私は林檎の実を食べる

 
 私の朝は、遅い。母親譲りの低血圧と、父親譲りの夜更かし好きという悪条件が重なって、とにかく朝は苦手だった。
 それに、毎日変わり映えのない退屈な日々を送っていた身には、昨日一日で、何年分にも匹敵する大イベントがいくつも起きた。興奮して目は冴え渡り、やっと眠りについたのは空が白み始める頃だったのだ。次に目が覚めたとき、時刻は正午をとっくに過ぎていても、それは仕方がないというものである。
 そう、自分の中で割り切って、今日の予定を考えることにした。
「まずはカレッジに報告に行くべき、よね。昨日あんな形で出て行ったのだから、教授たちも気にしているだろうし」
 ぶつぶつと独り言を言いながら、シャツに袖を通す。カレッジに行こうが行くまいが関係なく、私が身に付けているのは常に制服だった。これさえ着ておけば、どこに行っても誰からもお咎めを受けることはない。それだけ、統一試験をパスした者、ブレインたちは優遇されている。
「あまり目立つのも嫌だから、三限の授業中に終わらせてしまおう。その後は、また昨日の部屋ね」
 着替えを済ませ、長く伸びた髪を二つに分けて左右で括り、白衣を羽織って部屋を出る。
 どうか誰にも会いませんように。
 そう祈りながら、カレッジへと繋がる移動通路に乗った。
 時刻は午後二時を過ぎたところで、こんな時間に登下校する生徒は見当たらない。裏口から入ると、そのまま講義のない教授たちが過ごす部屋へと進む。
「失礼します」
 自動扉は特有の音を立てて開くため、私がいくら小さな声で挨拶をしようが、中の教授たちには来訪者が来たことが知られてしまう。私を見た八学年の主任教授が、慌ててこちらに駆け寄った。
「ミス・ハヤセ! 昨日はあの後どうなったのか、皆で心配していたところだったんだよ」
 中を見回してみると、半分ほどの教授が私の方を見ていて、残りの半分は素知らぬ顔をして机に向かっていた。
「ご心配をお掛けしました。ドクター・ジルと両親で、先に話し合っていたらしく。私はこのまま第九居住区に留まり、彼の研究所の配属になります」
 私が事の顛末を説明すると、主任教授の顔が少し引き攣ったように見えた。
「ドクター・ハヤセ夫妻と、彼が……」
「どうかしましたか?」
 何かを考えるかのように、彼は難しい顔で呟く。主任教授と私の両親の交流は、ほとんどないと記憶している。彼の専門は医学。特に高度生殖補助医療について、教職の傍ら研究を進めているブレインである。植物学の研究所に勤める両親とは、何の関わりもない。
「あ、いや、何でもないよ。君もご両親も納得しているのならば、我々は何も言えないからね」
「そう、ですか……」
 改めて部屋の中をぐるりと見渡すと、もう誰も、私たちの方を見てはいなかった。
「では、私はこれで。卒業式には出席するつもりなので、よろしくお願いします」
 まだ卒業式は数ヶ月先だが、私はもうここに来る必要はない。それ以前に、卒業式の頃にはもう既に、この地球には誰もいないかもしれない。
 一応、挨拶としてそう言い残し、私はカレッジを後にした。


 この世界の主食は、健康に生きていく上で必要な栄養素が全てバランス良く詰まった、ブロック型のビスケットだった。私はこれが幼い頃からあまり好きではなく、食べるという行為そのものを好まなくなってしまっていた。
 西暦時代の物語の中には、あらゆる食べ物がたくさん出てくるが、それほど興味を惹かれるものもない。今日まではそう思っていた。
「マユ。紹介しよう。九区にいる数少ない僕直属の研究員、ハオとシェンだよ。二人は双子の兄妹なんだ」
 カレッジで報告を済ませた後、私は植物学の研究所だった場所へと向かう。現在はジルをトップとしたノアという組織が、おそらくは秘密裏に使用している建物だ。
 昨日案内してもらったとっておきの部屋に入ると、デスクにはジルがいて、温かく出迎えてくれる。そしてちょうど時刻は午後三時を回ったところだったため、お茶の時間にしようと提案されたのだった。
「うわぁ! これは確か、アフタヌーンティーというもの、よね?」
 頭に詰まった知識の中から、目の前の光景と一致するものを引っ張り出す。三段になったケーキスタンド、色とりどりのジャムに、紅茶のポット。これは昔、イギリスの貴族の間で流行した間食のスタイルだ。
「本来の形式ですと、下段はサンドイッチなどの軽い食事。中段は温料理で、上段がスイーツなのですが。今日はおやつどきということで、全てスイーツを準備させていただきました」
 シェンと呼ばれた女性が丁寧に説明してくれる。黒髪で、私より少し年上、二十代半ばぐらいに見える彼女の隣には、ハオと呼ばれた同じぐらいの年齢の男性がいる。
「兄のハオが調理器具や食料の研究を、妹のシェンが調理方法を研究しているんだ。この世界の食事はあまりにも酷すぎるからね」
 食べること自体好まなくなってしまった私でも、目の前のケーキスタンドから漂う香ばしくて甘い香りに食欲が湧いてくる。
「ハオ、シェン。彼女が、昨日からノアのメンバーとなった、マユだよ」
「マユです。マユ・ハヤセ。まだカレッジの八学年だけど、単位も卒業論文も終わっているから、ここに顔を出すことも多いと思います」
 改めて私が簡単な自己紹介をすると、ハオと呼ばれた兄の方が目を丸くして問いかけてくる。
「ハヤセ、ということは?」
「ああ、ミナトとハルナの娘だよ。一目見ただけでこれをアフタヌーンティーだと即座に答えられるような子だ。まさに、あの二人の子だろう?」
 ジルの言葉に、ハオもシェンも深く頷く。二人とも、両親を知っているらしい。
「私たちは第八居住区出身で、中華系の血を引いております。同じ東アジア圏ですと、見た目では日系と区別がつきませんよね」
「ミナト・ハヤセとハルナ・ハヤセ。彼らは八区でもよく知られている、とても優秀な人材だ。そしてミナトからは、会うたびに娘の自慢話を聞かされていた」
 父は、そういう人だった。一人娘の私に多くのことを教えてくれた、私の良き理解者であると同時に、そんな私が大好きで、誇りで。一言で言えば、親バカである。
「故に、さぞ優秀なのだろうと、会える日を期待していたのだが」
 優しく丁寧な口調のシェンとは真逆で、ハオの口調は冷たさを感じる。トーヤの高慢な雰囲気とはまた違った、こちらの緊張を煽るような話し方だ。
「マユ。これは何だ?」
「ケーキスタンド、ですよね? 乗っているのは、下段がスコーンと、多分クランペット。中段は、パウンドケーキとタルト、かな? 上段は、マカロンとクッキー……この茶色いのはショコラ? もちろん全て実際に見るのは初めてだから、この程度しかわからないわ」
 食にそもそも魅力を感じない私にとって、それはとても難しい質問だった。しかし、ハオは私の答えに驚くほど感心したようで、
「俺は、ケーキスタンドという単語が出てくるだけでも、ミナトの自慢は嘘ではないと思えたのだが。まさかそれぞれの菓子の名まで出てくるとは。……ジル。これは大物を捕まえたな」
「いやー、僕もびっくりしたね。一体あの二人はどんな教育をしたんだろうか。彼女、カレッジの八学年と言っても飛び級しているから、まだ年は十七なんだよ?」
 ジルの補足に、ハオとシェンの二人は更に感嘆していた。良かった。どうやら私の知識は、ジルだけではなく他のメンバーにも認められるものだったらしい。
「試すような真似をして悪かった、マユ。我々も改めて、君を歓迎したいと思う。さぁ、妹の作った菓子はこの世界の何よりも美味いから、是非食してくれ」
「ふふ。そうですね、お茶が冷めないうちに頂きましょう。トーヤさんに紅茶の入れ方を教えたのも、私なんですよ」
 筆頭のジルではなく、彼らに促されるようにして、お茶会は始まった。
 紅茶を一口飲んだだけで、昨日のものとは全くの別物だとわかる。菓子と共に味わうために、香りは良いが後味がさっぱりとしていた。トーヤが入れてくれたものは、後味に苦味が残っていた気がする。
「マユは、お菓子を食べた経験なんて、ないよね?」
「栄養ブロックとゼリー以外、口にした記憶はないわね。だから実は、食べることは苦手なの」
 そう答える私を、心底哀れなものを見るかのような二人の視線が痛かった。
「あの栄養ブロックがあまり好みでないのなら、上段の方にあるものを召し上がってみてはいかがかしら。下段のスコーンなどは含水率が低く、ブロックと食感が似ているところもありますから」
 シェンに促され、一番最初から気になっていた、丸くて鮮やかな桃色のマカロンを手に取った。一口齧ると、口の中に華やかな薔薇の香りが広がる。外側はサクサクとしているが、中はフワフワの食感で、真ん中に挟まっているのは甘い薔薇のジャムだった。あっという間に口の中で溶けて無くなってしまう。
「何これ……美味しい……」
「薔薇の香りが素晴らしいでしょう? 紅茶と交互に頂くと、両方の香りが一層際立ちますわ」
 口の中の余韻が残っているうちに、慌てて紅茶を一口啜る。甘みと苦味が絡み合って、最後はすっきりと口の中がリセットされた。
 こんなに美味しいものがこの世界にあったなんて。知識では知っていても、味は経験しないとわからないものだ。食べることが苦手と言っておきながら、私はまた一口頬張った。
「菓子には様々な花や果実が使われている。これらは皆、ハルナから分けて貰ったものだ。この世界からは既に絶滅している植物を再現し、培養して育てる。彼女の技術は本当に素晴らしい」
 この薔薇は、母が育てたものだったのか。タルトに乗っている果物も、どのようにして調達したのかと考えていたが、彼らが両親と繋がっているならば答えは簡単だ。
「ママが咲かせた花は、綺麗で良い香りがする、っていう認識しかなかったけど。まさかこうして調理され、美味しく食べられる日が来るなんて」
 嬉しくて、美味しくて、手が止まらない。ハオもシェンも、これはどうだ、次はこちらを、と、どんどん勧めてくるものだから、私はそこにあった菓子をほぼ全種類平らげることになる。
「残念なことに、お菓子は美味しいんだけど、栄養価がとんでもなく偏っているんだよねぇ」
 満腹になったお腹をさすりながら、もう明日の夜ぐらいまでは何も食べなくていいや、と思っていたところに、ジルが容赦ない言葉を投げた。彼は一つも手を付けず、私が夢中になって食べているのを見ていただけだ。
「そんな意地の悪いことを言わずとも。彼女はまだ若くて痩せ型ですから、今日一日ぐらいは構わないでしょう」
「しかし、本当に今日だけだな。いくら若くとも、菓子のみ摂取していれば、身体に不調が出るのは時間の問題だ。明日からはいつもの味気ないアレを食すしかない。この星にいる限りは」
 やっと、食べるという行為に楽しみを見出せそうになったのだが、そう上手くはいかないらしい。そもそもこの材料自体、この世界の中から調達するのは用意ではないだろうから、仕方のないことだ。
「今日は君の歓迎会、といったところかな。九区にいる僕直属の研究員は、本当に少なくてね。そして皆が各々忙しくしているから、なかなか一同に顔合わせということができそうにない」
「それは仕方がないことよ。今日こんなに豪華なティーセットを用意してもらえただけで、感動したわ」
 昨日はトーヤのバイオリン、今日はハオとシェンのアフタヌーンティー。
 この世界で失われてしまい、知識でしか知ることのできなかった物を、直接感じることができた。本当に貴重な体験ができていることに、感謝しなければならない。
「私たちも、材料の調達などで、ほとんどここに居ることはないと思うの。今日、偶然会うことができてよかったわ」
「本当に、君のような膨大な知識の持ち主と出会えて感動している。これからも宜しく頼む」
 昨日はこの建物に、トーヤしかいなかった。本当に今日彼らに会えたのは、ラッキーだったらしい。
「今日は本当にありがとう。また、美味しいマカロンが食べられる日を楽しみにしているわ」
 自分の持っている知識を。皆に無駄だと、馬鹿らしいと言われてきた知識を、何人もの人に認められてゆくのが嬉しい。
 私も、この研究所の、ノアのメンバーなのだと改めて実感して、その日の夜も、なかなか寝付けなかった。
 
 移動通路に身体を預け、よろよろと力なくその部屋に入る。時刻は昨日と同じ、午後三時すぎ。今日はどうやら、この建物に他の研究員はいないようだ。建物自体がしんと静まり返っている。
「ねぇジル。あなたの代表的な専攻は、医学よね。ということは、あなたは医師なのよね?」
 そうだけど? と振り返ったジルは、入り口の扉にもたれかかる私の顔を見るや慌てて駆け寄ってきた。
「今日は来ないのかと思ったら、そんな真っ青な顔をして。何があったんだい?」
 彼は軽々と私を抱き上げると、ソファーに仰向けになるように降ろす。デスクの引き出しから聴診器を取り出して首から掛ける仕草は慣れたもので、医師の経験があることが窺えた。
「どんな症状が、いつから出ている?」
「昨日、部屋に帰って暫く経ってから。お腹が気持ち悪いというか、鳩尾の辺りが重たい感じがずっと続いていて、朝まで眠れなかったの」
「あー……」
 私に医学の知識はない。カレッジでは選択科目として学ぶこともできたが、興味もなかったため一切触れてこなかった。それに、母が言うには、私の身体は幼い頃から特別丈夫だったらしい。体調不良というものは本当に無縁だった。
「診察するまでもないけど、一応しておく? 今、この建物には僕と君しかいなくて、診察の為にはやっぱり心音を聞いたりするわけで。それでも構わないなら……の話だけど」
「診察に何か問題があるの? ああ、邪魔なら脱ぐわよ」
 横になっていると余計に苦しく、喉が焼けるように熱くなる感覚がして、私はゆっくり起き上がる。着ている白衣に手を掛けたが、それはジルの手によって静止された。何やら、頭を抱えてぶつぶつと呟いている。
「そうか、こういう風に育ってしまうのか。あの政策の弊害……、いざ目の当たりにするとこれはなかなか……」
「ジル?」
「ああ、薬を取ってこよう。ある程度の薬は常備してあるからね。少し待っていて」
 重く苦しい臓器は、場所で考えるなら胃か、その背中側にある肝臓か。昨日何か変わったことをしたとすれば、ここでとても美味しいお菓子を食べた、それぐらいしか心当たりはない。
 何度も生唾を飲み込みながら、気休めに腹部を押さえて背中を丸める。
「まさか、昨日のお菓子が……?」
「その通りだよ」
 戻ってきたジルは、目の前のテーブルに白い薬包と水の入ったグラスを置いた。
「お菓子って、食べたらこんな風に苦しくなるものなの?」
「量とタイミングによるね。君はただの消化不良を起こしているだけだよ」
「消化不良?」
 苦い粉薬を水で流し込む。飲んでも飲んでも、喉に苦味が張りついて取れない。
「菓子には油脂や糖類が多量に含まれているからね。食べ慣れないそれを、君は一度に沢山摂取した。つまり君は、消化不良、胃酸過多による胃もたれや胸焼けと呼ばれる症状に苦しんでいるというわけだ」
 やっぱり私は食べることが苦手だと、この身を持って思い知った。美味しくて貴重な経験だったけれど、後々こんなに苦しむことがわかっているのなら、もう何も食べなくて構わない。
「驚くほど頭が良いのか、驚くほどポンコツなのか。僕は君のことをまだまだ知らなければならないな」
 ポンコツって。
間抜けだとかそういう類のことを言われるのは、もちろん人生で初めてだった。本当に上の方に位置するブレインからすれば、私なんかただの学生に過ぎないのはわかる。それほどまでに、私は期待を裏切るような人材なのだろうか。
「ねえ。私って、そんなにだめなの? ノアに引き入れたこと、後悔しているの?」
 ハオもシェンも、そしてジルも。私の知識を褒め、歓迎してくれたように見えた。だから私は今まで通り、好奇心の赴くままに、できる限りの知識を蓄えたいと思っていたのに。
「君の知識は誰もが認める素晴らしいものだと、何度も言っているだろう? ポンコツというのは、勉強以外のことは抜けていることが多いからそう表現しただけ。別にそれも悪い意味じゃないよ。むしろ可愛らしく好ましいこと」
「勉強以外のこと、なんて。この世界では求められていないから、考えたこともなかったわ。……可愛いらしいとか、好ましいというのも、よくわからない」
 幼い子どもを見て可愛いと感じることはできるし、ジルのような整った顔立ちを美しいと感じることもできる。でも、どこか足りない部分を可愛いと感じることは、理解できなかった。
「きっとこれは、君が生まれた時代と、環境のせいだから、気にすることはないよ。ここ十五年程の間に、ますますこの世界は酷いものになってじったからねぇ。
「十五年前に起こった世界的に大きな出来事といえば……、婚姻と妊娠出産が撤廃されたこと?」
「よくわかったね」
 十五年前に決まったこの制度は、当時反対意見も多く、揉めに揉めた上での成立、施行だったらしい。その制度が、ますますこの世界を酷くしたとジルは考えているようだった。
「私は十七年前に生まれたアベルの愛し子たちと同世代だから、その制度がどれだけ優れたものなのかをよく知ってるつもり。だから、酷いものとは思えないんだけど……」
「そうか。君はこの制度に賛成しているんだね」
 物心ついたときには既に決定されていた、世界共通の常識だった。そしてそれは、確かに理にかなっていると、私は認識している。
 妊娠及び出産は、女性の身体に大きな負担を掛ける。これは紛れもない事実だ。それを機械に託すことができれば、女性の科学者が活躍する機会は明らかに増大するだろう。実際、研究を優先するために子を作らないブレインも多く、生き残った人類の数は年々減る一方だった。
「ジルは、あの政策の反対派だったの?」
「僕が、というより、ノア全体が反対派だね。チャイルドでは、エデン・ロストが起こる前の、人間の本来あるべき姿での生活を行うことになるんだから」
 人間の、本来あるべき姿での生活。
 今の世界は、機械文明によって人間の行動の多くが奪われてしまった。それについては、私も良しとはしていない。私もずっと、人間の本来の生活様式を求めていたはずなのに、この政策に関しては不思議と何の疑問も抱いたことはなかった。
「やっぱり私はまだまだ子どもなんだろうな。結婚や妊娠なんて、自分とは関係のないものだと思っていたから、きっと何も感じなかったんだわ。本当に都合が良いところしか見えていなかったのね」
「同級生が優秀な子ばかりという、アベルの功績をずっと身近で見てきたんだ。良いところに目が行くのは当然のことだよ」
 黙って、頷く。
私は、ノアの計画が無事に成功したならば、私は誰かと恋をして、子どもをもうけることになる……かもしれない。必ずというわけではないが、ある程度の人間が子を残さなければ、せっかく新しい世界に辿り着いても人口は減る一方で、いずれは絶滅してしまう。
「でも、今更、恋なんて」
 西暦時代の物語では頻繁にテーマとして出てくるが、どれだけ読んでもそれがどんな感覚なのかわからない。知らず知らずのうちに、不必要なものと見做し、理解しようとしていなかったのかもしれない。
「でもまぁ。最悪、恋なんてしなくとも、子どもぐらい、」
「口を慎むんだ。それ以上は、ポンコツを通り越して、ただの馬鹿だ」
 初めて聞く、厳しい口調だった。私の、半分冗談の混じった発言に対して怒っているのがわかる。
 ジルは立ち上がると、私が座っているソファーへと歩み寄って来る。
「今みたいな発言は、いくら冗談でも言ってはならない。ミナトとハルナは、本当に勉強しか教えてくれなかったのかい?」
 両腕を掴まれて、そのままソファーに押し倒される。対抗しようと少し力を込めてみたけれど、拘束された手はびくともしなかった。
「ううん。もちろん、たくさんのことを教えてくれたわ。だけど私は、パパがママを愛してるという気持ちがわからない。私だって、パパとママが大好きだけど、その感情とは違うんでしょう? でも、何が違うのか考えても考えても、わからないのよ」
 ジルは特に何かをするわけでもなく、そのまま私のことを見下ろしていた。私の言葉を聞いて暫く経ってから、力が抜けたように首を垂らした。細い金色の髪が耳や首に当たって擽ったい。でも笑い転げるわけにはいかないと思い、その感触から逃げるために身を捩る。
「僕が怖いの?」
 抵抗ととられたのか、ジルが顔を上げることによって私は擽ったさから解放された。
「怖がられてしまったら……困るな。僕は君に、恋愛感情とは何か、教える必要があるのに」
 先程の厳しい口調と、突然押し倒されたことには驚いたが、怖いとは感じなかった。ジルが厳しい口調だったのは一度きりで、後はいつも通りの柔らかい言葉だ。
「ううん、大丈夫。髪が耳とか首に触れて、くすぐったかっただけ」
「……成程。触覚は正常」
「それより、本当に私に恋愛を教えてくれるの? あなたみたいな優秀なブレインに教えてもらえたら、何だか理解できそうな気がするわ」
 ずっと、関係ない、知らない、わからないと思っていたことを、理解できるのは嬉しい。
 純粋に知識が増えることに喜んで思わず笑顔になると、どうしてか、ジルはまた項垂れた。
「や、擽ったいって言ったばかりっ」
 そのとき部屋の扉が開く音と、一瞬遅れて、何か軽い物が床に転がる音がした。入ってきた人物が誰なのかは、押し倒されている私からは確認することができない。そして、その人物も黙ったままだ。
 金髪をかき上げて、ジルは身体を起こすと、床に転がったものを見る。
「へぇ。それ、探すの大変だっただろう?」
「……君たちは、ここをどこだと思っているのかな?」
 全く噛み合っていない会話。部屋に入ってきたのはトーヤだと声でわかり、心なしかその声は少し震えているように聞こえる。
「何の事情があるのかは知らないが、今すぐ離れるんだ。ここは皆が使用している研究所だよ!」
 気怠そうにジルが私から離れてゆく。トーヤを見ると、幼い頃によく見た、最高に機嫌が悪いときの顔をしている。床に転がっていた細い棒状の物を拾い上げ、破損の有無を確認すると、仏頂面のままそれを私に差し出した。
「探すのに二日かかった、君用の万年筆だ。安価なプラスチック製ではないから、落としたぐらいでは壊れないはずだよ」
 黒に、深い青色がマーブル模様を描いている、軸が太いペンだった。
 よく見るとトーヤは、彼が好んで着ているシャツとスラックスではなく、薄汚れた作業着を着ていた。この上に防護服を着て、汚染された西暦時代の物が放置されている廃棄物置き場から、この万年筆を探してきたのだろう。
「へぇ。そんな上等なもの、よく見つけてきたね。素材はエボナイトか。高級品だよ」
 何もかもが一緒くたになって積まれている塵の山からこれを探し、素手で触れられるよう洗浄をして、更に実際に使用できるよう状態を整えてから、ここへ届けてくれた。着替えをしていないのも、きっと少しでも早く手渡すため。
「ありがとうトーヤ。大事にする」
「大事にするのではなく、毎日それを使って筆記の練習に励んでもらいたいね」
「あ、そうよね……」
 使うのが勿体無い気持ちと、壊してしまうのが怖いという気持ちが合わさって、胃がさらに重くなった。
「しかし、先程から具合が良くないようだけど、大丈夫なのかい?」
「ジルに診てもらったら、ただの消化不良だって。聴診器を持つ姿が思っていた以上に様になっていて、びっくりしちゃった」
 薬を飲んだからか、ここに来たときと比べると随分と楽になった。今日は、医学を専攻していたジルに縋るような気持ちでここはやってきたのだ。
「ジルに、診てもらっただって? 今日、この研究所には君たち二人しかいなかったはず……」
「同年代でも、トーヤはまだマトモか。やっぱり彼女が特別ポンコツなんだろうね」
 そう言ってジルは、薬包を二つ、テーブルに置く。
「わかりやすい原因と症状だったから、診察はしていないよ。しかしトーヤ。彼女は昔からこうなのかい? 何か決定的なものが欠けている気がしてならないんだけど」
「いわゆる天才で、更に自分の知りたいことに関しての努力は惜しまない。逆に、興味のないことに関しては徹底的に無関心。その興味のない事柄に、自分自身が入っているのではないかと俺は分析しているよ」
 ジルからは何度も酷いことを言われている気がした。彼は私のことを、豊富な知識を持っている褒めつつも、出来損ないの部分があると貶めている。
 でも今、トーヤの言葉を聞いて、私はやっと納得できた。興味がないことは知りたいと思わない。だからその分野に関しては無知なんだ。無関心という表現がしっくりくる。
「うん。だから食事にも無関心なんだわ」 
「開き直って言うんじゃないよ。君の主治医として、今日の晩と明日の朝に飲む薬を処方する。必ず食後に飲むこと」
「え」
 こんなに気持ち悪いのだから、固形物を入れると更に悪化しそうだ。食欲は全くなく、しばらくは何も食べずにいようとしたのだが、医師としてそれは許せないものらしい。
「元々食が細く、その割には身体の丈夫な君が消化不良なんて。珍しいこともあるものだね」
「お菓子の食べ過ぎだって」
 ああ、とトーヤは納得して苦笑する。
「昨日、俺抜きで開催したと噂のお茶会か。君も、この世界の食物が苦手なだけで、きちんと調理されたものなら好んで食べることができたんだね」
 それはチャイルドに行ってから大切なことだから、安心したよ。と付け足される。
 私は一度壊れたこの世界が、改めて新しい構造で機能し始めてそれなりに時間が経ってから生まれている。それもかなり恵まれた環境で。それ故に、知らず知らずのうちにこの世界の枠に嵌っていたのかもしれない。
 壊れた世界が嫌いだと言いつつ、抗いつつも、私の感性はこの世界を標準にしてできている。
 ジルの話を聞く限り、そんな気がした。そしてそれは、今後矯正する必要がある。
「きっと昔みたいに色々な料理があれば、私だって食事が好きになるはず。自分のことに無関心なのは……これから意識して直していくわ。そして筆記の勉強もちゃんとする」
 薬を白衣のポケットにしまい、万年筆は大切に両手で握りしめる。そんな私を、二人は驚いたような目で見ていたが、次第に頬を緩める。
「良い心掛けだね。そんな君に、僕からも贈り物を渡そう。君ならもう読んだだろうけど、改めて」
 本が一冊と、ノートが一冊。どちらも変色してしまっているが、十分読めるし、筆記にも問題はない。その本は、見る前から何となく想像のついていた通りのもの。
「……やっぱり、ノアという名前は、方舟神話から取っているのね」
「エデン・ロストという言葉自体、なぜかその本から取っているからね。そしてアベルとカインも。それなら、我らもそれに乗っかってやろうじゃないか」
 地上世界に悪しき考えを持った人間が増えすぎたため、神は地上の文明を滅ぼそうと考えた。
 神は正しい人間、ノアに方舟を造らせることを命じ、ノアとその家族たちは船に乗り込む。
 そうすることで、限られた者たちは神が引き起こした大洪水を耐え抜き、生き残ることができた。
 方舟は宇宙船。残された人類は小さな望みを信じて、その舟の中で新たな世界に到着するのを待つのだ。

 十八年前。遂に実行されてしまった、人間が人間を創るという行為。
 これはまさしく、神への冒涜。そして背徳であると、僕は思う。
 倫理や道徳なんて、とっくに失われた世界だけど。これだけは超えてはいけない一線だった。

 古今東西からかき集められ、秘密裏に保管されていた、特に優れた知能を持つ人間たちの遺伝子は、人の手により受精卵となり人工子宮へと託された。
 そしてそれらは、十七年前に三十余の新しい命として誕生する。
 彼らは皆、他の者と比べてずば抜けて知能指数が高かったこともあり、この政策は世界的に受け入れられた。

 そんな、両親を持たない新たな生命を、人々はアベルの愛し子と呼んでいる。

 白い花が精一杯に花弁を広げていた。これが、満開という状態なのだろう。
 でも、どれだけ大きく咲いていても、甘い香りを漂わせていても、地上エリアに花粉媒介者となりうる昆虫は生息していない。
 受粉ができなければ、種を残すことは叶わないのだ。遺伝子に導かれるがまま、虫たちに訴えかけるような香りを放っても、それは何の意味も成さない。
「だからって、私の手で受粉をしたところで、何にもならない。だから、放っておくのが一番なのよね」
 この花たちが実を結んだところで、私はそれを見ることはできない。
 その頃には、私たち人類は、私たちの第二の故郷へ向けて、長い旅に出立しているはずなのだから。
 ジルの計画を聞いてから、1ヶ月弱ほど経っていた。私は基本的にあの西暦時代を模した部屋にいて、筆記の練習をしたり、本を読んで過ごしている。
 そんな安穏とした生活を私が送っている間にも、この星の運命はじわりじわりと変わりつつあった。ジルが率いる研究チーム・ノアによる星間移民計画は、水面下で着実に進んでいたのである。知らなかったのはカレッジの生徒と一般人で、ブレインの中ではその計画の存在は密やかに広く知れ渡っていたらしい。
「部屋にいないとなると、やはりここだね」
 暖かな日差しの下、白煉瓦の東屋で読書をしていると、トーヤが現れた。その手には、何かの金属で作られた取っ手付きの鞄がある。
「一応私の役割は、物語を読むことと決まったから。どうせなら西暦の世界を感じながら読書に耽りたいのよね。今日は天気も良かったから」
 私は毎日飽きることなく、文学作品を読み漁っていた。それがジルから指示された私の役割だったのだ。
「君以上に文学に長けたブレインは、僕の研究所にはいないんだよ。だから君には、文学の先駆者になってほしい。文学は、人間が人間らしく生きてゆく上で、そして人間の生活を豊かにする上で、欠かすことのできないものだ」
 他の分野の本も読み、あらゆる知識を蓄えたいと思っていたのだが、君にしかできないこと、と言われてしまうと、それに応えたくなってしまう。それに、ノアでの居場所が出来たみたいで、嬉しかった。
 普段なら、廃棄物置き場で目ぼしい物を物色して来るのだが、今は違う。ジルが各地の居住区で個人的に集めていた本を、山のように手渡されたのだ。集めたものの、読む暇がなかったから、君に読んでほしい、と。
「こんなことが人類のためになるなんて、思ってもみなかった。無駄なことだって、今まで散々馬鹿にされてきたのに」
 ジルの部屋で、沢山のガラクタに囲まれながら読書に耽っていると、時折トーヤがやって来て、紅茶を入れてくれる。今日は気分を変えようと地上エリアに来ていたのだが、彼はここに追って来てまでお茶を振る舞うつもりなのだろうか。
 じっとそれを見ていると、金属製の箱から出てきたのは筒状のボトルとカップ、それから食事として日頃人々が摂っている、栄養ブロックだった。
「読書を楽しむのは素晴らしいことだ。しかし休憩を挟まないと頭の回転も悪くなる。稀代の天才と謳われる君でも、そこは他者と変わらないのでは?」
「うげ。いつものブロック……。ほんと、トーヤって昔から厭味な性格してるよね」
 トーヤが試験をパスし、カレッジに入学する前のことを思い出す。私とアサヒとトーヤは幼馴染で、いつも私の母が勉強を教えてくれていた。今思えば、超一流のブレインである母に直接教わることができたのは、二人にとって、特にトーヤにとってはとてもラッキーなことだったと思う。
「心外だな。この俺が、こうして気に掛けているんだ。むしろ感謝するべきだろう」
 彼のこの当たりの強さは、気を許している証拠だと私は知っている。口調こそきついが、その心根は優しくて思いやりに溢れていることを、私はずっと昔から知っているのだ。
「悔しいが、これでも君には感謝しているんだ。俺を、ドクター・ハルナと出会わせてくれたこと。あのとき君が俺に声を掛けていなければ、俺はブレインにはなれなかっただろうからね」
「懐かしいわね。もう、十二年ぐらい前になるのかな」
 トーヤと私が初めて出会ったのは、母に連れられて訪れた、医療センターの中庭だった。
 母の仕事に付き合って、頻繁に医療センターを訪れていたのは、私が五歳ぐらいの頃。幾度か出向いているうちに、自分より少し年上の黒髪の少年が一人、いつもセンターの中庭にいることに気が付く。ベンチに腰掛け、モニター相手に子どもらしからぬ渋い顔をしている彼が気になって、私はある日、声を掛けた。
「ねぇ、どうしていつもここにいるの? 病気なら、早く中に入らないといけないわ。外気は病に侵された身体を更に蝕むって、ママが言ってたの」
 当時から怖いもの知らずだった私の彼への第一声は、こんな感じだったと思う。五歳児らしくない語彙と言い回しなのは両親による英才教育の賜物で、このとき既に、多くの文献や論文を読んでいたからだ。
 少年は私と、その後ろを慌てて追いかけてくる母を一瞥して、冷たい言葉を放つ。
「何も知らないくせに、偉そうな口を叩くんじゃないよ」
「偉そう……?」
 善意で、正しいことを口にしただけなのに。どうしてそんなことを言われなければならないのだろう。彼は、首を傾げる私を心底嫌なものを見るような目で睨みつける。
「生まれながらにして全てを持っている者が、持たない者に対する哀れみか? 俺はここで、試験のための勉強をしているだけだ」
 口の立つ私がこれ以上の言葉を発すると喧嘩になりかねない。そう察した母が、白衣を翻して私と少年の間に入る。そして彼のコンピュータの画面を覗き込むと、とても嬉しそうな笑顔を見せた。
「あなた、ここまで独学でよくやってきたわね。その努力、素晴らしいわ!」
「その言葉は憐れみですか? そんなに俺は可哀想に見えるんですね」
 そう言って少年は、ため息を吐いて項垂れた。その頭に、母が手のひらを乗せる。
「君は言ったわね。持たない者への哀れみか、と。確かにそうかもしれない。否定はしないわ。でも、noblesse obligeの精神を、わたしは大事にしたいの」
 このときの、母の綺麗なフランス語の発音を、私は今でも鮮明に覚えている。もちろん当時は意味もわからず、少年と二人で首を傾げていた。
 そんな母を、只者ではないと察した少年が怯んでいる隙に、彼の端末に己の端末をかざしてブレインとして登録されている情報を読み込ませる。
「わたしは、ハルナ・ハヤセ。ドクター・ハヤセと言う名前には聞き覚えがあるんじゃないかしら」
 母が名乗ると、少年は目を見開く。
「ドクター・ハヤセって……あの有名な?」
「うーん、残念。有名な方は、わたしの夫の方ね。わたしはその妻で、ドクター・ハルナと呼ばれているわ。この医療センターの再現室に花を運んで管理している、お花屋さんよ」
「なるほど。あの花々は、あなたが」
 基本的に療養中の患者しか入ることのできない『再現室』を、私はその当時、まだ見たことがなかった。母の仕事中は別室で自習をして過ごすよう言いつけられていたからである。しかし、この少年は再現室の内部を知っているらしい。
「それを知っているということは、あなたのご家族も、不適合者なのね」
「……ひと月前、母親に症状が出て、それからここに入院した。父親は俺が生まれてすぐ、同じく不適合で、死んでしまった」
 初めは大人びていて、そして棘のある口調だった少年が、会話を重ねるうちに幼さを取り戻してゆく。私よりは少し年上だが、それでもまだこんな年齢で、両親共に身近に居なくなってしまったら、寂しいに決まっている。
「俺は、ブレインになって、母親を助けたいんだ。今までは母親がコンピューターを使って、どうにか勉強を教えてくれていた。でも、これからは、どうしたらいいのかわからない……!」
 そう言うと、糸が切れたかのように、少年は膝を折って崩れた。母はゆっくりと歩み寄り、震えるその小さな肩を抱き締める。
「よく頑張ったわね。もう大丈夫よ」
 そうして、母は少年の手を取ったのだった。
「わたしがあなたを、ブレインにしてみせるわ。こんな努力家と出会えて、わたしは本当に嬉しいの。そして、知識を持つ者が、後世を担う子どもたちに知識を引き継ぐのは当然の責務。それが、noblesse oblige」
 そして五年後。その少年、トーヤは無事に試験をパスし、カレッジへと入学する。
 口の中の水分を、ぱさぱさのブロックに全て吸い取られる。思い切ってそのまま飲み込むと、案の定喉に詰まった。慌ててお茶を流し込む私を見て、トーヤが呆れ果てている。
「ジルの言葉がこんなにしっくりくるのは少し癪だが。君は本当に、勉強以外のことはポンコツだな」
「ポンコツ……。もう言われ慣れたわ。私は頭でっかちなポンコツよ」
 涙目になりながら咳き込んでいてもお構いなしに厳しい言葉を投げつけられる。悪いのは私ではなく、こんなものを主食にしたこの世界だというのに。
「ほんと、トーヤは変わってないわ。昔から高慢で意地悪で。結局ちょっと謙虚だったのは、ママに出会ってすぐの頃だけよね」
「やめるんだ、その話は。今すぐ忘れるんだ」
「残念でした。今ちょうど、出会ったときのことを思い出していて、それで喉に詰まらせたのよ!」
 我ながら何を得意げに言っているのだろう。自分で口にしておきながら、馬鹿馬鹿しくて思わず笑いが込み上げる。
「あの頃のことは忘れてしまいたいし、君の記憶からも抹消してしまいたい。二年も早く生まれた俺が、学力であそこまで優劣をつけられていたなんて、今でも許し難いことだよ……」
 私たちとトーヤが出会い、母が勉強を見てくれるようになった頃。私たちの学力には大きな差があった。当時、五歳の私は数学で言えば微積分を。七歳のトーヤは一次関数をそれぞれ学習していたと記憶している。でもそれは、色んな要因から考えても、仕方のないことだと誰もが口を揃えることだろう。
「遺伝子や、指導者のせいにはしたくない。ただ俺の努力不足だった。ただそれだけなんだ」
 そう言うトーヤを見て、どうしてあの時、ジルに二人は知り合いなのかと尋ねられた時、幼馴染と答えなかったのかを理解した。カレッジで私に学年を抜かされたことも、彼にとってはさぞ癪に触ったことだろう。しかし二つを天秤にかけた結果、まだ元同級生と言う方が彼のプライドは傷つかなかった。それほど、彼にとって幼い頃は辛い思い出だらけなのだ。
 トーヤは昔から、傲慢ではないが、高慢である。どこまでも高いプライドが、彼のアイデンティティを形成していると言っても過言ではない。
「あなたが優秀だってことは誰しもが、ジルだって認めてるんだから、もういいじゃない」
 空になったカップをいつものようにトーヤに差し出すと、彼は早々にそれを片付けた。いつもなら黙っておかわりをくれるのに。
「何よ、くれないの?」
「もう終わりだよ。今から医療センターに行く。それで君を探していたんだ」
 結局、私に思い出すなと言ったその場所へ行くんじゃないか。と思いつつも、決してそれを口にはしない。そこには今も変わらず、彼の母が入院しているのだから。
「いつもの面会?」
「……今日で、最後になるね」
 トーヤの母親の病状がそんなに悪いとは聞いていない。私の母がトーヤの勉強を見るようになってから、母は彼の母親に挨拶へ出向いた。そこから母親同士の交流が続いているが、トーヤの母親の病状は安定していて、このままずっと、おそらくは、死ぬまで、センターの中で過ごすのだろうと母は言っていた。
 トーヤの母だけではない。医学と科学の進歩により、不適合の症状は新たに発症する者を減らすことはできないが、発症しても、限られた再現室の中であれば、本来の寿命を全うすることができるようになっていた。
「ジルから聞いていないのか。……今夜、医療センターの入院患者が先駆けとなって、眠りにつく」
 眠り。それは、人体を低温状態に保ち、時間経過による老化を防ぐ技術。コールドスリープを意味していた。
「再現室を維持するのも、かなり難しい技術が必要だと聞くからね。それならば、先に眠ってもらおうという判断だ」
「医療センターの職員は、ノアの計画を知っているの?」
 と、聞いた後で思い出す。
「あ。ジルは医学会の第一人者だったっけ。ということは、とっくの昔に医療センターは、彼の配下ということね。説明なんて必要ない」
 地球の地下に九ヶ所ある居住区は、それが作られたときに第一から第九までの番号を振られた。その数字に優劣はなく、ただの識別番号にすぎない。
 ジルたちの計画は私が想像していたよりも、もっとずっと、遥かに進んでいた。星間移民のための宇宙船は私が生まれた頃には完成していたと言うのだから、その計画の壮大さを改めて思い知らされる。
 その船は現在地球の裏側、第一居住区にあるという。肉体を保存するための特別な箱にそれぞれ入り、眠りについた第一区の人々がきちんと船の中に収納されてから、船は地下航路を使って第二区へと向かう。
 そうして順番に残された地球人たちを全員収納したあと、船は最後にここ、第九居住区から長い旅に出るのだ。
「今日は母に別れを告げにゆくのではない。むしろこれは祝福だよ。目覚めたときにはやっと、何の隔たりもなく会うことができるようになるのだから」
 僅か七歳で母の温もりを失ったトーヤにとって、この計画の成功は本当に悲願なのだろう。
「それでだ。君も一緒に行かないか? 母も前々から会いたがっていてね」
「もちろん、行くわ」
 計画は成功すると信じている。それでも、この星で会えるのが最後なら。きちんと送り出そうと、私は黒い瞳を見つめて頷いた。

 地下の世界に居住地を移した人類だったが、そこはやはり人間にとって適した環境ではなかった。当時の技術をもって、最大限に地上と同じ環境を作り出し、人類の新たな歴史が始まったと思いきや、原因不明の奇病が多くの人々を襲ったのだ。
 エデン・ロスト。地上での大爆発と環境汚染により、全世界の人口は数パーセントにまで減少していたのだが、この病によって更に人類の数は半分以下になった。
 地下の環境が身体に合わない人々は、この病を発症すると多臓器不全を起こし、やがて死に至る。その病を発症した者たちは不適合者と呼ばれ、それぞれの居住区にある医療センターに集められていた。そして、地上世界に限りなく近い状態を作った空間で、終わりの見えない長い療養生活を送っている。
「再現室、お母さんが発症したときに間に合って、本当によかったよね」
 医療センターへ繋がる移動通路は、相変わらず人通りがなく、とても静かだ。
「父親のときは、弱っていく姿をただ見ていることしかできなかったらしいからね」
 不適合の体質は遺伝すると、近年医学会で報告が上がっていた。両親共に不適合者であるトーヤも、いずれは発症していたのかもしれない。
 だから彼は、母を助け、自分を守る為にジルを探し求めたのだろうか。他人が無闇に踏み込んではならない領域だから、尋ねることはしないけれど。
「前に来たのはトーヤが在学中だったから、本当に一年ぶり。その間にまた増築したみたいね」
 センターの奥へ奥へと、移動通路は私たちを運んでゆく。母が再現室の建築に関わったときと比べて、随分とここは様変わりした。広さが倍以上の大きさになっている。
「患者の数は日に日に増えているにも関わらず、原因療法も対処療法も確立されていないんだ。発症したが最後、ここで延命を行う他に方法はない。そして致死率は大幅に減ったとなれば、大きくもなるだろう」
 今までは死にゆく定めだった者が、収容されて生き存える場所。
「こんなところに入れられるなら、死んだ方がマシだ」
 小さな呟きは、聞こえなかったことにした。
 その空間は、扉が何十にも施されており、たとえその中に家族が居たとしても、立ち入ることは許されない。その代わりに面会室が設置されており、厚さが十センチを超える、音も通さないガラス越しにのみ面会が許されていた。
 面会室の入り口に設置された端末を使い、トーヤが慣れた様子で入室の手続きをしていると、数人の医療センターの職員たちがやってくる。
「ドクター・トーヤ。いよいよだね」
「ドクターはやめてくれと言っているでしょう。昔のようにトーヤと呼んでくださいよ」
「いやぁ、あのトーヤ君がこんなに立派になるなんてね。長年見守っていると、まるで君のことを息子のように思ってしまう」
 一番年上の男性が、慈しむようにトーヤの肩に手を置く。トーヤはカレッジに入学する前から、もう十年以上もここに通っているのだから、付き合いの長い職員も多い。
「おや? 今日は彼女を連れてきたのかい? 君も隅に置けないな。エミも喜ぶだろう」
 そして皆の視線が私に向けられた。彼女、とは、昔の小説によく出てくる、恋人関係にある女性を呼ぶ言葉。彼らは、私とトーヤが恋愛関係にあると勘違いしている。
「彼女だなんて、そんなまさか。こちらはあの、ドクター・ハヤセの御息女ですよ」
 軽口のつもりで言ったのであろうその男性は、はっと口を閉ざす。ブレインの間に上下関係はない。ましてや私はまだただの学生に過ぎないにも関わらず、彼は私に頭を下げた。
「第八居住区筆頭に就任した、あのドクター・ミナト・ハヤセの娘さんとは。知らなかったとはいえ、失礼なことを致しました。また、ドクター・ハルナ・ハヤセにはこちらの建築にあたって多大なるお力添えを頂き、」
「待って。今、あなた何て? パパが、筆頭?」
 思わず彼の言葉を遮って問う。そんな私に、唖然とした顔をしたのは目の前の男性だけではなかった。
 どうして私だけがそれを知らないのか。それを一番知りたいのは当然私だ。そんなときにハッと思い出したのは、ジルに初めてあった日、何気なく見たニュース記事に載っていた、第八区の筆頭ブレインが近々交代する旨の記事だった。考えてみればあれ以来、ろくに端末も起動せず、ひたすら読書に明け暮れていた。 
「ああ、もうこんな時間か。すみません、ドクター。俺たちは母に会ってきます。あなた方も、あちらの準備が忙しいでしょうから、これで」
 咄嗟に察したトーヤが私の肩に手を回して歩を進め、センターの職員たちの目から庇ってくれたのがわかった。私も軽く会釈をして、その場をやり過ごし、目の前の扉の中へと進む。
 ドアを閉めて、面会のためのガラスに施されたシャッターを閉ざしたまま、二人だけの空間になると、大きな大きなため息が聞こえる。
「マユ。ミナトさんやハルナさんからの連絡は本当に来ていないのかい? まぁそもそも、これだけ大々的にニュースに取り上げられているのだから、誰しもが知っていると思うのは仕方のないことだ。それがまさか、実の娘が知らないなんて、誰が想像できただろうね」
 全くもって、トーヤの言う通りである。私は浮かれていたのだ。ジルに会って、トーヤに再開して、その壮大なプロジェクトの一員になって。
「……ここ最近ずっと、端末を起動さえしてなかったの。メッセージ、届いてるのかもしれない」
「やれやれ。どうせそんなことだと思ったよ」
 耳に埋め込まれた小型端末は外すことがないため、音声通話が入れば必ず気付く。余程のことがあればそちらに連絡が来るはずなのに、それがないということは、両親はきっと通話一本入れることすら難しいほど忙しいのだ。
「まぁ、君の近況やら何やらは、我らの代表が小まめに連絡を入れてくれているから、ご両親も安心していることだろう。……しかし、今からこんなに浮かれていては、後が心配だよ」
「はい。トーヤの言う通りです」
 一緒に過ごしていたのは幼少期の五年と、カレッジでの一年だというのに、こんなに見事に見透かされているなんて。トーヤの洞察眼は鋭い。……というよりも、私が単純すぎるのだろう。きっと。
 あまり失敗をした経験がないと、些細なことを気に病んでしまう。項垂れていると、部屋の中に無機質な音声アナウンスが流れた。
「お待たせ致しました。ナンバー四一六。エミ・ニシムラ。面会準備が整いました。
 勢いよく顔を上げ、表情を作る。私がこんな顔をしていてはだめだ。これから、いつ目覚めるかわからない眠りにつく人を前に、不安を煽るような行動をとるわけにはいかない。
 私の顔を見、安心したような柔らかい表情を浮かべたトーヤがタッチパネルに触れる。閉ざされていた金属のシャッターが軽い音を立てて開く。
 百年以上前に作られた地下の世界を照らす擬似太陽も当時の人々の叡智の結晶だが、再現室の明かりは現代の最新技術により更に太陽に近いものとなっていた。光が差し込むだけで、部屋の温度が上がったように感じる。
「あら。マユちゃんじゃないの! 久しぶりねぇ。またお母さんに似て美人さんになって」
 そこは到底病院内とは思えない、木々や花々に満ちた空間だった。小川が流れ、地面は主に芝が生えている。さながらそれは、偽りの楽園だった。
 そんな空間に、ぽっかりと穴が開いたようにこの分厚いガラスが埋め込まれ、中の人々とガラス越しに面会が叶うように作られている。
「トーヤママ、お久しぶりです。自分ではあまり変わってないと思うんだけど、少しは大人になったのかな?」
 トーヤの母は、いつも笑っていて、世間話や噂話が好きで。ブレインである私の母とはタイプの違う女性だった。こんな閉ざされた空間でも、私は彼女の顔から笑顔が消えたところを見たことがない。機械越しのその声も、いつも明るくて快活だ。
「髪の毛が伸びたからかしら? そうしてトーヤと二人でいると、まるで恋人同士みたいよぉ」
 私たちは顔を見合わせて、同時に苦笑いをした。
「母さんたちの時代には、まだ恋愛という概念が辛うじて残っていたからね。かつての女性たちは、こういう色恋話に花を咲かせていたと聞くよ」
「ふふふ。だって、楽しいじゃない? 人の話を聞くだけでもドキドキするわ。それなのに、今は本当に、つまらない時代になったものよね」
 彼女が言うのは、例の政策のことだ。私はかつての女性たちが楽しんでいたという色恋話が、全く理解できない。人類にとっての楽しみがその政策によって奪われたのは確かなのだと、こうして実際にその時代を生きてきた人から聞くと、やはりそれは良いことばかりではないのだと感じることができた。
「生まれたときには既にそういう時代だったから、俺たちにとってはこれが普通なんだ。それに、確実に優れた遺伝子を持った子どもが作れるなんて、良いことしかないんじゃないかな?」
「それでも、あんたはごくごく普通の父さんと母さんから、こんなに立派な研究者になったわ。母さん、それが本当に嬉しいの」
 そうして誇らしげな顔でトーヤを見つめる。早くこんな分厚い隔たりを取り払って、直接会わせてあげたい。二人の様子を見ながら、心からそう願った。
 そのとき、耳の小型端末に着信が入り、相手が誰かを確認する。
「ママからだわ! えっと、」
 出て良いものか、二人の顔を見ると、
「ハルちゃんから? 丁度いいタイミングじゃないの! ここで出ちゃいなさい」
 トーヤの母の嬉々とする様子に一瞬躊躇いながらも、私は通話のスイッチを押した。
 端末をスピーカーモードに設定してから問いかける。
「もしもし? ママ?」
「マユ? あなたどうしてメッセージを見ないの! どうせあなたのことだから、ずっと本ばっかり読んでたんでしょう? まったく、こんなことで浮かれているなんて、あなたはまだまだ一人前のブレインとは言えないわよ!」
 これを聞いているのが私だけではない、なんてことはつゆ知らず。母は息継ぎもせずに言い放った。
「ハルちゃん、相変わらず厳しいわねぇ! もうマユちゃんも大人なんだから、そこまで親が干渉する事ないわよぉ」
「えっ? その声、エミさん? 何で、聞いて、ちょっとマユ! 説明しなさい!」
 2人のやりとりにトーヤがやれやれと呆れたように肩をすくめる。
「今、センターに面会に来てるの。ごめん、トーヤもこれ聞いてる」
「そういう事は最初に言いなさい! ……でも、丁度よかったわ。エミさんの声が聞けて。わたしたち、最近忙しくて忙しくて、エミさんに挨拶に行きたくても行けなくって」
 私の母がまだ第九区にいた頃は、再現室の管理に関わっていたこともあり、トーヤの母とは親交が深かった。母がトーヤの勉強をみることになり挨拶に行った際は、母のことをまるで女神でも見るかのように、泣きながら何度も何度も深く頭を下げていたのが印象に残っている。
 母一人子一人で生活していたところを、突然幼い息子一人残して自分が入院をすることになってしまったのだ。著名なブレインである母とトーヤが出会えて、トーヤの母には本当に、私の母が女神に見えたのかもしれない。
「八区に行ってからは、本当にプツリと会えなくなって、あたしも寂しかったよ。それにお礼もまだ言えてなかったしね」
「お礼? トーヤの面倒を見ることになったときも、トーヤが統一試験に合格したときも、あんなに大袈裟に泣きながら、ありがとうありがとうって何度も言ってくれたじゃないの」
 他に礼を言われるようなことは何もしていないわ、と母が笑うのに対し、今まで笑顔を絶やさなかったトーヤの母が、真面目な顔付きになる。
「ハルちゃん。あたしと出会ってくれてありがとうねぇ。こんな立派な学者さんが、あたしみたいな普通の人間を対等に扱ってくれて。あたしに生きる意味を与えてくれて、本当にありがとうねぇ。子どもらには悪いけど、これであたしは心置きなくゆっくりと眠れるよ」
「エミさん……」
 いつも凛として、毅然としている母の声が震えているのを聞いたのは、これが初めてかもしれない。
「俺からも、改めて、ありがとうございます。第八区の筆頭、お二人共忙しいとは思いますが、くれぐれもお気をつけくださいね」
「トーヤもありがとう。……エミさん、良い夢を」
 トーヤの母は鼻をぐずぐず鳴らしながら、何度も頷く。音声通話なのだから届かないと分かっていながらも、言葉にならないのだろう。
「マユ」
「はい」
「パパとママ、大変になっちゃったから、そっちは一人でしっかりするのよ? 大丈夫? できる?」
 浮かれて周りが見えなくなっていた私は、子ども扱いされても強く言い返せない。
「大丈夫。トーヤもアサヒもいるし、今はジルもいるから」
 少し間が開く。何か変なことを言っただろうか。と尋ねようとしたとき。
「トーヤは大丈夫。ジルコニアも大丈夫だけど、深入りしない方がマユにとっては幸せかもしれないわね。……そして、アサヒ君には気をつけなさい」
 そこまで聞こえたどころで、遠く向こうから母を呼ぶ声がした。
「じゃあみんな、わたしはこれで失礼するわ」
 突然かかってきた通話は、意味深な言葉を残して突然ぶつりと切れる。忙しい事は想像できていたが、どうやらそれ以上のようだ。
 母の言葉の意味を知っているのが知りたくて、隣のトーヤを見る。彼は難しい顔で黙ったまま、いまだにタオルで顔を覆う母親を見つめていた。
「やっと、言えたわぁ。これで母さん、ゆっくり寝て。気持ち良く目が覚めたら、大きくなったトーヤを思い切り抱きしめるの」
 泣きながらも、トーヤの母は幸せそうに微笑んでいた。
 
 ジルコニア。それは二酸化ジルコニウムの別称で、人工ダイヤモンドのことを指す。文脈からして、母が口にしたジルコニアというのは、ジルのことなのだろう。
「変なタイミングでママからの通話が入ったけど、結果としてよかったのかな」
「ゆっくり面会をする、という点については阻害されてしまったが。母親は至極満足している様子だったからね」
 帰路もまた人影はなく、静かな機械音を立てて通路は私たちを研究所の建ち並ぶエリアへと運んでゆく。
「トーヤは知っているの? 知っていたの?」
「ーー主語がないと、わからないな」
「私も何から聞いていいのかわかんないんだから仕方ないじゃない!」
 そう小さく叫んで、また、私たちは黙り込む。
 どうして父が、第八居住区の筆頭になったのだろう。この星の政治はそれぞれの居住区を代表するブレインで取り仕切られていて、各地域の筆頭ブレイン九人が、世界で最も大きな権力を持つ。
「パパが政治に興味があるなんて、聞いたことがないわ」
「そうだね。ドクター・ミナトの意思ではない」
 やはり知っているのか。トーヤはどこまで知っているのか、私は抱え込んだ疑問を一つ一つ投げ掛ける。
「トーヤはママに、何に気をつけてほしかったの? ああいうときは、普通お身体に気をつけて、というはずなのに。あの言い方には何か別の意味を感じたから」
「トップに立つという事は、敵を多く作るということだよ」
 敵とは誰だ。この世界はブレインはブレイン同士、協力しあって人類の存続を日々研究しているのではないのか。
「トーヤは、大丈夫なのよね」
「信用してもらえて嬉しい限りだよ」
「ジルコニアも大丈夫だけど、深入りしない方が私は幸せ?」
「残念ながらそれに関してはわからない」
 トーヤなら、全部を知っていると思ったのに。
ここであっさりと匙を投げられてしまった。
「ジルコニアっていうのは、ジルのこと? それとも物質としての人工ダイヤモンド?」
「ああ、それは、我らが代表のことで間違いないよ。彼は百年ほど前からジルコニアと名乗っている。ジルと皆には呼ばせてるけれどね」
 当然のようにトーヤは言うが、百年前からそう名乗っているということは、ジルの年齢は百を超えていると言うことだ。
「私がジルのことを知らなさすぎるだけ?」
「君が聞けば、簡単に教えてくれるんじゃないかな? 君の両親だって知っていることだから、秘密にしても無駄なことだ」
 何日も、同じ部屋で一緒に過ごしていたのに。私たちは西暦時代の文学の話しかしてこなかった。分かり合える人がいることが嬉しくて、……やはり私は心底浮かれていたのだと思い知らされる。
「百年より前は、別の名前だったってこと?」
「彼がコールドスリープから目覚めたのがその頃だから、以前とは違う名を名乗ることにしたんじゃないかな? 悪いがこれ以上詳しくは俺も知らない」
 百年以上生きている上に、コールドスリープの経験者だったなんて。一体ジルはいつの時代からこの世界にいるのだろう。途方もない歳月を想像して、私は額に手を当てた。
「それで、最後はアサヒについてか。人工子宮から生まれたアベルの愛し子たちの一人であり、君の同級生であり、……俺たちの幼馴染」
 昔々、西暦の時代では、人類が人類を作り出すことは、倫理的な観点から禁忌とされていた。
 優れた知能を持つ者の遺伝子から優れた能力を持つ者を意図的に作り出すことは、人間の育種品種改良に繋がる。
 優れた能力をを持つ人間を作り出すことは、生まれてくる人間を手段、道具と見なすことに繋がる。
 そしてそのような技術により生み出された人間と、通常の男女の関与によって生み出された人間との間に差別が生じる可能性がある。
 倫理的な観点とは大体このような内容だったと記憶している。しかし、追い詰められた人類は、種の存続を賭けて禁忌を破った。
 アベルと称する、幾つかの研究所が結託した組織。そこに属する科学者たちが、各々の持ち得る最高技術を投じて、十八年前に誕生したアベルの愛し子と呼ばれる子どもたちは、差別されて蔑まれるのではなく、この星の希望として大切に扱われて生きている。
 そう。生まれたときから特別な手厚い教育を受け、多くのシッターにより両親がいなくとも寂しい想いをすることのないよう大切に育てられてきた彼らの全員が、今から六年前の統一試験を突破して世界的な話題になったのは記憶に新しい。
「……俺からも釘を刺しておくよ。奴には、アサヒには気をつけるんだ。絶対に気を許してはならない」
 私の顔を見る事なく、前を向いたまま、トーヤは言う。
「何の不自由もなく育ってきて、みんなに大切にされていて。優しくて明るくて」
 少し癖のある赤毛、笑うと少し下がる眉、文句を言いながらも私のわがままによく付き合ってくれていた彼が。
「どうしてアサヒが」
 私の小さな慟哭は、通路の静かな機械音に飲み込まれて消えていった。
 
 生命を、人類を生み、守り、育んできた地球。
 それを捨て、他の星で幸福に生きるという選択肢が間違いだとは、僕は微塵も思わない。
 生命を、人類を、生かすことのできなくなった地球。
 それでも、この星で生きることを諦めるという選択肢が間違いであるとも、言い切ることは……できない。
 
 人間として、あるべき姿を取り戻したいと願うこと。
 人間を生み、育んできた地球を守りたいと願うこと。

 何が正解で、何が不正解なのか。
 それはきっと、人によって違うから。
 僕は僕の信念を貫くことに決めた。

 例えそれで、誰かと対立を生むことになったとしたら。僕は徹底的に戦おう。
 僕の脳細胞はもう、壊れて、狂っているから。人の心の些細な機微なんて、理解することができない。
 乱暴なやり方かもしれない。我儘かもしれない。それでももう、進むしかないのだから。
 
 左の小脇には数冊の本。長く伸びた髪が鬱陶しく、雑に払ってからその扉を無造作に開け放つ。
「ジルコニア!」
「おや。君にその名前を教えた記憶はないんだけどな」
 デスク前の椅子に座り、モニターに複雑な計算式を打ち出して眺めていたジルが振り返る。
 とりあえず部屋の真ん中のテーブルに本を置き、後頭部の高いところで髪を一つに括りながらそのモニターを覗き込んだ。
「……何これ」
「君にはわからないかぁ。ミナトがまだ若い頃には、惜しいところまで行ったんだけどね。まぁその頃よりも断然複雑になってるし、仕方のないことだ」
 そう言って、彼はモニターを消した。いつもそう、私がこの部屋にやってくると、ジルは自分の仕事を終わらせて、私に構う。今日はそれがとてもありがたい。
「今日はあなたに聞きたいことがある。ジルは、パパやママといつ出会ったの?」
 引力に任せて雑にソファーに腰を下ろすと、ぼふんと埃が舞い上がる。ジルはまるで猫のように目を細めながら笑っていた。
「今日は随分と荒れてるだね。……昨日のトーヤとのデートで、何かあった?」
「へ? デート? あれが? 二人で医療センターに行っただけなのに?」
「昔は年頃の男女が二人で出歩くことをデートと呼んでいたんだけどね。まぁ、あの堅物と二人の外出よりも、今のシチュエーションの方が余程、逢瀬らしいかな」
 立ち上がってこちらに向かって歩いてくると思えば、私が身構える前に、片手は後頭部に、もう片方の手は顎に添えられ、息が掛かるほどの近さまで詰められた。
 この格好は、以前に本で読んだ記憶がある。恋愛小説なんかでは、主人公がときめくお決まりの展開だ。
 目の前の顔は、本当に綺麗に整っていて、金色の睫毛は驚くほど長い。セラミックのような肌には毛穴一つ見当たらず、まさにそれはよく出来た西洋人形のようだった。
「前にも言ったけど、君には恋を理解してもらわなければならないんだよ。文学に長けた君なら、自然とそういう感情に目覚めてもおかしくないと思っていたんだけどねぇ」
 私が散々読み漁った文学作品に、恋愛がテーマとなっているものは多い。でも、どれだけ沢山読んでも、主人公を自分に置き換えてみても、それがどんな感情なのかわからないのだ。
「で、この体勢は何? キスでもするつもり?」
 本の中の主人公たちは、ここで頬を赤く染めてみたり、受け入れるため同じように相手の顔に触れてみたりと、様々な行動を取っていた。意図的に赤面することは出来ないため、取り敢えず手を伸ばし、その白い頬に触れてみる。
「これは積極的だね」
 同意、と取られたのならばそれでいい。彼の行動が何を意図してかはわからないけれど、キスなんて所詮は、
「ただ唇同士が触れるだけの行為でしょう? 手が触れるのと何が違うの?」
「また、そういうことを言う」
 瞳を真っ直ぐに見つめたままでいると、私がジルの頬へと伸ばした手を掴まれた。動脈を押さえているのか、ドクン、ドクンとゆっくり刻む自身の鼓動を感じる。
「うーん。この前も思ったけれど。これは予想以上に重症だ」
 途端、パッと柔らかな拘束が解かれた。
「君が日系人だから、西欧系の僕ではダメなんだろうか? でも、ここまで反応がまるでないのは想定外すぎる」
 テーブルを挟んで向かい側のソファーに腰を下ろしながら、袖で口元を隠してぶつぶつと呟いている。
「何なのよ、一体」
「君には本当に、恋愛という概念がないんだなぁ、と思ってね。僕があんなに近づいても、君の心拍は全く上昇しなかった」
「だから、最初からそう言ってるじゃない」
 私が答えても、尚もジルは何やら呟いていた。
「顔面にだけは自信があったんだけどな。学生の頃なんて、これでも女の子たちに囲まれて、キャーキャー言われていたんだよ?」
 真剣な面持ちでそう言うジルに、私も真面目な顔で問い返した。
「ねぇ、それ、いつの時代の話? 今からどれだけ昔のことを話しているの?」
「あー……、西暦の終わり頃の話だね」
 自ら話を振っておいて、答えないわけにはいかないと思ったのか。ジルは歯切れ悪く答える。
「ジル。私はあなたのことが知りたい。じゃないと恋も始まらないわ」
「恋をするには、お互いを知ることが大切、か。今の君にしては及第点だ。気乗りはしないけど、ご褒美に君の質問に答えることにしよう」
 こんな私が恋なんてできる気も、する気もしない。しかし、今はこれでいい。知りたい情報が手に入るのならば、私の取った行動は最適解なのだから。
 話をする前に、ちょっと待って。と部屋を出て行ったジルは、いつもだいたいトーヤが運んできてくれるティーセットを自ら持ってきた。
「長くなると思うからね。それに息も詰まるような話だ。なるべくリラックスして、僕の話に感情が引きずられないように、ね」
 そう言いながら、目の前に紅茶のカップと、マカロンが二つ置かれた。
「久しぶりだろう? ネムの作ったマカロンだ。君にはこれ二つぐらいがちょうど良い」
 手に取って少し齧ると、口の中いっぱいに甘味が広がった。やはり、水で流し込むだけのパサパサしたブロックとは全く違う。
 しかし今は久しぶりの喜びを噛み締めているわけにはいかない。
「ねぇ、ジル。いいえ、ジルコニア。あなたは一体いつから生きてるの?」
 答えを急く私に対し、ジルは紅茶を一口啜ってから、ゆっくりと口を開いた。
「僕がこの世に生を受けたのは、エデン・ロストが起きた年よりも更に、二十二年前。まさに西暦の終わり。今から数えると、百五十九年前になる」
「西暦時代を……知っているのね……」
 私が勝手に想像していたよりもずっと前から、彼は生きいていた。その事実に驚きと感動を隠せない。
「そう。知っているからこそ、取り戻したいんだよ。僕が眠っている間に起こったエデン・ロスト。それを僕は絶対に許さない」
 偶然か故意か。ジルと出会った日に、私が彼に言ったものと同じ台詞だった。でも、言葉の重みが全く違う。
「僕は当時で言う北欧の生まれで、両親からもらった名はアルマースという」
 昨日トーヤが言っていた。ジルコニアというのは、彼がコールドスリープから目覚めた後に名乗るようになった呼称であると。
「そして十九のとき、当時の医学では手の施しようがない不治の病にかかり、倒れたんだ。それはエデン・ロストの三年前だった」
 三年前ということは、ちょうど戦争が始まるかどうか、といった時期である。ジルは、アルマースは、少なくともそれまでは平穏に西暦時代を生きていた。
「自分の余命が僅かだと聞かされたとき、僕はそのとき丁度研究の最終段階にあった、コールドスリープの被験者に名乗り出たんだ。もちろん、当時は命懸けで、無事に起きられる保証はなかった。……それでも僕は、死にたくなかったんだ」
 いや、違うな。と独り言のように言い捨てると、自重するかのように言い直す。
「僕はとびきりの怖がりで、寂しがり屋だったから、死ぬことがとにかく怖かった」
「誰だって、死ぬのは怖いわ」
 私が聞いたせいで、ジルに辛いことを思い出させ、口にさせている。話の内容からそう思ったのだが、目の前の彼は案外何も感じていない様子で、淡々と続ける。
「そして僕が目覚めたのは、世界歴三十一年。眠りについてから約三十年の月日が流れていた。その時には既に、家族も、友人も、そして世界も。何もかもが無くなっていた」
 まさか目が覚めたときにそんな世界になっているなんて、誰が想像できる? と、紅茶をまた一口啜りながら問いかけられた。
「でもラッキーなことに、僕にコールドスリープの処置を施した医師は、奇跡的に生き延びていた。だから僕は、目覚めることができたんだ」
「世界歴三十一年。コールドスリープの完成ね」
「そう、コールドスリープは無事に完成した。しかし」
 そこで言葉を一度区切ると、首を横に傾けて彼は笑う。
「僕の病の治療法は、確立されていなかった」
「え?」
 どうしてこの人は、こんな風に微笑みながら、辛いはずの思い出を語れるのだろうか。逆に怖くなってくる。
「じゃあ、ジルは、アルマースは、今どうしてここでこうして生きているの……」
「彼は言ったんだ。病の治療法はないけれど、君を救うことはできる、と」
 グレーのパーカーの袖をぐっと捲り、目の前に骨張った手首が差し出される。
「触ってごらん。僕がさっき、君にしたように」
 それまでも、違和感は感じていた。鼻先が触れそうなぐらい近くに寄っても、呼吸を感じない。飲食も、おそらくは周りに合わせて水分を少し摂っているだけ。
 不老不死なんて、普通の身体を保ったまま出来るような医療技術が完成したとは、いまだ聞いたこともない。
 手首を取り、親指の腹で探る。そのなめらかな腕は仄かに温かかったが、私たちの身体が絶えず刻み続けているような鼓動を感じることは出来なかった。
 ジルは、人間ではない。しかしこの世界ではまだ、人型のロボットは実用化に至っていなかった。
「人間の肉体を限界まで利用した、サイボーグ? というのが一番近いのかな?」
 その瞳や髪、肌はまるで作り物のように美しく整っているけれど、触れて感じる限り、人工物ではなさそうだった。これらはジルが、アルマースが生まれながらに持っていたもの。その身体に科学技術を埋め込み、不老不死を保っているのだろう。
 私の予想は正解だったらしく、ジルは満足そうに頷いた。
「僕は、これで良かったと思ってる。だって、許せないだろう? こんな世界」
 手首を握ったままでいた私の手に、彼の手が蛇のように絡まる。親指から小指までそれぞれの指が互い違いになるように絡んで、強く握られる。
「許せない。許さない。こんな世界を。こんな世界にした愚かな世界を、僕は許さない」
 怒りと、悲しみと、絶望と。
 私が同じ立場だったなら、発狂していたかもしれない。想像するだけで全身が粟立つほどに恐ろしい。
「僕が目覚めた頃は既に、ブレインと一般市民が分かれていてね。ブレインたちは地下の世界を人間たちの新たな楽園にしようと必死になっていた。……でも、それは違うんだよ。みんな、エデン・ロストのせいで思考が麻痺していたんだ。だから、眠っていたからこそ正しい思考を持ったままでいられた僕が、皆を導かねばならなかった」
 いや、既に彼は狂っていた。
 狂気とも思えるような思想をもって、この壮大な計画を、百年以上もかけて成し遂げようとしているのだ。
「こんな紛い物の生を受けた僕は、それまでの人としての人生を捨てた。だから僕は、ダイヤモンドではなくジルコニアなんだよ」
「自分でそう名付けたの?」
 人工のダイヤモンドは、素人が見ただけではまず本物と区別がつかない。それほどに美しい宝石だ。
「そうだよ。アルマースはロシア語でダイヤモンドを意味する。元々僕は、アルと呼ばれていたからね。アルとジルで、韻を踏んでいて、意味合いもなかなか良いだろう?」
 自分自身を人工ダイヤだなんて。良いだろうと聞かれても何と返事をして良いのかわからない。
「まぁそんなわけで。統一試験やカレッジどころか、僕はこの世界に存在を認められていないところから始まったんだ」
 エデン・ロストをコールドスリープで生き延びていたアルマースは、この世界では既に死亡したこととなっていた。そして当然、ジルコニアという人物は、昔の日本国でいう戸籍のようなものには登録されるはずがない。
「初めこそ、僕を起こし、新しい生を与えてくれた研究所で、被験者として世話になりつつ、医学や保全生物学を学んだ。でもそれからは、もう実力で切り抜けるしかない」
 手の拘束を解かれる。すっかり冷めた紅茶を口に運ぶと、香りよりも苦い味が強く舌に残った。
「色んな研究室でお世話になったけど、調理だけは苦手だったなぁ。嗅覚は残っているけれど、食事を必要としないこの身体は味覚をほとんど残していないからね」
 無理に飲み干す必要はない、と、ジルは立ち上がってティーセットを片付ける。マカロンだけは残しては勿体無いと、私は慌てて口に詰め込んだ。
「君のそういうところ。若い頃のハルナにそっくりで、本当に可愛らしいな」
「え? ママに?」
 私の前ではそんな姿を見せたことはない。それ以前に、母に可愛らしいという言葉は全く似つかわしかはないと思う。実子の私から見ても、完全に格好良い方向に振り切れた女性なのだ。
「これでやっと最初の質問に戻ってきたね。僕が君の両親に出会ったのは、二十年と少し前。カレッジで同学年だった彼らが、同じ植物学の研究所に配属になった年。僕もそれまでに培ったコネを利用してその研究所に入った年と同じだったんだ」
「じゃあ同期になるんだ」
「そう。彼らには、第一区のカレッジを卒業してここに配属になった、と、しばらくの間偽って過ごしていたからね。年が近い仲間として、とても仲良くしてもらったよ」
 それでジルは、両親と仲が良いのか。十九才で時が止まっているジルの姿では、どれだけ頭の切れる父や母でも、普通に過ごす分には自分よりずっと年上だなんて思いもしないだろう。
「そして何年か経って。ハルナはミナトの子を身籠り君が生まれた。その頃にはミナトに僕の正体がバレていたね。でも、それでよかったんだ。意気投合した彼らには、かなり僕の計画に協力してもらったから」
 私が生まれた頃から、両親はジルの計画に協力している。……それはつまり、
「私がジルの研究所に入るのって」
「もうそのときから決まっていたんだよ」
「あのカレッジでの茶番は何だったのよ……」
 私は顔を手で覆って天井を仰いだ。知らないところで、生まれたときから、私の進路は決まっていたなんて。
 道理で父も、私が西暦時代のことに関心を持つことに賛同し続けたわけだ。
「あー……」
 行き場のない感情に、思わず呻く。ジルと二人きりの空間が嫌だ。これ以上のことを一人で受け止められる気がしない。
「休憩にしましょ。頭が、胸がパンクする」
 私は自分から無理矢理にそのパンドラの箱をこじ開けておきかながら。思いの外たくさん溢れ出して手に負えなくなったモノたちを、再びその中に、ぎゅうぎゅうに詰め込んで蓋をした。

 ジルは自分の机に戻ると、何件もメッセージを書いては送信し、そして私が見ても到底意味のわからない数式を眺めては訂正する、といった行動を繰り返していた。
 対する私はというと、持ってきた本を開いてはいるものの、頭に一切残らない。文字が頭の中をすり抜けてゆく。情景が脳裏に浮かび上がらないのだ。
 ため息をついて本を閉じる。ジルの話はそれほど衝撃的なものだった。
「内緒にされるより、全てを知った方が良かったんだろう?」
 振り向いたジルの問いに対する答えはイエスだが、自分の中で整理がつくにはもう少し時間が必要だった。
 そうしていると唐突に、扉を勢いよく開け放つ音が響く。
「メッセージ、既読にはなったけど返事がないなと思っていたら」
 ジルの声は呑気で、トーヤは何故かとても焦っているように見えた。
「これでも一応、大切な幼馴染だからね」
「最初はただの元同級生と言っていた気がするんだけどなぁ」
 そんな軽口を無視して、突然現れたトーヤは私の元へ近づき、手を取って立ち上がらせた。
 そのときにふわりと慣れ親しんだ匂いを感じて、私は衝動的にその身体に抱きつく。規則的で早く脈打つ鼓動を感じることが出来、酷く安心する。
「えっ? マユ?」
 トーヤのうろたえる声が聞こえるけれど、そんなものは完全に無視をして、その胸にぐりぐりと顔を押し付ける。温かく、生きている証を感じて、私の心は次第に落ち着きを取り戻していった。
「前々から薄々気付いていたけどね。トーヤ」
「俺は彼女の調子が良くないから迎えにくる旨のメッセージを君から受けて、ここに来た。昔から身体だけは馬鹿みたいに丈夫だったんだ。調子が悪いなんて聞くと、心配するのが当たり前だろう」
「トーヤの行動は何もおかしくないよ。でも、君の顔面は真っ赤だ」
 そんなに慌てて走ってきたのかな? それとも。と続けるジルの言葉を遮るように、私の身体を引き剥がす。
「マユ? 一体何があったんだ? 身体の具合は?」
 見上げると確かにジルの言う通り、トーヤの顔は紅潮していた。いつも涼しい顔をしている彼の、こんな表情は見たことがない。
「ジルの、昔の話を一通り聞いて、ちょっと受け止めるのがしんどくなっただけ。ごめん、心配かけて」
 ジルが私の様子を見かねてトーヤを呼んでくれたのだろう。トーヤに悪いことをしてしまったと思い、謝る。
「全く知らない者が、彼の凄惨な生い立ちを一度に聞いたら……、辛いだろうね。君は自分のことには無頓着だが、人に対する思いやりには溢れていることだし。謝る必要はない」
 その凄惨な生い立ちを話し合えた当の本人が、相も変わらず飄々としている。鋼の精神力の持ち主なのか、もしくは感情が欠落でもしていなければ、こんな風にはなかなか振る舞えない。
「聞かれるがままに答えただけなんだけど、やはり少しは感情が引き摺られてしまう話だよね」
「でも、知ることができてよかった。こっちこそ、辛いことを思い出させてごめんなさい」
 トーヤに支えられたまま、ジルに謝る。しかし彼は何も感じてない様子でいつもと変わらない綺麗な微笑みを浮かべた。
「僕は何も感じないから、平気だよ。でも君は、今日はもうおかえり。トーヤも折角迎えに来てくれたことだしね」
 そう言ってジルはトーヤを見る。トーヤはその視線に深く頷いて、私の手を取った。
「さぁ、帰るよ」
 もうほとんどいつもと同じぐらいまで落ち着いていて、手を繋ぐ必要はないと伝えようとしたのだが、思いの外それは強く力が込められていて、拒否をすることも躊躇われた。そのまま、大人しくトーヤに手を引かれて扉に向かう。
「ジル。……ありがとう、また来るわ」
「いつでもおいで。待っているから」
 柔和な微笑みは人形のように綺麗だったが、それが返って怖さを感じさせた。
 トーヤに送られて自宅に着いた頃には、既に日が傾きかけていた。地下世界を照らす人工太陽も、夜になれば西へと沈んでゆくように作られているのだ。
 脱ぎ捨てられた白衣は椅子に投げられ、ファスナーを下ろした紺色のスカートはそのまま床に丸い形状で落ちた。それを跨いで部屋の奥のベッドに向かう。
 朝起きたときに脱いでそのままにしてあった黒のショートパンツをとりあえず履くと、ワイシャツに皺がつくのも気にせず布団に飛び込んだ。
 頭の中がぐちゃぐちゃなる感覚は、久しぶりのものだった。まだ統一試験に合格する前。小さな脳味噌に、両親から膨大な知識を与えられ、それをどうにか自分のものにしようとするものの、たびたびパンクしていたあの頃の感覚とよく似ている。
 枕を抱き締めて、ベッドの上でごろんごろんと何度も転がる。頑張れ私の脳味噌。明日までにはいつもの私に戻れるように。
 しかし、そんなときに限って、滅多に鳴らない部屋のチャイムが鳴る。側に浮かび上がったディスプレイに映し出された外の光景に、小さく息を飲んだ。
 アサヒ君には、気をつけてほしいの。
 母の声が頭の中に響く。どうしてそんなことを言うのか、どれだけ考えても、理由がわからなかった。
 薄いブルーのワイシャツ、紺色のスラックス、そして長い白衣を羽織った姿は、カレッジの在学生である証。
「どうしたの? こんな時間に」
 アサヒには気をつけるんだ、絶対に気を許してはならない。
 トーヤもそう言っていたけど、やはり理由は教えてくれていない。どうしてみんなしてアサヒを悪者のように言うのだろう。
「マユのことが、ずっと気になっていた。あの日、ドクター・ジルに抱えられて姿を消して以来、カレッジにも顔を出していないだろう?」
 ドアを開けると安堵した表情になったアサヒ。私はどうしても、彼のことを悪者とは思えない。
「上がってもいいか? あの後何があったのか教えてほしい」
「脱ぎ散らかしてて酷い有様でもよければ」
 大丈夫。もし何か起こりそうになったとしても、彼は力で私に勝つことはできないのだ。
 部屋に入るなり、アサヒは呆れ返った目で私を見て、呆れ返ったように笑う。
「このスカートの脱ぎ方は……いや、突然来た俺が悪いんだ。わかっている。でも、本当に酷いな」
「だから言ったでしょ! 酷い有様だって」
 しばらく笑っていたアサヒが、笑いながらも鋭く見透かすように私を見る。
「久しぶりだな。こんなに頭がぐちゃぐちゃになっているお前を見るのは」
「あー……そうだよね。アサヒは何度も見てきてるか」
 私は再び、ベッドに飛び込むと枕に顔を埋めた。
 同じ幼馴染でも、トーヤと共に過ごしたのは合計で六年。アサヒと過ごした歳月はその倍以上なのだ。
「統一試験までの八年ちょっとと、カレッジで四年か。さすがにそれだけ一緒にいたら、些細な機微でも気がつくようになる」
「アサヒは何故か、アベルの子たちとはあまり一緒に居なかったもんね」
 人工子宮で生まれた三十余人の子どもたちは、施設で共同生活を送っていた。最高の教育を受け、衣食住には不便せず、満たされた生活を送っていたと、以前にシオリから聞いたことがある。
「施設の自由時間に探検していたら、ミナトさんに見つかって、そしてマユと出会った。昨日のことのように覚えている」
 居住するための建物とは区別された、研究所の立ち並ぶエリアに、彼らの住まう施設は作られていた。よって、自分たち以外には、近くに幼い子どもは住んでいない。四歳のアサヒが父に連れられて私と出会ったとき、心底嬉しそうな顔をしていたのを、私も忘れることはできない。
「自分は普通の子どもではない、選ばれし神の子だ、と施設では刷り込みのように教えられていたからな。自分たち以外の、年の近い、普通の子どもに出会えたのが嬉しかったんだ」
「最先端技術を使って生まれた子に対しては、古典的というか宗教的な教え方よね。神の子って」
「……そうだな。研究室というより、あれは一つの宗教だ」
 アサヒが、宗教なんて。到底この世界を生きる為に必要のないことを口にするのは初めてで、枕から顔を上げて彼の顔を見つめる。
「比較対象がない不確かなものを、ただひたすらに信じるのは、幼い自分でも難しかった。だから、お前に会えたことで、俺は自分の考えや信念を確固たるものにできた」
「ただ施設が退屈だから、抜け出して遊びに来てるんだと思っていたのに。そんなややこしいことを考えてたのねぇ」
 アサヒの返事はない。私も黙って、珍しいけれどすっかり見慣れた赤茶色の目を見つめる。
「その信念も、どうやら貫き通せそうにないがな」
 きっといつか、我々人類は地上の世界を取り戻す。
 いくら壊れて、滅んでしまっていても、俺はこの星を捨てることを許さない。
 それは、彼が幼い頃から抱いていた夢。実現は難しいとわかっていながらも、今まで諦めることなく学を修めてきた。その信念が揺らぐ理由は一つしか思い浮かばない。
「……マユ。起きて、座ってくれないか?」
 掛ける言葉が見つからず黙っていた私に、アサヒは全く関係のないことを言う。首を傾げつつも、その言葉に導かれるがまま、足を下ろしてベッドに腰掛けた。
 ふわり。羽のように軽く抱き締められる。少し癖のある赤毛が頬を掠めてむず痒い。
「俺はずっと、マユのことが好きだった。だからずっと会いに行っていたし、カレッジだって同学年になれるように努力していた。だが、やはり言葉にしないと伝わらないな」
 私と同じで、学問にしが興味がないと思っていた彼の、突然の告白に心底驚いて、私は身動きが取れなくなる。
 私にはまだ、恋が何かすらわからないのに。それがわからなくて困っているのに。
 明らかに意図的で、挑発的に口付けの真似事をしてきたジルのときとは違う状況だった。私はその抱擁を受け入れることも拒否することもせず、ひたすら固まり続けている。
 かける言葉も見つからず、しばらく黙って大人しくしていると、明らかに不機嫌な低い声が耳元に響いた。
「……なんだ? この匂いは。男物の整髪料か?」
「整髪料の匂い?」
「ああ。俺はこれを知っている。……まさか、あいつ。トーヤか?」
 トーヤからそんな、特徴的な匂いがしていただろうか。確かに彼は身だしなみに気を遣っていて、髪も小綺麗に整えている。
「何故今になってあいつが出てくるんだ」
「変な勘違いしないで。トーヤは、ジルの研究所に先に配属になっていたの。私だって再会したときは驚いたんだから」
「だが、研究所が同じだからといって、こんなに匂いがうつるほど近づくようなことはないだろう?」
 私の肩に顔を埋めたまま、アサヒは抱き締める腕の力を僅かに強めた。
「アサヒも気付いた通り、今日は精神的にしんどいことがあったの。それで、心を落ち着けようとして、……思わず、その、……トーヤに抱きついたのよ」
 恋愛はよくわからないけれど、アサヒは恐らく、トーヤに嫉妬をしている。その気持ちを煽らないように、出来るだけオブラートに包んで伝えなければならないと思ったのだが、良い言い訳も思い浮かばず、結局ありのままを伝える。
 そして、予想していた通り、アサヒはそれを聞いて更に機嫌を損ねた。
「相手はいい年をした男なのに、どうしてそんなことができるんだ!」
「今のアサヒだって同じことしてるじゃない!」
「俺はずっと前から、十年以上前からお前のことが好きだった! 好きな人を抱き締めたいと思うのは普通の感情だろう? それなら、マユは? マユはあいつのことが好きなのかよ!」
 何も返すことができなかった。
 何なの? この世界は、もう既に愛や恋という概念が失われてしまったと思っていたのに。そしてアサヒならきっと、それは勉学に不必要なものと切り捨てる。それが私の知っている幼馴染のアサヒなのに。
 まるで、恋愛のわからない私がおかしいみたいじゃない。
「ねぇ。今日のアサヒ、変だよ。机上の学問が何より大切で、恋愛感情なんて不必要なものだから興味がない。それが私の知ってるアサヒなのに」
 沈黙が痛い。色々なことが起こりすぎて、今にも脳味噌が破裂してしまいそうだ。
「……仕方がないだろう! そうでもしないと、お前には追いつけないんだ。少しでも気を抜くと、すぐに手の届かないところに行ってしまう。アベルの愛し子に与えられた遺伝子は確かに優れたものかもしれない。だが、頭の優劣はそれだけでは決まらないんだ!」
 そう言って身体を離すアサヒは、今まで見たことがない程、痛々しい表情をしていた。
「ずっと夢見ていた。共に試験に合格し、共にカレッジに通い、そしてブレインになる。そのために、施設での授業と、ハルナさんからの指導の両方を必死で受けていたんだ。それなのに」
 アサヒはアベルの愛し子だから。優れた遺伝子を受け継いでいるから。私と同じでそれほど努力しなくとも簡単に学問を吸収することができる、なんて。そんなことはなかったのだ。
「愛や恋は過去のものになったと言うが、それは所詮上の人間が決めただけのことだ。人間の感情はそんな簡単にはできていない。俺はマユのことが好きだから、今まで努力し続けることができた」
 恋愛という概念は、私たちの中から消えてしまったのではない。
 私たちは幼い頃から、そういう風に教育されてきただけ。
 それなら私も、今から異性と接するたびに意識していれば、自然とその感情が湧いてくるのだろうか。
「でも、……ごめんなさい。私はまだ、愛や恋が何なのか、わからない」
「わかってる。あいつに抱きついたっていうのも、他意はないんだろう?」
「そう。温かくて気持ちがいいな、としか思わなかった。今、アサヒに抱き締められたときも、なんだか安心するなぁ、って。ただ、それだけなの」
 アサヒには悪いことをしたと思い、俯くと、上の方から長いため息が聞こえる。
「しかしあいつ。せっかく俺とマユが二人で勉強していた場所に突然現れ、カレッジでもマユと一年間一緒に過ごしたかと思えば、今度は同じ研究所だって?」
 ますます許せないな。トーヤも、ノアも。
 苦虫を噛み潰すような、小さな小さな呟きは、聞き間違いではなかったと思う。
 アサヒは、ノアの名を知っている?
 ノアの成そうとしている計画も、知っているの?
「アサヒ、あの……」
 私の声を遮るように、また距離が詰められた。頭を胸に抱かれたかと思うと、首の後ろでパチンと小さな金具のロックが掛かったような音がした。
「もう、俺には必要のないものだ。最後まで諦めはしないつもりだが、さすがに結果は覆らないだろう」
 細いステンレスの鎖に、小さな赤い石の付いたペンダントだった。ルビーより紅いそれは、アサヒの髪の色によく似ている。
「首元から時々見えていたチェーンは、これだったのね。出会ったときからずっと、肌身離さず付けていた大切な物じゃないの?」
「いや、もういいんだ。それより、思ったより長居をしてしまったな。さすがに女子生徒の部屋に遅くまで居るのを見つかるのは避けたい。そろそろ帰ろう」
 そう言ってアサヒは立ち上がる。
「これでよかったんだ。マユに想いを告げ、きっぱりと断られることで、俺は前へと進める。そんな鎖に縋る必要は、もう、ない」
 最後に私を見るその瞳は、とても悲しそうな色をしていた。私はその場から動くことができなくて、部屋から去っていくアサヒの背中を見つめることしかできない。
 アサヒ君には、気をつけてほしいの。
 私の頭の中には、母の声がいつまでもリフレインしていて、その日もまた、なかなか寝付くことができなかった。