(鵺とは、恐ろしい姿をした伝説上の生き物……)
出かける準備をしながら、父から渡された本の内容を思いだす。
──猿の顔、狸の胴、虎の手足に蛇の尾をした、おぞましい姿の物の怪。伝承によって猫の頭だったり、虎の胴だったりと姿の違いはあれど、複数の動物の部位によって成る醜怪な化け物としての描写は定着している。鵺は夜に不気味な声で鳴き、その鳴き声は凶兆とされ、実際に多くの災いを呼んだといわれている。鵺は鳥だという説もあるが、過去には人間によって退治された記録もあり、真相は謎に包まれている──
鵺について何も知らなかった紗代には、驚きだった。
(本当の姿は、おぞましい化け物……? そんな方には、見えない)
玄夜からは、三日に空けず手紙が届く。流麗な文字でしたためられる内容は『変わりないか』と紗代への心配がほとんどで、彼自身のことには、あまり触れられていない。
紗代は、生まれてはじめて手紙の返事を書いた。何を書いていいのか見当もつかず、見かねた使用人たちが知恵を絞って助けてくれた。
手紙を書いているあいだは、どうしたって玄夜のことばかり考える。
ほんの半月前までは、見知らぬ存在だった鵺の青年。
今だって、知らないことのほうが多い相手。
それなのに、彼について悩む時間が増えるにつれて、彼を身近な存在のように感じる。
なんだか不思議な心地だった。
『週末に出かけよう──』
五度目の手紙で町に誘われ、今日がその約束の日。
(お父様には、婚約しているのだから構わないと、お許しをいただいたけれど……)
年頃の男女が二人で町に出かけるなんて、なんといわれるかわかったものではない。
その不安のせいだろう。やけに鼓動が早いのだ。
「お嬢様、お見えになりましたよ」
「は、はい……!」
使用人への返事まで、声が上ずってろくにできない始末だ。
(落ち着いて。粗相のないように……)
一緒に出歩く玄夜に恥をかかせないよう、彼の贈ってくれた着物と帯を使わせてもらった。夏の終わりの季節柄を考えて、灰がかった水色の地に白の萩柄の着物を選んだ。着物自体が美しいのだから、着ているのが紗代だとしても、みすぼらしくは見えないはずだ。
部屋を出た紗代は、視線を感じて、廊下を振り返った。
廊下の奥からは、初子が紗代を睨んでいる。
──紗代が玄夜に嫁ぐと知った比佐と初子は、金切り声で父に詰め寄り、紗代の破談を求めていたが、父もさすがにそれは認めなかった。
『荘宕なんて、名前も聞いたことがありませんのに!』
『鵺とはそういう、謎の多い一族だ。だからこそ、姻戚になっておいて損はない。……それに、条件がいい。断れるはずがないだろう──今後は紗代には手を出すな。家の仕事もさせなくていい。そんな暇が合ったら、あやかしについて学ばせるんだ。わかったな』
家長の通達である。いつもなら紗代を罵り、使用人として顎で使う比佐が、部屋を与えられて雑用から解放された紗代に、沈黙を守っている。
初子も父の言いつけに不承不承ながら従っているが、ずっとこの調子で、監視するように陰から紗代を睨みつけていた。
構えば初子の神経を逆なでするだけだと、紗代はそっと視線を逸らして玄関に向かった。
ツクミと玄夜は、使用人と話しながら紗代を待っていた。
「お待たせしました」
「ああ、よく似合っているな。あなたは本当にきれいだ」
まばゆいものでも見るように、お面の奥で玄夜の目が細められる。
容姿を褒められたことはもちろん、異性に「きれいだ」と言われたことなどあるはずもなく、紗代は呼吸を忘れて返事を探した。
「あの……いただいた着物は……どれも、とてもきれいで…………ありがとうございます」
「ふふっ、紗代様。それでは、わたくしはこれにて失礼いたします」
「え……お帰りになるのですか?」
「はい。お二人のお邪魔をしては、お叱りを受けます。若様はそれはもう、紗代様にお会いできるのを首を長くして待っておいでで」
「ツクミ……もういい、早く帰れ」
玄夜に追い立てられたツクミを見送ると、紗代は玄夜と連れ立って町へ向かった。
女は男のうしろを歩くのが常識だが、玄夜は紗代が歩みを緩めると、それに合わせて隣に並ぶ。何度かそれを繰り返し、歩みはゆっくりなのに紗代の胸は不安で苦しくなるほど、たまらず言った。
「あの……荘宕様、どうぞ、お先に行ってください……」
「なぜだ? どうせ俺の姿は誰にも見えない」
「あ……」
紗代の目には、玄夜の姿はツクミや父たちと変わらずはっきりと映るため、玄夜の体質のことをすっかり失念していた。
(わたしったら、なんて間抜けな……)
隣に並ぶもなにも、周りの人から見たら、紗代は今一人で歩いているのだ。
二人での外出を見とがめられないかと不安に駆られていた自分が恥ずかしい。一気に顔に熱があがってくる。
「……申し訳ございません」
「どうして謝る。慣れるまで時間がかかるものだ。それに、見えないことをこんなに楽しく思ったのは初めてだ。あなたと並んで歩けるのだから」
不安は解消されたはずなのに、どうしてだかまた胸が騒ぎだす。
けれども、緊張はいくらか軽くなった。
紗代は、ぽつりぽつりと玄夜と話しながら並んで歩き、いくつもの店が立ち並ぶ中心街へ行きつくと、玄夜に連れられて小間物屋へ入った。
「何かお探しですか?」
店主に声を掛けられて、紗代は玄夜のほうを見る。
「髪飾りを見たいと伝えてくれるか?」
「……髪飾り、ですか?」
「はいはい、髪飾りですね。お待ちください」
小間物屋は髪飾りや化粧品から、煙草入れや眼鏡まで細々した日用品を扱う店だ。
商品のいくつかは店の中に並んでいるが、鼈甲は虫がつきやすく、櫛などの髪飾りはしまわれていることが多い。店主は期待を含んだ笑みで、紗代の前にいそいそと商品を並べた。
「こちらの櫛なんてお似合いになると思いますよ。こっちのリボンはいかがです?」
店主のすすめる赤いリボンなどは初子に似合いそうだ。
比佐なら、大ぶりの鼈甲の櫛。ツクミなら、緑の草花柄の蒔絵の櫛。
あれこれ心中で選んでいるうちに、藤を思わせる紫のリボンと、漆塗りの真っ黒な地に螺鈿で花模様が散らされた櫛に惹かれた。けれども、紗代には必要のないものだ。
「どれがいい?」
「え……わたし、ですか?」
店主に聞こえないように、こっそりと玄夜に問う。
「俺がつけてもしかたがない。あなたに贈りたい」
肩をすくめる玄夜の言い分はもっともだが、紗代は慌てて首を横に振った。
「これ以上は、いただけません……もうじゅうぶんしていただいています」
「あの……お嬢さん? 大丈夫ですか?」
店主に怪訝な目をされて、紗代はまた顔が熱くなった。
そうだ、店主には玄夜は見えないのだから、話すなら声を潜めなければ。
動揺する紗代に、玄夜がくくっと堪えきれないように喉を鳴らした。
「店主のためにも、何か買って早く店を出よう」
「そういうわけにはいきません……!」
「お、お嬢さん……? いったい誰としゃべってるんです!?」
「ほら、怖がっている。店主への詫びだと思って」
そういわれると断りきれず、紗代は紫のリボンを選んだ。
代金は店主の目を盗んで玄夜が台に置くかたちで支払い、紗代は逃げるように店を出た。
しばらく二人は黙って歩いていたが、玄夜がクスクスと笑いだして、その顔があまりにも楽しそうだから、胸がじんわりと温かくなった。
自分と一緒に過ごす人が、こんなに楽しそうな顔をするのは、初めての経験だったから。
◆ ◇ ◆
出かける準備をしながら、父から渡された本の内容を思いだす。
──猿の顔、狸の胴、虎の手足に蛇の尾をした、おぞましい姿の物の怪。伝承によって猫の頭だったり、虎の胴だったりと姿の違いはあれど、複数の動物の部位によって成る醜怪な化け物としての描写は定着している。鵺は夜に不気味な声で鳴き、その鳴き声は凶兆とされ、実際に多くの災いを呼んだといわれている。鵺は鳥だという説もあるが、過去には人間によって退治された記録もあり、真相は謎に包まれている──
鵺について何も知らなかった紗代には、驚きだった。
(本当の姿は、おぞましい化け物……? そんな方には、見えない)
玄夜からは、三日に空けず手紙が届く。流麗な文字でしたためられる内容は『変わりないか』と紗代への心配がほとんどで、彼自身のことには、あまり触れられていない。
紗代は、生まれてはじめて手紙の返事を書いた。何を書いていいのか見当もつかず、見かねた使用人たちが知恵を絞って助けてくれた。
手紙を書いているあいだは、どうしたって玄夜のことばかり考える。
ほんの半月前までは、見知らぬ存在だった鵺の青年。
今だって、知らないことのほうが多い相手。
それなのに、彼について悩む時間が増えるにつれて、彼を身近な存在のように感じる。
なんだか不思議な心地だった。
『週末に出かけよう──』
五度目の手紙で町に誘われ、今日がその約束の日。
(お父様には、婚約しているのだから構わないと、お許しをいただいたけれど……)
年頃の男女が二人で町に出かけるなんて、なんといわれるかわかったものではない。
その不安のせいだろう。やけに鼓動が早いのだ。
「お嬢様、お見えになりましたよ」
「は、はい……!」
使用人への返事まで、声が上ずってろくにできない始末だ。
(落ち着いて。粗相のないように……)
一緒に出歩く玄夜に恥をかかせないよう、彼の贈ってくれた着物と帯を使わせてもらった。夏の終わりの季節柄を考えて、灰がかった水色の地に白の萩柄の着物を選んだ。着物自体が美しいのだから、着ているのが紗代だとしても、みすぼらしくは見えないはずだ。
部屋を出た紗代は、視線を感じて、廊下を振り返った。
廊下の奥からは、初子が紗代を睨んでいる。
──紗代が玄夜に嫁ぐと知った比佐と初子は、金切り声で父に詰め寄り、紗代の破談を求めていたが、父もさすがにそれは認めなかった。
『荘宕なんて、名前も聞いたことがありませんのに!』
『鵺とはそういう、謎の多い一族だ。だからこそ、姻戚になっておいて損はない。……それに、条件がいい。断れるはずがないだろう──今後は紗代には手を出すな。家の仕事もさせなくていい。そんな暇が合ったら、あやかしについて学ばせるんだ。わかったな』
家長の通達である。いつもなら紗代を罵り、使用人として顎で使う比佐が、部屋を与えられて雑用から解放された紗代に、沈黙を守っている。
初子も父の言いつけに不承不承ながら従っているが、ずっとこの調子で、監視するように陰から紗代を睨みつけていた。
構えば初子の神経を逆なでするだけだと、紗代はそっと視線を逸らして玄関に向かった。
ツクミと玄夜は、使用人と話しながら紗代を待っていた。
「お待たせしました」
「ああ、よく似合っているな。あなたは本当にきれいだ」
まばゆいものでも見るように、お面の奥で玄夜の目が細められる。
容姿を褒められたことはもちろん、異性に「きれいだ」と言われたことなどあるはずもなく、紗代は呼吸を忘れて返事を探した。
「あの……いただいた着物は……どれも、とてもきれいで…………ありがとうございます」
「ふふっ、紗代様。それでは、わたくしはこれにて失礼いたします」
「え……お帰りになるのですか?」
「はい。お二人のお邪魔をしては、お叱りを受けます。若様はそれはもう、紗代様にお会いできるのを首を長くして待っておいでで」
「ツクミ……もういい、早く帰れ」
玄夜に追い立てられたツクミを見送ると、紗代は玄夜と連れ立って町へ向かった。
女は男のうしろを歩くのが常識だが、玄夜は紗代が歩みを緩めると、それに合わせて隣に並ぶ。何度かそれを繰り返し、歩みはゆっくりなのに紗代の胸は不安で苦しくなるほど、たまらず言った。
「あの……荘宕様、どうぞ、お先に行ってください……」
「なぜだ? どうせ俺の姿は誰にも見えない」
「あ……」
紗代の目には、玄夜の姿はツクミや父たちと変わらずはっきりと映るため、玄夜の体質のことをすっかり失念していた。
(わたしったら、なんて間抜けな……)
隣に並ぶもなにも、周りの人から見たら、紗代は今一人で歩いているのだ。
二人での外出を見とがめられないかと不安に駆られていた自分が恥ずかしい。一気に顔に熱があがってくる。
「……申し訳ございません」
「どうして謝る。慣れるまで時間がかかるものだ。それに、見えないことをこんなに楽しく思ったのは初めてだ。あなたと並んで歩けるのだから」
不安は解消されたはずなのに、どうしてだかまた胸が騒ぎだす。
けれども、緊張はいくらか軽くなった。
紗代は、ぽつりぽつりと玄夜と話しながら並んで歩き、いくつもの店が立ち並ぶ中心街へ行きつくと、玄夜に連れられて小間物屋へ入った。
「何かお探しですか?」
店主に声を掛けられて、紗代は玄夜のほうを見る。
「髪飾りを見たいと伝えてくれるか?」
「……髪飾り、ですか?」
「はいはい、髪飾りですね。お待ちください」
小間物屋は髪飾りや化粧品から、煙草入れや眼鏡まで細々した日用品を扱う店だ。
商品のいくつかは店の中に並んでいるが、鼈甲は虫がつきやすく、櫛などの髪飾りはしまわれていることが多い。店主は期待を含んだ笑みで、紗代の前にいそいそと商品を並べた。
「こちらの櫛なんてお似合いになると思いますよ。こっちのリボンはいかがです?」
店主のすすめる赤いリボンなどは初子に似合いそうだ。
比佐なら、大ぶりの鼈甲の櫛。ツクミなら、緑の草花柄の蒔絵の櫛。
あれこれ心中で選んでいるうちに、藤を思わせる紫のリボンと、漆塗りの真っ黒な地に螺鈿で花模様が散らされた櫛に惹かれた。けれども、紗代には必要のないものだ。
「どれがいい?」
「え……わたし、ですか?」
店主に聞こえないように、こっそりと玄夜に問う。
「俺がつけてもしかたがない。あなたに贈りたい」
肩をすくめる玄夜の言い分はもっともだが、紗代は慌てて首を横に振った。
「これ以上は、いただけません……もうじゅうぶんしていただいています」
「あの……お嬢さん? 大丈夫ですか?」
店主に怪訝な目をされて、紗代はまた顔が熱くなった。
そうだ、店主には玄夜は見えないのだから、話すなら声を潜めなければ。
動揺する紗代に、玄夜がくくっと堪えきれないように喉を鳴らした。
「店主のためにも、何か買って早く店を出よう」
「そういうわけにはいきません……!」
「お、お嬢さん……? いったい誰としゃべってるんです!?」
「ほら、怖がっている。店主への詫びだと思って」
そういわれると断りきれず、紗代は紫のリボンを選んだ。
代金は店主の目を盗んで玄夜が台に置くかたちで支払い、紗代は逃げるように店を出た。
しばらく二人は黙って歩いていたが、玄夜がクスクスと笑いだして、その顔があまりにも楽しそうだから、胸がじんわりと温かくなった。
自分と一緒に過ごす人が、こんなに楽しそうな顔をするのは、初めての経験だったから。
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