移動通路に身体を預け、よろよろと力なくその部屋に入る。時刻は昨日と同じ、午後三時すぎ。今日はどうやら、この建物に他の研究員はいないようだ。建物自体がしんと静まり返っている。
「ねぇジル。あなたの代表的な専攻は、医学よね。ということは、あなたは医師なのよね?」
 そうだけど? と振り返ったジルは、入り口の扉にもたれかかる私の顔を見るや慌てて駆け寄ってきた。
「今日は来ないのかと思ったら、そんな真っ青な顔をして。何があったんだい?」
 彼は軽々と私を抱き上げると、ソファーに仰向けになるように降ろす。デスクの引き出しから聴診器を取り出して首から掛ける仕草は慣れたもので、医師の経験があることが窺えた。
「どんな症状が、いつから出ている?」
「昨日、部屋に帰って暫く経ってから。お腹が気持ち悪いというか、鳩尾の辺りが重たい感じがずっと続いていて、朝まで眠れなかったの」
「あー……」
 私に医学の知識はない。カレッジでは選択科目として学ぶこともできたが、興味もなかったため一切触れてこなかった。それに、母が言うには、私の身体は幼い頃から特別丈夫だったらしい。体調不良というものは本当に無縁だった。
「診察するまでもないけど、一応しておく? 今、この建物には僕と君しかいなくて、診察の為にはやっぱり心音を聞いたりするわけで。それでも構わないなら……の話だけど」
「診察に何か問題があるの? ああ、邪魔なら脱ぐわよ」
 横になっていると余計に苦しく、喉が焼けるように熱くなる感覚がして、私はゆっくり起き上がる。着ている白衣に手を掛けたが、それはジルの手によって静止された。何やら、頭を抱えてぶつぶつと呟いている。
「そうか、こういう風に育ってしまうのか。あの政策の弊害……、いざ目の当たりにするとこれはなかなか……」
「ジル?」
「ああ、薬を取ってこよう。ある程度の薬は常備してあるからね。少し待っていて」
 重く苦しい臓器は、場所で考えるなら胃か、その背中側にある肝臓か。昨日何か変わったことをしたとすれば、ここでとても美味しいお菓子を食べた、それぐらいしか心当たりはない。
 何度も生唾を飲み込みながら、気休めに腹部を押さえて背中を丸める。
「まさか、昨日のお菓子が……?」
「その通りだよ」
 戻ってきたジルは、目の前のテーブルに白い薬包と水の入ったグラスを置いた。
「お菓子って、食べたらこんな風に苦しくなるものなの?」
「量とタイミングによるね。君はただの消化不良を起こしているだけだよ」
「消化不良?」
 苦い粉薬を水で流し込む。飲んでも飲んでも、喉に苦味が張りついて取れない。
「菓子には油脂や糖類が多量に含まれているからね。食べ慣れないそれを、君は一度に沢山摂取した。つまり君は、消化不良、胃酸過多による胃もたれや胸焼けと呼ばれる症状に苦しんでいるというわけだ」
 やっぱり私は食べることが苦手だと、この身を持って思い知った。美味しくて貴重な経験だったけれど、後々こんなに苦しむことがわかっているのなら、もう何も食べなくて構わない。
「驚くほど頭が良いのか、驚くほどポンコツなのか。僕は君のことをまだまだ知らなければならないな」
 ポンコツって。
間抜けだとかそういう類のことを言われるのは、もちろん人生で初めてだった。本当に上の方に位置するブレインからすれば、私なんかただの学生に過ぎないのはわかる。それほどまでに、私は期待を裏切るような人材なのだろうか。
「ねえ。私って、そんなにだめなの? ノアに引き入れたこと、後悔しているの?」
 ハオもシェンも、そしてジルも。私の知識を褒め、歓迎してくれたように見えた。だから私は今まで通り、好奇心の赴くままに、できる限りの知識を蓄えたいと思っていたのに。
「君の知識は誰もが認める素晴らしいものだと、何度も言っているだろう? ポンコツというのは、勉強以外のことは抜けていることが多いからそう表現しただけ。別にそれも悪い意味じゃないよ。むしろ可愛らしく好ましいこと」
「勉強以外のこと、なんて。この世界では求められていないから、考えたこともなかったわ。……可愛いらしいとか、好ましいというのも、よくわからない」
 幼い子どもを見て可愛いと感じることはできるし、ジルのような整った顔立ちを美しいと感じることもできる。でも、どこか足りない部分を可愛いと感じることは、理解できなかった。
「きっとこれは、君が生まれた時代と、環境のせいだから、気にすることはないよ。ここ十五年程の間に、ますますこの世界は酷いものになってじったからねぇ。
「十五年前に起こった世界的に大きな出来事といえば……、婚姻と妊娠出産が撤廃されたこと?」
「よくわかったね」
 十五年前に決まったこの制度は、当時反対意見も多く、揉めに揉めた上での成立、施行だったらしい。その制度が、ますますこの世界を酷くしたとジルは考えているようだった。
「私は十七年前に生まれたアベルの愛し子たちと同世代だから、その制度がどれだけ優れたものなのかをよく知ってるつもり。だから、酷いものとは思えないんだけど……」
「そうか。君はこの制度に賛成しているんだね」
 物心ついたときには既に決定されていた、世界共通の常識だった。そしてそれは、確かに理にかなっていると、私は認識している。
 妊娠及び出産は、女性の身体に大きな負担を掛ける。これは紛れもない事実だ。それを機械に託すことができれば、女性の科学者が活躍する機会は明らかに増大するだろう。実際、研究を優先するために子を作らないブレインも多く、生き残った人類の数は年々減る一方だった。
「ジルは、あの政策の反対派だったの?」
「僕が、というより、ノア全体が反対派だね。チャイルドでは、エデン・ロストが起こる前の、人間の本来あるべき姿での生活を行うことになるんだから」
 人間の、本来あるべき姿での生活。
 今の世界は、機械文明によって人間の行動の多くが奪われてしまった。それについては、私も良しとはしていない。私もずっと、人間の本来の生活様式を求めていたはずなのに、この政策に関しては不思議と何の疑問も抱いたことはなかった。
「やっぱり私はまだまだ子どもなんだろうな。結婚や妊娠なんて、自分とは関係のないものだと思っていたから、きっと何も感じなかったんだわ。本当に都合が良いところしか見えていなかったのね」
「同級生が優秀な子ばかりという、アベルの功績をずっと身近で見てきたんだ。良いところに目が行くのは当然のことだよ」
 黙って、頷く。
私は、ノアの計画が無事に成功したならば、私は誰かと恋をして、子どもをもうけることになる……かもしれない。必ずというわけではないが、ある程度の人間が子を残さなければ、せっかく新しい世界に辿り着いても人口は減る一方で、いずれは絶滅してしまう。
「でも、今更、恋なんて」
 西暦時代の物語では頻繁にテーマとして出てくるが、どれだけ読んでもそれがどんな感覚なのかわからない。知らず知らずのうちに、不必要なものと見做し、理解しようとしていなかったのかもしれない。
「でもまぁ。最悪、恋なんてしなくとも、子どもぐらい、」
「口を慎むんだ。それ以上は、ポンコツを通り越して、ただの馬鹿だ」
 初めて聞く、厳しい口調だった。私の、半分冗談の混じった発言に対して怒っているのがわかる。
 ジルは立ち上がると、私が座っているソファーへと歩み寄って来る。
「今みたいな発言は、いくら冗談でも言ってはならない。ミナトとハルナは、本当に勉強しか教えてくれなかったのかい?」
 両腕を掴まれて、そのままソファーに押し倒される。対抗しようと少し力を込めてみたけれど、拘束された手はびくともしなかった。
「ううん。もちろん、たくさんのことを教えてくれたわ。だけど私は、パパがママを愛してるという気持ちがわからない。私だって、パパとママが大好きだけど、その感情とは違うんでしょう? でも、何が違うのか考えても考えても、わからないのよ」
 ジルは特に何かをするわけでもなく、そのまま私のことを見下ろしていた。私の言葉を聞いて暫く経ってから、力が抜けたように首を垂らした。細い金色の髪が耳や首に当たって擽ったい。でも笑い転げるわけにはいかないと思い、その感触から逃げるために身を捩る。
「僕が怖いの?」
 抵抗ととられたのか、ジルが顔を上げることによって私は擽ったさから解放された。
「怖がられてしまったら……困るな。僕は君に、恋愛感情とは何か、教える必要があるのに」
 先程の厳しい口調と、突然押し倒されたことには驚いたが、怖いとは感じなかった。ジルが厳しい口調だったのは一度きりで、後はいつも通りの柔らかい言葉だ。
「ううん、大丈夫。髪が耳とか首に触れて、くすぐったかっただけ」
「……成程。触覚は正常」
「それより、本当に私に恋愛を教えてくれるの? あなたみたいな優秀なブレインに教えてもらえたら、何だか理解できそうな気がするわ」
 ずっと、関係ない、知らない、わからないと思っていたことを、理解できるのは嬉しい。
 純粋に知識が増えることに喜んで思わず笑顔になると、どうしてか、ジルはまた項垂れた。
「や、擽ったいって言ったばかりっ」
 そのとき部屋の扉が開く音と、一瞬遅れて、何か軽い物が床に転がる音がした。入ってきた人物が誰なのかは、押し倒されている私からは確認することができない。そして、その人物も黙ったままだ。
 金髪をかき上げて、ジルは身体を起こすと、床に転がったものを見る。
「へぇ。それ、探すの大変だっただろう?」
「……君たちは、ここをどこだと思っているのかな?」
 全く噛み合っていない会話。部屋に入ってきたのはトーヤだと声でわかり、心なしかその声は少し震えているように聞こえる。
「何の事情があるのかは知らないが、今すぐ離れるんだ。ここは皆が使用している研究所だよ!」
 気怠そうにジルが私から離れてゆく。トーヤを見ると、幼い頃によく見た、最高に機嫌が悪いときの顔をしている。床に転がっていた細い棒状の物を拾い上げ、破損の有無を確認すると、仏頂面のままそれを私に差し出した。
「探すのに二日かかった、君用の万年筆だ。安価なプラスチック製ではないから、落としたぐらいでは壊れないはずだよ」
 黒に、深い青色がマーブル模様を描いている、軸が太いペンだった。
 よく見るとトーヤは、彼が好んで着ているシャツとスラックスではなく、薄汚れた作業着を着ていた。この上に防護服を着て、汚染された西暦時代の物が放置されている廃棄物置き場から、この万年筆を探してきたのだろう。
「へぇ。そんな上等なもの、よく見つけてきたね。素材はエボナイトか。高級品だよ」
 何もかもが一緒くたになって積まれている塵の山からこれを探し、素手で触れられるよう洗浄をして、更に実際に使用できるよう状態を整えてから、ここへ届けてくれた。着替えをしていないのも、きっと少しでも早く手渡すため。
「ありがとうトーヤ。大事にする」
「大事にするのではなく、毎日それを使って筆記の練習に励んでもらいたいね」
「あ、そうよね……」
 使うのが勿体無い気持ちと、壊してしまうのが怖いという気持ちが合わさって、胃がさらに重くなった。
「しかし、先程から具合が良くないようだけど、大丈夫なのかい?」
「ジルに診てもらったら、ただの消化不良だって。聴診器を持つ姿が思っていた以上に様になっていて、びっくりしちゃった」
 薬を飲んだからか、ここに来たときと比べると随分と楽になった。今日は、医学を専攻していたジルに縋るような気持ちでここはやってきたのだ。
「ジルに、診てもらっただって? 今日、この研究所には君たち二人しかいなかったはず……」
「同年代でも、トーヤはまだマトモか。やっぱり彼女が特別ポンコツなんだろうね」
 そう言ってジルは、薬包を二つ、テーブルに置く。
「わかりやすい原因と症状だったから、診察はしていないよ。しかしトーヤ。彼女は昔からこうなのかい? 何か決定的なものが欠けている気がしてならないんだけど」
「いわゆる天才で、更に自分の知りたいことに関しての努力は惜しまない。逆に、興味のないことに関しては徹底的に無関心。その興味のない事柄に、自分自身が入っているのではないかと俺は分析しているよ」
 ジルからは何度も酷いことを言われている気がした。彼は私のことを、豊富な知識を持っている褒めつつも、出来損ないの部分があると貶めている。
 でも今、トーヤの言葉を聞いて、私はやっと納得できた。興味がないことは知りたいと思わない。だからその分野に関しては無知なんだ。無関心という表現がしっくりくる。
「うん。だから食事にも無関心なんだわ」 
「開き直って言うんじゃないよ。君の主治医として、今日の晩と明日の朝に飲む薬を処方する。必ず食後に飲むこと」
「え」
 こんなに気持ち悪いのだから、固形物を入れると更に悪化しそうだ。食欲は全くなく、しばらくは何も食べずにいようとしたのだが、医師としてそれは許せないものらしい。
「元々食が細く、その割には身体の丈夫な君が消化不良なんて。珍しいこともあるものだね」
「お菓子の食べ過ぎだって」
 ああ、とトーヤは納得して苦笑する。
「昨日、俺抜きで開催したと噂のお茶会か。君も、この世界の食物が苦手なだけで、きちんと調理されたものなら好んで食べることができたんだね」
 それはチャイルドに行ってから大切なことだから、安心したよ。と付け足される。
 私は一度壊れたこの世界が、改めて新しい構造で機能し始めてそれなりに時間が経ってから生まれている。それもかなり恵まれた環境で。それ故に、知らず知らずのうちにこの世界の枠に嵌っていたのかもしれない。
 壊れた世界が嫌いだと言いつつ、抗いつつも、私の感性はこの世界を標準にしてできている。
 ジルの話を聞く限り、そんな気がした。そしてそれは、今後矯正する必要がある。
「きっと昔みたいに色々な料理があれば、私だって食事が好きになるはず。自分のことに無関心なのは……これから意識して直していくわ。そして筆記の勉強もちゃんとする」
 薬を白衣のポケットにしまい、万年筆は大切に両手で握りしめる。そんな私を、二人は驚いたような目で見ていたが、次第に頬を緩める。
「良い心掛けだね。そんな君に、僕からも贈り物を渡そう。君ならもう読んだだろうけど、改めて」
 本が一冊と、ノートが一冊。どちらも変色してしまっているが、十分読めるし、筆記にも問題はない。その本は、見る前から何となく想像のついていた通りのもの。
「……やっぱり、ノアという名前は、方舟神話から取っているのね」
「エデン・ロストという言葉自体、なぜかその本から取っているからね。そしてアベルとカインも。それなら、我らもそれに乗っかってやろうじゃないか」
 地上世界に悪しき考えを持った人間が増えすぎたため、神は地上の文明を滅ぼそうと考えた。
 神は正しい人間、ノアに方舟を造らせることを命じ、ノアとその家族たちは船に乗り込む。
 そうすることで、限られた者たちは神が引き起こした大洪水を耐え抜き、生き残ることができた。
 方舟は宇宙船。残された人類は小さな望みを信じて、その舟の中で新たな世界に到着するのを待つのだ。