雲居の空―短編集―

 生きるのを許されたいのだと、彼女は言っていた。
 誰に許されたいのか、と問えば、分からないと彼女は言う。それなら別に気にしないでいいのに、とは思うけれど、彼女にとってはそんなに簡単な話ではなかったらしい。

 彼女の名前は桜つづる。初めて聞いた時は、どちらが苗字で名前なのか分からなかった。だが、名は人を表す、という言葉の通りに、彼女は桜のようにはらりと散って去っていってしまいそうで、けれど口から零れる言葉は何かを綴っているようだった。
 俺は彼女が笑っているところをあまり見たことが無い。というか、他人と接している所をあまり見たことが無い。必要なことがあれば人と話す、それくらいだ。簡単に言えば窓際の自分の席で休み時間に本を読んでいるようなタイプ、と言えば通じるだろうか。そして、その窓際の席が、彼女の雰囲気によく似合っていた。
 そんな桜と話すようになったのは今から数か月前になる。その時の出会いはとても衝撃的だった。
 その日は雨が降っていた。教室で友人とだべっていた俺は、偶々通りかかった先生に目をつけられ、雑用を押し付けられた。友人とジャンケンをして、負けた俺が荷物運びを頼まれたのだ。
 面倒くさいと愚痴をこぼしながら、何が入っているか分からない、ガチャガチャとガラスの音が鳴る段ボールを抱えて、校舎裏の危険物処理場まで運んだ。
 そこで、俺は違和感に気付いた。
 昼休みや休憩時間には、昼食をとったり授業をすっぽかす生徒が数名居るこの場所でも、放課後には生徒は用事が無くて近寄らない。更に言えば、今は雨が降っている。わざわざ濡れに、汚れにやって来るような物好きは、滅多に存在しないだろう。それなのに、足が、壁の影から見えたのだ。
 恐怖心を感じながらも、俺はその足の主が居るであろう場所に忍び寄った。
 そして、桜つづると出会ったのだ。彼女が手首を真っ赤に染めた姿で。
 手首が真っ赤に染まっていたのは、血だからと即座に理解した。そして、その血は手首から手のひらを伝って、地面にシミを作り上げていた。小さな雨の水たまりと、彼女の血の色が混ざり合って、美術で赤い絵の具を水洗いでキレイの落とすときの、マーブル模様が脳裏に浮かび上がった。
「桜!?」
 思わず声を上げ、彼女の両肩に手を添えれば、彼女はのそりと顔を上げる。
「何?」
 他人の死をも覚悟した俺からすれば、とんだ拍子抜けだった。彼女は、何も問題を無さそうに此方に目を向けた。
 彼女の態度に動揺して、声を掛けたのにどう対応するのが正解なのかも分からなくて、言葉が詰まる。
 えっと、その、としばらく言葉を紡いでから、取りあえずポケットからハンカチを取り出した。
「血、出てるし」
 ハンカチ持っていきなさい、と怒鳴りつけた母さんありがとう。心の中で礼を述べて、彼女の細い手首にしばりつけた。
「……なんでこんなこと」
 自然と口から零れた。ハンカチで結び終えてから、零れた言葉に、彼女は伏せていた顔を上げて、俺をじっとりと見る。
「言ったって分からないよ。君は私じゃないから」
 カッ、と体が熱くなるような気分がした。
 当たり前の事なのに、俺は全く理解できていなかったらしい。言葉が詰まって、何も言い返せなくて、俺は何も言えずにその場から駆け足気味に逃げ去った。
 
 それから暫く。今日も天気は生憎の雨。今日は少々ザアザア降りだ。
 俺の脚は、自然とあの場所へと向かっていた。今日は傘をさして、校舎裏に向かってみれば、案の定、桜つづるはそこに居た。
 彼女は俺の方に目を向ければ、ポケットから何かを取り出して、俺に手渡してきた。
 先日渡した、ハンカチだった。綺麗に洗濯したのか、血のシミなど全く見えなかった。
 礼を述べるのも少しおかしいと思いつつも、ありがとうと言いながら受け取ってポケットに仕舞って。
 ザザザ、ボタボタ、と傘が雨を弾く音が響くだけで、俺達の間に言葉は無くて。
 よく見れば、彼女の手首の傷は増えているようにも見えた。
 あの日から、どうも彼女が気になって目で追ってしまっていた。
 物静かだが、責任感は強いようで、頼まれごとは断らない。とても優しい真面目な良い子。目立つことが苦手な為、あまり思い切った行動はしない。そう、ただのそこら辺に居るような、よく居るような女子高生。
 それが沢山の相手に見せていた姿なのだとしたら、俺の前にだけ現れたこの彼女は、誰なのだろう。
「自分を傷つけるの、止めたら」
 ぽつり、と呟いた言葉に、彼女は相変わらず、のそりと目線をこちらに向ける。
 スカートの裾が雨で濡れている。自分がさしている傘を、彼女に被せるように移動させる。今更だろう。ただの気やすめだろうが、自然とそうしていた。
「何で? 貴方には関係ないんじゃない?」
「それでも、俺はもう、見ちゃったし。関係者になっちゃっただろ」
「ああ、そうか。ごめんね」
 俺の言葉に、彼女は自然と謝罪の言葉を述べた。そうだ、彼女は「良い子」な分類なのだ。だから謝る。だけど、彼女が動く心の原理は恐怖心。そしてその恐怖心より大きな責任感。
「……別に、私は死ぬためにやってるわけじゃないの」
「そうなのか」
「こうしたことをしてる人は大体そうだよ」
「へえ」
 彼女はポケットからカッターを取り出して来て、カチカチと音を立てて刃を伸ばして、それを手首に刃を垂直に立てて、そのままスライドさせた。
 止める隙も与えてくれなかった。
 彼女の白い傷だらけの手首に、新たな赤い線が刻まれた。そして、それと重なる様に、まるでバツ印を作る様にして、重ねて傷を作り上げる。二つの新しい赤い線から、プクリと赤い液体がにじみ出てきてて、そのまま手首を伝って、肘の方へ垂れていくので、彼女は制服を汚さない様にと、手首を地面の方へ向けて下げた。
 水たまりに、また、赤い血が混ざりあった。水たまりに、彼女のバツ印が反射して写っていた。
「私はね、生きるのを許されたくてやってるの」
 生きるのを許されたい、とはいったい何なのだろうか。俺には全く想像のできない様な言葉だった。そんなこと、考えたことも無かったのだ。
「何かをしたいときに、人は許可を得たりするでしょう?」
「うん」
「だから、こうして、生きるのを許してもらってるの」
「誰に?」
「さあ?」
 訳が分からないと思った。
 雨足は相変わらず休まらなくて、ビニール傘が雨を弾く音が、ここまで大きいと感じたことは生まれて初めてだし、雨で濡れてじんわりと肩が塗れる不快感も、ここまで気分が悪いと感じたことは初めてだった。
 それでも、目の前の彼女は、きっと、毎日こんな不快感も気分の悪さも抱えているのかもしれない。
 桜は俺じゃない。彼女に言われた通りで、俺は彼女の事なんて何も分からなくて、だから、彼女がどうしてこうした思考になったのかは分からない。
「俺はさ、桜じゃねえしさ、正直お前の考え方はよく分からない」
「うん」
「生きるのを許してもらうっていう考えは、本当に、よく分からない。許されないと駄目な事ではないと思う」
 だけど、彼女は、生きるのには許可が必要なのだと言う思考なのだろう。
 だから逃げ込む場所は、友人の隣とかの明るい場所ではない。弱った動物というものは、多くの目に晒されることを嫌う。暗く、狭く、だれも入りたがらないような、そんな場所で静かにその時が過ぎるのを待つものだ。

 膝を折って桜と向きあう。何も映そうとしていなかった彼女の目が、ようやく俺の姿を認めて焦点を結んだ。
「桜」
 なるべく穏やかな声でその名を呼び、警戒されないように、ゆっくりと手を伸ばす。逃げられないように、怖がらせないように。手負いの獣に接するように、手首に手を触れた。彼女は反抗することも無く受け入れる。安堵の息が思わず薄く洩れるのが分かった。
 なんとか懐柔の一歩に成功し、続いて再び、受け取ったばかりのハンカチでその手首を縛りつける。
「俺は、許すとかじゃなくて、桜に生きてほしいよ」
 自分でもなぜこの言葉が口から出たのかは分からない。
 彼女が抱えているものを引き出し、慰めてやるのは難しい。なにせ他人に弱音を吐かずに自傷をする不器用さだ。
 だから俺達にできるのは、「桜つづる」の側に寄り添ってやることだけだろう。
 手の甲側に結び目を作ったので、手首を少し捻らせて、彼女の傷跡があるであろう場所に、偶々胸元のポケットに入っていたペンで花丸を書いてみた。
「うわ、形くずれちゃった」
「なんでマイネームペン持ってるの」
「先生にさ、私物に名前を書けって怒られたから持ってたままだった」
「成程。それより、これ油性だよ」
「あ、ヤッベ!」
 花丸を書き終えてから気づいた後の祭りだ。彼女の手首からハンカチが外されたら、それはもう愉快なことになってしまうだろう。
 気付かなかったな、と口を零せば、ふわりと空気が和らいだような気がする。
「ふふ、ありがとう。青葉くん」
 小さく笑いながら、彼女は礼を述べてくれた。
 俺は生まれて初めて、彼女に名前を呼ばれて、なんだか心臓がぐうって締め付けられたような気がして、顔が熱くなった。

「ハンカチ、代わりを返すね」
「……じゃあ、それ、あげる」
「え?」
「俺印の花丸ハンカチ。だから、もう、自分で傷つけんなよ……」
 今までやってきたことを急にやめるのは難しいことだろうし、彼女の考えを否定しちゃうことになるのかもしれない。
「もし、本当に辛くてしんどくなったら、俺の元へ殴り込んできてください。甘んじて、その拳を受け入れるし」
 ぽかんとした表情をしてから、彼女は小さく笑みを浮かべた。
 俺の手が彼女の方へ伸ばされる。彼女はそろそろと手を伸ばし、その小さな手を掴んで引き上げる。振りほどかれると思った指が、予想に反して、そして期待通りにしっかり握り返してきた。
 それがなんだか、ひどく嬉しいと感じた。
 星々の内緒話が聞こえそうなほど静かでも、眠れない夜がある。疲れて心身共にヘトヘトになっても、思うように感情が表に出てきてくれない夜がある。やりたいことやらなきゃいけないことが並行して、やりたいことが出来ない夜がある。
 家に帰って、全てを床に放り捨てて、ベッドの上に寝転がると、自分が起きているのか寝ているのか、境界線があやふやになってしまう夜がある。これが夢なのか現実なのか、分からなくなってしまう夜がある。
「やあやあお疲れ様」
「流石に、これは夢かなあ」
 ベッドに腰かけている私の目の前には、正しく、魔法少女と呼ばれるような格好をしている十二歳くらいの女の子がいた。
 ピンクでフワフワなスカート衣装に、杖先に星がついていてパステルピンクのリボンで結ばれた夢かわなスティック……多分だけれど魔法の杖を持って。室内なのに可愛らしい丸みを帯びたつま先のヒールを履いて。確か、私がとっても幼い頃に「大人になったら何になりたい?」という問いかけに対して、『こうなりたい』と答えてしまうくらいに憧れていた魔法少女ではないだろうか。当然夢が叶うわけもなく、私は大人になってしまったわけだが。そんな魔法少女の格好をした女の子は、こちらに満面の笑みを見せていた。
 流石にこれが現実だったら怖すぎるだろう。不法侵入された、というのも怖いが、私が知らない間に連れ込んだ、という事実だったとしても怖い。どうか夢であってほしい、夢であってくれ。
 額に手を添えていると、目の前の少女は首を傾げて、少し伏せえている私の顔を覗き込んでくる。
「あれ? こうした格好、好きじゃなかった?」
「魔法少女が好きだったのは、小さい頃だよ……」
 今は、昔ほど好きなわけじゃない。アニメや漫画として、大人でも楽しめるジャンルではあるかもしれないが、私は特別に好きという訳では無いのだ。可愛らしいな、と思う程度で。
 小さく息を吐くと、少女は「そっかそっか、もうそんな歳なのか」と頷いていた。些か腹が立つ。まるで年増のような言い方をするじゃないかこの魔法少女は。
 少しだけ苛立ちを露わにすると、少女は笑顔で謝りながら、私の隣のスペースに腰掛けた。
「えへん、私こと魔法少女いちごはあなたを助けに来たのです」
「助けなんていらないですよ……」
 また可愛らしい名前で。小さい子が、ごっこ遊びをする時に自分に名付けるような、そんな名前で。そんな彼女は助けに来てくれたみたいだけど、私は別に助けを求めていたわけではない。小さく息を吐いて、来てくれたことには感謝を、けれど必要ないのでお引取りを、という大人の対応で言葉を返す。
 だが、隣の少女は些か諦めが悪かった。小さく頬をふくらませて。「じゃあ勝手に助ける」と言う始末。
「最近つらいとかしんどいとかない?」
「あるよ。大人だもの。だけど、大人だから我慢しなくちゃ」
「何で大人になったら我慢しないといけないの?」
「君にはわからないだろうけどね」
 もう嫌だも逃げたいも怖いも言えない日々。失望の眼が怖くて悪いか、呆れられたくないと見栄を張って悪いか。だから必死に走り続けて、何度転んで怪我もして、じくじくと痛む膝と心からは血は流れ、それでも脚を止めることは許されなかった。
「大人は頑張らないといけないのです」
「ふんふん、大変だったねえ」
 女の子は、よしよしと私の頭を撫で始めた。
「大人だからって全部を我慢しなくても良いんだよ。辛い時は辛いと言って良いし、無理に笑わないで良いのだ。頑張らなくても良いのだ。無理をしないでも良いのだぞ」
「そんな簡単に言わないでよ」
「案外この世界って許してくれるよ。吃驚した? 君は十分頑張ってる。だからねえ、良いんだよ。誰かを頼ったり、寄りかかってみても」
 少女はまるで親が子に言い聞かせるように……というよりは、年上のお姉さんが幼子に言い聞かせるように、ゆっくり少しずつ言った。その言葉は、私の胸に優しく響いて、じわりと何かを温めた。
彼女は夢かわな杖先をこちらに向けて、くるくると回し始める。今時の魔法少女は強引なんだろうか。
「ええと、なんだったかな。びびでばぶ~だっけ」
 呪文も曖昧とは恐れ入った。もしかしたら、これが夢だから、私の魔法少女としての知識があまりにもないから、ここまであやふやなのだろうか。そうなると、少女に申し訳なくなってきたぞ。
 それでも、彼女が杖をクルクルと回して呪文を口にすれば、キラキラと細かい光の粒が、まるで天の川のようにして私に向かってくる。そのまま私の顔の周りをクルクルと回ると、何かが混み上がってくるような感覚がくる。
 ぐ、と胸が締め付けられるように苦しい感覚がして、つんと鼻の中が少しだけ痛くて、目先が熱くなる。まるで、今から泣く前兆だった。
 魔法で泣かされてしまうのか、と思っていると、ぽろぽろと目からこぼれ落ちてきた。
 やれやれ、魔法で人を泣かす魔法少女だなんて、前代未聞だ。
 こぼれ落ちてきたものを拭おうとするが、拭うために擦り付けた手の甲が一向に湿らないし濡れない。
 はて、と首を傾げる。
 なんと、こぼれ落ちてきたのは、湿って濡れる塩辛い雫の涙なんかではなく、色とりどりの可愛らしい金平糖だったのだ。
「え?」
「うんうん、沢山沢山出てくるねえ」
 そう言いながら、隣の少女は私の目からこぼれ落ちてきた金平糖を一つ摘んで、そのまま口の中に放り込んだ。
「これはねえ、悲しみの金平糖と言ってね。魔法をかけた相手の悲しみを食べてあげるのだ。ちなみに金平糖なのは私が好物だからだ」
 人の目からこぼれおちたよく分からない金平糖を食べられて、ぎょっと目が開かれる。流石に大丈夫かと問い掛けようとすれば、彼女は、ふむふむと頷きながらぽりぽりと音を立てて金平糖を口の中で転がして舐めて、少しだけ噛んでいた。
「うんうん、優しい味がする。君は相変わらず優しい子に育っているんだなあ」
「はあ?」
「こちらの青いのはどうかな? ふむふむ、どうにかしたくてもできない、悲しい感情がするのに優しい味がするなあ」
 まるでテイスティングをするように、一つ一つを口に運んでは、こんな味がすると口にしていく。私はそれをただ見守ることしか出来ない。
「おやおや、これは寂しい味がする。こっちは我慢の味もする。だけどやっぱり甘くて優しい味がするなあ」
 頷きながら、優しい優しいと口にする少女の表情こそ、その言葉が似合うような気がした。
「ふ、ふふ。何それ」
「ああ美味しい。優しくて愛おしい、大好きな味がする」
 少女は何度も美味しいと言っては金平糖を食べる。本当に金平糖が好きなんだなと思った。
「沢山の気持ちを抱えていたんだね。少しは軽くすると良い。大丈夫、私が残らず食べてあげるからね」
 そう言って、彼女は言葉通り私から作り出される星々を、それはもう美味しそうに食べ尽くした。まるでリスのように頬を膨らませながら食べる姿は、何だか幼くて可愛らしかった。
 全部食べ終わり、私の涙も金平糖になることがなくなると、彼女はうっとりするような顔で優しく微笑みながら、口元をハンカチで拭った。
「……ありがとね」
「良いの、私はただ君に会いたくて、金平糖を食べたかっただけだから。いやあ、とっても美味しかったよ」
 心の中に存在していた邪魔なものが、すべて無くなったようにすっきりとした気分だった。きっと、この魔法少女のおかげなのだろう。
「それじゃあ、私はそろそろ帰るね」
「もう帰るの?」
「そう、もう朝になるからね。よかったら、今度は君が会いにきてね」
 それだけ言って、彼女が今一度杖を構えて、天井に向かってくるくると回した。
 呪文何だったっけ? と私に問いかけてくるのはどうかと思うけれど、何とも愉快で可愛らしく、何だかんだで心強い魔法少女だと思ったのだ。

 目が覚めたら、カーテンの隙間から光が漏れていた。
 ぱっちりと目蓋が開かれて、むくりと何の苦もなく体が起き上がる。思わす後ろ頭を掻くと寝癖がついていて、さっきまでのは夢で、今は現実なのだと実感させられるような気がした。
 不思議な夢だった。ところで何で、あんな魔法少女が助けてくれたのだろう。魔法少女の姿を思い浮かべてみると、違和感。あの子は、私の知っている、幼い頃に見ていた魔法少女の顔ではなかった。つまり、別の少女が魔法少女の格好をして私の前に現れたということになる。
 側から考えれば少し恐ろしい事実にたどりついてしまったが、夢の中に出てきた少女の顔を思い浮かべれば、小さく声をこぼしながら笑みが浮かんだ。
 即座にスマホを取り出して、会社の上司に連絡をつけた。「体調が悪いので休みます」と。上司は何か言いたげな雰囲気だったが、押し切るような勢いで電話を切り、スマホを放り投げた。
「お土産に金平糖でも買って帰ろうかな」
 ベッドからおりて、とりあえず外出用の服を選び、着替えてから再びスマホで相手を呼び出した。
「……お母さん久しぶり。うん。急だけど、ちょっと今日寄っても良い? うん。姉さんに礼を言いたくて。仏壇ってさ、金平糖、大丈夫だったっけ」
 冷蔵庫を開けて、朝食を吟味する。お礼をしたいとはどういうことだと問われたけれど、思わず笑い声が溢れた。
「姉さんがね、当時私が憧れていた魔法少女になって、私を助けに生きてくれたのよ」
 そう、幼い頃、私が幼稚園で姉さんが亡くなった小学六年生の時、私が大好きだった魔法少女。姉さんは、私が好きだったものを覚えていてくれてはいたようだ。
「綺麗な星を、いっぱい見せてくれて、勇気をくれたの」
今回は魔法少女として来てくれたけれど、姉さんは昔から変わらない、私の憧れだったんだよ。それと、助けてくれてありがとう。大好きよ。今なら照れ臭いことも、言えそうな、そんな気がした。
 共に暮らしている一卵性の双子の姉が死んだ。その報告は、すぐに私の耳に入ってきて、葬儀などは全て妹である私が行った。仕方がないのだ。両親は幼い頃に交通事故で亡くなったし、その後私達の面倒を見てくれた祖父母も、天寿を全うし亡くなっていたのだから。成人済みの身内で、親等が一番近い私が全てを仕切るのは当然のことだった。だって、生まれる前から一緒にいる。下手すれば親よりも、血が濃いかもしれない私だから。
「海に散骨にしたいので、粉末状にお願いします」
「わお」
 私の頼みごとに、葬儀屋さんは少し驚いたような表情をしながらも、かしこまりましたと了承してくれた。散骨をするために、数日後に預かることと、預かった骨を二ミリ以下の粉末にし、水に溶ける紙の小分けにしてお渡しすると告げられ、それでも大丈夫かと再度問われた。最終確認だ。姉の姿が消える事になるぞと、墓に残らないぞと、押し止めるような雰囲気を持感じた。だが、私は変わらず、お願いしますと頭を下げた。
 その後も淡々と事は進んでいく。葬儀屋さんは最後まで丁寧に接してくれて、詳しいことを説明されたが、全てを相手にお任せするような形になってしまった。だが形式上は完了した。葬儀やら何やらを終えたばかりで、向こうもヘトヘトだっただろうに、無茶なお願いをしてしまっただろうか。それでも、担当してくれた人は最後まで優しい表情をし、そのまま家を後にした。
「まさか散骨を選ぶとはね」
「それが、海華(みか)ちゃんの夢だったじゃない。死んだら名前と同じ海に還りたいって」
「よく覚えていたねえ。偉い偉い」
 そう言いながら撫でようとした彼女の手は、私の頭をすり抜けた。
「やめてよそれ、ゾワゾワするのよ」
「ごめんごめん。でも霊体が面白くて。あと、海抄(みと)の反応が面白いんだもん」
「全く……」
 小さく息を吐きながら、彼女に撫でられた箇所を思わず掻いた。
 彼女は藍沢(あいざわ)海華(みか)。私の双子の姉であり、亡者である。因みに、優しい葬儀屋さんのために弁面をしておく。先ほどの「わお」は霊体として私の横に立っていた彼女の声だ。
 死因は心臓発作。在宅ワークでずっと座りっぱなしの徹夜の毎日。運動不足も相まって、ふと立ち上がった瞬間にぽっくりと死んだ、とは本人談。二十代という若さでの死は、彼女の職場の仲間は当然のことながら、人脈のあった彼女は多くの人に悲しみを与えた。姉の携帯を借りて、沢山の知り合いの人に電話をしたのは大層骨がおれた。
「散骨にして、叔父さんとか文句言わないかな」
「じゃあ海華ちゃんは先祖代々の骨に混ざっている墓に入りたい?」
「遠慮したいなー」
「でしょう? 良いんだよ。私は誰よりも長く一緒に海華ちゃんと一緒にいたんだから」
 文句何て言わせない。決意の籠った私の言葉を聞いた彼女は、最初は呆気にとられたようだけれど、すぐににんまりと笑みを浮かべて、そうかそうかと再度頭を撫でようとするので、私は慌ててそれを避けた。
「それじゃあ、準備するわよ!」
「準備?」
「そう。身の沈めところ探し」

 要は、彼女は旅をしたかったらしい。最後の場所は自分で決めたい。綺麗な海がいい、と子供のように駄々をこねる姉を、私は冷めた目で眺め、渋々了承した。まあ、正直な話、旅をするというのは、少し魅力的に思えたので、実質同類かもしれない。
 彼女の遺産は多いとは言えなかった。何たって二十代だ。保険金だって多くかけていたわけではない。元々多くはない資金も葬儀などに回されたのだ。残るものも少ない。
 だが彼女の貯金額を見れば、そこそこのお金が入っていたので、倹約家な一面が見えて少し驚いた。
 私はと言えば、職場に投げるように退職届を出し、逃げ出すように仕事をやめて、他にも様々な面倒な手続きを終えた。この世界で生きていくには、様々な手続きが必要となって、本当に面倒くさい。
 準備を行なっている時も、姉はどこかソワソワと、実年齢よりも若く見えた。
 昔からそうだ。私の方が妹なのに、妹さんの方がしっかりしているだとか、まるで逆のようだねとか言われていた。それに、姉はどちらかと言えば明るい性格だったが、私は静かに穏やかに過ごしたいタイプだった。まるで太陽と月のように逆の私たちだったけれど、生まれる前から一緒だったからなのか、共にいる時はいつだって何故か落ち着いた。
 葬儀屋さんに姉を預けて、帰ってくるまでは姉と旅マップを眺めていた。ここに行きたいだとか、ここを旅したいだとか。数冊の旅マップは、赤い丸でたくさん囲まれていた。
 そして葬儀屋さんに預けていた姉が帰ってきた。骨は粉末状にされ、それぞれ水に溶ける紙に小分けされている。私の願望で、大きな包みにまとめてもらった。その紙も、念のために水に溶けるタイプだ。
 散骨するタイミングまでは、葬儀屋さんは深く入り込まない。少し寂しそうな表情をしてから、お別れの挨拶をした。
「……さあ、行くか」
 リュックに大切に姉をしまって、キャリーバックに着替えなどの荷物。
 それらを持って、私は姉と暮らしていた家を飛び出し、鍵を大家さんに渡した。

 そこからの時間は、まるで夢のような時間だった。
 今までの限られた少ない時間ではいけなかった場所まで遠出して、その土地の観光地にまで足を運んだ。
 姉が行きたがった動物園や水族館にも行った。旅館にも泊まって、次はどこに行こうかと相談をし、どの路線で行けばいいのかも悩んで、楽しい時間だけが過ぎていった。
 霊体の姉は、写真には写らない。だから、私は写真を一枚も撮らなかった。ていうか、カメラもないので撮りようがなかった、と言った方が正しい。

 楽しかった。楽しい時間はあっという間に過ぎて、姉が志望した、深い青が煌く海にたどり着いたのは、家を飛び出して十日ほど立った頃だった。
 サスペンス劇場に出てきそうな崖がそびえ立ち、荒波が轟々と音を立てながらその崖を少しずつ削っているように見えた。
 砂浜、よりは岩場の方が多い。けれど、眺めは最高に良かった。
「姉さんのことだから、沖縄がいいとか言うと思ったんだけど」
「沖縄まではいいやと思って」
 これより先立ち入り禁止。という立て看板があるが、海風の塩で少し錆びていた。
 膝を立てるようにしゃがみ込んで、崖の下を眺める。海が白い泡を立てて、波が叩きつけられている。ドウドウ、と振動がここまで伝わってくる気がした。
「それでも綺麗だね。昨日も晴れていたから、海の水も透明に青く見える」
「そうだね」
「これなら、姉さんも満足でしょう」
「そうだね」
「うん。だから、背中押したかったら押していいよ」
 ピタリ、と背中に迫っていた手の動きが止まったのを感じた。この場で私の背中に手を伸ばせるのは、彼女しかいなかった。
 そのままの体勢のまま顔だけ振り向けば、姉が今にも泣きそうな顔で私を見下ろしながら、こちらに手を伸ばしていた。彼女の体が透けて、背後の岩場がよく見えた。
「一人だけだと、寂しいもんねえ」
「……どうして、気づいたの」
「双子だもの。何より姉さんは、寂しがりやだから。だから、あのアパートも解約してきたんじゃない」
 一緒に暮らそうと提案をしてきたのは姉だった。家賃やガス水道電気食費、必要経費はそれぞれ半分もち。幼い頃に両親を亡くし、祖父母達とも学生時代で別れたのも原因の一つだろう。姉は、一番濃い血の関係である私を大層可愛がり、大切にした。彼女は、極端に寂しがりだった。
 姉と一緒に暮らしていたあのアパートで、私一人では暮らせない。だから、私は解約した。それだけだ。
「……海抄は良いの」
「いいんだよ。むしろ、どうして私を置いて行ったのさ」
 ぽい、と勢いよくキャリーバックを海のほうへ放り投げた。少しだけ時間がかかってから、バシャンと海の中に沈んでいった音がした。
「仕事も辞めた。保険も変わったし、貯金も使い切った。携帯も解約したし、月額も解約済でしょ? 支払い途中のものはなかったはずだし……借金はないかな。家を出る手続きもしたし、鍵も返したし、家具も全部売ったもんね。まあ、後は叔父さん達が何とかするでしょ」
「……あんた、本当、バカだね」
「姉さんに似ちゃったかなあ」
「このやろう!」
 姉さんが私の両頬を引っ張る。頬が少しだけ引っ張られて、ゾワゾワとした感覚がした。
 頬を引っ張られながら笑みを浮かべて、改めて海の方へ体を向ける。
「私も姉さんと一緒に落ちれば、私は泡となって消えるかな」
「残念なお知らせです。ただの無残な死体が残るだけです」
「所詮は夢物語だけかあ」
「嫌になった?」
「全然」
「やっぱり戻る?」
「姉さんが死んだ時から、もう、戻れない」
 とりあえず背負っていた鞄を下ろして、鞄の中から姉さんを取り出し、懐に大事にしまった。様式美ってやつ? 靴も脱いでおこうか。
 姉さんの手を取って、二人で顔を見合わせ、にこりと笑みを浮かべる。
「怖い?」
「全然。姉さんがいるから」
「これが最後のチャンスだったのに。寂しんぼ」
「姉さんには負けるよ」
 小さく言い合ってから、ふ、と目蓋を閉じる。
 大事なことは、私が死んだ後、周りがどんな表情をするか見ないでいられること。姉のように、幽霊としてこの地に残ってしまったら最悪だが、未練もないし大丈夫だろう。私はあくまでも、大切な姉と一緒に、この世界からさようならをするのだ。
 ふわりと潮風が海からこちらに吹いてくる。まるで、こっちに来るなと言われているような気分もするが、お断りしよう。
「そろそろ行こうか」
 私の言葉に姉が頷いた。そろそろ逝っちゃおう。今度は一緒に。生まれた時と違って、少し出遅れてしまったが、大丈夫。一緒に、逝こう。
 生まれた時が一緒なら、最期まで共に。
 今までに感じた事のない高揚と開放感を全身に受け、体を保つための意識を最小限にする。体の重心を、傾けた。

 ――ドボン

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