白い花が精一杯に花弁を広げていた。これが、満開という状態なのだろう。
でも、どれだけ大きく咲いていても、甘い香りを漂わせていても、地上エリアに花粉媒介者となりうる昆虫は生息していない。
受粉ができなければ、種を残すことは叶わないのだ。遺伝子に導かれるがまま、虫たちに訴えかけるような香りを放っても、それは何の意味も成さない。
「だからって、私の手で受粉をしたところで、何にもならない。だから、放っておくのが一番なのよね」
この花たちが実を結んだところで、私はそれを見ることはできない。
その頃には、私たち人類は、私たちの第二の故郷へ向けて、長い旅に出立しているはずなのだから。
ジルの計画を聞いてから、1ヶ月弱ほど経っていた。私は基本的にあの西暦時代を模した部屋にいて、筆記の練習をしたり、本を読んで過ごしている。
そんな安穏とした生活を私が送っている間にも、この星の運命はじわりじわりと変わりつつあった。ジルが率いる研究チーム・ノアによる星間移民計画は、水面下で着実に進んでいたのである。知らなかったのはカレッジの生徒と一般人で、ブレインの中ではその計画の存在は密やかに広く知れ渡っていたらしい。
「部屋にいないとなると、やはりここだね」
暖かな日差しの下、白煉瓦の東屋で読書をしていると、トーヤが現れた。その手には、何かの金属で作られた取っ手付きの鞄がある。
「一応私の役割は、物語を読むことと決まったから。どうせなら西暦の世界を感じながら読書に耽りたいのよね。今日は天気も良かったから」
私は毎日飽きることなく、文学作品を読み漁っていた。それがジルから指示された私の役割だったのだ。
「君以上に文学に長けたブレインは、僕の研究所にはいないんだよ。だから君には、文学の先駆者になってほしい。文学は、人間が人間らしく生きてゆく上で、そして人間の生活を豊かにする上で、欠かすことのできないものだ」
他の分野の本も読み、あらゆる知識を蓄えたいと思っていたのだが、君にしかできないこと、と言われてしまうと、それに応えたくなってしまう。それに、ノアでの居場所が出来たみたいで、嬉しかった。
普段なら、廃棄物置き場で目ぼしい物を物色して来るのだが、今は違う。ジルが各地の居住区で個人的に集めていた本を、山のように手渡されたのだ。集めたものの、読む暇がなかったから、君に読んでほしい、と。
「こんなことが人類のためになるなんて、思ってもみなかった。無駄なことだって、今まで散々馬鹿にされてきたのに」
ジルの部屋で、沢山のガラクタに囲まれながら読書に耽っていると、時折トーヤがやって来て、紅茶を入れてくれる。今日は気分を変えようと地上エリアに来ていたのだが、彼はここに追って来てまでお茶を振る舞うつもりなのだろうか。
じっとそれを見ていると、金属製の箱から出てきたのは筒状のボトルとカップ、それから食事として日頃人々が摂っている、栄養ブロックだった。
「読書を楽しむのは素晴らしいことだ。しかし休憩を挟まないと頭の回転も悪くなる。稀代の天才と謳われる君でも、そこは他者と変わらないのでは?」
「うげ。いつものブロック……。ほんと、トーヤって昔から厭味な性格してるよね」
トーヤが試験をパスし、カレッジに入学する前のことを思い出す。私とアサヒとトーヤは幼馴染で、いつも私の母が勉強を教えてくれていた。今思えば、超一流のブレインである母に直接教わることができたのは、二人にとって、特にトーヤにとってはとてもラッキーなことだったと思う。
「心外だな。この俺が、こうして気に掛けているんだ。むしろ感謝するべきだろう」
彼のこの当たりの強さは、気を許している証拠だと私は知っている。口調こそきついが、その心根は優しくて思いやりに溢れていることを、私はずっと昔から知っているのだ。
「悔しいが、これでも君には感謝しているんだ。俺を、ドクター・ハルナと出会わせてくれたこと。あのとき君が俺に声を掛けていなければ、俺はブレインにはなれなかっただろうからね」
「懐かしいわね。もう、十二年ぐらい前になるのかな」
トーヤと私が初めて出会ったのは、母に連れられて訪れた、医療センターの中庭だった。
母の仕事に付き合って、頻繁に医療センターを訪れていたのは、私が五歳ぐらいの頃。幾度か出向いているうちに、自分より少し年上の黒髪の少年が一人、いつもセンターの中庭にいることに気が付く。ベンチに腰掛け、モニター相手に子どもらしからぬ渋い顔をしている彼が気になって、私はある日、声を掛けた。
「ねぇ、どうしていつもここにいるの? 病気なら、早く中に入らないといけないわ。外気は病に侵された身体を更に蝕むって、ママが言ってたの」
当時から怖いもの知らずだった私の彼への第一声は、こんな感じだったと思う。五歳児らしくない語彙と言い回しなのは両親による英才教育の賜物で、このとき既に、多くの文献や論文を読んでいたからだ。
少年は私と、その後ろを慌てて追いかけてくる母を一瞥して、冷たい言葉を放つ。
「何も知らないくせに、偉そうな口を叩くんじゃないよ」
「偉そう……?」
善意で、正しいことを口にしただけなのに。どうしてそんなことを言われなければならないのだろう。彼は、首を傾げる私を心底嫌なものを見るような目で睨みつける。
「生まれながらにして全てを持っている者が、持たない者に対する哀れみか? 俺はここで、試験のための勉強をしているだけだ」
口の立つ私がこれ以上の言葉を発すると喧嘩になりかねない。そう察した母が、白衣を翻して私と少年の間に入る。そして彼のコンピュータの画面を覗き込むと、とても嬉しそうな笑顔を見せた。
「あなた、ここまで独学でよくやってきたわね。その努力、素晴らしいわ!」
「その言葉は憐れみですか? そんなに俺は可哀想に見えるんですね」
そう言って少年は、ため息を吐いて項垂れた。その頭に、母が手のひらを乗せる。
「君は言ったわね。持たない者への哀れみか、と。確かにそうかもしれない。否定はしないわ。でも、noblesse obligeの精神を、わたしは大事にしたいの」
このときの、母の綺麗なフランス語の発音を、私は今でも鮮明に覚えている。もちろん当時は意味もわからず、少年と二人で首を傾げていた。
そんな母を、只者ではないと察した少年が怯んでいる隙に、彼の端末に己の端末をかざしてブレインとして登録されている情報を読み込ませる。
「わたしは、ハルナ・ハヤセ。ドクター・ハヤセと言う名前には聞き覚えがあるんじゃないかしら」
母が名乗ると、少年は目を見開く。
「ドクター・ハヤセって……あの有名な?」
「うーん、残念。有名な方は、わたしの夫の方ね。わたしはその妻で、ドクター・ハルナと呼ばれているわ。この医療センターの再現室に花を運んで管理している、お花屋さんよ」
「なるほど。あの花々は、あなたが」
基本的に療養中の患者しか入ることのできない『再現室』を、私はその当時、まだ見たことがなかった。母の仕事中は別室で自習をして過ごすよう言いつけられていたからである。しかし、この少年は再現室の内部を知っているらしい。
「それを知っているということは、あなたのご家族も、不適合者なのね」
「……ひと月前、母親に症状が出て、それからここに入院した。父親は俺が生まれてすぐ、同じく不適合で、死んでしまった」
初めは大人びていて、そして棘のある口調だった少年が、会話を重ねるうちに幼さを取り戻してゆく。私よりは少し年上だが、それでもまだこんな年齢で、両親共に身近に居なくなってしまったら、寂しいに決まっている。
「俺は、ブレインになって、母親を助けたいんだ。今までは母親がコンピューターを使って、どうにか勉強を教えてくれていた。でも、これからは、どうしたらいいのかわからない……!」
そう言うと、糸が切れたかのように、少年は膝を折って崩れた。母はゆっくりと歩み寄り、震えるその小さな肩を抱き締める。
「よく頑張ったわね。もう大丈夫よ」
そうして、母は少年の手を取ったのだった。
「わたしがあなたを、ブレインにしてみせるわ。こんな努力家と出会えて、わたしは本当に嬉しいの。そして、知識を持つ者が、後世を担う子どもたちに知識を引き継ぐのは当然の責務。それが、noblesse oblige」
そして五年後。その少年、トーヤは無事に試験をパスし、カレッジへと入学する。