真夜中を過ぎても、繁華街には灯りが溢れていた。
等間隔に立てられた街灯。ビルの商業看板を浮かび上がらせるスポットライト。時折走り抜ける車のヘッドライト。
すれ違うのはほとんどが酔っ払いで、みんな危なっかしい足取りで歩いている。
生前の僕はほとんど酒を飲んだことがなかった。
大学の飲み会にはあまり顔を出さず、ひとりで飲み歩いたりもしなかったので、夜の街は新鮮に映る。
会社の付き合いなのか、酔いつぶれて道ばたでゲーゲー吐いているサラリーマンを、横目で見ながら通り過ぎた。もう絶対にそんな経験をしなくていい僕としては、哀れむべきなのか羨むべきなのか微妙な気持ちになる。
どこへ行くという目的もなく、僕はただ街を歩いた。
誰もいないのに煌々と明るいアーケード街、薄汚れた路地裏、ほとんど車が走らない車道。今まで馴染みがなかった真夜中の街の顔。
歩行者のいない横断歩道で、信号だけが一定のリズムで色を変えている。
どこからか、バイオリンの音色が流れてきた。
星ひとつ見えない街の夜空の下、コンクリートのビルの谷間に延々と、『G線上のアリア』が響き渡る。
交差点の中央で、燕尾服の男性がバイオリンを演奏していた。
交通量は少ないとはいえ、信号が赤に変わっても動こうとしない。それを運転手も通行人も注意せず、彼に目を向ける者すらいなかった。
よく見れば、車が彼をすり抜けていく。なんだ、彼も幽霊か。
彼にとっては、バイオリンは自分の体の一部みたいなものだったんだろう。そして、バンさんの壁画が見えないのと同様に、この演奏は生者には聞こえていない。
目を閉じて、一心に弓を動かす姿は、さながら音楽ホールで開かれているリサイタルのようだ。
綺麗に澄んだ音色が、街の淀んだ空気の中を流れていく。
幽霊の耳にだけ届く、真夜中の演奏会だ。
その後も、幽霊らしき人たちと何人か出くわした。
この寒空の下、季節外れのサマードレスを着て踊っている女性や、コンビニの自動ドアが反応せず、ガラス扉をすり抜けて中に入っていく客。
外見だけでは区別がつきにくいが、よく見ると結構いるものだ。
老若男女問わず、日本では毎日三千人くらいの人が亡くなっている。そのうちどれくらいの死者がどれくらいの期間この世界に留まっているかは、統計の取りようがないけれど。
そして、バンさんが言ったように、彼らは互いにほとんど関心を示さない。
人生のおまけみたいな幽霊の時間。
結局誰もが、生前に一番心を占めていたものに囚われている。
未練。心残り。呼び方はなんでもいいが、それが解消されずに何年、何十年、あるいは何百年とこの世を彷徨う者も、中にはいるのだろうか。
駅前のバスターミナルのあたりまで歩いていくと、暗がりの中、ベンチに座っている人影が見えた。
昼間は大勢の人が列をなしているが、既に最終便も出た後だ。不思議に思って近づくと、どうもご同類のようだった。
全員が八十代半ばには到達していそうな女性である。
お婆さん、と赤の他人にいうのも失礼なので、マダムとしておこう。
マダムたちはぺちゃくちゃと楽しそうにおしゃべりしている。
真夜中過ぎに。八十代のマダムたちが。これはもう、幽霊と考えて間違いないシチュエーションだろう。
アンジェやバンさん、僕みたいなのが特別で、本来なら死者はみんなこのくらいの年代ではあるべきだ。
こちらの正体がバレるとちょっと面倒くさそうなので、僕は方向転換しようとした。相手が幽霊だからではなく、おしゃべり好きな年配の女性というのは、経験上とかく面倒くさいものなので。
だけど、手遅れだったらしい。
中のひとりとばっちり目が合ってしまった。
「あら、あなた私たちが見えてるの?」
目ざといな。
そうか。八十代半ばでも、死者に視力は関係ないんだった。
「あら、お仲間なの?」
「ちょっとこっちにいらっしゃいよ」
全員に手招きされて、仕方なくそちらへ足を向けた。
ああ、気が重いな。
どうせ二度と会わないだろう幽霊同士。嫌ならスルーして逃げればいいのに、そうできないのが僕だ。
死者にルールなどないとしても、礼儀は別だろう。そう考えてしまうところが、我ながら律儀すぎる。
「こんばんは」
ぎこちなく笑って会釈した。
少し離れて置かれた隣のベンチに腰を掛けると、三人のマダムの興味津々な視線が僕に向けられる。
年代は同じくらいでも格好はバラバラだった。
ひとりはいかにもセレブという感じの高級そうな紬の着物。ひとりはやや少女趣味的なワンピースとエプロンの組み合わせ。もうひとりは一番強烈で、ヒョウ柄のトレーナーに細身のパンツ、髪は金に近い茶色という大阪のオバチャンみたいな格好をしている。
「近くで見るととってもお若いのね。おいくつなの?」
着物のマダムが尋ねる。
「21です」
「まあ、若すぎるわ。残念だったわね」
「私の孫より若いわ」
エプロンのマダムが口に手を当てる。その横で、ヒョウ柄のマダムが腕を組んでいた。
「うちの一番下の孫は、いくつだったっけ」
「あら嫌だ。あなた、死んだら認知症治ったって言ってたじゃない」
「海外にいるのも含めて、孫は全部で11人なんだから、いちいち覚えてないわよ」
三人の笑い声が夜の駅前に響く。一緒になって笑っていいのか迷う。
それにしても元気だな。
本当に幽霊なのか、この人たち。
幽霊というより魔女みたいだけど。
僕はただただ圧倒されて、愛想笑いを浮かべることしかできない。
ああもう、瞬間移動して逃げちゃおうかな。
「あなたはまだまだこれからだったでしょうに。親御さんもおかわいそう」
「そうですね。僕の病気のせいで、両親には苦労を掛けました」
「あなたも大変だったわね。お疲れ様」
着物マダムはねぎらうように微笑んだ。
「あなた、今生でむくわれなかった分、きっと来世でいいことがあるわよ」
奥から、ヒョウ柄マダムがひょこっと顔を出す。
「来世ってあるんですか?」
「わからないけど、あると思っていたほうが楽しいじゃない」
「そうよね。まさか幽霊になるとは思っていなかったし、生まれ変わりもないとは言い切れないわ」
エプロンマダムが力強く賛同した。
成仏した後のことは幽霊にもわからない。でも、このパワーで本当に転生でもなんでもしてしまいそうだな。
成仏できるかどうかもわからない僕にはまだ、来世に希望を抱くほどの余裕はないけど。
等間隔に立てられた街灯。ビルの商業看板を浮かび上がらせるスポットライト。時折走り抜ける車のヘッドライト。
すれ違うのはほとんどが酔っ払いで、みんな危なっかしい足取りで歩いている。
生前の僕はほとんど酒を飲んだことがなかった。
大学の飲み会にはあまり顔を出さず、ひとりで飲み歩いたりもしなかったので、夜の街は新鮮に映る。
会社の付き合いなのか、酔いつぶれて道ばたでゲーゲー吐いているサラリーマンを、横目で見ながら通り過ぎた。もう絶対にそんな経験をしなくていい僕としては、哀れむべきなのか羨むべきなのか微妙な気持ちになる。
どこへ行くという目的もなく、僕はただ街を歩いた。
誰もいないのに煌々と明るいアーケード街、薄汚れた路地裏、ほとんど車が走らない車道。今まで馴染みがなかった真夜中の街の顔。
歩行者のいない横断歩道で、信号だけが一定のリズムで色を変えている。
どこからか、バイオリンの音色が流れてきた。
星ひとつ見えない街の夜空の下、コンクリートのビルの谷間に延々と、『G線上のアリア』が響き渡る。
交差点の中央で、燕尾服の男性がバイオリンを演奏していた。
交通量は少ないとはいえ、信号が赤に変わっても動こうとしない。それを運転手も通行人も注意せず、彼に目を向ける者すらいなかった。
よく見れば、車が彼をすり抜けていく。なんだ、彼も幽霊か。
彼にとっては、バイオリンは自分の体の一部みたいなものだったんだろう。そして、バンさんの壁画が見えないのと同様に、この演奏は生者には聞こえていない。
目を閉じて、一心に弓を動かす姿は、さながら音楽ホールで開かれているリサイタルのようだ。
綺麗に澄んだ音色が、街の淀んだ空気の中を流れていく。
幽霊の耳にだけ届く、真夜中の演奏会だ。
その後も、幽霊らしき人たちと何人か出くわした。
この寒空の下、季節外れのサマードレスを着て踊っている女性や、コンビニの自動ドアが反応せず、ガラス扉をすり抜けて中に入っていく客。
外見だけでは区別がつきにくいが、よく見ると結構いるものだ。
老若男女問わず、日本では毎日三千人くらいの人が亡くなっている。そのうちどれくらいの死者がどれくらいの期間この世界に留まっているかは、統計の取りようがないけれど。
そして、バンさんが言ったように、彼らは互いにほとんど関心を示さない。
人生のおまけみたいな幽霊の時間。
結局誰もが、生前に一番心を占めていたものに囚われている。
未練。心残り。呼び方はなんでもいいが、それが解消されずに何年、何十年、あるいは何百年とこの世を彷徨う者も、中にはいるのだろうか。
駅前のバスターミナルのあたりまで歩いていくと、暗がりの中、ベンチに座っている人影が見えた。
昼間は大勢の人が列をなしているが、既に最終便も出た後だ。不思議に思って近づくと、どうもご同類のようだった。
全員が八十代半ばには到達していそうな女性である。
お婆さん、と赤の他人にいうのも失礼なので、マダムとしておこう。
マダムたちはぺちゃくちゃと楽しそうにおしゃべりしている。
真夜中過ぎに。八十代のマダムたちが。これはもう、幽霊と考えて間違いないシチュエーションだろう。
アンジェやバンさん、僕みたいなのが特別で、本来なら死者はみんなこのくらいの年代ではあるべきだ。
こちらの正体がバレるとちょっと面倒くさそうなので、僕は方向転換しようとした。相手が幽霊だからではなく、おしゃべり好きな年配の女性というのは、経験上とかく面倒くさいものなので。
だけど、手遅れだったらしい。
中のひとりとばっちり目が合ってしまった。
「あら、あなた私たちが見えてるの?」
目ざといな。
そうか。八十代半ばでも、死者に視力は関係ないんだった。
「あら、お仲間なの?」
「ちょっとこっちにいらっしゃいよ」
全員に手招きされて、仕方なくそちらへ足を向けた。
ああ、気が重いな。
どうせ二度と会わないだろう幽霊同士。嫌ならスルーして逃げればいいのに、そうできないのが僕だ。
死者にルールなどないとしても、礼儀は別だろう。そう考えてしまうところが、我ながら律儀すぎる。
「こんばんは」
ぎこちなく笑って会釈した。
少し離れて置かれた隣のベンチに腰を掛けると、三人のマダムの興味津々な視線が僕に向けられる。
年代は同じくらいでも格好はバラバラだった。
ひとりはいかにもセレブという感じの高級そうな紬の着物。ひとりはやや少女趣味的なワンピースとエプロンの組み合わせ。もうひとりは一番強烈で、ヒョウ柄のトレーナーに細身のパンツ、髪は金に近い茶色という大阪のオバチャンみたいな格好をしている。
「近くで見るととってもお若いのね。おいくつなの?」
着物のマダムが尋ねる。
「21です」
「まあ、若すぎるわ。残念だったわね」
「私の孫より若いわ」
エプロンのマダムが口に手を当てる。その横で、ヒョウ柄のマダムが腕を組んでいた。
「うちの一番下の孫は、いくつだったっけ」
「あら嫌だ。あなた、死んだら認知症治ったって言ってたじゃない」
「海外にいるのも含めて、孫は全部で11人なんだから、いちいち覚えてないわよ」
三人の笑い声が夜の駅前に響く。一緒になって笑っていいのか迷う。
それにしても元気だな。
本当に幽霊なのか、この人たち。
幽霊というより魔女みたいだけど。
僕はただただ圧倒されて、愛想笑いを浮かべることしかできない。
ああもう、瞬間移動して逃げちゃおうかな。
「あなたはまだまだこれからだったでしょうに。親御さんもおかわいそう」
「そうですね。僕の病気のせいで、両親には苦労を掛けました」
「あなたも大変だったわね。お疲れ様」
着物マダムはねぎらうように微笑んだ。
「あなた、今生でむくわれなかった分、きっと来世でいいことがあるわよ」
奥から、ヒョウ柄マダムがひょこっと顔を出す。
「来世ってあるんですか?」
「わからないけど、あると思っていたほうが楽しいじゃない」
「そうよね。まさか幽霊になるとは思っていなかったし、生まれ変わりもないとは言い切れないわ」
エプロンマダムが力強く賛同した。
成仏した後のことは幽霊にもわからない。でも、このパワーで本当に転生でもなんでもしてしまいそうだな。
成仏できるかどうかもわからない僕にはまだ、来世に希望を抱くほどの余裕はないけど。