喫茶店員は退魔官@バンコク

「こんにちは」
 映画館デートの一件から2週間ほど経ったある日、ヨークが店へと訪れた。ジオが目配せすると、ロンはカウンターへ出て来てヨークに気がついた。
「今日は、お礼も兼ねて来たんです。この前はありがとうございました」
 深々と頭を下げるヨークに、ジオとロンは慌てた。
「いや……その、すまない。傷ついただろう」
 ロンの言葉にヨークは苦笑したものの、その表情はどこか晴れやかだ。
「まあ多少は傷付きましたけど、おかげでスッキリしました。普通だったらフラれた店には来たくないかもしれないですが、ここのはいろいろ美味しかったし。それに、なんだか自分を取り戻したような気がするんですよ。ロンさんにマイルドちゃんを好きな理由を聞かれて、何だか我に帰ったような感じだったんですよね」
 ジオとロンは顔を見合わせた。
「頑張りたいことも見つけられたし」
 そう言ってヨークは筋トレする仕草を見せた。言われてみれば、心なしかスリムになったような気もする。ジオは頷いた。
「体を動かすのはいいことだよ。健康にもなるしね」
「ええ。それに、気持ちがスッキリしますね」
「本当に元気そうでよかった。それに、また店にも来てくれて。ありがとうね」
「こちらこそ、ありがとうございました」
 再度頭を下げてメニューを見始めたヨークにロンは声をかける。
「少し聞きたいことがあるんだが、いいか」
「はい、なんでしょう」
「この前、マイルドちゃんが君のことを好きだと誰かに言われたと言っていたが、誰に言われたか思い出せるか」
 ヨークは数秒、首を傾げたのち目を見開いた。
「……ルイス! ルイスだ! んーでも、冗談半分だったような気がするなあ。なんでイケると思ったんだろう……?」
 さらに首を傾げるヨークに、ジオとロンは頷き合ったのだった。

「で? そのルイスって誰なんだ」
 グレンはジオたちの報告を聞いて腕を組んだ。
「アルフの同僚だ。最近よく一緒に仕事をしているらしい」
 ロンの答えに、ディーンは頷いた。
「一度整理してみようか」
 ディーンが付箋と青いマーカーペンを手に取る。アルフ、マイルド、ヨーク、ルイスの4人の名前とアルファベットのエックスを書いた付箋をつくり、大きめの画用紙を机に広げた。
「今わかっている事実は?」
「マイルドちゃんはヨークにアタックされた」
 まず、ジオがマイルドとヨークの付箋を画用紙に貼った。
「それに、ヨークはルイスにけしかけられた」
 グレンがルイスの付箋をヨークの近くに貼る。ディーンがジオとグレンの説明を聞きながら矢印を書き込む。
「アルフは何者かに狙われている」
 ロンはアルフとエックスの付箋を先程ジオ達が貼った箇所から少し離して貼り、ディーンが画用紙に矢印を書き込んだ。
「それくらいだよな? 今わかっているのって」
 グレンが首を捻った。ディーンはまだあると言って書き込みを始める。
「ルイスとアルフは最近よく一緒に仕事をしてるんだよね? それに、マイルドちゃんとアルフ、ヨークは同じ演技教室の仲間だ。ルイスがヨークとどんな繋がりなのかはよくわからない」
 言いつつ、ディーンは書き込みを続ける。情報を書き終えるとペンを緑に持ち替えた。
「ここからは行動の理由についてで、推測が混じってくる。まず、ヨークの行動だけど、これは本人から証言があったように元々マイルドちゃんに好意を持っていたというのと、ルイスからの後押しがあったというもの」
「でも、ルイスの後押しは冗談混じりだったんだろ? ヨークはなんで本当に行動しようと思えたのかを不思議がってた」
 ジオの指摘にディーンは頷き、赤ペンに持ち替えた。
「そうだね。一旦、後押しのところは“?”としておこう。それから、アルフを狙っている容疑者Xの意図はわからないので、ここも“?”だね」
 ディーンは書き込み終えると緑色のペンに持ち替え、顔をあげて皆を見渡した。
「で、ルイスはなんでヨークをけしかけたんだと思う?」
「冗談まじりだったんだろう? 理由なんてあるのか?」
 グレンの疑問に、ディーンは鷹揚に頷く。
「うん。その可能性もある。だけど、実際にヨークは行動に移すレベルにまで気持ちが上がったんだ。ただ冗談まじりだっただけなら、きっとそうならない。本人も不思議がっていたくらいなのだから」
「つまり、ルイスにはなんらかそうしたい意図があって、ヨークを洗脳したのではってことだな」
 ロンがディーンに尋ねる。
「憶測に過ぎないけどね」
 ディーンはそう言って、ロンと二人で難しい顔をして黙り込んでしまった。ジオとグレンは二人の様子を伺い、顔を見合わせる。
「こうしててもわからない。ルイスについてちょっと調べてみよう。そこから何かわかるかもしれない」
 結局、ディーンがそう言ってこの話はお開きになったのだった。

 パトロールから戻ったディーンはロンに声をかけた。個人訓練で射撃を練習していたロンはディーンからのハンドサインにヘッドホンを外す。
「ロン、ごめんね。協会からのお達しもあってなんだけど、捕縛術を学んでみない?」
「捕縛術というと、警察なんかで使うあれか?」
「ううん、ロンが加護してもらっている精霊の力をつかったものだよ。この前、ジオが任務で使っていたようなイメージかな」
 老婦人の一件でジオは自身が使役する犬の精霊達を使って、老婦人の動きを制していた。ロンは無言で頷く。
「普段はジオと組んでもらっているからいいんだけど、この先ローテーションで俺やグレンと組んでもらうことになることもあるし、場合によってはそろそろ一人で任務にあたる必要も出てくる」
 ディーンのセリフに、ロンは考えるそぶりを見せた。
「だけど、捕縛術の前に風のコントロールをもう少し覚えてもらわないといけない。全体練習の前に、俺と一緒に練習してみない? もちろん無理強いはしないよ」
「いや、やってみるよ」
 ディーンは自身を真っ直ぐ見つめるロンに、ほっとした顔で笑った。
「よかった。じゃあ早速やろうか」
 そう言って、ディーンはロンを連れて射撃練習室を出てトレーニングルームの別の一角へ向かった。
「今のイメージは勢いで一瞬ぎゅっと圧縮して押し出しているだろう? でも捕縛するには、持続的に適度に強い風の力をかける必要がある。だから、トレーニングは2つあるんだ。持続的に風を送る練習と、適度に強い風を送る練習。それができたら、二つを合わせて使えるようにする。それから、範囲や方向をコントロールできるようにしていこう。まずは、持続的に風を送る練習から」
 そう言ってディーンは、キャンバスのようなものを取り出した。キャンバスと異なるのは、木枠に張られている布はピンと張っているものではなく、伸びやすい性質の布でゆとりがある点だ。ディーンは部屋の隅にトレーニング用で立たせてある鉄棒に布が裏側に来るように木枠部分をロープで括り付けた。
「この布が凧みたいに張るように、風を送ってみてくれるかな」
 ロンは頷いて目を閉じる。一つ深呼吸すると、目をゆっくり開けて布を見つめた。しばらくして、布が一瞬張った。
「うーん。今のは瞬間的な力だよね。そうだな……。もっとこう、ドライヤーみたいなイメージ」
 ロンは頷いて、眉根を寄せて再度布を見つめた。ふわりと部屋の風が動き始めるが、5秒ほどで息が上がり始め、風が止んだ。肩で息をするロンに、ディーンは腕を組んだ。
「OK。じゃあ、まずは10秒キープできるようになっていこう」
 ロンは首を縦に振ったが、難しい表情をしていた。

 木々に囲まれた大学内の公園で、アルフは撮影に挑んでいた。今日は雑誌の撮影である。同い年で同じ大学に通っている俳優ルイスとともに様々なポーズを取っていた。アルフは最近、ルイスと仕事を共にすることが増えていた。
 ルイスは祖父が欧米からの移民で、顔立ちにもそれが色濃く表れている。彼の実家はかなり裕福で、バンコクに居を構える富豪の一つだ。芸歴もアルフよりずっと長い。学部はアルフと違い、芸術系の学部に通っている。
 そんなルイスがアルフと一緒に撮影しているのには理由がある。二人は3ヶ月前に受けたオーディションでドラマの役に抜擢されたのだ。そのため、宣伝も兼ねてドラマのスポンサー企業の商品を紹介したり、雑誌からの取材を受けたりを一緒にやっている。
 二人が撮影を終えると、仕事の邪魔にならないよう遠巻きに見ていたファンらしき女性たちが二人の元へやってきた。外での撮影だとよくあることで、一緒にセルフィーをとって欲しいというのが多い。二人も快く対応し、ファンたちはそれぞれ数枚取ると礼を言って去っていった。
「アルフがいるとファンが増えたって錯覚しそうだよ」
 撮影の後片付けを手伝いながら、ルイスがそんなことを言うのでアルフは驚いた。
「ええっ。あのファンの子達、みんなルイスのファンだと思うよ? 手帳とかにも君の写真ばっかりだったし」
「そうかな……」
「うん、そうだよ。どうしたの、そんなこと言うなんて。何かあった?」
 ルイスはなんでもない、と暗い顔で首を振った。
「おーい! アルフくん、ちょっと来てくれるかー?」
「はぁーい! 今行きます!」
 アルフは返事をすると、ルイスを気にかけながら立ち上がって駆けていく。その様子を見送って、ルイスは近くにいた衣装担当のスタッフに声をかけた。
「これ、僕の私物なんだけど、撮影に使えないかな? アルフに似合うと思うんだけど」
 ルイスはそう言って、赤い石を嵌め込んだ男物のネックレスを取り出した。
「へえ、綺麗だね! うん、今日のテイストにも合うし使ってみるよ。ありがとう!」
 スタッフはそう言ってアルフの元へ向かっていく。ルイスの目と赤い石がキラリと鈍く光った。
 その日、アースとマイルド、そしてアルフがGarden Spiritsへと連れ立ってやってきたのを見て、ジオたちは眉を顰めた。マイルドは顔色が悪く、アルフも調子は悪そうだ。アースだけが比較的元気そうな様子だった。皆学校帰りなのか、制服を着ている。Garden Spiritsの面々に視線が飛び交った。一つ頷いてディーンが3人に近付いた。
「いらっしゃいと言いたいんだけど、ちょっと顔色が悪いね。ひとまず奥で休んで」
 そう言って、ディーンはロンに眴して3人をバックヤードへ案内していく。ロンも頷きを返してグレンに近寄る。時計の長針はちょうど5と6の間を示している。ラストオーダーの時間は過ぎているため、調理担当のグレンとロンの仕事はほとんど残っていない。
「こっちは任せとけ。早めに閉めてそっちにいくから」
 ジオも親指を上に立てている。ロンは頷いてバックヤードへと向かった。
 ロンが扉を開くと、マイルドが仮眠用ベッドに横になったところだった。ディーンが足元にブランケットをかけてあげている。
「何があったのか聞いてもいいかな?」
 アースは頷いて話し始めた。曰く、アースとマイルドは学校で同じクラスなのだそうだ。最近になって仲良くなり、たまたま今日は店に行こうという話になったという。そして、店の近くでアルフとばったり会い、その後マイルドの体調が悪化したとのことだった。
「店が近くだし、とりあえず外にいるよりはマシかなと思って連れてきたんです。兄ちゃんには連絡しておいたんですけど」
 タイミングから逆算すると、おそらくジオは手が離せず確認できていなかったろう。ディーンはアースに礼を言ってロンを部屋の片隅に連れていった。
「マイルドちゃんは頭が痛いらしい。店に入ったら少し楽になったと言っていたから、少し休んでもらって様子を見ようと思う。知り合いの医者には連絡したし。ちょっと気になるのはアルフの顔色が悪いことと、嫌なカンジがあることかな。さっき軽く払ってみようとした時にうまくいかなかったから、その辺の霊が憑いたわけではなさそうだし、原因がわからないと対処が難しい類かもしれない」
 ロンはアルフたちの背中を見つめて眉間に皺を寄せた。
「俺もこのところ毎晩祓ってはいるんだけどな。今日は特にひどいな」
「そうなのか。とすると何か持ち物が影響しているかもね。調べられるかな」
「聞いてみる」
 ロンはアルフに声をかけ、隣にあるもう一つの仮眠室へ連れ出した。
「どうしたの、ロンさん」
「それはこっちのセリフだ。お前、顔色悪いぞ。お前も少し休め」
 そう言って、仮眠用のベッドにアルフを促した。
「こっちにもベッドがあるんだね。すごい」
「あっちはお客様用だし、女の子と同じ部屋にはちょっとな。従業員用のこっちで悪いけど。あ、横になる前にちょっと座ってくれ」
 アルフは大人しくベッドに座った。気怠げで、背中が曲がっている。ロンはお湯をタオルに含ませて絞り、アルフに近寄った。アルフは目の前に立ったロンをぼうっと見上げて首を傾げた。
「脱いで」
「えっ」
「汗かいてるだろ。冷えると良くないから」
 ほら早くとロンに促されて、アルフはドギマギしながらも大人しくシャツのボタンを開け始めた。下着も脱いで上半身裸になったアルフを、ロンは丁寧にタオルで拭いていく。一通り拭き終えると、立ち上がってクローゼットを開けた。中から従業員用の替のシャツを取り出すと、アルフに放り投げる。
「それ、着とけ」
 アルフが脱いだ下着とシャツをハンガーにかけて部屋の隅に吊るすと、ロンは振り返った。アルフはシャツのボタンを閉めて、横になろうとするところだった。
「じゃあ、俺はちょっと店に戻るけど、またすぐくるから寝て待ってろ」
 こくこくと頷くアルフを確認して、ロンは部屋を出た。
 閉店を少し前倒ししてバックヤードに集まったジオたちGarden Spiritsの面々は、ミーティングルームで二つの仮眠室の様子を監視カメラ越しに確認しつつ簡単に状況を共有した。
「マイルドちゃんはアルフの影響かと思ってたけど、どうも違うみたいだな。今はアースくんに様子を見てもらっているけど、アルフと引き離しても体調は回復していないし。それにさっき軽く祓ったけど効果はなかったから、おそらく物か何かに呪いが仕込まれていると思う」
 ディーンの言葉に、ジオが口を開いた。
「このメンバーで感知型は俺しかいないし、俺が様子を見てくるよ」
「頼むよ。アルフの方はどうだい」
「身につけているもので怪しいものはなかった。荷物はまだ確認できていないから、ジオ、後で見てくれるか」
「わかった」
「グレン、ジオのバックアップを頼むよ。除霊が必要になるかもしれない」
「あいよ。やっと俺の出番が来たかぁ」
 ぐるぐると肩を回すグレンと共にジオはミーティングルームを出た。

 ジオとグレンが客用仮眠室へ入ると、マイルドは横になっていた。ジオは眉を顰める。見慣れない紅いアクセサリーがマイルドの首元にあった。
「アース、悪いが席を外してくれるか。ちょっとマイルドちゃんに聞きたいことがあるんだ」
「わかった。廊下で待ってるね」
 グレンと共にアースが廊下へ出たのを確認すると、ジオはベッド脇の椅子に腰掛けた。
「具合はどうかな」
「ちょっと、良くなったみたいです。ありがとうございます」
 そう言いつつも、マイルドの顔色は優れない。
「俺たち、まだ仕事があるからもう少し休んで待っててもらえるかな。アースと一緒に家まで送っていくよ」
「いえ、そんな。大丈夫ですから」
「心配なんだ。送らせて?」
 ジオが優しく笑いかけると、マイルドは渋々と頷いた。
「よし。じゃあそういうことで。そうだ、そのアクセサリー、外したほうがいいんじゃないかな。痛くない?」
 ジオの言葉に、マイルドははっと首元に触れた。まるでそのアクセサリーに初めて気が付いたかのようだ。
「そうですね。外してみます」
 マイルドは肘をついて起き上がると、首元をいじった。が、なかなか外せない。
「手伝うよ。ちょっといいかな」
 ジオが手伝いを申し出ると、マイルドは大人しくジオに背を向けた。ジオがネックレスの金具に触れるが金具が動かない。何度か試しているうちに、マイルドの息が上がり始めた。ジオははっとしてマイルドの顔を覗き込んだ。首が絞まっているかのように首元に両手を持ってきてネックレスを下げるような仕草を見せるマイルドに、ジオは険しい表情で監視カメラの方を一瞬振り返ったのち、マイルドの苦しそうな目をみて肩に触れる。
「ごめん」
 一言、ジオは呟くと目をそっと閉じた。そして次の瞬間に目を開いたときにはジオの瞳はいつもの茶色ではなく、ブルーとグレーのオッドアイになっていた。
 マイルドの首元右側にジオは顔を寄せ、ネックレスを思い切り噛みちぎった。直後、ネックレスから禍々しい気が立ち上り、霧散する。マイルドは一気に咳き込んだ。
 徐々に呼吸が落ち着いてきたマイルドは、ジオの顔を見て驚いたように目を見開いた。
「どこか……痛いところはない?」
 オッドアイのジオはマイルドの背をさすり、自身も肩で息をしながら優しく問うた。マイルドはその優しく気遣う瞳と声音にどきりとした。と同時に、強烈な眠気がマイルドを襲った。
「大丈夫です……でもすごく……眠い……」
 マイルドはオッドアイのジオの胸元に頭を預ける。そっと髪を撫でられ、瞼が自然に落ちていった。眠りに落ちる前、マイルドは優しい声を聞いた気がした。
「夢だよ。眠れ」

 再び、Garden Spiritsの面々はミーティングルームに集まった。マイルドは深く眠っており、アースがそばで宿題をしながら様子を見ている。アルフは6時半ごろになると、撮影があるからと言って店を出て行った。
 マイルドが首につけていたネックレスは、真ん中についていた石が割れ、鎖はちぎれ、見るも無惨な姿になっていた。ジオがみたところ、もうモノは憑いていないらしい。
「写真は撮ったし、悪用されないように燃やしてしまったほうがいいだろうね」
 ディーンの言葉に、グレンはウキウキと処分用のものが入った袋にネックレスの残骸を片付ける。後で裏庭の専用スペースでまとめて処分するのだ。燃える類いのものは火の精霊で浄化するが、金属などの燃えないものは水の精霊の力で浄化されたのちにリサイクルセンターへと送られる。
「呪いの類なのはわかってるけど、問題は誰がやったかだね」
 呪いを媒介する物を破壊しても、大元が断たれない限り同じことが繰り返される。それどころか、より強力な呪具が使われてしまうケースも多い。アルフの件と同様、できるだけ早く犯人を見つける必要がある。
「ジオはマイルドちゃんが目を覚ましたら、どこで買ったのか、それか誰からもらったのか聞いておいて欲しい」
 ジオは黙って頷いた。瞳はいつもの焦げ茶色に戻っている。
「それから、この前ロンが見つけてきたアルフくんへの呪いの件だけど」
 そう前置きして、ディーンはディスプレイに先日キーホルダーの中から見つかった紙を映し出した。
「これはやっぱり呪いではあるんだけど、アルフくんの名前はかかれていなかった。持ち主を呪う類いのものだったんだ。犯人は直接的な知り合いじゃない可能性がある」
 ディーンの説明にロンは首を傾げた。
「アルフは知り合い以外からのプレゼントは受け取らないって言ってたぞ。前にGPSが仕込まれていて事件になったことがあるからって」
「そうすると、あのキーホルダーはやっぱり知り合いからだったってことか。でも、アルフ個人を狙ったわけじゃない?」
 グレンの仮説をジオは否定した。
「そうとも限らないだろ。アルフに渡してるんだから」
 それもそうだな、とグレンは腕を組んで唸った。
「もしこれが、仮にだぞ、無差別だとしたらエラいことだぞ……」
 グレンの言葉に、ディーンたちは険しい顔で黙り込んだ。
 数秒ののち、沈黙を破ったのはロンだった。
「そうだ、ルイスについて何かわかったことはあるか?」
「いや。住んでいるところぐらいだよ」
「どこだ?」
 ディーンが地図を表示させ、ポインタで示すとジオとロンは顔を見合わせた。
「そこって……」
 そこは、ジオとロンがパトロールの帰りに立ち止まったアパートだった。
 
 アルフは次々とフラッシュが焚かれる中、スタジオでポーズを取っていた。その首元には、紅い石の嵌ったネックレスがあった。
 強がって撮影に来たものの、アルフはどんどん強くなる頭痛に内心で後悔していた。
(次の休憩になったら頭痛薬を飲まなきゃ……)
「よし! いったん仕上がりを確認するからちょっと休憩してて!」
 監督の声に、アルフはほっと息を吐いて用意された席へ向かう。数歩進んだのち、アルフは目眩に襲われた。視界がグルンと回転し、身体から力が抜けて尻餅をつく。ドシンと尻に衝撃があったが、どこか遠い感覚でアルフの意識はすうっと遠のいて行った。
 パトロール担当のディーンとグレンが店を出発して間もなく、マイルドが目を覚ましたとアースから知らされ、ジオとロンはホットミルクを持って客用の仮眠室へ向かった。
 ノックをして部屋へ入ると、マイルドはベッドで起き上がっていた。ジオがホットミルクを渡すと、マイルドは受け取って一口飲み、ほっと息を吐いた。
「気分はどう……?」
 気遣わしげなジオの顔をマイルドはじっと見つめた。ジオの瞳は焦げ茶色だ。マイルドはさっき朦朧としながら見たものは幻だったのかもしれないと思った。
「ずいぶん楽になりました。ありがとうございます。ごめんなさい。ご迷惑をおかけしてしまって……」
 申し訳なさそうに小さくなるマイルドに、ジオは首を横に振った。
「迷惑なんかじゃないよ。いつでも頼ってくれていいんだ」
 安心させるようにジオは微笑みかけ、ロンもジオの横で頷く。
「ありがとうございます」
 マイルドは遠慮がちに笑顔になった。ロンとジオはマイルドに微笑みを返し、手を握ったり肩を叩いたりする。
「申し訳ないんだけどもう少し待っていてもらえるかな。俺たち、まだちょっと仕事があるから」
「ありがとうございます。宿題して待ってます」
「うん。ごめんね。……ところで、あのネックレスなんだけど、どこで買ったのか教えてもらえないかな? 外すときに壊しちゃったから、弁償したくて」
 ジオが申し訳なさそうにマイルドに問うと、マイルドは言いにくそうに口を開いた。
「あれは貰い物なんです。衣装のスタッフさんが私によく似合うからって。でも確かスタッフさんも誰かに貰ったって言ってました」
「誰だったか覚えてるか?」
 ロンの問いかけに、マイルドは首を捻った。
「……ルイスさん……?」
 ジオの横で聞いていたロンは、その瞬間血相を変えて部屋を飛び出していく。ジオは慌てて追いかけ、廊下に出た。
「おい、どこ行くんだよ!」
 ジオの慌てた声を背中にロンは叫んだ。
「アルフの現場! あいつ、今日はルイスと一緒なんだ!」
 ジオははっと目を見開くと、部屋に戻った。びっくりしているアースとマイルドに戻るまでこの部屋で待つように言い聞かせると、部屋を出た。廊下を走りながらグレンに電話をかける。数秒後、グレンが電話に出た。
「どうした?」
「ネックレス、ルイスがプレゼントしたものだったって! それでロンがアルフの仕事場に向かってる。俺も今追いかけてる!」
「ジオ、現場はどこだ?」
 ジオはガレージに着くとバイクへ乗る準備をしているジオに尋ねた。
「ロン! 現場ってどこ?」
「スタジオ! 車だと渋滞に巻き込まれるからバイクで行く! ジオはディーンたちを迎えに行ってくれ!」
「わかった! スタジオの住所は?」
「今送った!」
 ロンはそう叫ぶとバイクへ乗って飛び出して行った。ジオも車に乗り込み、ディーンたちの居場所へと向かった。
 ものの10分ほどでスタジオに着いたロンは、スタジオから搬出されていく道具を見て嫌な予感を覚えた。
「あの、アルフの同居人で彼を迎えに来たんですが、アルフはどこに?」
「アルフくん? え? もう帰ったよ?」
「何かあったんですか?」
「何かも何も、スタジオで倒れちゃって。30分くらい前かな。ルイスくんが送って行ったよ。というか、倒れたって連絡が来たから迎えに来たんじゃないのかい? 君ほんとにアルフくんの同居人?」
「ちっ! あのバカっ」
 思わず舌打ちを漏らし罵ったロンにスタッフは目を丸くし、益々疑いの目を強めた。
「あ、すみません。ありがとうございます」
 尚も何かを言おうとするスタッフにロンは慌てて頭を下げると駆けだした。バイクに戻りながらグレンに電話をかける。
「グレン? 今どこにいる?」
「そっちに向かってる。なんかあったか?」
「アルフはもう帰ったらしい。30分くらい前にスタジオで倒れてルイスが送って行ったって」
 グレンが電話の向こうであー、と頭を抱えたような声を上げた。
「ルイスのアパートだったらお前の方が近いな。俺たちは念のためお前ん家に向かう。ここからなら5分で着くはずだ。いなかったら即そっちに向かうけど、多分そっから15分はかかる」
「わかった! こっちも着いたら連絡する」
 手早くヘルメットをかぶると、ロンは再びバイクを走らせた。

 ロンがルイスの住んでいるアパートにたどり着いた時、ロンは背筋に嫌な感触を覚えた。風の精霊が怯えている。
「こっちがビンゴだな」
 ロンはチャットでグレンたちに知らせる。すでにグレンからもロンの家にはアルフはいなかったとメッセージが届いていた。
(アルフはどこだ……?)
 ロンはアパートを見上げ、灯が点滅する部屋を見つけた。
(あそこか……! 1、2、3……4階だな!)
「今から突入する! 着いたら道路から見て手前の左端、4階の部屋に来てくれ!」
 片耳にはめた無線イヤホンに向かってロンは叫び、アパートに入るとロビーに入ってすぐ左手の階段室へ駆け込んだ。はやる気持ちを抑えつつ、ロンは一気に駆け上がる。駆け上がりながら、位置関係を思い出す。
 1分もしないうちに4階にたどり着き、ロンは階段室から廊下へ出る扉を開いた。廊下を右に曲がり、真っ直ぐ駆ける。部屋の前に着くと、ドアノブをつかんだロンの手にバチっと静電気の火花が散った。右手に軽い痛みを覚えつつ、ロンはドアを引く。扉はあっさりと開いた。
「アルフ!」
 部屋へ飛び込むと、リビングで金髪の男が一人倒れている。背格好からアルフではないことを見てとり、ロンは部屋中の扉を開いてアルフの姿を探した。
(いない……どこに行ったんだ。)
 突然、ロンの後ろでドアが音を立ててしまった。
「ジャマヲスルナァ」
 リビングの床で倒れていた若い金髪の男が、ドアの前に立ち、だらりと腕を垂らしてしゃべった。目は血走っている。
「……っ」
 ロンは銃を取り出して金髪の男に打ち込む。男がどっと倒れた。ロンは扉を再度開け、銃口を男に向けたまま低く問うた。
「アルフはどこだ」
「……ハッ」
「どこだと聞いてる」
「ハハハハハハハッ」
 金髪の男は目を見開いたまま上を向いて甲高く笑った。
「答えろっ!」
「ハハハハハハハッ モウスグダッ ハハハハハハッ」
 尚も上を向いて笑い続ける金髪の男に、ロンははっと目を見開いた。
(上! 屋上か!)
 ロンは踵を返し、部屋を飛び出した。その時、近くで車のブレーキ音がした。どうやらディーンたちが到着したようだ。ロンは廊下を駆けながら無線イヤホンに向かって叫んだ。
「俺は屋上に向かう! ディーンたちはルイスを頼む!」
 階段室の扉を開く直前、了解と短く答えるディーンの声がロンの耳に届いた。ロンは再び駆け上がり始めた。屋上まではあと4階分、階段を上がらねばならない。呼吸はすでに荒い。気持ちだけがはやるばかりで足は重い。
(くそっ。アルフ、無事でいてくれよ!)
 心の中で悪態をつきながら、ロンは全力で階段を駆け上がって行った。

 アパートの屋上では、夜風が吹き荒ぶなかを細身で長身の端正な顔立ちをした男が一人、虚な目をしおぼつかない足取りで端へ向かって歩いていた。アルフである。首元には紅い石のネックレスが光っている。
 アルフは朦朧とする意識の中、思い通りにならない身体を必死で押し留めようとしていた。だが、思いも虚しく体は屋上の端に向かって動いていく。
(死にたくないよ……。やりたいこと、まだたくさんあるのに)
 思い浮かぶのは薄らと無精髭を生やした黒髪で端正な顔立ちの同居人だ。
(ロンさんの言うとおり大人しく休んでおけば、こんな目に遭わなかったのかな……)
 アルフの視界は涙で歪んでいく。
(会いたいよ、ロンさん……)
 その時、アルフは屋上の重い金属の扉が勢いよく開かれる音が遠くで聞こえた気がした。
(誰だろう……。誰でもいい。助けてほしい……)
 声にならないアルフの叫びは、夜風に攫われていく。直後、アルフの耳に想い人の声が飛び込んできた。
「アルフ!」
(ロンさん……? そんなわけないよね……。俺、やっぱり死ぬのかな……)
 涙で霞む視界は、すでにバンコクの夜の明かりがいっぱいに広がっている。もう少しでアパートの端にたどり着いてしまう。止まりたくても、体は思い通りにならない。誰かが駆けてくる音が聞こえる。
「アルフ! とまれ! アルフ!」
(嗚呼……。ロンさんの声だ……。やっぱり、俺、死ぬんだ……)
 アルフの右足が端にあるフチにかかった。グッと体重が乗る。思い通りにならない体のどこにそんな力があるのかアルフはどこか不思議に思いながら、体がふわりと宙に投げ出される感触を感じた。
 落ちる寸前、アルフの視界に声の主が入った。
(嗚呼……! ほんとにロンさんだったの……?)
 アルフの表情が切なく歪んだ。
「アルフ……!」
 ロンの悲痛な叫びが夜闇に木霊した。
 直後、一陣の風が吹き、アルフの体を上へ押し戻した。
(えっ……?)
 だが、アルフの体を支えるには不十分で、再びアルフの体は徐々に傾いでいく。それでも、重力に逆らった動きをしていることは、朦朧としたアルフにも理解できた。そして、数秒後に支えを失ったかのような感触になる。
(今度こそ落ちる……!)
 スピードを増した傾き速度に、アルフは死を覚悟した。再び視界の端にロンの姿が映った。肩で荒く息をしながら、アルフの方を見つめている。
 二人の視線が一瞬交錯した。ロンの手がアルフの方へ伸び、空を切った。
 伸ばした手は空を切った。支えようと風を送ったが保たなかった。
 ロンは無力感に打ちひしがれていた。あの時、アルフを助けられなかったことに。
 アルフの体が再び宙に投げ出されたとき、それを押し留めたのはジオだった。
「ロン! アルフを捕まえろ!」
 ジオは犬の精霊たちにアルフの体を支えさせ、押し留めたのだ。ロンはアルフに駆け寄り、上半身にタックルして屋上の床へ押し倒した。上から馬乗りになり、アルフの首元に光るネックレスを掴む。アルフの表情が苦悶に満ちた。
 駆け寄ってきたジオが、オッドアイになってネックレスを噛みちぎった。黒いモヤが霧散し、アルフがどっと気を失った。その後、ルイスと共にいたディーンたちがルイスの部屋で暴れまくるソレと対峙して、ディーンが応急処置として部屋を封じたのだった。
 あの日から3日。衰弱もしていたアルフは今日まで念のため検査も兼ねて協会の関連病院で入院中である。バックヤードで項垂れるロンを、ジオとグレンは気遣わしげに見つめた。
「協会に問い合わせていたあのアパートについて、いろいろわかったよ」
 ディーンは入室すると、ロンの肩を叩いたのちに報告を読み上げていく。曰く、あのアパートが建っていた土地には、もともと殺人事件が起きた一軒家が立っていた。調べたところ、寺などを含めてお祓いをした記録がない。土地を買った人間が外国の人間で、迷信だと一蹴しお祓いをしなかったという。殺人事件は怨恨によるものだった。子供ができたということで離婚を迫られた女性が男性を殺したというものだ。被害者の男性はルイスと似て欧米系の顔立ちをしていた。
 ルイスはつい最近、あのアパートに引っ越した。そしてアパートの土地に憑いていた幽霊の影響を受け、相手の想い人を呪い殺すように操られてしまった。ルイスは実はゲイで、相手がアルフになってしまったのだと言う。幸いにもルイスは当時のことを一切覚えておらず、彼の精神状態はあまり心配する必要はないようである。
「マイルドちゃんが巻き込まれたのはなんでなんだ?」
 グレンの問いに、ディーンは口を開いた。
「どうも、アルフと付き合ってると思っていたみたいだよ? それで、二人が別れれば都合がいいからってヨークをけしかけたりしてたみたい」
 これはルイスがスタッフと話をしていて、その話を覚えていたスタッフがディーンたちに教えたそうだ。
「それから、呪具についてだけど、アルフくんのキーホルダーから見つかったあの紙と同じものがルイスの部屋から見つかった。それと、アパートの裏手にある庭から犬の死体が1体見つかった」
 ディーンが言うには、老婦人の事件があった前日にパトロールでディーンたちが発見していたものと特徴が似ていたそうだ。
「おそらく、これは蠱毒の類だと思う。これらの共通点は、持ち主を呪うこと。犯人はあのアパートの幽霊と見て間違い無いだろうね」
 幽霊となった女性は生前、霊感商法等を行っていたのだと言う。その類にも詳しかったと見ていいだろう、とディーンは語った。
「それで、どうするんだ?」
 グレンが首を傾げた。
「君の出番だよ、グレン」
 ディーンに名指しされ、グレンはキョトンとした。
 土地についた霊は、ディーンでは祓えない。また、ここまで害をなすまでに力をつけた幽霊だと、高名な僧でもなかなか難易度が高い。ジオとロンは言わずもがなである。
「でも、グレンなら火で浄化できるでしょ」
「ええっ。燃やしちゃうのか?」
「それしか方法がない、と言うのが正しいかな。お寺と連携しているとは言っても、この辺でこのレベルの除霊をできる人をってなると予定がね。でも、うかうかしてると被害が拡大しかねないから。というわけで、このあとよろしく」
「えええっ」
「もちろん、消防署には連携済みだよ。単なる火事ってことになると思うけど、もうアパートのオーナーにも話は通してあるし、爆発と倒壊の危険があるってことで周辺住民も含めて退避済み」
「手早すぎるだろ……」
 グレンは感嘆の声を漏らした。
 退魔官協会は普段、あまり表立った活動はしない。というより、世間一般に存在を知られていない。隠していると言ってもいい。タイは特に仏教国で寺の影響力が強いのもあり、別勢力として認知されてしまうのもいろいろと面倒だからだ。その状態でここまでうまく連携できるということは、それだけディーンかディーンのバックアップをしている協会中心で動いているメンバーが優秀であることを示している。グレンは内心で、コーヒーをただ飲みしていたことを後悔した。
「あ、ちなみに残さず焼いてね? 残ると君の階級が落ちるよ」
 さらりと脅され、グレンは悲痛な面持ちになった。手柄を上げる機会が少ない分、こういう時に役に立たないと評価されづらいというわけだ。といっても、もし焼き残しがあると除霊は失敗となり、封を解かれた幽霊が出てきてしまう可能性もある。今回は場所に固定されている幽霊のためそれほど問題にはならないが、それでも周辺地域に及ぼす影響を考えると、必ず成功させなければならないのは確かだった。
「大丈夫。グレンならできるよ」
 ディーンの頼もしい言葉に、断ったら断ったでえらい目に遭いそうだしと内心で震えつつ、グレンは顔を上げた。
「わかった。やってみるよ」
 一行は深夜、件のアパートから数十メートル先のビルの屋上を訪れた。近くからだといらぬ疑いを招く可能性があるためだ。アパート周辺では主に警察と消防の部隊によって中に人が入らないよう警戒されており、物々しい雰囲気となっていた。
 警察と連絡をとっていたディーンが顔を上げ、グレンに合図した。グレンは一つ頷くと、瞼を閉じた。数秒後、アパートから火の手が上がった。あっという間に燃え広がった炎は、アパートを包み込んで燃え上がる。消防が放水を始めた。と言っても、この炎はグレンのコントロール下にあるため形だけだが。
 アパートは三時間ほど燃え続け、全焼した。

 その日の深夜。アルフが目覚めるとロンがベッドの横で手を握ったまま寝落ちていた。アルフは2日前のことを思い出した。
 事件があった翌日の夜、事件からそれまで眠り続けていたアルフは病院で目覚めた。真っ白い天井が見えて、アルフはしばらくぼうっとしていた。息をゆっくり吸って、少しだるさのある体だけれども自分の意思で動くことに驚き、一寸の間、思考が停止した。
(俺……生きてる?)
 ゆっくりと首を左右に動かすと、ロンが近くの椅子に腰掛け腕組みをして眠っていた。
 アルフはゆっくりと上体を起こした。衣ずれの音にロンが目を覚ましハッと顔を上げ、アルフと目があった。
 二人は言葉もなくただ見つめあった。
 アルフの目に映ったロンは、切なげに少し眉根を寄せ、でもどこかほっとしたような顔をしていた。アルフはそんなロンを幻でも見るかのように数秒、ただぼうっと見つめた。そして、アルフの顔がくしゃりと歪み、涙が溢れた。ロンは恐る恐る近づいてきて、ベッドに腰掛けた。
「アルフ……」
 ロンを見つめたままただただ静かに涙を流すアルフを、ロンはそっと抱き寄せた。ロンの手が、アルフの後頭部を優しく撫でる。その温かさにアルフの口から、震えて掠れた声が出た。
「ロン……さ、ん」
 アルフは止めどなく溢れる涙をそのままに、ロンに縋りついた。ロンはアルフを強く抱きしめた。
「こわかった……。もう、死ぬんだって、怖かった……」
 すがりつき、泣きじゃくりながら訴えるアルフに、ロンは謝った。
「ごめんな、俺、何もできなくて」
 アルフは抱きしめられ、涙を流しながら首を横にふるふると振った。アルフは覚えていた。自分を助けようと、必死に叫ぶ姿を。伸ばしてくれた手を。そこからどうやって助かったのかは理解の範疇を超えているけれど、ロンが必死に繋ぎ止めようとしてくれたことを。
「ロンさんは、助けてくれた、よ……」
 今度はロンが顔を歪め、じわりと涙が溢れた。二人はその後、しばらく無言で抱きしめ合っていた。
「ロンさん」
 ひとしきり泣いて落ち着いた後、アルフはロンに呼びかけた。目で続きを問うロンに、アルフは口を開いた。
「退院するまで、毎晩来てくれる……? 一人じゃちょっと怖くて」
 それから毎晩、ロンは仕事終わりにアルフを見舞いにやってきては世話を焼いて、アルフが眠りにつくまで手を握るようになった。深夜に目覚めてもこうしてずっと手を繋いでいてくれるから、アルフは怖くなかった。
 アルフは自分と違う少し固めの髪に指を絡ませ、頭を撫でた。
「ロンさん、ありがとう……」
 アルフは再び眠りに落ちた。
 ロンとアルフの二人を、暖かく優しい風が包んでいた。

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