あっ、
と、声が重なった。
最近暖かくなってきたと思っていたのに、また急に寒くなった3月のはじめ。
久しく寄り付いていなかったこの場所で会うなんて、どんなめぐり合わせだろう。
……どんなも、なにもない。ここは、ただ彼のアパートが近くて、彼がよく来る場所。たったそれだけのことだ。
彼のアパートのすぐ近くにあるこのコンビニは、わたしにとっても思い出の場所だった。
身体の弱いわたしは、一度も一緒に買い物に行くことはなかったけれど。
それでも、アパートの窓からコンビニに行く彼が見えるから、わたしにとっては大切な場所だった。
必ず買うのは菓子パンと缶コーヒー。それを店の外に出てから食べ切って家に帰ってくる。
「いままで、どこに行っていたの?」
数か月ぶりに聞いた彼の声はいつも通り優しくて、だけど微かに震えていた。
どこに行っていたかなんて、話すつもりはない。ましてや今日、会うつもりもなかった。
ただ、本当に、彼はいまどうしているだろうとふと心に引っかかって、ふらりと寄ってみただけだったから。会ってしまったのは、ただの偶然だ。
何も答えないわたしに、ふっとひとつため息をつくと、それでも彼は「元気そうでよかった」と、微笑みながら言った。
何も変わらない彼の姿に少しだけ泣きたくなって、それでも素直になれないわたしは無言を貫いた。
少し痩せたかな。髪も伸びたよね。元気だった? わたしがいなくなって、どうしてた?
そんなことを思うし聞きたい気もする。けど、なにひとつ口には出せないまま、1秒、1分、と静かに時間が過ぎていく。
背の低いわたしの顔色を再度うかがうようにかがんだ彼の表情は、陰になっているせいか泣いているようにも見えたけど、見なかったふりをしてまた視線をそらした。
つっけんどんな態度。わたしはいつでもそうだった。
そんなわたしに愛想を尽かしてもおかしくはないのに、まるでそれが愛おしいというかのように、優しく目を細めて笑う。そんな彼のかつての姿が頭に浮かぶ。
今もそんなふうに思ってくれてたら、どれだけうれしいか、なんて。勝手に家を飛び出しておいてそんなことを思うのは、数か月前の日常がとても幸せだったから。
本当は、手離したくないものだったから。
ずっと一緒にいたいと思った。それでも離れると決めたのは、わたしの命がそう長くは続かないと知ったからだった。
彼は、わたしのことをとても好きでいてくれたと思う。病弱でなにかと気にかけなくてはいけないことが多いわたしに、いつも文句も言わず穏やかに笑って、「大丈夫だよ」とか「寒くない?」とか、「大好きだよ」とか。ひとつひとつ、いつも言葉にしてくれていた。
わたしが、耐えられなくなったんだ。もらうだけの日々に。同じだけの幸せを彼に与えられない毎日に。わたしにできることはなんだろうって考えてみても、この身体でできることは少なくて。ただ寄り添って彼をあたためるくらいしかできない。
それしかできないことに、嫌気がさしたのだ。それに、わたしの命が長くないと知って、彼が悲しむのがいやだった。つらそうな彼を間近で見ているくらいなら、いっそ離れたいと思ったんだ。
夕日がわたしたちを照らし、大きな影と小さな影がひとつずつ、地面に映し出された。
「もう少しだけ、一緒にいてくれる?」
そう言って彼はコンビニの駐車場の脇にある石段に座った。わたしも、もう少しだけ一緒にいたくて、少し離れた彼の横に膝をかかえて座ってみた。
さっきより小さくなった大きな影とわたしの小さな影が隣り合わせで並ぶ。
その影だけを、わたしはじっと見ていた。
これがさいごなのだと。心に刻みながら。
ふと、優しく頭に触れてくる手のぬくもりを感じて頭を少しだけ上げると、ごめんと言って、その熱は離れていった。
たったそれだけのことに、これまでの幸せだった日々が頭の中をまた駆けめぐっていく。
――どれだけの時間が過ぎたんだろう。彼は、どんなつもりでいま一緒にいてくれているんだろう。
出ていった理由を問い詰めることもせず、なんで優しく笑ってくれるんだろう。
冷たい風が強く吹いて、身体全体の体温を奪っていった。たまらなくて身体をすくめ、足元にまとわりつく落ち葉を見つめた。
すると首もとにふわふわのあったかいものが巻かれていった。マフラーだった。彼が巻いていたそれはほのかに彼のぬくもりがうつっていて、あたたかさが増していた。
この深緑のマフラーは、わたしも気に入っていたものだ。彼のにおいがして、あったかくて、落ち着くから。
家の中でもそれを巻いてるわたしを見て、彼はいつも嬉しそうに笑っていたんだっけ。
ありがと、と一言だけ言うと、以前と同じように彼は嬉しそうに笑った。
何を話すわけでもないけれど、しばらくそのまま隣り合って座っていた。
家にいた頃と同じように、ただただ一緒にいた。
「一緒に帰ろう……?」
夕日も沈みかけてきた頃だった。
恐る恐るといったように、震える声で彼がそう言ったのは。
耳を疑うようなその言葉に、一瞬うろたえた。
帰りたいと、まだ一緒にいたいと、確かにそう思ってしまったから。
けれど、そんな思いを振り切って立ち上がった。その反動でお気に入りだったマフラーが滑り落ちたけど、気にせずにアパートとは逆方向に走り出した。
名残惜しくて一回だけ振り返ると、彼は落ちたマフラーを拾い上げ、呆然と立ちすくんでいた。
……もう、二度と会うことはないんだろう。
あの優しい手に触れてもらうことも、あたたかい部屋でふたり過ごすことも。仕方ないなあと笑いながら頭を撫でられることも、もう全部。
そんなことを思いながら、今日がさいごになるかもしれないと痛む胸に気づかないふりをして、いまわたしが帰る場所へとただ走った。
朝日がうっすらさしこんで、その眩しさに目が覚めた。
本格的な冬は終わったといえど、朝はまだ気温が低いから、思わずぶるっと身体がふるえた。
今日も、目が覚めてしまった。
自分の死期が近いと悟って彼から離れたのに、しぶとくもわたしはまだこうして生きている。
けれど、全速力で走ったあの日から、身体はだんだん重くなってすんなり起き上がれることが減ってきた。身体は言うことを聞かず、ほぼ丸1日、冷たくてかたい地面に身を任せたままでいる。
食事も数日とっていない。
いまは寂れた商店街の路地裏。そこの無造作に積まれた段ボールの隙間。そこがわたしのいまの家だ。
この暮らしが悪いとは思わない。彼に出会うまではこの生活が当たり前だった。それまでは暗くて寒いのが当たり前で、ご飯はだいたい腐ったなにかや、カラスのおこぼれだった。
食べ物を求めてさまよってたどり着いたのが、あのコンビニで。そこで彼と出会ったのだ。弱りきっていたわたしをあの深緑のマフラーに包んで優しく抱いてくれた。あたたかくてふわふわで。こんなに優しい感触がこの世にあるのだと、初めて知ったのだ。
彼に出会ってはじめて、わたしはこの世界で生きることを幸せだと思ったんだ。
毎日、あたたかい布団で目が覚めて、目元にかかる日差しが少し鬱陶しくて。だけど、その日々が愛おしかった。
腐っていないおいしい食事に、あたたかい部屋。かわいいと、すきだと、撫でてくれる優しい手。
わたしも、彼のことが大好き。
野生で暮らしてきたわたしにはもういまからでは治らない病気があって、わたしはなんとなくずっとそれを知っていたけれど、病院でそう言われたときの彼の表情はいまでも覚えている。
わたしは長くは生きられない。
そう告げられたときの彼は、泣いていた。
それでも、できるだけ一緒にいられるようにと、彼は毎日かいがいしくわたしに尽くしてくれていた。それがどれだけ嬉しかったか。……苦しかったか。
伝えることはできないけれど。
だって、わたしは『猫』だから。
彼になにかを伝えたくても、できるのは寄り添うこととただ鳴くことだけだから。
せめてさいごに悲しませないように、死ぬとこなんか見せたくなくて、離れたんだよ。
……それなのに、どうして?
遠くで、彼の声がする。わたしを呼ぶ声だ。
いつも優しく響く声が、割れそうにかさついている。
もしかしたらあの日から、ずっと探し回ってくれていたのかもしれない。
最期に、ひと目会いたい。
そう思うけれど、脚にうまく力が入らなくて立ち上がれなかった。
すぐ傍で、彼がわたしを呼ぶ声が聞こえるのに。ひと鳴きしてみたけれど、前を通りすぎる車の音にわたしの小さな声はかき消されてしまう。
次第に彼の声も遠くなって、聞こえなくなってしまった。
……死ぬところを見られたくなくて離れたのに、最期に会いたいだなんて思ったのが馬鹿だったんだ。
そう自分を納得させようとしてもだめで、なんとか身体を起こして、路地裏からさっき彼の声がした方をのぞいてみた。
やっぱりそこに彼はいなかったけど、ゆっくりと歩きながら寂れた商店街を抜けた。彼がわたしをさがしてくれたように、今度はわたしが彼をさがして会いに行くために。
路地裏と彼のアパートだけがわたしの世界のすべてだと思っていたけれど、少し脚を踏み出したら、思ったよりも広い世界が目の前に広がっていた。
信号、横断歩道、車、立ち並ぶでこぼこのビル。右を見ればスーツの人。左にも、同じように。
わたしはきっと、広い世界の狭い部屋でこれまで生きてきた。最期に、こんな世界を知ることができるなんて、思ってもみなかった。
少しだけ感動して、目の前を行き交う人たちを眺めていた。
「……、!」
そのとき、かすかに、声が聞こえた。
彼の声だ。わたしを、確かに呼んでいる。
その声がする方にひたすらに駆けた。
ふらふらで視界が歪むけれど、会いたい一心だった。
道の向こう側に後ろ姿の彼が見えた。
相変わらずガサガサの声で、わたしの名前を呼んでいる。
わたしも気づいてもらえるように、いまできる精一杯の声で鳴いた。