛と一言で言っても、色んな形があるからね。君はこれから学んでいけばいいさ」
ジルはヒナノの気持ちが理解できるようで、うんうんと頷いていた。
「というわけで、ヒナノは気付いたのではなく、知識として知っていた。対する俺は、やはり出来損ないだからか、物心ついた頃から、常に違和感があって。施設にいるのも、施設で教えられることも、どこか気持ち悪いと感じていた。よく抜け出しマユのところへ行っていたのも、それが理由だった」
「施設は宗教みたいだって、よく言ってたものね」
「そう。だから俺にとってマユと過ごす時間は特別で、とても尊いものだと感じていた」
なるほどな、と呟いたのはトーヤだった。私にも、トーヤに対するアサヒの凄まじい嫉妬の理由が、やっと、何となく理解できた。そんな違和感を感じながらも施設で過ごす日々は、アサヒにとって本当に辛いものだったのだろう。
「操られていると気付いた理由は、わからないということだね。ツカサの記憶も無くなった今、知る術はなくなった。彼の研究室のコンピューターの中身、全部めちゃくちゃにしちゃったんだよね」
グレーの袖を口に当てる、いつもの笑い方だ。ジルを敵に回すとこうなるのだと考えると、本当に恐ろしい。
「さて、ではアサヒくん。君はこれからどうしたい? 唯一操られていることに気付いていたんだ。それが解けたからには、なにかやりたいことがあるんじゃないかな? 僕は元々、君自身に私怨はないからね」
ジルの問いに、アサヒは目を閉じて、首を横に振った。
「その一つだけ残ったアンプル。俺たちの為だけに作られたものだろう? 俺たちの記憶から、余計なものを消すために」
ジルの手元にある注射器を見て、アサヒは問う。
「新しい世界に今までの記憶を持ってゆくわけにはいかない。ましてや自分が、人の手によって造られた人間だという記憶なんて」
「出来損ないと言われていても、やはり君の遺伝子は優れている。それ故に、今までとても苦しんだのだろう。僕の邪魔さえしなければ、猶予を与えることも可能だけど。本当にいいのかい?」
アサヒは少しだけ考え、ひとつだけ私たちに願った。
「この部屋に辿り着いて最初に目に入ったのが、その綺麗な硝子のペンだった。マユがずっと惹かれている西暦時代の素晴らしさを、最後に俺も感じてみたい」
「それは丁度良いね。キヨシ、君の筆記を見せてあげてくれ。マユも、未だ見てなかっただろう?」
突然指名されたキヨシは、柔らかい笑みを浮かべながら机に向かう。彼の専門分野は筆記技術なのだろう。
「硝子ペンの良いところは、インクの色が自由に変えられるところです。君の瞳のような赤銅色。これで君の名前を書いてみましょう」
紙の上を細いペン先が走る。整っているが、ディスプレイに浮かぶ文字とはまた違う味があるのは、やはり手書きならではのものなのだろう。
「朝陽。これは今、私が当てた漢字です。あなたの名前は美しい夜明けの太陽を意味する、素晴らしいものですよ」
私は両親から、名前に当てる漢字も与えられていたが、アサヒは日本人風の音しか持っていない。初めて目にする、自分の名前を表す漢字を真剣に見つめていた。
「しかし、これは偶然か必然か。トーヤ殿と対照的で面白い。日本語、漢字は表意文字と言って、一つ一つに意味があるのですよ」
そうして今度は濃い青、紺色のインクで、遠夜と書き記した。
「幼い頃に命名書なるものを見て以来だな。自分の名に漢字が当てられていることなんて、普段は全く気にしないからね」
「トーヤにも漢字が当てられていたのね。遠い夜。朝と夜で、本当に対照的だわ」
日本語は本当に面白い。やっぱり私は、西暦時代の文化が好きだ。
「最後はあなたですね。その美しい濡れ羽色の髪。ちょうど二人の色を混ぜると」
赤銅色と濃紺のインクが混ざり合った色は、陽の加減で僅かだが多彩な色を放つ、私の黒い髪によく似ていた。
「名は体を表す。面白いよね。君の名前は真ん中からすぱーんと、線対称なんだよ? 君の性格をそのまんま表している」
いつの間にか背後に立っていたジルが、紙に記された真由という文字をなぞっていた。
「本当だ……気付かなかったわ」
「名前ひとつで、こんなにも面白いんだな。俺にもっと余裕があれば、マユが惹かれた過去の文化に、もっと触れてみたかった」
静かに、アサヒが呟く。そして、彼はすっと身を引いた。
「もう充分だ。俺の記憶を抹消してくれ。他のみんなにそうしたように」
「彼女のことも、忘れてしまうよ?」
「勿論、わかっている」
ドクター・フジワラの記憶を消したと聞いたときにはもう、気付いていた。彼の記憶だけ消して、子どもたちの記憶が消されないわけはないと。トモエやツムギは聡いから、眠りにつく前、説明されずとも、それに気付いていたのかもしれない。
不穏な分子を新しい世界に持ち込むわけにはいかないと、頭では理解できているつもりだった。でも、やはりみんなに忘れられてしまうのは寂しい。
俯いて、三つ並んだ名前を見つめる。
「彼女は、君の人生を構成する重要な因子となっている。その数奇な運命と、マユに関する記憶は複雑に絡み合っていて、引き剥がすことは難しい。君の出自と、彼女に関する記憶は両方まとめて抹消する他ないだろう。他の子どもたちも、自分の名前以外の記憶はほぼ全部、消してしまったからね」
事務的で淡々とした説明が、余計に辛さを煽る。
「マユ、そんな顔をするな」
はっと顔を上げると、困ったように笑うアサヒがいた。
「一度忘れてしまっても、必ず俺は、またマユに恋をするだろう」
今、一番辛いのはアサヒのはずなのに。最後まで私を気遣い、一途な想いを伝えてくれた。思い残すことはもう無いような、すっきりとした顔で、彼は立ち上がる。
「俺を、皆のところに連れて行ってくれ。……彼女のことを、頼む」
「言われなくとも、当然だよ」
そうしてジルに連れられたアサヒは、共に生まれた仲間たちと共に、一足先に眠りについた。
娘の寝顔を最後に見たのは、一体いつだっただろうか。
静かに眠る妻の顔が思いの外あどけなくて、思わず娘と重ねてしまう。
「黒髪を靡かせ、颯爽と仕事をこなす君の寝顔がこんなに可愛らしいだなんて。誰が想像できるだろうね」
出会ってから既に三十年ほど経っているが、こんなに長い時間離れることは一度もない。名残惜しくて、ついついいつまでも、その寝顔を見てしまう。
どれだけ見ていても飽きることのない、最愛の妻。
「榛奈。名残惜しいけど、そろそろ行かなければ」
分厚い金属の蓋をして、彼女の身体の時間を止める処置を施す。妻としばらく会えないだけで、こんなにセンチメンタルになっていることを知られたら、きっと笑われてしまうな。
妻そっくりに育った娘と、あの生意気な金髪の悪友に。
「さて、では終着駅に向けて出発するとしようか。真由にも早く会いたいことだし」
早瀬湊は、舵を切る。終着駅は第九居住区。湊が生まれた場所であり、妻の榛奈と恋に落ちた場所。
そして彼らの大切な一人娘が待つ場所である。
額から流れる汗を拭っても、またすぐにうっすらと浮かんできて、前髪がペタリと皮膚に張り付く。
白衣はもう何日も家に置きっぱなしになっていた。半袖のワイシャツは上から二つボタンを開け、スカートも折り返すことで丈を短く調節してある。そしてソックスを履かずにそのまま革靴を履くことで、ようやく暑さも少しだけ和らぐ気がした。
「あづい」
地上被験地には、ぬるい風が時折吹いていた。ジルから貰った鍔広の麦わら帽子が飛んでいってしまわないよう、後頭部を押さえる。
アベルや、アベルの愛し子と呼ばれた者たちが、長くて穏やかな眠りについてから、ひと月と少しの日々が流れていた。日本はグレゴリオ暦でいうところの八月。夏真っ盛りであり、第九居住区もまた西暦時代の夏を模した気候になっている。
「そんな格好をして……。君はそういう格好をはしたないとは思わないのかな?」
こんなに気温が高いにも関わらず、シャツのボタンは一番上以外はきっちり留めていて。紺色のスラックスを履いている姿は、見ているだけで暑苦しい。
「君に良いことを教えてあげよう。そのように靴下を履かずに革靴を履くと、3-メチルブタン酸臭が強くなるんだよ」
「わざわざ難しい言い回しをしなくても、足が臭くなる、で十分でしょ。足の臭さと引き換えに少しでも涼が得られるなら、私はそれで構わないわ」
私の答えに、トーヤは頭を抱えた。
第九居住区の筆頭ブレインが交代するというニュースは、世間には全く注目されることはなく、新しい代表にジルが就任することも、まるで全世界中から暗黙の了解を得ているかのように、スムーズに終わった。
そして彼が筆頭に就任したからといって、人々の生活が変わることはなく、穏やかな日々が流れている。
私の父が筆頭に就任した第八居住区に点在していたアベルの研究所も、トップであるドクター・フジワラたちがいなくなったことで、反抗勢力ではなくなったらしい。
「ノアの敵って、本当にアベルだけだったのね。こんなに何もかもが順調に進むなんて。少し前まで何も知らなかった身としては、怖いぐらいだわ」
咲き誇っていた花はすっかり散ってしまい、今は深い緑の葉が力強く茂っている。花の香りも好きだったが、この葉っぱたちの匂いも心が落ち着き、いつまでも嗅いでいたくなる。
「ノアの計画については、九区だけ極端に情報が遅れていたらしい。ドクター・フジワラやアベルの愛し子たちの件もあって、かなり慎重になっていたそうだよ」
「いつの歴史を辿っても、日本だけ置き去りにされているわよね。世界はどんどん先に進んでいるというのに」
右手で帽子を押さえながら、振り返ってトーヤを見た。
「既に、地球上のほとんどの人間がコールドスリープについたなんて。この計画を知らされてからの展開が早すぎるわ。どうして他のみんなは黙っていられるの? 暴動とかデモとか起きないの? ……って、そんなわけないか」
「そんな不毛なことをする馬鹿は今更いないよ。皆、来たる日に備えて粛々と過ごしていることだろうね」
言葉を止めて、ミネラルウォーターを流し込む彼の顔にも、大粒の汗が流れている
あの日。ジルが第九居住区の筆頭に就任した日の正午。彼は第九区の全ての人々に向けて、一つの映像を発信した。やり方はあまり褒められた方法ではない。言ってしまえばハッキングである。
今現在、この世界に生きる全ての人々は、常に小型の端末を耳に付けている。ジルは、人々が身に付けた端末の制御を乗っ取ることで、ノアによる星間移民計画を個々人の脳裏に映像として流したのだった。
「ジルって私と同じぐらいの年齢にしか見えないじゃない? その彼を真ん中に、ある程度の年齢で、経験も実績もある残り八人の筆頭が囲むなんて。ほんと、凄い光景だったわよね」
「いずれこうなることを見越して、映像を用意していたんだろうね。彼の権力を示すには、あれ以上の方法はない」
その日以降、第九居住区のニュースはノアの計画のことで持ちきりであった。それは悪い意味ではない。ジルが映像に流したチャイルドや、実際に乗る宇宙船の映像、そして彼自身のコールドスリープの体験談から、この計画は我々の救いだと、人々は期待を込めてその日を待ち望むようになったのだ。
「眠りにつく日を、それぞれに伝えたのも良かったわよね。それまでに色々と、準備や心構えができるもの」
「ああ。遂にあと一ヶ月。長いやら、短いやら」
そう、自身に問いかけるように遠くを見つめるトーヤ。その横顔をぼんやり見ていると、強い風が吹き、帽子が空高く舞い上がった。
いきなりこんな強風が吹くなんて。空調でもおかしくなったのかしら。と、独り言をぶつぶつ呟きながら、飛んでいった帽子を追いかける。地下への扉の方向へと舞い上がったはずなのに、地面には落ちていないし、木に引っかかったりもしていない。
「探し物はこれかな?」
不意に、物陰から私が探していた帽子を被った人物が現れる。顔は見えないが、その耳障りのいい声は、私がなかなか眠りにつけず、頭を抱えていた日に、たくさんの物語を聞かせてくれた。よく知っている大好きな声だ。
「パパ!」
最後に直接会ったのは、既に三年以上前になる。思わず飛びつくと、父は私を軽々と抱き上げて、くるくるとその場で回転してみせた。
「真由、大きくなったね」
「身長は十四歳ぐらいからほとんど伸びていないわよ?」
私を抱き上げて両腕を上に伸ばしたまま、父に問われる。前に会った時から変わったことといえば、
「ああそうか! 髪が伸びたんだ! ますますママに似て美人になって……」
やっと私を下ろした父は、まじまじと私の姿を見て、そして吹き出した。
「夏になるとね、涼しさを求めるあまり適当な格好になるところ。本当に榛奈にそっくりだ。裸足に革靴、懐かしいなぁ」
「ーーああ、そういえばハルナも、出会った頃はそんな格好をしていたね。いやぁ、あれはさすがの僕も、驚いたよ」
父の後ろから金髪頭がひょっこりと顔を出す。ジルも同じことを言うのだから、それは事実なのだろう。
母が、私の憧れている、颯爽と白衣を翻す知的で優しい母が、まさか私と同じようなことをしていたなんて。
「ママが……? 信じられない……」
「ああー! もしかしてこれ、言ったら榛奈に怒られる? ママは、真由を産んでから理想の母親になろうと必死に頑張っていたんだけどね。本当はとても、自由奔放で可愛らしい女性なんだよ」
母が聞いていなくてよかったと心底思った。父はとても優秀なブレインだが、基本的な性格は、とても穏やかで、そして間抜けなところがある。
そして母を、母と私を、目に入れても痛くないぐらいに溺愛していた。
「マユ? 帽子を追いかけたから戻ってこないから、てっきり木に引っかかって木登りでもしているのかと思えば。っ、ミナトさん!」
遅れて私を追ってきたトーヤも、父を見て目を輝かせた。
「君は、もしかして遠夜くん? 真由より数年早くカレッジに入学して以来だから、もう十年近くは会ってなかったのか! いやー、すっかり立派になって……」
「ミナトさんは、お変わりないですね。出会った頃と同じで、安心します」
トーヤの言う通り、父は昔と全く変わってない。第八居住区の筆頭になったぐらいだから、少しは威厳も出てきたかと思ったのだが。気さくで少し抜けている、私のよく知る父のままだった。
一見、ブレインには見えないぐらい、話しやすくて親しみやすい父。いつも凛々しくて気高くて、でもとても優しく見守ってくれる母。私は二人が大好きだった。穏やかに笑う父に会うと、当然母にも会いたくなる。しかし、ここに母の姿は見えない。
「ねぇ、パパ。ママは? 一緒じゃないの?」
私が問うと、父はジルを睨む。いつになく険しい表情だ。
「ジルコニア? 僕の娘に、君はどこまで伝えてあるのかな?」
「えーっと……半分、ぐらいかな?」
「それは一般人に伝えている内容とほぼ変わらないのでは? どうして伏せているのか、僕は、僕が納得いく説明を要求する。僕の娘は君の信用に足りないのか? 君の目には敵わなかったのか? いいや。そんなはずはないだろう。君だって真由のことを大変気に入ったと、僕に直接言ってきたじゃないか。では何故なんだ? 僕たち家族の大切なことを、どうして君は僕の娘に、真由にきちんと伝えていないんだ?」
こんなに怒った父を見るのは、私がまだ小さい頃以来のことだ。言葉尻こそ柔らかいが、目線は鋭く、絶対に逃がさないという気迫を感じる。
しかし、ジルが言った半分という言葉には、父が怒るのも無理はない。私だって、聞いた瞬間あり得ないという怒りが湧いた。
私はノアの一員とされていながらも、計画のたった半分しか聞いていないのか。その事実が、とてもショッキングだった。
「待て。真由が半分ならば、遠夜くんにはどれだけ伝えている? そして僕と榛奈には? 伏せている内容と理由は今無理に話す必要はない。だから正直に答えるんだ。遠夜くん、僕、榛奈に、それぞれどれほどノアの計画を伝えている?」
父の気迫に押され、ジリジリと後ずさるジルだったが、木の幹に背中がぶつかったことで観念したようだ。
「ミナトとハルナには、今話している時点で九割方。だがこの後、君にだけは全てを伝えるつもりだった。ハルナには伝えるつもりはない。君にだけだ」
「彼には?」
「六割ってとこかな。彼は本当に一般の出身なのか疑うほどに察しがいいから、もしかすると気づいているかもしれないけどね」
飄々と悪ぶれることなく話すジルを見て、父は頭を抱えてため息をついた。
麦わら帽子を私の頭に被せながら、父は小さな声で言う。
「ママも、こっちに帰ってきているよ」
「本当? 早く会いたい」
帽子の鍔を持ち上げて父を見上げると、何故かとても寂しげな顔をしている。
「パパ……?」
「ジルコニア。君が最期を子どもたちに伝えたくない気持ちはわかる。だが、これだけは家族が関わっているから、真由に伝えさせてもらうよ」
そしてジルの返事を待つことなく、父は私が聞かされていなかったノアの動向を話し始めた。
「僕たちがチャイルドへ向かうための宇宙船は、第一居住区の地下で秘密裏に造られていた。そして、今からひと月ほど前から、既に計画は始動している」
「始動って、順番に、どんどんコールドスリープについているってことでしょう? 第九居住区でも、医療センターに入院している人や、アベルの愛し子たちがその処置を受けたわ」
父は頷く。そして私に一つの問題を出した。
「では、第一居住区の全ての人々が眠りにつくためには、どうすればいい? 全ての人々が眠りについて、船を第二居住区まで運ぶには、どういう方法を取るべきだと思う?」
第一居住区の全員が一度に眠ることは、不可能だ。前処置をして、箱の蓋をして、コールドスリープの処置を施さなければならない。そして、宇宙船を動かし、目的地まで進む必要がある。
「最低でも一人は、起きたままでいる必要があるわ。残りの人々に処置をして船に積み込んだ後、それを操縦して次の地へと向かうパイロットが必要だから?」
「そういうことだね。ではここ、第九居住区に、第八居住区に住む僕が来た。ママも来ているけど、真由のところには会いに来ない。ということは?」
まるで子どもに問い掛けるような、簡単な問答だった。第八居住区で最後まで起きていて、第九居住区まで船を運転してきたのは目の前にいる父。そして、母がここにいない理由は、
「おやすみなさいって、言いたかった」
どうしても、親の前だと私は子どもに戻ってしまう。既にコールドスリープの処置を受け、長い眠りについた母。父が見送りの言葉を散々かけたとは思うけれど、やっぱり少し寂しかった。せめて通話ぐらい、かけてくれてもよかったのに。
「ごめんよ。パパもママも、なかなか休憩も取れないぐらい、仕事が忙しくてね。最後はあの体力に溢れたママが、ふらふら倒れるようにして眠りについたんだ。最後まで真由のことを気に掛けながら、ね」
他の居住区とは違って、第八居住区はアベルの研究所が複数ある。もうじき人工子宮での培養が始まるという施設もあったらしい。
ドクター・フジワラが眠りについてからは、そんな彼らの動きもピタリと止まり、大人しくノアに従った。それでも、かつて中華人民共和国のあった地に造られている第八居住区は、他のどの居住区より人口が多い。コールドスリープの処置にはとにかく時間を要したのだという。
「じゃあ、ママはやっとゆっくり眠ることができたのね。パパは、ここで眠るはずだから……、今度は私に、おやすみって言わせてくれる?」
「そうだね。ママを長い間一人にしたくはないから、パパが真由より先に眠らせてもらうよ。ああ、ほんと。僕はいつまで経ってもダメな父親だなぁ」
そう言う父は、とても寂しそうだった。
計画は進んでいて、コールドスリープにつく人が増えてきているとは知っていたけれど。まさかここまで、第九居住区以外の人間が既に皆眠りについていたのは予想以上の進捗だった。そして知らない間に母が眠ってしまったことも、とても寂しいことだった。唯一、この星で最後に父と会えたことは嬉しかったが、それももう限られた時間である。
「パパが眠りについて。私たち第九居住区の人たちが眠りについて。そして宇宙船はチャイルドへ向けて長い長い旅に出るのよね」
そう、確かめるように口にした後で、一つ大きな疑問が残る。
「でも、そうすると第九居住区の人が、最後に一人残ってしまうんじゃないの?」
「そう。そこが俺もずっと疑問だったんだよ。各地のブレインが一人、最後まで残って次の地へ船を運ぶ、という方法は俺も知っていた。しかし、最後になる第九居住区だけは、どうするのか知らされていない」
これがトーヤが私より多く知っていた一割分なのだろう。でも、彼も肝心な部分を知らないようだった。二人揃って、父とジルを見る。
「榛奈については、家族が関わっているから教えたけれど。基本的にこういった情報を知らせるのはジルの役目だからね」
そう言って父はジルを見る。口振りからして、父は知っているのだろう。
「簡単なことだよ」
三人に見つめられたジルは、なんてことない他愛話のような口調で言った。
「ここは、自動アームや移動通路が普及している世界だよ? コールドスリープの処置を行う機械を作ることなんて、造作もない。そして宇宙船は永久機関を動力にした自動飛行。目的地の座標を登録すれば、あとはチャイルドまで一直線さ」
「なるほど。確かに現在の技術では不可能ではない」
トーヤの頷きに合わせて、ジルも頷いた。ここまでで私はノアの計画のどれぐらいを知ることができたのだろう。父を見ると、着ていた白いシャツの背中が汗でびっしょりと濡れて、肌に張り付いていた。
「いや、しかしそれなら」
「トーヤ、そこまでだ。ミナトがこのままでは」
父は暑さに弱い。そもそも身体が強くはないので、このままでは恐らく熱中症を起こしてしまう。
トーヤが納得がいかないと声を上げたのと、父がふらりとしゃがみ込んだのは、どちらが早かっただろう。そもそもこんな暑いところで立ち話をすることが間違っていたのだ。
「パパ! トーヤ、ごめんなさい。今はパパを優先して!」
頷いたトーヤが父を担いで、私たちは地下の世界へと急いで降りた。
透明のプラスチック製コップに注がれたソーダ水は、見ているだけで涼を感じる。
空調の完備された部屋の中、私はちゃんとソックスを履き、シャツのボタンも閉めた上で、ソファーの上で溶けていた。
「君のイメージがどんどん変わってゆくよ。我儘なところは知っていたが、それ以外はドクター・ハルナに似て、凛とした女性だと思い込んでいたのに……」
「あんな小さな頃からの付き合いなのに、意外と見えてないのね。私は基本的にだらしないわよ。特に自分に関してはね。こんな世界で見目なんて気にしても意味ないもの」
地下に降りていつもの建物に入ると、ぎりぎり熱中症になるのを免れた父は、二人で話があるらしく、ジルと別室へと去っていった。本当なら私がこの部屋を譲るべきだと思ったのだが、二人揃って、この部屋は私の為のものだと言い、返す言葉もないまま消えてしまったのだ。
「カレッジに入って一人暮らしをするようになってからは、特に自室も悲惨な状態よね……。でも、そういうときに限って、突然アサヒが部屋に来たりするの。この前も笑われたわ」
「奴は君のそういう一面を知っていたのか……」
改めて、アサヒはこんな私のだらしのないところを知っていながら、好意を寄せてくれていた。それはとても貴重なことだったのかもしれない。
二人掛けのソファーに寝そべって、本のページをめくりながら、トーヤに話しかける。
「パパたち、遅いわね。本を読むのは好きだけど、何度読んでも理解に苦しむ話だわ。気分悪くなってきた」
トーヤも似たような状況だったらしく、
「俺も向こうの部屋で練習していたけれど、さすがに指がつりそうになったよ」
そう言ってトーヤは、休憩にと持ってきてくれた二人分のソーダ水のうち、自分のものを飲み干した。
「お互い、中々厳しい課題を出されたものだ」
「本当にね。向こうに着いてから、本当に立つのか、時々不安になるんだけど」
「それを口にするのは、ここでは御法度だよ」
私は肩をすくめて、自分のコップに僅かに残っていたソーダを流し込んだ。
父とジルは、頻繁に連絡を取り合っていたと聞いていたが、それでももう二時間程は二人きりで話している。それは先程、地上被験地で言っていた、ジルが父にまだ教えていない計画の最後の部分のことだと、私は推測していた。
最後の最後まで誰にも言わず、そして父にだけ明かすというその内容が気になってならない。そして、父は既に知っていて、私とトーヤが知らされていない計画が残り三割もあることが、私はどうしても腑に落ちなかった。
「ねぇトーヤ」
「なんだい?」
弓に張られたグラスファイバーに潤滑油を塗り込んでいたトーヤは、手を止めることなく返事を返す。
「ジルは、本当に私たちがこの課題をやり遂げたら、計画の全てを教えてくれると思う? パパにしか言わないって言ってたところは抜きにするとして」
「あの人は故意に道化を演じている部分があるけれど、基本的に嘘はつかないと思うよ」
弓の手入れが終わると次はバイオリンの本体を持ち、弾いている間に僅かにずれたチューニングを、少しずつ直してしてゆく。
「……でも、あまり聞いて気持ちのいい話ではないないのではないかな。先刻も、俺が尋ねようとしたことを察したのか、わざと言葉を遮ったように見えた。……まぁ、あくまで俺の憶測に過ぎないけれどね」
そう言うとトーヤは立ち上がる。
「どういうこと? ちょっと、気になるから最後まで言ってよ!」
「いずれにせよ、彼に与えられた課題を終わらせるのが一番確実な方法だよ。お互い健闘しよう」
気になる言葉だけを残して、トーヤはまた、己に課された課題をこなすために、別室へと戻っていった。仕方なく私もソファーに深く沈む。
手にはジルから与えられた、かなり経年劣化しているものの、比較的綺麗な状態で保存されている貴重な本。元々はフランス語で書かれた戯曲だが、日本語に訳されたものが運良く残っていたらしい。この本を読み解くことが私に与えられた最後の課題であり、ノアの計画の全貌を知るための交換条件だった。
その戯曲は小説の形式ではなく、オペラの舞台で用いる台本だった。ストーリーもわかるし、情景も頭の中に思い浮かぶ。しかし、主人公の、狂気に満ちた愛がどうしても理解できなかった。
「だめだ」
何度も読めば何か感じられるものがあるかもしれないと、繰り返し繰り返し文字を追っていたが、遂にページをめくる手が止まる。続きを読む気にはなれなかった。
寝転がっていたソファーから起き上がると、邪魔にならないよう髪を束ねていたゴムを解く。そして私は、そっと部屋を抜け出した。
この建物の構造自体は大まかに知っている。しかし、今、どの部屋が何の目的で使われているのかは、あまり詳しくない。私は移動通路に乗って、一通りフロアを一周してみることにした。
トーヤがいつも使っている部屋の前を通ると、何度も同じフレーズを練習する音が聞こえてきて、そして遠ざかってゆく。そうしていくつかの部屋の前を通り過ぎていると、建物の奥にある所長室の方から、父の激昂した声が耳に飛び込んできた。
「どうしてそんな大切なことを今になって言うんだ!」
慌てて通路から降りると、息を潜めてその扉に張り付く。
「そんなこと、許せるわけないだろう?」
「ごめんよ。やっぱり僕は、誰にも知られず、ひっそりと消えるべきだったね」
何のことを話しているのか、皆目検討がつかない。しかし、穏やかな父らしくない声色は、何かしら重大なことを話している証拠だ。
私は、より一層身体を近づけ、会話の全てを聞き逃さないよう全ての意識を耳に集中させた。
「君の頭なら、全てを自動で行えるプログラムだって組めるだろう? 嫌だよ、僕は。親友をたった一人、」
「ミナト、ストップ。大きなネズミが迷い込んでいる」
まずい、と思ったときにはもちろん遅い。扉にへばりついていた私は、それが開くことによって部屋の中へと転がり込んだ。
「真由……。僕たちの話を、一体どこから聞いていたんだい?」
父から掛けられた言葉は、盗み聞きをしていたことに対する叱責ではなく、私を案ずるものだった。必死で取り繕っているが、かなり狼狽えているのがわかる。
「パパが大きな声を出したところから。あんな声を出すことなんて滅多にないから、気になっちゃって……」
「そうか。驚かせてしまったね」
父は私の頭を優しく撫でた。どれだけ私に聞かれたくない話だったのだろう。明らかに父は安堵しているのが見て取れる。私たちの会話の一部始終を聞いていたジルが、大きな大きなため息を吐いた。
「君はどこまでもマユに甘いね。親なら、いや親でなくとも、盗み聞きをしていたことについて、まず注意なり叱責なりするべきじゃないの?」
「僕は真由が可愛くて大切だからね! こんなに可愛くて賢い子を叱れるわけないだろう? ねぇ、真由」
父はやっぱり父で、私が幼い頃から全く変わらない。こんな父だからこそ、母は私を産んで変わったのだろう。教育や躾は専ら母の役目で、父はひたすらに甘やかすばかりだった。
「世界中で名前の知れた、ミナト・ハヤセがここまで親バカだったとは。他のブレインたちが見たら君の評価は変わっていたかもしれないね」
「僕はこの性格だからこそ、みんなに受け入れられて、ここまでやってこれたんだよ。だからこうして君も、最後まで僕を信頼してくれたんだろう?」
どこまでも穏やかで、そして哀しげな父に、ジルは参ったと言わんばかりに肩をすくめた。
「ま、僕は別にマユに聞かれても構わないよ。どうせ全ては泡沫のように消えるんだから」
「うたかた……」
聞き耳を立てていたとき、父が大声を出していたのを思い出す。その記憶とやらを、父一人に託すとジルは言ったのだ。そしてそれを父は重責だと渋り、母と二人で共有することを望んだ。しかし既に母の記憶は消えているから無理だと、ジルは確かにそう言った。
「っ、そうよ! 記憶! ママの記憶が既に消えているって、ジル、あなたそう言っていたわよね? それは一体どういうことなの? ママをコールドスリープにつかせたのは、……パパ。ということは、パパがママの記憶を消したの?」
今にも噛みつきそうな勢いで捲し立てる私の背を、父はゆっくりと撫でる。
「落ち着いて、真由。大丈夫だから。ママは、真由のことを忘れたりはしていないよ」
「でも! ジルがコールドスリープにつく前に、人々の記憶を消してきているのを、私は何度も見てきたの。ママも、大切なことを忘れてしまっているのは間違いないでしょう? そして、パパも、私も、同じように大切な記憶を失う。そうなんでしょう?」
父の腕を掴んで、懇願するかのように問い掛けると、父は困った顔をして黙り込んだ。隠し事ができない性格なのはわかっている。私にこんな風に問われると、上手く誤魔化すことはできないのだ。
「……どうしても言わなくちゃ駄目かい?」
私はその声を聞いて。父の顔を見て。
これ以上は本当に、私が踏み込んではいけない領域なのだと、理解した。
私は所詮、ごく最近ノアの計画を知って、それに関わるようになった新参者。そして、まだカレッジも卒業できていない子どもに過ぎない。二十年も前から交友関係を築いている二人の、人類の存続を賭けた計画の中心人物である二人の間に割って入れるような立場ではないのだ。
両親が著名なブレインで、少しばかり他人より頭の回転が早くて、そしてジルがとてもよくしてくれるから、私は自分の事を勘違いしていた。
「ごめんね、真由。ママのことも、真由のことも、必ずパパが守るから。だから、もう一度パパとジルコニアの二人で話し合いをさせてもらえないかな?」
「ごめんなさい。盗み聞きをして、邪魔をして」
頭の上に大きくて温かい手が触れて、ゆっくりと撫でられる。
「本当に、君は良い子に育ったね。僕と榛奈の誇りだよ」
撫でられるのが心地良くて、ずっとこうしていたかった。でも、これ以上邪魔はできない。私は身体を引くと、笑顔を作る。
「私、今日はもう、自分の部屋に戻るわ」
そう言って踵を返すと、父に引き留められる。
「待って、真由。パパは明日、眠ることにしたよ。ママと離れているのは、やっぱり寂しくてね。だから、見送りに来てくれるかい?」
「もちろん。ママに言えなかった分、パパにはきちんと、おやすみの挨拶をしたいから」
父が穏やかに微笑むのを見届けて、私は扉の方へ歩き、後ろで静かに自動扉が閉まった音を聞いた後でその場にしゃがみ込んだ。
「本当に、私はまだまだ何も知らない子どもだわ。これじゃあ、何の役にも立たない」
そんなことを考えながらも、移動通路は勝手に身体を運んでくれるから便利だ。
途中、トーヤが先程と同じフレーズを練習している音が聞こえる。少しの間に明らかに上達しているのがわかった。努力して、自分の力だけでジルに認められたトーヤは改めて、凄い。
いつもの部屋に戻って投げ出していた本をかき集めると、自宅へと通じる移動通路に身体を預けた。こんな私を何かと気に入ってくれているジルの力に、ノアの力に少しでもなれるように。
物資を輸送するための地下航路に、いつの間にか到着していた巨大な宇宙船。父は、母が眠る箱の隣で、静かな眠りについた。
父にとって第九居住区は、生まれ育ち、母と出会い、そして娘の私が生まれた地。ジルは、何処か思い入れのある場所で眠りについたらどうかと提案したが、父は頑なに断った。少しでも母の近くにいたいから、と言っていたが、きっとそれは半分が建前だ。
外で眠ると、誰かが地下の船まで運ぶ必要がある。そんなこと、移動通路や自動アームが発達した今では、ほんの些細なことなのに。手間を少しでも減らしたかったのだろう。
どんなときでも自分は後回しで、友人や家族のことを一番に考えられる人。そんな父に、きっと母は恋をした。
父が眠ってからは、第九居住区の一般人やブレインたちも順に眠りにつきはじめ、私たちはその処置に追われていた。医療センターで一足先にコールドスリープについていた人たちの箱を運搬するなどの雑用もこなしていると、あっという間に、船が第九居住区に到着してから二週間が過ぎ去った。
その日の日中の仕事を終えた後、トーヤがジルと私を引き留める。その時には既に、この地の人間のほとんどが船に収容されていた。残っているのは僅かなブレインと私たちだけ。
「課題が完了した。君たち二人に聴いてほしいんだけど、この後の都合はいかがかな?」
地下の居住区よりさらに深いところにある地下航路。そこから居住区へと昇るエレベーターの中、トーヤは私たちに尋ねる。
「もちろん、構わないよ。場所はどこにしようか」
「やはり、夜を感じられるところが相応しいだろうか。手間をかけさせてしまうが、地上被験地まで来てもらってもいいかな?」
トーヤが自ら進んで地上へ行こうと言うのは初めてだった。バイオリンの入った黒いケースを手に、緊張した面持ちをしている。
二週間前に研究室で練習しているのを耳にしたときは、なかなか苦戦している様子だった。それからはどんどん昼間の仕事が増え、練習に充てられる時間は夜だけになってしまったはずである。
トーヤは、努力している姿や苦労している姿を私には一切見せたことがない。こんなにも早く、彼の課題が終わるなんて、全く想像もできなかったことだ。
「ああ、夜はだいぶ涼しくなってきたね。秋も近い」
地上の被験地へと続くシェルターが開くと、爽やかな風が吹き込んでくる。この気温も、管理されてこの温度になっているだけなのだが、その管理が季節の移り変わりに忠実であるため、実際に夏が終わるような感覚を覚える。
「もう八月も終わりだものね」
「ああ。でも、残念だが、星は……見えないかな」
透明なシールドでドーム状に覆われた被験地の空は、黒と紫と灰色をぐちゃぐちゃに混ぜたような色をしていた。
エデン・ロストが起きていなければ。オゾン層が破壊され、成層圏に有害な塵芥が舞い上がっていなければ。今頃はまだ、夏の大三角形が天高くに浮かんでいたことだろう。
私が空を見上げてそんなことをぼんやり考えている間に、トーヤは準備を進めている。白いシャツに紺色のスラックスは普段通りだが、今日は首元にギンガムチェックのクロスタイを付け、濃紺のジャケットを羽織っていた。最後にチューニングの確認をする。
木々の間の開けた空間に、観客が二人。地面にそのまま腰を下ろして、夜空を背景にそのバイオリニストを見つめる。
「この星の、夜に想いを込めて」
歪な素材の入り混じったバイオリンを左肩に乗せて構えると、煌めくグラスファイバーの弓が、銅線の弦を滑り始めた。
呼吸をすることも勿体ないような感覚に襲われる。
この、星さえ見えない腐敗した夜空の塵が、全て澄み切ってしまうかのような。清廉でいて、そして甘美さを孕んだ音色に心が全て持っていかれる。
美しい響きに導かれて、白鳥座のデネブが顔を出すんじゃないかと、私は夜空を見上げていた。
「ーーありがとう」
演奏を終えたトーヤが一礼をする。ジルが立ち上がり、パチパチと手を叩いていた。私も慌てて立つと、必死で拍手を送る。
「よく、独学でここまで美しい音色を奏でられたね。聴かせてくれて、ありがとう」
「満足いただけたみたいでよかったよ」
瞬きをすると、それまで目に溜まっていた雫がぼろぼろと零れ落ち、地面に吸い込まれていった。
トーヤはバイオリンを丁寧に片付けると、私の元に歩み寄り、頬を伝う涙を指で拭う。そして、私にだけ聞こえるように、そっと耳元で告げた。
「マユ。俺は先に眠ることになると思う」
「えっ?」
しっ、と、人差し指を唇に当てる仕草。そして、私の目元を拭くふりをしながら耳打ちを続ける。
「俺はジルが俺たちについているであろう嘘の真偽を確かめるよ。しかしそれをすると、俺は彼によって眠らされてしまうだろう」
私たちについているかもしれない、嘘? 私たちはジルに、ノアの計画をまだ隠されている上に、嘘までつかれているの?
「そんな顔をさせるつもりはなかったんだ。マユは何も心配しなくていい。俺はマユを忘れたりはしないからね」
ついさっきまで儚くも美しい旋律を奏でていた手のひらが、私の頭を撫でた。また泣いてしまいそうなぐらい、その手は温かく、優しい。
私が落ち着いたのを確かめてから、トーヤはジルの方へ振り返ると、珍しく声を張る。
「さて、ジルコニア。俺は君からの課題を終えたよ。引換に、君がまだ俺に伏せているノアの計画を教えてもらおうか」
挑戦的な、いつもの高慢な口調だ。ジルがいつものように、袖で口元を隠すのを見て、トーヤは更に詰めた。
「君は本当に真実を教えるつもりはあるのかな? 俺はともかく、マユにその残酷な真実を告げることは、幾ら感情が希薄になっているとはいえ、良心が痛むのでは?」
「どうしてか、トーヤにはこういう類の嘘は見抜かれてしまうなぁ」
あくまで想定の範囲内か。ジルはいつもの余裕を崩すことはない。
「本音を言うと、マユには何も知られずに、希望に満ちたまま幸福な眠りについてほしいと思っているよ」
何、それ。
結局、私は何も教えてもらえないということか。それならば、初めから何も知らない方がよかった。ジルやノアと関わらず、ただ一人のカレッジの生徒として最後まで過ごした方がよかったとすら思う。
そこまで考えていると、トーヤが私の肩に手を置く。そして私から離れ、ジルへと歩み寄りながら、静かな声で言った。
「本当に君は、道化師だね。あんなに、いとも簡単に流れるように嘘をつくのだからね。……第九居住区に最後まで残り、船の出立のスイッチを押すのは君なんだろう? ーージルコニア」
「どうしてそう思った?」
「君のような永遠の命を持つ者は、人類の新たなる世界に不必要な分子だから、かな」
父とジルが二人きりで会話をしていた、その光景が頭に浮かぶ。
「第九居住区に、地球に最後まで残り、コールドスリープの処置を施す。そして宇宙船を出立させる。眠る前に人々に前処置と言って投与していた薬剤は、自分に関わる記憶を消すためのもの」
トーヤは淡々と言うけれど、それはすなわち。
この壊れた地球に、たった一人で残るということ。老いることも、死ぬこともなく、永遠に。
「トーヤが僕に従順だったのは、君も結局は、愛する人を守りたかったからなんだよね。ノアの計画を裏切ることはないけれど、僕自身に忠誠を誓っていたわけではないと、初めから気づいていたよ」
青い瞳がトーヤを射抜く。綺麗に整った顔だからこそ、その表情の冷たさがより強調されて、背筋が冷たくなる。
今度はジルの方から、ゆっくりとトーヤに歩み寄る。トーヤは俯いて口元が私に見えるように傾け、声は出さずに『おやすみ』と言ったように見えた。
「どこまで知っているのか。あるいは憶測で話しているのかはわからないけれど。これ以上僕の計画を彼女に知らせるのはやめてもらおうか」
二人がすれ違ったのも一瞬、トーヤの身体が膝から崩れて地に落ちる。こちらに歩み寄るジルはその顔に笑みを浮かべていたが、それが今は、酷く恐ろしく、そしてとても、痛々しい。
「トーヤ!?」
駆け寄ろうと動き出した身体は、ジルに抱きしめられて止められた。
「眠っただけだよ。悔しいけど、彼はチャイルドに着いてから、とても重要な存在になる。無碍に扱うことはできない、本当に悔しいけどね」
私を抱く右手に注射針が見える。やはり、トーヤの予想した通りになったのか。全てはこうなることを全てを見越しての言動だった。
「……君は、僕がここに一人残ると知ったら、悲しんでくれるの?」
「当たり前でしょう? なんで、どうしてそんなこと」
「僕の本来の生は、もうとっくに終わっているんだよ。僕はもう、長過ぎるほど生きた。悲願もようやく達成できそうなところまで来ている。もう十分なんだよ、僕は」
身体の拘束が緩くなり、ジルの顔を見上げると、やっぱり彼は薄く笑っていた。たくさんの言葉が頭の中に浮かぶものの、やっぱり違うとかき消して。何を口にすればいいのかわからなくなった私は、もう一度その身体に抱きつく。
「……そんなの嫌」
寂しくて、悲しくて、苦しくて。私はただただ、嫌だと駄々を捏ねる。鼓動のない胸に顔を押し当てて、現実を噛み締めていると、優しい手付きで髪を梳かれる。
「悲しむよりも、少しでも多くの思い出を作らない?」
ゆっくりと頭を撫でられていると、次第に思考が落ち着いてゆく。どうしてこんなに悲しいのだろう。頭で考えるよりも、感情が先走る、そんな感覚は初めてのことだった。
「ごめん。私、どうしちゃったんだろう」
自ら抱きついていたことを思い出し、慌てて離れると、トーヤの身体に駆け寄った。少しだけ下がった体温と、遅くなった鼓動は、コールドスリープにつく前の状態だ。私より頭一つ大きな身体の下に腕を滑り込ませて、肩に担ぐようにして持ち上げる。
「トーヤの中から、あなたの記憶は?」
「……君が彼を担ぐのはいくら他の子より鍛えているからといっても、無理があるだろう」
ジルは私の問いに答えることなくトーヤの身体を奪うと、まるで空箱でも持つかのように、軽々と横抱きにして持ち上げる。
「僕の身体が普通でないこと、君には隠す必要がないからね。この身体は、筋力もかなり強化されている。本当に人ならざる存在なんだよ、僕は」
だから僕は、君たちと一緒に行くわけにはいかない。静かにそう言うジルの声には、決して揺らぐことのない信念を感じた。
「アベルの愛し子たちなんて、比較にもならない。トーヤの言う通り、一番の不要分子は僕という存在そのものだ」
結局私は、ジルによって定められた期日までに与えられた課題を終えることはできなかった。何度も繰り返し読むことはできたが、主人公の気持ちがわからない。これが、愛? 私には、そのサロメという女は、狂っているとしか思えないのだ。
延長戦と行こうか。と簡単に言われて、本来私が眠りにつく予定だった日、私はノアの研究員たちを見送る側に立っている。
「あなたとあまり関わることが出来なかったことが、この星での唯一の心残りです。どうかあちらでは、共に言語や文学の美しさを皆に広めて参りましょう」
キヨシが私の手を取って、しばらくの別れを惜しんでくれる。私も、彼とはもっと言葉について語り合ってみたかった。
「ええ、約束しましょう。そして私にも、美しい文字を教えてくださいね」
先に箱に横になっていたハオとシェンが、キヨシを呼んでいる。ジルは、こんな注射、誰だって打てるよ、と言っていた。実際、医学の心得のない父がマニュアルに目を通しただけで母にその処置を施したのだから、その通りなのだと思うが。
「ジルは向こうの連中に捕まっているからな。簡単な処置であろうと、やはり医師が行うに越したことはない」
「気持ちは痛いほどわかるわ」
自分の身体に薬剤を注入されるとなると、それを行うのは医師か、厚く信頼を寄せている相手でないと、受け入れるのは難しい。
「ハオ、そしてシェン。向こうでは美味しい食事を期待しているからね。もう栄養ブロックは見たくもないわ」
「ふふ。それでもマユさんは、あと一週間ほどそれを食べなければならないんでしょう?」
「……多分、そうなると思う」
課題の期日は昨日。しかしジルは私に、船が旅立つ前日までの猶予を与えた。今日残りの者を見送れば、残りの一週間、この地球で活動できる者は私のジルの二人だけになる。
「我々も、君と早く出会いたかった。向こうでは君の知を頼りにしているぞ。しばしの別れだが、体感時間としては一瞬のことだ。何も憂うことはない」
そしてこの星には何も思い残すことはないと潔く告げて、ハオはキヨシによって薬剤を投与される。シェンもそれに続いて、静かに眠りについた。
「もうこちらは終わったのか。助かるよ」
丁度、ハオたちの箱に蓋を閉め終わったとき、ジルがやってくる。
「残りはキヨシだけだね。君の筆記術は本当に芸術、美術品だったよ。どうか、その技術が皆に広まるよう、願っている」
「願うだけでなく、共に見届けましょう。悲願はもうすぐそこまできております」
「そうだね。本当に、楽しみだ」
ジル直属のノアの研究員で、彼が地球に残る事を知っている者は極少ない。ジルが親友と呼ぶ父にだって、最後まで伝えなかったことだ。今ここにいるメンバーも、もちろん何も知らない。
そうして、ノアの研究員も含めた全人類が、巨大な宇宙船の中で、長い眠りについた。
私の目の前にいる金髪の青年、ジルコニアの記憶を失った状態で。
人類の全てが眠りについた日から、私は毎日ジルの部屋へと通っていた。別れを惜しむかのように、二人の時間を出来るだけ多く作ろうとしていたのだ。
かと言って、何か特別なことをするわけではない。普段通りソファーに身体を沈めて本を読む。時々会話を交わし、お茶を飲んで、また読書に戻る。そんな何気ない日常。
「僕はね、ここに残ることは、実はあまり怖くはないんだよ」
ジルの入れる紅茶は、苦味が強かったり、或いは極端に薄かったりして、お世辞にも美味しいと言えるものではなかった。食物を必要としないジルの身体には、味覚が備わっていないのだという。そんな彼が、私のためだけに入れてくれる紅茶を、私は毎回大切に味わった。
「ここに残ることは、ということは、他に何か怖いことがあるのね」
今日の紅茶は、いつもと比べても特別に濃くて、苦い。シェンの入れたものとは大違いだな、と、つい先日のことに思いを馳せながら、素知らぬふりしてそれを啜る。
「僕は、僕という存在が忘れ去られてしまうことが、ほんの少しだけ、怖い」
二人きりになったからか、初めて弱音を吐いた彼を見つめる。しばらく見ていると、長い睫毛の間から覗くブルーの瞳が、私の顔を捉えたのがわかった。
手を伸ばして、ひんやりとした頬に触れる。
「じゃあ私が覚えているわ」
こういうシーンは、小説にたびたび出てきた気がする。まるで別れを惜しむ、恋人同士のような、そんなやり取り。
「あなたと共に過ごした日々は、とても短いものだったけれど。私にとってはかけがえのない大切な時間だったから」
ジルは返事をすることなく、じっと私の顔を見る。私が彼のことを覚えておく人間として相応しいのか、値踏みをされている気分だった。
「それとも、やっぱり私では、役不足なの?」
首を傾げて問いかけてみると、彼は頬に触れる私の手に、己の手を重ねた。瞼が閉ざされて、美しいサファイアは姿を消してしまう。
「まさか。こんなに光栄なことはない」
船が地球を飛び立つ日まで、残り僅か一週間。私がジルに出された課題は、到底終わる気がしなかった。
一週間、期日を延長したにも関わらず、マユは結局僕が出した課題を終えることはできなかった。勿論それも僕の想定通り。船は明日、この地を離れ、長い旅路へと向かう。もう、タイムリミットだ。
「そんなにしょんぼりすることない。目の下にクマまで作って。君は本当によく頑張ったと思うよ? 昼間はずっと僕の相手をしてくれていたって、わかっているしね」
時刻は午後六時。夏が終わると、この時刻になればあたりは既に薄暗い。
初めて僕たちが出会った地上被験地で、彼女は悔しさから唇を噛み締めていた。
「読めば読むほど、頭の中がぐちゃぐちゃで、胸のあたりが苦しくて。こんなこと、初めてで……」
「あの二人の遺伝子を継いでいたら、何をするにもそんなに苦労はしないだろうからね。君は何もかもを生まれながらにして持っていて、そんな恵まれた境遇で十八年間生きてきた」
家庭に恵まれ、知能に恵まれ。こんな世界では、そんなに面白くもなかったかもしれないけれど、その中でできる限りのやりたいことをして。彼女は幸せに生きてきた。そんなマユにとって、ここ数ヶ月の出来事は余りにも変化に富んでおり、心を痛めることも多かったはずだ。
そこにとどめを刺すかのように、僕はとても解釈の難しい戯曲を読み解くよう、彼女に課題を出した。
「僕がどうしてその話の解釈をまとめることを課題にしたのか、その理由がわかる?」
マユは黙って首を振る。僕はそんな彼女の可愛らしい耳に顔を近づけると、そっと囁いた。
「その作品は、西暦時代からとても難しいと言われていてね。だって、普通じゃないだろう? だから、君にはどうやっても無理だと思って、それを課題にしたんだ」
「何、それ!」
思わず声を上げるマユ。僕が彼女に渡した本は、戯曲として描かれたサロメという話だった。一見主人公の愛は歪んでいて、狂気や異常さ感じてしまうかもしれない。しかし、見方を変えると、無垢な少女のように見える。そんな、複雑で難解な愛の形に、少しでも触れてほしかった。そして、考え、悩み、答えの出ぬままに時間が過ぎ去ってほしかった。
「だって、早く読み終わってしまって、君が早く眠りにつくことになってしまったら、僕は寂しい」
そう。僕は君と、少しでも長く一緒に居たかった。
「それじゃあ、あなたの目論見は大成功というわけね」
少し拗ねたように頬を膨らませる姿も愛らしくて、本当に見ていて飽きない。
僕の悲願はもうすぐ達成される。でも、僕はこのとき目覚めて初めて、もう少し計画を先延ばしにできたらいいのに、と思った。
「そうだね。君と過ごす日々は、とても楽しかった。ありがとう、マユ」
でも、何十年もかけて、綿密に、緻密に練り上げた計画だ。コンピューターにも複雑なプログラムを書き込んであるが故に、そう簡単に日付をずらすことはできない。
返事の代わりに、マユは細い左腕を僕に差し出す。
「私も楽しかった。あなたとの日々は、私が必ず覚えておくから、安心して」
気丈に振る舞っているつもりかもしれないけれど、その声はもう震えている。もっと一緒に居たいと思っているのは、僕だけなのだろうか。それは、悲しいな、と鈍くなった心を痛めていると。
「そしてどうか、あなたがこの星で、安らかな最期を迎えることができますように……、って、こんなのあんまりだよ! こんなに酷い話、なんで、ジルが、こんな役目をっ」
穏やかな声で始まった言葉は、最後には悲痛な叫びとなっていた。
「僕が生きるためには、この選択肢しかなかったんだ。この身体になるときに、この運命は決まってしまったんだよ」
決壊したダムのように、双眸から涙を流す。僕のことを想う涙は、それはそれは美しかった。
「もっと一緒に居たかった! もっと早く出会いたかった! 新しい世界で、まだまだ話し足りないことを、たくさん話したかったのに!」
こんなにも素直な剥き出しの感情をぶつけられて、僕は嬉しくて堪らない。
「もしかすると、君のその感情は、恋かもしれないね」
「この気持ちが、恋?」
ぐちゃぐちゃの顔のまま、驚いたような声をあげる。彼女は僕との別れをただ惜しんでくれているだけかもしれない。優しくて、感受性の豊かな彼女なら十分に有り得る。
でも僕は、そうだったらいいのに、と、願いを込めて言ってみた。
「ママが、」
彼女の母、ハルナが?
「ママが、ジルには深入りしない方が、私にとっては幸せかもしれないと言っていたの。それはつまり、恋に落ちて、好きになってしまっても、すぐに永遠の別れが来てしまうことを知っていたから……?」
背筋がぞくりと粟立つ。
女の子とその母親というものは、こんなことまでわかってしまうのか。それともやっぱりハルナが特別なのか。予言めいたことをあらかじめマユに伝えていたなんて、さすがの僕も全く予想ができなかった。
「やっぱりママは凄いわ。私もそんな、ママみたいになりたい。だから、いつまでも泣いてなんていられない、よね」
顔をごしごしと拭いて、無理やりに笑顔を作ってみせる。笑顔なのに、大粒の涙が次々に溢れては落ちてゆく。
「あなたのことも、あなたに教えてもらったこの感情も、私は覚えていたい。そうしたら、ジルは寂しくなんてないよ」
煌めくその雫は、本物のダイヤモンドよりも、ずっとずっと、綺麗だ。
「そうだね。……じゃあ、君の言葉に甘えて、僕の記憶を残したまま眠りにつける薬剤を使おうか」
「そんなもの、本当にあるの?」
僕はポケットの中から、もう一つ薬剤の入ったアンプルを取り出す。
「本当はミナトに、僕のことを覚えていてくれないかと打診するつもりだったんだけどね。言い出せなかったんだ」
それを聞いた彼女の目が細くなる。本当に、喜んでくれているのか。僕の存在を覚えていることを。
胸の辺りが細い針で刺されたように痛む。失ったはずの感情なのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。
「私は絶対に忘れない。だから、安心して」
落ち着きを取り戻したいマユが、精一杯微笑みながら、どこまでも優しい言葉をくれる。
そして僕は慣れた仕草で注射器のアンプルを取り替えると、差し出された左腕を取った。
「マユ、ありがとう」
細い針をそっと刺しながら、僕は別れの言葉を口にする。
「そして、……ごめんね」
できるだけ痛みを感じないように、ゆっくりと薬剤を静脈に流す。きっともう、意識は遠のき始めているはず。だから、
「君にだけ辛い記憶を背負わせることは、僕にはやっぱりできない」
「ーーっ」
最後まで、伝えないでおくつもりだったそれを、思わずそれを口にしてしまう。彼女は朦朧としつつも無理やり目をこじ開けて、僕を見つめようとする。
瞼を持ち上げられたとしても、目は霞んでしまっていて、せいぜい目に入ったのは、暗闇に浮かぶ僕の金色の髪ぐらいだろう。
そして彼女は、僕の腕の中で静かな眠りについた。
「どれほど望まれても、僕は誰の記憶にも残るべきではない存在なんだ。だから、これでいい」
これで、いいんだ。
抱き上げた軽くて細い身体を、ベンチの上にそっと下ろす。長くて真っ直ぐな黒髪、くりくりとよく動く目、薄紅色の小さな唇。
ハルナに似ているとミナトはよく口にしていたけれど、どちらにもよく似ていて、そしてどちらとも違う一人の女性だ。彼女は新しい世界で、どんな生を送るのだろう。
からかい半分に口づけを迫る真似をしてみても、愛や恋はまだわからないと言って、表情はおろか鼓動さえ全く変わらなかった。
そんな彼女が、最後に抱いた感情。それが何だったのかは、今となっては誰もわからない。
でもきっと、いずれは誰かと恋に落ちて、結ばれて、子孫を残してゆくのだろう。
「それが人間として一番正しい道、だけど。……なんだか悔しいのはどうしてだろうね」
そっと手を伸ばし、冷たくなった額にかかる髪を払う。
「君は何も知らずに幸せになる。だから、これぐらいは許してもらえるよね? マユ」
ひんやりとした唇に、そっと口づけを落とした。
その穏やかな寝顔は、飽きることなくいつまでも見つめていられるけれど。タイムリミットは容赦なく訪れる。僕は重い腰を上げて立ち上がると、彼女の身体を抱き上げ、そのまま地下へと向かった。
宇宙船には、彼女のための最後の箱がある。慣れた手つきで蓋を閉め、それを両親の隣に並べる。
乗客はこれで全員揃った。
あとは明朝の出発を待つだけだ。
舟の起動を遠隔操作で行ったあと、僕はもう一つの大型コンピュータに向かった。外では地面が割れ、地下から巨大な宇宙船が火を噴きながら飛び立ってゆく様子をモニターで確認することができる。
これでこの星に残ったのは、本当に僕一人だけ。
僕の計画は、彼女たちを乗せた方舟を、チャイルドへと飛ばすことだけではなかった。これは、マユにも、ミナトにも、打ち明けたことはない。僕が頑なに一人ここに残ったのは、この悲願を達成するためだったのだから。
この地球上の穢れを、全て洗い流す。
この星を、無に還す。
そんなことで人間たちの行った罪が、消えるわけではないけれど。僕はできる限りのことをしよう。神話で神がそうしたように。
最後まで隠していたファイルを開き、プログラムの実行を、命ずる。
ごう、と、地下にまで響く、地響き。
そっと目を閉じると、何億年もの星の記憶に想いを馳せた。
それからおよそ半年の歳月が流れ、世界暦は百三十八年を刻むこととなる。
僕はあの日、彼女が眠った日以来訪れていなかった、地上世界へと向かう。
誰もいない星はとても静かで、この足音は地下世界中に響いているのかと錯覚するほどだ。
地上被験地という、仮初の楽園があった場所。彼女と初めて出会った場所へと繋がる移動通路は既に動力源を失い、停止していた。
今は非常電源で動いているコンピューターたちも、やがては止まり、地下の世界は真っ暗な闇へと還るのだろう。
彼女と過ごした地下世界での数ヶ月を想うと、何故か少しだけ、胸が苦しくなった。
おかしいな。僕の感情は、特に負の感情のほとんどは、あのとき失ったはずなのに。
まともな感情なんてあったら、こんな状況に耐えられるはずがないのに。
視界が開けると、そこはどこまでも広がる荒れた大地だった。地平線の向こうまで、何もない、ただ土だけの世界が広がっている。
被験地を覆っていたドーム状の透明なシールドも、もちろん全てがなくなっていた。
「これで、やっと、僕の目的は遂げられたのか……」
第九居住区の地表付近には、海がある。そこから大量の水を汲むと、勢いよく地上に放つ。巨大な機械によって、津波のように、地上を水で洗い流すのだ。そしてそれは、何ヶ月も止まることがない。
長く続いた洪水によって、人工的に作られた地上被験地は勿論、人の手の施しようがないほど腐敗した大地も全て、洗い流された。
空を見上げると、青ではなく、いかにも人体に良くない紫色をしている。
造り物の僕の身体だから、今は何とかここに居られるのだろうけれど。それもきっと、あまり長くはない。
目を細めて空を見つめていると、この星からは見えるはずのない、明るく煌めく星を見つけた。
「――あの方向は、チャイルド」
急に酷い目眩に襲われて、思わず地面に膝をつく。思ったより早かったな。
「まさかね。運良く塵に切れ目ができて、星が一つ、覗いただけだろう」
そうは言いつつも、顔を上げ、その星を見つめる。ずっとずっと、見つめ続ける。
誰も、何もいなくなったこの地球で、たった一人。それでも僕は幸せだったよ、マユ。
遂に苦しさに負けて首を垂れると、赤茶けた土に、雫が一つ、染み込んだ。
「え……?」
それが自身の涙であることに気が付くのに、少し時間を要する。
僕って、泣けたんだ。あの主治医は、一体どうしてそんなシステムを残したんだろう。
もう一度、最後の気力を振り絞って顔を上げると、この身体になって初めて味わう両頬に伝う涙の感触。あのとき失ったはずの感情が、どうして。
身体が、機能を停止しようとしている。でも、それを口にせずにはいられなかった。
この声は誰にも届かない。わかっている。だからそれが悲しくて、そして、とても嬉しいんだ。
「マユ。僕は、君が好きだったよ」
崩れ落ちる身体。少し無茶をしたせいか、もう指一本動かない。
薄く開けた目の前に、小さな小さな緑が映る。まだまだ若い、双葉。こんな世界でも生きようとする、新しい命。
大丈夫、僕は一人じゃない。最期に一粒涙を零し、僕の身体は活動を停止した。
空に、大きな虹が描かれていた。