透明のプラスチック製コップに注がれたソーダ水は、見ているだけで涼を感じる。
 空調の完備された部屋の中、私はちゃんとソックスを履き、シャツのボタンも閉めた上で、ソファーの上で溶けていた。
「君のイメージがどんどん変わってゆくよ。我儘なところは知っていたが、それ以外はドクター・ハルナに似て、凛とした女性だと思い込んでいたのに……」
「あんな小さな頃からの付き合いなのに、意外と見えてないのね。私は基本的にだらしないわよ。特に自分に関してはね。こんな世界で見目なんて気にしても意味ないもの」
 地下に降りていつもの建物に入ると、ぎりぎり熱中症になるのを免れた父は、二人で話があるらしく、ジルと別室へと去っていった。本当なら私がこの部屋を譲るべきだと思ったのだが、二人揃って、この部屋は私の為のものだと言い、返す言葉もないまま消えてしまったのだ。
「カレッジに入って一人暮らしをするようになってからは、特に自室も悲惨な状態よね……。でも、そういうときに限って、突然アサヒが部屋に来たりするの。この前も笑われたわ」
「奴は君のそういう一面を知っていたのか……」
 改めて、アサヒはこんな私のだらしのないところを知っていながら、好意を寄せてくれていた。それはとても貴重なことだったのかもしれない。
 二人掛けのソファーに寝そべって、本のページをめくりながら、トーヤに話しかける。
「パパたち、遅いわね。本を読むのは好きだけど、何度読んでも理解に苦しむ話だわ。気分悪くなってきた」
 トーヤも似たような状況だったらしく、
「俺も向こうの部屋で練習していたけれど、さすがに指がつりそうになったよ」
 そう言ってトーヤは、休憩にと持ってきてくれた二人分のソーダ水のうち、自分のものを飲み干した。
「お互い、中々厳しい課題を出されたものだ」
「本当にね。向こうに着いてから、本当に立つのか、時々不安になるんだけど」
「それを口にするのは、ここでは御法度だよ」
 私は肩をすくめて、自分のコップに僅かに残っていたソーダを流し込んだ。
 父とジルは、頻繁に連絡を取り合っていたと聞いていたが、それでももう二時間程は二人きりで話している。それは先程、地上被験地で言っていた、ジルが父にまだ教えていない計画の最後の部分のことだと、私は推測していた。
 最後の最後まで誰にも言わず、そして父にだけ明かすというその内容が気になってならない。そして、父は既に知っていて、私とトーヤが知らされていない計画が残り三割もあることが、私はどうしても腑に落ちなかった。
「ねぇトーヤ」
「なんだい?」
 弓に張られたグラスファイバーに潤滑油を塗り込んでいたトーヤは、手を止めることなく返事を返す。
「ジルは、本当に私たちがこの課題をやり遂げたら、計画の全てを教えてくれると思う? パパにしか言わないって言ってたところは抜きにするとして」
「あの人は故意に道化を演じている部分があるけれど、基本的に嘘はつかないと思うよ」
 弓の手入れが終わると次はバイオリンの本体を持ち、弾いている間に僅かにずれたチューニングを、少しずつ直してしてゆく。
「……でも、あまり聞いて気持ちのいい話ではないないのではないかな。先刻も、俺が尋ねようとしたことを察したのか、わざと言葉を遮ったように見えた。……まぁ、あくまで俺の憶測に過ぎないけれどね」
 そう言うとトーヤは立ち上がる。
「どういうこと? ちょっと、気になるから最後まで言ってよ!」
「いずれにせよ、彼に与えられた課題を終わらせるのが一番確実な方法だよ。お互い健闘しよう」
 気になる言葉だけを残して、トーヤはまた、己に課された課題をこなすために、別室へと戻っていった。仕方なく私もソファーに深く沈む。
 手にはジルから与えられた、かなり経年劣化しているものの、比較的綺麗な状態で保存されている貴重な本。元々はフランス語で書かれた戯曲だが、日本語に訳されたものが運良く残っていたらしい。この本を読み解くことが私に与えられた最後の課題であり、ノアの計画の全貌を知るための交換条件だった。
 その戯曲は小説の形式ではなく、オペラの舞台で用いる台本だった。ストーリーもわかるし、情景も頭の中に思い浮かぶ。しかし、主人公の、狂気に満ちた愛がどうしても理解できなかった。
「だめだ」
 何度も読めば何か感じられるものがあるかもしれないと、繰り返し繰り返し文字を追っていたが、遂にページをめくる手が止まる。続きを読む気にはなれなかった。
 寝転がっていたソファーから起き上がると、邪魔にならないよう髪を束ねていたゴムを解く。そして私は、そっと部屋を抜け出した。
 この建物の構造自体は大まかに知っている。しかし、今、どの部屋が何の目的で使われているのかは、あまり詳しくない。私は移動通路に乗って、一通りフロアを一周してみることにした。
 トーヤがいつも使っている部屋の前を通ると、何度も同じフレーズを練習する音が聞こえてきて、そして遠ざかってゆく。そうしていくつかの部屋の前を通り過ぎていると、建物の奥にある所長室の方から、父の激昂した声が耳に飛び込んできた。
「どうしてそんな大切なことを今になって言うんだ!」
 慌てて通路から降りると、息を潜めてその扉に張り付く。
「そんなこと、許せるわけないだろう?」
「ごめんよ。やっぱり僕は、誰にも知られず、ひっそりと消えるべきだったね」
 何のことを話しているのか、皆目検討がつかない。しかし、穏やかな父らしくない声色は、何かしら重大なことを話している証拠だ。
 私は、より一層身体を近づけ、会話の全てを聞き逃さないよう全ての意識を耳に集中させた。
「君の頭なら、全てを自動で行えるプログラムだって組めるだろう? 嫌だよ、僕は。親友をたった一人、」
「ミナト、ストップ。大きなネズミが迷い込んでいる」
 まずい、と思ったときにはもちろん遅い。扉にへばりついていた私は、それが開くことによって部屋の中へと転がり込んだ。
「真由……。僕たちの話を、一体どこから聞いていたんだい?」
 父から掛けられた言葉は、盗み聞きをしていたことに対する叱責ではなく、私を案ずるものだった。必死で取り繕っているが、かなり狼狽えているのがわかる。
「パパが大きな声を出したところから。あんな声を出すことなんて滅多にないから、気になっちゃって……」
「そうか。驚かせてしまったね」
 父は私の頭を優しく撫でた。どれだけ私に聞かれたくない話だったのだろう。明らかに父は安堵しているのが見て取れる。私たちの会話の一部始終を聞いていたジルが、大きな大きなため息を吐いた。
「君はどこまでもマユに甘いね。親なら、いや親でなくとも、盗み聞きをしていたことについて、まず注意なり叱責なりするべきじゃないの?」
「僕は真由が可愛くて大切だからね! こんなに可愛くて賢い子を叱れるわけないだろう? ねぇ、真由」
 父はやっぱり父で、私が幼い頃から全く変わらない。こんな父だからこそ、母は私を産んで変わったのだろう。教育や躾は専ら母の役目で、父はひたすらに甘やかすばかりだった。
「世界中で名前の知れた、ミナト・ハヤセがここまで親バカだったとは。他のブレインたちが見たら君の評価は変わっていたかもしれないね」
「僕はこの性格だからこそ、みんなに受け入れられて、ここまでやってこれたんだよ。だからこうして君も、最後まで僕を信頼してくれたんだろう?」
 どこまでも穏やかで、そして哀しげな父に、ジルは参ったと言わんばかりに肩をすくめた。
「ま、僕は別にマユに聞かれても構わないよ。どうせ全ては泡沫のように消えるんだから」
「うたかた……」
 聞き耳を立てていたとき、父が大声を出していたのを思い出す。その記憶とやらを、父一人に託すとジルは言ったのだ。そしてそれを父は重責だと渋り、母と二人で共有することを望んだ。しかし既に母の記憶は消えているから無理だと、ジルは確かにそう言った。
「っ、そうよ! 記憶! ママの記憶が既に消えているって、ジル、あなたそう言っていたわよね? それは一体どういうことなの? ママをコールドスリープにつかせたのは、……パパ。ということは、パパがママの記憶を消したの?」
 今にも噛みつきそうな勢いで捲し立てる私の背を、父はゆっくりと撫でる。
「落ち着いて、真由。大丈夫だから。ママは、真由のことを忘れたりはしていないよ」
「でも! ジルがコールドスリープにつく前に、人々の記憶を消してきているのを、私は何度も見てきたの。ママも、大切なことを忘れてしまっているのは間違いないでしょう? そして、パパも、私も、同じように大切な記憶を失う。そうなんでしょう?」
 父の腕を掴んで、懇願するかのように問い掛けると、父は困った顔をして黙り込んだ。隠し事ができない性格なのはわかっている。私にこんな風に問われると、上手く誤魔化すことはできないのだ。
「……どうしても言わなくちゃ駄目かい?」
 私はその声を聞いて。父の顔を見て。
 これ以上は本当に、私が踏み込んではいけない領域なのだと、理解した。
 私は所詮、ごく最近ノアの計画を知って、それに関わるようになった新参者。そして、まだカレッジも卒業できていない子どもに過ぎない。二十年も前から交友関係を築いている二人の、人類の存続を賭けた計画の中心人物である二人の間に割って入れるような立場ではないのだ。
 両親が著名なブレインで、少しばかり他人より頭の回転が早くて、そしてジルがとてもよくしてくれるから、私は自分の事を勘違いしていた。
「ごめんね、真由。ママのことも、真由のことも、必ずパパが守るから。だから、もう一度パパとジルコニアの二人で話し合いをさせてもらえないかな?」
「ごめんなさい。盗み聞きをして、邪魔をして」
 頭の上に大きくて温かい手が触れて、ゆっくりと撫でられる。
「本当に、君は良い子に育ったね。僕と榛奈の誇りだよ」
 撫でられるのが心地良くて、ずっとこうしていたかった。でも、これ以上邪魔はできない。私は身体を引くと、笑顔を作る。
「私、今日はもう、自分の部屋に戻るわ」
 そう言って踵を返すと、父に引き留められる。
「待って、真由。パパは明日、眠ることにしたよ。ママと離れているのは、やっぱり寂しくてね。だから、見送りに来てくれるかい?」
「もちろん。ママに言えなかった分、パパにはきちんと、おやすみの挨拶をしたいから」
 父が穏やかに微笑むのを見届けて、私は扉の方へ歩き、後ろで静かに自動扉が閉まった音を聞いた後でその場にしゃがみ込んだ。
「本当に、私はまだまだ何も知らない子どもだわ。これじゃあ、何の役にも立たない」
 そんなことを考えながらも、移動通路は勝手に身体を運んでくれるから便利だ。
 途中、トーヤが先程と同じフレーズを練習している音が聞こえる。少しの間に明らかに上達しているのがわかった。努力して、自分の力だけでジルに認められたトーヤは改めて、凄い。
 いつもの部屋に戻って投げ出していた本をかき集めると、自宅へと通じる移動通路に身体を預けた。こんな私を何かと気に入ってくれているジルの力に、ノアの力に少しでもなれるように。