伸ばした手は空を切った。支えようと風を送ったが保たなかった。
 ロンは無力感に打ちひしがれていた。あの時、アルフを助けられなかったことに。
 アルフの体が再び宙に投げ出されたとき、それを押し留めたのはジオだった。
「ロン! アルフを捕まえろ!」
 ジオは犬の精霊たちにアルフの体を支えさせ、押し留めたのだ。ロンはアルフに駆け寄り、上半身にタックルして屋上の床へ押し倒した。上から馬乗りになり、アルフの首元に光るネックレスを掴む。アルフの表情が苦悶に満ちた。
 駆け寄ってきたジオが、オッドアイになってネックレスを噛みちぎった。黒いモヤが霧散し、アルフがどっと気を失った。その後、ルイスと共にいたディーンたちがルイスの部屋で暴れまくるソレと対峙して、ディーンが応急処置として部屋を封じたのだった。
 あの日から3日。衰弱もしていたアルフは今日まで念のため検査も兼ねて協会の関連病院で入院中である。バックヤードで項垂れるロンを、ジオとグレンは気遣わしげに見つめた。
「協会に問い合わせていたあのアパートについて、いろいろわかったよ」
 ディーンは入室すると、ロンの肩を叩いたのちに報告を読み上げていく。曰く、あのアパートが建っていた土地には、もともと殺人事件が起きた一軒家が立っていた。調べたところ、寺などを含めてお祓いをした記録がない。土地を買った人間が外国の人間で、迷信だと一蹴しお祓いをしなかったという。殺人事件は怨恨によるものだった。子供ができたということで離婚を迫られた女性が男性を殺したというものだ。被害者の男性はルイスと似て欧米系の顔立ちをしていた。
 ルイスはつい最近、あのアパートに引っ越した。そしてアパートの土地に憑いていた幽霊の影響を受け、相手の想い人を呪い殺すように操られてしまった。ルイスは実はゲイで、相手がアルフになってしまったのだと言う。幸いにもルイスは当時のことを一切覚えておらず、彼の精神状態はあまり心配する必要はないようである。
「マイルドちゃんが巻き込まれたのはなんでなんだ?」
 グレンの問いに、ディーンは口を開いた。
「どうも、アルフと付き合ってると思っていたみたいだよ? それで、二人が別れれば都合がいいからってヨークをけしかけたりしてたみたい」
 これはルイスがスタッフと話をしていて、その話を覚えていたスタッフがディーンたちに教えたそうだ。
「それから、呪具についてだけど、アルフくんのキーホルダーから見つかったあの紙と同じものがルイスの部屋から見つかった。それと、アパートの裏手にある庭から犬の死体が1体見つかった」
 ディーンが言うには、老婦人の事件があった前日にパトロールでディーンたちが発見していたものと特徴が似ていたそうだ。
「おそらく、これは蠱毒の類だと思う。これらの共通点は、持ち主を呪うこと。犯人はあのアパートの幽霊と見て間違い無いだろうね」
 幽霊となった女性は生前、霊感商法等を行っていたのだと言う。その類にも詳しかったと見ていいだろう、とディーンは語った。
「それで、どうするんだ?」
 グレンが首を傾げた。
「君の出番だよ、グレン」
 ディーンに名指しされ、グレンはキョトンとした。
 土地についた霊は、ディーンでは祓えない。また、ここまで害をなすまでに力をつけた幽霊だと、高名な僧でもなかなか難易度が高い。ジオとロンは言わずもがなである。
「でも、グレンなら火で浄化できるでしょ」
「ええっ。燃やしちゃうのか?」
「それしか方法がない、と言うのが正しいかな。お寺と連携しているとは言っても、この辺でこのレベルの除霊をできる人をってなると予定がね。でも、うかうかしてると被害が拡大しかねないから。というわけで、このあとよろしく」
「えええっ」
「もちろん、消防署には連携済みだよ。単なる火事ってことになると思うけど、もうアパートのオーナーにも話は通してあるし、爆発と倒壊の危険があるってことで周辺住民も含めて退避済み」
「手早すぎるだろ……」
 グレンは感嘆の声を漏らした。
 退魔官協会は普段、あまり表立った活動はしない。というより、世間一般に存在を知られていない。隠していると言ってもいい。タイは特に仏教国で寺の影響力が強いのもあり、別勢力として認知されてしまうのもいろいろと面倒だからだ。その状態でここまでうまく連携できるということは、それだけディーンかディーンのバックアップをしている協会中心で動いているメンバーが優秀であることを示している。グレンは内心で、コーヒーをただ飲みしていたことを後悔した。
「あ、ちなみに残さず焼いてね? 残ると君の階級が落ちるよ」
 さらりと脅され、グレンは悲痛な面持ちになった。手柄を上げる機会が少ない分、こういう時に役に立たないと評価されづらいというわけだ。といっても、もし焼き残しがあると除霊は失敗となり、封を解かれた幽霊が出てきてしまう可能性もある。今回は場所に固定されている幽霊のためそれほど問題にはならないが、それでも周辺地域に及ぼす影響を考えると、必ず成功させなければならないのは確かだった。
「大丈夫。グレンならできるよ」
 ディーンの頼もしい言葉に、断ったら断ったでえらい目に遭いそうだしと内心で震えつつ、グレンは顔を上げた。
「わかった。やってみるよ」
 一行は深夜、件のアパートから数十メートル先のビルの屋上を訪れた。近くからだといらぬ疑いを招く可能性があるためだ。アパート周辺では主に警察と消防の部隊によって中に人が入らないよう警戒されており、物々しい雰囲気となっていた。
 警察と連絡をとっていたディーンが顔を上げ、グレンに合図した。グレンは一つ頷くと、瞼を閉じた。数秒後、アパートから火の手が上がった。あっという間に燃え広がった炎は、アパートを包み込んで燃え上がる。消防が放水を始めた。と言っても、この炎はグレンのコントロール下にあるため形だけだが。
 アパートは三時間ほど燃え続け、全焼した。

 その日の深夜。アルフが目覚めるとロンがベッドの横で手を握ったまま寝落ちていた。アルフは2日前のことを思い出した。
 事件があった翌日の夜、事件からそれまで眠り続けていたアルフは病院で目覚めた。真っ白い天井が見えて、アルフはしばらくぼうっとしていた。息をゆっくり吸って、少しだるさのある体だけれども自分の意思で動くことに驚き、一寸の間、思考が停止した。
(俺……生きてる?)
 ゆっくりと首を左右に動かすと、ロンが近くの椅子に腰掛け腕組みをして眠っていた。
 アルフはゆっくりと上体を起こした。衣ずれの音にロンが目を覚ましハッと顔を上げ、アルフと目があった。
 二人は言葉もなくただ見つめあった。
 アルフの目に映ったロンは、切なげに少し眉根を寄せ、でもどこかほっとしたような顔をしていた。アルフはそんなロンを幻でも見るかのように数秒、ただぼうっと見つめた。そして、アルフの顔がくしゃりと歪み、涙が溢れた。ロンは恐る恐る近づいてきて、ベッドに腰掛けた。
「アルフ……」
 ロンを見つめたままただただ静かに涙を流すアルフを、ロンはそっと抱き寄せた。ロンの手が、アルフの後頭部を優しく撫でる。その温かさにアルフの口から、震えて掠れた声が出た。
「ロン……さ、ん」
 アルフは止めどなく溢れる涙をそのままに、ロンに縋りついた。ロンはアルフを強く抱きしめた。
「こわかった……。もう、死ぬんだって、怖かった……」
 すがりつき、泣きじゃくりながら訴えるアルフに、ロンは謝った。
「ごめんな、俺、何もできなくて」
 アルフは抱きしめられ、涙を流しながら首を横にふるふると振った。アルフは覚えていた。自分を助けようと、必死に叫ぶ姿を。伸ばしてくれた手を。そこからどうやって助かったのかは理解の範疇を超えているけれど、ロンが必死に繋ぎ止めようとしてくれたことを。
「ロンさんは、助けてくれた、よ……」
 今度はロンが顔を歪め、じわりと涙が溢れた。二人はその後、しばらく無言で抱きしめ合っていた。
「ロンさん」
 ひとしきり泣いて落ち着いた後、アルフはロンに呼びかけた。目で続きを問うロンに、アルフは口を開いた。
「退院するまで、毎晩来てくれる……? 一人じゃちょっと怖くて」
 それから毎晩、ロンは仕事終わりにアルフを見舞いにやってきては世話を焼いて、アルフが眠りにつくまで手を握るようになった。深夜に目覚めてもこうしてずっと手を繋いでいてくれるから、アルフは怖くなかった。
 アルフは自分と違う少し固めの髪に指を絡ませ、頭を撫でた。
「ロンさん、ありがとう……」
 アルフは再び眠りに落ちた。
 ロンとアルフの二人を、暖かく優しい風が包んでいた。