「そう言えば、加藤は兄弟はいるのか」僕は内心の動揺を隠すためにそんな話題を振ってみる。
「いないよ。一人っ子」
「そうか」
「私は親が結婚して最初に出来た子で、私を産んだ後、すぐお母さんいなくなっちゃったんだ」
予想外にヘビーな答えが返ってきてしまった。どうやら加藤に対して家族の話は地雷原っぽい。僕はそれ以上踏み込んで聞くことが出来なくて、もう一度「そうか」と返すのが精一杯だ。空気を悪くしてしまった。でも、当の加藤は平気な顔で、美味そうに冷やし中華をすすりこんでいる。
「緒方、マヨネーズ使ってみる」加藤が三分の二ほど冷やし中華を食べたところで、巨大なチューブを手にした。
「あ、使うのか? 加藤の中の中国人怒るんだろう」
「緒方美味しそうに食べてるもん。チャレンジする」
「最初は少なめにしとけ」
「嫌だよ。やるからには徹底的にやりたい」
加藤はうにゅ~っと、チューブからクリーム色をした半固形物を縦横無尽に皿の上にかけまくる。サラダかよ、とツッコみたくなるほどの量だ。加藤は右手で箸を麺の中央に突き立て、遠慮なしに皿の中身を攪拌させる。みるみるうちに具と麺とマヨネーズが混ざり合いビジュアル的にはちょっとどうかという具合になってしまった。
「では」
加藤は嬉々として、箸で麺を大量に持ち上げて、口いっぱいに頬張る。最初は笑顔だった加藤の顔はだんだんまなじりを下げて少し泣きそうになっていった。咀嚼する速度が明らかに鈍ってる。最終的に加藤はお冷やに手を伸ばして、水で口の中のモノを胃に流し込んだ。
「どうだった」と僕は尋ねた。
「微妙」と加藤は渋面で答えた。
14
昼食を終えて、ラーメン屋を出ると僕達は途端に灼熱の世界に舞い戻る。真上からは太陽の殺人光線が、真下からはアスファルトからの強い照り返しが、僕達を焼き上げようとしている。店を出て一分もしないうちに、僕達はまた汗まみれだ。とてもここにずっとは居られない。さりとて、制服姿で区民図書館や喫茶店に長居すると、下手をすると補導されるかもしれない。僕の家は専業主婦の母が居る。まだ帰るには早すぎる。
「加藤、お前の家で下校時間まで涼ませてくれ」
「いいよ、その前にコンビニ寄らせて。午後に振り込まれてるかもだし」
「分かった」
僕達は銀河商店街のアーチをくぐると、オレンジと赤と紫の配色という自己主張の激しい電飾を看板にしたコンビニエンスストアに入った。店員はアルバイト風の若い男性で、制服姿の僕達を見ても何でもないような顔をして「いらっしゃませー」と感情のこもってない声で挨拶をした。たぶん僕達のように学校をサボってコンビニに顔を出す子供などもう見飽きているのだろう。加藤はきょろきょろと店内を見渡して、ATMを見つけると鞄から財布を取り出しながら歩いて行った。僕は少し離れたところで雑誌の立ち読みをする。すぐに加藤が僕の隣に戻ってきた。
「早いな」
「まだ入ってなかった。残高ゼロ円」
加藤はあからさまに、不機嫌になっていた。
「電話してみたらどうだ?」
「あいつ、私からの電話なんか絶対出ない。この間なんて着信拒否のメッセージ流れたし」
一人娘からの電話を着信拒否する父親。僕は加藤の父親がいったいどんな男なのか想像すら出来ない。年頃の娘が父親を疎ましく感じるというのはよく聞く話だが、その逆もあるものなのか。
「家帰ってお前の叔母さんから連絡してもらうしかないな」
「うん、そうするよ」
「俺が金出すから、飲み物とアイスでも買って行こう」
「ありがとう。さっきのお昼ご飯と、このお礼はいつか必ずする」
僕と加藤は三本のペットボトルのジュースと、カップのかき氷を買ってコンビニを出ると小走りで加藤の自宅を目指した。早く着かないとせっかくのジュースは温くなり、かき氷はただの色つき砂糖水になってしまう。手ぶらの加藤が僕を先導するように、制服のスカートを翻してかなりのスピードで歩道を走る。短めの裾がひらひらと舞って気になって仕方ない。僕はわざと顔を上げて、視線を夏空に、
黒煙があった。
僕達が走って行く先に、細く長い煙があった。僕達は一旦、脚を止めてその煙を見る。「火事?」と加藤が僕を振り返って訊いてきた時、後方からけたたましい音がして、僕達の真横を消防車と救急車が赤いランプを回転させながら、駆け抜けて行った。
「火事だな。もう通報されてるみたいだけど」
「嫌だな。近所っぽい」
「火元が加藤の家に近いとヤバい。確認しないと」
「うん。和さんだったら隣の家が燃えてても気づかずにゲームやってそうだし」
僕達は、再び歩道を駆け出す。いつもならガラガラの歩道が、今はたくさんの人達であふれかえり、人口密度が大幅に増していた。この寂れた商店街にこんなにも人がいたのかと驚くほどだ。皆、僕達と同じ方向に向かって歩いて行く。どうやら目的は同じらしい。黒煙が青空を覆う面積が大きくなるにつれ、人混みも増えていく。僕達は人と人の間を縫うようにして、脚を運ぶ。加藤の家に近づけば近づくほど、人が増え、サイレンの音が大きくなり、煙が視界を埋める範囲が広がっていく。僕は口にはしなかったが、とてつもなく嫌なことを想像してしまう。加藤も同じなのか、暑さなど忘れたかのように、「どいてよ! どけ!」と叫びながら人混みを乱暴に両腕でかき分けるようにして進んでいく。だが、もう人が多すぎて走ることなどままならない。僕と加藤はそれでも、何とか黄色いテープと消防士達で遮断された火事の火の元の最前列までたどり着いた。
加藤の家の庭の木々と駐車してあったベンツが燃えていた。
何人かの消防士は「聞こえてるか?! 窓を割るから離れろ!」とベンツの車内に向かって叫んでいる。
「近づかないで! 爆発する恐れがあります! 皆さん、下がってください!」
拡声器から、口調は丁寧だが怒声に近い声が、この場にいる者全員に、避難を促していた。“爆発”というキーワードに恐れをなしてか、ほとんどの人達は一気に後方へと逃げ出していく。僕と加藤をのぞいて。
「君達も、早く逃げないか! ここは危険だ!」
立ち尽くす僕達にもオレンジ色の防火服を着て、銀色のヘルメットを被った屈強な若い男が叱るような口調で言った。
「ここの家の者です! 叔母がいるかもしれません!」
加藤が負けじと、鋭い声で男に答えた。「君は親族か? 今は下がって、救急車に」彼がそこまで言った時、ベンツのボンネットが火を吐き出して、ガラスが割れる破砕音がした。「生きてるか?!」「分かりません!」「早く扉を開けろ!」緊迫した大人達の声が響き、彼らは燃えさかるベンツの扉を無理矢理こじ開け、車内から、ずるり、と大きな何かを引きずり出した。
「和さん!」
黄色のテープをくぐり抜け、加藤と僕は担架に載せられて、タオルケットのような布を全身にかけられて運ばれる女性へと駆け寄った。顔は見えない。焦げた黒髪と火傷を負い皮膚がケロイド状になった腕だけが、布からはみ出てだらりと下げられていた。
「近づくな! この人はこれから救急車で搬送する! 邪魔だ!」
担架に近づく加藤と僕を消防士が立ち塞がり、行く手を阻む。
「お前こそどけっ!」
加藤は今にもかみつかんばかりの野犬のように、涙声で叫びその消防士の胸に拳を入れた。非力な加藤のパンチなど、きっと彼には何ともなかったろう。だが、彼は加藤のすさまじい剣幕に気圧されたように、両目を見開いた。
「その子は、その女性の親族です! 一緒に救急車に載せてください!」
背後で、さっきの若い消防士の声がした。すると、目の前の消防士は加藤に「分かった。君も病院に来なさい」と加藤が和さんと同行することを許可した。そして、「そっちの君は?」と僕を見た。
「彼女のクラスメイトです」
「なら、君はすぐに学校に戻って、この子の担任にこのことを伝えなさい。これから行く病院は――……」
そこからの僕の記憶は、ひどくあいまいなものになっていた。未だに燃えさかるベンツとそれを鎮火させようと必死に消火活動をする消防隊員。たまに飛んでくる火の粉。「和さん、和さん」と泣きながら担架で運ばれていく女性の後を追う加藤の背中。赤い回転灯を明滅させ、サイレンを鳴らして車道を走っていく救急車。僕は全身に焼けるような熱気を浴びながらも、その場に足裏が貼り付いたように突っ立っていた。あれ? 僕はいったい何をしているんだ? 加藤はどこに行ったんだ? おかしいぞ。さっきまで一緒に居たのに。昼飯を一緒に食べて、コンビニでアイスを買って、これから、加藤の家で、一緒に涼みながら色々な話をしようと思っていたのに。
加藤、何故、君はここにいないんだ?
僕は、気がついたら、黄色いテープをくぐって、加藤の家から離れて、ふらふらと歩道を一人で歩き出していた。かろうじて、携帯で学校に連絡をしたことは覚えている。そして、家に帰ると、母親は僕の姿を見て、大層驚いていた。制服のあちこちが焦げていて、全身が汗まみれで、ひどく顔色が悪かったらしい。自分では覚えてないが僕は母に「寒い」と言ったらしい。母は僕を病院に連れて行こうとしたが、僕は玄関にうずくまって泣いたという。僕は震えながら思った。
加藤に会いたい、会わなきゃ、と。
15
その日の夕方、気絶するようにして居間のソファーで眠っていた僕は突然、目を覚まし、母親が止めるのを振り切って、加藤の家に向かった。火事は収まっていたが、昼間見た黄色いテープが張り巡らされ、中には入れない。門の向こうをのぞくと、庭にはベンツの残骸と黒い奇妙なオブジェのように見える燃えた木々があって、壁の一部は黒く焼け焦げていた。ブザーを押した。が、返事はない。加藤はまだ病院にいるのだろうか。きっとそうだ。ここには彼女はいない。僕はようやくその考えにいたると、一番近所の総合病院に向かって駆け出した。僕が学校に電話した時、口にした病院だ。ここから自転車で五分。徒歩なら十分。僕は西日を浴びて、影を歩道に舞い踊らせながら、七分でその病院に着いた。
ガラス製の自動扉をくぐって、僕は総合受付に向かうと、女性の職員に尋ねた。
「加藤和さんという方が、ここに入院してるはずなんですけど、どこの部屋にいますか?」
「失礼ですけど、ご家族の方でしょうか?」
眼鏡をかけた若い女性が、僕をチラリと見た。
「いえ、その人は、僕のクラスメイトの、加藤杏さんの、叔母さんで、それでお見舞いに。あの、杏さんもいるんですよね?」
僕はつっかえながらも何とか、頑張って話す。
普段、家族や同世代の人としか話さない僕は、すごく緊張した。心の殻に亀裂が走る。脚が震えているのが分かる。受付の女性はどうやら、あまり僕を彼女達のいる病室に案内はしたくないようだった。でも、僕は必死に話し続ける。大切な殻を自らの手で叩き割って。クラスメイト代表で来ただとか、和さんとも普段からとても親しくしてもらったとか、ウソを並び立てて。とにかく加藤に会いたかった。その一心で僕は眼鏡の女性を説得し続ける。
「……担当の看護師に確認してみます」
根負けした彼女は、受話器を取って、電話をし始める。しばらく会話をした後、その女性は静かに受話器を置いた。
「ごめんなさい。今は会いたくないそうです」彼女は済まなさそうに僕に言った。
「加藤がそう言ってるんですか?」
「今は誰にも会いたくないって、せっかく来てくれたのにごめんなさい、と伝えてくれって言っていたそうよ」
僕は彼女の返答を聞くと、黙ってうなだれて受付を離れ、たくさんのソファーが並んだ待合室の中央付近まで歩いて行った。天井を仰ぐ。この上のどこかの階に、加藤はいる。一人で重態の親族のことを考え、心を痛めているのだ。親に連絡はついたのだろうか。加藤は母親とは小さな時に別れ、父親との関係も悪いようだった。唯一頼れる叔母があんなことになり、大丈夫だろうか。いや、大丈夫なはずがない。僕はいっそ、この病院のすべての階の部屋を訪ねて、加藤を探してやろうかとすら思った。でも、出来なかった。加藤自身が誰にも会いたくないと言っているのだ。僕は傷ついている彼女の意思を無視することに躊躇した。僕は再び受付に行くと、メモ用紙とボールペンを借りた。僕はそのメモ用紙に自分の携帯の番号とメアドを記し、『落ち着いたら連絡してほしい。緒方透』と書き添えた。
「加藤にこれを渡してくれませんか?」
僕はあの眼鏡の女性にメモを渡した。彼女は頷くと、「必ず渡します」と微笑してくれた。僕は彼女に一礼をして、病院の外へ出た。陽はすっかり傾き、街灯とタクシーのヘッドライトがヤケにまぶしく感じた。僕はしばらく歩いてから、病院を振り返る。すべての病室の窓に明かりが灯っている。加藤はどの部屋にいるのだろう。僕はずっとここに立っていたいと思った。そうすればいつか、あの病院の入り口から加藤が出てきてくれるはずだから。彼女の顔を見られるから。僕はそんなことを考えながら、胸ポケットにしまってある携帯電話をぎゅっと握った。
今はこれだけが、僕と彼女を繋ぐ唯一の線だった。
16
次の日の早朝、加藤杏からのメール。
前略、緒方へ。
昨日は会えなくてごめん。
あの時はあんたの顔見たら、私、何するか自分でも分からなくて怖かったんだ。
心配させてごめん。来てくれて嬉しかったよ。
昨夜は和さんのお通夜で、これから告別式なんだ。
東京から来た馬鹿親父の秘書と二人だけでね。
あいつ、自分の妹が死んでも来やしないんだ。ふざけてるよね。
それから、私、また転校することになったよ。
保護者の和さんが死んじゃったから、S島にある全寮制の学校に移るんだ。
そこは、私みたいな頭のおかしい子達を治療しながら、勉強も教えてくれるんだってさ。
そんな学校があるなんてびっくりだよ。
これで、私のヒドデナシも治って、人になれるかもしれないね。
別になりたくもないけど(笑)
私はたまに思うんだ。
本当は私や緒方がマトモで、周囲の皆がヒトデナシなんじゃないかって。
だって、本気で好意を持ったら救ってあげたいじゃん?
そのために私達に出来ることって何なんだろうね。
S島は静かなところらしいから、一人でゆっくり考えてみるよ。
じゃあね、緒方。
生きててね。
絶対、死んじゃダメだよ。
あんたを殺していいのは、私だけ。
私が殺すのは、あんただけだよ。
17
皐の作戦が失敗した。
東の空が明るくなり、夜の闇が溶けだしていく早朝。私と皐は、施設と外を遮る鉄柵の前で男達に乱暴されていた。私のTシャツは縦に引き裂かれ、ジーンズは膝まで下ろされていた。下着はとっくに剥ぎ取られていて、鉄柵の前で正体不明の黒ずくめの男がその下着の匂いを嗅ぎながらオナニーをしていた。私自身はやはり誰だか分からない三人の男達に犯されていた。乳首を乱暴に揉まれて、噛まれ、強引に××を散らされていた。私は滲んだ視界を皐の方に移す。皐は怒りと悲しみの入り混じった声で男達を罵倒していたが、両腕を一人の男に抑えつけられ、別の黒い覆面を被った背の高い男が彼女に覆い被さっていた。
何でこんなことになったんだろう。
籤のルールを破ったからだ。
ルールを破った者には、相応の罰が下される。それはこの柵の中でも柵の外でも同じことだった。たとえ、それがどんなに理不尽なルールであろうと。
――お願い、杏、あたしと逃げて。
皐に昨夜、そう懇願されて私は実行した。
この養護学校(という名の牢獄)で私達は養鶏所の鶏みたく薬の混ぜられた餌を食わされて、授業という名の洗脳を施されていた。私は、すぐに皐に同意した。籤のルールだって冗談じゃない。どこの誰とも知らない男達の慰み者になるために、私は生まれきたんじゃないし、生きてきたんじゃない。ロリコンの変態どもに抱かれてやるために生きてきたんじゃないんだ。
だけど、現実はあくまでも非情だ。
部屋から逃げ出して、脱走しようとした私達を待っていたのは、盗んだ鍵では開かない重い扉と、いつも無表情に私達を見下ろしている三メートルの鉄柵、それに茂みに隠れていた男達だった。校内の保健室で毎夜繰り広げられる陵辱劇の場所が、ここになっただけ。
犠牲者に私が加わっただけ。
私達は鉄柵も、ルールを乗り越えられなかったのだ。
「うわあっ、ああっ、ああああああああああああああっ!」